新聞記事文庫 アジア諸国(11-029)
満州日日新聞 1939.1.18-1939.3.25(昭和14)


躍進奉天工業界の花形


1 工業満州の縮図 生産一億円突破も近し“東洋の鉄西”出現

一、プロローグ

“産業が国家発展の手段であり一国文化のバロメーターである”とすれば奉天鉄西工業区は満洲国産業文化進展の縮図であるというも過言でなく、国都新京が都市として満洲国を代表しその目覚ましい国都建設状況が即ち満洲国の躍進を物語る具象として常に取上げられ、内外人を瞠目せしめていることと同様に、奉天鉄西は農業満洲国から工業満洲国への飛躍を示す好例として斉しく世人の口にする所であり、鉄西といえば即ち奉天の工業区を指称し、それが現在では満洲国の鉄西であり東洋の鉄西として颯爽と東亜経済活動舞台に登場せんとしていることも亦事実である、鉄西を見ずして満洲の工業を語る勿れ、この一人鉄西マンの誇りであるのみならず、満洲国が東洋のシカゴといい或はマンチェスターとして内外に宣伝紹介するに足る、否紹介すべき鉄西なのである

広茫四百三十余万坪に亘る奉天鉄道沿線西方の該工業区設定抑々の沿革に関しては茲に詳記する暇はない、只事変前昭和初期既に満鉄が工業地設定計画の下にこの地を内々選定、張政権と再三に亘り交渉、土地買収を進めたが成らず事変を迎え、下って満洲建設となり、昭和八年三月満洲国経済建設要綱発表により国内に奉天、安東、哈爾浜、吉林四都市の工業地域設定を見工業都市と発展すべき運命に置かれた奉天には右工業立地計画に基き昭和十年三月満洲国政府、満鉄共同出資の下に資本金三百五十万円全額払込済の奉天工業土地股●有限公司が創立され、工業用地、附帯市街地の建設経営に着手する事となり、多年の懸案が実現するに至り、漸次工業区の相貌を整えて来たが昭和十二年(康徳四年)十一月同公司満鉄所有株の満洲国譲渡に伴い直接経営の任は奉天市公署に移り、今や四百三十数万坪の全区域は工場街をはじめ市街地たる住宅街、商店街共に九分通り売却乃至予約済の盛況を呈し数年前の該地区を知る者をして転た桑蒼の感を深からしめることを附記するに止める
曩にも延べたる如く鉄西工業区に包含される土地の用途は工業地域をはじめ住宅、商業、官公署、学校、公園緑地各用地に分れ、西部奉天に堂々たる綜合都市を築き上げているところにこの工業区の特色があり、ここに在住する人口は康徳五年七月末現在一万二千五百戸、六万二千人を算え中日本人は九百四十一戸、三千八百人に達し工場作業中の昼間人口は優に八万人を突破するであろうと称される、鹿もこの正に十万に垂んとする人口を包容し、生活せしめている工場街は戦時生産力拡充の波に乗って平和産業の部類に属する食料品工業其他雑工業と雖も多忙を極め煙の立たぬ工場とては無く何れも職工払底と増産に要する資材難に我が世の春をに託っているというから軍需産業の所謂殷賑さは推して知るべしで、茲一両年来増資払込徴収を行っているところは十指に止まらぬので、之ら鉄西工場各会社の資本金一億円を突破し、実際投資額だけでも七千万円に達し、昨年末生産額は優に六千万円を予想され、更に国内工業生産力拡充の線に沿う各種工業の勃興は鉄西工業区の有する燃料、動力、用水、労働力、交通市場関係に対する絶対優位性の認識深化と相俟って内外資本家の鉄西進出は当然予想され、年生産力一億円を突破する日は一両年を出でないであろう、今康徳五年度十一月末現在の業種別工場内訳を挙げると左の如し

[図表あり 省略]

2 宛ら大阪資本の満洲別働隊 鉄西の集団的躍進譜

プロローグ(二)

鉄西工業区が設定された当初の予想を以てすれば昭和製鋼所を王座に据える鞍山の重工業ブロック並びに撫順炭砿を囲繞する特殊工業地帯と鼎立してここは平和産業系に属する雑工業地区として発展するであろうと云うことであった、従って昭和十年工業土地会社創立当時相前後して日本ペイント、中山鉱業所、満洲麦酒その他一二酒造会社が率先工場建設に着手した四年前、誰か今日の鉄西を予想したろう、即ち現在の鉄西工業区は中小資本の経営による雑工業地区から金属機械工業等産業五ケ年計画遂行並びに産業を中心とした綜各的集団工場地区となり、奉天、撫順、鞍山南満一帯工業圏内における花形工場地区としてその重要性を加重して来たのである、試みに康徳五年六月末現在の工業別投資額(工事中を含む)を挙げると次の如く機械工業の一千五百余万円、金属工業一千万円の両者が総投資額四千六百万円の五割強を占め其他満洲住友金属工業(資本金一千万円)の着工、満洲機器、日満鋼材の拡張工事を加えれば前述の如く実際投資額は七千万円を突破する躍進振りを示している(単位千円)

[図表あり 省略]

然らばこれら鉄西進出工場の資本系統は如何、満洲の産業開発が日本資本依存にある以上鉄西工業も決してその例外ではあり得ない、凡ゆる企業に対し地場の蓄積資本を有しない満洲であるから大規模の工場建設経営の不可能なことは言を俟たぬところである、従って窯業、雑工業の一部に地場中小資本の参加ある以外九十%は内地大資本の背景を有し然らざるものと雖も中小内地資本家に結びついているのである、言い換えれば鉄西は大阪資本の満洲別働隊であり、その経営方針にも大阪企業家の俊敏性は窺わしめるものあることは否定出来ぬ、かくの如く内地資本によって着々と築き上げられて行く鉄西工業区にも幾多の悩みがある、満鉄産業五ケ年計画、支那事変勃発に伴う生産拡充方策とにらみ合わせて各自の企業を整備しようにも日本内地の資金統制、為替管理で計画に頓挫を来すもの、更に資材難の逼迫はその内地依存性の強弱の如何に拘らず事業計画に齟齬を来たさしめている、尤も独り鉄西工業家のみの問題ではなく東亜協同体の長期建設並に国防国家完成に動員されている、日満企業家が相携えて解決しなければならぬ問題である、この他鉄西工業家当面の問題としては技術者並びに一般労働力不足問題、製造原料の自給或は最近特に重大視されている石炭の配給問題、鉄道輸送不円滑問題等が挙げられるこれらの諸問題は論ずるまでもなく一つ一つ独立した現象ではない、悉く支那事変並びに長期建設という大目的達成過程に於て派生的に起った現象でそれぞれ関聯せる問題である、尤もこれら諸懸案は最善の方法に依って解決されねばならぬ性質のものである、只鉄西工業家に直接利害関係を有するからといってヒステリカルに問題を取上げるようなことはいささかでもあるべからざることで、殊に各種企業が自由主義的営利本位の経営形態から全体主義的に一元的に国家統制の高度化することが必然であるとすればこの新たなる時代に即応する一段の認識が鉄西工業家に期待される訳である

鉄西工業区は現在並びに将来に於て三つの重要観点からその充実が期せられなければならぬ、即ち第一は云う迄もなく国防産業並びに産業五ケ年計画完成を目指すところの資材生産拡充、第二は国内消費物資の現地調弁確立、第三は対北支の商品輸出方策確立、鉄西工業区は生誕未だ四年に満たぬのである、而も今日の隆盛を見るに至った、この勢いを以てするときこれらの要望は凡ゆる困難を克服しつつ実現することは疑いを容れない、以下各工業別に躍進工業区の経営姿態に触れて見よう
(写真は鉄西の入口南五路通り)

鉄西の草分け 資本一躍四千万円へ 土建材料、満人生活用品を製造 金属工業の巻 C

中山鋼業所

鉄西草分け工場として日本ペイントと併称される中山鋼業所は日本鉄鉱界一方の重鎮、中山製鋼所(資本金四千万円)中山悦治氏の個人経営として発足したことは余りにも有名である、即ち満洲事変後の建設事業発展に着目した中山氏は昭和八年秋より鉄西ケ原の真只中に資本金七十万円を投じ先ず亜鉛鍍平浪板製造工場を建設、翌九年五月には製造開始して当時澎湃として擡頭した土建景気の波に打乗って日を夜に継いでの生産に追われたものである、か□て満洲における平浪板製造により事業の第一柱を植え付けた中山氏は昭和十年二月琺瑯鉄器、同四月鉄丸釘、十一年一月リベット・ボールト、十二年三月亜鉛引線、同五月丸角鋼と矢継早に生産品目の拡張を行い、一方昭和十二年十二月には満洲国会社法に基き資本金百万円全額払込みの株式会社中山鋼業所を設立登記して事業の面目を整え、これと前後して設立した上海、天津、青島各傍系工場と相俟って満支一帯に亘る鉄製品の製造販売組織を強化した、而もこれら製造原料たる鋼材は創業当初より中山製鋼所直接配給を以てしたのであるから同所の経営内容は異例の充実を示したことは勿論で、殊に琺瑯鉄器工業のごときは日本に於ても極く近年漸く進歩の緒についたものであり、満洲における需要は満人の生活に不可欠の家庭用具として各階層と結びついてあるだけに昭和八、九年ごろにおいても年額百万円を下らず、その九割以上は日本よりの輸入に仰いでいたものだが、年々累増するこの種製品を当時関税制度の不備により原料輸入困難なる条件を押切って製造を開始したことは注目に値する、即ち生産品目として挙げられるものは洗面器、深鉢、花瓶、鍋類、皿、コップ等

以上のように土建材料或は満人生活用品と云った一般民衆と直接関聯せる商品製造により販路の確保に着目したことは確かに中山氏の卓見であったのだが、世は準戦時経済から支那事変の勃発と共に完全なる戦時経済体制に飛躍し軍需重要資材鉄鋼類は消費、配給の統制が実施され満洲における鉄鋼は昭和十三年四月以来日満商事を通じて一元的配給を受けることとなり、従来同鋼業所が原料入手難を何処吹く風と親会社からの当てがい扶持もばったりと中断を余儀なくされ、而も日満商事からの鉄板配給制度で些かの融通もなくそこは民需産業の悲しさで現在は亜鉛鍍金平浪板の作業を中止し琺瑯鉄器亦二割操業にまで減産する状態となり、時局に即応する軍需工業転業策が考慮されるに至ったことは寔に当然のことである、統制経済の線に沿い而も時局産業へと動員される運命に置かれているこの種鉄工業にとっては或る意味では一種の苦闘時代であり、経営に曲折を予想せしめるものあることも亦当然であるが、そこには中山製鋼と云うとにもかくにも日本重工業界に□然たる地盤を有する親会社をバックとしているだけに“大人この時尠くも騒がず”じりじりとその陣容を整え新時代の経営経済に備えんとしているところは壮と云わねばならぬ
中山鋼業所操業当初よりの林支配人は鉄西工業区変遷、発展振りについて感慨深そうに語ったものだ
鉄西も瞬く間にすっかり変って了いましたね、僅か五年前ですよ、満洲烏が、ガアガア羽ばたきし、附近に匪賊が出没していた野ッ原が現在はどうです、大小数百本の煙突から吹き出している煙、幾械のうなりは全く壮観です、あの当時では私のところの工場も堂々たる大工場でしたが今日では有力大工場が簇々として進出して来て草分け工場も顔色無しですよ、併し鉄西が斯く盛大をきわめるに至ったことは勿論時代の力ではあるが、古くからの鉄西在住工場が所謂鉄西発展策に協力一致努力して来た結果にもよることを見逃がす訳に行きませんよ、これは決して自分に関聯して云っているのではない、例えば鉄西諸施設鉄道引込線問題、土地料金問題、電力料金問題、或は職工住宅問題等直接鉄西工業区発展に関係する諸案件について満洲工業会乃至鉄西工業会が土地会社当事者又は政府当局と幾十回となく折衝を重ね、その改善を期して来た事実は鉄西発展史の側面を飾る大いなる功績ですよ、もう今日となれば鉄西は基礎が固まったようで各種企業がそれぞれ有機的に作業を進行せしめることが出来、防諜問題、或は労働問題、施設問題等に関しては各自密接なる連絡協調の下に解決善処して大工業区の実現を期するならば満洲五ケ年計画は勿論、新東亜の長期建設に資するところ大なるものがあります

二枚目的役割荷う住友財閥の進出 英断に世人は刮目 金属工業の巻 D

満洲住友金属工業

正確には満洲住友金属工業株式会社奉天工場、或は単に製鋼所と称すべきで、鉄西の仮看板は満洲住友金属工業株式会社製鋼所として掲げられている、即ち同工場は鞍山に本社を有する満洲住友金属工業所属の一部である製鋼所を鉄西に移転建設した云わば第二工場である、従って鞍山工管は専ら鋼管製造所として機能を発揮、これに対し奉天工場は車輛部品製造に当ることとなっている、先ず奉天工場について語る前に満洲住友金属工業の沿革を説明するならば同社は康徳元年(昭和九年)九月、日本重工業界に優秀なる技術と溌剌たる躍進性を有する住友金属工業株式会社(資本金一億円)の大陸進出を目指すパイオニアとして設立、昭和製鋼所の銑鋼一貫作業の基礎確立と併行して満洲における鋼管製作に乗出したものである従って最初は満洲住友鋼管株式会社として登記され資本金は一千万円(四百六十万円払込み)であったものがその後製鋼所の設置その他拡張計画実施に伴い全額払込みとし、康徳五年一月には商号を今日の如く変更、昭和製鋼所を取巻く鞍山工業ブロックの重要構成メンバーとして今後の活躍を期待されていることは周知のことである

住友財閥にとって戦時経済下に於ける重工業部門の使命は最も重大評価されるべき情勢に置かれて居り、そのことは啻に日本軍需工業生産力拡充の国策線に沿うのみでなく社業達成の上からも当然と謂わねばならぬ、かかる事情からしても住友の満洲進出は只鋼管製作を以て甘じていたものではなくゆくゆくは満洲重工業界を牛耳る一方の覇者たる逞ましい意欲と計画を蔵していたと見る事は近年に於る住友財閥重工業部門の活躍を知る者の斉しく予想し得たことであろう、製鋼工場の設置もその現れの一部であった、とは云え昭和八、九年頃の満洲経済産業界の主動的空気からすれば財閥資本の満洲進出は大なる英断でその果敢さには世人は驚異の眼を瞠ったものでこの点財閥臭を極力避けることに努力して来た住友の進歩的見解のなし得たものと見られる
この住友資本の先鞭的満洲移植も日産の移駐によって舞台効果を一変せしめると共に芸達者な二枚目的役割が課せられることとなった即ち満洲産業五ケ年計画の樹立、満洲重工業の創立、支那事変の勃発と慌ただしき時代のテンポに伴い住友の与えられるポジションは形成されて行った、奉天工場の建築が即ちその顕れの一つではないだろうか、これは住友をして謂わしむれば予定の計画であったかも知れぬ、只支那事変と云う事実がその計画促進に拍車をかけたことは否定出来ないのである

とまれ鉄西の製鋼所は満洲住友金属工業の第二工場とは云い乍ら現在のところその工場の規模に於て鉄西最大にして而も鞍山本社工場を凌駕し事業主体の奉天移転と云うも過言ではない、尤も満洲鉄道経営の衝に当る満鉄の事業主体が鉄道総局に集中されている今日、鉄道車輛部分品メーカーが奉天に移ることは当然のことでもあり、殊に満鉄鉄道工場、弥生会の満洲車輛会社、或は満洲工廠等車輛工場が満洲、北支の車輛需要増大に呼応して生産拡充設備を整えている今日、部分品の現地製作に同社の主力が注がれるに至ったことは不思議では無い、奉天工場は康徳五年四月鉄西工業区皇姑屯寄りに十万坪の敷地を擁して着工本年三月中には第一期工事完成、操業開始の予定であったが資材供給難、輸送不円滑が原因して予定より二ケ月遅延しこのほど工事外廓を竣工、目下機械据付け中で火入は四月末乃至五月と見られている
生産品目は車輛部分たる機関車用エンジン、フレーム、シリンダー、客貨車用サイドフレーム、トラックフレーム等□鋼品外輪、輪心、動輪心等□延鋼品車軸等鍛鋼品のほか自動連結機各種部分品で住友が内外に誇る特殊の製作技術を満洲に於て遺憾無く発揮せんとするものでその鋼材は全部昭和製鋼の供給に俟つと云う、蓋し純満洲国産車輛が満支の鉄道を疾駆する日も遠いことでは無い、同工場の建設費予算は計画樹立当初八百万円であったものが資材高の結果予想より五百万円を増嵩し完成までには一千三百万円を要し、更に解氷と同時に着工する倍額増産の第二期建設費として約一千万円が準備されなければならぬが、これが資金策としては日本、満洲両地銀行よりの借入金を以て充当し、当分増資は行わぬ方針である

また右製鋼所の増産工事と併行して住友経営の新居浜(四国)にある住友機械製作会社奉天工場建設工事が工費三百五十万円を以て同構内に既に開始され、八月完成の予定であるが、この方は鉱山用諸機械の製作に当てるはずで名称を機械製作所として満洲金属工業に所属せしめる計画であるから完成の暁は鋼管、車輛部分品、機械の三部製作を実現することとなるばかりでは無い、現在鉄西工場にして住友資本の参加しているもの満洲電線を筆頭に十指を数える事実に想到するならば満業の登場によって鮎川の動向がクローズアップされている今日、二枚目的役割を受けている住友財閥が否満洲住友金属の取締役会長兼専務取締役、即ち住友重工業部門を背負って立つ古田俊之助及び住友系幹部が積極的生産力拡充時代の満洲に於いて何をなさんとし、如何なる境地を開拓せんとしているか蓋し満洲財界関心事の一つであらねばならない

部分品工場の発展 不可欠の存在 内地工場の移転も考慮 金属工業の巻 E


日満鋼材

創業当初の主要生産品目から見て便宜上金属工業部門に入れることとしたが、同社の現況よりすれば寧ろ機械工業の巻に繰入れるべきであろう、日満鋼材も鉄西草分工場の一つとして創業以来順調の一途を辿り、殊に時局の推移に歩調を合せ、その与えられた工場の時局的使命達成に内容、外観を整備している点は草分組の異彩と云うことが出来る、同社は川崎東洋鋼材株式会社(三井系)の逸早き満洲進出計画に当り大連所在の福昌鉄工所を継承、福昌公司と共同出資の下に資本金百万円を以て昭和九年四月創立したもので、当時の土建工事旺盛時代に併行して所謂日満式鋼製建具の製造を中心に鉄骨工事、コンベヤー、ラインシャフト、コンクリートミキサー、車輛部分品、汽缶類製作に当って来た、鉄西草分け工場中現地資本の参加せるものと謂えば差当り日満鋼材位のものである、而も同社は昭和八、九年から十年にかけての第一次建設景気とタイアップするごとく各工場建設用はじめ最新建築用のスチールサッシュを一手に引受け日満鋼材の名を高からしめたことは有名なもので、創業第一年度を除いては好調の波に乗り社業の基礎全く成ったのである、殊に支那事変後におけるこの種工場の業績は悪かろう筈は無く尤も一般建築用鋼製建具は鉄鋼統制法の掣肘を受け需要に応ずるだけの生産不可能に陥っているとは雖も一方産業五ケ年計画に関聯する所要建設資材その他の生産は全工場能力を挙げても尚お足らぬ繁忙に追われて居り、これがため明けて一昨年には工場の拡張を行い昨十三年六月には資本金を倍額二百万円(百五十万円払込)とし、更に今後の増産計画実施に備え未払込徴収に続く倍額或は一千万円の増資は必至と見られ過般来日塔常務が右増資案を携え内地に出張中である
日満鋼材の増産計画として立案中のものは鉄西第二期拡張地域内二万五千余平方米の地に鋳鋼製品工場の建設である、即ち車輛部分品工場の拡張分離と云うことであるが、この方は日満鋼材の第二工場とするか新たに独立会社を設立するか今のところ確定していない、又会社新設の場合、現日満鋼材株主以外の資本参加あるや否やも明かでは無い。只鋼製建具製造工場から重要機械工業に飛躍せんとしている胎動を伝えるに止める

大信伸銅鋳鉄

在満機械金物商の雄、大信洋行の現地製造工場として設立されたのが株式会社大信伸銅鋳鉄工場(資本金百万円全額払込)である、この工場の特色とする点は満洲産屑金物の再生、処理ということで世は戦時経済体制に入り、鉄鋼はじめ金属一般が国防資材として最重要視され、これが消費統制と相俟って屑金物の回収利用は刻下の急務となっておりこの事業の価値は関係者の誰もが考え及んでいたところであるが、これを実際に企業化したところに大信洋行石田栄造氏の英断があるとしなければならぬ、従って進和商会が曩に大連甘井子に又其後鞍山に建設した釘鋲工場の向うを張って工場を作り上げたなんてケチな考えではあるまいことは筆者ならずとも首肯するところであろう
同工場の事業目的は回収屑鉄を再生しての風呂釜、ストーブ、七輪、蒸発釜製造或は屑銅、真鍮、ニューム製品の再生にあるが、現在は前者のみ操業し、鋼真鍮、ニューム類は目下機械据付け中とある、これら鉄鋳物の原料屑鉄は従来必要に応じて入手し、見越ストックも出来たが昨年末鉄鋼類の全面的配給統制強化に呼応して日満商事を中心に屑鉄配給統制組合が設立され所要の屑鉄配給も不可能となったが、同工場の強みはいささかも減殺されず、加うるに近く操業の伸銅工場完成は工場特色を発揮することとなるべくまたアルミニューム製品工場としては別個に資本金五十万円の新会社を設立し、解氷期と同時に着工すると云うから鉄西部分工場の充実に重要役割を演ずることとなろう

其他工場

満洲の工業生産力を綜合的に発展充実せしめるために最も必要なことは中小下請工場乃至部分品工場の培養ということである、殊に今日の如く日本及び諸外国よりの資材入手難、輸送不円滑等のため或種の部分品補給困難で重要建設機材の早急使用に一大支障を来す状態に鑑みる時各種部分品工場の新設助成は当局の急務である、これら部分品工場の建設地として最適なのは謂うまでも無く鉄西である、既に金属工業に属すべき操業中の部分品工場としては正岡製鋼(十万円)奉天製鋼所(十五万円)奉天金属工業(二十一万円)満州金属工業(百万円)満洲増島製作所(二十万円)その他小資本による工場十指に余り或は日本内地の休部業分品工場の移転も考慮されているから大工場に結びつく之等下請工場は鉄西工業区に重要な存在となるであろう

時流に乗る“日立” 因縁付きの旧日産系 鉄西の相貌も変革 機械工業の巻 A

満洲日立製作所

 日産の満洲移駐即ち満洲重工業社の創設と相前後して産業部に事業認可申請したのが康徳四年秋である、満業は満洲において昭和製鋼はじめ十余の重工業部門に属する特殊会社を傘下に収め一元的計画経営を確立せんとしているがその悉くが満鉄よりの譲渡会社であって程度の差こそあれ経営方針、スタッフに満鉄イデオロギーが浸透しているのは否み難い、これらの中に在って満洲日立製作所のみが所謂旧日産直系の事業会社として満洲に進出して来たのであるから鮎川氏としてもこの会社の設立並びに将来に対しては特別の関心を持たざるを得まいと云うものだ殊にその製造品目に掲げられている可鍛鋳鉄、一名黒心鋳鉄は鮎川氏がアメリカに渡って多年苦心研究して仕入れて来た独特の技術を以て戸畑鋳物の基礎を築き上げたと云う因縁付きのものであって見れば事業の大小に拘らず私情の抑え難きものありと察せられるのである

今や満洲国は満業の創設を契機として製鉄、石炭、金属、機械製作等重工業部門各般に亘って一大飛躍を遂げんとしているとは言を俟たぬところである、昭和製鋼所の第四次増産計画、東辺道開発会社の設立等鉄鉱資源の積極的計画推進は弥が上にも国内重工業部門に活力を与え東亜新秩序の建設、満洲国産業開発に対する自律性の要請は現地産業の振興、確立を促進せしめられつつありと見ることが出来る、これら新情勢に即応して内地企業家の鉄西に工場を建設せんとする機運の醸成されつつあることは既に述べた通りである、現在鉄西における機械工業の操業中のもの十四、工事進行中のもの七、今春着工のもの十四合計三十五工場に達し、その投資額も既設のもののみにても三千万円を突破し計画中の工場を加えると優に五駕円工業区西凌万を重の心はこの機械工業部門に在ると云うも敢て過言ではなく実に鉄西の相貌を変革せしめるに至っ鉄た所以である

さて満洲日立製作所は旧日産直系の子会社日立製作所(資本金一億一千七百九十万円全額払込)の分身として資本金五百万円(半額払込)を以て康徳五年四月鉄西二十六路に着工、既に外廓成り二月下旬までには操業開始の予定を以て機械据付を急いでいる
営業科目は電気機械器具並びに一般機械器具及び各種鋳物の製造となって居り、従業日立製作所が受注製作していた鉱山用機械、車輛部分品の現地調達に応ぜんとするところにあることは勿論であるが特に可鍛鋳鉄、鋳鋼品は現在日本の製造力を以てしては海外供給不可能に等しく、それだけに満洲日立の満洲意義が加重されると云うものだ、而もこの可鍛鋳鉄は日本に於ても独特の製法が秘められて居り絶対に他の追随を許さぬと豪語するものだけに満洲の機械工業界にとっては大なる強味を加えたものと謂わねばなるまい

同社では今春解氷期を待って直ちに倍額増産工事に着手することに決定して居り、近く第二回残額払込徴収を行う模様であるが、各種資材高の今日事業資金の不足は当然予想されるところでありそこは親会社日立と更に満業のバックがあるだけに必要に応じドンドン借入金を以て所期の増産計画を実施産業五ケ年計画遂行に支障を来たさしめぬよう万遺憾無きを期する筈である
同工場の特色として附記するならば工場建物が鉄西第一の長大建物であると云うことである即ち縦二百四十五米、横四十五米の長方形建物で原料から製品となるまで一棟の中で漸進的に作業する能率的なものであり、増産工事完成後はこれと同様建物が二棟となる訳である

名に相応わしい 日満人が共同出資満洲協和工業 自転車部分品製作・組立業
機械工業の巻 B


満洲協和工業

同社は康徳四年四月、自転車部分品製作並びに組立工業を経営するを目的として政府の許可を受けた、設立発起人は嘗て亜細亜麦酒会社設立に与って力のあった吉崎民之輔氏である、満洲国における平時産業としての自転車製造組立工業の将来は満洲国の自転車需給状況、北支市場の発展性を考える時寔に洋々たるものがある況んや日本輸出工業として躍進途上にある日本の製作技術を取入れるに於てをやである、そこで吉崎発起人は満人出資者に説いて廻り、該工業の有望性に対する認識を求め、兎に角資本金五十万円の会社設立にまで漕ぎつけた、従って同社の出資者顔触には満洲国大官連の名も多数見えるのである、新設民間社への満人出資の比較的稀な今日兎に角こうした機械工業へ多数満人の出資者を集め得たことだけでもこの会社の特色とするに足るのである
同社は設立許可条項によるとケ年生産能力自転車組立五万台を限度とすることになっているが其他リヤカー、オートバイ、サイドカー、精密機械一般機械器具並びに部分品の製造、販売、加工、組立修理を行うを事業目的としている関係上、平和工業からの飛躍性を条件づけられていることは当然であり、又従ってかかる意味においての工場生産能力拡充を余儀なくされ、康徳五年重要産業統制法の適用を受けると共に工場の存立意義を自ら闡明したのである

即ち同社は康徳五年四月操業開始以来の事業の伸展性に即応して資本金五十万円から一躍五百万円に増資すべく予て準備を進めていたが、旧株主並びに新規出資者の賛成、援助を得たので旧臘十二月二日臨時総会を開催の結果、五百万円(半額払込)に増資決定、これに伴う重役一部変更し前大阪商工会議所理事商学博士武田鼎一氏を副社長に据え、会社の対外信用を昂めると同時に経営力の充実並びに今後の飛躍に備えたのである、現在重役陣を挙げると社長王広恩、副社長武田鼎一、専務取締役吉崎民之輔、常務取締役総務部長河村健之助、取締役工場長木村賀七、同研究所長浅尾栄といった顔触である
これら重役陣もさることながら同社の将来を強化づけるものは内地資本主として大阪系資本家の参加ということである、今回の増資もこれら資本の参加によって実現し得たので同社がこれに引続き年内には三千万円に増資計画を進めているのもこの種企業に対する内地資本家の裏付けがあるからこそであろう

右増資と相併行する工場拡張計画として現に進捗中のものは工場隣接八千二百坪の購入、本格的増産工事に充当すべき第二期工業区拡張地域内六万坪の土地申込みがある、これらは孰れも年内着工を要請されているというから、協和工業の驀進振りには只驚異の眼を瞠るだけである、これ亦時局が幸いした花形工場といわねばなるまい、更に同社は独自の販売機関として子会社協和産業株式会社(資本金百万円四分の一払込)を設立し親会社協和工業の製品一切の販売を行うは勿論、各種機器、材料の取次販売から国内鉱産物の売買をも営業品目に列記しているそれのみではない、将来は鉄西工場製品の委託販売も引受けると云うから会社設立の計画趣旨が那辺にあるかを察し得よう、而して同社が親会社に付随してどこまで羽翼を伸し得るか、蓋し鉄西工場街注目の的たるものがある

立遅れた三井系 組立工場奉天製作所 客観情勢を窮めて進出 機械工業の巻 C

奉天製作所

鉄西機械工業部門における進出工場について多少でも注意して観察するならばそこには日本有力財閥をバックとした新鋭会社が顔を揃えていることに気付くであろう、即ち既に本欄に紹介した満洲住友金属がいうまでもなく住友資本による経営であり、又満洲日立が旧日産いい換えれば久原資本に彩られているのである、又茲に検討せんとする奉天製作所もその資本系統から見て三井に属し満洲機器が三菱資本であることは更めて説明するまでも無いところである、尤もこれをその進出順序からするならば満洲機器が先陣を承って居り、康徳二年(昭和十年)十一月二日設立、これに次いで奉天製作所は康徳四年十月二日、満洲日立は翌五年三月十一日にそれぞれ設立、満洲住友金属は事実上の鞍山本社設立は曩にも述べた如く昭和九年九月であるが鉄西工場建設着工は康徳五年四月となっている、以上の如く日本の代表的財閥による工場が轡を並べて日本機械製作技術の粋を発揮せんとしていることは真に壮観と云わねばならぬ

 奉天製作所は康徳四年十月の設立にかかる、株式会社芝浦製作所(資本金三千万円)並びに東京石川島造船所(資本金一千六百万円)の共同出資による資本金二百万円半額払込を以て設立された、当時鉄西における機械製作工場といえば三菱系の満洲機器あるのみでそれも単なる組立工場に過ぎなかった、而もこの三菱資本による満機設立に対し三井系の工場が進出して来ないのは一般世人をして奇異と物足らなさを感じさせたものである、尤も当時の客観的情勢を識る財界通間には満洲においては財閥資本殊に三井資本は歓迎されないのだと穿った説をなすものもあったが、必ずしも一理無しとしない
併し単にそれだけの理由で三井資本が満洲における企業に逡巡していたと断定することは出来ない、満洲産業五ケ年計画の樹立、これに伴う資金問題解決の活溌化、特殊会社の新設、各種機材需要の激増と漸次奉天製作所設立の外部条件が備わるに及んだものというべきである。その進出振りを見ると名将の布置の如く時機を把握することの巧妙にしてその戦闘力の卓越していること募兵よく大軍を席巻するの概がある、即ち同社は当初の資本金こそ二百万円と微々たるものであるが出資会社の芝浦製作所は明治三十七年石川島は明治二十二年の創立にかかり前者は大株主に三井を戴き、日本電気機械製作所に於て自他共に許す最高峰、後者はその造船、造機界に古き歴史と共に卓越せる特殊技術を誇って居り、孰れも軍需工業の波に乗って芝浦は昭和十三年上期より二分増配の一割石川島は昭和九年来八分配当を続け、やがて両者とも大増産計画が進められているのである、この両者が在来の技術的提携から一歩を進めて共同出資による満洲進出を断行したことは決して故無しとしないのである

 同社は康徳五年四月着工、続いて未払込みを徴収二百万円全額払込みとして全資金を工場建設に投じた、最初は地道に試験製作程度に止める計画であったものを支那事変勃発に伴う客観情勢の進展と資材高等のため予定計画を途中変更するに至ったものである従って第一期工事としては橋梁製缶工場、機械電気、鉄板、絶縁各工場、倉庫、動力室、事務所等総延二千坪を建設し愈々来る四月操業の運びであるが近く解氷期と共に第二期工事を開始し機械、電気工場の増産計画を実施し、芝浦独特の強電流用発電機、電動機、変圧器、各種原動機、或は起重機、鋼鋳構造物からは満洲産金事業遂行上必要なる採金船の製造に乗□□□筈である
一方同所の製作運営を円滑ならしむるため曩に撫順の稲葉製作所と提携投資してこれを五十万円の株式会社に改め鋳鉄、鋳鋼の供給に関する専属工場たらしめた、これら事業資金としては一部借入をなすほか年内には五百万円乃至六百万円に増資計画もあり同社の本格的操業開始は寔に注目に値するものがある

先鞭つけた“三菱系” 有力工場満洲機器 鉄西にユニークな存在 機械工業の巻 D

満洲機器

この部門における有力工場として特記さるべきは満洲機器株式会社である、同社は前述の如く三菱資本による傍系会社の一つにして鉄西機械工業部門を□□□く開拓したのである、即ち康徳二年十月会社設立と同時に現鉄西工業区二十一路の敷地十六万八千平方米を擁して工場を建設、翌年夏より操業を開始した、尤も当初は機械の修理、組立を主要作業としたため工場完成も予想より早かった訳で、当時の工業区の位置からすれば末端に位し尨大なる敷地に僅かに点在する修理、組立工場を見た世人は満機の将来の計画に大いに嘱望するところあると同時に機械工業は大資本によって初めて企図し得る事実を知ったのである、この意味において蓋し満機の工場建設は注目に値するものがあった

同社の資本金は設立当初三百万円半額払込でその資本的背景は三菱である、これを株主別に見るならば三菱重工業(資本金一億二千万円□九十万円払込)三菱社、三菱電機(資本金三千万円、二千六百二十五万円払込)三菱商事、東京鋼材(資本金五百万円全額)で、これを要するに三菱の資本と三菱重工業部門の技術とが満機をバックしていると云うべく、この点同社経営の力強き推進力となっていると謂うものだ
三菱重工業が日本軍需工業の第一線に立って船舶、車輛、諸機械の消化に軍需、民需大童となり三菱傍系会社を指揮している事実、これに相呼応する株主の意気込みを創造するならば満機の満洲進出意義も自ら明かとなり其事業の計画性に感服する外は無い、云うまでも無く機械工業はその波動の大なるを以て特色としている、従って目先の利潤を追求する小資本の能く企て得るものではない、同社は操業初年度の康徳三年期末八万四千円、康徳四年期末十一万六千円と赤字決算を続けた、これは既に当初より予定したところでありものの数ではなく着々と所期の事業計画が進捗した

即ち満機は康徳四年支那事変勃発と相前後して組立、修理工場から製造工場への一大飛躍準備を整え工場増設に着手、康徳五年二月には資本金を一千万円に増資しこれが第一、二回払込み徴収を昨年内に行い現在六百五十万円払込みとなったが、これら資金は全部工場拡張に投ぜられ、更に近く第三回払込徴収を行う予定とあるから当然これに引続く増資は必至であろうかくて現在同社の製造品目と挙げるものは汽機、汽缶、内燃機、発電機、原動機、高圧機、鉱山用諸機械、発条その他車輛部分品等で特に発条製作は満洲唯一工場であるだけに同社が最も力を注ぐところであり、これが増産計画は原料手当の解決とともに緊要事とされている。

如上満機は今や製造工場として面目を一新し時局線に即応するこの種工業の受注も加速的に増大しこのところ増資増産一途を驀進し、前記親会社に一歩も遅れまじと歩調を合せている観がある、併し飜って満機の操業経過を見、その客観的将来の見通しを判断する限り、これらの拡充計画は寧ろ堅実に過ぎる傾き無しとせず、満洲機械工業界に重要ポストを握る満機としては親会社の満洲向受注を一手に消化するだけの一大飛躍が期待されねばならない(写真は満洲機器)

鎬を削るもの三社 電機製作工場 精密工業の質的発展 機械工業の巻 E

満洲通信機

以上金属、機械両工業部門における十数会社の“花形”工場を概観して感じたことは鉄西の持つ躍進力と工場内容の整備充実並びにその多様性ということである、これを資本的に見ても内地一流会社の工場見本市の感を呈し、極めて計□的な大陸への触手を感ぜしめ、これらの実力ある諸工場は直接、ると同時に日本に於ける電機製作技術並びに企業の満洲移植と粗工業乃至基礎工業満洲国から製作乃至精密工業満洲国への質的発展の実相を見るが故に特記に値するものと考える、即ち一つは満洲通信機株式会社、他は株式会社富士電機工廠及び満洲東京電気株式会社
間接に国防力の充実と満洲国産業開発のため寄与する日本資本を代弁しているものにほからなぬ
次に紹介せんとする三社は鉄西に於ける弱電流機器製作工場として共通作業面を有し、而もそれそれ異なりたる資本系統に属している点に比較検討する価値を有すである
満洲通信機は資本金三百万円(二百万円払込)住友系日本電気(三千万円)の子会社である、日本電気は通信機製作販売はその古き経験と広範囲の市場を有する点において海外のこの種会社と覇を争うものとされている、従って満洲においてもその販売は既に三十余年の歴史を有し、明治四十三年大連出張所開設をはじめ奉天、新京、哈爾浜各営業所を設置、国産通信機の声価をひろめていたことからすれば満洲建国後の経済開発に即応する現地製作に乗出したことは極めて当然と謂わねばならぬ
同社は康徳三年(昭和十一年)十二月資本金百万円を以って設立したが、当初の計画変更に伴い康徳四年五月三百万円(二百万円払込)に増資を断行翌五年二月第一期工事完成、直に操業開始と共に日本電気大連支店の全満営業権を継承し、製作、販売を一元化し、矢継早やに倍額増産工事に着手、現在は九分通り機械据付けを了し各種電話機、交換機、放送及び無線機、搬送式通信装置、通信用中継装置、送受用真空管、測定器、電気計器、蓄電器、乾電池其他電気関係精密機器の本格的製作を開始している、かくの如き増産計画実施に要する資金策としては未払込徴収に続く増資が考慮されているが何分にも前期までの繰越損金十五万四千円を出している手前株主に対する無遠慮な増資も出来ぬとも見られるが今日の場合寧ろ資金の問題より資材に対する経営当事者の悩みは大と謂うべくこの難局を克服しつつ各種受注を消化して行くかが当面の問題である

富士電機工廠

最初鉄西工業区設定当時の方針としては同工業区内に製造内容を同じうする工場は設立を許可せざるものと見られていたが今日の如く各種工業生産力拡充時代には適用さるべくも無い、殊にかかる工業部門においては製作上の特殊技能が生産品の価値を決定するのであるから満洲通信機に次いで富士電機が鉄西に進出して来たのは何んの不思議も無い、而も株式会社富士電機工廠は日本の親会社富士電機、富士通信機の共同出資にかかっているところに同廠の特色があると謂うものである、即ち前者の交流機、直流機、変圧器、配電盤等一般電気機器、後者の電話信号、通信、表示、電視各種装置の製作に当らんとするものでその大口需要筋は満鉄、満洲国、電々、電業等であることは謂うまでもない
同社は康徳四年九月資本金百万円を以て設立、翌五年春工場を完成しこれと同じに五月一日を期し満洲における富士電機、富士通信機両社関係の営業を継承し、両会社並びにドイツシーメンスの満洲総代理店を奉天本社に設置して自家生産品とともに販売権を統合した、かくてここも亦需要激増に対する増産計画が準備されておりこれに伴う増資も亦当然観測されるところである
いずれにしても親会社富士電機は大正十二年の設立で歴史古からずと雖も大株主が古河電工、シーメンス、シュッケットといった顔触れであるだけに日独防共盟国の資本、技術の綜合力を発揮し得べく子会社たる鉄西工場の新興満洲国における意義は深いものがある

車輛部分品製作発展の諸条件具備の“鉄西” 満洲車輛の誕生は当然 機械工業の巻 F

満洲車輛

金属、機械両工業部門における鉄西“花形”工場十数会社を一巡して結論づけられることはこれらの工場が何れも満洲産業五ケ年計画遂行と密接なる聯関を有すると云うことである、而も二、三草分け工場を除けば悉く五ケ年計画推進の要請に基き工場建設を進めているのである、またその他の工場と雖もかくの如き方面に工場経営の基準を整え、編成替えの途上にあることは説明するまでも無い修正五年計画は資金並に資材難を克服して既に第二年度に入り鉄西工業区の建設相にはこの五ケ年計画修正案に織込まれている時局的諸材料が極めて端的に滲み出ている、殊に産業開発の大動脈とも云うべき鉄道建設は現下満洲国の最大急務として北はソ満国境線、西は北支鉄道の統合により支那大陸に至るまで新線建設譜が奏でられ、これに伴う車輛需要の嘗て無き増加を呈したことは茲に喋々するまでも無い事実である
満洲国内の現地車輛製作工場設立計画案が支那事変を楔機として急速に進展したのも当然と謂わねばならず、この計画案の具体化或は情勢の見通しは併行的乃至前後して車輛部分品工場の新設を促がした、鉄西が機械工業、特に車輛部分品工場発展の諸条件を具備していたことは満洲国鉄道の総元締鉄道総局が奉天に所在し、更に皇姑屯び鉄道工場、東工業区の満洲工廠等車輛組立、修理工場の存在することより見ても明かであり、次に語らんとする満洲車輛会社が奉天に工場建設決定したのも実に当然と謂わねばなるまい

満洲車輛株式会社は当初資本金五百万円(半額払込み)を以て康徳五年五月設立された、同社設立計画は既に康徳四年夏樹立され、弥生会系車輛会社と満鉄当局との折衝が着々進められていたのであるが、唯出資者問題と工場建設地の問題で幾分設立時期が遅れた観を呈した、最初建設予定としては大連或は鞍山説も世上に伝えられたものであって最後の奉天皇姑屯と決定した時は誰しもそのことの当然に驚きはしなかった、今筆者は満洲車輛会社を鉄西工業区の花形工場として取上げるに当り何等の不自然を感じないのは皇姑屯が該工業区と奉山線一本を隔てた隣接地であるからと云うばかりではない、曩に紹介した各種機械工業の充実を素地として車輛製作の一貫作業実現を目指す満洲車輛と鉄西工業区との血の繋がりを承知の上である
満洲車輛は支那事変の進展、配車不円滑、鉄道輸送力の減退、長期建設計画の強力推進と時局愈々多難の渦中、康徳五年四月一日を期し皇姑屯満鉄々道工場北寄り約十万坪の地を擁して建設の第一杭を打ち下し、爾来十ケ月鉄、セメント、煉瓦、その他建設資材はじめ労働力の極度の入手難を克服しつつ既に機関車工場、鍛冶工場、鋳物工場、客貨車組立工場、事務所、倉庫その他棟数二十八、総延坪一万二千坪の工場並びに隣接地の社宅九十二戸の建造物を完成し、事務所は昨年十二月一日大倉ビルより移転、業務開始を待っている更に今日まで買付の主要機械について見ると工作機械四百台、クレーン十七台、原動機百台で目下これが据付工事進行中で既に運転開始し得る台数百台に及び、二月早々操業開始して鋳物、鍛冶、旋盤の一斉作業進行を俟って貨車鉄骨製作に着手し、鋳物工場、鋳銅設備三月完成後は全面的操業を開始する運びである、現在までの総工費を概算すると建築費二百万円、機械購入費六百万円計八百万円であるがかかる大規模の製作工場が資材入手難の今日、僅か十ケ月余の短日月を以て完成を見た例は日本は勿論、外国にも余り例は無いとされ専門家も驚嘆しているのである、これは日満両国に課せられた非常時突破の銃後産業戦士の涙ぐましき奮闘の賜物と謂うべく又これは建設途上にある鉄西工業区に於てのみ望見し得られる力強き建設競争図絵でもあるのだ

同社の事業目的は車輛の現地調弁確立を期するにあることは謂うまでも無いところで、年産能力は機関車客貨車合せて三千五百万円を目標としているものであって、現在までの既設工場に一部増設する事によってこの目標を早晩実現する順序となっているばかりでは無い、職工の訓練如何によっては三割乃至五割増産が可能とされている、而もこれが所要資金調達方法も過般の未払込徴収に次いで十分見通しがつき、去る二十六日の定時株主総会には附議されなかったが同社の一千万円年内増資は既に重役会の決定事項に属する、従って今後増産増資計画が不断に押進められるであろうことは必然で、準国策会社として颯爽と登場した満洲車輛は確かに鉄西の“花形”工場であり、満洲の代表工場と云って過言では無い、これを裏附けるものとして挙げなければならないのは同社の出資人関係である、即ち全株式の八割を所有する大株主は大倉系の日本車輛をはじめ大阪汽車、川崎車輛、日立車輛、田中車輛、住友金属工業、神戸製鋼、日本エイヤブレーキ、大阪発動機、三菱重工業、東京機器、満洲機器の十三社を加え日本に於ける一流車輛会社を網羅し残り二割は七百七十四名(現在二百七十名に整理)の公募株主に振り当てられる、重役としては社長秋山正八氏(日本車輛)に対し車輛の一年需要筋たる総局より専務取締役野中秀二氏を迎え、技術者、職員又は満鉄関係者を多数配置し需給両者の密接なる連絡協調をとり、大連にある弥生会の修理、組立工場と一元的営業を行い、完成の暁は満洲最大の車輛工場として既設工場たる大連鉄道工場、大連機械、大連船渠、満洲工廠等有力現地メーカーを以てしてもなお補い得なかった機関車、客貨車の大量生産が可能となり、国防並びに産業開発の先駆を以て任ずることとなろう(カットは満洲車輛工場の一部)

冠たり我が繊維業 移し植えた十一社 親元との摩擦も試煉期 繊維工業の巻 A

メード・イン・ジャパンの旗印の下各国に船出する日本商品の先駆として堂々世界市場を闊歩するものは綿布であり、綿業の老大国ジョンブル英国を恐れしめたのも日本女性群の手になった綿布であったことは周知の事実である、全産業部門において紡績の占むる位置は重要である、たとい戦時体制強化の一筋を辿り、軍需産業に対比し平和産業の名の下に現在苦難の道を歩んでいる紡績とは云え、依然として輸出品の大宗であることに変りはない、殊にこれが国民生活との結び付きにおいて最も深き関係ある点から考察し満洲国において今回綿糸、紡績業者、棉花並びに綿糸布取扱業者を打って一丸とする新機構の満洲綿業聯合会を設立し綿業の健全なる発達をなさんとしたのは当然というより時勢の所産である、この種工業に属する在奉天工場は現在操業、工事中のものを入れて奉天紡紗廠、満洲富士綿、山本綿糸、御多福棉花、満蒙毛織、奉天製麻、恭泰莫大小、満日亜麻紡織康徳染色、大和染料、満洲染色廠等十一を数えられる
これ等の中主要なるものは奉天紡紗廠、満蒙毛織、満洲製麻、恭泰莫大小、康徳染色等の諸会社である、これ等諸工場の現在の操業環境を一瞥するに先ず原料棉花を見るに、満洲における棉は遼陽、海城を中心として南満各地に産出される、然し在来種は品質粗悪で大なる成績を望み得なかったが、満鉄旧関東庁によって米国陸地棉を移植し多少の改良を見つつあったところ、満洲国の建国而して産業五ケ年計画の樹立、更に五ケ年計画の修正等により品質の改良が促進され又増産に拍車をかけられ漸次向上の一線を辿りつつあり、康徳四年度は満洲棉の作付反別一〇一、一二四陌操棉出来高一九六、四九八担を示し年々膨張を見つつあるが本年度の予想棉花消費量百十五万担からすれば自給自足は遠い将来で現在の状態では期待するまでには立ち至っていない
次に綿糸布紡績業においては現在満洲における紡績会社としては奉天紗紡廠以下八社である、この中操業中のものは六社でこの錘数は現在三十二万三千余であり本年は更に四十八万錘まで増加を見る予定である、又織機は大四、四六七台、小二一〇台であり本年度は大一、八六〇台、小一、六〇〇台増設を予定されている、然らば需給関係は如何であるか、この点世界の王座を占むる綿業国日本を控えている満洲国として当分種々問題を惹起することは明かである、殊に過般来新機構の下に改組した満洲綿業聯合会と内地側業者(大阪方面)との摩擦対立は周知の事実で一日創立総会を開催し設立を見た新綿聯と内地側業者と如何に協調するか又内地紡績業休機三十万錘満洲移転問題を如何に解決するか今後の残された問題であるが日満一体の大乗的見地から関係者の互譲と協力により満洲国四千万国民の生活安定のために新綿業政策の順調なる進展を希求せざるを得ぬ、さて毛織物工業であるが満洲は古くから牧畜が盛んで羊の如くも北支、蒙古方面を中心として飼育せられて来たが従来は単に食用と採皮のみを主要目的とし羊毛は殆ど省みられざる感があった
然るに満洲建国と同時に羊毛利用、毛資源確保の必要が叫ばれ各方面において研究されることとなったので品質も徐々に改良せられつつある、現在満洲国内の綿羊飼養頭数は約二百万頭、産毛量は六百万斤程度と推算される、然しながら国内需要量を満たすに足らず殊に支那事変後特殊用途からして羊毛の需要益益加わりつつある際北支蒙彊が注目されるに至ったことは当然のことで現在北支綿羊頭数は一万頭、産毛量約千五百万斤と推算されているが蒙彊羊毛も包頭、綏遠、張家口を経て天津に出廻る故これ等も広義の意味で北支羊毛と見做せば北支の総産毛量は実に三千五百万斤に達するわけでこの豊富な毛資源を隣接地に持つ満洲の毛織物産業の将来は多望と観じられる、而して満洲における斯業の中心をなすものは満蒙毛織物会社である
外に麻糸紡績業があるがこれは満洲における特産雑穀の包装用に供せられる麻袋製造として重要な工業であり奉天における工場としては満洲製麻会社がある、最後に紡績工業の一種として染色工業があるが奉天では鐘紡傍系の康徳染色会社がその中心をなしている、以上の綿糸紡績、綿織物、毛織物製造麻紡織業等何れも満洲国重要産業統制法の適用を受けており工業都市奉天において持つ役割は殊に国民生活と直接結びつく上から重要視すべきであり斯業の消長は多大の関心が持たれている

生産拡充の一役も原料難は纏う 老舗“奉紡”も悩む 繊維工業の巻 B

奉天紡紗廠

奉天における紡績工業の重要地位を占むる奉天紡紗廠は奉天市(商埠地)二七緯路に所在する点からいえば躍進鉄西の花形工場の範疇にはいらぬかも知れぬが鉄西が工業地区を意味する限り、そして紡績工業を一瞥する限り紡紗廠を除外するわけには行かない、蓋し奉天の紡績工業は同廠が代表するといっても過言でないからである、二七緯路のつきあたり時計台が古めかしく聳え立ち古色蒼然とした建物がよく紡紗廠の歴史を物語っている
同廠は張作霖が東三省巡閲使、奉天督事兼省長として秕政を事とし苛斂誅求以て軍閥の拡大を企図しつつありし時張政治に不満を持った文治派の巨頭奉天省財政総長王永江氏が民力涵養、産業開発の一端として民国九年官商合併組織で設立するの方針を定めたのが現紡紗廠誕生の第一頁であるかくて民国九年六月財政庁より直接紡機一万錘、織機百台の注文をなし九月奉天省下各県公署に命じて民間株の募集に着手し民国十年二月には初代廠長として●兆元氏任命され三月仮事務所を設け工廠、辧公楼、宿舎等の建築、紡機一万錘、織機百台の追加注文、更に発電機の購入等諸般の準備を進め十二年七月工場一部の運転を開始し十月一日正式操業をなした
その後民国十八年織機五十台、十九年紡機一万錘を購入拡張して現在の生産設備紡機三万八百十六錘織機二百五十台となったものである、旧軍閥時代は軍閥を背景に発展目覚しきものあったが満洲事変勃発のため一時操業を中止し間もなく満鉄から日系顧問二名を聘して事変の年十一月末業務を再開、大同元年七月顧問制を廃し初代日系重役として元松尾常務□事の就任を見、同時に日系職員の入社を見た訳である大同三年一月末開催の株主総会にて定款の変更を決議し従来半官半民であったため役員も定款により官選、民選の区別を設けてあったものを全部総会で選挙することとなりここに純然たる株主会社としての面目を一新した、ついで康徳三年勅令第九一号により十一月九日、日満合弁の特殊会社として改組、更に昨年十一月初旬経済部、中銀の所有株を鐘紡に移譲(約六割)鐘紡の連絡機関として鐘紡より相談役が常駐することとなり鐘紡の色濃き企業となった
資本金は四百五十万円(払込四百十七万一千五百円)現在工場設備は紡機三万八千百十六錘、織機二百五十台、撚糸機八百八十錘であるが
本年度の事業計画によれば紡機を二万錘、織機を一千二百五十台、撚糸機を一万錘に増加すべく目下生産設備拡張の許可申請中で許可あり次第着工し十月竣工の予定であるから拡張後の生産能力は左の如く見込まれている
綿糸(日産)六番手一梱、十番手二一梱〇四、十六番手、五一梱六八、十番手(二股)四梱、二十番手(三股)六梱
綿布 細布十二磅一、九四〇反〇〇、粗布十三磅一、〇五〇反〇〇、双斛紋布十七磅七三五反〇〇
但し右の品種は当局の指示により変化を見る場合もあるがこれに要する原料の棉花は一日約四万二千斤に予定している、原料は全部改組を見る綿聯を通じて配給を受けるわけであるが問題は果して原料手当が円滑になされるか否かにある、本年の所要原棉は百五十万担と予定されているが目下の所北支棉五十二万担割当てられているに過ぎず、満洲生産棉約三十万担中、十万担を使用可能と見ても残りの五十万担の不足を如何にするか
綿聯としては政府の協力を得て原棉入手に努力しているが印棉米棉等外棉輸入が最後の切札として残されているのみのこの際如何に解決するか、既に来る四月からス・フ糸を輸入し強制混紡三割を取極めているがス・フ糸の需給状態円滑を欠く現在である
原棉手当難とス・フ糸移入難(一日百三十万ポンド)と加重し満洲紡績業界の前途楽観を許さざるものがある、これは当然紡紗廠の操業に影響を与えることは免れないこの点業者の一人として同廠方面の危惧するところであり無理からぬ点である、更に同廠では織工問題でも他の企業同様これが移動のため(年平均四〇%)対策に苦慮し本年度の事業計画の中に工人宿舎増築を入れているが各種の観点からして平和産業の苦悩に紡紗廠も直面してる訳である(写真は正面から見た奉天紡紗廠)

クローズ・アップされた満蒙の独舞台 国策線に躍る“満蒙毛織”の有卦 繊維工業の巻 C

満蒙毛織株式会社

綿織物乃至絹織物が輸出方面から見て漸く飽和の段階を迎えたかの観あるのに対し手機に咲く花として日進月歩の躍進を示し、日本輸出工業の花形に取って代ろうと云う毛織物工業も、支那事変の突発により外国羊毛の徹底的輸入制限とス・フ強制混用の実施のため羊毛業界がその全面的編成替を余儀なくせしめられつつあるが、この結果従来閑却視されていた満蒙支産羊毛の利用開発問題が真剣に考慮されるに至った、かくて大陸毛資源が注視される現状において大きくクローズ・アップされつつあるのが満蒙毛織株式会社である
奉天市鉄西皇姑屯に本社を持つ同社の歴史は古い、大正七年の夏当時の寺内内閣における拓殖調査委員会の決議に基き我羊毛自給自足の国策に順応し、満支産羊毛の利用促進のため関東都督府の保護並に東拓及び満鉄の後援で同年末創立せられたのが現在の満蒙毛織である
爾来二十有余年満蒙事情の変遷に伴い事業に幾多の隆替あったが、昭和五年初夏工場設備に大拡張、営業方針の刷新を行い、更に満洲国の建国により満蒙支産羊毛改良事業の進展と呼応し同社の基礎が固まり前途洋々たるものがある
同社の資本金は一千万円(払込六百六十二万五千円)−昭和十二年一千万円に増資−創立当時の事情が物語る如く東拓が大株主で普通株普通社株、優先株等総株十七万三千九百二十五株を東拓が所有している
現在同社の製品は羅紗及びメルトン類、毛布類、サージ類、絨氈類フェルト類、メリヤス類、毛糸類フェルト帽子等毛織物及び毛製品一切であるが主要製品は服地(外套、洋服)毛皮、防寒靴などで、納品先は満鉄、協和会、特需方面である、販路は満洲国内、関東州日本内地、朝鮮、更に南北支、蒙彊等で年額約三千万円に上る、支那事変勃発以来事変関係で製品の増加を見込まれるので、既設の奉天工場(第一、第二工場)名古屋工場、岡崎工場以外北支には郡管理辧事処北京製●所、蒙彊には厚和毛織廠等を運転し更に天津に工場建設中である、この事業拡張により増資が具体化し遅くも今夏ごろ断行される模様である
殊に奉天工場は第一、第二の両工場を有しこの敷地八万坪もその狭さを喞っている状態で第二工場(昭和十二年十二月中旬竣工)建造後更に拡張の必要を認め第二次第二工場建設を決定着工し目下機械の据付中で二月中旬には完成の予定である
更に生産力拡張のため本年中には約二十万円を投じ奉天本社と名古屋支店に満蒙毛織繊維研究所を新設し、奉天に実験企業化工場を設け新繊維研究に全力を傾注することとなっている、これらの原料は満蒙支産羊毛、外国産羊毛で年額約一千万円に上り同社の生産能力毛織物年額約四百五十万米、毛糸七十万封度、帽子類約十五万打から考察しても目下の急務は原料の確保である
これがため国内の畜産資源の充実を政府当局に希望し当面の問題としては質より量、即ち増産(羊、山羊)を希望すると同時に代用品研究に全力を傾注している、代用原料としてはス・フ柞蚕、落棉花、ボロ、麻繊維等であるが、既に柞蚕繊維の交織物は立派に成功し年額約二百万円の生産を見、製品は全工聯が過半取扱い、綿ボロ再生のためには昨年末工場を拡張しこれを和紡工場と称し再生品生産に努めて居り、又ス・フの特殊研究法により五割混織の製品の完成を見、近き将来に七割まで混織可能を見込んで居り、この特殊研究法は一部目下特許申請中で製品は旧正前後市場に出す予定である、その他カイゼンよりの羊毛代用又大豆からも代用繊維を生み出すべく研究中で一方協和会、国婦を通じ報国袋の配付を行いボロ買集めをなし、資源の再生を計る等原料確保のため各方面に活動している
昭和五年の年生産高に比較すれば現在同社はその二十倍の生産高に達しており、客観的情勢は同社の進展を約束しておるため同社の掲ぐる「満蒙支羊毛開発は我社の使命である」という目標は掛値無しに買ってもいい(写真は満蒙毛織会社)

盛衰・興亡幾変転 今は確固不動 安田系麻袋の“満洲製麻” 繊維工業の巻 D

満洲製麻会社

亜麻製品は特殊品で殊に日本では特殊方面の需要品として戦争と製麻事業とは深い繋がりがある、満洲における製麻事業は準軍需用品であることに変りはないが、大体満洲特産(大豆)混保用の麻袋製造にある、満洲における斯業の中心をなす満洲製麻株式会社(資本金五百万円、払込二百三十七万五千円)は大連市にあり奉天における製麻会社は満麻を親会社に持つ奉天製麻会社である
同社は親会社満洲製麻が工場の運転、経営を委託の形で運営しており公称資本金は三百万円(二分の一払込)設立は大正八年であるから同社の歴史は相当古い鉄西の入口正確にいえば大和区末広町に工場、本社を持つ奉天製麻は現在に至るまでには実に幾多の盛衰を経て来ている
大正八年安田系により設立されたが不幸同十二年大火に遭い全焼し再起を危ぶまれた、漸く九十四万円余の火保で再興したが当時の支那における麻袋の関税は低率で印度品との競争はダンピング相場のため困難であり加うるに原料入手難と旧軍閥の妨害(当時の支那労働者が高賃銀を得るように使嗾)のため事業円滑に進まず、かくして諸種の経緯を経て昭和四年一時工場封鎖の已むなきに至った
工場閉鎖すること約四年、奉天の工業地区而も人目につき易い表玄関に満洲製糖会社と肩を並べて廃墟の如く横わっていた同社も現専務取締役井上輝夫氏が安田系を説き昭和八年再興を見、次いで同十一年満洲製麻会社と併合し現在に至った、鉄西工業区における諸工業が時局産業として花形振りを発揮しているに引代え製麻事業は地味で華やかではないことは事実だ、然しながら満洲国の第三国向け輸出品の大宗をなす特産大豆と麻袋との関係を考える時製麻事業の占むる位置は重要であり、麻紡織業が重要産業統制法の適用を受けることがこれを十二分に物語っている
同社の現在製品は鉄筋麻袋が中心をなすが麻袋の生産に余裕ある際は麻糸(口縫糸)製造している(大連二百万封度、奉天百二十万封度)生産能力麻袋一日三万枚、労働力不足(職工定員二千五百名、幼年工を含む)の影響からフル運転困難である関係上実際の生産数量は月六十七、八万枚程度を示している
統制法産業のため事業計画等は農務司の統制を受け生産数量も割当を定められるが本年度同社への割当て数量は鉄筋麻袋五百四十万枚(奉天)一千七十万枚(大連)で目下機械据付中の遼陽紡麻会社六百万枚を入れて本年度は二千二百万枚を予定されている、満洲一ケ年の麻袋需要数量六千万枚乃至七千万枚とすれば勿論この割当て予想数量は所要数量の三割に過ぎず不足分は印度よりの輸入に俟たざるを得ない実情である
この際は製品を求めるより原料の印度ジュートを求めて現地で織る方を得策とするが印度政庁がその政策として陰に陽にこれを妨害、原料がコスト高となるためここに洋麻(ケナフ)が特需作物として満洲国産業五ケ年計画の中に取入れられこれが増産に全力を傾注することとなったのである
満洲において麻袋が如何に特産と結合し重要性を持つかは旧臘、満洲麻袋聯合会が結成を見るまでの経緯がよくこれを説明している、従って満洲製麻の使命は軽くないどころか将来に負わされた役割は大きい、なお同社では平和産業の多くが味うところの事変の影響による労働力不足のため操業上相当の困難を感じ昨年中移動職工の引止め策と待遇改善の趣旨から満人独身職工宿舎平家三棟を二万二千余円を投じて建設したがこの労働力不足問題について同社専務井上輝夫氏は筆者にこれは当社のみの問題ではないがと前提しこの対策を語る所あったが、全鉄西の問題なる故同氏の意見を記述する
世界各国工業の盛んな国を見れば判るが工業地域にはこれと相並んで労働者集団地域の設定が必要である、満人の特性として移動率の高いことは周知の事実でこの移動率は四割程度と看做していい、つまり百万の職工を要する所には百四十万人が必要である、そこで移動を防ぐには労働者の社会施設を行い住心地よくする方法しかない、取締のみが最善策ではない、現に鉄西通いのバス代を出す余裕がなく往復二里の所を通勤する職工が相当多いと聞く、之が如何に作業能率を低下せしめるか言を俟たない所である、そこで関係者がこの点をよく調査し労働者集団地域を設定する一方労工道路を建設し一日往復一、二銭程度の乗車賃で済む労工車の運転など対策の一法であろうと思う、この際市当局あたりの善処を望み度い(写真は満洲製麻奉天工場の製綿作業)

活溌な発育時代へ 護謨業の進軍 重工業にも新しい販路 化学工業の巻 C

国華ゴム

ゴム製品(殊にゴム靴)の満洲進出は今を去る十七、八年前履物を鄭重に取扱う支那人特有の国民性にヒントを得て支那人向きのゴム靴−股無し地下足袋(先丸地下足袋)を以て始めとするものである、爾来幾多の研究が進められ支那人労働者向き底ゴム地下足袋の輸入も逐年増加を見せ、昭和二年、三年頃は底ゴム地下足袋七、八種類の輸入は三千万足乃至三千五百万足といわれた、満洲事変後国内産業開発に依る支那人労働者及び北鮮方面より出稼ぎする鮮人労働者群の集注に需要数量も増加し現地調弁の会社設立が叫ばれるに至り、過去四、五年前満洲国当局は日本内地資本家の進出を促し安東、奉天に二、三工場の操業の運びを見るに至ったが、国内の需要を充たすことは出来ない状態にあった
以来日本内地における大資本系の専門企業家の進出は非常に目覚しいものがあり、奉天を中心に安東、遼陽に各自工場を設置した、その数二十三余工場に達する殷盛を極め現在に及んだものであるが、未だ操業に至らぬ工場も少くない、これらの工場が全機能を発揮する時は満洲国のゴム需要の現地調弁の出来るのも遠くはあるまい
昨年度における生ゴムの輸入量は五百万円に上る、満洲特有の豚皮底支那靴も国内産皮革の統制に従い、逐次ゴム底靴が位置を整えつつある現状である、産業五ケ年計画に沿うてゴム工場の著しい発展は従来のゴム底靴、ゴム長靴、ゴム地下足袋の製造は勿論のこと、重工業方面にも新しい製品販路を求めつつある
これらの原料の大部分は内地より仰ぎ約七百割と云われ、他は朝鮮及びシンガポールより輸入しているが、満洲のゴム工業者の大部分が日本内地に本社を有している関係上原料は各自本社工場を通じて取引されている、殊に地下足袋等に使用される綿糸のロザシは従来北支綿を以て充当していたが昨年統制に当面し殆ど入手不能となり、各工場は内地本社を通じて調弁の現状である
以上の如く原料その他の大半を日本内地本社に求めている満洲ゴム工業者は物動計画に依るゴムの統制に遭遇し極力配給の円滑策に腐心した結果、満洲国政府の肝煎りで昨年十二月全満ゴム工業聯合会の設立を見るに及んだ即ち当聯合会は日本におけるゴム聯とその機構を同じうするもので今後の機能発揮の程が期待されている、なお配給割当の実施を開始したのは本年一月一日からであったがかくの如く満洲のゴム工業は各方面の整備略成り漸く揺籃期より脱せんとしつつある
国華ゴム工業会は六十四年、日本最古の歴史を有する日華ゴム株式会社(旧名つちや足袋株式会社)の子会社として昭和九年現在の鉄西区中央路一七、三万一千百七十四平方米の敷地を買収設立され、昭和十三年春起工同年十二月末完成に至ったものである
操業開始は本年一月中旬にして殆んど試験的運転に過ぎず本格的操業は四月頃と見られる、同社の資本系統は住友系として現在の工場資本金は百万円(五十万円払込)である
製造部門はゴム短、長靴、ゴム地下足袋、ゴムベルトの三部門に分たれている、操業日なお浅い同社の製品は未だ市場進出に至らないが、本年度第一期計画としてゴム靴、地下足袋類、年産五百万円ゴムベルト年産三百万円を目標に置き、これが達成に邁進している殊にゴムベルトの製造は他社の追従を許さぬ同社が誇りとするものであり、これが製造には同資本系統の東海ゴム工業の技術を移植し専らこれが発揮に尽力している、これら製品の販路は全満として分けてもゴムベルトの如きは主に重工業方面の利用が多く非常に将来性を有しているのである、原料方面(生ゴム)は昨年十二月設立を見た全満ゴム工業聯合会を通じ支弁、その他は直接本社の援助を蒙っている現状である
なお同社は再生ゴムの製造についても操業当初以来考究を重ねているが、古ゴムの回収困難なる現状にて当分これを見合わすことになったが、実現は時期の問題として課題されるに至った
以上述べた如く同社は操業幾何もなく充分なる機能発揮の域に至らないが円滑なる原料の配給と本社の側面的援助を以て国内産業開発の一端に当るならば同社の伸展に目覚しいものがあろう(写真は工場内の一部)

染色工業の代表 頭角を見わす康徳染色 麻糸に手伸ばす満日亜麻 繊維工業の巻 E

康徳染色株式会社

紡績工業の一種に染色工業があるがこれは関税関係による生地綿布の輸入に原因するものでこれが代表的なものは康徳染色株式会社である
鉄西区一路二十六番地所在の同社は資本金五十万円(全額払込)の鐘紡傍系会社である、康徳二年の四月に設立を見、各種織物の染色加工を行っているが年産額約六百万円、この年生産数量は無地染五万反、カーキ染一万反、漂白一万反の総数量七万反
全満における十二年度、十三年度の染色綿布需要実績は一億五千万円であるが、この中康徳染色が六百万円、全満各地の小染色工場(奉天のみで満系操業の小工場十を数える)が八百万円、他は内地よりの輸入に俟つ状態である、康徳染色では従来原料織物は日本内地鐘紡その他から(年約八割迄)地場では奉天紡紗廠から供給を受けて来たが昨年十一月奉天紡紗廠が鐘紡の傘下となり同廠が綿布八万反を製造し、これを康徳染色に供給することとなったので同社では現在の年生産能力八万五千反から推し本年度から原料の現地需給可能の見込がつくこととなった
尚お同社では労工移動による能率低下阻止のため昨年十二月初旬苦力宿舎を十万円を投じて建設し現在十五家族(六十名)独身百八十名を収容しているが蛇足ながらこの労働者移動問題は全鉄西の重大問題となって居り各会社ともこれが対策に苦悩している現状である

其他の諸会社

以上の諸会社の他に紡績関係に恭泰莫大小紡績株式会社と亜麻紡織に満日亜麻紡織会社奉天工場があるが恭泰莫大小は鉄西区南五路(莫大小)と南二路(紡績)に工場を有し資本金五百万円(三百七十五万円払込)莫大小、綿糸並びに加工品(シャツ、ズボン等)を生産するが綿糸紡績工場は目下工場建設中で四月までに機械の据附けを終え操業を開始し五月には製品を市場に出す予定となって居り、大体莫大小原料生産を建前とする
同社は去る一月二十日第二回払込二百五十万円を徴収し四分の三払込となし事業の大拡張を企図しているので今後の活躍を期待されるものがある
更に鉄西区中央路の満日亜麻紡織会社奉天紡織工場(本社哈爾浜)は同様近く機械の組立を終え四月操業開始の予定であるが同工場は当分麻糸(畳糸靴縫糸)の生産を行い第二期計画で麻織物に着手する予定である
現在満日亜麻の原料工場は北満に十数ケ所あるが同社では満洲国亜麻栽培事業の拡充のため昨年度の亜麻植付反別二万八千町歩に対し本年度は更に三万町歩まで植付反別を拡充することとなり目下拡充の計画中であるが奉天工場の新設操業により相当の資金を必要とするので(昨秋の増資により現在資本金一千五百万円、払込六百万円)再度の払込徴収を本秋ごろまでに行うものと見られて居り払込額は三百万円とされている(カットは

黎明期・三段跳びに高度発展過程 先鞭つけた日本ペイント 化学工業の巻 A

満洲の化学工業は今漸く黎明期に立った許りだ、しかも前途は洋々たる発展が約束されている、第二松花江水電、鴨緑江水電の完成程近く、満々たる水を湛えて幾変遷満洲興亡の歴史をたゆみなく洗いつづけたこの二大河の流れが近代化学の威力に堰止められて重工業満洲の原動力たるの日が近づくと共にこの豊富低廉な余剰電力がもたらす化学満洲の勃興は今着々と準備が進められつつある、原料供給国から重工業国へ今更に化学満洲国への三段跳び飛躍に昨年設立をみた満洲電気化学工業がその先駆たらんとしている、同社はカーバイト工業を中心とする人造ゴム、石灰窒素、硫安、醋酸、ベンゾール、アセトン、アンモニア、ビュール樹脂、人造繊維等綜合化学工業を目指しており、加うるに石炭、石灰石等無尽蔵の資源を加えれば重工業の進展に伴う化学工業の殷盛化は既に目前に迫っている、然しながら顧みて今日迄の国内化学工業の現状を見ると寔に寥寥たるものがある、高度化されつつある最近の化学工業として伍するものには僅かに建設後日なお浅い関東州の満洲化学工業、満洲曹達等があるのみである、従って鉄西工業地区に於ける化学工業も広義化学工業の範囲に属するものが大半を占め、将来勃興を見んとする高度化学工業との関聯はいささか縁遠い、然しながら躍進して止まぬ鉄西工業地区が、重工業を中心とする一般産業の発展と共にこれ等一聯の既存化学工業とを中心に将来一段の発展を辿ることは容易に想見されるところである、さて建国後諸産業の振興が企図されたがその内に内地財閥の逡巡を尻目に化学工業進出に一と役を買って出たものに日本ペイント奉天工場がある、同社進出の話は昭和七年の建国当初のことであり、また満洲再検討論が勃興した当時でもあり、日本に於ける企業家連に一大警鐘を与えたものであった、化学工業の大陸進出に先鞭をつけた日本ペイントの進出を劃期として漸次日本財閥間に認識が深まり大陸進出が逐年増加の一途を辿って現在に至ったものである
塗料の需要は満洲文化の発展に伴い益々増加すると共に重工業方面に、建設資料原料に非常な広範囲を占めている、殊に満洲は原料の大豆、小麻子、蘇子、大麻子の世界的宝庫と云われ斯業の将来性が約されているのは喜ばしいことである、国内における一ケ年間の需要は五百万円と云われその中日本ペイント会社の年生産高は三百万円で残りの二百万円は満洲ペイント製品及日本製品の少額を以てせば殆んど現地調弁が可能の状態にあり目下工事中の関西、神東両会社の操業が行われれば優に現地調弁の任を果すことになり、塗料工業の進展は必須的なものとと見て差支えはない
次にゴム工業の発展史を見るに非常に日浅いのであるが、近年満洲ゴム株式会社と相踵いでつちや足袋系の国華ゴム工業、満洲福助産業、秋毎ゴム工業等の大資本系の諸工場が設立、操業又は準備中の状態に置かれている、かくの如く満洲におけるゴム工業は非常に幼稚なものであるが、国内需要の現状からみてこれ亦将来性に富むことは疑いを入れない全満ゴム工業者間には昨年十二月原料の円滑なる配給を目的とし併せて斯業達成を期する趣旨の下に全満ゴム工業聯合会を結成したことは周知のことであり、現地調弁の日も遠いものではあるまい、なお再生ゴム工業に就ては大資本系会社等において考究されている、かくて黎明期から一足跳びに大飛躍に移らんとする国内化学工業は既存諸工場の時局産業への編成替えを伴いつつ歩一歩理想の実現化へ邁進しつつある(写真

人口増・文化向上が塗料業を促進 三社進出で現地調弁間近か 化学工業の巻 B

日本ペイント

国内産業の全面的開発に伴う建設諸工作の進行は塗料の需要を著しく増大せしめている、即ち塗料工業の発達は人口の増加、文化程度の向上に俟つところ実に多い、塗料工業の満洲進出は事変直後の昭和七年当初で国内化学工業に先鞭をつけた由緒深い歴史を有するものである、塗料工場として操業中の建国当初設立された奉天鉄西工業区日本ペイント奉天工場及び満洲ペイント哈爾浜工場の二工場のみであるが、近く神東塗料、満洲ペイント、関西ペイント等の奉天進出が決定した今日現地調弁の出来る日も間もないことであろう
一方原料方面から見るに植物油は奉山、奉吉の両沿線より、其他は主として日本内地より供給を仰いでいる、云うまでもなく満洲は大豆、小麻子、蘇子等植物油脂の宝庫にして此の内乾性油なる蘇子、小麻子、大豆油等は塗料原料として主要なる役割を果すものであり、且日本或は欧米各国へ多額の輸出をなしつつある現状から見て関税問題の是正並びに原料を生産すべき油房の設立に依って斯業は極めて有望視されている
事変前において□現地製造工場なく主として欧洲品の輸入に俟つところ甚大であった、日本製品は銀関係等に依り僅かに姿を見せていたに過ぎなかったが事変後は日本製品の独占的状態となり諸外国品は特殊品以外見るべきものがなかった、爾来日進月歩し国内の需要も漸次増加し昨年度における国内需要高は五百万円を下らないと云われているが斯業の発展は原料の主要をなす植物性油脂蘇子、小麻子、大豆油の世界的宝庫をバックに産業五ケ年計画に順応して軍需重工業の発展並びに土木建築業の伸展に伴いその前途は実に洋洋たるものと云って過言ではあるまい
満洲進出の先鞭をつけた日本ペイント奉天工場は昭和七年の建国当初設立された日満塗料会社附属工場(資本金百万円、二十五塗料会社設立に関しては当時満洲国は建国日浅く国内には何等工業として見るべきものなく、産業の勃興、資源開発の諸点を考慮し満洲国産業部並びに満鉄幹部間に日満経済ブロック遂行上日満合弁会社の創立案が樹立し日本内地財閥の満洲誘導が大阪工業地帯を中心に盛んに折衝を行った結果、果然率先し万円払込)が前身である、日満て日本ペイント株式会社の進出承諾を得設立されたものである
同工場は昭和八年春解氷期を俟って起工し同年末一部操業の運びに至ったが全能力を発揮したのは翌九年三月であった、更に日本ペイント株式会社は同年九月合併し現在に至ったのである、同社の資本金は六百万円(払込三百八十五万円)にして工場設備は亜鉛華製造工場、各種ペイント工場、各種ウアニス工場、カストル油工場、水□工場、製缶工場の六部に分れ製品は亜鉛華、光明丹、各種ペイント、各種ヴァニス、ヒマシ油、各種ボイルド油、高級ラッカーである、わけても主力を注いでいるのは亜鉛華ラッカーの二種で製品商標は槌印、万歳印、花印の三種である、販路は全満、中北支の一部の跨り年生産額は三百万円に上る
同社昭和十一年末第二期拡充を行い更に翌十二年十月国内産業開発の進展に伴いその需要増加し第三期拡充を断行、本格的操業に入り爾来製品は特需方面、車輛、船舶、自動車製作方面に新用途を求めつつ一般建造物塗装用塗料の需要の大半を充たしている、各種塗料原料の植物性油脂は奉山、奉吉両沿線方面より、その他は主として内地本社より供給しているが濠洲、カナダ、シンガポール、ドイツ、東部アフリカ、南洋諸島からの輸入もあるしかし乍ら関税関係等に依り充分の成績を挙げるに至っていない
然るに大陸進出の初志貫徹を期すべく同工場本社は凡ゆる犠牲と物資的援助を払って斯界の発展に側面的援助を続けて来たことは、満洲ペイント界発達史上見逃すことが出来ない、支那事変を契機に特需関係方面への需要増大に鑑み同社は本年度計画として現工場機能の全面的拡充を断行、遅くも今夏までには機械据付及び工場増設が完了する道程にあるがこれと同時に国内電気事業の目覚しい発展に備えて絶縁塗料の製造を開始、製品の市場進出は今秋と見られている
以上の如く満洲重工業の発展は塗料の需要を伴い、同社創立当時の年生産額七十万円に比すれば約四倍からの増加であり、今後の発展が約されているは過言でもあるまい(写真は日本ペイ

薬用植物の輸出が製薬業の萌芽 建国後の隆盛十指に及ぶ 化学工業の巻 D

鶴原製薬工場

満洲における製薬工業は凡て邦人の創業経営に依り、その起源は極めて新しく大体大正時代に創り、最近数年来漸く発展の機運に向いつつあるもので満洲における新興工業の一つである、従来満洲には製薬工業と称し得べき工業は全く存せず、家庭工業的にも殆ど行われていなかった、即ち製薬工業はその製品が比較的文化の高い国民に需要せられ、且つ工業自体としては他の化学工業と相関聯することが多いために満洲地方に興らなかったのは、極めて当然であるがそれ以外満洲で行われている医療法が所謂漢方であってその医療に使用する薬品が総て所謂草根木皮その儘であって今日吾々の製薬工業の製品である西洋流の医薬品でないことも大きな原因である、その後満洲に邦人の進出すると共に満洲の製薬資源殊に薬用植物の研究調査が行われるようになり、二、三の原料が本邦内地に輸出せられるに至り、更にその原料を以て現地生産することとなって、此処に満洲製薬工業の萌芽を生ずることとなった、時恰も欧洲大戦の好景気時代に際会して満洲の化学工業は一時に勃興し、満鉄沿線南満各地に多数の工場が建設され盛観を極めた、殊に広義の製薬工業とも称すべき各種の工業薬品及医薬品の製造工業の発展は目覚ましく此種工場は十指に及ぶものであった
然るに大正六年のパニックに直面するや以上の工業は全滅の悲運に遇い工場は殆んど閉鎖の運命に置かれた、其の後大正の終り頃より諸文化の向上に伴い現地調弁の声漸く起り医薬品類を製造する製薬工業が発達し始めたのである
次に奉天における医学の歴史を見れば今を去る五十年前城内小河沿に英系のキリスト施病院及び同附属医学専門学校が所在し、実験室的小規模なる医薬品の製造を行っていたものに過ぎなかった、その後明治四十三年南満医学堂の設立を見、医薬の研究が続けられ大正六年久保田博士を迎えて益々薬物学の研究とともに根強い英系製品を押え日本薬品の普及を図った、即ち今日の奉天医薬品製造の因を劃したのである、事変後満洲は凡ゆる方面に目覚しい発達を遂げた、之に順応して満洲の製薬工業は漸次活溌の度を加えた、産業五ケ年計画の下重工業の発展に伴い人口の増加、文化の向上が著しく目立つがここに我々はこれに付随すべき衛生施設の整備を忘れてはならない
以上の観点から満洲の製薬工業を眺める時いかに国内産業開発五ケ年計画遂行上関聯深いものであり、且つ豊富なる薬用植物即ち漢薬たる原料資源と副原料として役割を演ずる燃料、電気溶媒、酸、アルカリ等の格安と相俟って満洲の製薬工業の将来性は実に大きい
満洲国内における製薬工業としては取上げて述べるものなく、僅かに奉天鉄西の鶴原製薬工場を挙げることが出来る
同工場は大正十二年治療界の進歩に依り現地製造を企図し奉天松島町に工場を設置し満洲医大久保田晴光教授の研究に成れる漢薬麻黄を原料とする喘息●痰新薬アストマトールの製造を開始したのが満洲に於ける製薬工場の嚆矢とされている、事変後満洲の政治経済事情の変革は一層の発展性を約せるに鑑み同工場は全面的拡充策をひっさげて昭和十年鉄西区南四路三番地に現工場を完成現時に及んだものである
同工場は工場主鶴原文雄氏の個人経営にして製造薬品は鶴印、東方印、老人印の三種にして結核治療用オーネス・テー、同予防用オーネス・ペー、喘息●痰剤アストマトール、駆黴砒素剤ネオネオチルミン、麻薬中毒治療剤ドロン等及び一般注射剤並びにチンキ、シロップ、散剤、蒸留水(蓄電池用)等の工業用薬品に及んでいる、なはビタミンB剤としてツルベリンの製造も行っている、その原料は殆ど現地調弁の現状である、サルベリンの如きは月産二、三万本に上っている
同工場の製造方針を見るに満洲の結核、阿片、黴毒に対する新治療剤の研究を主眼としているこれは健康満洲建設に甚だ喜ばしいことである、年産額は約三十余万円に上り産業開発の遂行に伴い愈々同工場の使命は重且つ大と云わねばなるまい(写真は鶴原製薬工場作業場の一部(

日本製品に劣るもその前途洋々 原料豊富誇る満洲皮革 化学工業の巻 E

満洲皮革株式会社

満洲における皮革工業は永い間家庭的な製革工業の下に非常に幼稚な燻煙皮硝鞣法を以て近時に至ったが、今や産業五ケ年計画に沿うて一大転換が加えられここに洋式鞣法の機能を有する近代工場の現出を見るに至った、蒙彊方面より産する牛馬又は満洲特有の豚皮の利用如何により今後の発達は実に目覚しいものがあろう、振返って満洲の皮革工業を見るに在来の鞣法に依るものと洋式鞣法に依るものと二種に分れ在来方法は古くより到るところ広く行われて来たものであるが洋式方法の満洲に入ったのはロシアの東部進出以後で、先ずロシア人に依り海拉爾、哈爾浜方面に興りその後日本人及び支那人に依り奉天を中心として漸次勃興したものである
在来方法は毛皮鞣を除いては洋式方法の発展と日本内地より地下足袋式ゴム靴の進出に依って次第にその影を薄くしつつある現状である、洋式方法の工場の内ロシア人経営のものは海拉爾、満洲里、哈爾浜等で本国革命後種々の事情に禍され、更に昭和十一年北満鉄道従事員の引き揚げ(これは満洲国の北満鉄道の接収に依る)に依り其の後不振の状態を続けている
然るに満洲事変後昭和十一年奉天に新設されたものの製品は品質良く、需要も多くその前途を属望されている、満人側の此種工業は事変前は次第に盛況を呈し各地に大小幾多の工場設立を見たが規模小さく設備も不完全で日本内地の工業に比較すれば甚だしく劣っている、一般に満人側工場は従来作業中のものも事変後新設されたものもその製品の品質劣るため内地よりも輸入品と在満内地人経営のものとに圧迫されている現状である、別に特殊工場としては旧東北政権の所有で現在満洲国被服廠製革工場となったものがあって事変後設備改善、拡張して満洲国軍の需要に応じている
原料方面を見るに牛皮は東部地方のものを除いては一般に形小さく且つ蒙古産のものには牛蠅孔(グラブホール)多くて品質良好と云い難いが、屠殺前相当期間肥育することに依り皮の厚みを増すことを得、皮質も向上する、蒙古牛の充分成育せるものを肥育せしめた革は靴底革として米国産牛皮に劣らざる強靭なものである、この満洲市場出廻数量は約三十五万枚程度と称せられている、入荷先は北支、朝鮮方面に仰いでいるが昨年来朝鮮、北支の皮革統制に遇い十五万枚の輸入が杜絶してより現地調弁に大童である、一方馬皮は年産総額約六十万枚で現地消費は勿論、内地方面に多量の輸出が行われている、羊皮は年産五万枚を突破し大部分は毛皮として現地にて消費され製革用原料皮としては剥皮方法が不完全なため殆んどこれが用を達していない、山羊皮は年産六十万枚と称せられ夏期における絨毛なき革は製革用原料として大部分輸出されている
以上の諸点より眺めて満洲の皮革工業の将来は産業開発五ケ年計画に伴う満洲文化の発達と軍用皮革の需要増加とに依り益々その発展性が約されている、皮革の統制に依る牛皮の不足に備えて目下盛んに満洲特有の豚皮の靴底革利用の研究並びに製造を開始している満洲皮革株式会社は昭和九年七月鉄西区北二路五四番地に設立を見、翌十年五月起工し同十一月操業の運びに至ったが製品の市場進出は昭和十一年四月であった
会社の資本金は百万円(七十五万円払込)である、生産品は靴底革、軍需用多脂牛革及び軍防寒被服用毛皮等であり、その需要関係は殆んど特需方面で一般市場進出には未だ至っていない、会社の生産額を見ると逐年異常なる発展を知ることが出来る(註数字的なものは省く)原料の入手先は主として全満(殊に熱河省通遼県)であるが統制以前においては北支、朝鮮より仰いでいたものである
しかして同会社は北支、朝鮮より輸入に俟っていた牛皮の杜絶に依り豚皮の研究を盛んに行った結果比較的良好なる豚皮を得るに成功した、満洲豚は非常に繁殖が強く一ケ年五百万頭を示している、これを数字的から割り出せば優に国内牛皮の不足に充当することが出来るのである、なお目下大連中央試験所において槲、楢、落葉松よりタンニンを製する研究が進められているがこれが成功の暁には従来のアフリカ、アルゼンチン、インド方面よりの輸入を中断せしめ全くの現地調弁が出来ることとなり同社の発展が約されている(写真は工場内一部)

富寧造紙の創立が製糸業の濫觴 今は国内消費の五割を調弁 化学工業の巻 F

満洲紙工株式会社

満洲における製紙工業は今や満洲国の諸情勢に即応し全面的なる活動を開始し、一方パルプ工業の振興を見るに至って漸く軌道に乗って来たといっても過言ではなかろう
そもそも満洲の製紙工業(近代式のもの)は旧東北政権時代から吉林方面に於ける支那人間に幾度か目論まれた模様であるが其の都度政局、財政其他の事情に阻止せられて実現を見なかった、大正六年王子製紙が鏡泊湖の水利権と附近の森林伐採権の獲得により製紙せんとする日支合弁富寧造紙公司を創立したのが満洲製紙工業の濫觴と見られるが財界の変動、支那側代表の失脚に伴う利権の不確実等により是亦挫折に終った、事実上の成立は大正七円満洲製紙会社の創立を以て嚆矢とする
爾来興亡幾変遷を経て来た製紙工業も新国家の発展、関税の独立、市況の好転に伴い漸次活況を呈し支那人向下級紙を専門とする工場も更生している現状である、在来の製紙工場は所謂紙房或は紙局と称し手漉法による原始的家内工業に属するものである、投下資本も全満合計で約二十万円内外といわれその生産額は約七十万円位の小規模なものである、製品は毛頭紙という疎紙であるがかかる家内工業は逐次近代新式工場の圧迫を受けて僅かに介在するに過ぎない、事変後産業開発五ケ年計画の遂行に伴い満洲文化の向上は実に目覚ましきものがあり、これに伴い紙類の需要も年々増加の一途を辿り康徳四年度における全満の需要は約四千万円と云われ、うち約五割が現地調弁されるのである、輸入紙中主なるものは普通印刷紙及び新聞紙、模造紙、画用紙及び証券用紙、煙草用紙、クラフト紙等で殆ど日本製品である原料関係を見るに紙料の大部分を成すものは木材パルプで、パルプは殆んど国内生産のものを使用に充当している現状である、木材以外の原料として現在まで使用されて居るのは紙屑、麻屑、藁及び蘆であるが支那紙製造原料とあってその使用量は少い、紙屑は主として大連営口、天津、京城方面より購入されている、麻屑は古縄、古麻袋等であるが製麻工場の屑物は未だ製紙原料としては利用されていない、藁は水田開発と共に生産も増加するであろうから板紙原料として期待されている
木材パルプを使用している工場は目下鴨緑江製紙、六合紙造紙廠の二社に過ぎない、他は大部分再生工場に属するものである奉天鉄西における製紙工業を見るに非常に日が浅く交通の便を唯一の頼みとして、今後の発達が予約されているという現状である、満洲紙工株式会社は康徳三年十月鉄西区中央路三五に資本金三十万円を以て設立されたもので同工場は廃紙の再生を目的として康徳四年一月操業を開始し、各種ボール紙の製造に着手したのであるが、国内産業の全面的開発、発展に伴い需要増加し増資並びに工場の拡充が叫ばれるに至り昨年十月百七十万円増資の資本金二百万円(七十二万五千円払込)とし一大拡充を断行した
同工場製品は藁を原料とした茶ボール紙を主要生産品として各種ボール紙であり月産四百五十噸月産額七万円に及んでいる、原料はパルプを除いた紙屑、藁にして紙屑は新京、奉天、営口、京城、平壌に求め藁は奉天近郊中心に蒐集され需要先は全満各主要都市が中心となっている、なお同工場では薄板ボール紙製造機を近く購入し全満需要に高く呼びかけることになったがボール紙製造専門工場としての同工場の将来は期待されるところ大である(写真は同工場の

医療吸入用は僅少 今は鉄工用が主 奥地供給一手の奉天酸素 化学工業の巻 G

奉天酸素製造公司

満洲に於ける酸素工業は需要増加に伴い漸く十数年前初めて着手されたものであるが、酸素瓦斯の需要は二十九年前明治四十一年満鉄工場がドイツ、ドレーガー・ウェルクよりオキシ・アセチレンの熔接及び截断器具の試用に始まり当時は未だ内地に酸素を供給する製造所なきため已むを得ず一時上海より供給を受けて居ったこれは試験時代で極めて少量の消費であった故、別に英国より発生器を購入しこれに備えたのであるが軈て実用時代に達した際は恰も内地に日本酸素会社の出現を見、以来内地より供給を受くることとなったのである、併し僅少な内容の酸素を得んが為め重量の容器を日本内地と運搬往復せしむるのみならず税関の手続が容易ではなく又危険物として取扱われその運搬に非常なる困難を伴ったのである
大正七年ごろに至って各方面の酸素の需要喚起され消費量も亦増大し、ここにおいて小規模の製造装置ならば相当経営さるべき状態に到達したのでこの時に当って大連機械において酸素製造装置一基を設備しこれを製造、大正八年初めてこれを市場に供給するに至った又一方満鉄撫順炭砿においても当時工業用及び坑内救助作業用として酸素瓦斯の必要を感じ同様のものを設備したのであるが、翌九年大連油脂工業株式会社も硬化油用水素を得るため前者と同様なるもの八基を設備し、この副産物酸素を一般に販売供給するようになり当時の需要に対しては寧ろ供給過剰の状態となり奥地方面の需要に対しては大連又は京城より供給して居たが種々の不便が伴ったため遂に大正十五年八月京城酸素生産会社が奉天に進出を企図し奉天酸素製造公司を創立しリンデ式液体空気法による空中酸素の採集をなし満洲工廠(元の大享鉄工廠)酸素部と共に大石橋以北全満に広く供給するに至ったのである
その後奉天に於ける支那側でも旧軍閥時代の兵工廠其の他支那側一般の需要に対し大享鉄工廠に同様のものを設備し供給するに至った、昭和年間に入り哈爾浜にも露満合弁の酸素製造所が出現し同地方を始め東支鉄道沿線の需要を満たし自然に供給分野を生ずるに至った
而して満洲事変以来新興満洲国内の需要漸次増加して新に哈爾浜に大満工業所の開業を始めとし奉天酸素、満洲工廠等の設備も拡張さるるに至った、これが現況を見るに酸素工業として現在専業経営しているものは僅かに奉天における奉天酸素製造公司と哈爾浜における福記養気公司及び大満工業所の三社に過ぎず、他は兼業に属するもので此の現象は満洲に於ては従来工業的に多量の酸素を消費すべき鉄工業が不振であるのに加え解体船作業の如きものが絶無である為め殆ど大量の需要は期待出来ず、又その容器を備えるものなく固定資本である酸素瓶の循環円滑を期し得ず、本工業の如く全能力を継続して生産する場合、その能率を発揮し得る工業としては甚だ不利な現況であるのみならず、輸出を試みんとしても青島及び天津等には相当の設備あり、進出は殆ど困難な状態である
奉天における酸素の供給は唯一の製造工場である奉天酸素製造公司を挙げることが出来る、同社は前述の如く満洲工廠酸素部と共に奥地一般へ供給しているのであるが躍進鉄西地区の重工業者の鉄材切断、熔接は殆ど全部同公司よりの供給に依っているのである、今同公司の能力を観るに奉天本工場に一時間生産量百立方米の強力機一基、六十立方米一基、鞍山分工場六十立方米一基、哈爾浜分工場十立方米一基を備え目下生産能力は六千立入、月に三万本で、目下奉天本工場に増設工事中のもの六十立方米二基で、これが完成の暁には優に四万五千本の需要に応じ得るのである、同公司が大正十五年操業開始当時の月三百本供給の事実より見れば実に隔世の感に打たれる
酸素の需要の推移に依って鉄工業界の盛衰を物語ることも出来るのである、同公司にしても昭和十一年資本金百万円の合資会社を百五十万円に増資し又近々二百万円増資を予定しており
酸素瓦斯の需要は満鉄会社の各工場並びに各地一般の鉄工作業用が主で医療吸入用は極めて僅少であるが、将来満洲における医療機関の発達と共に需要も増すものと思われる、この純度は満鉄指定の九九%以上を標準として製造され多くは九九・二%位のもので供給されており、内地一般の標準九八%に比して、遥かに優良である
鉄西地区の躍進と相俟って酸素需要の如何に必要且つ重大なるかを表徴しているのである振興満洲国の開発に伴い一般鉄工業は最近著しく殷賑を来たすに至り、自然需要喚起さるべきは勿論奥地方面に送電の充実さるるに従い熔接は漸次電化される傾向にあり、また将来多量の酸素を消費する大鉄工所の出現する場合には現在の瓶詰輸送のごとき不便より推察すればこれが供給は遂に欧洲におけるごとき中圧式に拠る自己発生装置を設けこれより鉄管を以て工場要所に導き直に使用し得る方法の考案も考えられるところである【この項完】(写真は奉天酸

建設用窯業の必然 全能力を発揮 前進満洲の礎石と勃興 窯業の巻 A

セメント工業

旧政権時代苛斂誅求に悩まされ変遷幾度か苦い過程を辿った満洲窯業関係の工業は満洲事変を契機に心機一転し満洲建国と共に各都市建設を始め鉄道、港湾、治水事業等の振興により各種需要頓に増加して来たが最近満洲国産業開発五ケ年計画の促進、殊に満洲各地における重工業の興隆と東北満における急激なる開発により土木建築界の殷賑は必然的に窯業の勃興を喚起し周水子、鞍山、哈爾浜、撫順、泉頭、本渓湖等のセメント、奉天、本渓湖等のスレートを始め大連、撫順普蘭店、石河、鞍山、本渓湖、奉天等の耐火材料並びに普通煉瓦、大連、石河、奉天、海城、撫順等の陶磁器、南満工業のマグネサイト、南満ドロマイトのドロマイトプラスター製造、昌光硝子子会社の板硝子、奉天製壜等の各種工業は一段の活況を加えて夫々大きな生産目標に向って全能力を発揮し躍進満洲の力強い礎石となって金城鉄壁文化の殿堂を数限りなく築き上げつつある
満洲のセメント工業はその初め土木建築用としてかなり広範囲に亘り使用されていた民間石灰工業とは多少遅れ三十余年間周水子に小野田セメント会社大連支店工場設立に端を発し当時同工場の生産能力は年産約三万瓲に過ぎなかったが、南満洲における各種産業の振興と共に順調なる発達を遂げ第一期拡張工事には年産能力十三万六千瓲、第二期拡張工事には一躍二十五万瓲となり、満洲内の需要に応じていたばかりでなく日本内地、台湾、北支から遠く南支南洋等に至るまで販路を伸展、斯業を殆ど一手に収めていたものである
然るところ満洲事変後各種建築、土木関係事業の進捗により果然需要激増したため小野田セメント会社では昭和製鋼所鉱滓を利用した高炉セメント工場を建設し、年産能力十二万五千瓲で創業、依然満洲セメント界の王座を占めていた、続いて昭和十年二月となって吉林大同洋灰股●有限公司、同年七月には撫順セメント、同年十一月には哈爾浜洋灰股●有限公司及び遼陽の満洲洋灰有限公司が操業を開始し翌十一年には満洲小野田洋灰有限公司が泉頭に又同年十月には本渓湖洋灰股●公司が創業合せて八社のセメント製造工場となり、その生産能力は八十四万瓲に達した
而してこの年産能力によると需要の予想に対し約三割方の超過を示していたがこれは満洲の特殊事情として冬季に於ける休転を夏季需要の殺到に備える必要があるためであった、しかしこの実際問題としては生産高六十五万瓲、輸入高十六万瓲合せて八十一万瓲に対し需要高は六十万瓲内外で一時その前途に暗影を投げかけていたことさえあった
その後産業開発五ケ年計画の着手によりセメントの需要は一層増大し来り同計画の第一年度需要のみでも七十八万瓲に達し今日では少くとも百万瓲は必要であろうといわれている、一方この製造に使用される主な原料であるが何といってもその大宗をなす石灰石は満洲各地に産出し、大規模なセメント原料としての埋蔵量も豊富で良質均斉であり、また粘土は遼河の沿岸から満鉄連京線の西側に亘り洪積層、沖積層等殆ど無尽蔵に産出しており、こうした原料に恵まれている満洲では今後北支産業開発の進展と相俟ってセメント需要更に増加すべく、満洲セメント工業の堅実な発達が期待されている

スレート工業

このセメント工業の振興とともに一昨年来目立って進展したのはスレート工業であるが昭和十二年三月奉天工業地帯にもスレート製造の伊賀原組が進出し操業を開始した
同スレート工場の生産高は混合平板と煙突を合せて一日五百個に達しているが是等生産品の大部分は伊賀原組土木請負の自家用として使用されている状態で其価格は混合平板、煙突共一個二円見当、そして混合平板は普通屋根に使用されている瓦よりも耐火力が強いこと、酸化するようなことがないこと、施工極めて簡単であること、堅実であること等により葺上坪において瓦より幾分高価ではあるが、結局スレート製の方が経済で而も永年葺換の必要なきため満洲の土木、建築界で非常に尊重されるようになって来た
奉天にて伊賀原組スレートのほかに浅野スレートがあるが何れも創業早々のことであり現在の生産能力では到底応じ切れないので夫々工場の拡張、生産能力の増進を企図し着々その準備を進めている

躍進的需要に備う耐火煉瓦業の隆盛 販路は北支・朝鮮へ 窯業の巻 B

奉天窯業会社

満洲建築界の必需品とされている煉瓦は耐火、普通の二種に分れているが耐火煉瓦は明治四十四年満鉄中央試験所で大連小岡子に小規模な工場を設置その製造に着手したのが濫觴であって大正五年鞍山製鉄所の設立に伴い第一次拡張を実施し、同十四年大連窯業会社の設立とともにその一切を満鉄より継承して営業を開始した、現在満洲の耐火煉瓦工場は大小約十二工場あるが、そのうち耐火煉瓦を主営業となすものに大連窯業、撫順窯業、普蘭店川崎窯業分工場、石河福井組煉瓦工場あり、製鉄所の附属工場としては鞍山昭和製鋼所、本渓湖煤鉄公司がある
又営業の一部として耐火煉瓦を製造しているものに大連大陸窯業、奉天窯業、大連奥野製鉄所旅順小林煉瓦工場、撫順伊賀原組窯業部等がある、普通煉瓦は黒煉瓦と赤煉瓦に分れ黒煉瓦は小規模生産で殆ど家内工業に属し、赤煉瓦は大量生産で工場工業に属している、そこでその供給対象も自然都市と村邑に分れている、而して黒煉瓦工業の起源はかの万里の長城に使用されている実情に徴し少くとも二千二百年前頃には製造していたことが判り、又赤煉瓦はロシアの満洲進出後で当時建造されていた兵営、官衙等の赤煉瓦が供給普遍化されたものである
満洲の普遍煉瓦製造業者は日本側九十一工場、満洲側三百二十工場合せて四百十一工場で馬蹄窯に属する小工場は随所に散在している、このほか東満一帯の開発は邦人資本家の尨大なる進出を来し同地方の新興都市に投資されつつあり建築界の殷賑に伴い到る処斯業の堅実な発達を見ている事は最も注目すべきことで、現在の工場数は高岡組石●煉瓦工場、東満窯業ほか五十、投資総額五百十六万三千七百円、窯数三百四十六、年産二億個である
煉瓦製造工場として全満で最多数を占めている奉天では昭和十一年販売統制会社設立により、ともすれば変調を招来せんとする単価も完全に協定され順調に供給されているが、この会社に参加せるもの現在十八工場で、全需要の八割を同会社で取扱っている、昨年の需要数は一億二千万個であったが本年は土建界の振興により三千万個増の一億五千万個、又全満煉瓦協会加入工場の主なるもので新京一億個、撫順七千万個、鞍山五千万個、吉林及び四平街各一千万個、公主嶺一千五百万個、鉄嶺五百万個需要の予想である
大正七年鉄西奉天駅裏に創業した奉天窯業工業地帯建設の為その翌年現地十五万坪(資本金五十万円、二十七万円払込)に移転同時に耐火煉瓦の製造を開始した、設備は赤煉瓦六十万個入り窯二基、ホフマン式輪還窯二基、登窯二基、抜出機三機(能率一日約二十五万個)手抜、乾燥室等備わり、耐火煉瓦窯九基(焼成窯)粉砕機二機混練機二機、又陶瓦は焼成窯四基型抜機三機土練機、荒地機、粉砕機各一機で年産赤煉瓦四千万個、耐火煉瓦二万瓲余、このほか陶瓦四十万枚に達している
価格は赤煉瓦一個二銭、耐火煉瓦並品一個平均九銭、塩焼瓦一坪葺上十三円、同淡物十八円乃至三十円、原物十円以上となっている、赤煉瓦の原料は満洲豊富に有し奉天のほか安奉沿線、煙台等よりも搬入し又耐火煉瓦の原料たる粘土、硅石、菱苦土鉱、苦灰石等も復州、唐山方面から仰いでいる
需要筋の主なるものは赤煉瓦で奉天市内、蘇家屯、孤家子、虎石台等耐火煉瓦はその範囲広く昭和製鋼所、本渓湖煤鉄公司、満鉄等の重工業関係のほかに南は海城、西は北支、北は北満哈爾浜、東は朝鮮方面に移出されその数量は同工場製品の六〇%乃至七〇%を占めている、又陶瓦は体裁、経済、堅固等の点において便利であるため新京、哈爾浜等の官庁、省公署その他各方面の需要が極めて多い
それからこれ等需給の関係は耐火、赤煉瓦、陶瓦とも不足勝ちで製造業者でも将来の需要増加を見越し之に応ずる準備のため各工場の拡充、生産能力の増大に努めている、何分本年は諸物価は勿論この製造に必要な石炭、職工、工賃の暴騰に大きな影響を及しているが、各工場とも全能力を発揮して製造に努め、本年の全需要には大体応じ得る見込みである
而して現在満洲における煉瓦の需要数量は耐火煉瓦は鞍山製鋼所、本渓湖煤鉄公司を除き約三万瓲、赤煉瓦約五億個が予想され今後満洲開発事業の進展に伴う各種建築工業の増加とともに耐火煉瓦、赤煉瓦ともその需要跳躍的に激増すべくその前途は多大の期待を懸けられている(写真は奉天窯業の工場)

白耳義品の駆逐も一ト昔のこと 全満板硝子の年産四十万箱 窯業の巻 C


板硝子工業

満洲の硝子工業には特に挙げるべき歴史というものがないがこの工業の旧母体たる支那の硝子工業を一瞥すると支那には遠くローマ時代に中央アジアを経て硝子の製法が伝わったというかなり古い歴史を有している
併し支那は古来有名な陶磁器の産地であった関係上実用品としては発達せず珠玉香料用の小瓶其他半装飾的な小器物に進み、乾隆時代が頂点に達し山東省の博山を中心として盛んに製造されるようになった、続いて之を北京に送って加工せるものではその色彩が自在であって豊富な点や、彫刻の精巧であって比類なき緻密さなどは実に驚くべきものがあり乾隆硝子の名においては先進の欧米人でさえ歎賞しその蒐集に没頭し愛玩する一面、学術的に研究している程であったその後技術的に衰退の一路を辿り現在では伝統的の硝子工業地である博山においてさえ昔日の俤は全くなくなっている
一方満洲では人口が希薄で文化の程度が低かった関係上原料燃料等相当恵まれて居りながら硝子の製法は容易に長城を越えて満洲へ来なかったのである、先ず満洲附近の板硝子工業としては、大正十一年秦皇島において開●民砿を中心とする英、白両国の企業家により燿華機器製造玻璃公司と称する板硝子工業の設立に始まり当時同公司の生産能力は年産二十五万箱と云われていたが、昭和七年五十万箱に増産、開●炭砿から低廉な石炭の供給を受け、更に関税の特別扱いと相俟って全支那向輸入品に対し鞏固な地盤を築いていた、又満洲では明治三十六年浜綏線の一面坡に露人が一工場設立とともに鉄道用品製造に着手したのがその濫觴で、同三十九年から順次に大連、奉天、営口、哈爾浜、安東等の企業を見るようになり、現在普通硝子製造工場だけでも約四十五を算し、全満における需要総額百九十万円のうち百万円を生産供給するに至った
満洲唯一の板硝子製造会社たる大連沙河口昌光硝子会社はその初め大正十三年満鉄が同地に板硝子製造工場を建設しアメリカからフリンク式窓硝子製造装置一式を購入したが、翌年建設途上その事業を同時にラッパース式硝子円筒引上機八機を備え生産能力年産三十万箱(一箱百平方呎)を算し、満洲市場からベルギー品を完全に駆逐するとともに支那本土は勿論遠く南洋方面にその市場を求め、殊に支那本土に於いて耀華及びベルギー品と常に熾烈な競争を続けつつ着々その地盤を築き上げるに至った
その後同社は板硝子製造工業界の大勢に鑑みるところあって昭和六年、その設置をフーコール式に改造して同七年から新式機械による操業を開始し、更に十一年引上機一機を増設して引上速度の増大を図る等設備の改善に努力した結果予期以上の成績を挙げている、最近満洲産業開発の進捗と明朗北支建設に伴い満洲及び北支における建築界の進展によって板硝子の需要は急激に増加して来たので同社は奉天鉄西に大規模な新工場を設け今夏八月頃からその需要に応じ得る生産品を目標に製造することとなり、設備万端準備を整えている
この昌光硝子会社の資本金は現在三百万円でフーコール式板硝子引上機を九期有し透明、摺、結霜等の加工品年産能力八十万箱に達している、そして同社に使用される原料珪砂は朝鮮及び仏領印度支那から又曹達灰は内地から輸入しているほか、苦灰石は甘井子、石灰石は営城子、長石は普蘭店等で何れも豊富に産出しているので板硝子工業の前途は実に洋々たるものがある
現今の板硝子需給状況を供給国別にして見ると満洲国における輸入市場支那製品三万六千箱、昌光製品二十八万箱その他六千箱合計三十二万二千箱、又支那市場は支那製品三十七万箱、昌光製品二十二万箱その他十七万箱、合計七十六万箱に達し、満洲国内主要市場について見ると大体年額大連市場六万箱、奉天市場十一万箱、新京市場八万箱哈爾浜市場七万箱その他八万箱、合計四十万箱程度である(写真は奉天の昌光硝子会社)

普遍性な曹達硝子 南満に珪岩の山脈 需要に追われる製壜 窯業の巻 D

空洞硝子工業

 満洲の空洞硝子工業は現在大連を主として奉天、新京、哈爾浜その他各地の小工場を合すれば約五十に達し、そのうち大規模で近代的設備のもとに良好なる製品を出している大連の南満硝子会社、奉天の満洲製壜、柏内製壜を除けば他に殆ど見るべき設備と規模の完備したものなく、殊に僅かな資本と簡単なる設備を有する家庭工業的の工場としては財界の波に乗り種々なる変遷を辿り、従って正確な生産額をあげることは出来ないが昭和九年度において約九十万円を算していた、その後南満硝子がコップを主として壜、押型、カットグラス、硬質硝子等を製造するようになってからその生産額は全満の三分の一を占め、更にその幾分かを海外に輸出しているが、他の工場は殆ど壜、ランプ用品等を製造し、その需要に応じている程度である
空洞硝子はその用途に応じて多種類の原料を必要としているが現在及び将来を通じて最も普遍的なものはソーダ硝子である、珪酸原料は少くとも南満洲においては非常に豊富であって広大な地域を蔽う片麻岩地帯には良質の珪石が各地に点々として存在し、又日用食器その他を製造するに毫も差支えない程度の珪岩は大連附近を始め大連、鞍山間の各地に山脈をなして存している、このほか用途により必要であるマグネサイト、ドロマイトタルク等は満洲が世界的存在として知られ長石もペグマタイトとして非常な砿量を存している
かように満洲では天然原料に恵まれているが直接硝子工場に原料として使用されている数量は微々たるもので寧ろ大部分は満洲で耐火材料として消費され、幾分は内地方面へも輸出されている、また需要者を背後に持つ満洲の需給関係は季節により甚だしい増減の差を生ずる面白い現象を呈している
それは夏季殊に雨期において泥濘膝を没する悪路と化し車馬交通全く杜絶状態であると閑散であるが、冬期溝池氷結し一望千里の曠野が四通八達の道路になると需要俄かに増大し、従って取引も非常に旺盛となる
現在の小工場の数を挙げと大連十る一、奉天九、新京及び哈爾浜六、安東四その他十二工場あるが、その将来性について各方面の視間から検討して見ると南満洲では硝子の企業地としての基本条件である原料、燃料、工人及び工賃、気候にも非常に恵まれており、満洲国の発展に伴う人口の増加、交通機関の発達、産業、文化の進展並びに明朗北支建設等と相俟って眼覚しい発達が期待されているが、ここに注目すべきことは最近需要の激増に刺戟されて勃興した硝子工業に製壜がある
満洲製壜のほか自家用ではあるが柏内製壜は何れも他に率先して交通の便利な奉天に工場を設置し溢れる需要に全能力を発揮して生産に邁進している、満洲製壜は資本金十万円の合資会社として昭和十一年創業、安藤式製壜機七組を据えつけてサイダー壜と日本酒の一升壜製造に努力しているが、需給と輸送の関係で在満需要者は内地よりの輸入品よりも満洲産を望んでいるので、これ等の需要は日毎に増加し、サイダー壜のみでも一ケ年実に八百万本の多数に達し、日本酒一升壜は百万本という数字を示している
しかし同工場の年産サイダー壜七百万本、一升壜五十万本では到底その需要に応じ切れないので、更に増資とともに奉天工場の拡充、年産五百万本の大連工場設置を計画し着々準備を進めている
現在の値段はサイダー壜一本昨年より一銭高の五銭五厘、一升壜十八銭となっているが、このほか需要の増加に鑑み同工場では近くビール壜製造に着手することとなっている、又柏内製壜工場も昭和九年資本金十万円で合資会社として操業を開始しているが、同工場は三塔牌化粧として多数支那側へ売り出している化粧壜の自家用に供している程度である、製壜の主なるものはクリーム、白粉、香油、ポマード等で一日生産高は創業当時の一万二千個に比し三万三千個増の四万五千個、このほか天津支店生産一日二万個を合せて六万五千個に達している
この化粧壜は内地よりの輸入品一個平均三銭の半額一銭五厘に相当しているので極めて有利となっているが、この製造に特殊技巧を要する製壜工人も現在では満洲製壜とともに日本熟練工の指導を受けて立派な技術工として活動して居り、而も三塔牌化粧壜はその品質において、値段において最も合理的に製造され、支那人間に高級一点張りの外国品よりも非常に歓迎されているので、その需要はますます増加するばかりで、これがため同工場でも増資と工場の拡充を計画し本年六月には実現の運びとなっている(写真は満洲製壜工場)

満洲文化と軌を一に 薬から必需品ヘ 甜菜製糖業の基礎確立 食料品工業の巻 A

満洲製糖株式会社 上

食料品工業は直接的大衆生活との結び付きにおいて殊に広義国防産業に包含される意味からいえば、戦時体制下の現段階では日、満、支ブロックにおける食料の自給確保の観点からしても重要産業としてこれが発展状況は深く注目されねばならぬ、満洲国では既に製糖製粉、麦酒製造業等に重要産業統制法を適用し、この伸張に至大の関心を寄せている現状である、奉天における食料品工業は鉄西工業区を中心として製糖、製菓、製粉麦酒製造、酒造、更に醤油、味噌醸造、冷凍魚に至るまで各種工場が林立し何れも国内の諸情勢に対応し増産又は増産計画に唯発展の一路を辿り将来の賑盛は期して待つべきものがある
さてこれらの食料品工業中先ず第一に製糖業であるが奉天に於る斯業のみならず満洲における製糖業の中心をなすものは鉄西の入口、大和区永代町に本社並びに工場を有する満洲製糖株式会社である、昔は薬として珍重された砂糖も今日では生活必需品で一国文化の尺度は砂糖消費の消長にあるとさえいわれる程文化の消長とその軌を一にする重要商品である
満洲における製糖は甜菜(ビート)を原料とするが満洲国建国前は南満洲製糖株式会社、阿什河製糖廠、呼蘭製糖廠の三社が斯業の代表をなしていた。然るに斯業の中心であった南満製糖会社は甜菜栽培の失敗(当時満人農民は甜菜に対して殆ど認識を有せず)糖価の下落金融の梗塞張軍閥の圧迫ジャワ糖思惑の失敗、更に当時関税の保護が全くなかったことなどにより、遂に業績不振に陥り大正十五年には鉄嶺、昭和二年には奉天の工場を夫々閉鎖し事業中止の已むなきに至った、また呼蘭製糖廠も同様昭和五年操業休止の運命に直面した、かくて満洲国の建国となってから政府では「満洲国製糖工業方策」並びに「甜菜栽培奨励要綱」に基き糖業経営の根本方針を定め右の方針の下に日本糖業聯合会加盟会社を主体として組織せられたものが満洲製糖株式会社である
同会社は昭和十年十二月出資会社として日本国法により設立せられ別に事業会社として満洲国切を満洲製糖株式会社に譲渡して解散し同社が事業経営に当ることとなったのが同会社の組織概要である、同社の資本金は一千万円(二分の一払込)であるが本年下半期には四分の一払込徴収を行い明年度は更に残額を徴収して全額払込となし尚お増資案も考慮されている、康徳二年末同社設立後旧南満製糖の奉天及び鉄嶺工場の機械を赤司初太郎氏(現同社社長、前記二工場を赤司氏個人で買収)より継承し殆ど十年の久しきに亘り鉄西の入口に廃墟の如く横わっていた製糖工場を奉天工場として精製糖の作業から開始したのが康徳三年四月で、これが満洲における糖業復活の第一歩である、更に同年九月哈爾浜郊外の呼蘭製糖廠を政府から譲り受け補修改造工事を施行、一昨年十一月から操業開始して南北併進の製糖に一路邁進している現状である、同会社の現在工場能力を見るに左の如くである
奉天工場
甜菜製糖 一昼夜六百瓲、一期間産糖能力約十七万担
精製糖 一昼夜百瓲、一ケ年産法により満洲製糖股●有限公司を設立し大株式会社は公司全株を所有し事実上の支配権を持っていた、其の後満洲国に於ける治外法権の撤廃、並びに満鉄附属地行政権の移譲により投資会社満洲製糖株式会社は康徳四年十一月一日満洲国法人に転籍、同時に事業会社満洲製糖股●有限公司は同五年一月その営業一糖能力三十五万担
哈爾浜工場
甜菜製糖 一昼夜五百瓲、一期間産糖能力約十六万担
新京工場
新京工場は鉄嶺工場の機械を移転しこれに増設改造を加うることとし昨年五月から建設工事中で本年十月から運転開始の予定である、而して生産能力は
甜菜 一昼夜六百瓲、一期間産糖能力約十七万担(この項未完)

ビート砂糖百万担 国内生産を目標 興亜の新情勢は自給自足へ 食料品工業の巻 B

満洲製糖株式会社(下)

いう迄もなく甜菜栽培は天候に影響せられること相当多く従って同社では甜菜栽培計画を極めて重要視し、来年度は産業部の協力を得て肥料、病虫駆除薬の支給、収益保償制の実施等をなし農民を集団的に動員し精糖一貫作業を実現すべく之がため甜菜買上げ単価も一千斤七円二十五銭を八円まで引上げることを決定している、本年度の事業計画を見るに甜菜製糖は昨年度の実績約二十万担を四十三万担まで拡大し更に精製糖は台湾糖を輸入し昨年度の二十万担から三十万担に増産の計画を樹立している即ち原料ビート栽培収量は本年度においては奉天地方は一億五千万斤、新京地方は八千五百八十万斤哈爾浜地方は一億二千八百五十万斤、三地方合計三億六千四百三十万斤を予定しこのビート総収量中十二パーセントを砂糖と見積り四十三万担(一担百斤)と計画されたものである然らばこの甜菜種子を如何にするか、種子の良否及びその供給方法の如何は斯業の消長に関係する重要問題であるが同社に於ては康徳三年以来ポーランド、ドイツ及びフランスの三ケ国から種子を輸入しこれを農民に供給して来た、然し満洲の甜菜はその気候、風土に適する独特の品種を栽培することが最も肝要でこの点公主嶺農事試験場において多年研鑚の結果品種の育成に成功したので品種の普及を計り又政府と協力し種子の自給を達成すべく努めている、即ち政府では哈爾浜と公主嶺に原種圃を設けており同社ではこの原種を譲り受けて採種圃を経営する事となったが、この圃場は約七百町歩で同社では主として新京並びに哈爾浜工場原料区域内に於てこの経営に当るべく、既に圃場の選定及びその買収に着手しているから計画通り進捗すれば康徳八年には所要種子の大半は自給の域に達する予定である
更に同社の製品を一瞥するに康徳三年六月始めて市場に出て現在販路は全満に亘っているが主要消費地は奉天、哈爾浜、新京の順序で砂糖では車糖、双目糖、角糖、副製品をして酒精、ビートパルプ(乳中、豚、鶏の飼料)糖蜜等である尚お右製品の特約店は三井物産始め三菱商事、安部幸商店、明治商店の四店である、満洲における砂糖年消費量は約二百万担と推定されるが、この中満洲製糖は五拾万担(ビート糖二十万担、精糖三十万担)と見てのこりは全部輸入品に俟たなければならない
今次事変前はこの輸入糖はジャパ糖を主としたが事変後貿易統制による輸入糖の禁制となり全部台湾産糖で賄われることになり、然し乍ら日満支ブロック経済の立場から砂糖もブロック内に於ける自給自足の方針を以て進み自給自足は広東の砂糖工場の復興、海南島の糖業開発等により難事ではないが将来は台湾糖は大陸支那に向けられるため満洲の製糖事業は愈々将来性を持つものと云うべく差当り国内においてビート砂糖百万担を生産すべく目標を樹て満洲製糖では先ず近き将来の計画として

一、工場の新設、北満綏化と吉林方面に一箇所ずつ
二、既設工場の拡大、奉天工場一日の処理能力六百瓲を八百瓲に、新京工場も六百瓲から八百瓲に、

右二案を計画中であるが問題は資材(ボイラーなど)入手の問題で現在の情勢では実現は早急には困難の状態である、尚お甜菜栽培と農業特に牧畜業との関係であるが満洲製糖では産業部と協力し甜菜栽培のため牧畜を積極的に奨励する事となったが、この理由はビートの根冠、茎葉及びビートパルプ(しぼり滓)は家畜飼料に向き、家畜からは堆肥を得てビートの肥料にされるためである、将来は乳牛を同社の手により飼養し、乳製品(バター、コンデンスミルク等)を生産する計画を持っている最後に甜菜栽培に関聯する模範農村の建設(新民百五十町歩、公主嶺附近百町歩)の問題であるが紙数の関係で省いて結論すれば
満洲における甜菜は世上論議される如く、栽培不適地ではなく満洲の気候、土質は最適地とはいい難いが十二分に製糖事業として成立し得るし、これには北海道のそれの如く官民協力に俟つ所大なるものあることを附言しておこう(写真は満洲製糖の

近代設備を持つ内地大会社の殺到 鉄西中心に鎬を削る製菓業 食料品工業の巻 C

製菓工業

製菓工業は砂糖の消費が文化の程度を物語るとすれば菓子類も文化の歩みと同一テンポを辿る意味において近年著しい斯業の発展振りを示している、而も大体技術が精密機械工業の如く高度のものを要しない点と又消費者が民族の如何を問わず各階層を網羅する関係上満洲に於いてもここ数年来著しい発展を見ている、而も特殊方面の需要と相俟って今後伸びる一方の情勢にある、奉天においては従来小規模のものは醸造工業と共に古くから存在したが近代式設備を持った製菓工場は殆ど鉄西地区に新設されて居り従って鉄西は又製菓工業の中心地といい得るのである、現在奉天の同業の主なるものは明治製菓会社、三立製菓会社、合資会社グリコ、合資会社日満製菓等で何れも鉄西に所在し操業中である
三立製菓

三立製菓株式会社は本社は浜松市東田町に所在し奉天鉄西区南二路にある同社は支店並びに工場である、本社の資本金は五十五万円(四十五万円払込)の日本法人、同社は浜松、東京、京城、大阪(二工場)奉天等と都合六地に工場を有し奉天工場は昭和九年九月の設立にかかり鉄西としては草分けの方である
奉天工場の現在製品はビスケット(但し一口にビスケットと云ってもその種類は七十から八十種類に上る)砂糖かけもの、羊羹、氷砂糖等で年販売高は百五十万円乃至二百万円程度である、殊に羊羹は特殊方面の需要が多く売行増加のため同社では増産設備の計画を有しているが、現在では機械の入手難のため実現は将来の希望としている
併し同社では現有設備でもフル運転すれば年二百三十万円の販売を得る所まで生産されると称している、消費先は奉天と哈爾浜を中心とし全満各地に及んで居るが消費者は邦人、満人半々の内容で殊に近年は満人の嗜好が邦人に近寄りつつあるため将来益々売行の増加を見るものと予想されている
原料は小麦粉と砂糖が主であるが小麦粉は内地並びに朝鮮粉を主として居る、これは満洲粉は饅頭、パンに向き、早い話が満洲粉一等品より朝鮮粉二等品の方がビスケットに向くと云う状態なるためである、現在月二十五車〔一車一三六五袋)程の小麦粉を使用しているが小麦粉需要難から最近上海粉二車分だけ試験的に入れて製品の出来上がりを見ることになっている砂糖は同様内地及び朝鮮から入れ月六十車から七十車程度を使用している
製菓業は周知の如く果物の出廻る季節が閑散であるが三立製菓の奉天工場は最盛時の晩秋から冬季にかけては四百名程の職工(満系労働者が主)を以て操業しても尚お労働力十二分と云い難い状態であるから斯業の発展状況も推して知るべしだ、結局これも満洲産業開発に伴う人口の増加、文化の進展と歩調を一にする所から来るものと見られる
明治製菓

明治チョコレートその他明治のお菓子で知られている明治製菓株式会社の奉天工場は三立製菓同様昭和九年十月の設立にかかり(鉄西南一路)先ず草分けの方である
東京菓子株式会社の後身明治製菓株式会社の歴史は古く大正五年の設立、大正六年には大正製菓株式会社を合併したが当時の資本金は二百五十万円であったこれが現在では一千万円の大会社となり工場だけでも北は北海道から満洲まで二十数ケ所(製乳、乳製品、工場を入れて)あり更に同系会社として株式会社明治商店を持ち各地に支店、出張所を置きこの下に明治製菓販売所及び明治製菓売店を設けて居り殊にこの売店は喫茶を供し明治の喫茶店として全国に有名であることは喋々するまでもないところである
奉天工場は満洲国内の需要に応ずるため設立されたが製品はビスケット、キャラメル、キャンディ類(羊羹、ゼリー等)で月額十万円を産しキャラメルがその中心をなし五割を占めている販路は全満に跨るが此中特殊方面はその全生産量の三分の一を占めている、原料はすべて同社の販売所から供給される形となって居り、キャラメルの原料である飴は米、粟を主として使用しこれは採算し得る範囲の所で各地から入れている、砂糖は一日一車程度使用しているが何れの原料も仕入れは何処の何製品と限らず自由な状態を持続している然し最近の諸情勢は原料入手に相当苦労を重ねていることは他の工業同様である、現在奉天工場は投下資本約五十万円程度で大規模とは云い難いものあるが近く工場、販売所、売店(各独立の形)を一元化し(陽春四月頃には実現を見る予定)これを満洲国法人となし資本金も五百万円位として満洲明治製菓株式会社と改称し一大飛躍をせんとしているから同社の将来は刮目に値するものがあろう
尚お旧臘満洲牧場を中心に各牧場の合併を見、満洲明治牛乳株式会社(資本金百万円本社奉天)が新設されたが新設会社の資本は明糖、明菓系なることも附記して置く(写真は明治製菓のビスケット工場)

原料入手難の鉄西 盛衰決する運賃 北満に一籌輸す南満製粉 食料品工業の巻 D

製粉工業

邦人に取っては代用食とも云うべきうどん、パンの原料である小麦粉は満洲国では満人大衆の主食品である関係上全満における小麦粉需要高は正確な数字は明かにし得ないが大体三千万袋から三千六百万袋前後と推定される、この中満洲国内では現在のところでは二千五百袋前後より出廻っていない(但し全満八十四工場が全運転すれば全産能力は年四千八百万袋程度と推定される)されば爾余の不足分は当然輸入に俟たなければならない、然るに従来はこれを濠洲粉によって賄って来たものが一昨年五月以来は為替管理の強化と共に濠洲粉の輸入が禁止せられ加うるに高率関税により内地粉の輸入も阻止せられたため現に周知の如く国内における小麦粉飢饉を現出し遂に経済部の斡旋による日本粉の輸入により品不足の緩和となり更に政府に於いて根本的価格配給統制の実施を計り「小麦及び小麦粉需給調整並びに価格統制応急実施要領案」を樹立しこれにより統制組合として満洲製粉聯合会が成立し配給の統制が行われ、更に価格の統制(地方別公定価格の実施)又代用品(包米粉など)使用の奨励等により一先ず問題は落着いた
かくの如き満洲国においては生活必需品である小麦粉、その原料である小麦は風土、気候の関係から満洲では北満を中心に産出され松花江沿岸、浜北線、浜洲線、斉北線、牡丹江流域、三河地方がその適地と認められ専門家の観測に従えば既栽培地の集約的利用、未開墾地の開拓を主とし若干他作物の転換を行えば北満小麦の産額は現在の八十万瓲乃至百万瓲より優に四百万瓲までに達せしむることが可能なりといわれる、殊に北満小麦は栄養素グルーデンの含有量に富み現在でも世界最良と称せられるカナダ小麦の含有量四〇%以上に比肩し米国小麦の三三%内外、濠洲小麦の二七%内外を凌ぐものがある(北満小麦グルーデン含有率最高浜洲線安達五〇%、最低松花江下流地方佳木斯二九%)
従って満洲の製粉工業が北満を中心にすることは当然のところで、奉天を中心とする斯業は北満方面の如く、全満の中心をなすという訳に行かない、現在奉天における製粉会社は東洋製粉会社、康徳製粉会社、満洲製粉会社、国益精糧公司等が挙げられる
この中康徳製粉会社(資本金二百万円全額払込)は奉天浪速通に本社を有し、康徳四年の設立にかかるが工場は奉天には無く四平街、牡丹江の二箇所に所在し日清製粉系のものである、更に満洲製粉は奉天小北門外警第二十号に本社あり、資本金は五百七十五万円で明治三十九年の設立という古い歴史を持っている、そして鉄西工業区における斯業は資本金三十一万円、大正十五年の設立にかかる国益精糧公司(鉄西南三路)と東洋製粉株式会社の二工場である、東洋製粉奉天工場(資本金二百万円、全額払込)は日本製粉系(三井物産系)で康徳四年十月設立を見同月末操業を開始しているが、小麦粉の外●を製品として出している、生産量は日産一千パーレル、この中●は小麦粉に対し四対一の割合である、原料小麦は北満粉、南満粉の満洲小麦のみで直接手当を行っている、販路は国内主として奉天市内及び近郊で食料品としてのみ消費される
以上の如く奉天を中心とする製粉工業は現在では南満には原料小麦が不足というより数量の点から問題にならず従って他の諸工業に比し殷盛なりなどとは云われないが小麦粉が満人大衆の主食品たる関係上将来原料の造産によりては期待されるものあるとは云い得るであろう、殊に需要が今後益々昂められて行く状態であるから消費に関する限り将来に於いては何等の不安もない、尚お原料小麦増産に就いては五ケ年計画により鋭意これが増産を計っているから自給自足も遠い将来にあらず一方品質改良(満洲小麦は重量少なく夾雑物の混入多く調整不良のもの少くなく又含水量においては外国産小麦に比し多いものと見られる)も克山の農事試験場、公主嶺農事試験場において研究中であるからこの点においても懸念するに及ばず又他作物(大豆、高梁、粟、玉蜀黍)に比し土壌、気温、旱水害、日射、通風の自然現象に左右されること比較的大なる高級作物で、従って作柄の豊凶はこれに影響さるるため収穫率の振幅も大であるが、これは前記の小麦品種の改良、耕作技術の向上、灌漑、治水の普及により漸次その率を狭められるものと楽観されるし特に日本開拓民の優秀な技術を以てすれば世界に誇るべき優良小麦の産出も近き将来と見てよく従って又在満製粉工業の更に一段の振興は誇張でなしに期待せられるものある事を信ずる、その意味で奉天の斯業も将来に望みを属すべきものであろう、尚お鉄道運賃問題が斯業の盛衰に重大関係あることは周知の如くであるが紙数の関係で触れる余裕がないので割愛しておく(写真は東洋製粉工場外観)

満人常食を覘い多角経営の妙味 和戦両時に備う満洲特工 食料品工業の巻 E

満洲特産工業株式会社

満洲国内における満人の主食品小麦粉が需要を満たすに足らずこれが原料小麦の増産計画及び製粉生産拡大が当面の需要問題であることは記述した如くであるが、この小麦粉不足の現状において小麦粉の代用食料品として最近急速に発達、進出して来たものに精白高梁がある、殊に満洲特産として殆ど無尽蔵に産出される高梁を原料とする精白高梁はその価格の低廉と相俟って将来性は洋々たるものがある、この精白高梁米所謂文化米を殆ど全満の需要を一手に引受けている形の会社は奉天鉄西の玄関(大和区末広町)に本社を有する満洲特産工業株式会社である
同社は昭和十年六月日本法人として創立されたものであるが創立と同時に満洲産業公司を買収業務を継承した、満洲産業公司は現特産工業会社々長金井佐次氏が昭和七年創設したもので、同氏は早くから満洲特産高梁の工業化を企図し鋭意研究の結果従来の原始的水浸搗製方法による高梁に代うるに無水無砂式新搗製法を以て高梁精白業を開始し傍ら高梁製粉、包米製粉の製造も行い更に高梁糖からの焼酎製造にも成功した
茲において現特産工業会社の設立となり前述の如く満洲産業公司を買収継承し既設工場の外製粉、焼酎、酒造工場を新設し漸次事業の拡張を行い現在に至ったが、康徳五年には酒精専売法の実施に伴い焼酎の製造を廃止し酒精の製造を開始した
同社の資本金は三百万円(二分の一払込)資本関係は理研、東拓等が大株主である、(康徳四年、満洲国法入に変更)現在の同社の製品を一瞥するに先ず中心をなすものは前述の文化米(精白高梁)で日産一千七百六十石、年額約五十万円から百万円までの間を占めている
文化米の特徴とする所は水分が無く貯蔵に耐え(従って輸出商品向き)タンニンが浸みていないので風味が在来高梁米に比し優れている点である、この販路は国内が過半で七割乃至八割、のこり二割乃至三割が輸出されているが日本ではこれを主に飴の原料とし又澱粉代用品として紡績、人絹の糊の原料とし又は味噌、醤油の醸造原料としている、国内では数量と運賃関係から南満を主要消費地としている、元来満洲でも比較的寒気の強いところにおいてその九割まで文化米を消費して居り彼の張作霖もこの文化米の常用者であったし大体山東出身者がこれを常用する、暖かい地方例えば天津、済南地方では寧ろ包米粉の需要が多い
同社ではその搗き程度によって文化米を赤印、緑印、桃印と区別し上等品の赤印は一石二十二円五十銭見当で平均石二十円である、尚おこの文化米は現在奉点と開原の両工場で製造している、兎に角文化米は高梁を原料としその高梁が年産数量三千五百万石と見て中一割五分を輸出並びに高梁酒原料とすれば、残り約三千万石は食料の高梁米たり得るから原料の豊富な点が強味である、従って斯業の将来は有望の一言で尽きる、殊に対支輸出精白高梁組合が結成された今日北支の市場を控え而もその実績よりしてその九割まで占むる同社であるから益々有望な訳である(写真は満洲特産工業会社の焼酎製造工場)

人のある所・是興隆 世はまさに“満洲灘” 歴史は浅い清酒の殷賑 食料品工業の巻 F

次に包米粉(玉米粉)は文化米と共に満支人の常食料で同社では日産二千袋(一袋二十二キロ)を製造し(生産能力四千袋)主として国内向けであるが北支にも輸出される、更に高梁精白の副産物糖を原料として製造されるものにアルコールがある、現在同社においては「アミロ」法により製造して居り製品の納入先は専売総局で生産能力二万石、現在は一万四千乃至五千石程度を製造、混合酒の材料として飲料に併用されている、また右の高梁糖から液体燃料国策の見地から重要視される無水アルコールを製造することを企図し奉天工場におけるこの製造を許可されたので目下機械発注中で遅くも本秋頃には操業開始の予定にして当初二万石を目標としている、尚お又酒精を原料として製造されているものに理研清酒がある(登録商標楽天と富士)理研酒はフーゼル油アルデハイドなどの有害物を含有しないことと一年中製造されて腐敗しない所に特徴あり同社では昨年半期間に約四千石販売し尚お需要増あるものと予想し本年は一万五千石の売上げを目標としている(生産能力二万石)而して同社では邦人の酒造業(日本酒)の販路を食うのは在満邦人として共倒れになる故満人向きに市場開拓に努めることを方針としているが楽天、富士共に特殊方面と満人向の需要が漸次増加している現状である、以上の外にウィスキー、葡萄酒、フーゼル油等を製造して居るし製品は実に多種多様に亘り何れも原料、文化米、玉米粉、糠、アルコール、無水アルコール、理研酒と云う如く多角経営而も一貫作業で殊に同社の事業は現時局から見て食料確保の観点より重要視されるものありこの点同社の誇るが如く和戦両時の事業と云っても過言ではあるまい
従って同社としては事業の拡張に伴い近く払込の徴収を行い(四分の一)又増資も考慮されている

日本酒造業

今更杜甫や李白の酒を讃える詩を持ち出さずとも酒は天の美禄で魏武帝の短歌行にうたわれている如く「憂思忘れ難く何を以て憂えを解く唯酒ある」のみかも知れない人のある所酒あり、酒のある所人ありで従って躍進満洲で酒造業の賑盛を来さぬ理由はない、満洲の日本酒醸造の歴史は案外古く明治四十三年頃大連で一邦人が製造を開始したのがその濫觴と云われ満鉄沿線では撫順が最も古く大正五年頃と云われる、然し満洲事変前の満洲の日本酒は内地酒に比し多少の見劣りのするのは歴史の浅いだけ已むを得なかった、事変後邦人の激増により日本酒の需要は亦急増した所から斯業は急速度に発達し日本内地から一流酒造業者が進出し来り而も殆ど奉天に集まった状態であるため現在では奉天は満洲灘の感がある
奉天における主なる酒造会社は株式会社本嘉納商店(菊正宗)嘉納酒造株式会社(金鶴)桜屋酒類株式会社(満洲桜)千代乃春合名会社(千代乃春)株式会社満洲千福醸造場(満洲千福)等である
この中鉄西所在のものは本嘉納と嘉納酒造の二会社であるが満洲国法人の会社で資本関係は別として満洲に本社を有する会社として而も鉄西の隣接地に工場を有する点から又奉天地元酒の代表酒と見られる意味から満洲千福を鉄西ブロックに包含するのは不当ではないであろう、昨年度の全満における日本酒の需要量は約五万八千石程度で本年度は六万石と見込まれているが、この需要を満たす全満の生産高は約四万五千石、この中奉天では二万七千石を生産し全満生産量の約六割を占めている、然しながらこれを以て増加の一方にある需要には応じ切れざるため日本からの輸入酒に俟つより方法がない、本年度は酒造関係者は約三万石の輸入酒を見込んでいると云うから、酒はいくら作っても売れる訳である(写真は満洲特産工業会社理研酒の荷造作業)

三七 レッテル剥げば混淆 灘物に敗けぬ“地酒” 賞玩の不足を嘆く醸造家 食料品工業の巻 G

満洲千福

株式会社満洲千福醸造場は昭和八年十二月設立され(奉天若松町七二)資本金百万円(払込八十六万七千五百円)資本関係は呉市の三宅精米所と同一系統で千福の本場は呉といってよく三宅精米所は三宅清兵衛氏を中心とする同族の合名会社(二百万円)にして創業は遠く安政三年に遡る、従って満洲千福設立以前は千福は内地から入っていたもので大連では現在でも輸入されている
同社の現生産高は年産一万石、而も尚お四千石乃至五千石□□□□売れる見込みは立つが、同社の附近は住宅関係で拡張が出来ず現在の所拡張は不可能であるといっている、原料米は全部之を内地、朝鮮米を以てし内地米は雄町を主とし朝鮮米は南鮮雄町を、何れも大粒を選択して使用している、これは玄米のまま入れて同社では精米機五馬力十台を以て精白しているが、酒の良否を決定する水は奉天はこの点頗る恵まれて居り満洲千福では水深百尺の井戸を二吋三馬力のポンプで昼夜揚水しても、減水しないというから水に関する限り些かの懸念もない
而も大体日本酒の水は硬度四度五分から六度までの所を適当となすが同社の水は丁度この条件を具備していると云う、満洲千□□□□□□□□□□□□□□が北満が南満より消費量が高い満洲は人口の割合から見て一人当りの酒の消費量は日本内地の倍といわれるがこれが南より北へ行く程高く従って北満が日本酒の重要市場である、容器の樽は吉野と肥後杉を使用しているが最近は樽のみならず各種材料の不足のため入手難で瓶や箱材を得るに一方ならぬ苦労をしている、殊に箱材は満洲林業の統制を受けるし又過般の朝鮮米輸出禁止により当然今後は内地米一本に頼らざるを得ない情勢となり(満洲米は良質といわれる安東米でも内地米とは格段の劣りあり今の所これを使用するまでに至らない)然し内地米の輸出を許可するか否か疑問視されこの点満洲糧穀会社の善処方に深く期待している現状である
元来日本酒醸造業は一ケ年の中三四ケ月間で造酒しあとは□々売ると云う事業のため固定資本の率が相当高く従って販路の拡張は収益を昂める意味で重要である、このため日本内地輸入酒との競争は満洲地元酒の最大関心事とする所であるが地元酒造業者の輸入酒観を聞くに仲々興味を唆るものがある
即ち輸入酒は満洲事変前から満洲に入っている為輸入酒はいいものがあると云うのが一つの先入観となっている、然し現在の如く地元酒が輸入酒と優劣ない迄に発達した今日之は多分に疑問視されるものがある、早い話が仮りにレッテル無しに両酒を飲ませて見ると其区別をつけ兼ねる人が多く菊正宗の瓶に地元優良酒を入れて飲ませても之を識別し得ないと云うから在満邦人の舌も信用置けない、在満邦人は大半純粋の酒の味と香りが判らないのではないかと地元酒造業は慨歎している
要するに現在では輸入酒を使用するのは主に料理屋方面でこれは暖簾の関係で家庭では大半満洲地元酒ではないかと云うのが業者の観測である、良酒と云うものは一年中味の変らないもので従って同じ原料を使用して良否を分れるのは技術の問題に帰し業者に云わせると日本酒醸造は芸術であると云う要するに日本酒醸造はある季節的工業の範疇に入るもので、近代的工業技術の見地から云えば将来改良の余地は充分あるものとみられる、なお醸造に従事する職工は満洲千福のみならず他の酒醸場も殆ど内地人と半島人で満人は使用されていない、これは満人の民族特性による水仕事を嫌悪するためである

本嘉納株式会社

本嘉納商店の本社は兵庫県灘御影町にあり(資本金五百万円)満治二年の創業というから酒造の歴史は古い、現在醸造場三十五を有し年醸造高五万石日本における有数の醸造会社である、奉天鉄西南二路にある同社は支店で昭和九年の設立にかかり投下資本約八十万円、満洲菊正宗で知名である、年醸造高は四千石、原料米は播州米を使用しているが、一部朝鮮米も入れており全部本社から白米として供給されている、また樽丸(肥後杉)その他の諸材料も同様本社の供給を受けている関係上原料の悩みは余りないが輸送関係つまり材料の入手において遅延するのに相当苦悩している、それだけ商品のストックを持たねばならずそれは延いて資金関係に影響して来る訳である奉天醸造場の現在設備を見るに
電動設備(電動力三十五万馬力)汽缶(一基五十馬力)給水設備(井戸二ケ所)洗米(自動式洗米機二基、洗米能力一時間白米二十石)蒸米設備(軽金属円釜四個)圧搾設備(螺旋圧搾機使用)容器(桶その他の容器は吉野杉を使用)更に工場は一階には醸造場、作業場、洗濯場、検査室、汽缶室、壜詰工場、製品倉庫、水置場、精米倉庫、炊事場、職工休憩室、事務所等設備され二階は酒母室と容器貯蔵室に分れている
なお同社では二割乃至三割の製品の売行増加を見込んでおり、将来益々これが増加を見るものと予想し既に清酒一万石醸造の目標を以て容器の準備中というから在満邦人の激増と共に一万石製造も遠い将来ではないであろう、酒の需要こそは全く人口の増加に正比例する意味からいえば満洲の特に躍進奉天の斯業は将来とも発展の一路をこそ辿れ衰微することはないと断言していい

科学に依倚する邦人経営の“紹興酒”高粱酒に群がる小企業 食料品工業の巻 H

支那酒醸造業

在満邦人の大多数が日本酒を愛用所謂支那酒である点から見てこの支那酒醸造業は閑却し得ない醸造工業で殊に国内民度の昂揚に伴いするものとすれば満洲国構成民族中過半数を占むる満人の愛用酒は将来益々発展して行く傾向にある一般に満人間に用いられている支那酒は大別して老酒(紹興酒)黄酒(清酒、元酒、老酒)高粱酒(焼酒、白酒、白干児)の三種を挙げ得る、この中世界最美味と称せられる所謂支那料理によく適合するのは紹興酒であろう、或る酒の通人に云わせると”世界を飲み歩いたが紹興酒はその最美味なるものである”とは些か誇張した評言であるとしても支那酒の第一等のものであることは疑いを容れない
 周知の様に紹興酒は支那は浙江省紹興府を原産地として或は杭州、蘇州、寧波地方に生産されるが従来満洲では醸造不可能とされていた、もっとも満洲でもこの醸造に着目し営口、奉天、哈爾浜などで計画した者相当あったが何れも皆失敗に終っている、この最大原因は南支那の温暖の気候に育った醗酵菌は満洲の気候風土には適せず全滅する所から来るのである
この時斯界の権威山崎百治博士が上海で紹興酒を十五年の長きに亘る研究の結果紹興酒醸造の最良菌を発見したので更に暖房設備(摂氏十五度以上に保つ)と相俟って満洲に於ても斯業の成立することの見通しを得創立されたのが現在の満洲造酒株式会社である、同社は昭和八年鉄西区南二路に設立され設立当初の資本は五十二万五千円、現在は百万円の全額払込みである、資本関係は味の素の鈴木三郎助氏と昭和製糖の赤司初太郎氏(満糖社長)が株式の約七割と云う過半数を所有している
 同社の製品は紹興酒(北支、満洲を通じて同酒の製造は満洲造酒のみ)と高粱酒であるが生産能力は高粱酒は奉天(本工場)撫順(分工場)両工場月産二十五万斤(満斤)新京工場(分工場)は十五万斤、紹興酒は奉天撫順の二工場のみで製造され夫々二百万斤、百万斤の生産能力を有している
紹興酒

この原料は糯米と小麦の麹で糯米は南支のものを用いていたが現在では朝鮮及日本内地のものを使用している、全満の消費量は一ケ年約七十万斤から百万斤までの所で販路は勿論国内が中心であるが昨年からは日本における南支よりの紹興酒輸入禁止に依り日本にも輸出される様になった、これは輸出許可を受けて輸出されるが昨年中は二十万斤対日輸出されて居り日本の主要都市東京、大阪、名古屋、横浜、神戸等の支那料理店使用の紹興酒は全部満洲造酒の製品である
 国内では元来この紹興酒は高級酒なるため需要は余り高くなく消費者は寧ろ支那料理店で邦人の飲用するのが大部分と観測されるが将来国内満人民度の高さに正比例し需要増加されるものと予期され現在では満人間では黄酒などの混合酒として使用される傾向にあり紹興酒自体としては満系上流家庭でしか用いない状態である
高粱酒

高粱酒醸造業(焼鍋)は満洲文化の中心をなしていた旧満鉄附属地沿線はもとより国内如何なる辺陬の地に於ても営まれる程普遍的工業で何れの工場も組織、設備皆大同小異で幼稚な在来の醸造方法、工場設備を一歩も出ない状態である、然しながら満洲における主要土着工業として油房と共に双璧たることを失わない、現在全満を通じて高粱酒醸造工場は約千工場を以て数えられ、この中奉天では満洲造酒会社と隆泉海焼鍋(奉天加茂町)の二軒で(邦人経営)外に満人側工場としては義盛泉以下多数の工場がある
 これ等の諸工場の中で近代的設備と技術を持ちその生産額に於ても生産コストの低廉を以てしても満洲造酒会社が他の諸工場より群を抜いている、高粱酒の原料は名の示す如く高粱であるが包米を原料として使用する場合もある、この酒は全支那は勿論南洋の果てまでも支那人の住む所には需要あるため満洲事変前迄は満洲内だけでも三億三千万斤以上消費されていた、然るに事変後は半減し一億五千万斤位になり現在では醸造業者は苦境の状態に直面している、即ち酒精の専売制に依り酒精は廉くそれに引ずられて値が通らず従って生産が増加せず一方需要は農民は特産高のため割合豊かで又苦力の賃銀が上向きの関係から増加の一方にあり然るに生産増加せざるため現在の所需要(全満消費量約一億九千万斤と推定)の三分の一程度しか供給されず(全満の生産能力約一億八千万斤)此が生産増加は満人大衆の主要酒類であるだけ当業者は勿論関係当局においても考慮し対策の樹立が望まれている
要するに高粱酒醸造は現在では遼陽を中心として奉天省が斯業の本場となっているが将来満洲国の発展に伴う人口の増加及び民度の高揚と共に益々需要増を見ることは確実で従って醸造方法も麹の改良設備の部分的改良、燃料経済の研究等近代科学の征服による進歩を待っている現況で本工業の将来性は楽観して可なりである(写真は満洲酒造会社の高粱酒蒸溜工場)

内地生産カルテルへ満洲麦酒界包括 未開拓地に三巴の合戦 食料品工業の巻 I

麦酒醸造業

人生のほろ苦き味を象徴するかの如き麦酒は特に近代人の嗜好に叶い、年々需要増を見せているが満洲では、将来一般に日本内地製でなければならぬとされていた、ところが満洲事変を契機としての情勢一変し、事業家の注目を惹き今や奉天には満洲麦酒、亜細亜麦酒の二大工場設立せられ斯業の基礎確定せられた形である、満洲における麦酒工場は明治三十六年即ち日露戦争直前東支鉄道敷設工事を中心とせる建設景気に伴い誕生し北満における現在の麦酒小工場の主なるものは殆ど全部が当時の創設にかかるものでその製品は最初露人間に消費せられていたが漸次支那人が増加するに従い支那人間にも需要せらるるに至ったのである、その後約三十年間は殆ど変化はなかったが、需要は徐々に増加してウラジオを経由して北海道よりサッポロビールの輸入されるものが多く漸くその需要の不足を痛感され来った
 満洲事変後日本人の増加と共に内地よりの輸入麦酒は著しく増加し、満洲国治安の安定を見るに至り、日本資本に依る麦酒醸造工業は満洲に進出し先ず奉天鉄西に満洲麦酒及び亜細亜麦酒又哈爾浜に哈爾浜麦酒の創設を見るに至った、之を需要方面より見るに事変前年度と比較すれば実に五倍に垂んとしているが在満邦人の異常なる激増に依っても当然肯かれるところである、満人の需要をも見込めば消費量百万箱突破近きを思わせるのであるが、この需要に応ずべき工業条件は如何であるか消費者が存在しても必ずしもその土地に需要を満たす斯業が発生するとは限らない
この点に於て満洲殊に奉天は水質動力、労力、交通、背後関係等最も恵まれている、唯原料関係に相当の悩みありこの原料の大麦は北満の各工場は主として在来種(六条大麦)を使用しその産地は浜綏沿線地方、克山地方及び斉々哈爾地方を主とし寧安、三河地方のものは品質かなり優良であるがこれ等の大麦は元来主として馬糧、焼酎用に使用されているもので穀粒小で穀皮厚く麦酒醸造用としては適当ではなかった、ここにおいて各社では近年来チェッコ種或いは内地産ゴーノデンメロン種を試作したがその収量僅少で未だ試験時代に過ぎない
 次に忽布であるがこの栽培は大正七年ロシア革命の避難民が欧露からザーツ種の苗を北鉄沿線に移植して自家用パン焼に使用したのに始ると謂われ又一方これと同年に満鉄農事試験場(公主嶺及び熊岳城)並びに関東庁農事試験場にて大日本麦酒札幌忽布園より苗を取寄せ試作したがその結果満洲の気温、降雨量等は欧洲の忽布産地とほぼ大差なく大体この栽培に適し唯風害は最も忌むところで欧洲に倣い原野部よりは山岩帯の谷間がよいといわれ札蘭屯、一面坡、牡丹江附近が暴風雨少く栽培に適すると称せられている、現在大満洲忽布麦酒会社で一面坡農場に約十町歩栽培しているが数量少く到底需要を満たし得ず大部分はチェッコ及びドイツより輸入している
米は日本産麦酒には一般に麦芽に混用せられ、これは主に経済的見地より出たのであるが又日本産大麦は概して窒素分の含有量多く麦酒の溷濁を来たし易くこの窒素分の割合を少くするためと、更に又一方日本人は日本酒を併用する故米を用いた方が邦人の嗜好に適すとの見地より使用されるに至った、北満における麦酒工場は大抵満洲米を使用している、南満では主にシャム米を使用するが最も有利と看做され、またシャム米は麦酒醸造に最も適するものである、麦酒原料中の重要役割を演ずる水は南満殊に奉天はその水質最も良く淡色麦酒の醸造用として最適のものである、この点において奉天鉄西地区の麦酒各工場は最も恵まれたものといえるのである
 この好適地に工場を置く満洲麦酒株式会社は大日本麦酒とキリン麦酒の合同出資により昭和九年五月二日設立され資本金二百万円(全額払込)全株十万株(一株配当八分本年一月より一分増配)の内七万二千株は麦酒共同販売会社が所有している、工場を奉天鉄西工業地区南五路に置き工場敷地総面積十万七百五十平方米である、而して第一工場は昭和十年十二月より仕込を開始し十一年四月中旬より豊醸なる地場製品としてサッポロビールを上市し第二工場は十一年十一月二十九日仕込を開始、十二年三月より満州産のキリンビールを市場に出している、生産能力は最初第一工場十万函、第二工場十万函であったが曩に鉄西進出を企図した康徳ビールの権利を買収後両工場で三十三万函となり十三年度は四十三万函、同年秋には五十万函で今日に至っているが、需要激増とその躍進振りを物語っている(又この外清涼飲料水一ケ年十五万函を生産し、第一工場においては三ツ矢サイダー、リボンシトロン、第二工場工場於てはキリンレモンをそれぞれ市場に出している)現在の生産能力は七十五万函乃至八十万函であるが満州国重要産業統制法の適用を受けている為需要不足分を日本内地よりの輸入に依っている現在である、同地区内にある亜細亜麦酒株式会社は百万円の資本を以て昭和十一年四月三十日認可され満洲国法人として十二年一月操業を開始し七月には製品を上市しているが、製造許可数は十二万箱で生産能力は二十万箱である、麦酒共同販売会社の純然たるアウトサイダーとして一般からその成行を注目されていたのであるが昨年十二月中旬キリンビール系資本により買収され同社の子会社として整理せられたのである、工場は目下改造中にて五月頃には操作開始新鮮なる製品を上市する筈である
さて次に現在麦酒の税金は一満石九円五十銭であるが、今後増税は必至と見られこれが又消費者に如何なる影響を及ぼすか麦酒党の注目裡にある現状である、又容器の瓶は目下満洲麦酒において右三社の需要を満たす製瓶工場を建設中であり千六百万本の生産能力を有するもので原料も満洲産が最適で、今後の需要は充分満たされるものと見られているのである、麦酒の副産物である麦酒粕は現在牧畜飼料に用いられているが、今後更に研究さるべき性質のものであろう、現在では平和工業としての見地に置かれているため相当の困難は伴っているが、麦酒醸造工業界の発展とともに従来の如き内地輸入の煩も緩和され、満洲産を以てその全需要をなすのも遠い将来ではあるまい麦酒需要季を控えて各工場は慎重を期し、ここにサッポロ、キリンアジア三社の資本系統は同一とは云え三ツ巴の戦いは麦酒戦線に異状を来たすものとして麦酒党の注目を惹いている(写真は満洲麦酒

四十 その昔の軍需が味噌・醤油の企業へ 内地産は満洲産へ移る 食料品工業の巻 J

醤油味噌醸造業

今から三十六、七年前の満洲国には全く醤油と称するものがなかった、我々人類が生活するためには一ケ年約十二斤内外の塩類を必要とすると云われているが、満人はこれ迄これら塩類をどう取扱って来たであろうか、醤油の類似品には青醤があり味噌の代用品には大醤があった、現今においても都鄙を論ぜず各家庭には必ず此の大醤を排列しているのを見るが其の醸造法も極めて原始的で製品も一種の臭気を有し自家醸であり日本のそれに比較して余程劣等であるにも拘らず現在尚お一般民家の多くは之れによってこの問題を解決しているのである
 明治三十四年(光緒二十六年)奉天習芸所(監獄)は浙江省紹興地方より杜氏を招聘し、囚人を使役して南支那式醤油の醸造を創弁し翌二十七年には市販品として売出したのである、当時尚お嗜好程度低く一般的需要を喚起せず、僅かに大官富豪の贅沢品として贈□等に使用せられたのに過ぎなかった、降って明治四十二年□□□三十四年□浙江省人王姓という者が奉天大東門外において、大同醤業公司を創業した、満洲に於る南支式醤油醸造の鼻祖は官業においては奉天習芸所、民業にだては大同醤業公司である、南支式醤油が青醤に比較して頗る美味であることが、一般に認められて来たが高価であるためまだ大衆的に普及する迄には至らなかった、然し民度の向上と共に醤油の需要は著しく増加し又一方これが有利なる事が知られてから、大正九年以後は毎年一、二工場新設を算する様になったのである
邦人経営の工場について見るに明治三十七年□□□□□□□□□□当時御用達有馬組より満洲軍倉庫に対し「満洲において味噌醤油を醸造し軍に供給せば甚だ有利なるべき旨」を稟申した、これが直に陸軍大臣の許可を得て同十一月満洲軍倉庫自らこれを直営するに至り当時遼陽西関において先ず味噌の製造を開始し、翌明治三十八年二月更に醤油の工場を設置したが同年六月ごろにはこれを閉鎖し、器具類は民間に払下げられるに至った、同倉庫操業当時は細桶九十本、釜二十四、五個あり従ってこれ、民間における斯業の勃興となり、即ち旅順醤油会社、奉天伊予組、営口東●醤園その他二、三の設立があった、満洲における邦人醤油、味噌醸造の濫觴が陸軍であったことは洵に興味深く、かくて大正七、八年ごろより急激に斯業の発達を見て、現今では、関東州内十九余、州外二十一余の工場を数えられ、その多くは最上物を邦人に、二番醤油以下を満人に供給しておりこれ等の需要に応じる原料方面を見るに、大豆、小麦、砕米等は満洲到るところに産出せられ比較的自由に得られるのであるが唯塩の配給円滑を期し得ないのは最も悩みとされている
 先ず大豆から見るに満洲大豆の種類を大別して白眉、金元、山豆の三種を挙げ得られ近年満鉄農事試験場の奨励による改良大豆が散見されるのであるが醤油の如く着色を欲するものは金元□□□□□□箇でこれ等を使用する向が多い、小麦は南満地方では遼河一帯及び奉海線一帯より産出されるが北満産に比すると品質、産出量共に頗る遜色があり現在では主として北満物が歓迎されている、次に塩であるがこれは原塩と精塩とあり醤油には多く原塩を使用されている
 前述の如く満洲に於てはこの原料取得に相当困難を来たしているが現在の需要から見て今の処大して苦痛にはならぬ模様である、日本醤油の製造法は既に周知の如く近年に至りアミノ酸を醸造し之を添加するものが多く、殊に満洲の如き新鮮なる大豆粕を容易に得らるる土地にあっては今後の大豆統制と相俟って、アミノ酸工業の発達は将来頗る有望であり又これが必要に迫られている現状であり、更に漸次化学的に混成醤油の時代に到達の日も近いであろうこの原料的に恵まれた奉天に逸早く着目工場を設置したものに合名会社奉天醤園あり又躍進途上の鉄西に工場を持つものに満洲野田醤油株式会社島屋合名、伊予組、大連醤油奉天工場等は何れも醤油と云うより味噌に重きを置いている
 醤油を主体とする工場としては満洲野田醤油であるが、康徳三年八月資本金百万円(六十万円払込)を以て千葉県に本工場を置く野田醤油株式会社の子会社として創立せられ、翌四年一月操業を開始、同月初めてほまれ味噌を上市し、操業と同時に仕込みされた醤油は翌五年五月キッコー竜の名称の下に地場製品として市場に姿を現したのである、現在の生産能力及び生産高は共に年一万石で日産一六リットル入三百五十樽である
 発展は今後に待たれるわけで目下工場増築計画も進められている模様である、醤油が単に邦人の需要を充たすに止まるものならば数量に余り大した期待は寄せられず、現在の状態で充分であるが、最近の如く邦人の激増と又将来満人の生活様式が進歩して不完全なる自家醸よりも寧ろ低廉で美味な調味料を容易に得らるることを自覚する時代が来るならばその需要数量は相当多額なものになるであろうし事実大正初期満人間に売れ行く醤油は僅々一ケ年二、三千石に過ぎなかったが二十数年後の今日既に十二万石に達し今後なお加速度的に需要増加の情勢を示している、然し最後に考慮さるべきことは満人間にこれを広く普及せしむるには相当の困難を伴うことで殊に満人は品質粗悪の調味料によって馴らされている故満人の味覚は日本人の如く鋭敏ではない、之を向上せしめ満人向き嗜好品となし、満人自家醸を邦人製醤油に向けしむるには如何にすべきかは今後に残された研究問題でありこの点業者に期待するところ多い(写真は奉天野田醤油会社)

四一 四季を通し大陸向取組む二社の競争 冷凍魚北支の新商圏に 食料品工業の巻 K

日満漁業株式会社

我が日本は四面海を以て囲繞され比類無き天然資源を享有するこの地理的天恵と更に技術優秀な国民性と相俟って水産業は昔から頗る発達し漁獲高において世界に冠たるものあるは今更説明するまでもないところである、飜って満洲は国土の広大の割合に海岸線短く僅かに南渤海と黄海にその一部を有するに過ぎない、併しながら在満邦人はその嗜好上日常魚類を食膳より絶やす訳に行かず、而も年々増加の一途を辿る邦人に新鮮な魚を供給することは凡ゆる点から必要事であるが、大陸満洲はその僻陬の所まで新鮮な魚を供給するには輸送関係上十二分の成果は望まれない、殊に貯蔵に堪えて味の変らざる冷凍魚が満洲においては特に重要視される所以である
 満洲において現在冷凍魚保管業を営むものは株式会社兼松商店と日満漁業株式会社の二会社のみで奉天鉄西工業区では日満漁業株式会社だけで本社は大連市にあり資本金百万円(全額払込)の日本水産株式会社(資本金九千三百万円、満業系)の子会社奉天鉄西南三路の同社は奉天支店で昭和十二年六月設立されたものである、営業種目は日本水産製品の一手販売、鮮魚、冷凍魚、塩干魚、水産加工品(水産物缶詰類)の販売並びに冷凍、冷蔵保管倉庫業等で大連の本社では冷凍設備を持ち同社の支店出張所、支所等への総仕入れを行い外に手操船十一組(二十二隻)委託船十組以上を以て渤海の漁獲を行っている
これが販売高は北支、満洲を通じ年額一千万円に上り奉天支店のみでも年額五十万円の販売高を示している、之を種類別に見れば鮮魚二割冷凍魚三割、塩干魚四割五分、缶詰類(鰮、鯖、鮪、蟹等)五分の割合で塩干魚は邦人向では新巻鮭が過半を占め其他すず子、いくら等、満人向は塩鱒、昆布が主なるもので冷凍魚では海老、鰤、連子鯵、烏賊、鮪、鰆、鮭、鰹、鯖、鰮、蛸等殆ど凡ゆる魚を包含し殊に渤海産の大正海老は渤海よりしか漁獲されざるもので、これを冷凍魚として日本内地、中支方面に売捌き、その他渤海産の比目魚、鱸等は何れも大連本社においてこれを冷凍魚となし北支、満洲に供給している、而して冷凍魚はその性質上比較的鮮魚を容易に入手し得ざる北満、東満地方が最も需要が多く特殊需要も相当の数量に上る
 冷凍魚の凍結方法には空気凍結法、塩水式凍結法、浮揚盆凍結法、シャワー式凍結法の四方法あるが何れも摂氏零下十度から十五度以内のところで凍結し之れを保管貯蔵するため一、衛生的二、新鮮であり三、天候、季節、場所に無関係で何時にても準備出来四、形の揃ったものが多量に得られ五、値段が一定して廉価であるなど諸特徴があり魚を商品化し魚の値段において此変動の幅を狭くするというところに鮮魚と異った点がみられる、冷凍魚の需要最盛期は年末から正月かけてでつまり鮮魚の出廻り少い時期が最盛期で従って四、五、六月の鮮魚の仕入期は需要が少い、冷凍魚使用の最も肝要な点はその融かし方にあり水一斗に食塩百五十匁を溶解したものを摂氏二十度乃至二十五度の温度にしてその中に凍魚を浸けると自然に融け殆ど鮮魚と変らない味が得られる、在満邦人が鮮魚と思い食膳に上す魚類も実はこの冷凍魚が巧妙に融かされたものが少くないので冷凍魚は満洲においては重要食料品となっているわけである
日満漁業奉天支店では冷凍魚の設備はなくこれを保管し貯蔵する設備を有しているだけであるが、前述の如く八十万市民を抱擁する奉天に於いてこの冷凍魚保管業は兼松商店(奉天製氷会社の冷蔵庫を使用)と日満漁業の二社のみで従って冷凍魚が需要増の趨勢を示す現在、斯業はただ発展の一路を辿るものと見られ日満漁業では現在の奉天支店、新京、哈爾浜、斉々哈爾、牡丹江、佳木斯、東寧、新密山、綏陽等の出張所、更に北支に於る天津支店、北京、済南、青島、大同、徐州出張所以外近き将来現販売高年額一千万円より二千万円を目指し事業の拡張を行うべく計画しており、これがため冷蔵庫網の拡充を行うがその第一歩として近く公主嶺に冷蔵庫設備を行う予定である
 なお満洲内で同社の冷蔵庫設備のある所は奉天、安東、錦州、新京、哈爾浜、斉々哈爾、海拉爾、孫呉、牡丹江、佳木斯、新密山、東寧、綏陽の十余個所に上る更に右事業拡張に伴う販売網の根本的確立のため親会社日本水産会社に前農林次官井野碩哉氏が専務取締役として先般入社を契機に日満漁業会社は満洲、北支を販売区域として日本水産との従来の関係より新機構の下に組織変えせられんとしており来る四月には実施を見る予定である、即ち之れを増資に俟つか又は生産部門を分離して日本水産の販売会社が設けられ、満洲、北支一円に及ぼすかの二案が考慮されており若し後者が実現の際は大連の同社は日満漁業一本に進み、新京には日本水産の販売支店が設置されるものとみられている、これは取りも直さず斯業の将来性、発展性を物語るものに外ならない(この項終)

四二 印刷工業の二主流“文化”新京“商業”奉天 企業形態の完成で安定 雑工業の巻 A

印刷工業

印刷はその性質によりあらゆる書籍、パンフレット等を出版する文化印刷と商標、レッテル、ポスター等を出版する商業印刷の二種に分れていて日本内地は勿論満洲においてもこの過程を辿り順調な発達を遂げている、そこで満洲は都市の関係で文化印刷は政治の中心地新京に移り、商業印刷は商工都市奉天で盛んになるであろうと考えられないこともないが、奉天は全満において最も人口稠密し、交通の中心都市をなす関係上学校教育、文化事業等の振興に伴い文化印刷業はますます発達こそしても衰えるようなことは先ずなかろうと見られている
 現在奉天の主なる印刷工場としては興亜印刷、共同印刷、南満印刷、奉天印刷、協和オフセットそのほか最近進出したもので満日印刷所、東亜印刷の印刷工場がある
 元来印刷業は委託工業であって独自の生産設備を計画するわけに行かないため原価生産が困難となって見積りの杜撰があり、延いては印刷経営の基礎にさえ大きな影響を与えるようなことがないとも限らない、加うるに奉天には満洲事変以来印刷物需要激増の波に乗って群小印刷業者が濫立し、相互経営に困難を来したため当業者相集まり協議の結果同業組合の結成となり今日に至っている
而して奉天におけるこれ等印刷業者の最近一ケ年請負高は実に二百五十万円に達していると云われている
 さて奉天鉄西工業地帯随一の印刷工場たる興亜印刷株式会社はその初め苦い経歴を有し昭和六年九月の満洲事変勃発当時、軍嘱託であった現専務関真氏が軍の命を受けて物情騒然たるなかをよく奔走し、旧東北交通用品製造廠、旧東北大学印刷工廠、奉天財政庁等の各種設備を統合万難を排して奉天財政庁印刷局の母体を作り上げ只管綜合的経営に努力した結果、満洲国の官公署はもとより全満に亘る印刷文化開発に貢献するところ甚大なものがあった、それから昭和八年となって奉天財政庁の解消と共に奉天省公署印刷局に移管せられ続いて翌年九月満洲国政府の認可を得て印刷局における諸般の設備払下を受け興亜印刷局と改称、昭和十年五月六日資本金五十万円をもって股●有限公司興亜印刷局を創立、同時に新京にも支店を設置諸官公署の特命を受け、専心事業の刷新、技術の向上に努力した結果目覚しい業績をあげ工場の狭隘を感ずるようになったので昭和十二年奉天鉄西区中央路に敷地三千余坪を買収、建坪二千余坪の大工場建設に着手し、翌十三年五月竣工とともに各種新式機械の増設を行ってここに諸般の設備完成し満洲国会社法の制定により同年七月十三日興亜印刷会社と改称、更に北京に支店を新設し規模内容を完備する印刷工場として活動を開始し今日に及んでいる、そこでその業績も事変後軍の特命印刷物、官庁各種印刷物、奉天省定教科書の全印刷、満洲国務院、各部、県公署の諸印刷物、国定教科書、鉄道総局印刷物、其他満洲国の時憲書制定による印刷物等逐年増加の一途を辿っている
又支那事変後北支、蒙彊方面よりの各種印刷物満洲国内の定期刊行物、一般会社の注文等も増加しつつあるが、印刷文化を使命とする同社は一層内容の充実を図るとともに組織を改め迅速、精巧、親切の顧客本位を社則として事業に邁進、この間東京の大日本印刷株式会社と提携して技術の移入を実施し、印刷技術の向上に努めている、現在機械設備は写真版及び活版印刷機四十三台装釘及び紙器製造機械各種十八台、自動式及び各種鋳造機八台平版印刷機十三台、製版用アーク灯十台、自動式断截機七台、写真製版用撮影機、クローム電糟各四台、写真自動植字機、自動式グラインダー機各三台、自動式給紙装置輪転機、自動式乗車券印刷機各二台、グラビア両面刷輪転機、同シート印刷機、モーターゼネレイター各一台その他モーター各種馬力六十台、母型各号九万余個、活版各種百二十余□等あって活版、平版、グラビア、凸版、銅版、原色版、電気版、木版、ダイノクトプコセスオフセットセロハン、コロタイプ等の印刷各種製書、図案製作等を行い一ケ年の生産能力百三十万円に達し従業員も六百五十名を算しているが最近満洲国の急激なる発展に伴い必然的に殺到する大量注文に備え更に万端の準備を整えている、なお奉天には日本人印刷業者のほかに満人経営の印刷工場が六十余軒あるがこれ等は殆ど屋内的工場で技術その他においても日本人工場の比ではない
(写真は興亜印刷工場の一部)

四三 手工業的な幼稚さ製材・兼業の小規模 統制国策に迷う業者の不馴れ 雑工業の巻 B

製材木製品業

満洲の林産資源は由来豊富なることを夙に宣伝されて居り、満洲国建国後の政府調査によりても森林面積は二千二百万陌を超え、蓄積量三十五億立方米を遥かに超過することが確実視されこれは面積において日本内地の約六十%、蓄積において約百五十%に相当し而もその大部分は吉林、間島、浜江、通化、安東、奉天の六省の森林で即ち満洲の東北部が林産資源の中心をなしている、従って現在においても京図、図佳、浜綏の各線地方並びに鴨緑江沿岸が主要産地を形成している訳である
 次に満洲森林の林相、樹種及び用途を見るに大体北海道のそれに似て山麓は濶葉樹多く山頂に至るに従い針葉樹を増加しその中間は針濶混淆林をなす所多く又低湿地にはカラマツの純林の存在を見る、これらの樹種は三百五十種以上に及ぶと称せられているがその中有用樹種は十数種に過ぎない、針葉樹では(テウセンマツ)紅松(テウセンモミ)杉松、エゾマツ、テウセンカラマツ、マンシウアカマツ等でいずれも建築土木用材として重要なるのみならず製紙、人絹パルプ資材として又電柱、製函用材としての需要が多い、濶葉樹では特に有用樹種とされるものはモンゴリナラ(柞樹)マンシウシナノキ(□樹)イタヤカエデ(色樹)ハルニレ(楡樹)その他槐樹、白樺等で鉄道枕木、鉱床材燐寸用材、船艦材、車輛材、装飾材、ベニヤ用材等に使用されるかくの如き豊富な資源を持つ満洲も治安関係から従来北海道又は米材の供給を待つ状態であったが建国後の国内諸情勢特に産業開発の積極性により漸次自給自足の域にまで立ち至った、以上の現状において奉天の製材業を一瞥するに一般に専門的製材工場少なく何れも販売を兼業し而も一、二の工場を除いては機械製材よる手挽製材多く手工業的範囲を脱しているとは云い切れない現在操業中のものとしては東洋木材株式会社、無限製材株式会社、牟●木局、三浦製材所等都合六工場が挙げられるが鉄西工業区では東洋木材と無限製材(大倉系)の二会社である(牟●木局は若松町二七所在)この中資本額においても生産能力においても東洋木材は鉄西の花形として取上げられよう

東洋木材会社

同社は旧秋田商会木材株式会社で本社は大連市にあり奉天はその支店であったが過般組織を変更し新に満洲国法人として資本金三百万円(二分の一払込)の会社となし本社を新京に置くこととなり目下設立登記中である、従って今後同社は日本法人による資本金三百万円(払込百二十万円)の本社を大連に有するものと本社青島のその傍系会社東洋木廠(資本金三百万円、二分の一払込昨年三月下旬創立総会を行う)との資本系統を同じくする三社に分れることになる、創立資本三百万円の旧秋田商会が今次事変を契機に一は満洲国に一は北支に新会社を設立するに至ったことは同社の隆盛を物語ると共に原木の入手など幾多の難関横わろうとも斯業の発展性を示すものといい得るであろう
 これにより大連本社の下に旅順、萩の両支店を持ち(製材工場は大連市、萩市の二ケ所)新京本社の下には奉天、安東、図們の三支店、錦県、阜新の両出張所があり(製材工場は新京、奉天、図們)更に青島本社の東洋木廠のもとに天津、済南の両出張所あり(製材工場は青島、天津)斯業の拡張に努めている
 同社の製材能力は百二十万日本石満洲国内四十万石で製材のみならず原木、製品の売買をなしているが年販売高五百万円を示し、この中奉天支店の主なる市場は奉天附近及び奉山錦承線の沿線地方とし、主として針葉樹の白松、紅松である、以上東洋木材会社の業績は好調の一路を辿るかに見ゆるが最近の統制強化は一般製材業者に必ずしも前途楽観を許さず東洋木材もその例に洩れない、即ち一般製材業者は統制強化を危惧し従来の如く伐採業者へ投資することを逡巡し、これがため入山は例年なら九月頃のところ十一月頃となり従って木材の市場への出廻りが遅延し、斯くして需給の不円滑と更に現行六割の買上率が更に拡大せられるであろうとの推測がストック品の自由売りとなり、現に周知の如く昨年上半期には材価昂騰し遂に記録的最高価格を示すに至り、政府に於いては国外移出を禁止して対策を講じたが特需方面の需要激増に伴い一般用材の配給も益々不円滑となり、これがため木材配給統制実施の機運がここに醸成され全満木材配給の一元化が企図されるに立ち至った、かくして満洲林業、中東海林、鴨緑江採木公司を除く一般製材業者は既に許可制度となり、木材配給協議会の設置と共に、全満十ブロック別に木材統制価格を施行し、又各主要木材集散地毎に更に木材の輸出は許可制度に定められるなど、何れもこれが実施は一般製材業者に影響するところ大なるものあるべく、然しながら木材の国防上、経済建設上に占むる重要性に鑑みれば近来の如き木材市場の混乱、市価昂騰の情勢は以上の統制強化も必然的と看做されねばならない、従ってひとり東洋木材のみならず一般製材業者の将来は多難であろうが国策に適合する方針を誤たない限り悲観すべきものではないであろう尚お木製品工業は最近鉄西に主として家具類の製品工場が進出しつつあるがこれが本格的活動は将来に属望し他に燐寸製造業あるがこれは満洲国専売法の施行により現在ではその指定により営業している、右の工場としては内外木材工業株式会社、吉木工務所、前田工務所、満人経営の恵臨火柴(燐寸)公司等が数えられる(写真は東洋木材会)

四四 品質の良好さが進歩発達に導く 鉛筆工業は最上条件 雑工業の巻 C

東亜鉛筆会社

鉛筆の製造は十八世紀末ドイツにおいて発明されたものである、従来インキによって文書の目的を達していたのであるが、鉛筆の発明により俄然文書、書画に一大変革をもたらした、発明国であるドイツの優秀なる技術乃至研究は製品の上に現れ現今世界各国中品質の点より見れば如何にしても同国を第一とされるのである、その後各国においても普及し製造されるに至り現在その最も発達しているのは日本及び米国である、自国の需要を充たし進んでは海外に輸出する貿易の進展においては最近日本は嶄然頭角を現し随って技術及び品質の上においても異常なる進歩を見、寧ろ外国品を遥かに凌駕するものを産出するにいたったのである
 明治初年鉛筆の製品及び製法が同時に日本内地に輸入されて以来その需要の重大性が各方面に認められ製品が上市されてより僅々数年にして従来文筆界の王座を占めていた毛筆は全く圧迫されその勢力は漸次推移し遂には一時毛筆製造工場の整理、閉鎖するもの多く王座は鉛筆工業によって独占せられるに至った世界列国に比して日本の鉛筆工業が急激に進歩発達を遂げ良質の製品を産出するに至った根本問題は先ず原料の豊富及び品質の良好なることを挙げ得るのである
即ち鉛筆材として最も上質とされているアララギ材は北海道に於いて多量に産出され、芯の原料たる黒鉛はこれ亦最も上質のものが朝鮮より豊富に生産されているのである、斯くの如き好条件下にある日本内地では現在業界頗る活況を呈し今やこれが製造工場は櫛比林立の状態である、一方満洲国に就いて見るに原料としては黒鉛を除き他の全部が国内に於て自給される現況にある、筆材と云い又色鉛筆と云い又色鉛筆に要する染料と云い配給状態は好調を辿っている原料に於いてかくも恵まれている満洲国が過去数十万の輸入品を以て充てていたのはむしろ不思議な感を持たざるを得ないのであるがこの恵まれたる原料国に着目鉄西の一角南一路二十一番地に呱々の声を揚げた東亜鉛筆株式会社を奉天に於ける唯一の鉛筆製造工場として挙げることが出来る
 同社は康徳三年三月三十一日資本金二十七万円(払込九万四千五百円)を以て日満合弁に依り創立され、早や満三ケ年に垂んとする同社の業績は満洲における鉛筆工業の草分けとして亦大なりといわなければならぬ、黒鉛を除いた大部分の原料を国内より収受し得る好条件にまで到達し得たのも一つに同社の目指す現地調弁を達成したものというべく過去において輸入品のみを以て需要供給を充たしていた満洲として自国内に於て之を求め得ることは発展途上の新国家として歓迎さるべき雑工業の一つであろう、同社の生産能力は各種鉛筆を通じ一日平均五、六百グロス、年産約二十万グロスでこれが販路は在満の各官庁、大会社、学校等の指定名義入鉛筆製作及び各地文具問屋筋の注文を充たし遠く北支方面へも進出している現状にあるが、同工業として最も悩みとされるのは従来内地輸入によっていた先き付けゴム(消しゴム)及び金具でこれが統制に依って今後到達供給の円滑は期し得ないのである
先き付け金具の代用品としてはベークライトを用い得るのであるが消しゴムの代用品は目下研究中で近い将来においては従来のゴムにも優に勝るものが産出されんとしている、現在では同社のストック品を以て需要に充てているが将来この代用品に対する研究達成の暁には鉛筆工業界に一大革新を齎らすことは言を俟たないところである、又一方従来内地及び朝鮮方面より輸入されている芯の原料たる黒鉛も満洲国内において産出され得べき可能性は充分あり、この研究も期待されるところである、満州国は一面においては非常に天然資源に恵まれた国であり、他方には又原料的に研究開発の多分に残された国である、この意味において現在その需要に充たされているとは云え国力の進展に伴い供給の増加は当然視されこれ等未開発原料の産出開拓は同社に俟つところ大であると云わねばなるまい
 同社は尚お附帯事業としてインキ製造をも営んでいる、このインキ製造事業は結局品質問題に帰着し現在に於てはドイツ式タンニン鉄インキが最も信頼し得るものとされているが同社はこの方法を採用している、含有諸薬品は殆んど日本内地に求め得られるが色彩鮮明高雅なものは今尚おドイツに俟つものが多い染料はドイツより直輸入している状態である、従って国内に於けるインキ工業は多難と云わねばなるまい(写真は東亜鉛筆工)

四五 英米トラスト駆逐から大衆向煙草の獲得 鉄西に蒐まる全満煙草製造 雑工業の巻 D

太陽煙草会社

奉天における近代式煙草工業の歴史は既に日露戦争前に発している、而もその生産設備、能力共に満洲における絶対優勢の地位を占めて全満市場に君臨して来たことは近時奉天が工業都市として押しも押されもせぬ躍進を示している事実と照し合せて蓋し興味ある事柄である、何故に奉天に煙草工業が発展したか、その基礎条件を一応考慮して見ることは鉄西煙草工業を語る前に参考の一端となる
 従来満洲にも旧奉天省下はじめ吉林、牡丹江、或は呼蘭、海倫地方に煙草を栽培していて刻煙草として満人需要に向けられていたものである、併し三千万満人大衆の需要を充すには自給自足が出来るものでもなく又在留外人特殊嗜好用としては在来種では満足な商品生産は全く不可能の事であり、又紙巻煙草の需要増に呼応現地製造に着目したのが英米トラスト資本による英米煙公司であった、英米は日露戦前既に上海、奉天に工場を設置し極東煙草市場の独占化を実現しつつあったのであるが戦後日本の大陸進出と共に日本煙草業者は満洲に於ける工場設計計画を進め設立されたのが東亜煙草株式会社であった
その後大正末期にかけて満人側の群小煙草工場も簇出し満洲市場は英米煙の牙城に迫る東亜煙草の進出と両者角逐の間隙に乗ずる群小工場の市場喰込みによって熱烈な競争が続けられて来た、今日でこそ満洲国の葉煙草増産計画、貿易統制、為替管理と相俟って、外葉の使用は制限され所謂国産煙草の奨励が積極的となり英米煙(今日の啓東煙草)の輸入煙を素地とした絶対優位性は崩れ、満洲東亜、満洲煙草等新進会社による販路再分割が行われているが、満洲事変前までの煙草工業は何んと云っても英米トラストが牛耳っていたのである株式会社太陽煙草が正式に設立されたのは康徳四年(昭和十二年)七月であるが同社の沿革史はそれより五年前即ち昭和七年に創る、満人陳子和氏の個人経営として資本金五十万円を以て奉天市平安通に設立、翌年三月市内稲葉町工場を移転、更に都市計画に基き康徳四年、株式会社に改組、工場を鉄西工業区南一路に移転、今年二月工場施設拡充を行うため資本金を倍額百万円(全額払込)に増資専ら満人向の両□廉価品の製造に当り、代表的銘柄としては白馬、三手牌、太陽牌、仙鶴牌、美女牌等であるが最近は時代の嗜好に応えて東京、喇嘛□魯の比較的高級品をはじめ神風、スリーシックスといったものも製造しているが、生産の九割以上は満人大衆品が目標で東亜、英米の手の届かぬところに大衆を獲得するのが同社の存在を意義あらしめている、その生産高も日産三百五十箱(一箱二万五千本)と称し吉林、敦化、斉々哈爾、延吉、西豊、海倫、勃利等に支店を有し、その製造技術系統からいえば上海系であるが、原料は山東葉、満洲葉を混用、国策線に沿うて増産計画を進めており群小工場中の白眉であり、又鉄西工業区内における純満人資本による工場としての特色を以て、今後の発展的経営は注目に値するものがある(写真は太陽煙草工場包装室)

四六 煖房界に一新紀元満洲型ストーヴ 全満供給目指し日産三十個 雑工業の巻 E

ストーヴ製造業

冬季零下数十度を示す満洲及び北支、北鮮等における生活必需品として挙げられるものは煖房製造業であるが、この中でストーヴ製造業は満洲ローカルを持つ工業と云い得るであろう、スチーム煖房は主として大会社、工場等に用いられるが、一般的には矢張りストーヴに依る煖房であろう、燃料報国石炭報国が叫ばれている折柄採煖器具は煖房用のみではなく炊事が兼用されて初めて理想に近いものであり、一般民衆の要望に応え得ると云うものである
 ストーヴ製造の起原は判然とはしていないが遠くギリシャやローマの文明が起るに及んでオルターハース或は金属製で獣脚を型どったトライポット等の器具が照明兼煖房に利用されていた日本内地に於ては延喜五年に発布せられた法令中に火桶のことがある、当時は陶器製の炉、□火桶があり集団用としては炭櫃火取り、炬燵の類が用いられていた、而して日本内地に石炭を燃料とするストーヴが輸入されたのは安政五年の頃でその当時はビール樽型の達磨ストーヴであったが後種々研究改良を加えられて今日に至ったのである、今日猶昔乍らの所謂石炭を多量に喰う型が残存しているのは業者に取って大いに研究の余地があり注目さるべき点である
ベーチカ式のものは別として従来満洲に於ては日本内地よりの輸入に俟ちこれとても不完全なものが多く、又需要も不足を告げていた状態で厳寒時における満洲においてしばしば煖房装置の無き炊事場等は水道、下水の凍結に悩まされ続けていた、これが改善について昭和六年満鉄人事課住宅係及び工事課建築係では当時大連にある佐々木商会に内命し研究の結果同商会の手により満洲における十数年間の経験を基礎としてほぼ理想に近い耐火煉瓦を用いたベーチカ式のものが完成された
 この新製品の出現に依って、夏季は竈専用として又冬季は採煖兼用竈として漸く理想の実現を見るに至り、建築費の節約又一方燃料の軽減化と相俟って煖房界に一新紀元を劃するに至った
 満洲における十数年の経験と基礎を有する佐々木商会の内容に就て見るに粘土、硅石、菱苦土砿、苦灰石等耐火煉瓦原料の埋蔵量は殆ど無尽蔵と称される恵まれた満洲国に着眼、昭和十年七月初旬鉄西南四路三十六番地に資本金六万円を以て進出を企図し奉天唯一のストーヴ製造工場を設立した
同工場の現在生産能力は日産三十個、年産六千個を算し創業当時年産一千個から僅々数年にして六倍の需要に応え得る情勢よりして今後における発展を期し得るであろう現在の需要方面は特殊方面、満鉄満炭、昭和製鋼所、房産、電業その他全満及び北支、北鮮等に及び新様式建築には殆ど採用されている、この広範囲に亘る同商会の製品は名付けて昭和竈と称し、先ずベーチカ式ストーヴの王座を占むるものであろう、その他満蒙ストーヴ、二重落釜の製造をも行っており、その年産額十五万円で近い将来に於ては優に一万個の製造も可能視されてはいるが主要材料たる鉄板及銑鉄は統制のため行きづまりを来たし殆ど入手は困難と思われ又一方日本内地における統制のために在来の輸入が激減しこの状態が継続するならば今年の冬は生活必需品たるストーヴが不足を生じ一大問題が当然惹起されるものと予想され悩みは又此処にも大きなものがあると云えるであろう、従ってこれが代用品の研究はなされるべきで同商会においても鉄板に代るべきものとして強度陶器の研究に腐心している、然し乍ら鉄板と同等放熱の効果を挙げ得る迄には至らない現状である、満洲に於ては食事を節しても煖房装置は不可欠のものであり又大陸文化発展の上よりしても室内煖房は閑却視得ぬものだけに陶器原料の豊富なる満洲国に於ける斯業の発展は代用品と相俟ってその将来性に富めるものと断定して過言でないであろう(この項終り=写真は佐々木商会工場の製品置場)

四七 新興満洲国の表徴巍然商工都市の重心 前途を決定づける生産拡充

エピローグ

以上四十数回に亘る鉄西工業区の紹介によって同工業区が近代工業満洲国の躍進を物語る如く先駆者たる役割を果しつつあることを実証し得たと確信する、それは内地資本を大動脈とし日満ブロック経済を延いては東亜新経済建設の基本理念を骨格として営々築き上げられて行く歴史的金字塔であり東亜新秩序建設に驀進する日満両国民の逞しい精神力の表現に外ならない
 今や新東亜における満洲国の建設的使命は東亜の安定力を基礎づける日本重工業発展の促進、日満支蒙に亘る全面的鉱業生産力拡充計画の実施と相俟って愈々その重要性を昂めつつある鉄西工業区が日本企業の精鋭を網羅して計画的集団工場地帯を形成していることそれ自体重要な意義を有するだけではない、ここの蝟集する工場の構成要素から観察しても満洲国産業五ケ年計画遂行と如何に密接な関係を有するかが推知されよう、従って□西の存在は独り商工都市の重心たるに止まらず百数十工場一斉操業による生産力は新興満洲国として工産輸出国に質的発展を遂げしめることは敢て夢物語ではない、併し鉄西工業区をして堅実なる発展を期待するためには曩にも述べたる如く幾多の難関が予想されぬ訳ではない、先ず当面の問題としては建設資材難である、これは国防工業を第一義とする限り可能的に解決されねばならない
 併しこの問題も当面の産業計画が重点主義で行くか並行主義で行くかによって解決に緩急を生ずることは已むを得ぬことであり、要は鉱工部門に於ける基礎産業の生産拡充が実現すれば自ら解決されることでその間の依存関係は政府当局の方策如何に懸っているのである
第二に考慮される問題は労働力の需給関係である、生産力拡充、建設事業の増大は必然的に鉱工業の技術者、職工、苦力の不足を招来し、各部門共これが対策に腐心していることは屡報の如くで前二者に対しては日満両国の本格技術員養成対策によって逐次解決しつつあり、後者に対しては満洲労工協会と工場経営者の自発的協議対策により、当面の供給難を突破しつつありと雖もこの問題は後に述ぶる工場管理の問題とも緊密なる関係を有してその処置には最も慎重を要するのでは無いか、特に苦力問題の如きは今日の如く強力なる統制下に産業戦線に動員することは可能としても彼等の国民意識昂揚に伴う待遇問題を如何に解決するか、この労働力不足の現状と労賃問題の決定こそ将来の満洲国産業経営上に直接的連鎖を有するだけに今日に於て万全の方策が考慮されなければならないのではないか
 最後に鉄西工業区の市場圏の問題並に工場管理に関する示唆である、支那事変を契機として北支、蒙彊は東亜経済ブロックの重要構成要素として登場、日満との関係は相互依存性の上に経済開発が推進されるべく意義づけられている、従ってこの新情勢に即応する満洲国産業五ケ年計画も曩に一大修正が施され、現地調弁が所謂適地適業方策へと漸次転換を余儀なくされつつある
併し鉄西工業区の建設現況を以てすれば現地調弁の強き要請に応えつつあることを見逃す訳に行かぬ、鉄西存在の意義は先ず国内産業の推進への寄与であるからその工産品は八十パーセント以上国内需要を充足せしむるものである、併し鉄西進出工場中には将来北支市場へと視野を拡めているものも無しとしない、之等の工場が原料入手、輸送、関税関係で如何様にも工業条件に変化を生ずることあるべく殊に北支における雑工業の勃興は全くその期待を裏切ることとなり、一部鉄西工業区の構成に変転あることは予想されよう
 工場管理問題はそれが集団工場地帯であるだけ工場相互の有機的経営が最も効果的に期待されるも前述の如く僅少の賃銀差によって移動激しき職工対策、或は労働問題の如きも工場管理の主流をなす根本案件であってこれに対しては形而下的は勿論形而上的指導力が遺憾無く発揮されんことを切望し本論の結びとする(完)(写真は五万職工の在住する新興鉄西満人街)

上海為替情報

【上海二十二日発国通】為替は落付対英八片六四分の一七、対米一六弗四分の一売りに寄付いた、円札は九二円四分の三売り、九三円買い、金単位二三九元四


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