新聞記事文庫 瓦斯工業(03-032)
神戸新聞 1934.2.7-1934.2.13(昭和9)


一分間で死ぬ恐ろしい毒ガスの力

吸えば皮膚を糜爛するイペリット

化学戦問答


世界大戦の大戦禍にもう二度と戦争なんぞしますまいと国際連盟が生れ、軍縮会議が始まったが、喉もと過ぎれば暑さ忘れるの諺がどうやら真理を物語っているかの様な昨今、戦争の記事を盛った雑誌がハワイ税関で差押えられ軍縮の代りに軍拡の声が各国ともに抬頭している折柄、某師団司令部の将校の語った化学戦の概要(問うは筆者)

問 将来戦は化学戦ということをよく聞くが化学戦とは何だい
答 広い意味の化学戦という中には火薬の力を応用した各種の戦闘行為も固より含まれねばならないが、通常化学戦と云えば戦用毒物、発煙剤、焼夷剤及び火焔放射剤を応用する戦闘行為を謂う、そして化学兵器というのは以上の諸剤を総称する、つまり化学兵器というのはホスゲン、イペリット、ヂフェニール・クロールアルシン等の戦用毒物普通に云う毒ガスで、この毒ガスを応用した戦争行動を化学戦というのさ
問 化学戦とは毒ガス戦のことかい、では一体毒ガスにどの位の種類があるのだ
答 大きく分けると窒息性、糜爛性、催涙性、クシャミ性、中毒性、もっと詳しく云ってやろうか、窒息性毒物とは肺器管に侵入してこれに傷害を与え窒息致死させるもので塩素、ホスゲンヂホスゲン等がこれに属する
1塩素 は帯緑黄色で刺戟性臭味ある気体、重さ空気の二倍半空気一立方米中に六瓦の割合、即ち空気の五百分の一の割合にまざると一分間で人間を死亡させる
2ホスゲン は腐敗した肥料のような臭味ある無色の気体、空気の約三倍半の重さ、急激に呼吸器に作用して肺をおかす特徴があり、肺に血液の凝結を来し血圧が高まって窒息する、空気一立方米中に〇・三瓦、即ち空気の一万七千分の一の濃度で一分間で致死させる
3ヂホスゲン 大体ホスゲンと同様の毒性をもっている、但し常温では液体である

問 糜爛性毒物とは?
答 これは皮膚に傷害を起し発泡糜爛しなお且つ眼及び呼吸器を冒すものだ、イペリットやルイサイト等がこれだ
1イペリット は純粋なものは無臭、工業製品は芥子臭味を有する無色の液体で気化した時は空気の五倍半の重さを有し、皮膚に対し強烈な糜爛性を発揮するとともに呼吸器を犯し、肺浮腫をおこし空気一立方米中に〇・三瓦容積に於て空気の二万五千分の時に一分間で致死させるおそろしいものだ
2ルイサイト は大戦の終期、米国のレウイス大尉が発見したもので戦場で使用するには至らなかったが米国ではその毒性頗る猛烈である様に宣伝している糜爛性の外にクシャミを出させる特性があるがイペリットとほぼ同様と推定されている(つづく)

[写真(毒ガス戦)あり 省略]

問 催涙性ガスは?
答 これは眼の粘膜を冒し涙を出させるもので臭化ベンヂル、塩化ピクリン、塩化アセトフェノン等がこれに属する
1、臭化ペンヂル 無色の液体で気化した時は空気の約六倍の重さを有し空気一立方米中三瓦、容積に於て空気の二万一千分の一の濃度で一分間で致死だ
2、塩化ピクリン これも無色の液体、気化した時には空気の約五倍半の重さ、涙を出させる外嘔吐を催させる特徴がある、空気一立方米中〇・九瓦、容積に於て空気の八千分の一の濃度で一分間で致死
3、塩化アセトフェノン 常温では固体、催涙作用極めて強く一時的盲目とする力が大きい
問 クシャミ性ガスはどう?
答 ヂフェニール・クロールアルシン、デフェニール・シヤンアルシン、アダムサイト等がある
1、ヂフェニール・クロールアルシン は常温では固体、にらの臭味をもち、空気中一万七千分の一で一分間で致死、一千分の一の濃度で鼻、咽喉、肺を焼くが如く刺戟してクシャミを出させ嘔吐を催させる
2、ヂフェニール・シヤンアルシン はクロールアルシンと略同様であるが程度これより稍、強烈である
3、アダムサイト 常温では固体毒性では前二者の中間

問 中毒性毒物は如何
答 こいつは神経系統及び血液を冒すもので青酸、一酸化炭素等がある、青酸は液体、空気一立方米中〇・六瓦、容積二千分の一の濃度で一分間に致死、一酸化炭素は無色の気体、空気中十分の一の濃度で一分で致死だ、どうだ分ったか
問 大体種類は分ったがまだまだこれ位では無罪放免はせぬぞ、効力を発生する速度はどうだ
答 何でもない、即効性のものはホスゲン、ヂホスゲン、塩化ピクリン、臭化ベンヂル、若干時間の後生理的効力を発現する遅効性のものはイペリット、またガス撒布後の有効時間の長短によって一時性のもの(ホスゲン、ヂホスゲン、青酸、ヂフェニール・クロールアルシン)と持久性のもの仮えばイペリット塩化ピクリン等がある

[写真あり 省略]

問 各国の毒ガス研究の状態はどうだ
答 皆秘密裏に研究しているさ、独逸では従来世に知られている凡ゆる毒ガスを全然無効とする様なものと、全軍を四時間昏睡状態に陥らせるものとを発見しているそうだ、世界の列強は一滴よく全軍を昏倒させるに足る猛烈な毒物を発見しようと努めているらしいぞ
問 大体毒ガスの効果は概念的に判ったが一つ具体的に説明して下さい
答 よろしい、では東京市を例に取ろう、今仮に東京市の重要部分を二里四方と見るとその面積は六千四百万平方米である、二階にいる人にも効力を及ぼすため、平均地上十米の高さまで所要の濃度を達せさせるものとすれば、空気の容積は六億四千万立方米となる、一立方米の中に〇・三瓦のホスゲンをまけば一分間で人は死亡するからこの六億四千万立方米に対しては一九二トンを撒けばよいのである、若し三十分で致死させてよいことになれば全部で六・四トンでいい、即ち六トンのホスゲン或はイペリットを撒布すると全東京市民が三十分で殲滅せられることになる、六トンの毒ガスと云えば多い様だが、一トン爆弾を搭載し得る普通の爆撃飛行機が約六、七台もあれば東京市全滅ということになる
問 成程、凄いもんだね、毒ガスは一体どんな方法で撒布するんだ
答 六通りあるよ、先ず第一は火砲、迫撃砲による砲撃、欧洲戦の毒ガスの総使用量の七割まではこの方法で行われた、つまり火砲、迫撃砲の弾丸に毒物を圧搾充填したものを射撃する方法だ、第二は投射機による射撃、この投射機は煙火筒のような鉄筒で数十門を一組とし電気発火で数百門を一斉に射撃するもので近戦兵器としてガス攻撃の主要な手段である、この特色は一般火砲に比較して価が安いことだ、その他手榴弾、銃榴弾による法、大都市、軍隊の宿営地を襲う飛行機による法、最前線で放射する雲状ガスの放射法、敵の通過や占領を困難にする目的で持久性ガスを撒布する撒毒法がある
問 一つの砲弾に数種のガスを交えることはないか
答 大ありだ、例えばクシャミ性または催涙性のガスを糜爛性のガスと交ぜて、前者によって已むを得ず防毒マスクを脱がせて後者の偉力を発揮するが如しだ

[写真(写真は都市にガス攻撃を受け救助班が活動せる状況)あり 省略]

問 毒ガスは怖ろしいもんだな、毒ガスに襲われた場合、一体どうしたら防ぐことが出来るか
答 心配することはない、平素の心がけ一つだ、成程毒ガスは怖ろしいけれどそれは無防護無訓練の場合に限る、若し防護具の準備が完全で防護訓練が十分に出来ておれば決して怖るるに足らん
問 一体どうしておけば怖ろしがらんでもいいのか
答 教えてやろう、イヤ是非覚えておいて貰わねばならぬ、先ず各個防護と集団防護とあるが、各個防護というのは防毒面、防毒衣、独立式呼吸器の使用がこれである、集団防護というのは家屋や地下構築物などに防護設備を施し或は地上の一定範囲に毒物の中和、ガス汚染地の消毒することを指す
問 もっと具体的にお願いしたいね
答 防毒面は毒ガスを含まない空気のみを吸入する様に中和剤、呼吸剤などを濾過させて大気を呼吸する装置をしたもの、つまり毒ガスを化学的に吸収させるか物理的に吸着させるか、機械的に濾過させるか或は電気的に収塵させる様になっているのさ独立式呼吸器は毒物を含む外界の大気と全く絶縁して自ら持っている空気または酸素を呼吸させる方法で酸素呼吸器などこれさ
防毒衣はイペリットのような糜爛性毒ガスに対して全身の皮膚を防護するものでガスの滲透を許さない塗料を施した布や油布やゴム布で作られている
問 集団防護とは?
答 家屋や地下構築物(地下室、地下鉄道、トンネル等)の防毒装置としては窓や入口を全部密閉して全く外界の毒ガスと絶縁する方法と、窓や入口に毒ガス濾過装置を施して通気させる方法とある、密閉封鎖する方法は室内の気容と収容人員との関係で長時間の呼吸が不可能となるから、独立した装置によって酸素を供給する方法を講じ又は毒ガスを濾過した清浄な空気を以て換気する方法を講じなければならない
問 毒ガスを消毒する消毒剤とはどんなものか
答 窒息性の塩素、ホスゲン、ヂホスゲンに対しては次亜硫酸曹達液、アルカリ液、催涙性の塩化ピクリン、塩化アセトフェノンに対してはアルカリ液、過酸化曹達の酒精液、クシャミ性のヂフェニール青化砒素に対しては過満俺酸加里液、糜爛性の青酸、イペリット、ルイサイトホルに対してはアルカリ液漂白粉などだ
問 色々有難う
答 序に云っておくが、毒ガス以外に化学兵器として焼夷弾、火焔放射器、発煙剤などがあるよ(おわり)



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