新聞記事文庫 鉱業(05-098)
時事新報 1932.9.27-1932.9.29(昭和7)


隠れたる功労者小花冬吉博士

我が鉱業界の父


工学博士小花冬吉氏は日本鉱業界の大先輩にして鉱業界の父と云わるる大功労者であるが初代校長として秋田鉱山専門学校の創設に尽したる功績も亦我国教育史上に燦然と輝いている。退官後は小石川の閑居に閑雲野鶴を友とし悠々自適の生活を送って居るが今尚子弟を愛撫善導して止まず、其高潔なる人格は我鉱業界及同校卒業生の敬慕の的となっている。昭和五年五月二十五日子弟相図りて博士の功労と人格とを永久に記念せんと全国十二大銅山(国富、小坂、尾去沢、阿仁、八盛、荒川、永松、足尾、日立、笹ケ谷、別子、佐賀関)等に活躍せる教え子が自ら採掘し、自ら製煉せし精銅を集め、本邦彫塑界の権威東京美術学校教授北村西望氏また師弟愛の情誼に感激し進んで心血を注ぎ博士の胸像を作り同校校庭に建て、各鉱山学界及各地在勤の卒業生代表多数集まりて厳粛なる除幕式を学行せし美談は今尚記憶に新たなる事である。
博士は安政三年十月東京□□れ生粋の東京人 明治六年八月帝国大学工科大学の前身たる工学寮に官費入寮を申付けられ、十二年十一月冶金学研鑚の為め欧州へ留学を命ぜられ、十六年五月帰朝し御用掛総務局、鉱山局鉱山課に出仕し広島県四等技師に任ぜらる、二十年五月製鉄研究の重要任務を帯びて仏国に差遣され帰朝後秋田鉱山監督局創立に当り推されて局長となり札幌鉱山監督局長をも兼任、二十九年製鉄所技師として欧州並に米国に差遣され三十二年三月二十七日工学博士の学位を授与され、□意我国鉱業の開発に努力せられた。四十三年十月十八日東京帝国大学工科大学教授となり四十四年十一月秋田鉱山専門学校創設に当り推挙せられて学校長となり大正三年八月二十九日在職僅か四年、病の故を以て退官した、また同校に尽した功績は顕著なるものがあった。
博士は夙に我国鉱業の振興を以て己れの任とし単身欧洲に留学し研鑚する事多年、或は広島砂鉄鉱を汽船に満載し之れを仏国クロゾール製鉄所に携えて同所に於て該試験を試みたる等其苦心幾何なるを知らざるのである。明治十七年国家の元勲大山元帥、樺山、松方、黒田、牧野の元老及陸海軍の諸将を動かして製鉄所の開設を叫び、自ら山河を跋渉し全国鉄山調査を遂げ明治二十五年六月二十二日製鉄所建設論を公にした、欧米各国の銑鉄及び鋼鉄の産額及び鉄道用軌道の噸数から軍艦、商船使用の鋼鉄噸数まで精査し、我国の鋼鉄輸入額と対照し我国に於て七十五隻の軍艦を備うるの急務なるを論じ九州門司近傍に一大製鉄所を建設すべしと力説した。
爾来製鉄所問題は輿論を喚起し明治二十七年日清戦役に際して軍

[写真あり 省略]

器の独立上設置の急務なる事漸く朝野の等しく認むるところとなり遂に二十八年帝国議会に建議し、第九議会に製鉄所建設の協賛を得て三十四年二月五日熔鉱炉の点火式を挙行し、五月悠々製鉄所の完成を遂げ茲に八幡製鉄所の基礎を確立したのであった。博士の識見と努力真に幾何なるを知らず、昔時貧弱なる一寒村が東洋第一の製鉄所と化したるを見て
忘れじの古里しのぶ老の身は
誰に語らんありし昔を
と詠んだ博士の胸中感慨はそもいかに貴族議員内藤久寛氏は曰く「製鉄所今日あるは和田先生の大功労によるが小花君の内助の功之れまた決して見逃してならぬ即爾人の結晶とも云うべきであると
(写真は北村氏作の胸像)
斯くの如く製鉄所に尽されたる功績は偉大であったそれ故製鉄所在官中の逸話も少くはないがここには一事を掲げて他を省略す、検査官兼製銑部長たりし時初めて鉄道用の軌道が製造された、実に日本開闢以来のレールである、当時所員一同の得意と喜悦はいかばかりか計り知る事は出来ぬ、製鉄所和田維四郎長官と工作局長松本荘一氏との間に交渉がまとまり鉄道局に採用せらるる事に決定し納入発送に先だち検査官たる小花氏が米国のスペシフィケーションを標準として物理的、化学的の試験を行った、ところが外観は合格して居るが其の他の条件には落第である、併し製鉄所の同僚が心血を注ぎ漸く開闢以来のレールを作ったのを思うと学理的には不合格でも精神的には合格だと主張し全部合格品として発送したのであるが果せる哉東京から品質不良の抗議が来る、検査官たる責任上東上を命ぜられた小花博士は車中胸中深く決するところあり東京へ着くと松本局長増田建設部長其他の首脳幹部の抗議に対し叩頭謝罪「不合格品は此の儘製鉄所に持ち帰る事は出来ませんから全部海に捨てて貰い度い私はこれから帰って御気に召す様な立派なものを必ず作ります、然し此の品は日本開闢以来初めて出来た日本製レールである事丈は克く御記憶して置いて下さい」厳然と云われた一言遂に松本局長初め一同を動かし直に採用に決定、引込線用として納入したとのことである、此一事以て如何に至誠の人たるかを窺い知るに足る。
明治三十七年我国鉱業の振興を図る為めに先づ独逸フライベルヒ鉱山大学の如き学校を我国にも設立せざるべからずと日本鉱業界の元老たりし和田維四郎氏、実業学務局長真野文二博士、東大工科大学教授渡辺渡博士、小坂鉱山長田中隆三氏、三井合名会社団琢磨男など朝野鉱業界の先輩の間を勧説し秋田県知事下岡忠治氏、井上現秋田市長等の尽力によって明治四十三年、秋田鉱山専門学校が鉱山中心地たる秋田市に設置されたのである。創立費も鉱山に関係深き藤田、三菱、古河、三井等より寄附せられて茲に我国唯一、東洋唯一の鉱山専門学校が開放せられた。此の重大使命を果すべく推されて校長となったのが即ち小花氏である、学校長に赴任せる博士は日夜寝食を忘れ心血を注ぎて創立の難きに当り施設の完成と教育の大任に向って猛進し、真に国家に役立つ人間を作る、日本一の学校否フライベルヒの鉱山大学以上の学校たらしめんとの大抱負を以て尽瘁したのであった。
博士は極めて識見の高い人で思慮深く何事も周到なる用意を以てなされたので其功績逸事等数々あるのであるが黙々として語らざる人であったから当時職員学生と雖も僅かその一端を知るのみであった、卒業後十数年を経過して漸く其言行の数々を窮知する事が出来たのである、小花氏は常に学校長の重任を果すべく生徒と離れた事なく私用の為め学校を留守にする事もなく、従って学校以外の会合

[写真あり 省略]

に出席したことはなかった。校長の机上には全校生徒の写真があり一人一人の氏名、性格まで記憶していて指導した、東京に在る子女が死去せられたる報に接したる時にも校務極めて多端の折とて直に帰京されなかった事がある、実に身を忘れ、家を忘れ、愛子を忘れ、子弟教育の為め尽されたる心情は誠に尊く、涙ぐましいものがあった、学生は未製品だ之れを教育するのが教育者の使命である、若し学生に過あれば教師の責だ、学生は決して感情を以て取扱ってはならぬ、然るに同等の積りで可否を争い甚だしきは職権を以て自己の誤信をも通さんとするもの往々あるが危険千万である、学生は陛下より御預りしたものである立派に教育せねば相済まぬとの強き信念を持っていた。(写真は小花氏)
小花博士は責任観の強き人で何事をするにも予め周到なる調査研究をして後世に禍根を残す事はなかった、学校の校章を作る時にも其意匠に就き苦心して、世間並のものでは承知出来ぬ、学生が造次顛●も忘れてならぬ修学の精神は畏くも金剛石の御歌である、此の御聖旨を学生が頭に戴き此の御精神を心とせば立派なる国民となる事が出来る、而も金剛石は硬度も一番硬く結晶も正しき故本校の校章として最も適当である、斯様な尊き校章は他に瀬を見ず本校の誇とするところであると云い、更に専門家にも研究させて遂に現時のダイヤモンドの意匠の徽章を定めたのである。
博士は深く松下村塾等私塾教育の美点を研究して学生の善導は師弟の融合であるとて万難を排して先づ寄宿舎を建設した、而して学生を悉く入舎せしめ、献立から食料品の購入、会計等一切を学生に任せ純然たる自治寮であった。然し教師は必ず一名宿直せしめた、之れも監督と云う役にあらず、小花氏また毎土曜日から日曜にかけて必ず宿直学生と起居を共にした、校長と学生とは親子の如く教師と学生とは兄弟の如く親しかった、寄宿舎に於ける博士は学校長の場合と全く別人の様な感もあった、慈父そのものである。
寄宿舎の粗衣粗食も無上の生活であった、学生と食卓を囲んで談笑の裡に或は外国の話、或は鉱山生活の話、或は先輩の逸事から家庭生活、日常生活に至る迄極めて豊富なる材料で面白く語った。先生または学生より鉱山実習中の実話を聞かるるを楽しみとしていた。 或時は教師の家族全部を招待し全校職員生徒新居浜の海岸に一日の清遊を試み地曳網に興じた事も思い出の一つである。
教育の実際化を図り余暇あれど教師にも生徒にも鉱山見学、実習をすすめ、学校に於ては実験を重んじた、各学科の講義にはよく出席して学生と共に聴講し校長自ら修身の講話以外に鉱業法を担当して活教授の範を示し実例を以て面白く講義するので兎角無味乾燥な鉱業法も愉快で学生は歓迎した。
又鉱山専門学校の使命を果すべく大規模の実習製煉所を設けんと計画されたが文部省にも其費用なきを知り其実現に苦心した。
此の計画を三井の団男に語った時に男は深く博士の誠意に動かされ遂に三井より巨額の建設費を提供されたのである。次で文部省に対し製煉実験所建設の必要と三井家の厚意を示して説いたので遂に我国初めての大規模の実験製煉所が設けれたのであった。斯くして附近鉱山から鉱石を搬入して熔鉱炉に点火し製煉実習を開始し亜硫酸瓦斯の煙が中天に高く昇った偉観を呈した時に博士は
学び舎の高炉の煙あうぎつつ
わが友垣の情をぞ思う
と詠じて所懐を述べたものであった。



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