新聞記事文庫 日本(3-001)
大阪新報 1912.5.24-1912.6.11(明治45)


大阪の追懐 (一〜十二) (雑報)

某古老談


(一)

 人生五十年、多くは墳墓の人となった□世紀の昔語りを朧気ながら壮年時代の蹟に残る記憶の糸より手繰り出すのであるから縺れ搦んだ談緒錯綜、順序もなけねば纏まりもないと云うことだけは予め断って置きたい
隔世の感とはよく何人も口にする所なるが真に五十年前の我が国状を今にして想い起せば隔世の感と云うも愚かである、封建制度の王政維新によって文物制度より風俗習慣に至るまで一変し国は東洋の一島弱国より一躍して世界文明の強大帝国の班伍に列するに至りたる変遷の実に驚くべきの歴史は何人もこれを知ると雖もさてその実状に接して生た歴史を直接頭に宿す身には更に耳学問によってこれを知る当代人士の感想を以て到底思いも及ばざる深き感想を有するのである、併し是等社会的感想の事実を繰返すにおいては殆んど際限もなきのみならずその大体は既に世に知られているのであるから自分は更にこれを繰返すことを止めて主として大阪における維新前夜の経済状態に就いて説くこととしよう、言うまでもなく大阪は幾百年来商業の中心としてその覇を揮ていた土地柄にて金融機関なるものに就いては古来非常の発達を極めていたのである、さればその当時江戸においては専ら取引勘定は金を土台として居ったにも拘わらず大阪は銀が土台となって取引は総て銀勘定であった、所でその銀なるものは金相場が立って日日高低の変動を極むるため実際取引においてその銀を用いることも極めて稀にして僅かに日々の小買物にこれを用いる位の外は殆んど使用するの要なくして済んでいたのである、と云うものは取引は悉く手形によって行われていたからである、此の手形なるものは総て両替屋より発行せられたるものにてその信用の発達せることは実に驚くべきものであった、何人も此手形に対して不安を懐くものもなけねば却って正銀よりもこれを歓迎すると云うの姿にて此の手形を受取りたるものはこれを両替屋に持参すれば何時にても正銀に取り替えらるるのであるが而も正銀に替ゆるものはない、それは手形にてあれば何時にてもその記入価額に通用するに反し銀と取換ゆる時はその日の銀相場如何によって非常の損失を招くことがあるのである、例えば金百両の品物を銀八貫目で売渡し八貫目の手形を受取りし場合に銀相場下落して八十二匁となり居れば手形面に対して二百目の損を見なければならない故にこれを両替屋に八貫目として預け置けば入要に応じ何時にてもその八貫目の手形を受取り得らるるから商人としては却って繁雑なる金銭を取扱わぬだけ便利であったのである、此の取引習慣は何時の頃より起ったものなるかは判明せないが恐らくは古くより伝わり来ったものと見えて経済学の何ものをも解せない当時にあって全く今日の手形制度と同じき金融制度の習慣として立てられていたと云うことは余程商取引に就て大阪商人の頭脳が進歩していたことが首肯せらるるのである、故に大阪には金はなくとも如何なる大取引も円滑に行われ、金融は絶えず江戸に比して緩慢であった、殊に信用制度の発達が如何に旺盛であったかと云う例証としては此の手形なるものが政府の発行せる金札よりも一層確実なものとして一般に歓迎せられて居った一事を以ても推し測ることの出来るのである

(二)

他国商人取引となるとこれは手形の流通しない地方に持返るのであるから金でなくては支払いは出来ないようであるが是れまた実際そうではなかった、他国商人が米なり薪炭なりその他諸種の国産物を積み上せこれが代金を受取りても多くは金で持帰るものはないので大抵は呉服物なり何なりにかえて帰るのが十中の八九であるから案外に金は要せなくて手形で取引は済まさるることとなっていたのみならず是等の代金支払いも悉く手形を以てせられていたのである、故に手形を受取りて金の必要なる他国商人のためには、相場なるものが日々立てられていたからその商人は手形を両替屋に持参すればその日の相場に換算して金を受取得られたのであるが併しそれでも金が他国に輸出する様なことは殆んどなかった、而して大阪が銀を専ら用いるに至った原因は明かに知ることは出来ないけれど或は大名が金を借るための便利から起こったものではないかとも察せられる、諸大名が国帰りなり其他総ての買物をするに就て鴻の池とか加島屋とか云う大家で以て金を借ることとなっていたがその金は総て銀を以て借入れていた、これは大阪が銀取引なるがためと言わんよりは寧ろ大名の便利によって作られた習慣の遂にここに至ったものと考えらるる節があるのである、尤も此の貸金と云った所で正銀を以てするのではない只だ一枚の手形を振出すのみであって例えば茲に銀千貫目を鴻池より毛利侯に貸附けるものとして毛利侯よりは千貫目の借用証文を入れる、これと引替えに鴻池よりは千貫目の預り手形を発すると毛利侯はその手形を取引のある加島屋に預け入れてその額に対するだけの手形を発して買物代を支払うのであるがさてその大名の返済方法に至りては是れまた金を以てするのではなくてそのお蔵屋敷に米の集まった時に米を以てするのである、その方法もまた一切米の預り手形であって米入用の商人は所用額だけの預り手形を買取ってこれをお蔵屋敷に持参するとその手形面に相当するだけのお蔵米を受け取り帰りこれによって毛利侯は曩に鴻池より借入れたる手形面額に相当するだけの米を引渡して借金を決済するのである、斯くの如くして貸借と云い取引勘定と云い悉く手形を以てせられたれば商業の中心地として取引は非常に盛んなるものありしにも拘わらず大阪市中には金なるものは殆んどなかったとも言ってよいのである而もその欠乏の金を更に政府に引上げらるることとなったのが明治の二三年頃と記憶する政府は何が故に此の策に出でたかと云うに当時日本における金銀は比較的価格の低廉にありしがため民間に散布せる金銀は恰も一種の商品の如くなりて盛んに海外に流出するのみか、更にその金が価高まりて再び日本に入ると云うが如き有様となって日本はこれがため少からざる損失を蒙っていたのであるされは当時の為政家はこれが救済策として民間の正貨引上げを講ずるに至ったその一方には外国人がその買入れたる金銀を造幣局に持込みて悉く正貨に鋳潰すがためさなきだに金銀欠乏の大阪にあっては茲に忽ち金融閉塞の大恐慌を演出するに至った、が之は啻に大阪のみではなくて広く全国に渉って経済界の恐慌を襲来せしめたのである、而して此引上策は如何なる形式によって施されたかと云うに当時の策としては実に巧妙であったことが思い遣らるるのである

(三)

御用金申附を以て此引上策は施されたのである、所で従来徳川幕府時代において数次此御用金なるものは申附かったが一回としてその返済を見たことはないので御用金と云えば最早献納であると解せられていたのであるから何人もこれに対して快く応じるものはないこれを見て取った政府においても余程考究したものと見え其籠絡策として富豪を選抜し太政官会計局御用掛りなる者に任命し二字帯刀を許したその時大阪に於いてこれが任命に預かったものは鴻池、広岡、長田というが如き当時の大富豪であった、そして此の御用掛り立会の上、政府官吏としては時の大阪鎮台醍醐大納言が属僚木場伝内を随えて出席し十回ほどに別ちて日々一回百人内外の市内商人を集め御用金調達を申渡したのである、けれどもその各自の調達金額をその場で申渡すのではなくて前以て調査し置きたる各自の身代に応じ割当てたる金額を封書として渡したのであるから家に帰ってこれを開封して始めて自分の申附かり金額が判ると云う次第で実に今日から考えれば圧制も甚だしいのである、その時の借上げ金高は大阪が三百万両京都が二百万両であったがその借上金には年一割と云う利子を附せられ且其借上げの理由に就いて懇々と説諭的に申聞かされたので幕府時代の貸まいらせの御用金とは多少趣きの変っていることだけは稍会得せられた、否会得せらるるもせられないもないその場合に臨んでは最早否応の云えなかったのであるから只だ恐れ畏んでその命に従うたのである而して此の御用金は如何なる名目の下に命ぜられたかと云うにこれは大政官会計御元立金として仰附かったのである、そうして御用掛立会の上これを言い渡された時更に口頭以外にお借上げの御趣旨を認めたるお書下者なるが上席者に一枚ずつ下げられたのであるから大阪において都合十枚ほど此のお書下げが残っている筈であるその一枚として今高麗橋一丁目の滝山家に伝わっているものを見ても実に当時の政治状態が偲ばるるのである、全文を示せば
此度於大政官万機被聞召候に付金穀其外民間戸口賦役等の儀総て会計局御取扱に相成候に付其方共向後会計御用被仰付候間何も厚く相心得正路を以て上下共差支之無様精々尽力有之事
尤も是迄仕来の融通は勿論新規取引の廉も尚慥成る引当を以て手広く融通させられ度御趣意に候間心付の次第有之候わば早々可申出事
一金三百万両
右者此度会計為御元立調進可有之事右御返弁の儀は地高を以て御引当に被成下筈に候得共尚好の筋も有之候はば可申出事
これ当時のお書き下げである少しく非違あれば当路者を弾劾し関税のこと国際のこと一に民意によって動かされんとする憲政今日の日本も近く四十余年前には此の一片のお書下によって大阪市内に三百万両と云う金を絞り上げ得たのである、誰かこれを想うて今昔の感に打たれざるものがあるであろうか

(四)

維新戦乱の世は苅菰と乱れて腥風血雨、国家は為に累卵の危うきに座せんとして国民の堵に安んずるものもなく何時戦乱の巷に化し家財重宝を蹂躙せらるるやも知れざる天下の形勢を控えては如何に利を逐うに急なる商人も晏然として商業に従事せられようもない、何れも浮腰となって万一の場合立退きの凖備として手形の取付けとなったれば流石に隆盛を極めたる両替屋の大部分はこれがために破産し手形の流通は一時に塞がりたる跡に右の如く御用金として正金三百万両を更に政府に引上げられたのであるから大阪の商業界は忽ち火の消えた如き有様となって殆んど商売は機関が止ったのである、此の時において太政官は民間融通のためとして会計局紙幣なるものを発行したがその紙幣は十両、五両、一両、一歩、一朱の五種であってその後五六年を経て更に太政官民部省の名によって二歩、二朱の二種紙幣が加えられたがそれは後の話しにて最初の発行は明治二三年頃であったがその当時にありては未だ維新の戦乱漸く鎮定したりと云うまでにて人心は尚恟々として定まり居らざれば政府発行の紙幣も一向に信用なく紙幣一両二歩を以て漸くに金一両と匹敵するの価となり何人も紙幣を厭うて受取ることを避くるの傾きあるより時の太政官にあって専らその献策に当っていた光岡八郎(故由利公正子)なる人が茲に政策上の大手腕を揮ったのである、それは外でもない地方に出張する時は宿屋払いその他の買物代について一枚として紙幣を以て支払いに用いない、必ず正金を以てなしそうして紙幣と正金との間に何等の差なきことを盛んに吹聴して紙幣の実価を高□ることに努めたのである、而して尚一方には法律を以て正金と紙幣との間に差額を設くるものある時は用捨なくこれを縛り上げて強制的にその流通を図ったがそれでも尚内々の取引には矢張り紙幣は正金だけの通用力を有せなかったけれども漸くに危まれたる政府の基礎定まるとともに人民も安心して紙幣を収受するに至ったから茲に始て完全なる正金の通用力を有する事となったのである、さて話は少々錯雑して来るが御用金借上げによって金融力の塞がったため大阪の商業は火の消えた姿となったと前に言ったその時である、政府はこれを救済するため大政官通商司なる者を置いて紙幣を以て民間に貸下、金融を附するの策を執った、がその貸下には無抵当ではならないとあって曩に借上げたる御用立金の証文を抵当にその金額だけを向う三ケ年期限を以て年八朱の利にて貸下ぐると云うのであるから金融に逼迫せる際のこととて御用立金の証文を有せるものは競うてこれを借入るることとなったと云うものは手許は逼迫であり且つその当時には未だ徳川幕府時代の貸しまいらせの御用金が頭に残っているため紙幣の何たるを云うているの場合ではなかったのだ、そうしてその借り入れ金は三ケ年の期限に達せんとする前に当って政府にては借用人に返済方は曩の御用立金とお差つぎを願い出るも差支なしとのことを達したから得たり賢しで借用人は悉く御用立金を以てその返済を了したのである、これがために民間の経済界は稍回復し政府もまた一時財政の急を済いし得たのである

(五)

維新の成金風雲児の成功は多く人心動揺の過渡期にある、明治維新の革命乱のために多数生民は実に塗炭の苦しみを甞めたが而も風雲児に取ってはこれがまた千載一遇の好機会であったのだ、今日日本の三大長者として三井三菱と肩を並べて居る男爵住友家の如きは慥に此の王政維新の革命時においてその風雲によく乗じ得たる成金党の大親分である、同家が成功の経路に就いては後に詳しく述ぶることとしてここには先ずその以下の小成金連の成功筋道を一通りお咄しすることとしようこれには順序として摸造貨幣のことを一応頭に入れて置いて貰わなくてはならない、時は恰も王政復古せられんとして徳川の流れ漸くに涸れ果たる幕末時代よりかけて維新後廃藩置県の過渡期間である、徳川時代にあっても貨幣の鋳造は尚幕府の統一する所となり諸藩の鋳造はこれを禁止しいたるも幕府の威力漸くに衰え来りし一方には通貨の不足によって金融の逼迫は年々その傾向を加え来るよりこれが融通策として鹿児島、広島、筑前の三藩にては自ら貨幣の鋳造をなすに至りしが普通ならば法禁に触るるの廉を以て差止めらるべき筈なるも幕府の威力衰え居ればこれを詮議するの勇気もなく黙認に附して自由に鋳造を許せしよりその金は公然天下の通用貨となって市場に現われ大阪には随分多額の流入を見たりしがその中にても鹿児島藩のものは最も金質悪く麑島のチャラ金として他の筑前、広島藩のものよりは一段と声価低く仮に幕府の二歩金百両が太政官紙幣百五十円の価を有せしとすれば筑前は百三十円、広島は百二十円、鹿児島は僅か五円の差を以て百五円の時価を有するに過ぎず而して此格合は何によって立てられしかと云うに大阪にては盛んに種々の貨幣入り込むを以て両替屋にてはこれを潰しにかけて試験しその金分より割出したるものにて流石に商業地だけに是れ等の鑑別智識は最もよく進歩しいたり、而も鹿児島のチャラ金は別とし他の筑前、広島等の金は紙幣に交換すれば百両に就き少くも二三十円の差額を儲け得らるることとなるを以て商人等は盛んに此の藩金によって品物を売附けこれを以て更に模造藩金を知らざる桐生、足利若しくは岐阜地方へ呉服その他の買仕込に行くのである、所でその地方に至ればこれが真正の金となって紙幣百五六十円に通用するから商人共はこれを持帰りて元価通りに売っても尚お五六割は儲かる勘定である、斯る有様にて藩金は益々商人に歓迎せられるので藩金と紙幣との差はいよいよ多くなったから藩金は益々盛んにこれが鋳造をなすと云う次第で物価は騰貴するばかり、そうして商人は頻りに此の藩金を手に入れては地方へ買出に行くのであるが地方にても始めの内は真正なる貨幣として受取っていたけれども段々後に至っては模造金なることが判ったので遂には非常の大騒動となって再び入り来った時は見付け次第寄って集って打殺そうと云うまでの相談が成り立っていたからサア大変それとは知らずに前々の味を覚えてウッカリ入り込んだ者は既でのことに一命を取らるる所を漸とのことに逃げ出して信州路へ落延び繭糸などを買附けてこれまた相応に利得を占めた、此の手段によって維新前後に大阪の商人にて成金党となった者は非常に沢山なものである、それが今日に至ると多く其素性を知るものがないのを幸いにイヤ紳士でござるの紳商で候のと威張り返っているけれどもお里を洗って見れば決して人の風上に置かれた所業をして造り上げた身上ではないのだ、その名前だけは余り可愛相だから控えて置こう

(六)

住友の貧乏さと云ったら維新前後までは実に驚くべきものであった、と云えば今日の住友家をのみ見ている連中には或は信ぜられないかも知れない、けれども事実だから仕方がない、併し貧乏と云っても一般に云う無一物の素寒貧と云う意味の大貧乏ではなかったと云うことだげは断って置く、兎も角もその当時よりして住友と云えば多少世間に知られた家柄ではあったが財産と云う点に至っては全くお咄しにならぬ貧乏を極めて当時の鴻池などに比すれば迚も足元にも寄りつかれた訳のものではなかった、されば幕府製銅受負と云う仕事としては随分大きく遣っているものの節季々々の諸払いさえも満足に出来たことはない、大抵半金払い四分払いによって断りを立てていたと云う有様、けれども何しろ事業も大きく老舗も古いので滅多に掛倒しなどのことがなかったから金は遅れるけれども商人は皆安心して取引をしていた、さて此の住友家が如何にして今日あるに至ったかと云うに徳川幕府においては銅座なるものありて別子銅山の如きも此の銅座を以て経営していたので住友はこれが発掘及び吹き分けの受負事業を営んでいたのであるそうして掘出されたる銅は大阪に運び来りそれを現今の同家邸宅たる●谷の吹分け工場において吹分けて北浜丼池角にあった幕府の銅座に納めるのであるが銅座にては此の多額の銅を受取りても第一入れ場がない、そこでそのまま預り証文を取ってまた住友へ預け込みこれに対する賃金だけはその場に払渡しとなっていた、而して銅座にては人民より銅入用に就いてその売下を願い出ずる時は詳しく使用法等の申立てを聴き取りたる上にてこれを払下るのであって一貫目の銅を払下を受るにも中々容易の手数ではなかった、何故に銅座が斯く厳重に用途まで聞質したかと云うにそれは妄に銅を民間に払下ぐると銅貨を偽造すると云う恐れがあったからである、咄しが少々岐路に渡ったがさて住友家にては此の預かり銅なるものが古くより積り積って証文面によれば非常に莫大なるものとなっていたけれどもそれだけ住友の倉にあるかと云えば決してそれはなかったのだ、然らばその預り銅は如何になっていたかと云うにそれは内証で民間に売渡されていたのである、銅入用の人民が銅座に払下を願うのは手続きの面倒に堪えないから成るべくそれを避けて手数の要せない住友に内々売渡しを申出ずるものが多かったのでお預りの銅は何時の間にかその数を減じていた、尤もその当時とても年に二三回宛は必ず銅検査なるものがあって預入れの銅在高を証文面と対照することとはなっていたけれどもその検査員は常に近附の間柄なる銅座役人であるから賄賂次第によってどうでも籠絡し得られたれば検査はただ表面の名のみであって立入って数量を調ぶる等のこともなく至極事穏かに済まされていた

(七)

役人株買取銅座役人なるものは士分とは云え所謂武人にあらずして文官に属するものなれば二字帯刀は許されしも常は一刀より帯し得ずして旅行等の場合に限りて両刀御免の家格となり居りその家格は都合により親族間には譲り渡しの出来得られたるがため役人等の貧乏を極むるにおいてはその役人株を他に売渡す、けれども親族関係のない赤の他人には出来ないのだがその実当時にあっては戸籍面はどうでもなし得られたから表面親族と限られたものの何人にても差支えなかったのである、だから住友家にては役人株の売物があると直に手を廻して自家の使用人などの名義によって之を買取る、そうして段々銅座役人までを手中のものとなし来ったからいよいよ以て預かり銅の検査は訳もなくなり殊に従前の如く多分の賄賂を使うの用もなくて自由自在の行動が執り得られたのである、而も此の時に当って王政維新の革命騒は起り幕府は政権返上となって遂にその本尊が倒れたから銅座も潰れ預り銅はこれを請求するものもなく多年来証文面に残っていた巨額の預り銅は有耶無耶の裡に遂にそのまま住友家に流れ込むに至ったので同家の身代は茲に始めてその根底が築き立てられたのである、而して此の好運児をして更に好運に乗ずべき機会として与えられたのが維新後の制度改革に基く地券発行の布告である、従来各藩において取立ていたる租米を中央政府に一統して地租を取り立つることとなりたれば土地所有者はこれが届出をなすべしとの布告であったから住友家にては多年受負事業として関係し来りし徳川幕府の別子銅山を我物として届出でに及んだところ政府にても一々これを取調ぶるの余力もなけねば徳川においてもまた深く是等に眼を掛くべきの場合ではなかったから届出通地券は遂に住友家に下って所有権が茲に確認せらるることとなった、これが画策の主脳者となって活動を試みたのが住友の大黒柱として知られた例の広瀬宰平翁である、斯くて別子銅山が住友家の所有となるや同家にてはこれが経営に全力を傾注し技師として外国人を傭聘し盛んに新智識を応用して発掘に努めたるより銅産額は俄に増加し徳川時代の別子銅山とは全く面目を一新するに至った、然れども外国技師などの傭聘に就いては多額の俸給を要し随って経費の膨張を免れざれば人材養成によって成るべく日本人を以って当らしめ、俸給経済と国家的人物利用の方針の下に大いに人材養成に努め前途有望なる青年を引上げて海外に留学せしめ専門智識を習得せしめてはこれをその要路々々に用いることとしたので事業上の成績は益々優良のものとなり住友家の柱石はに茲万代揺ぎなき確固不抜のものとなったのである

(八)

住友は怨望の府

住友の此の成功は兵馬倥偬の間に処し天下の人心未だ定まらざる動揺の機会に乗じて時の大番頭宰平翁が別子銅山の所有権冒認の奇策首尾よく効を奏したると幕府の滅亡によって多年の銅債自然消滅に帰したるとの所謂好転の以て然らしむる所にして他の小成金連の如き姑息的不正手段を弄して不義の富を重ねたるものとは多少趣きを異にし居れり尤も厳格の意味において云えば無論国家的罪悪たるには相違なきも個人的関係において更に他に直接の迷惑を及ぼせしにあらざれば民間より怨望を蒙る如きことは理において無き筈なるに夫が実際そうでなかった細鱗網に入って呑舟の魚は洩れたり、住友の如きは実に国家的大犯罪者である、それを打捨てて彼等政商のために独り天下の富を握らしむるのは実に天下大法の乱れであると言った様なる口実の下に与論の悪声は一時頗ぶる盛んであったがその声は角上の蚊声ほども政府者の耳には感じない、そこで其反感は一斉に住友家の上に集まりてこれがために同家は一時市民怨望の府となったのである尤もそれは単に右言うが如き理由のみではなかった、多数の人民が膏血よりなった徳川幕府への貸上御用金は其儘消滅となり幕府時代に外国人を殺害したる償金の外人に対するものは当然明治政府に引継ぎてこれを賠償すると云う権利者の内外人に依て賠償責任を異にするの道理はない、如何にしても新政府の遣口は無法である、けれども夫は尚恕すべしとして我等人民の貸上げ御用金を葬りて身代破滅の大損害を及ぼしながら一方に住友の如き当然政府としては取立つべき権利あるものを放棄して一人のために不当の富を造らしむるは片手打ちの偏頗も甚だしく是等は宜しく同家の財産を引上げて一般人民の御用金返済の資に充つべしと云うのもまた一面の理由ではあった、けれどもこれを打割って云えば己れの悲境に立って他人の成功の羨まるる人情的嫉妬心も幾分手伝っていたかも知れぬが兎に角も一時はこれがために非常なる世論の喧囂を極めたのであった、さて住友家が斯く好運に乗じて今日の大成功を贏ち得たるに反して気の毒なは鴻池である維新前までの鴻池の勢いッたら実に素張らしいものであって日本全国津々浦々に至るまで鴻池の名は三才の童子もよくこれを知らざるものなく現に明治の今日に至るまで大阪を離れた地方では尚鴻池を以て日本の大長者とし許しているものは畢竟此の維新前までの鴻池全盛期の隋力によるのであるがその実今日の鴻池なるものは殆んど当時の面影だも止めないまでの衰微を極めているのである

(九)

身代五分の一

鴻の池今日の財産が果して幾干あるかは一寸測定しかぬるも維新前の全盛時代に比すれば多くも五分の一を出でないだろうとは十目の見る所である、さればとて此の衰微逼塞の原因として世間に知らるるほどの著大なものは一も現われていない、否多少あったにしても豈夫鴻池の大身代に疵の附くほどとは何人も思っていない、兎に角鴻池の身代と云ったら全く無尽蔵であるとまでに世間に買われていたのだから多少の損失ぐらいでその身代に影響するものとはテンで思われていなかった、けれども渺漫たる大海の水にも干潮時はあるものを、如何に大長者と云えばとて其富は無尽蔵ではない、家運一度傾倒を示して事業の一端に蹉跌を生ずるや恰も潮の干退するが如く何時とはなしのじりじり貧乏重ね重なりて流石の大長者も漸く身代の影薄くなりて始めて世間の目にも止まり来ったのである、と言た所で此の次第貧乏にも必ず何かの理由が伴わねばならぬその理由として強て求むれば同家一族が揃いも揃って時代遅れの集合体であったと云うのに帰するであろう、旧時の社会通弊として町家に学問は無用なりとの誤謬思想は鴻の池の如き保守固牢を以て家憲とするの家柄においては最も深く浸染せられていたのである、故に同家の家憲として家人の学問教育と云うことは絶体に禁じられていた、随って時代風潮の何物をも知らねば一家一族の無学蒙昧は殆どその極に達していたとも言ってよい、されば時代風潮に乗じて競争の活社会に立って事を試みんと云うが如きは到底同一家の人々には望み得べからざることであった、而して王政維新に際して幕府及び諸大名に対する巨額の貸上御用金は悉く債権消滅となって同家の財産の一部は茲に全く滅失に帰し果た、その跡に引続いて明治の新時代となったのであるから堪まらない、切めて家人に人物なくとも股肱の臣中にもその人だにあらば多少また支柱となったであろうが何しろ学問を蛇蝎視して使用人までも家風の鋳型に鋳込んでいた鴻池のことなれば固より柱石とたるべき人物のあろう筈もなく而も是等の人々が家格と金力とによって何事も統御し得られたる幕政時代の大平海より俄に狂瀾怒涛の逆巻く新時代の渦中に投じたのであるから度を失わざるを得ない

(十)

十三国立銀行

明治の新時代となって鴻池が財界に乗出したる事業としては今の鴻池銀行の前身たる十三国立銀行を以て最もその顕著なるものとするのである、同行は資本金五十万円と称せられしも他に取附けの恐れなき鴻池家の預金なるもの非常の多額を有したれば貸出し資金は普通五十万円の資本銀行において到底見るを得ざる豊富のものありその豊富なるに任せて取引先きの信用身元をも顧みず矢鱈に融通貸出しをなしたれば瞬く内に資本金五十万円は回収見込なき貸し倒れとなりて普通資本銀行ならんには忽ち破産閉店を免れざる運命となりしも苟くも鴻池家の銀行としてこれがために閉店も出来ず、殊に資本金以外鴻池家の預金なるもの莫大にありたればこれを以て尚営業には故障なくその難関も遂に同家の欠損金提供によって無事切り抜けたるもこれがために同家の財産にはまた一大瑕瑾を加えたることは動かすべからざるの事実である、尤も此の銀行経営に就いては同家在来の家臣を以てしたのではない、或る官省の奉職者中より雇い来って任用したのではあるが抑も雇い入れに就いても人を見るの明なるものがないから仕方がない折角任用した人物までも主家のため熱誠を捧げて事に当ると云う精神はなくて只だ己れの懐を肥すを以て能事としていたから此の結果を見たのである、その後もまた顧問とか何とか云う名の下に或る官辺の人を傭聘したこともあるがこれにもまた余程痛められたと云う噂である、斯の如くにして家に人物なく使用人にその人を得ざる結果は事業経営の方針を誤り事毎に失敗を続けて三百年来日本の大長者を以て天下に臨み来った鴻池家の身代も漸くその底の見え透かんとするに至って流石に頑迷固陋の夢も覚め来りしと見え茲に井上公を労して始めて家政の整理家運の挽回策に努めんとするに至りたるも既に時や遅し、新薬の注射によって衰滅病の弥蔓は防止し得たりとするも元の健全なる鴻池の昔に回復せんことは遠き未来に待たねばならぬがそれも果してどうであろうか、今や大阪には住友家と云い、藤田家と云い、鴻池に代るべき二大長者の新に生れ来て財界の権威を有する点において大阪人の名誉は敢て昔に劣りはせぬが夫でも鴻池と云う天下の大長者を誇りとしたる吾等老人連は此の鴻池の逼塞が何だが世間に対する大阪人の肩身が狭くなったかの様な感じがする

(十一)

財界の大動乱

さて咄しは更に維新当時の財界動乱のことにかえるが明治維新の革命は王政復古と云う政治的大業に隠れて経済界のことなどは人の多くこれを語るものもなきの有様とはなっていれど大阪の如き商業地にありては政治的の革命よりも之に伴う財界の革命が一層切実にその痛撃を加えたのである、と云うものは此の変革によって各自の財産状態の上に忽ち一大動揺を及ぼし来らんとしたのであるから何人も狼狽ざるを得ない、戦乱に座す人心の動揺に加えて幾百年来取引の習慣となって大阪の金融を円滑ならしめ併せて商業繁昌の一大誘因をなしいたる銀目取引廃止の布令は実に大阪商人のためには爆弾の投下であったこれがために金融は俄に塞がり商売はお手上りとなって一家の運命国家の前途は如何に成り行くべきか全く暗澹として昨年来の支那動乱のそれにも優る悲観に鎖されたのであるから人は皆有る限りの財産を手許に集むると云う事に熱中して信用は一時に破壊し去られた、されば多少にても貸勘定を有するものはこれを一時に取立てんとして盛んに督促もすれば公沙汰に訴えても回収せんとするもののみなるよりこれがため到る処に非常の紛議悶着を生じた、そこで政府においては此の多年来の銀目取引を以てせる貸借上の勘定がその銀目廃止によって勘定の立たなくなった計算の標凖を定むるため明治元年十一月二十五日を以て左の布令を発し之によって貸借勘定を決せしむることとした

 銀目廃止一条
銀目廃止以前品代取引或は借用銀返済等につき衆人の見込相認め先月十五日限り最寄り目安箱へ可差入旨先達て府令候は広く衆議のため公平を尽し至当の収穫致し候趣意に有之候所右書面の内左の見込多分有之候事情然るべく相聞え候につき向後御廃止以前の取引は左の通り取極候間屹度相心得違乱不可有候事
一、御廃止以前の取引は貸附人或は品代売渡月の相場と仕舞相場を以て平均の相場たるべき事
一、去る寅年(慶応二年)以前の貸附取附等は何年前たりとも総て去る寅の早春の取引相場に凖ぜられ候事
 但去る寅年より当辰年五月九日まで月々平均相場見合せのため別紙を以て相弁じ候事
右の趣三郷町中不洩様早々可相触者也
 辰十一月 大阪府庁
 総年寄共へ
寅正月平均相場 金一両に付百二匁四分八厘余銭一貫文に付十四匁一分五厘余
辰年五月九日 金一両に付二百十九匁四分九厘余銭一貫匁に付き十七匁四分八厘余

尤も右平均相場は寅年五月より辰年五月に至る二年五ケ月間に渉りて毎月の相場を示した詳細なものであるがここには一々掲出の煩を避けてただ最初と最終の両月だけを示すことに止めて置く、而して銀相場時代の取引勘定は此の目安によって計算することとなって計算上の紛議は漸くに無くなったが而も当時における銀相場の変動なるものは実に非常のものであった、即ち明治元年の新政府樹立と共に銀相場廃止の布令発せられたのであるからその前年の慶応三年十二月においては金一両につき銀百五十八匁三分余であったものが明治元年正月には忽ち百九十二匁余と低落し更に銀相場いよいよ廃止の同年五月には二百十九匁四分九厘とまでに大暴落を呈したので此当時における大阪財界は殆んど支離滅裂の混乱を呈していたことは到底今日において想像の及ぶところでなかった

(十二)

革政整理の緒

幕府の太政返上によって王政維新の大業は明治元年を以て成り同時に諸制度の革新は企てられたりと雖も尚三百年来幕府の執り来りたる制度習慣は直に以て根本より打破一新するの事情困難なるものありしかば多くの習慣はこれをそのままに襲用存置して明治五年の廃藩置県当時までは全く秩序もなく節制もなく殆んど混沌たる過渡期を以て過ごされた、漸くにして背反知見の制度確定するに至って茲に始めて維新革政整理の緒に就いたのであるそこで旧藩時代に発行したる各藩の銀札及び徳川幕府製造の二歩金はこれを地金として政府に紙幣と引換うることとなり一定の年限を附して各藩発行のものはそれぞれその藩において引換えしも大阪は商業地として各藩札等の最も多く流れ込いたれば之が引換えの便利を図り三井家(元之助)において一時官許を得、円札を発行してこれが引換をなしたるが尤も此の円札を通貨として一般に通用するものにはあらずして或る一定期間内に新貨幣を政府より取寄せこれを以て引換えをなすまでの一時的手形として発行したるに過ぎざるもこれがため藩札所有者は非常の便利を得たり、而して此の時において既存の文銭価格も一定の呼価を定められ従来百文銭と称せし当百天保銭は八厘に、二十四文銭は二厘に、文久十六文銭は一厘五毛に、普通文銭は一厘に通用の旨を布告せられ、同時に在来の何貫目の称呼を廃して銭厘と称え百銭に達する時は一円と称し且つ文銭串差しは九十六文を以て百文に通用せしめ来りし旧慣は自今完く禁じ百文は当然百文を以てすることを発布せられたればこれにて久しく不定の間にありし貨幣制度は漸くに一定するに至ったが尚今日にても此の習慣を遺せるものは五十枚乃至百枚を以て一帳とせる和紙にして是等は五十枚と称するも其実四十八枚より無く百枚と云うも九十六枚より無きは全く古来の取引慣習をそのままに持続し居れるのである。さて貨幣制度の改革に関聯して例の藤田家の贋札事件などもあったが是等の事を話すと殆んど際限がないから今度□先ずこれ丈けで一段落を告げよう(完)


データ作成:2003.11 神戸大学附属図書館