新聞記事文庫 皮革工業(1-030)
大阪朝日新聞 1916.8.21-1916.8.25(大正5)

紀和版

和歌山の製革事業 (一〜四)

幼い児まで独逸語を用うる岡町村


(一)

和歌山市広瀬部を南に町はずれに行くと、其処には七八歳の幼い児迄が日本語でもなく英語でもなく無論方言でもなかれば、何とも訳の分らぬ一種の言葉を遣って居る。ハテ怪体な所もあるものかなと通行者の足を止めしめる。所は和歌山市外岡町村で、言葉を仔細に調べて見ると、夫れは純然たる独逸語だ
何故此の村に独逸語はそんな幼い児に迄に遣われて居るのであろうか。岡町村といへば日本の製革史上の第一頁に必ず書かるべき所である、今は其の生産額に於て東京に続いて全国第二位の重要地位に居る所である。現住戸口は僅に九百七十戸。人口四千八百人。しかも其の村は岡町、塩道の二字に分れて其の岡町村に於てのみ製革事業は行われて居るので、目下の製革業者三十四戸、大正三年の製革高は牛皮十五万一千枚、価格七十二万四千八百円、馬皮三千五百枚、価額一千七百五十円、大正四年度は牛皮二十二万五千枚価額百八十四万六千五百円、馬皮七百五十枚、価額二千二百五十円、一躍百十一万円の激増を示して居るのである。尤も此の生産額の内には一二市内の製革業者の産額も加わって居るのであるが、主として岡町の産額である
渺たる一と字で年金額百八十五万とは実に大したものである。年金額六七十万円を有する黒江漆器の産地黒江町を以て産業界の偉観とするならば、渺たる一と字を以て百八十万の産出力を有する岡町村の製革事業も又和歌山県下産業界の偉観ある。此の岡町村の製革事業に就ては面白い話がある。株式会社和歌山製革所社長朝岡善弥氏代理人杉原昌一氏其他の話を総合すると、たしか和歌山市で泰西式の製革事業の始めて行われたのは明治二年で、当時陸奥宗光伯は欧米各国を漫遊して、郷里和歌山へ帰られて、藩の人々を集めて演説をせられた、其の演説というのは富国強兵論で、日本の国を強くし、且つ冨まさんには兵制を完全にし、産業を発達せしめねばならぬ兵制を完全にせんとすれば鉄と皮の供給豊富にせねばならぬ。製鉄事業を盛んにするには容易の業ではないが、皮ならば極めて簡易に行われる、之は当然来るべき時代の要求である。他の気付かざるに当って先ず藩として之を起すべしとの大演説を行うたのである。

(二)

陸奥伯の警抜な意見に同意するものは少くなかった、何分当時、和歌山藩は他藩に率先して徴兵制度を施行し独逸兵式を採用する位に進んで居ったものであるから、直に之を行うことになった、陸奥宗光氏は早速、独逸人ケンベル氏等を連れて来て和歌山市本町一丁目に「鞣革靴練習所」を設けて、之を教えしめた。製革事業といえば賤しい仕事のように思わるるが其の当時の有様は全く正反対である之れを習ったのは藩の次男三男所謂部屋住の連中で軈て来るべき「刀より算盤へ」の移り行く時代の準備として之れを習ったのである当時面白いのは製革練習所の入口に藩士の刀掛袴掛がズーッと設けられて居た事で「身共」ナンテ挨拶の厳めしい連中が、殆んど賤業視した製革事業を熱心に学び、そして帰りには、又両刀を帯して帰るような有様であった。目下和歌山市の製革界に名ある九鬼千代治氏の如き実に第二期生であったのである。其際には、彼の西村勝三氏なども和歌山へ来て学ばれたのである、当時の勢いを以てすれば、和歌山の製革事業は甚だ盛んであらねばならぬのであった。然るに夫れ等の人々は大阪、東京へと出て行った。アワレヤ陸奥伯鼓吹の同事業も、郷里和歌山に起らなくして、東京大阪に於いて試まるるようになったのである。しかし其の和歌山たると大阪、東京たるとを問わず、本事業の盛んならんことは陸奥氏の希望であったのであろう。斯くて和歌山で習った人々は名をなさず同事業も市部を離れて、岡町村に移り一時の盛況もどこへやら、秋風落莫、微々として不振の内に幾年月を過ぎたのである、今日岡町村の一部に幼い児に至る迄独逸語を混用して居るのは当時ケンベル氏は通訳もつれず和歌山へ来て、手真似でズンズン原語を以て教えた名残である、そういうような次第で、維新当時の面影尋ぬる由もなく、微々として振わなかった製革事業も偉人警世の語が、早鐘の如くに鋭く凄じく、各自の眼を醒す時は来た乃ち日清戦争である鉄と皮とご入用の時は来た日本製革事業の鼻祖を以て誇る和歌山に此の事業振い起たざらんや。しかも尚お且つ、四五名に過ぎなかったのである。しかし、たしかに鉄と皮と入用の時が在るということ丈けは痛切に当業者の頭に沁み込んだのである。偉人の予言が漸く其の光をさし染めたのである。是れ当業者覚醒の第一期である、当時は大阪は盛んであった、製革事業の中心は大阪であった。先輩の和歌山は微々として振わず後輩の大阪に圧せられて居たのである

(三)

然るに時は再び来た巨人の語は早鐘の如く再び当業者の耳を襲うた。製革事業界第二の時代は来たのである、即ち夫れは日露戦争であった。此の時岡町の製革業者も十二三戸に増えて居た、此の戦争は日本の製革界に一大変化を与えたものであった。夫れはどういう訳であるかというと、日清役より日露役に至る十年間は製革界に於て和歌山大阪の戦いであった、先輩と後輩の戦いであった。此大阪、和歌山の戦いに審判を下したのは日露役であった。国を挙げての戦いは斯くして製革界に於ても権威ある審判を下したのである。其の審判はどうであったか。あらゆる機械、あらゆる設備を有する大都市の工業も、当時の状態に於ては工賃の廉い和歌山に屈せざるを得なかったのである。和歌山は此の第一条件に於て見事合格して、日本の製革界に花々しい凱歌を挙げたのであった爾来後輩の大阪は奮わず、先輩の和歌山は傲然として「我は元祖也」の意気を以て斯界を睥睨したのである、時代は斯うしている間にも夢のように過ぎる日露役後、小康であった斯界は又も第三の時代の曙を迎えた。夫れは大正三年である、時は欧洲戦乱の始まった頃である。回一回より大きな響きを以て覚醒の鐘は鳴る。露西亜の方から軍需品の注文は来る、当業者は頓かに増えて三十四戸となる。生産力は膨張して三年度には七十万円四年度には実に百八十万円の莫大な産額となったのである、しかしまだ此の戦争の初期は其の事業も幼稚であった、所謂曙の時であった。日は三竿に昇ると共に当業者の覚醒の度は加って来た。夫れまでは牛皮も馬皮も実は鉋で削って居ったのである、そして屑が出来れば夫れを膠の原料として利用したもので、実に不経済を極めたものであった、戦乱によりて需用の増加と共に、生産力を拡大し、且つ経済的に之を用いよう。夫れには精巧なる器械力に拠らねばならぬというので、茲に当業者中八名相議って、一万円出費に下に設立したのは株式会社和歌山製革所である、而して其の一万円は何に投じたかというと、剥皮機二台を買い入れたのであった。即ち会社の全財産は此の二基の剥皮機である。今日和歌山には大分工場もあるが僅々一万円の会社で斯の如く盛んに花々しく活動して居る会社は他に少なかろうという事である。普通人力によると六十人要するものを器械二台でやって行くのである。一日の作業工程は実に一千二百枚しかも精巧有利に行われ、表裏両用の妙をなして居る、此の会社は現岡町村製革事業、換言すれば和歌山製革業同業組合の中心をなして偉大な加工力を発揮して居るのである尚お今日組合に対し工場動員を下して全生製力の極度を発揮せしむれば優に五千万枚、四百万円の生製力を挙ぐるであろうという事である(和歌山)

(四)

同業組合員の語る所による、今や組合に於て尚且二十五万枚、二百万円の皮を抱き此の上露国の注文来るとも、容易に応じ得らるるの余裕を有って居るそうである露国証券の引受け確定と共に斯界は又活躍の時に入るだろう。組合員の誇る所によると、織物界といい漆器界といい、生産の多きを以て誇っているが、其の販売の多くは内地で、内地の金を集むるのである製革事業に在っては大半外国の金を吸集するのである。国家的事業として吾人の誇らんとする所であると
しかも此の黄金時代は何時迄続くであろうか欧洲戦乱後は如何。之れに対しえ製革会社の支配人奈良崎為太郎氏等は語る今日製革事業界に於ける重大なる問題は是れである戦時に勃興したる事業を戦後に於て如何にして維持して行く歟是れは中々六ケしい問題である。しかし吾人の立場より考えて、或は我田引水の嫌いあるかは知らざるも製革事業の前途決して悲観すべきものでない、欧洲戦乱は我等に露国という大なる華客を与えたことは偽ではない。全く事実である。果して然らば日露協約も成立して彼我親善の度更に濃厚を加えたる今日に、又今後に在って彼の地に需用さるることは疑わない所である。よし今日の如き盛況を見ずとも、近き将来に於て此地に於て販路に一頓挫を将来することは吾人の信じ得ない所である、露国は従来と雖も米国から多額の供給を仰いだのである、然るに米国の製品は品質は良好とはいえ価格は高い方である。日本の製革界も欧洲戦乱によって幾多の研究を積んだのであるから製品に於ても敢て遜色を見ないのみならず、価格の低廉なるに於て彼は到底我に匹敵し得る所でない、従って此の点に於て自信を有し楽観して居るのであると、尚お同会社員等の語る所によると、泰西式に於て鼻祖の名誉を有する和歌山の製革界は其の研究的方法に於て欧米の工法と一致して居る点は少なくない。将来欧洲の兵火●まる時に至れば、現今の組合をして、更に団結力を鞏固ならしめ、今日でも行うて効果を挙げつつある原料薬品の共同購入、茶話会などを盛んにしたいものだといって居る、要するに和歌山市外の岡町村には、七八歳の幼い児に至る迄、或る事物に対して独逸語を用いて居る、夫れはドイツ人ケンベル氏の此の地で製革事業を教えた名残が残って居るのである。そして和歌山の巨人陸奥宗光の警抜な意見によって、一は来るべき時代の為、一は藩の子弟の廃藩後における救済策の為、行われた此の事業は、他所で見るような賤しい事業とは見られなかったのである。しかも其の事業も、折角教わったものも東京大阪へと離散して、泰西式製革の先進地も其名に副わざる事甚しかったのが日清、日露の役を経て、欧洲戦乱に入って黄金時代を迎えたのである、今後に対しては、同会社員は露国との商取引は持続さるるものとして楽観して居るのである。全国第二の製革所としての和歌山の同事業は斯くして興って来たのである(完、和歌山)


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