新聞記事文庫 綿織物業(7-024)
神戸又新日報 1933.9.17-1933.9.21(昭和8)


内地向織物から輸出向に転換した試験場の指導と製品検査

播州織物の発展


播州織物業者は海外各方面の高率関税や輸入制限の障碍に対抗するため高級品への転向を企図し、現在県営の西脇染織試験場でやっている講習の外に組織的な染織教育機関を設置せられたきき某を県当局に陳情した、現在播州織は日本全体の輸出向織物の中で約一割を占めているのであるが、その発達としては極く近年のことであって、兵庫県としても工業試験場西脇分場(現在の西脇染織試験場はこれが本年度初めに改称せられたもの)をして吉田工場長の献策の下に輸出向綿布の奨励指導をなさしめることとなったのは漸く大正十二月の三月のことである、それまでは小幅の内地向着尺綿布の製織を本位としていたのであるが、今日では内地向着尺綿布の生産は著減して昨年度の如き僅に七十八万三千円に過ぎず、一方輸出向綿布としては実に二千六百七十一万五千円の巨額に上り、播州織は内地向から殆ど完全に輸出向へ転向を了したというてもよい状態を示している、しかしてその仕向先は鮮満地方では釜山、仁川、奉天新京、支那では上海、香港、南洋方面ではマニラ、サイゴン、バンコック、シンガポール、ピナン、ラベワンデリ、メダン、シボガ、バダン、バレンバン、バタビア、チェリボン、サマラン、スラバヤ、ベノア、ボレレノ、アムペナン、ポンチャナク、バンジエルマシン、マカッサ、ゴロンジャロ、メナド、アムボンナ、印度地方ではラングーン、カルカッタ、コロンボ、マドラス、ベイポールマルムガオ、ボンベイ、カラチ、プシャール、波斯及びアラビア方面ではバスラ、ジュバイ、マスカット、アデン、メッカ、ジッダ、近東地方ではジャファ、ハイファベイルト、アレッポ、アレクアンドレッダ、メッシナ、カダリ、ローデス、スミルナ、イスタンブール、地中海のマルタ、メッサラ、サイプラスから欧洲方面のマルセイユアントワープ、ロンドン、リヴァプール、ワルソーまでおよび問題のアフリカではスエズ、カイロ、ポートセット、アレキサンドリア、トリポリ、オラン、メリラ、テツアン、ゲウタ、ヤサブランカ、マザガシ、サフイ、モドガル、ダクル、フリータウン、アックラ、アボメ、ゴトナウ、カゴス、サベレ、ポートハーコート、カラプラ、マタジ、オボボ、モッサメデス、スワコブミカド、ケープタウン、ポートエリザベス、イーストロンドン、ダーバン、ロレンコ、ベイラ、モザンビク、ダレサラム、ザンジバル、モンバサ、キスマユ、リプチ、スダンならびにマダガスカル島のマジュンガおよび南印度洋中のモリシアス、ポートルイスなどほとんど各地に行きわたって居りなお濠洲に於てはシドニーメルボルン南太平洋ではスヴァ、西印度ではハバナ又南米ではリオデジャネイロ、モンテヴィデオ、ベノスアイレス、アスンシオン等が数えられる、これを品種について見れば縞三綾が蘭領印度、新嘉坡、印度、埃及、阿弗利加東海岸、同西海岸、トルコ、シリヤその他近東諸地方及び満洲地方に、サロンが蘭領印度各地、新嘉坡、蘭貢、コロンボ、アデン、東阿弗利加、モンバサ地方へ、ギンガムが埃及、トルコ地方へ、ペッドクロスが新嘉坡、印度、埃及地方へ、ゼファーが埃及、シリア、土耳古地方へ出て行く、即ち世界を股にかけての活躍振りであって、日本の国際貸借関係において頗る有意義なる貢献を為しつつあることは兵庫県の為めに大いに気を吐くものといわねばならぬ、しかして一括して播州織物というけれどもそれは播州織、播州織第一、菅大、加西郡、中播織物、播州織野間の六工業組合の手で製織されているのであって、それがそれぞれの検査所を有し厳重なる検査を行った上輸出しているので、この検査の励行は彼の試験場の指導と相俟って播州織物の声価を世界的に高からしめる原因を為している
播州織物は前記六工業組合に依って製織されているのであるが、その工場数は現在四百二十四で、西脇町を中心とする播州織工業組合が二百八十四工場でその過半を占め、菅大織の四十四、播州織第一の三十五が西郡織物の三十二、播州織野間の二十三、中播織物の六工場がこれに次いでいる。なお工場の種類別を見れば右の通りであって、昭和四年当時の総数三百七十七工場が五十七工場を増加せるうち小巾織物の減少百二十一、広巾物の増加百九十を示しているのは播州織の内地向から輸出向への転向を説明するもので又染晒が十四、整理が八を共に減少しているのはその共同作業への合理化が顕著であったことを物語っている

[図表あり 省略]

又六工業組合を通じこの織機台数は一万六千三十三台であるがこれまた播洲織工業組合の九千百九十台が断然他を圧して多数を占め菅大織の二千四百四十台、播州織第一の千四百四十五台、加西郡織物の千三百六十六台、中播織物の八百二十三台、播州織野間の七百六十九台がこれに次いでいる、なお織機の種類別を見れば左の如くである

[図表あり 省略]

しかして昭和四年には小巾力織機は播州織が千九百八十台、菅大織が三百三十七台、加西郡織物が四百四十四台、中播織物が二百二十三台を有しており、その総数二千九百八十四台であったのが今日はその十分一以下に減少している一方、広巾力織機は播州織が四千四百四十九台、菅大が千二百五十四台、播州織第一が六百二十七台、加西郡織物が四百四十七台、中播織物が八百七十八台で総数七千六百五十五台であったのが、今日では左の如く約倍加し、総機台数の増加は四千七百六十六台となっている又織工数も工場数と機台数とに応じて播州織工業組合が同様その筆頭に座し三千六百六十名を擁し、その他は菅大織が千二百七名、中播織物が八百三十一名、播州織第一が八百二十九名、加西郡織が七百十一名、播州織野間が三百九十六名で合計七千六百三十四名を算しているが昭和四年当時の六千九百八十六名に比較すると六百四十八名の増加に過ぎず、その内訳は男女別の左の如くなっている

[図表あり 省略]

以上の計数からみるとこの間工場数及び織工数の増加が前者は約一割五分後者は約一割であるに対して織機台数の増加は約三割に適しその能率向上の程度の如何に高いかが窺われる、一工場の平均織機台数を全国的に見れば約五台で、遠州織物の如きでさえも十七台に過ぎぬのが播州織物では四十九台に上っているのは工場単位の拡大として頗る誇るべきところでこれは共同作業の発達によるものであって、彼の共同整理工場の設置は整理賃の節約、二重投資の省略、共同出荷の便宜及び運賃節約資金廻転率の向上等の利益を挙げたが、この工場単位の拡大はそれ自身においても生産費の減少を将来したもので就中その有意義なる産物と言うてよかろう

[写真(西脇町の全景と播州平野の展望)あり 省略]

播州織物の発達は実に県営西脇染織試験場即ち本年春まで兵庫県工業試験場西脇分場と呼ばれたものの努力に負うところが尠くない、同場が大正十三年に内地向着尺綿布から輸出向綿布へと播州織の試験研究講習並に実地指導方針の変更を決定して以来の状況を見るに左の如き経過を示している
 輸出激増と小巾織機の激減とは昭和七年において特に顕著なるスピード・アップを示している、これは全く為替安に恵まれたと共に好機逸すべからずの当業者の活躍に因るものであり、しかして高関税と輸入割当との圧迫で本年もその通りの足取りを辿るかどうかは疑問とするが、現在既に十一月分の仕事までも引受けているので本年度としては引つづいて相当の好成績を挙げるものと考えられている、播州織物の輸出方法としては総て輸出商人から見本により注文を受け引渡し期限を定めて製織を為すもので自家の見込による製織ということは殆どしていない、従って輸出の前途が悲観されて輸出商人が注文を手控えると播州一帯に暗雲徂徠ということになるので、仮令自家の見込による思惑わせずとも国際市場の成行については常に深い注意を払うているのである、従って西脇の染織試験場の仕事としても常に新需要を海外に開拓し得べき商品の物色と研究とに留意しているのであって、現在播州の縞三綾生産高は日本全国の五割三分内外を占めているが、この海外輸出も漸く飽和状態に近づいた如く、又サロンも既に南洋方面ではその需要の約九十二パーセントを供給するところまでゆき、即ちその計画したところの十六手乃至二十手の太糸細布から、四十手の細糸縞綿布への転向方針は既に一仕事が了ったとも言い得る状態なので、更に以上の高級綿布の製織を計画することとなったのは同試験場本来の使命に顧みるときは蓋し当然の出処というべきであって、現在としてはその指導の下に七工場この機台数百六十台のものがアフリカのモンバサ市場向きのキコイを三工場、この機台数六十一台のものがインド市場向きのサリーを一工場が南洋市場向きの蚊帳地を、一工場がアフリカ市場向きのカネキを、二三工場この機台数百八十台のものが各地向ポプリンを試織しつつあり、而して試験場はその試験と工業化とについて熱心協力をつづけているのである、しかして同試験場としては常に各種の講習会を開いて実務に伴う有能なる工人の指導に力めているが、更にこれら工人の指導に当るべき幹部級の育成の為め、染織学校の設立を必要と認めこれが計画の実現せんことを希望しているが、同地方の当業者としても最も歓迎、期待するところなので県当局に対し右に関する陳情を為したことは本紙既報の如くである

[図表あり 省略]

播州織物が今日の発達を見るにいたった経路を回顧するに、当地方が本邦著名の機業地としてはあまり古い歴史を有しているものではなく明治三十二年ごろが漸く他地方へその製織品を売拡めることとなった最初であるが、所謂播立浴衣地の名に聞え、また綿英ネルの小幅機業地として相当発達を告げ欧洲戦争の起ったころには既に機台数は六十を算し年産額も七百万円を超ゆるにいたった、しかるに戦時戦後に亘る好況時代に機台数が全国的に増加を見た結果として常に生産過剰に悩まされ、大正八年兵庫県工業試験場西脇分場が設立されて細糸瓦斯糸遣いを奨励し柄意匠を改善して都市向、中流向品に進ましむる方針を以て指導すること四ケ年に及んだに拘らず、その効果甚だ挙がらず、試験場としてはここに指導原理の変更を必要と認め即ち輸出港神戸を近くに有するを利用し戦後各国工業衰微の機会に乗じ南洋、印度等に進出するため輸出向綿糸の奨励に重点を置くことに決し、爾来輸出向加工綿布の試験とその工業化を計ることとなったのである、これ輸出向綿布は販路広く大量生産を可能とし、しかも取引の慣習上資金の回転迅速であるため比較的少額の資本を以て足ることに着目し、且つ研究上外国製品との対抗が十分に出来得る自信を得た結果であるが同じ輸出向綿布としても中小工業家のためには大資本を有する紡績工場の製織せる生地綿布を避け即ち競争上安全なる品種として加工綿布を択んだのであった、しかして一方又能率の増進と作業の経済化とを研究し、且つ常に各工場を視察して実地についてその調査研究を行うと共にこれが改善方を勧告指導することとした、その結果自ら作業の機械化となり、一工場一製品主義に進み、更に共同作業を盛んに行うこととなり、ここに今日の工業組合の成立に先立って既に整理利用組合と共同染工場とが設立されたのであった、これが現在の工業組合工場の前身であるが、今日整理工場ではその工程の全般に渉ってこれを行うばかりでなく、取扱いは荷造より発送にまでも及び殊に最近は組合として運送業者と契約を結び到着地までの一切の責任に当ることとなったのである、しかして従来染色、整理を他の専門業者に委托しおりたる時代と異なり共同作業の為め経費は著減しかつ完全なる設備の下に工程もスピード化しかつ完全なるものとなり、しかして送荷と同時に手形割引を為し得る方法が立ってからは資金の回転率は著るしく向上を見ることとなったのである、要するに播州織業の特色とする点は共同設備の普及せること、工場の単位が全国第一であること、資金回転率が大なること、賃織工場が少く殆ど全部独立したる機業家であることなどを挙げることが出来るのであって、そして当業者が総て試験場の指導に信頼、邁進しつつあることは常に新境地の開拓に成功し来った根本原因を為している、現に昭和四年末に吉田場長が南洋地方を視察せる結果に基きサロンの人絹交織に着手したがその売行良好であり、人絹交織品は綿布の高級品化と共に播州織に更に新境地の開拓を齎すであろうと見られている、又サロン機業を開始したのは昭和五年のことであるが爾来三ケ年間にその工場数百四十、機台数四千五百台に上り、年産額は九百五十万円に達して縞三綾の約千万円と拮抗しつつあり、その他ギンガムの年産額四百万円、ゼッファーの年産額二百万円で新製品の急速度なる発達は如何にその実際に製織輸出を行うに到るまでの調査と研究とが周到であるかが推知せらるる次第で、これらは全く県営試験場が卓越せる指導原理に依って活動しつつある賜物といわねばならぬ、将来の播州織物が何処へ往くかということは頗る興味のある問題であるが機業家各自の発奮努力がその緊張を喪わざる限りこの最高級の指導者を有する関係から見るもその前途は実に洋々たるものがあると思う、又最近綿糸太番手の製産高が激減したとき支那糸の共同購入をやって、統制と結束の鞏固を誇る紡績業者に反省要求の爆弾を投じたことなども播州機業の如何に底力の大いものであるかを証明した一例であるが、目下要望されている染織学校設立が実現されることとなるとその陣容は益々整備されるであろう、われらは播州織物の将来に多大の期待を嘱し、その益益隆興せんことを祈るものである(播州織物の項了)


データ作成:2004.3 神戸大学附属図書館