新聞記事文庫 陶磁器製造業(2-016)
大阪毎日新聞 1924.12.27(大正13)


淡路陶業の精華

賀集●平のことども


本文の記者は阿波徳島の生れで淡路の珉平焼の事は子供の時から耳にしていたが、長じて日本陶工伝に依り珉平焼の由来を知り一度その窯元を見ようと思ってい たが未だ果さなかったところ、今度計らずも本山社長の淡路行に陪して親く是を観ることを得たのは記者に取っては喜ばしいことである、珉平は淡路三原郡阿万 の郷伊賀野村、庄屋賀集恒左衛門の家に生れたが頗る多趣味の人で茶事にも精通し花月庵流の煎茶の大家として知られ今日煎茶に用いる具列は珉平の創めたもの が遍く行われているという、同家には父祖以来夥多の図書及び貴重な茶器等を収蔵し、珉平自身も珍器名品を収集していたので自ら鑑識にも長じ、淡路に於て名 窯を起さんことを志し居村伊賀野に窯を築き文政十二年紀州の御庭焼尾形周平を聘して陶業を創めた。最初は失費も多く困難をしたけれども親戚等力を協せて是 れを助けその事業を大成せしめた旧藩主蜂須賀家も亦た是れを保護して資金を供し蜂須賀家の官窯とした、蜂須賀侯爵の祖父斉裕の如きは淡路巡視の際同家に宿 泊して親しくその事業を視察して奨励せられた、即ち安政六年十一月に二泊、慶応二年三月に三泊せられたのである、斯くの如く藩主の保護奨励と珉平の熱心な る経営作業と相待って其事業は益々発達し珉平焼の名は世間に遍く知らるるようになった「淡路名所図絵」の著者暁鐘成は今より七八十年前の珉平の陶窯に就い て大要左の如く記載している。
伊賀野陶器竈この竈山は近世より開かれたもので往古から伝わっている瀬戸、唐津、伊万里等の名器を□することに妙に得ている、或は南京、交址、阿 蘭陀その余種々異国の陶器何によらず出来ないものはよく是を□して其真偽を弁じ難いほどで実に奇しい名産である、故に雅俗挙って是を愛玩し(中略)数多の 工人それぞれ業に寸隙なく最も繁昌せる様目覚しい。
◇珉平の甥賀集三平は伯父に従い陶業に親み慶応三年より伯父に代って陶窯を管理し伯父の伝を紹ぎ又彼自らの特色を発揮して幾多の苦心改良を加え外 人の嗜好に投ずべく艶白地に密画の彩釉を施すの法を案出し海外に輸出した三平は珉平の長男力太の成長するを待って其業を譲ったけれども、力太は病弱なのと 維新の変革に際して此事業も打撃を受け鐘成をして「繁昌せる様目覚しい」と迄言わしめた工場をも閉鎖して一時休窯の已むなきに至ったのを後、親族の欅田善 次郎氏が再興したが現時は淡陶株式会社が経営し福良にも分工場を起し其事業は益々発展するに至った、珉平は明治四年七月七十六歳で逝去、長男力太も早世し その子友三郎は北海道に現住し力太の子即ち珉平の孫琳平は目下河内にあって陶業に従っているそうだが少時珉平に薫陶を受けた武岡豊太氏は珉平の血を受けた 琳平をして良工にしようと種々心配しているとのこと、珉平の肖像は淡陶会社の福良分工場の楼上に掲げられこの会社の事業に携わるものはその余風に欽慕せぬ ものはない、日本陶工伝に「磊落小事に拘泥せず人に交わるに成壁を設けず大に時人の愛を受く」とあるもの珉平の性格の一端を知ることが出来る、蓋し珉平が 成功の因はこの性格より得たものであろう、珉平は他の陶工の如く自ら製陶に手を下さなかったけれども名工を聘し妙技を集め是を総合大成したところに珉平の 傑出した所を見出すのである。
訂正 加集の田中万米氏は賀集、又志知(しつし)と傍訓せるは「しち」の誤りに就き正す、尚昨記東鏡は東鑑の誤


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