新聞記事文庫 海運(28-089)
時事新報 1931.5.17-1931.5.22(昭和6)


社外船の発達 (一〜四)

独立自営の船主団

半世紀の財界を顧る


(一)

明治十五年以来半世紀の我が海運の発達を按ずるに、そこに二つの大きな流れがある。一つは政府の保護に依って成長発達した所謂社船の一派であり、今一つは独立自営の下に発達して来た所謂社外船の一派である。

社外船の由来

社外船の観念は古くからあったが、社外船の名称を用うることとなったのは、明治二十五年頃からである。明治十七年五月大阪商船が設立せられ、続いて明治十八年十月日本郵船が設立さられた以後に於て、日本郵船乃至大阪商船と競争の立場をとる船主の船舶を反対船と唱え来ったが、それが二十五年頃から郵船、商船(東洋汽船を含む)を社船と云い、然らざる船主に属する船舶を社外船と呼ぶこととなり、その中に三井、三菱に属するものを除外船と云うたこともある。
社外船の沿革は、その源を大和船に発していて、古いことを説いたら大和民族の日本移住にまで遡らねばならぬが、それ程でなくとも、現代の社外船主の直接の来歴を尋ねても、大阪の広海(石川県出身)の如きは船主としての淵源は文禄年中に発し文化頃には航路を蝦夷地方に延長していると云うから古いものである。現在の社外船の系統は大別して徳川時代の北前廻船、菱垣廻船、樽廻船の系統に出ずるものと、維新後の産業革命の機運に乗じた新船主となすことが出来る。

北前船の発達

北前廻船は、徳川時代に於て北海道と北国、大阪間の航海に従事したもので、銭屋五兵衛などもこと系統に属するものである。加賀の橋立、瀬越、金石、美川、越中の東岩瀬、□木、越前の三国吉崎等が根拠地で、この地方では浜方と称せられ、この規模の大なるものは北海道各地或は大阪敦賀等に営業所を有し、船舶の運輸に兼ねて、北海道の産物たる魚肥、海産物の売買をなし規模の小なるものは、船頭を船主の代理人として、船舶の操縦は勿論、積荷の売買をもなさしめたものである。故に船員は、右信用の必要上殆んど国者を雇傭し、北海の航海の不可能な冬期中は、船を阪神地方に陸上して、船員は北国の郷里に引上げ春になって再び船を艤装して、北海大阪間の航運に従事したものである

北前船の巨頭

北前船の全盛時代は、明治の中期であった。明治の中期に之等北前船主の人々が北陸親議会と云うものを組織していたが、明治二十二年十一月末に於ける同会議所属の船主は六十三名、所有船百七十七隻で、中に三隻以上の所有船主は左の如くであった

石川県

(船主五十八名、百四十九隻)西出孫右衛門(西出丸外四隻)、忠谷久五郎(久悦丸外二隻)横山彦二郎(幸徳丸外三隻)、中西出権吉(栄徳丸外二隻)久保彦兵衛(久保丸外四隻)久保彦助(長保丸外四隻)増田又右衛門(通力丸外四隻)、小西出源左衛門(一寿丸外二隻)、酒谷長平(幸長丸外五隻)、大家七平(八幡丸外六隻)、角谷甚太郎(正徳丸外六隻)、角谷甚吉(喜徳丸外三隻)、広海二三郎(広長丸外七隻)、浜中八三郎(魁丸外九隻)浜中小三郎(幸福丸外三隻)、村沢一(加太丸外三隻)、浜中又一(栄寿丸外二隻)、丹保佐吉郎(神保丸外二隻)

福井県

(船主四名、二十二隻)右近権右衛門(八幡丸外十三隻)、岡崎栄次郎(永寿丸外四隻)、中村三之□(安全丸外三隻)

滋賀県

(船主一名、六隻)西川真次郎(安全丸外五隻)

日本有数の富豪村

右に依って明なる如く北前船の巨頭は大部分石川県にあり、石川県にても江沼郡の橋立村と瀬越村にあった。右の船主の中、広海、大家、角谷、浜中等は瀬越であり、久保(彦兵衛)久保(彦助)西出、中西出、小西出、忠谷、増田、酒谷等は橋立である。近江尚商会発行「近江商人」に依れば『神崎郡の旭村大字山本南五個荘村大字川並及金堂は固より田舎の小部落なれど一たび足を入るもの誰か豪家櫛比の状に驚かん』と記しているが、若し橋立や瀬越に足を運んだものは、これと等しい感懐を抱くであろう。恐らく村として富の程度から云うたら、日本有数であろう。維新以来の産業革命の荒波は北海にも押し寄せて、その波に巧に乗じたものは栄え、然らざるものが衰えている、北前船主として産業革命の波に乗って大成したのが、加賀では広海二三郎、大家七平、越前では右近権右衛門、越中では馬場道久である。

(二)

以上は北前船主中主として北陸親議会に属する人々の状態を述べたものであるが、この親議会以外にも北前船系として明治二十年前後の海運界に活躍した人がある。その雄なるものは、越前の森田三郎右衛門、大和田荘兵衛、加賀の木屋藤右衛門、熊田源太郎、越中の藤井熊三、越後の鍵富三作、函館の辻松之丞、田中政右衛門、渡辺熊四郎等があった北前船主中、社外船の発達史上見逃すべからざるは広海仁三郎である。

広海二三郎の出身

広海の閲歴は、或る意味に於て北前船の発達史であり、同時に社外船の発達史である。広海は安政元年十一月石川県江沼郡瀬越村に生れた。家は代々船主で大聖寺藩の御用を承るレッキとした旦那筋の家柄であった。広海の生れ故郷の瀬越は、前述の如く、同郡の橋立村と並んで、北前船主並に船員の巣窟であって、彼の生れた前後には、瀬越村だけで約五十余隻の廻船を有していた。明治二年十六歳にして家法に遵い現業実習の為めに北前船に乗組み五ケ年の修業を積んだものである。北前船は前述の如く船主に積荷の売買の権を許す習慣になっているから、船に乗組むことは航海術や船の管理機構を会得するのみならず商売の呼吸も同時に会得することとなるので、茲に広海は船主としての智識と、海産物や魚肥の問屋としての経験を得た訳である

祖先以来の所有船

当時広海の家には千石船七隻を所有していた。その広海家で祖先以来所有したと伝えらるる日本型帆船は二千石積以下総計十四隻に達していた
明治七年二十一歳のとき、小樽支店開設と同時にその主任となり在任中偶明治十年に入り、鰊粕暴落し投物山積せるを片っぱしから買占めたる所、間もなく西南戦争の勃発となり、船腹不足の為めに運賃騰貴し、内地の鰊粕の市価の騰貴を見たので、前に買占めた鰊粕も自家の所有船を以て需要先に送って十余万円の巨利を収めたと云う

産業革命に乗ず

西南戦争で大儲けした広海は、年も三十前の血気盛りであったから、折からの産業革命の気運を強く感じで、明治十二年には加州丸(百五十噸)の西洋型帆船を買入れた、これに対しては広海の父が強硬に反対したが、自分の腕で十万円も儲けている強味があるから、父の反対を押して買入れたものである、之が北前船主としての西洋型帆船を購入した最初であった西洋型帆船を購入して運転して見ると、従来の大和船以上に能率が上がるので、その後引続き左の如く西洋型帆船を購入したものである
九十九丸(九三噸)妙進丸(一四二噸)、経基丸(四二二噸)、加嶋丸(一二八噸)、宮嶋丸(一九九噸)、広福丸(一三〇噸)、九十九丸(一九六噸)、広徳丸(一六三噸)、千歳丸(一二八噸)、八重丸(一一五噸)、江嶋丸(一二六噸)
西洋型帆船で北前船主として先鞭をつけた広海は、明治二十年家督を相続して、名実共に一家の支配者となり、その翌年には汽船北陸丸(六一四噸)を購入したのである、これ又北前船主としての最初の汽船購入であった

汽船購入と禁酒

当時北前船主間で汽船を購入することは、非常な冒険的、革命的な事業と見られ他の船主連は之を白眼視する風があった。茲に於て若し汽船購入の結果失敗せば、郷党(多くは同業の北前船主)に顔向けが出来ぬこととなるので広海は茲に一大決心をした。その一つの現われが好きな酒を絶ったことである。広海として禁酒したことは、計数的には海の営業にどれだけの足しになるものでもないが、その決心は営業全般に及んで、事業の成績を挙げた。例えばその頃大阪東京間を通う汽船は三航海をなすを普通としたのを広海は五航海運航した。そうした遣り口で見事に汽船購入の失敗でないことを示した。茲に於て北前船主にも弗々汽船を購入するものが出て来た。広海の弟で同村の大家へ養子に行った大家七平、同村の浜中八三郎、越前の右近権右衛門、越中の馬場道久の如きがそれであった

(三)

北前船主以外の社外船の主たる系統は前述の如く、榎廻船愛垣廻船系並に産業革命の機運に乗じて来た新船主である

三井物産と船舶

産業革命の機運に乗じて来た新船主組の雄は三井物産であり、之に続くものは浅野総一郎である。
三井物産が、船舶を所有するに至った縁由は三池炭の一手販売をなすに至り同炭の運搬の為めであって、明治十二年帆船千早丸(四六〇噸)汽船秀吉丸(六九六噸)を購入したを切っかけとして明治二十年末には、管船局の船名録に依ると、会社名義或は社主の三井養之助、同武之助名義にて左の如き西洋型帆船及び汽船を所有している

三井養之助名義
秀吉丸(六七二噸)、三池丸(六八噸)、第十八運航(八九噸)、頼朝丸(一〇三六噸)、筑後丸(七二噸)
三井物産会社名義
函館丸(四五九噸)、第一三光丸(六〇噸)、第二三光丸(六〇噸)、第三三光丸(六三噸)、第五三光丸(六五噸)
三井武之助名義
通済(八九一噸)

当時としては郵船商船を除いては西洋型艦船の第一の所有者であった

巨船主義の浅野

三井物産に次いで西洋型船舶を数多く所有していたものは、大阪の名越愛助東京の福沢辰蔵大阪の五百井清右衛門等があった。而して数は少なかったが巨船を所有していたのが浅野総一郎であった。浅野総一郎の明治十八年末に於ける所有船は左の如し
金沢丸(一一五二噸)日の出丸(一一三六噸)鶴丸(四〇八)
当時の最大の優秀船が日本郵船の名護屋丸(二五七三噸)山城丸(二五二七噸)であって郵船以外に千噸以上の船は三井の頼朝丸(一〇三六噸)岩崎の芙蓉丸(一二七三噸)灯台局の明治丸(一〇二七噸)の他は高浜忠恕の豊国丸(一一七三噸)越中汽船の小菅丸(一四九六噸)とあるも印刷の誤りならんかに過ぎないときに浅野の所有船三隻中二隻までが一千噸以上であったことは、後の東洋汽船の天洋丸や地洋丸のことと合せ考えると、浅野と云う男は、船舶業者としての出発点から巨船主義であったと思われるのである

回漕店−東洋汽船

浅野が船舶業を開いたのは明治十九年の十一月であった
明治十八年共同運輸と三菱と合併が成って、日本郵船が成立すると郵船では、運賃の整理をよして、従来の無暴の競争で下げた運賃率を引上げた。これは当時石灰屋とセメント屋を主業としていた浅野には打撃であった
そこで渋沢栄一の斡旋で、数人の出資者を得資本金二十万円で浅野回漕店の商号で海運界に打って出たものだ。この浅野回漕店が変形して後に東洋汽船会社となるもんである

[写真(金子直吉)あり 省略]

阿部彦と鈴木商店

三井物産、浅野の外に明治二十年頃産業革命に乗じて新に船主として挙ぐべき重なるものに左の諸氏がある
(船名噸数は明治二十二年三月発行管船局船名録に依る)
大倉喜八郎(尾張丸二二二二噸)阿部彦太郎(加福丸二二二噸、平安丸三七二噸)阿部市太郎(幸運丸一二八噸、第二紀国丸二三〇噸、歓祥丸一九三噸)川崎正蔵(飛鶴丸一二一噸)尼ケ崎伊三郎(第三運輸丸六一噸、第二運輸丸一一〇噸、電信丸二一八噸、第一運輸丸一〇七噸)鈴木岩次郎(神護丸一〇四噸)諸戸清六(高砂丸二二八噸)汽船組合社長平野富二(第一田浦丸六九噸、第二田浦丸七一噸、第三田浦丸八五噸)
中に阿部彦太郎は有名な米界の飛将軍で、思惑米の運送の為めに、船舶を所有していたのだから、その大相場師たることが想察出来る。鈴木岩次郎は神戸鈴木商店の初代である
神戸開港三十年史下巻に、明治十九年春其筋に於て取調べたる貿易商の資力三万円以上のものとして光村弥兵衛、池田清助、池田貫兵衛、鈴木岩次郎、山本亀太郎、高木喜右衛門、山口吉左衛門大慈安兵衛等八人を挙げてある中に入ったる所を見ると
二十年頃には神戸では相当の貿易業者になっていたものである。金子直吉が土佐の質屋に見切を付け神戸に出て来て鈴木商店に入ったのが、丁度其頃であったのだ。風彩揚らざるこの田舎出の一小僧が二十年後には鈴木商店を国際的大貿易業者に仕上げたのだから人は見掛けによらぬものだ(写真は金子直吉)

(四)

社外船の源流の一派たる菱垣廻船並樽廻船は、共に徳川時代に於て江戸大阪間の航運に従事したものである。

菱垣−樽廻船沿革

菱垣廻船はその船垣楯の筋を『ひがき』にする故この称あり。天和五年泉州堺の人、紀州牟婁郡富田浦に於いて二百五十石積の一船を借り、之に大阪より木棉、油、綿、酒、酢、醤油其他の商品を積載して江戸に運送したるに始まるこの後僅々変遷あり一時小早と称せられたることもあり、享保十五年に至りて酒荷運輸業者は分離して樽廻船を起す、その後も問屋制度の変遷、海上状態に幾変転あり幕末に及び樽廻船は大阪、伊丹、池田、灘五郷の酒荷を主とし、傍一般の貨物を積載し、菱垣廻船と競うてその業を励みしと云う。明治中期の海運界に於て小形船主として活躍せし大阪の名越愛助、五百井清右衛門、井上仁兵衛、近藤喜禄、東京の福沢辰蔵を初め東京大阪の帆船系の船主は直接の因果関係は兎も角、大体菱垣船系と称すべきであろう。

樽廻船の巨頭

樽廻船の根拠地は灘五郷に在りその系統に属して、明治以後の海運界に活躍したのは、西宮の辰馬と八馬である。管船局の船名録に依り、明治二十年頃にその系統に属する船主にして西洋形船舶を所有しているものを挙ぐれば左の如し

辰馬喜与 宝満丸(四二七噸)、神路丸(五七五噸)、太平丸(二九七噸)、快走丸(三三五噸)
辰馬与平 超越丸(四九七噸)、東丸(五二〇噸)
辰馬美● 第二辰丸(七三三噸)
八馬兼助 大国丸(四五四噸)、黄元丸(三七八噸)

辰馬は宛かも北前船系の久保、酒谷の如く同姓のもの多いが、中に海運業者として沿革の古く明治時代に活躍したるは、銘酒東自慢の醸造元である辰馬半右衛門であり、大正の成金時代に活躍したのが銘酒白鷹の醸造元である辰馬吉左衛門である。何れも酒造業の傍、海運業に従事したるものである。

[写真(壮年時代の辰馬吉左衛門氏)あり 省略]

樽廻船と産業革命

之に反して樽廻船系の一方の旗頭の八馬兼助は夙に酒造用米穀の売買、運送並に酒類の運送を業としたるもので最初より純然たる船主であった、明治に入って大和船より西洋形帆船、西洋形帆船より汽船と巧に産業革命の波に乗って社外船主一方の雄となったものである。明治二十六年多聞丸(七〇一噸)を購入したのが、汽船の所有者となる最初であった。
その外に樽廻船系の海運業者として挙ぐべきのに摂州灘興業株式会社がある。明治二十一年灘の酒造家若林茂左衛門、河東利助、小綱与八郎、牧野□雄や岡崎藤吉等の発起にかかり資本金は二十万円で、汽船摂州丸(一、六三一噸)摂海丸(九〇二噸)摂陽丸(一、〇九九噸)を所有して海運業を営み明治二十五年には汽船摂陽丸を牛荘に派し、大豆、豆粕等を積取らしたりしている。
この会社が後に辰馬を中心とした盛航株式会社と合併して摂津航業株式会社となり、更に明治三十五年辰馬半右衛門が譲受けて株式会社辰馬商会と為り、欧洲大戦直前に更に辰馬吉左衛門に譲渡されて、辰馬吉左衛門をして関西に於て住友に次ぐ大富豪たらしむる幸運を齎したものである。

社外船の海外発展

かくて、各系統の社外船主が、明治二十年頃より漸次汽船を所有することとなった結果、その航路を自然拡大せられて、漸く従来の沿岸航海より海外航路に進出することとなったものである。社外船の海外航路に従事したるは明治十二年同社汽船秀吉丸を上海、香港、芝罘、天津、牛荘方面に航行せしめたるに始まるものの如く、明治二十二年には、日本汽船会社の汽船第一丸は、米穀積取の為め蘭貢に航行した。これが社外船の南洋方面の配船の嚆矢と称せられているその他前述の如く明治二十五年には灘興業の摂海丸の牛荘航行、二十六年には大家七平が、その所有船愛国丸を以て後藤勝造の周旋にて当時海外移民取扱業者の大阪小倉幸と布哇移民輸送の契約をなし移民輸送に当ったが、この愛国丸の船長は古川与市と云い、日本人船長として初めての遠洋航海であった(写真は壮年時代の辰馬吉左衛門氏)



データ作成:2002.7 神戸大学附属図書館