新聞記事文庫 海運(04-013)
大阪朝日新聞 1915.8.20(大正4)


パ社の廃航と日本海運業 [社説]

[太平洋汽船会社の太平洋航路廃止と其影響 (其四)]


太平洋郵船会社が、極東航路より手を引き、大西洋に船を廻わすとの噂は、去る六月頃より頻りに伝えられしも、当時ルーシタニア号問題のため米独間の危機を報ぜられし折柄、何か外交上懸引の為にするものならんと一般に信ぜられ、又信海員法の実施は、米国海運業者の耐うる能わざるものなれば、太平洋郵船も船価暴騰の此機に於て、所有船の売却を為し、廃航を断行せんとするものなりとの説も、数次伝えられしも、吾人は新海員法の未だ実施期に入らざる以前に於いて改訂または骨抜きを行わしめん為の敵本主義より、同法の実施を阻碍せん策略ならんとの疑いを存したりき。然るに此の数日来、外電の報ずるところによれば『パ社は極東航路に従事せる五隻の船舶を大西洋運漕会社に売却したり』とあり、我社桑港特電はパ社が既に太平洋航路を中止する旨、八月十四日附を以て、夫々各取引関係者に通告したりと報じ、又同社の横浜及神戸支店へも同様の電報と共に終航の期日まで打電し来れり。左れば今回は声のみにあらずして、愈パ社は太平洋航路より隠退するものと確信して可なるが如し。今や欧洲の戦争は其実世界の戦乱にして、世界の二大海運国たる英独が、軍用徴発に数百万噸、相互の抑留撃沈に又数百万噸の勢力を殺ぎ、世界の海運界より殆んど全く此の二大国が消失したる訳にて、這の機会を利用して発展を期すべきは、米国と我が日本とのみなり。現に昨年末以来、東洋方面に於ける英独仏の定期船は皆無となり、欧洲航路は我が日本郵船のみが正確に定期航を続け、太平洋航路も亦我が三社線の外、米国パ社の定期船ありしのみ、然るに今パ社の廃航いよいよ確実とすれば、此の千載一遇の好機に際し、世界海運界に発展し得べきものは、唯一つ我が日本船舶あるのみとなれり。蓋し米国を除きては、今日交戦国以外に諾、瑞、丁、蘭の船舶、侮り難き噸数を算する如きも、種々の事情及び障碍によりて東方にまで勢力を延し能わざること明白なればなり。要するに四囲の情況は、現下世界の好地位にある四面環海の我帝国に、此の上もなき対外発展の機会を与えたるものと謂わざるべからず。我が海運業者果して此の好機を捕捉して世界に雄飛するの覚悟と準備あるや否や。
従来我が海運会社は、政府の厚き保護によりて成長し来りたるものなるが、吾人の謂う発展は少しく之と異なる、船会社が速かに過重の保護より脱して、此の機会に於いて真の海運国民たるの実力を顕現せんこと是れなり。其には今日を以て其の絶好の機会なりとす。郵船商船等が徒らに厚き保護の継続運動にのみ腐心し、好景気には唯株主配当及び積立増加を策する如きは真に国帑の賊にして吾人の採らざるところなり。進取の気象を欠如せる論者は必ずや言わん、然り戦時の今日は然り、去れど戦後に及んでは英独米の諸国復た捲土重来、今我に於て発展拡張を画せんか平和克復後に於いて悲境に陥るべしと。何ぞ夫れ敵を恐るるの甚しく、引込思案の過ぎたる斯の如くなるや。虚に乗じて或る地位を占むるは易く、期間を隔てて敵の再び来りて其の前位置を奪還さんとするには、数倍乃至数十倍の努力を要す。之をしも進んで取らず、後日の支持難を杞憂して手を拱く如くんば、与に国力増進策を語るに足らざるなり。
太平洋郵船の極東航路隠退も、未だ全然永久に米国が太平洋航路廃絶の意思なりとは、速断する能わざる節なきにあらず。現に我社桑港特電にも「中止」とあり、中止とは永遠に廃止の意味に解し難し、詳細の情報到達せざれば未だ何とも判断し能わずと雖も、パ社が船舶を大西洋運漕会社に売却したるは事実なるが如し、去れど這は新海員法に対する一般の非難を一層煽揚せん最後の方便と解すれば、尚解し得られざるにもあらず。如何となれば今日大西洋の運賃昂騰は、未曾有の現象にして極東や南洋の比にあらず、而して大西洋運漕の大株主は米の富豪連なりと聞く、故に船籍を少時英国に移転して、米国と英国間との軍需品運送に利益を挙げつつ、而も一方には是を以て新海員法非難の輿論を高めん策なるやも知れず。左すれば平和克復後に於いて、復た異なりたる社線名の下に、今回売却されたる五隻が再び太平洋に出現し来らんやも予め推測し難し。この疑問余地は暫く存するも、戦時中及び少くも戦後二三年間は、絶対にパ社が極東より船影を消失するものと見て可なりと信ず。吾人は此の絶好の期間に於いて、我が海運業者に対し、世界海運界に驀進するの勇気を以て、優勝の地位を確実に獲得せんことを希望するものなり。
当面の問題より離れて近時米国には、国情及び国民労働力の分配上より、遠洋航海業並に造船業発達に根柢深き大障碍あり、這は他日題を改めて論ぜんと欲す。



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