新聞記事文庫 機械製造業(04-042)
読売新聞 1938.4.21(昭和13)


鮎川又も放れ業

自動車王への宿願

“薩”の松方哀れ“長”の軍門へ


昨秋日産満洲国移駐の放れ業を演じた鮎川義介氏は今度十五銀行の子会社で日本最大の軍需工業専門会社たる東京瓦斯電工を手に入れ自動車工業独占の宿志を達成すると共に日産系に欠けている軍需工業をその傘下に収めてまたも世間をアッと云わせた
東京瓦斯電気工業は欧洲大戦中松方五郎氏の設立したもので大戦後の反動で一旦整理会社となり十五銀行没落の一因となったが再び軍需景気の春にめぐり合い今や一流の軍需工業会社として更正し一時五円でも買手がなかった株が其後減資増資の幾変転を経たとはいえ現に百四十円という隆々たる勢を示しているのである、鮎川氏がこれに目をつけ日産の傘下に置こうと念願したのはすでに昭和五年ごろに始まる、だが本格的に問題となったのは例の第一次自動車工業合同問題が起った際である
由来自動車製造業は我国において最も立遅れた重工業である、早くから軍部はこの国防産業の基礎確立を熱望していた、昭和四年軍用自動車共同設計を軍部から命ぜられ瓦斯電工、ダット自動車、石川島自動車の三社提携が生れた、その具体化として三社は国産自動車(販売)組合を作った、更に同年、三社を合同に導くために日産子会社戸畑□物(現在は日立製作所に包摂)の子会社ダット自動車側から一役買って来たのは鮎川氏であった
鮎川氏は時の吉野商工次官の支援を得国産自動車確立のために大いに働きかけ、ついに商工省軍部立会のもとに三社合同仮契約調印にまで漕ぎ寄せた、その裏面で活躍したのは、鮎川氏に対するに石川島自動車の渋沢正雄氏(現日鉄常務)瓦斯電工常務の内山直氏である、ところが瓦斯電工は合同精神と資産評価の問題で難色を示し正式調印の前夜に松方五郎氏の暗躍が功を奏し当時兵器局長だった植村中将の鶴の一声で三社合同はオジャンとなった、この当時から既に松方氏には鮎川氏が苦手であった、鮎川氏は当時日産王国建設の雄図を抱き国産自動車工業の独占を夢み自動車部門経営担当者として渋沢氏を引入れようとし二人で合同後の工場敷地をさがし廻ったりした、もともと渋沢氏は製鉄業を志していたので間もなく石川島自動車の重役をやめて加納友之介氏に後を譲った、鮎川氏は頗る失望したが、その時自動車工業の合同を実現するためには他日ぜひとも瓦斯電工を資本的に自分の傘下に置かねばならぬと決心したという話である第一次合同は結局失敗して石川島自動車とダット自動車とが合同し資本金三百二十万円の自動車工業を設立した、而もこれは形式的インチキ合同であってダット自動車の大阪工場は日産直営のダットサン自動車(日産自動車の前身)として分身した、一方自動車工場は瓦斯電工と同様軍用自動車を専ら生産したがその販売機関として協同国産自動車販売会社を作った、やがて瓦斯電工は整理が済み立派な会社となったので昨年の一月自動車部を独立させ自動車工業と合同して東京自動車工業を設立したのである
他方鮎川氏はどうしても自動車工業の確立を自分の手でやってみたいと思っていたが偶々昭和八九年頃大衆車問題がやかましく起ったので日産自動車はフォード、シボレー国産部分品をまず手掛けまたゼネラル・モーターとの合併により資本と技術を移植しようとしたが株式過半所有という政府の要求で成らなかった、そこで日産自動車は単独で大衆自動車への乗出しを企図した、同じ頃豊田自動織機製作所が大衆自動車製造を計画したがこの両社保護助成のため自動車製造事業法が小川商相によって作られたのが昭和十一年である、東京自動車工業は後から同法による許可を願ったが許されず大衆車製造会社は日産と豊田ということで今日に至っている
ところが舞台は一変して鮎川氏は満洲の大天地に乗出すことになり大陸にアメリカのフォード自動車資本を誘導しその助力をかりて部分品から完成品に至る一大自動車工場を設立しようとする大計画を樹立した、しかしかれの当初の計画は支那事変の発生に伴う我国客観的情勢の大きな変化でその実現は遅れることとなった、また外資の輸入も同じ運命に陥った
而も日満における自動車工業の確立は焦眉の急を告げている、今日では満業の傘下にある同和自動車という組立会社を今のところ利用する以外に方法がない、それには内地の自動車工場を統制し支配してその部分品の生産を拡張することが必要である、そこで本年二月の末突然鮎川氏は日産自動車と東京自動車工業との資本的連絡に考え付き、まず東京自動車工業の親会社である東京瓦斯電工を自分の傘下におこうといよいよ念願の実現に着手した、計画が出来るとすぐ実行に取りかかる鮎川氏は単身十五銀行頭取西野元氏を訪ね、瓦斯電工株十二万四千七百株の譲渡方を交渉した十五銀行にとっては実に渡りに船の大悦びである、実は瓦斯電工株の値上りは今が天井であり、而も同社生産力拡充のために二倍半増資が必要だとされているその資金を賄うことは現在の整理銀行である十五にとっては殆ど不可能に近い、早晩瓦斯電工は大きな財閥に譲渡しなければ成らぬ立場にあったのである、そこで早速時価一株百四十円で売却した
所が鮎川氏に十五銀行の持株全部が肩替りされたときいた瓦斯電工の創立者であり現に社長の松方氏は狼狽その阻止に大童になった、同社の就業員が不安のため動揺しているという理由で各方面に諒解運動をした、政治的表現に従えば薩州(松方)が折角丹精して育てたものを長州(鮎川)にとられてしまうのは面白くないというのであった、また政府自体においても自動車工業に関して内地と満洲との間に摩擦を生ずるような虞れがありはしないかを心配していた
そのとき其方面の慫慂で居中の斡旋役として登場したのが昨年急に時局産業として天下の耳目を惹いた特殊鋼生産の日本高周波重工業である、同社の会長は政友会幹事長の砂田重政氏、もとより駆引にかけては天下の名人、そこで日立製作所が肩替りした瓦斯電工株を幾分か持ち(これは鮎川氏に一任したとの話)更に瓦斯電工の持株である東京自動車工業の株式を日産自動車と折半にもち、しかも松方氏を高周波重工業はバックして当分の間社長に留任させることになったその代り十五銀行代表の重役常務の内山直、取締役の谷口□三郎、星子勇、監査役鍋倉春彦室孝吉の諸氏はいずれも辞任し代って日立製作所、高周波重工業からそれぞれ重役がはいる事になった、鮎川氏にしてみれば今日三井、三菱、住友各財閥から嫉妬の目でうとまれ孤立無援という所、特殊鋼で近来メキメキ売出し軍部のお覚えめでたい日本高周波重工業とコンビでやがて豊田自動車も誘い入れて近く全国的な自動車工業統制を確立できるとあっては実にホクホク物である



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