新聞記事文庫 綿織物業(1-011)
時事新報 1912.12.4-1912.12.5(大正1)


不燃性綿布発明


(一) 多年不撓の研究結果

英国マンチェスター大学の化学教授ウィリアムヘンリーバァキン氏が多年人造樟脳及び人造護謨の研究に従事し終に其目的を達したる事は既に広く世間に知られて居るがバァキン氏は綿布及び其他燃焼し易き日用品を不燃性にする方法をも大に研究した学者で氏は過去数年間に於て此方面の研究に対し寧ろ人造樟脳及び人造護謨の研究に対するより余計に努力した様だ而して綿布を永久不燃性にすること(即ち幾度洗濯するも不燃性たる性質を保つ様にすること)だけは近頃大成し巳に斯る綿布が市場に現れて居り蓋し綿布及び其他燃焼し易き日用品に火が附き生命財産に意外の大損害を与えたる例決して少なくない悲惨を極むる劇場の火事は大概衣裳幕及び其他装飾用の綿布紙等に火が附くのが始まりだ小供の衣服に火が附いて焼死する不幸の事は昔から幾度あったか知れない故に此等の物品を簡便に不燃性たらしむる方法発明せらるれば其裨益大なるは云う迄もない事だ左に不燃性綿布に関する過去数年間に於けるバァキン氏の研究の概要を記して見よう

研究の動機

バァキン氏が不燃性綿布の研究を始めたのはフランネレットと名付くる一種の綿布を不燃性にせんとするのが動機となって居るフランネレットはキアリコから造らるる極めて廉価の綿布で幾度洗濯すとも縮まらず衣服として甚だ経済的のものだ英国の下級社会ではフランレットの需要者殊に多く其製造会社も大分勃興した併しフランネレットの一大欠点は燃焼し易き事である凡そ綿布中で之ほど燃焼し易きものはあるまい英国に於てはフランネレット流行に伴い衣服に火が附き人が焼死する惨事が頻々としてあった故にフランネットを衣服用にする事に吐いては喧しい議論が起り其使用を全然禁止す可しと主張する者もあった而して英国内務省の死因検定委員は此事に関する正式の調査を始め概略左の如き報告をした(フランネレットは事実燃焼し易く衣服として危険であるに違いないが之を使用する事を禁止すれば其重なる使用者たる下級社会に大困難を来たさずには済むまい)斯る問題が起る数年前マンチェスターに於ける二三のフランネレット製造家はフランネレットの燃焼し易して危険なる事に気付き将来其販売を禁止されはせぬかと心配しバァキン氏に之を不燃性たらしむる方法の研究を委頼したバァキン氏は此時より其研究に着手し世にフランネレット問題が喧しくなるに従い益々奮励し終に近頃其目的を達したのである蓋しフランネレットほど燃焼し易き綿布は先ず無いから之を不燃性にし得れば同様の方法を以て他の綿布を不燃性にし得るは勿論だ故にバァキン氏は其試験用の綿布にフランネレットを択んだ

六ケしい条件

綿布を不燃性にするとは之を岩石磁器硝子等の如く猛火中に投ずるも絶対に燃焼せぬ様にする意味ではなく(是れ到底出来ざる事だ)燐寸瓦斯暖炉等の火が附くも唯だ焦る位の事で済み決して焔を発して燃焼せざる程度に不燃性たらしむる事だ併し其方法が実用的になるには凡て左の諸条件を充たす必要がある即ち

(一)綿布の外見(染模様織地等)及び持久力を□わざる事
(二)或種の化学薬品の如く綿布が湿り易きものとならざる事
(三)綿布が有毒のもの或は塵埃を発するものとならざる事
(四)現今行わるる如何なる洗濯法を以て数十回洗濯するも不燃性を失わざる事
(五)経費少なき事

綿布を不燃性にする方法はバァキン氏が其研究に着手する以前より種々あったが皆前記の諸条件の何れかを欠くので実用的にならない例えば綿布を明礬液に浸して乾燥し或は綿布に糊と明礬液を混じたものを敷きて乾燥して不燃性にする方法は久しき以前より人に知られて居った事だが此方法を以て不燃性にされた綿布は塵埃を発し易く且つ一回にても洗濯すれば直ちに不燃性を失う欠点がある又燐酸アンモニア三塩酸アンモニア二硫酸アンモニア一水四〇の割合にて混じたものに綿布を湿して不燃性にする六法も一時流行せんとした事があるが之に依て不燃性にされた綿布はやはり一回の洗濯で全く其特性を失う欠点がある(未完)

(続) 一万回の燃焼試験▲如何なる綿布も不燃性し得る

一万回の燃焼試験

バァキン氏が不燃性綿布製法研究に就て如何に苦心したかは其助手サムエルブラドベリー氏が総計約一万回綿布の燃焼試験を行った一事で明かである綿布を不燃性にする方法と云ば先ず之に適当の化学薬品を固著せしむるより他はないがバァキン氏の実験に拠ると綿布の燃焼を妨止する様な化学薬品は大概其綿布が水石鹸等にて度々摩擦して洗濯せらるると綿布から離れてしまう是れ不燃性綿布の製法を困難ならしむる一大原因である例えばタングステン酸曹達の溶液タングステン酸アルミニウムの溶液タングステン酸曹達硫酸アンモニア及び酢酸の混合溶液タングステン酸亜鉛の溶液或はタングステン酸錫の溶液に綿布を浸して乾燥すれば一時殆ど充分不燃性になるが幾回か洗濯すれば何れの場合に於ても再び容易に燃焼する様になる唯だ一回の洗濯の後不燃性を失う場合と数回の洗濯の後不燃性を失う場合の相異がある丈だバァキン氏は尚お此他多くの種類のタングステン酸塩類の溶液に綿布を浸して試験したが結果が思わしくないので終にフェロシアン酸塩類アルミニウム酸塩類アーセニック酸塩類アンチモニー酸塩類亜鉛酸塩類鉛酸塩類等苟も有望と思わるる塩類殆ど全般に亘って試験を行ったが其中多数は毒性なるが為採用する事が出来なかった併し此大規模の試験結果で酸化金属が酸基の位置を占むる塩類例えばアルミニウム酸塩類アンチモニー酸塩類亜鉛酸塩類鉛酸塩類錫酸塩類等の溶液に浸して造った不燃性綿布は他の塩類の溶液に浸して造った不燃性綿布より洗濯に対して余程持久力強き事が発見された而して其中にても錫酸塩類の溶液に浸して造った不燃性綿布が洗濯に対して最も持久力強く之に次ぐは亜鉛酸塩類の溶液を浸して造ったものなる事も知れた

錫酸塩類研究

爰に於てバァキン氏は専ら錫酸塩類に関する研究を始め数多の実験中偶々綿布を最初第一錫酸曹達の溶液に浸し其後塩酸亜鉛の溶液或はタングステン酸曹達酢酸亜鉛及び酢酸の混合溶液に浸せば余程完全に近き不燃性綿布になる事が知れた併し度々洗濯するとやはり多少燃焼する様になり殊に酢酸の混合溶液に浸したものは其臭が永く附着して実用的にならなかった又バァキン氏は綿布を第一錫酸曹達の溶液に浸して乾燥したる後塩酸錫の溶液に浸して不燃性にした斯くして出来た不燃性綿布は幾回洗濯するも殆ど其特性を失わないが塩酸錫は還元性で綿布の染模様を害うから此不燃性綿布の製法は白地の綿布にのみしか応用出来ない此等の諸試験の結果に徴してバァキン氏は錫酸塩類が綿布を不燃性にする作用を特に著しく有する事に気付き熱心其研究に従事し終に爰に大目的を達し申分なき実用的不燃性綿布の製法を発明した其方法は先ず綿布を摂氏約四十五度の温度を保つ第一錫酸曹達の溶液に充分浸したる後之を圧搾して銅製の鼓形□上にて乾燥し夫れより摂氏約十五度の硫酸アンモニアの溶液に浸して引出し再び之を圧搾乾燥し最後に水にて洗滌して余分の硫酸曹達を取去るのである今や英国マンチェスターに於ては此方法を以てノンフラムと名付くる不燃性綿布が盛に製造せられた終にバァキン氏発明の不燃性綿布の製造にノンフラムプロセッスとして人に知らるる様になった

ノンフラムプロセッス

ノンフラムプロセッスは曩に記した実用的不燃性綿布製法たるに必要なる総ての条件を具備して居る殊に此方法を以て綿布を不燃性にすれば其持久力は却って前より増加する例えばフラネレットを不燃性にすれば其抗張強は約二十パァセント増加する又ノンフラムプロセッスに要する薬品代の大部分を占むる錫の市価は目下比較的高く一噸二千一百円もするが夫れでもマンチェスターに於る実際に徴すればフラネレット一ヤードを四銭以下にて不燃性にし得るそうだ現今マンチェスターに於てはノンフラムプロセッスを以て専らフラネレットを不燃性にして居るが結果甚だ良好で遠からずモスリン、レイス等を始め一般綿布を不燃性にする事にも応用されそうだ而して其流行に伴い衣服に火が附いて人が焼死するとか其他綿布の燃焼が原因となる火災は次第に跡を断つに至るであろう殊に小供の衣服などは総て不燃性綿布で造らるる様にしたいものだ (完)


データ作成:2004.3 神戸大学附属図書館