新聞記事文庫 朝鮮・台湾・満州(14-160)
京城日報 1935.7.11-1935.7.12(昭和10)


株の配当金を要らぬと頑張った当年の朝鮮人

=数え切れぬ目賀田男の功績=

馬場●一


私が朝鮮に行ったのは今から約三十年の昔明治三十九年の五月であった。当時大蔵省に勤めていた私は韓国政府の傭聘に依って在官在職の儘朝鮮に派遣せられ、韓国政府から財政顧問府に補すとの辞令を受け所謂傭聘官吏として目賀田財政顧問の下で働いたのである。その後まもなく統監府書記官に任ぜられ次いで財政監査庁が設立されるや同庁監査官に任ぜられたのであるが、監査庁は四十年九月二十日限り閉鎖の運命に遭い、私も又法制局参事官に任ぜられて内地へ呼び戻される事となり朝鮮に居たのはわずか一年四ケ月の短日月に過ぎなかった
当時に於ける朝鮮は交通開けず産業又萎□沈滞して振わず、人民は長年に亘る秕政の余弊を受けて塗炭の苦にあり宮中府中の別更になく、財政、税制、幣制その他混沌として殆ど収拾すべからず、一言にして云えば凡てが殆んど御話にならぬ状態にあった。その朝鮮が僅か三十年足らずの短日月の間に今日の如き隆盛を見るに至った事は、歴代総督の施政その宜しきを得たる事勿論なるも、当初に方って目賀田財政顧問の達見に依る諸般の改革がその基礎をなした所に負う所が少くない
目賀田顧問の朝鮮に於ける治績は殆んど枚挙に遑ない。只自分が関係していた仕事の二三に就いて述ぶれば先ず第一に宮中府中の別を立て財政を分けられたる事である。目賀田顧問が財政の整理をされた事は整理と云うよりもむしろ財政経済の建設であった。殊に貨幣整理の如きは当時韓国の通貨たる白銅の濫造偽造が盛んに行われ、殆んど収拾できぬ状態で、その整理をなす事は極めて困難視されていたのであるが、目賀田顧問は一部人民の反対あったにも拘らず之が整理を断行された
又棄銭の整理も可なり困難な問題であったが之も整理を断行し、一方には第一銀行をして、兌換券発行の任に当たらしめ之を統一したのである。その後兌換券発行権は韓国銀行に移り日韓の併合なるに及び現在の朝鮮銀行に移ったものでこの貨幣整理に依って初めて朝鮮の財政経済の進歩が基礎づけられたわけで、実に千古不磨の一大事業と云わなければならぬ。若しこの幣制の整理失敗に帰していたとせんか朝鮮の開発は確に十年乃至は二十年遅れていたのではないかとすら考えられる
更らに農業を初め産業の開発を目的として明治三十九年六月京城に漢城農工銀行を創立された。次いで各道に農工銀行を設立され産業開発に尽されたが後日これの農工銀行が合併して今日の殖産銀行となったものである。今日殖産銀行が産業金融方面に於てあれ丈けの働きをなしているのも、実にこの目賀田顧問の農工銀行設立に基礎づけられている
農工銀行の設立に就いて面白い話がある、その資本金の大半は政府で出したのであるが、残余の分を一般朝鮮人がら募ったのである。然し当時朝鮮には株式の募集など云う事はなかったので仲々之に応募しない。已むを得ず殆んど半強制的に株を持たした。そこで、募集員が行くと我々の財産を掠奪に来たのだ不都合な奴であると云うので地方民の憤慨を買い襲撃されたとか、されようとしたとか云う話もあった
斯くていよいよ農工銀行が成立し業務を開始したのであるが開業第一期から僅か乍らも配当する事が出来た。そこで第一回の株主総会を開き私も監理官として臨席し配当のことを云ったら、一朝鮮人が私共は金は□上げたのであるから今更そんなものを貰う理由はない、お役人様方で適当に御分け下さいと云ってどうしても呑み込めない。そこで株の配当というものはそんなものじゃないと良く説明してやった所が驚きもし且非常に喜んだ事があったが、今から考えると実に滑稽な話である
又産業の発達を目的として金融組合の制度を創められた。これは確明治四十年の五月だったと記憶している。即ち最初僅か許りの加入金は出させるのであるが政府から一万円位の金を出してやる。而して現在の拓大(当時の東洋協会専門学校)卒業生を理事として運用の任に当らせたのであるが、金融の梗塞している地方農民に対し金を貸す丁度内地の信用組合見た様なもので、非常に便利であるから忽ち全道に行き渡り、今日も尚存続発展している。而して或意味に於ては内地以上に発達して居り朝鮮の産業開発にどれ丈け役立っているか判らない
当時朝鮮の土地調査と云うのは極めて不完全なものであった。内地の地券に似たものがあったが、今日の如き土地台帳等勿論無い所有権等も極めて曖昧であり測量等全然出来ていない、そこでこれはどうしても全鮮的に土地調査を行う必要がある。それには色々の誤解もあり感情も手伝って来るから内地人の技術者ではいけない。どうしても朝鮮人の技術者を造らなければならないと云うので講習所が開設され、鮮人技術者の養成に努められた。この遠大なる計画によって初めて全鮮に亘る土地測量が完成し、初めて土地台帳が出来、租税の中で尤も重要なる地租の制度が確立したのである。これ等実に目賀田顧問の先見の明あった事に敬服するのである
次に税関設備の改善である。当時朝鮮の税関は請負制度であった。従来英国人が請負って一定額を政府に納附する以外は大部分自己の収入として了っていた。従って税関の設備など不完全極まるものであったが、目賀田顧問が総税務司となられてからは従来通り請負制度ではあったが、政府納附金を除いては収益の全部を税関の改善工事に使用された。税関の改善には可なり多額の金を注ぎ込んだのではあったが釜山、仁川を初め沿岸各港の設備は大いに充実改善せられ全然面目を一新するに至った。為めに内地と朝鮮間、朝鮮沿岸各港間乃至は朝鮮各国間との貿易その他に便する所甚大なるものがあった
更に驚く可き事は当時既に京城を初め平壌、釜山、仁川等主要な都市へ水道の計画が樹てられたのである。私が水道用地買収の為め永登浦に行った時だったと思う、何でも土地の者が吾々の土地を掠奪に来たのであると大騒ぎして、吾々を襲撃せんとした事もあったが、兎に角これ等の都市が比較的早く隆盛に赴いた事は、全く目賀田顧問が当時水道を造った事に負う所が甚大である。若し水道なかりせばあれ程早くあれ丈けの都にはならなかったであろう
目賀田顧問の事績の一つに加う可きものの中に官立病院の建設と之に伴う煉瓦製造所の創立とがある。当時朝鮮は衛生思想極めて乏しく、病院その他の衛生設備が極めて不完全であった。よって目賀田顧問は国民保健の立場から大韓病院その他幾多の病院を設立された。又当時官庁の新築すべきものが多々あったがその材料となる煉瓦を内地から取寄せる時は非常に高価なものになる。確か当時一個の値が仁川波止場渡し二銭五厘から二銭八厘位であったと思う。そこへ偶々大蔵省の矢橋と云う技師がやって来て、朝鮮で煉瓦を造ったら良いじゃないかとの話が出て研究した所、麻浦附近の土が材料に適する事が判ったので製造所を造る事となった。今は囚徒の作業場となり煉瓦、土管、瓦等を作っているのが即ちそれで、私がその創立委員長を勤め伊藤公から御賞めにあずかった事を記憶している
斯くして四十年十二月いよいよ創立し昼夜兼行で製造を始め建築中であった大韓病院の半分位は間に逢わしたと思っている。これに依って内地から輸入しなくて済む様になり総ゆる政府の建物の建設費が非常に廉く上る様になった。この外目賀田顧問の事績は幾多あるが、之を要するに朝鮮が今日の如く産業その他の方面に於て僅か三十年足らずの日子で異常の躍進を示し、ある意味に於て天道楽土と云っても良い位になったのは目賀田顧問の仕事に花が咲き実がなったものと見ても良かろう
私が居た時分の京城は未だ水道もなく汚い街であったが僅かの間に華かな近代的都市となり鉄道の如きも京釜線、京仁線、それに京義線は陸軍の鉄道監部で動かしているに過ぎなかったが今日に於ては幹線は元より北鮮その他の方面も鉄道が四通し産業教育その他万般異常なる進歩発展を遂げ実に隔世の感がある


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