新聞記事文庫 東南アジア諸国(5-064)
時事新報 1921.4.6-1921.6.2(大正10)


南洋諸島の姿 (一〜四十)

伊藤生


(一) 汗苦巡遊五十日の実感 政策論を単稿と為す訳

前置き物語

男性美の表徴を、足の大きサと脛の太サとに求むる女の住む島に‐‐換言すれば桜島大根或は貧乏徳利の異名を取る、無粋極まる脛の所有者が、佳人愛慾競争の第一標準となる島に‐‐細腰細脛の誇を傷つけられた我輩は、特種なる南洋諸島の人情風俗に関して、読者に伝う可き多くの物語りを持ち帰った。
トラックと云う島で、最も不恰好なる日本の肥大なる醜男が、男子一生の面目を施した話がある。或る朝、彼が浜辺を散歩すると三人の年頃の女が相争って彼の足跡にキッスをするのを見た。砂に印せられたる足跡は十一文何がしと云う法外なる面積で、即ち南洋の女に取っては、最も頼母しい男性の美点に外ならぬことが解った
可愛がられようとする男の情には、東西に変りがないけれども、其方法は南洋に於て甚だ物凄い。普遍的なるは、自ら身体に深傷を刻み、特殊なるは睾丸の一ツを摘出し去る。共に勇敢のシンボルとして用いられるのである。
日本で紫金紗の襟巻をしたり白粉を塗ったりする気障な奴に較ぶれば、余程優しではあるが、男性勇壮の表現も、文身以上に傷をつけると余りに色消しである。然し深傷益弁ずる所に南洋の人情が躍って居るのだ。
斯かる物語りを綴り合せても易易と十数稿は出来る、之に旅行の印象、風俗、其他を加うれば蓋し数十回の読み物となる。此種の記事に不得手なる私が書いてさえ、相当の興味あるべしと信ずるのに加え、進んで自分の領内にいれば(イ)委任統治の本質から外交問題(ロ)統治諸政策(ハ)経済的施設論(ニ)戦略的考察、数え来れば此方面にも亦二、三十回の論文が産まれるであろう
其処で、此記事は論旨並に行文の都合上、二ツに分けることを便宜だと考えた。何十回書くか、見当は付かないけれども、散文として「南洋諸島の姿」を記し、終って後に「南洋諸島の研究」の題下に、政策論と批評とを悉く包含せしめることにする。

何故の巡遊

前置きの序に、巡遊の理由だけは是非一言して置きたい。嘗て新聞記者の一団が極めて不完全に、お祭騒ぎで南洋諸島を視察紹介した以外の此方面の正確なる記述がない。況んや論策はゼロである。地中海遣艦と其秘密代償、下って巴里会議上の論争を観るに就けても、南洋諸島を我国民に真実に紹介する必要は明白に実在する
統治不徹底なる政府の、曖昧なる諸政策に一振摂を加うる必要も無論大きい。然し夫れだけでは、我輩の六旬の犠牲には値しない(ヨイショー、大きいぞ、なぞと□次る可からず)。米国の新聞記者と同行して、一緒に隈なく研究をすると云うことが、巡遊動機の大半を支配したのである。
誇張して了へば国際的理由、国家的行動、平和の使者、いやはや大変な文句を列べ立てて済まして居られる‐‐それ位の辛さを嘗めて来たのだ‐‐。
日本は最も少なく米国を五月蝿がって居る。口に出す不平の分量は、正直な国民だけに多いけれども、埋蔵量から言えば、英国や仏蘭西なぞの方が更に遥に米国を厄介覗して居る。不平の年産額で見ると、日米の最近十年の統計は可成り高い。今や進んでヤップ島(南洋諸島の旧中心)や、其他諸島の戦略的疑念に及んで居る。百聞一見に如かず、米国人も一度見て置けば、下らぬ疑念は晴れるであろう巡査の動機の一つは茲にあった。
(此理由つづく)

(二) 失望踵を接するの出発

疑雲の行手

日本が南洋の委任統治諸島に、要塞を築き、或は海軍根拠地を設けて侵略戦の準備をして居るなどと書く不届者が米国には居る。否な日本が南洋諸島を管理することは南は菲律島に対する威嚇であり北は布哇、西はガム島を脅威すると書き立てて、之に反対する米国の新聞は少くない。
癖見と憎悪の上に虚説を捏造して日本を中傷論難するフヒーラン級の政治家も多いが夫れと同じ流れを汲んだデモ記者も仲々多い米人一般が日本のミリタリズムを攻撃し其気味悪き対西伯利及び対支外交に万尋の疑惑を感ずるのは必ずしも無稽ではない。然し夫れに依って万事悉く険呑な国とのみ思い込まれてるのは堪え難い所である
若しも南洋に築城建塁でも実行して居るのならば、米国のプレスアソツエーションの電報だの、市俄古トリビューンの記事なぞは無理もないであろうが(後述す)事実日本は軍事設備はおろか、民政すらもおそるおそる施して居る始末なのだから、、南洋統治を危険視されては誠に以て迷惑千万の至りである。
市俄古デーリイ、ニュース紙のヂュニアス、ウット君、同トリビューン紙のスミス君、プレス、アソシエーションのメーソン君、此三人と一緒に日本の統治して居る諸島を視察する約束が年末に調った。蓋し誤解一掃、真相批評の好機会である。
自分は時事新報の記者として、国際協調主義を信ずる一人であるから、連盟、平和、日米関係、戦略の各方面より、右の米人と共に南洋を巡遊する資格が無いとは思わぬ新聞政策の立場からは、六旬の犠牲(議会中の)に値しない南洋行も以上の見地より進んで参加した次第である。前置は此位にして、先ず旅行印象に入らん。

出発と失望

東京駅を出たのは一月八日、空は碧であったが、霜深き寒気流るる朝であった。汽車の中はスチームで嘸暖かであろうとの想像は、酷く裏切られて、展望車内、正午の温度は五十六度の不始末、是れ実に帝国鉄道省の運転する第一の優等□である。万事は此通りだ。未だ日本は官営事業を認めるだけに、道徳が進歩して居らぬとも言える。
門戸に至りて失望の第二、第三は踵を接して来た。松山丸の老体とメーソン君の不参とが夫れである。松山丸に関しては、後に言わねばならないから擱いて、メーソン君の立消えは茲に残念の一項を染むる値がある。彼は抑も、上海に屯して、不断に排日の煽動記事を本国に電送する嫌疑者だ。日本は南洋諸島を管理して居る間は、米国は枕を高くして眠れないと、常に眠ることばかり考えて居る人物らしい。
南洋を見たいと申込んで来たのは此先生だ。彼は想えらく日本官憲は必ずや拒絶するであろう宜なる哉形は軍事的秘密あるが故なりとばかり思う存分に悪口を叩いて日本危険、南洋戦備の臆断を書き立てる心算らしかった。
然るに海軍省は、申込に対し二ツ返事で快諾し、あらゆる便宜を提供し彼を迎えたので、先生目算根底より崩れ、空しく虚構の筆を抛って浩嘆時を久しうし、癪に触って不参加と拗ねてしまった。夫れに相違あるまい。メーソン閣下弁あらば乞う与かり聴かんである
斯くて彼を乗せて来る筈の八幡丸は空しく門司に入港したので、松山丸は其侭出船した。加之、スミス君は不幸病に罹りて来らず独り市俄古ニュースのウッド君のみ余と同行した。然し公平なる同君は尚お幾百人の視察にも優る感想を得たから、私の最初の失望は結果に於て完全に拭われたことを喜ぶ。

(三) 船暈の苦悶と其原理(上)

船暈の同情

船暈の原理なぞと、大きな口を利けるのは無論上陸後のことである。戦暈は蓋し如何なる病気よりも苦しく、其苦悶に対しては何の薬もない。陸に上ると不思議に治って了うけれども、苦しむ最中は我ながら我身の腑甲斐なさと惨状とに呆れ果てる程である。随分荒海に慣れた私は、安心して威張って乗りながら、今度は酷くやられた。
三千噸足らずの老体は無論心強い船ではない。加うるに松山丸は既に三十八歳の老船である。私よりも六年前に産れて、散々に虐使された船だ。凡てが旧式だ。散歩するデッキもない。キャビンは機関室の横に位して騒々しいこと夥しい。此船が土佐沖へかかると暴風雨と鉢合せをした。酷い動揺が、御止月の酒と餅とで胃を弱くして居る人々を、完全に船酔の苦悶に陥れた。
船酔の苦悩は、之を経験した人のみに訴う可き辛さである。或る西洋人が苦悶の末にボーイを呼んだ、ボーイが何を持って参りましょうかと尋ねると、『島を持って来て呉れ』と叫んだ話があるが、本当に島が欲しい程の苦しみがある。十九世紀末葉の造船法は、唯唯船の長サを大にして速力を得ることに偏して居た其上に、ローリング、チェックすら付いて居ないのだから、松山丸の三十度の傾斜動揺も当然の次第だ。
実に日本からトラック島に入るまでの二週間、食卓の上には常に框が懸けられた、石が滑り落ちて碁の打てない日が多かった、比較的船に強かった私も、食慾半減の状態を維持して、ツクヅク小さい船が嫌になってしまった、出発に際して、好い保養が出来るね。ないぞと話をした友達が怨めしくなった位だ、実に是れ命懸けの保養だからである。
吾人は陸上の動物である。陸へ上った以上は、悠々と船暈を論じて壮語す可しである。船員となりて本当に海に慣れるのには十五年を要するのが原則であるから船客の酔うのは、寧ろ権利の部に属すると言える。酷い暴風の海上で、巨船も木の葉のように、弄ばれて居る時、平気で大食をして居る船客なぞは、人間に類似した特殊の生物である。

人間と船暈

適当に船に強いことは、軽い誇りたるを得。然し乍ら妄りに強きは人間としては不具に近い。神経系統に欠陥があるのだ。感情が余りに遅鈍なるにも由るであろう。何んなに荒れても乃公は平気だ、なぞと威張る人は、我輩を以て言わしむれば、不具を広告するの□物なりと嘲りたい。
如何なる船長と雖も未だ嘗て暴風を喜ぶものは無い。速力が出ないとか船客が気の毒だとか云う理由のみでなく、掩う可からざる不快に安眠も運動も読書も、何事も意に任せないからである。不快は是れ既に船暈の一原因ではないか。船員は責任があり且つ慣れて居るから酔わないが、船客は過度の不快には必ず船暈を催さざるを得ない。
ピツチング(前後動)の酷いのに逢えば、スクリューは絶えず空転をする其音響の不気味に加え、其震動は船室内の凡ての物を激しく震揺して吾人の神経を痛打する。スクリューの空転の響、機関室辺より起る異様なる轟音、船上諸物件の擦れ軋る音、室内諸具の揺れ狂う声、是等が合音共轟して寸時も止まないのが、松山丸の初日の航海であった。
ローリング(左右動)は松山丸の得意とする所である。彼は非常識的に細長い上に、ローリング、チェックを備えて居ないから、横波を喰えば、締りのないこと夥しい。ウカと甲板に立って居れば横に揺り倒される。之を一片の形容詞に過ぎないぞと言う人は、此稿を読まないで貰いたい。冗談ではないのだ。実に真面目に苦悶を述べて、研究を進めんとしているのに、之を軽視されては堪らない。三十度の傾斜は珍らしくなかったのであるから、試みに其斜面の理に付いて考察を進めて頂きたい。

(四) 船暈の苦悶と其原理(下)

恐怖と覚悟

酷いローリング(左右動)の日に船の上甲板の一端に寝椅子を置き海に面して寝てみると、‐‐無論椅子は滑って了うから綱で縛ってある‐‐船が前方にのめる時(左傾)は、自分は直立して特に足を海中に突込むの感あり、次に後に返る時(右傾)は頭が足よりも低くなって歯の浮くような悪気に襲われる三十度以上の傾斜に悩んで居る時の凄サである。
無論気持は悪いのであるが、其次に来る感情は恐怖である。沈没転覆の恐怖である。船は決して横に転覆することは無いと言われ、また理論上からも保証されては居るが、上甲板が海面に接する程に傾いて、異常なる□□を起すのを見聞しては、吾々ですら「若しか」と云う不合理なる、然も正当なる感情を起す瞬間がある。
少くとも甚だしい不気味サを感ぜざるを得ない。不快を通り越した恐怖の不気味サである。之も船暈の大なる原因だ。次には大動揺に伴う諸響音の騒々しい不快であろう。船室のペンキの臭いなぞは微少なる小原因に過ぎぬ
終りに覚悟が問題だ。船暈は生理的若しくは肉体的に当然来るものだが、精神的にも襲来するのは顕著な事実である。酔いはせぬかの心配は、必ず酔うの原因である故に気の強い人は、一般に船に強い傾向がある。之は丁度胃腸の健全な人が船に強い傾向のあるのと軌を一にするものと言い得るであろう。傾向であって例外は相当に多い。
其所で乃公は妄りには酔わないと云う意地を持つことが必要になって来る。恰も不消化物を満腹して乗船するのは戒めるのと同一の目的で、余り海を恐れぬように、船の安全を信ずるの覚悟が肝要だと言える。但し大動揺に逢ったらば、強いて頑張るの愚を知って自ら対策を講ずるの用意を必要とする。
松山丸は多くの教訓を私に与えた。決して酔わぬと信じて居たのに、事実に於て船暈を嘗めさせられた。一日は完全に寝く、二十数日は食慾が陸上に居る時の半分以下に減じて居た。何となく食慾の進まないのは之れも軽い船暈の作用であって、船に強い人は船の揺れる程空腹を感じて食が進むのが常だ。
私が松山丸で強弱各種の船暈を経験したのは、第一に海の暴れ方の酷かったこと、第二に松山丸の船体其他の旧式不完全、第三に年末以来の筆労等の原因を算し得るが、第四因として特記すべき一現象がある。夫れは精神的方面だ。一言にして尽せば緊張を欠いて居たと言うのが適当であろう。換言すれば現代日本流の気分で乗込んだからである
前には一言した通り、私の南洋巡遊は、単なる視察以外に米国の記者と協同研究を試みるのに在ったけれども、正直に打ち開ければ避寒の保養野心も手伝って居たのである。東京の冬の風と塵埃、大井町の泥道、其他避くるに適切なる幾多の現象の実在は、暫く暖かい(実は暑苦しかったが)南洋行の自ら理想的なるを想像せしめたのは当り前の話だ。
随って精神に一種の□廃を生じて居た。船暈は此間隙より私を襲撃した形跡が在る。戦時太平洋から大西洋に入り潜艇の跳躍する海上では、可成の暴風に逢っても些の船暈を感ぜず、英仏海峡四回の渡航(戦中)に際しても、動揺を物ともしなかったのに、今度の南洋航で意気地なく苦しめられたのは何うも右の柄になき保養気分の祟りも在るのかと思わしめる。
船暈も病の一種とあれば、気から出ると云う理屈もつく。然し苦しんだのは船客の大多数であって店を開かずに済んだのが仕合せな位であるから、自分も左迄屈辱とは思わぬ。ただ此経験は、多くの海外渡航者と共鳴もし或は参考にもなろうかと思って書いたまでで結論としては、小動揺に際しては気強く甲板に運動すること、大動揺に当っては、船の安全を信じ、妄りに意地を張らずに静臥することを良策とし、飽食の常に不可なることを一言しておけば足れりである。

(五) 松山丸に与うるの辞 日本人海外発展の友

松山丸概論を書くことは、印象記の背景を描く所以であるから、南洋の舞台を活現する前に此一稿を割いて置く。小さく且つ古い老船に、散歩するデッキの無いことは既に一言した通りだ。況して喫煙室だの、ラウンヂ・ルームなぞを期待することの出来ないのは無論のこと、食堂のあるのが取り柄だと言って宜い位だ。食事、読書碁、将棋、凡て一個のサルーンで行われる、のみならず過剰客の寝室に代用せられ、中途よりは、猫までも此処で飼われることになった。
而して此猫は、鼠の留守に遊ぶと云う小猫だ。否中年輩の猫一匹は到底横行の出来ない程、松山丸には多数の鼠が住んで居る。調査不可能□確的な数は解らないが、何百と云う数を算することは堀川船長も保証して居た。何しろ各室に専属する鼠が二、三匹ずつは居るのだから客の苦労も大抵ではない。
ウッド君の被害の如きは、郵船会社に対して賠償を請求し得る程度に達した。靴は見事に喰い破られ、亀の甲も噛まれ。南洋茣蓙の土産まで破られて了った。私の部屋を受持って居る連中は、食物ばかり覗う奴で、随って被害は各種の果実と餅菓子のみに止まったが夜中に股から腹へかけて鼠に渡られたことは何回もあった。
途中で病気になった私は結局的二貫目を南洋の天地に遺失して帰京したのである。設備と食物とが以上の如き有様で、其上に海が悪かったのだから、到底無事では帰れぬ運命にあったのだ。幸いにして船とは正反対に、堀川船長以下の乗組員が不思議に揃って好紳士だった為め、大いに精神的に補償せられたことは、ウッド君と私の一致して強調したい事柄である。

八噸で横断

然し乍ら船が古いの、小さいの、贅沢は申されない、と言うのは八噸の帆船が日本と南洋諸島とを交通するの事実がある。隅田川の蒸気船位の小船が、ポナペの港に居た。此八噸の小帆船は小笠原島の二見で造られ長々二千浬をを航して諸島を一巡し、コプラを積んで二見へ帰り再びポナペ港へ貿易に出掛けて来たのだ。
其側に居た二十余噸の帆船は、無論日本と貿易をする航洋船なのである。二十年前の話だが、十噸のヨットで桑港からガム島へ来た米国人の一家族があった。夫婦と子供三人に黒人一人合計六人でガム島に渡り、それから更にマニラへ植民した由だ。之を考えれば三千噸は巨船だ。贅沢を言うなど評せられるかも知れぬ。
左り乍ら私の弁解にも理屈は在る。二十噸、五十噸以下の帆船は荒海の大波に面して頗る気楽な現象を呈する、一波の上に乗って軽軽と浮いて居るからである。□じ三千噸の鉄造船は、丁度二ツの波に攻められて、上下左右に、惨酷に、重苦しく翻弄されるからして乗員の苦痛は、小帆船の何倍なるかを知らぬ。
中途半端と云うことは、何に就けても安定の基準であり得ない。航洋船は百噸か然らずんば一万噸以上なるを要す。速力の点から見ても松山丸は落第だ。風に向えば七節は怪しい。遅速力は日本の船舶に特有の幣十五節出る客船も無いのは慥に国辱と言って宜かろう大西洋には二十四節の客船があり太平洋にも十八節の外国船がある世界有数の大会社を誇る郵船会社は、株主配当ばかり考えて居ないで、少しは国際上日本の為めに、二十節位の客船を造るが宜かろう進歩的であれ、営利以外にも、会社は活く可き半面がなくてはならぬ。意義ある小新聞は、損をしても尚お高価なる外国電報を取るの誇を持って居るのだ。
小笠原島の二見港に着いたのは一月十二日だ。白服を着ても宜しい気温だ、一時は肺患に悩める人々の楽園と詠われて、其結果、熱海同様に衰微の傾向を誘致したので、目下は肺患入る可からずの島策が厳重だそうである。其処へ松山丸は、スペイン風邪を乗せて入った為め、三等客は上陸禁止、弦歌低唱の声、ために寥莫
日本式葛藤の犠牲、と云うのは此港に荷役を営む二個の請負業者が在って互に喧嘩をして居ることを指す。一方が荷役を引き受ければ他方は断じて協力に応じない。故に両舷や前後で同時に荷役を協調することが出来ぬ。即ち協力すれば優に一日で済む荷役が、完全に二日を要する。町内の喧嘩を海外の何処までも携帯して行くのは浅間しいことである。喧嘩の海外発展は、恐らく日本特有の現象であろう。味噌とスキ焼を携帯して海外に出づるのは忍ぶ可しであろうが、喧嘩はイイ加減に輸出禁止を実行すべきである。

(六) ウッド氏大入道の出現 小笠原島に関する挿話

二見大仏

英国人の海外発展は、家庭と教会を運動場とを伴う。日本の海発外展は暗闘と、牛鍋或は「すき焼き」を伴う。味噌も欠く可からざる友であるが、すき焼きも慥に大和民族の精神と分離し得ない代物である大分日本化して居るウッド君(食物的に)は父島で「すき焼き」をエンヂョイしようと言う、仍て南洋館と称する宿屋で、牛鍋をつついた。
此処で吾々は、端なくも二見大仏を発見した。活きた大仏だ。と言うのは、吾々二人を給仕した女中に与えられたる。ウッド君の命名なのである。ウッド先生は、出帆の翌日に、頭毛を一分刈りに刈って了った。南洋は暑いからと云うので之を断行した次第である。其光景は一寸紹介して置く必要がある。
散歩するデッキもない松山丸には無論理髪師の事務室なぞは有り得ない。そこで床屋の大将は椅子を持って随所に開店する。好天気ならばデッキの上でチャキチャキと毛を飛ばし、荒れる時はハッチの中で仕事をして居るウッド君は甲板の上で多くの見物に取り捲かれ乍ら坊主になったのだが、外国人の坊主は何う見ても可笑しい。京童は、其後彼を噂するにウッドと言わずしてニュード(入道)と呼ぶ。
此人道を見た小笠原産の女中が一種の恐怖を感じたことは想像に難くない。加うるの性情も手伝ったのであろう。彼女はに彼女は何事をも言わず、黙然として手鍋の左方一尺の距離に端座して動かぬ我輩の日本語に対しても殆ど答えない。両手を膝の上に重ねて小笠原流の座法を実験して居るらしい。頭髪はちぢれて居て顔色は青銅色を呈す。ウッド君は「鎌倉の大仏位、ものを言わぬ女だ」と嘆じた。凡てが大仏の化身と思える所より之を二見大仏と称す。

松山騒動

明くれば老朽船は、サイパンへの海上、無二無三に動揺しつつあり。船の各所より発する動揺の音が物凄い其上に、ボイラーの隣に起伏する吾々は、痛くも老船の喘息の響きに悩まされる。然るに之等の騒々しサを超絶して、朝から晩まで船客の耳を撹乱せるものがある。夫れは二人の子供を連れた人間の母親が、間違って(ウッドの説)一等室に居ることだ。
四時と云えば未だ暗い中から、子供の泣き声が発生して、毎日十幾回も復習し、深夜にも勃発するんだから堪らない。其泣き声のけたたましい間より、ピシリピシリと母の打つ手が聞える。継母にして最も惨忍なる類だと噂されて居たが正体は兵曹長の妻君と云うだけで解らぬ。子供の方が「馬鹿野郎と泣き乍ら悪口するのも恐ろしい光景だ。松山丸も愈々以て堕落したものである。入道氏の曰く、嗚呼二見大仏女の静粛に如かずと。
小笠原島の歴史なぞを書こうものなら、小学校の読本と間違われるかも知れないが、知って置いて無駄でないことだけを略記して見る。文禄二年即ち一五九三年に、信州深志の城主たる小笠原貞頼が此島を発見したと云うのが伝説だ一八三〇年に、英、米、独、伊の四外人が、捕鯨船の便りで此島に移住(漂留ならん)して来る、一八五三年には御馴染のペリイ提督が所謂黒船をドサリと此港へ持ち込んだ。
ペリイ先生は此処に貯炭所を設けて根拠地とした。日本を物にしようとした意図は、今尚お此貯炭所にも跡を留むるのみならず、彼が、牛と豚と鹿とを持って来て、此処で飼養を開始したる事実が明証している。如何に米国の海軍将校が商売気に富んで居ても、小豆大の小笠原島で畜産の利益を志す程に迷う筈はないからである。

ペリイ以後

日本を物にしようと云っても、直に之を占領する積りは無かったかも知れぬ。占領し得るならば貰って置こう位の考えで、之は幕末の在留英仏人と同様の野心だ。ただ日本から、海軍根拠地を租借するの意図は痛切に持って居た。横須賀を旅順口にしようとは、彼の来航の第一衝動たったに違いない。小笠原島は即ち其前進根拠地に外ならぬ。
ペリイの子孫は今尚お此島の奥に住む。それは鹿である。小笠原が日本領と決まって、鹿共は山に放飼され、今日も子孫が健在で居る。ペリイ提督が日本開国の恩人であるか何うかは、我輩の知らぬ所だが、小笠原群島の帰属を日本に確定せしめた恩は慥にある。何となれば、ペリイの行動は端しなくも此島の所属に関して、英米間の紛擾を惹起し、其結果遂に日本領と公定せられたからである。
永野筑後守が、島司として此島に来航したのは一八六二年(文久二年)のことで、此時から日本の政治が此処に行われたのだ。ペリイの記念碑が伊豆に建てられたのは□□みであろう。
偖て小笠原島は慥□□□□□□を楽む土地だ。凡て□□□は此処に於て理想的生長を遂げる、野菜は年中枯れずに実る、若も今年一本の南京を植るならば、一年の後には夫が一反歩の畑に自然増殖を現ずる。日本の人口増加率も顔色がない、唐辛しを見よ、島民は其軸を杖に造って居る。米は年中実る、其株拡大して新苗が月毎に生長し来り、刈るに由なく、ただ其実れる部分を籠に収むるのだ、手数が掛って、却って割に合わぬとは、度を越した弊の好標本である

(七) 小笠原島築城の誤

何の要塞ぞや

小笠原島で最も重要なる問題は陸軍が此処へ要塞を築きつつある一事だ。国家の大問題であり、同時に亦、既に世界に知れて国際問題の一つとなって居る。貧乏に反比例して軍備費は増大して行く。国の資源の哀れなるに反して、資金の不生産化は無遠慮に行われて行く。止むを得ざる国防費ならば無論之を忍ぶ可しであるが国家的に無用にして単に一局に利益あるが如き国防費は、断じて之を排斥せねばならぬ。
小笠原島築城の如きは即ち後者に近いものと疑われる、何の為めに斯かる島の築城するか。抑も斯かる小豆大の岩の塊のような島へ要塞を築いて何の利益があるのか陸軍当局者は、陸軍の為めに築城するのだとの評を耳にする所以である日本に陸軍の数量的拡張は無意味である。夫れに強いて理由を付けるのが所謂要塞整備だと言える。
陸軍充実即ち根本改造は私の主張である。然し乍ら数量的拡大は益陸軍を弱からすむるものにして、随って吾等の熱心に反対する所だ然るに陸軍当局者は迷って居る。一意ただ数量的拡張の時代錯誤と自己没却とに溺れて居る。小笠原、対馬其他に要塞を築くのは即ち其好例証ではないか。小笠原島は断じて防備に適しない、のみならず防備の価値もない、また其必要もない。
第一に小笠原島は孤立持久の不可能な所だ。耕地面積は全島の一割七分に過ぎず、到底多数の兵なぞは立籠り得ない。千七百町歩の耕地に現在二千八百人が住むことが既に過剰ではないか。故に一朝母国との交通線をたたれたならば陸軍は要塞の中で餓死する外はあるまい。故に此島は海軍の健在をのみ条件として生存し得る。若しも此港を潜水艇の根拠地とでもするならば幾分の意義が生じて来る

海軍根拠地

之を海軍根拠地として奇襲艦艇を利用するのは一策だ。石油と糧食とを貯えて之を航空的に防備する小設備を施すならば、異論はあるまい。之に反して陸軍的要塞を築くに至っては、何う考えて見ても迷いだ。建設費、大砲、巨弾、将卒夫れ悉く此要塞に空費せられざるを得ない。
また第二に小笠原とは固定防備の価値がない。国防的に大観すれば、所詮無益有害だ。(イ)移動防備を更に緊急とす可く(ロ)若し固定防備を施すとするならば、他に必要な箇所が多く在る。ヘリゴランド島に投ぜられた独逸の築城費は、全く無益なることが証明されたではないか。機雷と、潜艇と、駆逐艦と、航空軍とは最も適当なる前進根拠地の防禦であることが立証せられたではないか。
背後の交通線を遮断せられて持久し得ない島は、決して要塞建設の対象たる能わず、私は之を断言する。陸軍当局の主張は、此島を敵手に委せない為めに築城すると言うのだろう。敵手に委せぬことは必要であるが、然らば築城は果して此目的を達するの合理的手段であろうか、私は之を疑うものである。第一に、誰が斯かる不戦術的な島なぞを占領せんとするか制海権を伴わない以上は、占領は危険なり、且つ最愚なり。
之に反して敵に制海権あれば、此島は自然陥落の短命を持つ。何を苦しんで製塞に一砲弾をも発するの必要があろうか。此一事、即ち強力に該島築城の誤を語る。第二に或敵が、此処を占領する場合ありと仮定すれば、夫れは潜艇用か、もしくは飛行機用である。然し乍ら、此島には石油も、石炭も銭も、米麦も産しないのだ。且つ五千噸の巡洋艦が二隻も投錨すれば、満員の小港あるのみ。
故に敵は何も態々父島(小笠原島中の)を占領せずとも防備のない他の島に拠る方が無難であり且つ容易である。小笠原群島は二十有余の島興より成り、母島其他相当の防波島(不完全乍ら)はある。之を領する事は父島を領するのと大して効果に差がないとすれば、独り父島に一等要塞を築いても、夫れは汗のかき損になる。
此群島に敵が占拠して潜水艇を活用すれば日本は明かに苦しめられる、即ち之を保全防衛せねばならぬ然かも一父島の要塞は効果が僅少だ日本の制海権のみが始めて此の群島を保全し得然らば父島築城は労して効なきもの、財政不如意の国の断じて避けねばならぬ不経済行為ではあるまいか。
否是等の戦術的理由を離れて考えても、今や世界は軍備制限の大理想に向って動きつつある。世界の有力なる一国として、日本は此一大事業の促進に貢献するの国際的責任を持って居る。軍備は可及的に自制し、苟くも拡張の臭味あるが如き一切の施設は、立派に之を放擲するのが当然だ、小笠原築城の如きは、真先きに廃止せらる可きものではあるまいか。

(八) 日本の小笠原築城と米国のガム島要塞と

愚策一幅対

小笠原群島中、父島に要塞を築かんとするのは、慥に陸軍々人の迷いからである。国防的に無意味で財政的に国難に類す。面白いことは、之と好一対の愚挙が、米国海軍に依ってガム島に施されて居ることだ。ガム島は、日本の委任統治島ロータより約三十浬を隔つる孤島であり、恰も小笠原島と同然の不適当な築城地である。
米国海軍はガム島を第一の前進根拠地に見立てて熱心に要塞を築きつつある、無論対日戦備以外には何の目的もない。戦艦五、六隻を抱擁し得る港に億を以て算する金を注ぎ込んで騒いで居る。ニブラック少将なぞは此島を一個の固定大戦艦に仕上げるの必要を叫ぶ戦争中はガム築城熱が旺盛であったが、米□にも識者はある、今年は大部計画を縮めるらしい。斯くてニブラック少将も深草の少将位な往生を遂げることになろうか。
ガム島の軍港は海上から通視されると同時に、容易く孤立に陥る島である。要塞としての価値に乏しいのだ。之に年々巨額の資を投じたことは、即ち海軍の為めに海軍を造るの譏を免れぬ。日本の陸軍に対して同様の非難があるのと好一対と言える。更に国際的愚挙なるに至っては両者全然其軌を一□す。
ガム島の築城が、如何に日本の神経を刺戟して、戦備の観念を挑発したかは自明の理である。比律賓は独立を許される時が、早晩来ると信ぜられて居る。米国の政治家は之を公言して居るからだ。果して然らばマニラと云い、ガムと云い、全然領土防衛の意味を失うではないか。即ち挑戦的、攻勢的威嚇的目的の為めに、他人の領圏内に要塞を築くと云う以外に、何の意味もないのだ。
健全なる協定にして成立せんには、日本は八八艦隊の計画を縮少するを当然とし、米国も世界一の海軍国と云うような「高価なる且つ無意義なる誇」の野心を放擲し多大なる過剰国防費を激減するのが当然である。八八計画と三年計画とは協定に依って改訂せらるべき本質のものと言える。此見地に立ってガム島と小笠原島とを眺むれば、疑問なしに要塞破壊の協定が成立せねばならぬ理屈である。是れ蓋し、両国の軍備縮少の誠意如何を卜するバロメーターと断ずるも誤らざる可し

日本と米国

日本の小笠原島築城は、事情は違っても然もガム島同様の結果を産む。何となれば米国は之を対米戦備だと信ずるからである。事実彼等は之を気にして騒いで居る。同行のウッド君なぞも頻りに之を言う。私は答えた、日本陸軍の此計画は素より愚だ。然し乍らガム島に大築城を行う米国の人間は、批評の権利を持たぬ。先ずガム島要塞を非難して後に、小笠原島に及ぶ可しと。
実に米国人に小笠原島要塞を批評する資格なぞが有るものか□ただ彼等は国際人として公平な眼識を有する時に於てのみ、小笠原築城を難するを得、無価値なる要塞に、無益に資を投じて、而して徒に多国の猜疑を刺戟し、随って軍備競争の種子を播き、益々以て国資の不生産化を増大し、いよいよ国家の実力を減耗する、米国も自ら省りみてガム島から手を退くが宜かろう。
軍備制限問題は今や国際中の真摯なる問題として進みつつある。此秋に□して、軍備競争を刺戟するような行動や計画は、一切葬られねばならぬ。小笠原島もガム島も、明かに葬らる可き計画を強行するものだ。も一つ言わねばならぬことは、日本の国内軍備競争に関す。私はウッド君に次のような説明を与えた。
日本には特殊の軍備競争が国内に行われて来た。長い二十年の国辱史がある。夫れは、海軍と陸軍とが、同士打ちをすることだ、両方とも自分が国防の主力なりと信じて□算の争□□□□る□□□□□□海軍が一隻□□□□□□□□れば陸軍も何かに理屈を□えて□□を計らねば止まない。□加之「馬鹿な政治家が、海陸軍は鳥の両翼、車の□輪だ」なぞと放言した結果、両々相拡張するに至る。今度海軍の八八艦隊案が確立したので陸軍は要塞を増□するのであると。
□は□空軍、武器□□□□、一年兵役等に依って□陸軍の□□□を経済的に改善することを主張したい。営備軍の数は既に多きに失して其質は益々悪化する。要塞の旧思想、増兵の腐れ戦略を一擲して、数量縮少と実質改善に努むるの喫緊事たることを、此機会に協調して置く。

(九) 投機師の玄関に立ちて文明的貧弱未開的豊富

薄地の手拭

巡遊した私は、南洋諸島を地の悪い手拭いと叫んだ。其理は次の通りである。日本の統治する南洋諸島は、マリアナ、カロリン、マーシャルの三群島から成るので、其広袤は頗る大きい。東西二千五百哩、南北百二十余哩に亘ると云うから、数字は馬鹿に大袈裟だが今この諸群島を一所に集約して了うと、驚く勿れ、神奈川県一県と同面積に帰するのだ。
拡げた形は大きいが、水を絞れば一握りにも足りない手拭い其者ではないか、北緯は五度より二十三度に亘り、東経は七十五度より百三十度に及ぶのだから慥に尨大なる外観を備えて居る。或る新聞社の色別地図が此尨大なる範囲を赤色に染なして日本政圏を表示して居るのも凄じい光景だ・・・・・・・・・・・・。西は比律賓を望み、東は布哇に接し、南は赤道に迫ると云えば、言語の上は壮大であるが、絞れば哀れ一枚の安ハンカチーフを化す。
或は南洋諸島に一銭銅貨の撒布と云う尊称を奉るのも面白かろう。読者は此諸島が抱擁する数を何個なりと想像せらるるか、まあ五十位はあるだろうと答えるのは、上出来の方で、多くは更に少いと思わるるならん。此点に就ても驚く勿れ、島嶼の数は七百四十七と云う不可思議なる多数を算するのである。
七百四十七も島があって、而して之を一所に集めて見れば一神奈川県(百五十五平方里)に凝結する其一島の如何に倭小であるかが解るであろう。其人口収容力、生産価からみれば、神奈川県との大小優劣は問題だ。要するに一銭銅貨の集合に非ずして何ぞやだ。然るに日本には、南洋を絶大の宝庫だと書き立てた多くの視察者があるのだから、一驚を喫せざるを得ない。

富源の程度

既にして「地の悪い手拭い」であり、更にまた「一銭銅貨の集合」である以上は、何う考えたって、之を宝庫なぞと呼べた義理ではない一噸の鉄も、石炭も、一封度の金銀も此諸島からは産せぬ。金気のある産物は一ツもない。米さえも殆ど産せぬと云って宜しい。特記すべき生産は、僅にコブラ(椰子の実)と燐砿と砂糖あるのみ!。
故に文明の空気を呼吸した人から見れば、南洋諸島が大なる宝庫だとは、何としても申されぬ。ただ強いて宝庫なりと評するの予地ありとすれば、前記三商品の関する限りに於てのみの話だ。金属は絶無、砿物も燐砿を除いては皆無而して農耕地は全面積の約三分の一、即ち五十余平方□とあっては要するに文明的に夫望郷と言わざるを得ぬ。ただ此間にありて豊饒なる一局地と、天然食物が年中、土人の頭上に実って居るのみだ。之を視察して来て、南洋を宝庫なりと書いた一ダースの評論家は何たる浅間しい人々であろう。カリホルニア辺の農業を見て気絶するのは此連中だ。然し乍ら、土民の食料は、労せずして天恵を攫むものである。魚類から蛋白質、コブラから脂肪、其他の要素、パンの実から澱粉を得る以外に、バナナ、パパイア、マンゴ、芋、其他の天産物が年中実って居る。
偖未開的には、裸で素足で、寝て食って居られても、文明的には断じて斯かる低級なる生活は出来ぬ。即ち貧弱な地方であるが、然し何等かの方法に依って、日本は統治者として経済的補償を得ねばなるまい。如何にして成功するか必ずしも絶望に非ざる点は、追々と考察を試みよう。
以上は南洋総論の一部だ。小笠原島に立って思えば、此南洋の玄関は実に偉大なる玄関と云わねばならぬ。正にやま師の玄関だ。築城問題を取り上げて二回の稿を費したのは、決して柄不相応ではない。鰹や鮪の産地としての此一群島に付いて、未だ書きたい事もあるが玄関に長居は御免を蒙り、直にサイパン島に進むことにしよう
三日二晩、揺られ通してサイパン島に着す。南洋諸島第一丁目にして都をガラパンと云う。船は陸より約一浬沖に投錨し、夫れから小蒸汽船が、岩や浅瀬の間を縫って小桟橋に上陸する。誠に心細い港である。南洋の第一印象を得べく上陸して見れば、市街の整然たることと、道の綺麗なことが目につく。市街と云っても洋館十数軒に、土民藁屋百軒位の町に過ぎない。
道の両側に緑樹を植たのも、区劃も、皆独逸人の仕事だ。日本人ならトテも殖民地の道なぞを整理するような良心は持ち合せない
道路は東京よりは無論立派だ。生命の次に散歩を重んずる入道氏と共に、タナパクと云う村へ行く行路五哩名も知れぬ赤い花が咲き乱れて居る上を、蜻蛉繁く戯ると風情は、新しい旅人にとっては慥に一興に値するが、其風景千篇□律、木蔭に臥す牛の姿までも単□同一なるに至って、倦怠直に吾□襲う。

(十) 医官の小田原大会議

サイパン島

サイパン島はマリアナ群島中で王者の地位にある。と言っても其面積は十二里平方の●爾たる小島に過ぎぬ。然し素々倭小なる南洋諸島に於ては断じて此島を軽視することは出来ない。狭い土地も、悪い港も、我慢をして見聞尊重せざる可からず。況んや此島に砂糖を期待して営々として生産に従事して居る実業家あるに於ておやだ
サイパン上陸に関して是非一言せねばならぬことがある。之を船中の医官大会議となす。前にも一言しおいた通り、松山丸は流感患者を乗せて居た。サイパンに着いた時にも、将に快癒せんとして居た三人の患者を算した。大会議は即ち其患者を、サイパンに下すか何うかに付いて勃発したのである南洋に居る医官の常識問題にも関するから、好例証として茲に其大略を紹介して置く。
大会議は食堂に開かれたが、其第一の特徴は小田原会議の容易に決せずして、実に吾々より貴重なる四時間を奪い去ったことに存す第二の特徴は彼等の常識の如何に貧弱であるかに関する。船が着くと、金モールの肩章に短剣を帯した半ダースの官吏が来た。軍人も医者も、民政吏も、悉く金モールと短剣で威張って居るから、鳥の雌雄は吾々素人の到底知り得ない所だ。皆の人は口にマスクを着けて形勢頗る不穏なり。
一等船客の検査は、数分にして終った。サンドイッチを下げて上陸を待てども、待てども御許しがない。フト食堂へ来て見ると、金ピカ諸君の会議が熱烈に進行中なるを発見した。私は傍聴席に着く

愚会議大要

甲「如何に御同役斯かる患者を本島に下ろし候わば由々敷大事な出来仕るびょう□し候が方々の恩意如何に候や」
乙「さればにて候本島は設備万々不行届きの所にて候故流患なぞ申す舶来の大病を引受け申すは真平御免の儀には候わずや」
丙「左り乍らヨーク開き給え船の設備に較べなば陸上の設備の方なんぼう完全には候わずや茲に下船せしめて炭酸だのクミチンキなんぞ申す名薬を施こし全快の後次傾にて航行せしむるこそ医官の責任とこと申し侍るになん」
丁「這は奇しきことを承るものかなサイパンは医務不完全の一島なり若しも流感の伝染するようのこと有らんには人口全滅の悲運に陥ること火を睹るよりも明かなるものを病者は宜しく船上にて治療を続け此島民を死の悲痛より救い給え之れなん医者の人名救助の使命とは存じ候が如何に如何に」
丙「一応御尤もの御説ながら、また先々のことを思われ候え。此先きの港々にて本島同様の検閲検閲にて、何百の船客員に迷惑の数々を及ぼさしれ候は、拙者等の堪え難き所にて候。其上に船中は伝染の機会も多きには候わずや」
甲「御同役の言も尤もなり」
左らば諸君よと、現代式に椅子より立ち上りたる顔而骨立の鬚多き老医官は、語を継で言う
「法の明文の命ずる所に依て処理するの外なし」
丙「然し乍ら、」此に就ては法に明文御座なく候」
之を要するに、右の如き天保以前の悠長なる会議が三時間以上、繰返されたのである。船客はデッキでサンドイッチを平げて、口々に医者様の常識だの、薮医者の由来だの、語り尽して食堂へ来て見ると、また御座候にて候が終って居ない。実に実に驚き入ったる次第にて候
御同役如何で御座るの小田原会議は、三名の患者をサイパン島の病院へに託することに決した由で、午後一時に吾々は上陸した。何処の国でも、一等船客は検査の上で上陸を許されるのに、サイパンだけは四時間の足留めを喰って了った。否松山丸は、其前の夜十時に投錨したのだから、夫れ程重大なる事件ならば、其夜に医官が一応来船して商議す可きだ。
更に該会議は、三名の患者に関して四時間を空費仕り候うものにて、一般客の上陸を許す可きや否やの根本問題は、彼等の渇ける唇の上へは一回も上って居らぬ此問題を議するならば、四時間の愚論も或は意味あらん。然るに此事は別として、三人の三等船客を此処で下ろすか何うかの愚議を戦わしたのだから、驚からざらんとするも能わずではないか。既に治りかかった三人、夫れも日本から六日間も此船に居て、トラックまで行く者を、今更此処で下ろして了うのは常識には有り得ない。
医者の細菌眼より観ずれば、或は会議に値したかも知れないが、世道常識の上から見れば、何としても愚策だ。而して之に抗弁するに、サイパンの設備の不完全と、島民の生命救済とを以てした所のサイパン諸官憲に至っては、是れ亦言語道断の沙汰と申さねばならぬ。夜に帰って聞いて見ると驚く可し、三名の患者は、其侭目的地まで航行し得ることに変更された南洋諸島も此種の官吏に治められるのでは国際連盟総会に何百人の代表者を送ったってトテも一等国統治者の顔は立ち得ないのだ

(十一) 土人ダンスの第一印象 硫黄島の恋の仇の結果

磯節踊り

偖て小田原医会議の犠牲者はサイパン実業家の晩餐会に望む。西村拓殖会社の社宅に於て、仲々立派な馳走を発見した。巧に箸を以て沢庵をバリバリと音させ乍ら、三、四杯の飯を易々と平げるウッド君は、相変らず一座を驚かした日本酒‐‐それは暑い所とて、サルチルサンの多量に含まれたメチール、アルコール‐‐を二三合は干す。
土人のダンスに関しては、別に稿を設けて詳説するの価値と必要とがあるがサイパン土人のダンスは、低級にして且つ簡単幼稚のものだから、此機会に一言して置こう。要するに土人は飯よりもダンスを好むことは特記すべき現象である、ダンスを所望されると、仕事は無論のこと、飯も放擲して雲集して来る。
サイパンの土民は、カナカ族とチャムロ族とより成るが、ダンスを提供したのは前者で、之は南洋に住む多くの種族中で最も低劣なる人間だ。椰子の葉を腰に捲き付け、頭へ花輪を冠って、尻を動かして唄い騒ぐのに過ぎないが、其土人らしい所に価値を認める訳である。土語のダンスは一向に解らないが、日本語のダンスには驚かされた。
サイパン出る時と云う歌だ。他郷に出でて、暫くの間は異郷の風物の珍らしさに故卿を忘れていたが、鹿の鳴く声聞けばサイパン恋しゅうてならぬとある。歌の文句を立山に求めたのは宜しいが、其節が、磯節くずしと云う下品なる調子なのでウンザリして了う。土人には恰好かも知れないが、聞く吾々は堪まらない。
更に之等のダンスが、日本の盆踊りと目的は同じゅうすることを見遁してはならぬ。盆踊りと云うものが、地方官憲の禁ずる所となったのは、踊りの後に、性を中心とする目的が潜んで居るからだ。土人のダンスに至っては、此目的が一層赤裸々である。
否な独り日本や南洋の踊りに於てのみならず、西洋人のダンスに至っては、層一層之を明示して居る。文明人だと云うので、種々の理屈こそ付けて居るが、ダンス発生のの由来、□に現状の□面を見ても、西洋のダンスは性の高潮を志すこと謂う可からず。即ちダンスはゼルブストツエックではない。土人が他の大なる半面を慕うことを、西洋人は非難するの権利を待たぬ。
此機会に一言硫黄島の奇譚を語って置く。南硫黄島が無人島であった時、此処に漁船が難破漂着した。八人の男に対して一人の女性が居た。無事に治まる道理はない人生その趨る所に趨って喧嘩は時と共に数と質とを増して行く。斯くて漂着の日より三ケ月を過ぎて女性愛の争奪戦が痛烈を極めた或夜のこと、敗者は失恋の怒りに火を消して了った。火も灯火も彼等九名の上より取り去られた。無論マッチは既に尽きて居る。
之より彼等は全然、火の気のない生活に入った。物を煮ることも沸すことも出来ず、灯火も点じ得ずして夜は月没と□に寝た。而して彼等は実に此生活を六ケ月も続け、漸く汽船の救う所となったのである。性慾の自然、恋の占有の戦い、其驚く可き結果に就ては、私は別に深く考えないが、ただ火なくして半歳を生活し得た所に、南洋を発見した感が深い。料理を要せざる食物が、年中樹上に実って、土人の自然生活を招来した事情が、早くも南洋の玄関に認め得るではないか。

南洋の部

産業と云う見地から見ればサイパンは偉大なる島である比較的のことだから笑ってはいけない。此処には南洋貿易、西村拓殖、南洋殖産の三会社の外に、個人で小事業を経営している人も二三人はある。斯かる島に喰い入る程、日本は小さいのだから、之等の産業も無論真摯に考えねばなるまい。土地は甘蔗に適して居ると言われて居る。加里も窒素も燐も、理想的に含有されて、其上に雨量も比較的少い所から、砂糖業には可成りの見込があるらしい。然し土地の狭少は企業の規模を制限するのみならず、内地へ移入すれば関税も払わねばならず、此頃の市価では到底利潤は上るまい。問題は土地生産力の将来と資金利用力の如何に懸る。
耕地は山の背後にもある。即ち比較的豊富なる島と云うことになるのだが、大資本の予知には限りがある。守備隊長の香宗我部大尉は、間接に知己なので種々世話になった贈られた煙草は特筆に値する葉はマニラに似て可成り強烈だ□も出来る憾むらくは製法不完全の為めに消え易く、夥しくマッチを浪費せしむるの弊あり
山口と云う料理屋兼旅館の主人は、南洋に富を為した人と云われて居るが吾々に珍らしい菓子の雄大なる箱を贈られた。其包紙には廉品として傍に記者閣下とあるウッド君に訳してやるときCheap gift Your excellene the Journalist と直訳をして見たら彼も少しく驚きの目を見張って居た。帰国の上広告をしてやれば慥に廉品の意を解し得る次第だからデイリイかニュースへ宜しく記載することを忘る可からず、と云うことに帰着した。

(十二) 土人間にも人種的偏見あり 日本人褌一本の悪癖を慎め

日本人如何

サイパン島に於て看過ごす可からざる現象は、夫れが世界的人種競争の縮図なる点にある。巴里へ平等案を担ぎ出して大味噌をつけた日本政府の親友をカナカ族と云い之に反し人種的優越を誇るものをチャムロ族と称す。サイパン島の土民は土民は此二種族より成り而して両者の間には優劣の僻見が深く且つ強く根ざしておる。彼等も亦相当にやッちょるのだ。
公平に見てチャムロ族の方が文明的である。カナカ族は現代文明の関する限りは劣等と評さねばなるまい。チャムロは兎に角、肉体労働よりも精神労働(低級ながら)を尊ぶ。彼等は不完全乍らも衣服を纏って、床のある家に起伏し、三度の食事と午後の茶菓とを規則的に摂る之に反してカナカ族の方は男女ともに褌一ツ、食事は空腹を感じた時に、随時果実を食うだけである。
更にカナカ族が、文明人には屈従するの諦めを持つに反し、チャムロ族に至っては、表面は服従して居ながら、内々は自分等の人種的優越を誇って居る。彼は単にカナカ簇に対して優越を確信するのみならず、驚く可し、日本人よりも優秀なることを信じて居るのだ然し静かに考えて見ると、日本人中でチャムロ族より劣等なる外観を呈する輩は必ずしも稀ではない
南洋へ来て居る移民の中には、動もすれば褌一つで往来から見える所に涼んで居るのが少くない或はチャムロ君よりも汚れたる、垢じみたるシャツを着ている連中も可成多数を算す。否々移民のみならず白昼堂々と金モール短剣にて土人に君臨する日本官吏中、夜は褌一本で酒を飲むのが二ダース位は居る。チャムロ君にして此光景を見慣れたからは、日本人種の劣等を信ずる、必ずしも咎む可からず。止むなん止むなん。
実に世間の狭い彼等から見れば東京に住む日本人も、南洋に旅住いする日本人も同一にしか思えないであろう。と書いては見たが、品川から新橋への汽車遠藤の家の人で、夏の夜、夫婦褌一ツの晩餐の光景を提供する者も少くないのを顧みれば、撫然として筆を擲ちたい感じもする。私はチャムロに代って言う。日本人よ、現代文明を否認せざる以上は、東洋覇者の民として褌一本の悪癖を一掃せよ。

人種の暗争

人種平等案を巴里に持出しても之ではトテも物にならぬと思わるる数々の不体裁は、速かに改めねばならぬ。然し同時に、私がチャムロに屈したと思われては迷惑だ彼は要するに、衣服のみを問題としているので、黒人種として創造的能力の貧弱なるに至っては、日本人よりも数十等下風に座するものである。吾々は彼等と、優越を争う程の不見識には陥りたくはないが、序ながら一言して置くことは、チャムロとは西班牙語にて禿頭の意味である。
カナカ種族に言わせると、体力の優劣は直に以て人種等級の標準だとある。故に体力の強い彼等は弱いチャムロを散々に軽蔑して居る。思うに南洋生活の関する限り右カナカ族の主張は道理がある。地勢と気候とに順応して最も合理的なる生活を営むものを聡明だとすれば、カナカの方が寧ろチャムロ以上だと言えぬことはない。
此土民の有する唯一の文明的機具をマチエテと呼ぶ。蛮刀の意味だ。二寸幅で二尺位の刀である。男は皆之を腰に挿んで居る。木を伐り、家を造るのも此刀一本、牛豚を殺すのも、喬木を倒して道を開くのも、橋を造るのも、魚を料理するのも、瓜を切るのも、此蛮刀一本に依る。サイパン土民に感心す可きことは、他島民と異なって、之を喧嘩の際に使用せぬことだ。若し用ゆれば非常なる臆病者として社会より排斥せらる。
一寸武士道に似た精神がある。モ一ツの器具はフシノスと呼ぶ農具である。耕すのにも、播種にも収穫にも此一本の農具に依る。つまり右の二ッを持って居れば、他に一銭の資本も要らないのだ。然らば、斯かる鉄製品が如何にして彼等の一般用具となったのであろうか。

盗賊島由来

マリアナ群島を一名ラドローンと呼ぶのは之と関係が密接だ。盗賊の島と云う意味(西班牙語)である。其起源は此島民が西班牙人の鉄器を盗むこと頻々たりしに基く。後に説く可きが如く、盗むと云うことは、土民にとっては必ずしも大罪悪ではないのだ。一方に鉄の効用を知った土民は、人肉の美味を知れる猛虎の如く、全力を挙げて鉄器□□□□□□□□
之は実に□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□等の唯一の重要なる□□□□□□ノー□□□□□□□□□□□□□に何年の歳月を要し、若し夫れ□□ノーを□って造るのには一生を投ぜるの大事業を□うる時、鉄器の偉力が、如何に痛烈に彼等の慾望を刺戟したかは、容易に想像せらるるであろう。
実に貝□片に依て大木を切り倒し之を売って糖を造るまでの歳月と□□とは、□□無智の民にして始めて堪え得べき犠牲であるが、一□鉄造のナイフを使っては、何うしても二度と貝の刀を手にすることは出来ぬ。百難を排して西洋人の鉄器を盗んだのは、即ち彼等の人間らしいことを証明した事実であるに過ぎない。蛮刀は之より輸入されたもので、土人の生活に絶大なる開化を恵んだものである
牛を殺す場合の蛮刀(マチニチ)は真に蛮刀たるの本領を発揮して物凄い。□□の□に□□りたる□□にて牛の□を□□へ□り付け、蛮刀にて其の首を斬るのだ。十数回、薪割り式に首を叩き斬って漸くに殺す其凄惨なる有様は到底文明人の□□に堪えない所である。牛は四肢に全力を集注して逃げんとして居るのだから、首と体とが左様ならを告ぐる瞬間、首無し牛は数尺も後方に□めいて倒れる。蛮刀の蛮用を極端に物語る事例の一つだ

(十三) 王倒れて飛車残る将棋 世界第一の蝿の雄飛場

南洋特産蝿

南洋は一言にして□□と評し得れども、蝿の生産に至っては蓋し天下に□絶す、ビールを注いで先ず一□□□を□してコップを卓上へ置くと、早くも□□の蝿はコップの中で遊泳を開始して居る。まさか夫れ程でもあるまいなぞと言う□□の人々は、須からく□□□場に行って見るが宜しい。如何なる数量□□□□も断じて裏切られない。
チュニアン島で西瓜の皮を棄てると、蜂も及ばぬ唸りが其皮を攻囲して何十重の蝿の塊と化するそうだ。吾々が山道を散歩する時は、常に数十匹の蝿をおんぶして居る。白服で、肩や腕に無数の黒班を染出して歩いて居る友人□□姿を笑えば、自分の肩中は黒い縞が出来て居ることを注意される。
蝿の数は文明に反比例しておる文明進むに随って駆除せられ且つ生活の本拠を断たれて亡びて了う日本□□が多い、ハイイタンクと云う□□□が発行されても、下水其他の衛生設備が非文明のままだから何時までも「五月蝿」なぞと云う字が存在するのだ、支那は日本より多い、然るに南洋諸島は支那をして□色なからしむるのである
チユニアン島は世界の蝿の中心市場として姑く□き、我南洋統治の府たるトラックは恐らくは代表的産地であろう□へ□□る夏の□に逃げるだけ殊勝だが此辺の蝿は逃げない否逃げる奴よりは来る奴の数が多いのだから、払う方が馬鹿と云うことに帰着する。
小さい「はいちょう」を造って各自の膳へかぶせて置く、日本式である日本人は此種の□□□は上手であるが、根本的改善の熱が足りない、独逸が□して居たならば、今頃は此特産物も慥に大半を平げて□た□□□□□□□□□□□□□を□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□見ると、□□□□□□□□□□□なくせらる。

野獣群居島

テイパン島の□にチニアン島と云う□□□なる一□□はる。□□を待つ、と□□□□□野生の□□□□□して□□の□□を持って居る。嘗ては主要なる一□と認められ盛に□□せられ□□ので、今日でも其処には珍らしく大きい教会や公会堂の□□□□□□□□を□□して居る□□であるが、□□□□□□□□□□チニアン島に於ても土民の反□を挑発し、□を□□するに至った。文明の利器を持った□軍はチニアンの土民を□□して□を治め、同様の戦をサイパンでも試みた。□て全滅に近いサイパン土民を□う□□□より□□□コ、カロリン諸島よりカナカ族を移住せしめたのであるが、チニアン島には之を□さざりし結果、遂に今日の準無人島と化した次第である。
其時何百かの牛豚鶏は家畜より□□に□□されて今日に至った野牛二千、野豚四千、野鶏無数と称せらる。話半分と見ても□□に□□□□□荒れて全島は草木叢生する中央に一ツの沼があり、此沼にて水を飲みに来る□□の□□□□□と通じて居る□□□□□□□□□□□□□□□□して人間は到底□□□□□出来ないと云う、□□な□である。
野□□□は大袈裟だが、蝿の無数は真実であるらしい。牛とか豚とか云うものは、本来□に対して引力を□して居るのに比べ、前記土民の□□、□□□□□□行われることを知らば、蝿の無数が真実だと云う説を是認せざるを得まい況んや気候は一年中蝿の生活に適するのみか、之を駆除すべき何等のアンチ、フライ□が行われたことが無く茲に何百年の自由を享受し来れるに於ておやだ。

ガム島遠望

蠅の話にツイ長い話を書いて了った。サイパンからロタ島へ寄□して直にトラックへ向う、其右□十浬の所に有名なるガム島が大砲を光らして居る。ガム島は南洋八百弱の島の中で最大の島、米西戦争の結果、米国が捲き上げて了ったのである。私は之を王を失って飛車のみを残すものと評する。マリヤナ群島に就て見ても左うた。
此群島は十七の島よりなるけれども、人間の住み得るのは、ガムを失った後は、サイパンとロタの二島あるのみ。ガムを失って尚おマリアナ群島を領して居た西班牙は王を失って尚お碁盤に拠るの愚に陥ったものである。サイパン、ロタの二島に拠って苦心経営したが遂に全く持て余し、遂に独逸の買収□□□□□
ガム島は港に於ても、面積に於ても、地味に於ても南洋諸島中第一の島である。其位置は南端に偏しているが、尚お群島を治める本拠地たる可きものだ。米国が之を領して築城築港に何千万の弗を投じたことは、前にも記した通りであるが、其戦略上の価値は小笠原と大差ない。其築城は愚である。米国より四、五千哩も離れ、日本と日本の統治島とに包まれて孤立の地勢にある。
フヒリッピンに独立を許すの日は、ガムは国際連盟へ返却して非併合の大儀に添うのが、米国を大ならしめる所以で御座ろう。這んなことを考えて居る船中で、私は南洋の他の特産たる急性腸加答児に襲われ、地獄のような暑苦しいベットを油汗で濡らすの身となった。アミーバ赤痢の稍軽いものであったらしい。
一月に東京を出てから一週間目には、単衣一枚で汗をかく。胃腸も自然に弛緩する所へ、船の動揺が一層之を悪化する、上陸の愉快に少々過食する、暑さの下で椰子の水を飲む。アミーバ赤痢は斯る間に襲い来る。三十八九度の熱と何十回の下痢とを特徴とするが、気温九十度位の小船室で唸る辛さは、船の動揺と設備不完全の苦痛に連れて、つくづく物の悲哀とやらを感ぜしめる。

(十四) トラック島に於ける醜美感 土人特有の臭気に打たれて

噫トラック

南洋の月明の夜は、詩のためには余りに明る過ぎる。然しただ晴晴とした陽気なる美しさを現ずる内地の秋の夜に見るが如き、冴ゆれども一種物悲しき情景を開展することは無い。空気の鮮新と無塵の為めに、著しく強い光を投げて居る。遠い森も、木々の梢も、原色に近い色を染て、はっきりと姿態を見せる。ロングフェーローに非ざる吾等は、南洋の月を形容するに明るさと強さとを言い得るのみ。
金星か木星か、其海面に投げた光が、波上に薄い銀竜の列を躍らせるのを思っても、月光の明美は用意に思考し得らるるであろう。トラックへ着いたのは一月の二十一日と記憶する。此処に海軍の守備隊司令官が居り、亦民生部長も住んで居る。即ち海軍の司令部、守備隊、民政本部、トラック民政部と、四つの御役所があって、例の金モールの諸君が群を為して居る。
ダウィインの説に従えば、大古の火山が海に没して、山嶺の各部が海面に残って居るのがトラック島である。十幾つかの島が、周囲百哩に亘る珊瑚礁に包まれて点在する。故に珊瑚礁内は自然の錨地を形成して、其広さは優に八八艦隊の二単位を抱擁するに足りるが此世界的理想錨地も実は地図の上の話で、港内所々に礁岩蟠居し、大艦隊を容れるのに不便があるのは玉に疵である。
一九一四年初夏シャーンホースト以下五隻の独逸東洋艦隊がトラックへ集中したことはあるが、ある程度の艦隊は無論楽々とは出入し得るせあろう、松山丸が入港すると、其所には三隻の艦船が居た所属軍艦勝力(艦長は好漢今橋中佐)給炭船野島、御用船多摩松山を加うれば四隻で、日本の統治以来空前の雑沓とあるから、南洋の規模も知れたものだ
軍艦春日が入港するので、松山丸は予定よりも早く出港を要求され二泊で逃げ出したのは幸福であった。春日の巡航は日本官憲式に行われた、換言すれば秘密に行われた、何時入港するかは最高当局者のみの知る所で、一般には知らさない秘密程早く漏れるものはなく、また秘密程有害な猜疑と憶測とを盛ならしむるものはない。

密猟艦春日

何処の港へ着いても春日の噂は大変なものだった。ウッド君なども、何故に海軍が春日の行動を秘するかを、強く怪しんで居る。春日の巡航は軍事上の意味でなく純然たる行政上の理由に基く。其艦上には外務、農商務両者の御役人か便乗して居る。そうして今後改めらるる官制の基礎の良否を試験しに来るのだ。其材料を不用意の裏に漁ろうとするのだ即ち一種の密猟船として巡航するに過ぎない
之を秘密にするのは、日本官憲の伝統的愚昧の致す所だ。智識に後れたる人々は、秘密材料に依てのみ辛うじて自己を防衛せんとする。思想常識の後れたる多数の官憲が、秘密を唯一の智的財産として尊重するのは之が為めである。秘密にも極秘、秘外部秘等の階級があって、国民と隔つる益々大ならんことを冀って居る。我政治の腐敗因の一つは慥に茲に存じて居る。

最劣等土民

腸加答児は私の専門に属する病気であるから、東京で綿入を重ねた身が、一週間にして単衣で汗をかくの激変に会しては、当然発病するものとして怪しむのは足らぬ立派に諦めて孤影煢然、デッキで涼風を取り乍ら土民の荷役を終日眺め尽す。
トラックの土民はマイクロネシア族であるが、趣好風格最も劣等の人民だ黒い顔から厚い紅の唇の辺は、絵で見慣れた所と寸分違わないが、其黒く縮れた長い毛髪に、桃色のセルロイド製櫛を挿んで居るに至っては到底正視に堪えない。大概は褌一本の原則に服して居るが、中には日本労働者の古半纏を着て大いに気取って居るのがある。石炭の荷役に対しては保護色の関係にあるから、可成り易々と仕事をする。
本稿に最初に、足の大きいのを以て男性美の標徴と為し、海砂に印せる桜島大根の足跡にキッスをした女の住んで居ると言ったのは此島であることを繰返して置く。女の鑑賞眼が右の如くであるから男の風尚も知る可しだ。其理解力に至っては、分別盛りの男が我小学校の一二年生と同じ程度で、十以上の数を算し得る者は稀である然るに性交□関する発達は其正反対だから驚く。此現象は便宜上後稿に於て論究を試みる筈だ。
何故に日本は統治の本拠を此島に置いたのであろう。独逸は、ヤップ、パラウ、ポナペ、ヤルートの初頭に美しい施設をしたが、トラックは抛擲して殆んど顧みなかったのである。此島は第一に狭きに失する、人工に比例して耕地も少く、利益としては単に錨地が広いというだけであるから、統治上の理由は甚だ乏しいと言わねばならぬ。邦人のために土民は食物の不足を感ずる程である。
司令部はに慥に絶景を支配して居る。二百尺位の岡の頂上にあって、左右に海風を容れ、正面は緑の山を仰ぎ、月明の代は、つくづく避暑地の歓会を緬想せしめる。設備さえ善ければ南洋の生活の決して排斥す可き瀬ないことを思わしめた。

(十五) 腋臭を賞揚する心理状態 ポナペに到りて生色あり

臭き女の愛

土人中の劣等種族たるカナカ族は、熱心に石炭の荷役をして居るワッショイとか、オイコラとか、エンヤラヤーなぞと、すっかり日本労働者の熟語を呑み込んで、蛮声を張り上げて荷物を運ぶのも面白い。荷役の二日目には、シャツを着た連中を可成り多数に認めたが、いずれも裸体に劣る万々の穢ないシャツを纏えるもので却て彼等の醜悪を添加するのみ。田舎悪女の白粉よりも醜い。
土人には特有の体臭が強烈だ。其悪臭の第一の構成要素は、彼等の主食物たるココナッツ(椰子の実)の水と油とより来り、是に他の果実の香、汗の臭い、いろいろのものが混合して土人臭を成す。五十人の土人が荷役をして居る船は、忽ち此堪え難き臭気を漂わす否吾々でも少しく椰子の実と汁とを飲食すればシャツも膚も、此奇臭に染むのだ。長く南洋に居れば此臭が鼻につかぬばかりか、却て之れに対して懐かし味を感ずるそうだ。
聞いただけでも慄然たらざるを得ないが、此間の消息は、婦人の「わきが」の悪臭が、美の一要件として欧米に絶大なる価値を築いて居るのと同じである。土人の女を愛する多くの在留邦人は、其悪臭を芳香として親しむのだそうだ。日本の便所に慣れて見れば左迄臭いとも思わず、其中で沈思黙考に耽る人すら少からぬ事態を顧みれば、土人婦女の臭は正に蘭麝の香りを放つものであらねばならぬ。此芳香を解し得ない人のみが、哀れ神経衰弱に陥るのかも知れない
極端なる耳飾りもトラック島民の特徴である。驚く勿れ耳へ二三ダースの椰子の実で製した輪を下げて居るのがある。甚だしきは裂耳と称して耳の下部を輪の形に裂き、之を人工的に引伸ばしてブラ下げて居る。之を要するに最も原始的にして趣味風尚の醜劣なる土人は、トラック島に住むのである。

島民総歓迎

都洛陸上の観察は帰航の際に残し置きてポナペに向う。貿易風を真向に受けて船足は八節内外を嘆しても、ローリングよりはピッチングの方が遥に楽である。雨が降ると天井と窓と床下との三方より浸水する松山丸は、散々に船客を苦しめながら老体を東南に進むること二昼夜、一月二十六日の午前、ポナペ港(コロニー湾)に投錨した□□□では二浬以上を算す。
船上より眺めたポナペ港は、西洋の絵に見るような閑寂なる避暑地の趣がある、暗緑と新緑の樹の間より、白い洋館が隠見して、文明の油に汚れない美しい市街が横たわって居る。ポナペ富士と呼ぶ山の裾は、南洋諸島には珍らしい軟か味を見せて、山麓の人煙揺曳として野花原草を罩めるような風情が忍ばれる。嶺上の閑雲も蒼空も、悉く此小港を詩化するの要素たらざるはない。
波止場には、かねて吾々を待って居た山中大尉が微笑を以て迎えて呉れた背後には、此町の老若男女数百名が、正装の列を為して歓迎の意を表する。意外の騒ぎに少々面食らったが、よく聞いてみると、山中大尉が守備隊長としての恩威ある態度は、著しく島民の尊敬を増し其隊長の友人が来たと云うので大歓迎が表現されたのだそうだ。守備隊への途中で耶蘇教会で土民の賛美歌を聞かされる。日本の伝道師が布教して居るのである。要するに私は義理で之を見聞するだけで、素々此方面には純白に無関心なのだから、御世辞を云うことも止めて置く。
布教者に対しては御気の毒だ。然し乍ら信仰の効用は知って居る利用も考えて居る。此意味に於て土民を教化した耶蘇教の、過去百年の効果は認めて居る。然し乍ら今日は最早や卵殻たるの効用に近いのではないかと思って居る。ただ道の為めに斃るるの宣教師あらば、事業の価値は別個の批評を要するのみ‐、

南洋の玉楼

守備隊の官舎は、南洋諸島としては雄大であるのみならず壮麗である。之は独逸の知事の事務所兼住宅として建立せるもの、構内数千坪、赤い花の垣が芝生の上に連なり、庭内に種々の熱帯植物や草花を培って妍麗の色を漂わせて居る。底内にテニスコートあり数町を歩めば南洋唯一の水泳場あり前隊長の建立に成る伊勢大神宮の拝殿は樹立に包まれて厳在して居る此理想的な舎宅で、山中隊長、小薗江主計長、甕医官の懇切なる歓待に航海の疲れを養って、自分は漸く人間らしい身体に回復したのを覚えた。其夜月明星稀、中庭に椅子を移して更け行く南地の夜風に吹かれつつ、人間青山の必ずしも故郷に限らざるの思相を味わった。
南洋の月の、蒼空と共に澄んで銀月人に迫るの光景に就ては、前にも一言した通りであるが、南は即ち陽の対象なるが故に月も至然陽の標徴として輝き沈痛なる悲壮なるまた消極的の悲しさは影さえも宿して居ない。天狼星即ちシリウスの精白の光なぞは、実に気味悪き真での強烈を見せて居る。凡ての花は赤と白とにして、樹に黄葉の凋落なく、また老蝶の痩するものなし。
即ち南洋諸島は、或は活動の巷ではあろうが断じて静思の地ではない。比較的肉体労働には便なれども考索の心労には適しない。理想を求むれば、臥て食べて腹こなしに散歩する土地だ。読書は一時間もすれば倦怠を感ずる。

(十六) 寝食を忘るる舞踏執心 「雨しよぼ」に驚くの記

好戦的舞踏

南洋五万人の土人が、真に寝食を忘れて熱中執心するものはダンスである。慥に奇異の一現象として特筆の値ありと信ずるに依り、此一、二稿を其説明に投ずる。実を言えば数稿を費すの値がある程土人の生活と密接不離の関係があるのだ。
ポナペに於て、奥山民政署長の斡旋によりて催されたる土人ダンス会には百五十人の男女が舞踏を演じた。舞台は棚を三段に築いて、男は上の二段に横一列に立ち、婦人は下の段に一列に座す。男は裸に腰蓑を纏い、全身に椰子の油を塗って黒褐色がピカピカと輝く。女は西洋の寝衣のようなのを着て盛装を凝した訳である。
幅二尺、長さ十□位の棚に五十人の男が立つのだから立錐の余地なき有様だ。悉く手にカノーの櫂を握る。女は、日本ならば木魚とも言う可き木片を持つ。之がオーゲストラの全要素だ。偖極めて勇敢なる声と調子とを以て、彼等は唄う。恰も魔人の独唱でも想像せしむる如く、調律よく合致して響音となって森、山、川に伝わる其始めには実に一種の物凄き感をさえ催せしむるのである。
唄に合せて、男は櫂もて自分の前に横たえてある丸木棒を叩き、女は例の木魚式の木片を種々に叩き合せて調を作る。一種の哀音が流れる。男百人(二列横陣)は櫂のオーゲストラ以外に、始終足踏みをしたり、または手で腕を叩く。之は日本の足拍子拍手と同じ意味を示す。日本の盆踊で、手を叩くのと全然同じ工夫なのである。
仮造りの舞台は、興に乗って足踏みをする男の力に危なげに揺れる。ステーヂ・マネーヂャーが四、五人で方々へ気を配って居る。マネーヂャーは酋長または小酋長の役で、立派に立働く男の舞台上のダンスは単調である。左手を胸に当て右手を開いて足踏みをする有様は、我が相撲力士の土俵入を□列に延長したものと、実によく似て居る。此場合には婦人五十名は軽く足を踏み(ステップと言うのには少しく間が抜けて居る)、ただ木魚オーゲストラを続くるのみ。

雨しよぼ

其次に、少しく複雑したダンスが演ぜられた。夫れは男女の中より二十名を選んだ外に特種のダンサーを加え、例の舞台前の芝生の上で五種類のダンスを同時に演ったことだ。其四種類は各島の特徴を模擬したものであるが、驚いたのは中央の五人の美人が日本の「雨しょぼ」を開展したことであると言って決して徹底はしなかったから安心であったが然し雨しょぼとは大変なものを輸入したものだ
「雨しょぼ」なぞは、極めて土人向きである。東京の鉄道馬車が天津へ移転をしたように、雨しょぼなぞと云う穏かならぬ踊は、夙に東京より追われて、未開地の舶来品になって居るのだ。サイパン島には既に磯節くずしが第一流の唄とダンスである如く軈て南洋には「奴さん」だの「かっぽれ」なぞが襲来すると同時に「ナンテ間が好いんでしょう」の連中も続々と入り込むに決って居る。序ながら言うが、土人がダンスを好むことは極端であると同時に唄を愛し歌をおぼえることは亦甚だ妙である。小学校の生徒は、学芸に於ては日本の児童に比す可くもないが、唱歌と体操とに至っては驚く可き進歩を示し、日本の子供の三年を費す所は半歳位で仕遂げるのだ。

さつま踊り

ポナペ島舞踏会の最終の幕を閉じたのは有名なる「棒ダンス」と呼ぶものであった。而して此踊りこそ南洋土人の伝説と精神と、併せ□亦技工の本領とを表現する所の代表的な演劇である。
然り踊りであると同時に劇である。男性の勇敢と本分と試練とを誇る可き此ダンスは、女性の熱誠なる詠歌に励まされ、両々相和して茲に南洋諸島の歴史と全趣味とは活現し来る。日本の薩摩踊りを更に技巧的に拡大したものであるが、其両者の起源は何等の交渉もなく、独自に産まれて別々に発達して来たのだ。
五十人の体躯雄大なる男は、勇敢を表徴する為めに自ら皮膚に数十の傷を付けたる物凄き戦争的な勇姿を揃えて、各一間位の棒を持つ。背後に犇々と寄り詰めたる百数十人の男女の歌と共に、ダンスは始まる。長方形の陣の中に、五人一隊の幾列が整然と列び、隊長の号令に依って活劇が現われるのだが、其方法は、各人が左右前後の人々と棒の叩き合いをしながら、或は伸び、或は□□、左に走り右に飛びつつ、機械で織るように棒を打ち合う。
馬の如く軽く、又牛の如く重く、遅速緩急、巧に踊る技工は、非常たる訓練を経るに非ざれば能わざる所だ。身体が余程軽くなければ到底斯かる巧妙なる運動を演じ難いと同時に、剛強の力なくんば、斯くの如く長く踊り続けることは不可能である。
起原が戦争に発して居ることは疑いない。体躯の強大と負傷(自ら態々傷ける)の勇樹を表示して居るのが既に歓楽のダンスとは本質を異にして居る。棒は武器であり、其幾多の打合法は即ち我が剣術を、もっと不規則に且つ複雑にしたもので、武術としては素より前者に及ばぬこと遠いけれども、土民の頭脳としては以上に発達せる戦法を説明して居る。

(十七) 戦争踊より戦争の跡へ ナンマタールの大城塁

戦争の名残

各自に棒闘の術を習い、更に一軍として規律的の団体訓練を積んで居るのは、幾百年来、彼等の祖先が群島に占拠して攻守争奪に忙がしかりし歴史を物語るものであるが、偖て其背後に盛装して唄い狂う女性は何の心からであろうか。之は言うまでもなく、軍兵出陣の行を盛んにすると同時に、夫や兄弟との離別を悲しむのだ。故を以て、吾等には騒音喧騒に聞ゆる歌も、実は沈痛悲壮なるものだと言う、「命より、まさりて惜き別れかな云々」の歌の心は、日本戦国の妻女と南洋の婦女の間に変りはない。今や土民は戦争の外に住んで居るから随て棒ダンスに伴う心情は、自ら他方面に急転して居るが、孰れにせよ、土人の舞踏を見るのには、固有の棒ダンスを見ねばならぬ。
誤って偽文明におぼれんとしつつあるヤルートの土民ダンスは、今や昔の櫂と棒とを捨てて石油缶を使う。左手に缶を持ち、右手に木片を持って之を叩き乍ら踊り、時々缶もて地上を叩き騒ぐ。其態様はヤルートの戦法に基く戦踊りではあるが、石油の空缶を叩きたて之をテイン・ダンスと誇称するに至っては見るに堪えず、聞くに忍びず。
ヤルートでも女は男の背後で唄いつつ踊る。踊と聞けば病人も続続と出演する。仕事は勿論、食事を犠牲にして狂わせるが如くに踊り騒ぐ本当に気違い沙汰である。故に今日では、ダンスは公に禁ぜられ、ただ特別の場合に限って許されることになって居る。

残塁癈●

ポナペ島を訪う人は、必ず一日をナンマタール大城塁視察□費さねばならぬと言われる、奥山署長に従えば稀有の城壁にして、其起原、其目的ともに日月星晨のみの関知する所、未だ今□の之に解決を与えたる者なしと云う奇跡である南貿古谷君の世話で小蒸気を得ナンマタールと云う名が仏蘭西の名所を連想せしむる懐かしサに牽かれて旬日の病床後の疲れた身体を空元気の装いに包んで出かけた(朝五時に起きた事を書落した)
ナンマタールを見る。夫は悉く玄武岩を以て畳まれたる大小三十三個の城壁より成る大城塁(鴫に較べて)だ。多くは岩石崩壊して樹下一面に散布されて居るが、半ば原型を留むるものも二三個あるが之が判断の材料として残る。幸いにして最大なる石塁の残れるを見るに、高さは三間に達し、玄武岩一個の大いさが直径三四尺長さ一間位に及ぶのもある。
斯かる城塁が包む陣地は十一□平方に達して居るのだから兎に角容易なことではできるものでない城は海に望んで裾を波に洗わせて居る。少くとも三つの疑いを生ずる。第一は何人が之を造ったか第二は何の為めに之を築いたか而して第三は如何にして石畳みの城壁を完成し得たか
此三疑問を解決するとき、吾々は南洋諸島の歴史の重要なる一面に接することが出来るであろう。而して解決は左程至難な業ではないと考える。第一の問題は二様に考えられる。(イ)は其時代に偉大なる島主が出現して島民の神□する所となり、功成り名遂ぐると同時に、一代の事業として其名誉心を満足すべく、破天荒と思惟せらるる大築城を断行したものと見ることが出来る。

争奪戦の跡

(ロ)は共産主義的の産物とも考えられる。後日述べるけれども、南洋の土人は最近に至るまで所有観の観念が無かった。凡ての物は種族の共有であって、此精神は一島の危急存亡の秋に際しては一層熾烈に発揮せらるる道理であるから、他島軍の効力に備うべく、島民協戮一致してポナペ城を建設し此□に軍団の精鋭を駐屯せしめたものとも思われる。
私は自ら此二様の解決案を考えて見たが、其孰れなるかは記録に□するの外なきに拘らず、其処には一言半句の記録もなく、且つは廃□幾百年伝説の信ず可きものなく、ただ此二案の一方を正しと自信すのみ。日本でも将軍や大名が、領民を使駆して立派な築城を試みたことは共通の史実であると同時に、一代の偉傑と云うような大酋長なぞの、いかにもやりそうな事業だ。
然し食料中の最重要なる椰子の樹さえ、酋長と島民の共有に属する南洋諸島であるから、単に一酋長の功名心の産物のみとは断じ難い節もある。ただ相当勢力のある指揮者が中心人物として存在したことは無論であるから、孰れにしても築城の裏に、島民の一致と実力ある中心人物とが実在せることは慥だ。
然らば何の為めに、此島には不相応に巨大なる、また当時の労資には過重に失する程の石造大建設物を試みたのか、之はナンマタールを訪れた凡ての人の重大視する疑問であるが、私は直ちに之を城塁なりと断言して些の疑いを挿まぬ。目的は攻防戦に存す。他に使用の形跡ありしとすれば□は悉く附帯的の事象に過ぎないと。こう断定するのであるが、大概の人は妄りに疑いを構えて之を奇跡視して居るから、それで、朝五時に叩き起された苦痛を賠償するために、二三の説を一撃すべく稿を次ぐ。

(十八) 戦争に生死せる時代相

誇張的疑問

ナンマタールの古城は慥に一見の値はある。秀吉が大阪城を造るよりも大なる辛苦が、築城者に依って嘗められたことは疑いない。島の大きサと、人の智識と、材料難の三点から考えると、此古城は偉大であると言い得る。独逸のクバリイと云う医官は、熱心に此残塁を踏査して精巧なる縮図を引いた。外国人は一般に這んな事が好きだ、夫れは今も守備隊に備え付けてある。
日本人で此残塁を見た者は比較的少く、又之に断案を下した人も無い。奥山君は、好事家の気がある人で、殊に「探真録」と銘を打ったる一冊を綴って、視察者の感想を書かせて居るが、之を披見すると、滑稽な観察や、偉そうな議論が書いてある。
最も滑稽なるは、之を倉庫なりと断定した人である。此●爾たる一島に、十哩平方の倉庫が産まれる筈がないのみならず、食物は年中、樹の上に熟して生活上に「保存」という必要絶無なるを思うに就けても、之を倉庫なりとは、蓋し倉皇周章家の愚考であることが解るであろう。
次に之を部落なりと考えた人がある。此同類は可成り多い。之も少々御目出度い観察である。土民の家は椰子の葉で家根を葺き、床のあるのは近代の発達に係るもので、石畳みの堅牢に構作なぞは、住宅の目的とは余りに隔絶して居る。また斯かる大規模の部落を造るためには、其処は地理的にも最も不相応であることが解る。
第三に之を御墓であると主張する仏臭い人も少くない。之は前記の倉庫君や部落君に較べると余程進んだ考えを持って居る。埃及やローマの旧文明を誇るなら偉大なる古跡は、多くは墓地に関連して居るから、ポナペ島の土人も恐らく此点に文化を集中したのであろうと想像して居る。加之、城塁中の一廓より人の骨と飾り物が堀出される。慥に旧人間が土となって居るのを考えれば、墓地説は決して空論とのみは申されない。

慥に城塁也

然し私は之を古城なりと断定する。墓は其一廓に在ったものだ。また之を住宅なりと見るのは、一局だけのことで、無論此島の大将と幕僚とは此城に住んだのであろう。然れども目的の全部は攻防戦の本拠に存する。海に枕して本島第一の要塞であり、且つ築城の構造は立派に戦争中なることを明証して居る。
偖て十何哩平方に亘って、全部石畳みの城塁を築くことは一通りの労力ではなかったことが明かだ車もないのだから、多分、山から転がして、それから担いで運んだものであろう。随って十年も二十年も費かったに相違ない。大変な事業には相違ないが、然し乍ら驚天動地と云う程の現象でもあるまい此島はトラック島と同様に、火山の埋没したものであるから玄武岩は全島を掩う有様だ。山の上には五六間もある玄武岩がザラに転がって居るのだから、之を利用して築城をしたことは、左迄人智の高大を語るものではない。
即ち在留邦人や一般の視察者が余りに驚いて余りに誇大的な疑いを挿むのは謂われないことであると言わねばならぬ。而して問題は努力の絶大と云うことに帰着するのであるが、之も昔は此一島に六万人の人口が在ったことを思えば、比較的容易に解決される問題である。夫れよりも寧ろ、昔の六万人が、何うして今日の七千人に激減して了ったかの方が大問題であろう。
ナンマタール城其物に付いては余り長く言うまい、ただ之に類似した築城は、クサイ島にも、トラック島にも実在するの一事に徴し如何に過古千年の間の各島戦争が熾烈であったかを一言して置こう彼等は戦艦を所有した。それは蒙古の戦艦よりも遥に小さいカノー船であるが、然も長航何百浬、他島に上陸して領奪の戦を絶つ時がなかったのである。
今でも長老の土人は、他島へ航して戦争をした経験を持って居るそうして戦争は実に男子の職業とも称す可きもので、一生を之に投じたのである。欧洲の風俗人情を破壊せる三十年戦争や百年戦争のようなものが、何百年も続いて行われて居た。ナンマタールの城、土人の勇敢の憧憬、半世紀前までの殺伐なりし人気、之等は何れも戦争諸島の紀念に外ならぬ
一歩を進めて見れば、夫婦関係が頗る不確定で、聊か共有主義的現象あり、換言すれば人情の淫卑なる事実も、戦争不断の史実より類推される一大事相と言う可きである
人家六、七軒を算する寂滅の感深き孤村に、ナンマタールの古城横わり、其近所は南洋貿易会社の出張所が西洋館を誇る。気の弱い男には勤まらぬ仕事であるが、然も出張員は気の優しい人々で、非常な世話になって夜にポナペに帰航す。病後の身体酷く疲れ、昨日の生色も何となく怪□□□感じた

(十九) 独逸知事を刺殺せる物語 一道の墓標

南洋一の美しい都なるポナペ港(コロニー街)に関して書き落すことの出来ないのは波止場より守備隊本部に到る道路のいかにも美しいこと並に其道路が、独逸の統治知事の横死土民の復讐心とを物語るの事実である。
石で畳まれた坂道を二町余り上ると、旧独逸の知事の官舎(現日本海軍守備隊本部)まで三丁ばかりの絵のような道が横たわる。両側には金亀樹が緑の葉を優しく垂て整然と列んで居る。一直線の赤褐色の道は実に綺麗なる対照を示して、静かに新緑の香に咽ぶ。其処には文明の美しい空気が流れて欧米あたりの公園の森の中でも歩くような心地がする南洋に居る心持は何うしてもしない。
然し乍ら此美しい道と、波止場より公園に到る石畳みの舗道とは実に独逸知事の墓標とも云う可き腥き思け出の土であるのだ。美しいけれども、夫れは妖婦の凄い優姿を連想せしむるの趣があると云うのは、独逸の民政長官が此町の土民に強制労働を命じ、殆ど囚人を使駆するような態度で、武圧的に此道路を造り上げたからである。而して其方法は稀有の圧政を発揮したもので、土民は悉く憤りに燃えつつ泣く泣く苦役に服したのであるが、遂に耐え得ずしてヂョーカーヂの反乱となって爆発し、知事は射殺され、二人の工務技師は首を斬られて了ったのである。
此反乱は独逸の領有中の最大の流血騒動で、此島の土民は小銃と蛮刀とを提げて要所に立籠り、独逸の官民全部を頃さんと試みたのである。知事と、道路監督の独人二名を葬ったことが、青島に居た艦隊に知れると、シャーンホースト、グナイゼノウ以下は急航此港外に来襲した
茲で面白い話がある。土民は軍艦の戦闘力を知らなかった。大砲も飾り物位にしら思えなかった。仮令、独艦が戦争を開始したって西班牙の商船と大差もあるまいと散々馬鹿にしきって居た。港内に投錨した独逸の東洋艦隊を小山の樹間より見物しながら、威圧の目的を以て小銃を発射し、独艦を撃退せんと試みたのは、浅間しいと言わんよりは、気の毒の無智である。
装甲巡洋艦シャーンホーストの名は、未だ読者の記憶に新なる筈だ。名将ホン シユペイの旗艦にして、僚艦グナイゼノウ、ライプチッヒ、エムデン、ドレスデン、ニュールンベルとの六艦を以て東洋艦隊を組織し、戦時太平洋を脅かしたことは述ぶるまでもない。而してシャーンホーストは独逸艦隊中での射撃の優秀艦だ。其八吋砲は日英の十吋砲以上の威力を持って居た。ポナペ島の土人は之に対抗するに、十九世紀の小銃を以てしたのである。

土軍全滅す

独艦が望遠鏡を以て観ると、多数の土民軍が小鋭や蛮刀を手にして昂然として山の上に陣取り、折々発砲して戦意を示して居る。小癪なりと思った独艦は、到底冷笑ばかりでは済まさぬ。彼らを殲滅せんとしたのが独逸流であって、其通りに始末をつけたのが亦独逸式だ。
八吋砲と六吋砲とを以て一斉射撃を開始したのだから堪らない。左右上下に四吋速射砲を送って土軍を脅かし彼等が狼狽して一所に蝟集するのを待ち、其処に手法の斉射弾を送った。飾り物位に思って馬鹿にして居た大砲から驚倒す可き巨弾が三千瑪の理想距離から確的に射到し来っては、土軍等の周章は目も当られなかったろうが夫れも束の間で、斉射が終る頃にはさしもポナペ島の精鋭を誇りし何百人、殆ど全滅して肉塊の片々のみが樹と岩とを染て居たと云う

一道の墓標

ポナペの土民が、性質急変、遽に独逸に服するに至ったのは、此一斉射撃からである。西班牙の時代には、叛乱は大概成功して妥協となり、散々統治者を虐めたが、独逸は西班牙に較べて強気に過ぎた。一叛乱忽ち平定せられ、主謀者と目せられた三十何人は、コロニー町の海浜で死刑を宣せられ、尚お怪しい連中は悉く島より追われ銃の所有は其後一切禁ぜられて了った。
独逸は此一乱を利用し、土民の反抗力を精神的にも物質的にも滅亡せしめて更に強制労働を増した道路や橋梁を始め、建築、栽培、耕作、悉く土民を強制して仕事を進めたのである。
守備隊本部への理想的な道路は実に斯くの如くにして築かれたのだ。またコロニー河に懸けられたる長橋(目下半程崩壊)の如きも、強制労働の末に出来たものである日本が統治を引受けてよりは、独逸に較ぶれば非常に温和なる態度で望んで居るから、難工事と目せられるような事業は、全然緒に着いて居らぬ。また独逸時代に出来て目下破損して居る設備も、其ままに放擲せられて居る。
強制労役の如きは、単に連盟規約の禁ずる所であるのみならず、文明国民として当然排斥すべきことであるが、精神的に強制することは必要であろう。整備せる道路を中心としての物語りは、之から土民の復讐心と獰猛なる本性に触れざる限り、完了し得ない。

(二十) ゼルワ即ち亭主とは肉体の意人獰にして山河徒らに美なり

獰猛復讐心

強制苦役に対する怨憤発して遂に独逸知事以下の虐殺となった一事に徴するも、此島の土民が一分の獰猛なる気性を帯びて居ることは明白である、而して此単純にして且つ危険なる感情は未開人民の通有性として南洋土民の一般に所有する所だ。ただ夫れが好戦人民の代表者としてナンマタールの城塁を誇り有するポナペの土人に於て一層強烈と云うだけである。
ヤップ島やパラウ島で時々許し行うカノー競漕が、ポナペ島に於て例外なしに禁じてある理由は、此島民が余りに執念深くして且つ獰悪な気質を秘めて居るからである。負けた連中は、是が非でも報讐を遂げねば気が済まないのだから競漕は即ち喧嘩の原因になるのだ
競漕の敗を他日の競漕に依って雪ぐなぞは彼らにとっては二階から目薬以上の思いがある。手段を択まず、方法を構わず、直接行動に訴えて無理にも恥を雪がんとするのである。理由の正否、原因の当否なぞは無論考えない。例えば相撲に負けた口惜しさに頬を殴って了うようなものだ頬を殴る位なら始末が宜いけれども、土人君は直ぐに蛮刀をブラ下げて出掛けるのだから手が付けられない。勢に駆られて殺す所まで徹底せねば承知が出来ないのだ。是ポナペ島に千年内乱の絶えざりし所以
カノー競漕に負けて、他の手段で仇を報ずるのは不合理であると説いて聴かせると、土民答えて曰く、「吾々は実力に於て決して負ける筈はないのだ、負けたのは敵が呪咀をしたからである、呪咀は不法だ、即ち是を懲戒するのである」之では説法も屁一つであるから、唯一の策は一切競争を禁ずることに帰着する。
事実に於て呪咀は非常なる確信を以て行われる。ヤルート島民なぞは、文明のリーダーを以て任じて居ながら、盛んに呪咀を奉ずるそうで、一段未開のポナベ土民が之を信ずるのは当然とも言える。

宗教と呪詛

競漕の前夜、密かに敵艇に乗りて小石を艇首に載せ、其艇の敗を祈るのが、呪詛の最も普通なるもの、或は各漕手が家々で祈祷をする方法もある。的も味方も之を試みて置き乍ら、偖レースで負けると勘弁相成らぬで喧嘩に発展しくるのだかち物騒に相違ない。
甚だしきに至っては、舞踏の巧拙からも喧嘩を発生する。而して其原因が面白い。隣村の踊の方が賑やかで立派だと思うと、夫れが癪に障って喧嘩となるのだ。誰が批判するのでもない。自分勝手に自分の方が劣って居ると意識すれば、忽ち復讐の戦が勃発して了う。其喧嘩が蛮刀の血を見るに至って愈々剣呑至極を感ずる。
三十年前までは、極めて些細なる原因が、直に生命の決勝に及んで殺人は毎日の平凡時事だったそうだ然るに耶蘇教が段々と彼等を説いて今日では非常に改善せられた、宗教の全効果は実に島民の殺伐なる気質を改めた所に存する後日政策論に於て私は宗教政策に論及するが、要するに土民はキリスト教を奉じてから大層優しくなり個人間の血闘は激減した。
其上に統治者が、警察と云うことを輸入してからは、制裁なるものを知って、俄に謹慎の度を加えた。然し迷信は少しも革まらず呪詛は益々流行して居る、宗教も或る意味では迷信の発動に相違ないのだから、土民のキリスト文化は偶々彼等の固有性に一段と開発の機を与えたのかも知れぬ、個人の流血的蛮行は激減しても、団体となるとまだまだ危ない、そこで団体の競争は一切禁ぜられ、例のダンスさえも二三の村邑を合同して行うことは避けて居るそうだ。

倫敦発見

ポナペの公園が、半円形に城壁を以て包まれて居るのは不思議且つ不似合な光景であるが、其理由はスペイン人が土民の襲来に備えたものだ、即ち万里の頂上を小規模にしたものである。此処にも亦、ポナペ島民の獰猛なりし昔が偲ばれる。同時に西班牙の哀れなる末路が刻まれてある憾が深い。
此城壁が無ければ、此公園は、倫敦なるハイド・パークの縮図である。こんもりと繁って然も優し味のある大樹が、柔かい影を投げて居る姿や、芝生の静な色相や、規模の雄大なる所なぞが、私をして直にハイド・パークと叫ばしめた。憾むらくは人多く裸体にして芳香美装地を払って空しきのみ。
不思議にも此パークから見下す河が、亦テームス河の上流を瞑想せしめる。メードン・ヘッドから上へ漕ぎ上るとテームス川の両岸は柳の木が緑の葉を垂れて□□□□ボートを招いて居るが、□□□□も両岸繁くパンダーナス□□□□まれ、碧水緑葉の対照が□□□□の長閑な気分を漂わし、□□□□は好適の川である。
曩に港口より見たポナ□□□□南洋一の絶景なりと想像□□□□は、上陸して正に期待の□□□□たことを喜んだ。若しも□□□□土語でも構わないから歌□□□□のし得る一人の土民が居□□□□と尋ねて見たら、それは□□□□野暮で、土人の顔色が白□□□□が来ても、歌人は恐らく□□□□まいと解った。
文学的な□は、土語に□□□□句もない。強いて求めん□□□□一語あり。ゼルワと言う□□□□妻が夫を呼ぶ言葉で、日□□□□すれば「妾のの愛する肉体□□□□る。到底詩どころの沙汰□□□□即ちポナペの風光、彼等□□□□は大の過ぎ物なりけり

(二十一) ヤップ島辺に横道を試みてヤップ人の親日感より論ず

ヤップに外る

ボナベ島から東南に進む順路なるを、茲で脱線をしてヤップ島を描く。本来南洋諸島の全舞台は東方マーシャル群島の上に集約せられ、人情風俗の奇しき全面は実にヤルート島を中心として活躍するのであるから、私は之よりクサエ島を経て東に航する筆を運び、散文旅行記は既に稿を了して机の中にある。
之で一息ついて論策編をと思いきや仲々左うは参らず、厄介な米国の伯父さんが、巴里会議で決めた事を忘れたか、または忘れたふりを装いしか、将亦先で決めたが心の中では決めなかったと申すのか、兎に角、ヤップ問題と云うものを担ぎ出して来た。

米国の伯父さんは田舎者で大野暮だ。話が纏まって長火鉢の前に坐った仲を嫉妬を焼いて裟こうと決心した。そのくせ自分は宜しくやって居るのに、他人の楽しみは面白くねーと、鉈豆の煙管でビシビシと火鉢を叩き出して来た。
委任統治の縁談は、そもそも叔母さんの発意でる。而して以前は嫁が他人の者であったとしても、万々承知の上で結んだ仲を、今に及んでケチを付け、あわよくば嫁の持ち物一つも掠めようとは何たる心ぞや。田舎者の悪擦れたのは手が付けられないと似母さんは始終溢して居た。桶の箍を真鍮で嵌めた掃除屋さんは御し難い由。さても厄介なる時世なる哉。

ヤップ大観

田舎の伯父さんの為に、順路を破ってヤップ島観を茲に挿むの余儀なきに至る。本稿は全く旅行記から独立して居る。恰もヤップ島が、地理的に諸島より孤立するのみならず、火山性を認むる痕跡絶無にして即ち地質的にも諸島より独立するのと同様の立場だ。
ヤップ島に、水兵の睾丸を喰い付いた大鰻の住むことは有名な話だ。既に月経室と云う公立婦人病院のあることや、またヤップ島民が自由民と賤民とに分れて水炭相容れぬ事情や、更に又所謂オールメン・ハウスの最も宏大なる建物も此島にあること等は後日他島と合せて紹介することに決めてある。然し、今や米国の伯父さんが田舎から変梃な手紙をよこして世間何となく騒がしい折とて、単独にヤップ島を取扱う段になれば、相当書加えねばならぬ事がある。
睾丸を喰付く鰻とは誠に無常な動物だ。然し歯が無いから大事には立到らなかった。鰻が多分感違いをして斯る無法を敢てしたのであろうが、兎に角非常に大きい鰻で、初鰹位の体量を所持して居ることは想像に容易だ。
吾々は青年時代に所謂悪物喰いで、蛇なぞは平気で召し上がった連中であるが、南洋の鰻を見ては慄然たらざるを得なかった。鯰の総本家と謂う形態を備えて、身長三尺、而して胸囲一尺に達する化物だ、鉄砲でなければ殺せぬと思う程の剛強を示して居る。要するに賤民の中の下等食で、脂肪マルで無いと云う話だ。
南洋の産物は輪廓が大きい。芋の葉が日本の傘位は確かにある。小さいのは島だけである。ヤップ島も南洋諸島の中では第三位を占むるものであるが、面積は十三平方里に過ぎない。大海に落ちた岩の一片である。

ヤップ民情

書き落としてはならぬことは、ヤップ人が日本人を敬慕すること二十年一日の如き有様である。(一)は容貌風姿相類似する為め(三)は日露戦勝以来日本人の白人よりも強勇なるを信ずる為め、(三)は明治二十三年頃から日本人は此島と貿易を始め、一回の過失もなしに馴染となって居る為め等が原因であろうが、事実日本人には心から服して居る。
元来南洋諸島へ稼ぎに行って居る人は、内地を喰い詰めた不良□子のみと思えば大間違いで、ヤップ島の南洋貿易社員で二十年も島民を率いる声望家が居る。現にボナベ群島には古谷君と云う人が居て此人の言ならば島民は何でも服するのを目撃した。此種の人物の貢献は仲々大きい。ヤップ人が日本人に神服する一因も茲にある。
戦争の好きな事はヤップ人も他島民に劣らぬ、平時より結党して武を磨いた歴史もあり、前記の公会堂も実は此結社の本部だったと云われる。各村々で戦争をした。戦争が男の職業であったことは、ボナベ島の場合に述べた通りである。勿論現在は斯かる気風は消えて了ったが、男らしい美点は残って居る。
人間は正直で廉直だ。いま之を歴史に徴するときに吾々は実に面白い物語りと教訓とを発見し、傍傍公明正大なりしヤップ人の祖先を追慕し、其純潔なる血が今日に伝わって居ることを偲び得る次第だ。
それは戦争と講和条件とに関す而して敗軍の支払う賠償は一流の美人を献上することで、而も此の美人は断じて者として扱われず、人格者として勝者に臨むのである。次稿之に就て説く。

(二二) ヤップ島民の美人講和条件 ヤップ人の和戦観念を藉りて

美人の賠償

ヤップ島民は往時は戦争ばかりして居たが、然も其の講和は簡単明瞭にして人生表現の最便利の方法に拠る。夫れは敵の村から一流の美人五名を提供せしむることに依って、完全に結ばれて了う。調印の拒絶だの、保留だの、忘れた時分の講義だのと、浅間しい現象は絶えて生じない。勝軍は悠々と入村し、予定の美人何名かを連れて帰る、敗軍は礼を厚うして之を送り、男らしくテキパキと結末を付けた。
講和に関する政策は、最もよく南洋の人生に適応し簡明にして履行迅速なる。遥かに対独講和に優って居る・・・・・・。一千三百億マークをよこせなぞと、目茶な値段を唱えぬ。之を四十二年賦と為し、其結果、今日未だ産まれない人間が負担を蒙るような非人道千万な賠償なぞは主張しない。其上に輸出税を課して競争を防止するような乱暴は敢えてせぬ。
独逸が償金を支払う第一の財源を輸出超過額に外ならぬ。即ち連合国に輸出し、仍て収めたる利益を償金に当るのが第一策だ。然るに連合国は、独逸の輸出増大は連合国の産業を痛打するものであるから、出来るだけ之を禁遏す可しとて、それに一割五分の税を課せんとする迷える人の矛盾である。
汝は泳がざる可からず然れども水に入るを許さずと言うに等しい。汝は財産全部を提供して清算管財人に託せよ、然れども破産するを得ずと主張するに等しい。根ッから無理な註文だ。
然しフランスは無理を通さんとして眼を血走らせ、独逸は遠させまいと青筋を立て、騒いで居る。戦争か平和か、恐らくは今尚お前者の空気に満つ。ヤップ島の祖先の方が偉らい美人の移動によりて万端速座に決す。
偖其美人の運命や如何ならんと心配をする優情の読者も在ることと思うから□序に一言するが、喜ぶ可し茲に個性尊重の人格主義的大文化基調が表現せられ燐然として欧洲文明を恥ちよと許り輝くのである。何ぞや、勝軍の主脳と雖も、分捕美人の強制を許されぬ一事である。
換言すれば該美人が厭よと言ったが最後、昨日は野に三軍を叱咤した勇将も、涙をのんで佳人の側を離れねばならぬのである。即ち美人は捕虜ではあるが奴隷ではない。彼の女の意思は侵すことが出来ぬ。彼の女の人格は独立せる最高□大の権威である。何者の力もその発動を擁塞するを得ず
勇将こそ哀れなり。きのう兵戦の勝者もきょうは愛の劣敗者となり、昂揚熱憤の情を癒すべき術なくて空しく佳人の鉄砲に挫けんとは

条件の遵奉

左り乍ら勇将が、佳人に望むに一微の暴力をも行使せざるは実に麗わしき伝統精神に非ずや。日本の一部の男は非英雄尚は好色、而して金力と暴力とを蘭灯の下に蛮行して恥ずる所なし。蓋しヤップ人に劣る万々なり
麗わしき第二の精神は、人格尊重の公則と共に、之を美人提供の条件と為し、相手方の之を遵守して犯さざる所に輝く、講和条件としては

第一条‐一流美人某々を提供すること
第二条‐但し右が具体問題として生理的に取扱う場合には当人の意思は絶対に尊重せらる可きこと

の二個条あるのみ。而して之を完全に守られたそうである。約束した石炭を払わなかったり、払わないからルール地方を占領しろなぞと、講和を戦争の種にするような不見識はヤップ島の歴史には御座らぬ。
偖其美人が無制限に厭よ連発したら如何との心配をする人の為めに数行加える。決して心配はない。南洋の女郎女は露をこそ厭うような心掛けでは育たない。有名な驟雨を浴びて育った代物であり、且つ思想は特有のセックス、リベラリズムであるから、颯々と選択権を行使して捕虜になっても女王の自由を揮う次第だ。
そうして彼女は前記の公会堂に寝起きして不自由なく暮し、次の戦争には、又元の村へ帰るか、他へ行くか、一向心配もしない。本来の気楽呑ん気な性情は、環境変遷の如何を問わず其一生を通じて不変である。
戦争と講和を、時節柄だから例に取ってヤップ島の説明に代えた美しい歴史と伝説を持つ。人格的個人主義の関する限りは神聖な土地だ。何事ぞ慾に駆られて今頃保留の抗議とは、是れ聖地を侵す罪に座す!
未開野蛮の土着民の保護発達を云々して、委任統治法を実現した米国は、将にヤップ島の先祖から嘲らる可きである。フランスも英国もその他の連合国も、案外俐巧でないわいと、ヤップ人は申すであろう。蓋し戦争と講和に関しては、ヤップ人の方が余程気が利いて居るからだ。

(二十三) ヤップ島海電と豪農の米国 田舎の伯父さん大慾不体裁

海電細胞論

ヤップ島の価値は、南洋諸島八百弱の群島嶼と一体して始めて生じ、独立しては一銭銅貨に過ぎぬ併し一個の細胞は人体を造る。細精管の壁に並列する細胞が変化して精虫となり、軈て人間になるのであるから、一細胞とて軽視するのは考えものだ。
而して米国は。ヤップ島の海底電線を細精管位に評価して、之に附着するヤップ島を細精管細胞に見立てて居るのだろう。私を以て見れば、之は田舎の伯父さんの生学問で、軈て其短見が暴露せられるに相違ない。
細精管と細胞がヤップ島にあっても、肝心なレーヂッヒ細胞が無い以上は性交能わず生殖随って不能に決まって居る。レーヂッヒ細胞とは、細精管の腔□を満たして居る細胞で、人体精力の原素は、之より泌生する内心泌即ちホルモンに依て営まれる。故に此ホルモンの発源たる可きレーヂッヒ細胞なき以上は、細精管も同細胞も全く発動の機会がない。
レーヂッヒ細胞の決定的価値に就ては、医者様に尋ねて戴きたい。要するに私はヤップ島の海電を細胞間に譬えヤップ自体を精管壁細胞に比し、而してレーヂッヒと細胞は南洋諸島全体なりと観て説明をするまでだ。
果たして然らばヤップ海電は大騒ぎをする価値のないも物である。之を騒ぐ米国は、レーヂッヒ細胞の機能効用を御存知ないからだ。生学問だからだ(君の医学は如何になぞと、横鎗は痛けれど、今は大切な所だから黙過するを可とす)。
南洋諸島はレーヂッヒ細胞の一団にして、ヤップ島は此一団と合致して始めて働きを生ず、故に本問題は淡泊に取扱わる可きだ。仮令細精管細胞から子供が生じても、レーヂッヒ細胞なき限り、夫れは不具で脆弱で、生きて居ても死んで居るのと同然、また毫も憂うるを須いず。

具体的説明

細胞論もイイ加減に止めるのが安全だ、そうして具体的に述べる方が解り易いかも知れぬ。ヤップ海底電線は、一九六〇年に独蘭海電会社が創立せられて茲に(イ)ヤップ、ガム線、(ロ)ヤップ上海線(ハ)ヤップ、メナド線(蘭領セレベス)の三線が出来た。米国の狙うは此三線、就中(イ)と(ロ)の二線である。
国際管理だとか、脱線しては委任統治不承認の虚勢までも見せて居るが、米国の望む所は要するに右海電の管理を独占したいのだ。而して其目的は次の計画を得るに在る。

第一…太平洋海底電線幹線(既成)桑港、布哇真珠軍港、ミッドウェイガム島、マニラ湾
第二…同上複線支線(問題中)ガム島、ヤップ島、上海、マニラ

即ちガム軍港とマニラ軍港とを複線で繋ごうと云うのである、一は両軍港の直通線で既に存立し、他の一つが目下問題中のガム、ヤップ、上海線で、上海、マニラは既に米国が持って居る。
一つにはガム港が日本の統治諸島中に孤影を弔して居るのを海電を独占して多少なりとも景気付けをやろうと云う腹もある。兎に角二軍港を複線にすると同時に、日本官憲の検閲なしに、米支間の通信を全うせん希望が主たる原因である。
而して私は之を譲って終えと叫ぶ。自棄で叫ぶのでは無い。理性の響きである。更に是れレーヂッヒ細胞の合理的主張だ。換言すれば、日本は之を譲ることに依って何等実利上の損失を蒙る訳もなく一方に米国は之で熱噴の湯気を吹き出して終うからである。此際大いにヂェームス、ワットの智に倣う可しと私は叫ぶのである。

大百姓の慾

複線は慾張って居ると人々は不快を催すならん。然り慾張って居る。田舎の伯父さんの近頃の慾張り方には欧洲の伯母さんもツクック溢して見える。伯母さんも仲々以て慾は捨てないが然も之を合理的に綺麗に満足する手際を持つ。
田舎の伯父さんに至っては即ち然らず、鍬で握り鍛えた大きな手を出して梅干の御茶受けを鷲掴みに喰って了うのだから凄絶だ。不体裁、不遠慮は紳士の見るに忍びぬ所、東京の小供は驚いて駈け出し、其下駄へ御尻をすえるであろう。
其上に声が大きい。話をすると云うよりは怒鳴ると評すべき程の地声を張上げて、紳士淑女の一座を驚愕せしめざれば止まぬ。も少し御静かにと説けば地声は益々大きくなり、理を以て正せば腕力を撫して睨み来る。今にして思えば一九一七年と一九一九年に、都へ連れ出したのが抑もの間違いサ。
田舎へ置いて、上京の道を教えずに終えば今頃出し抜けに□出して来て戦争はオラが一人で勝ったというような顔を見せ、人□だの平和だのと、解りもせぬ事を饒舌って却って平和を脅かすことにはならなかったろう。言わして置けば得手勝手は吐いて手当り次第に人を悩まして居る。斯くの如くにして国家百年の隆盛あらば天道洵に暗きかなである。

(二十四) ヤップ島には非ず、電線なり 電線得ずんばヤップ島を返せ

大声強弁

田舎の伯父さんがヤップ問題を持ち出した理由は、同島を基点とする海底電線を占めんが為めである。之は前稿に於いて述べた通りで昨年十二月、ワシントンに開かれた連合国通信会議の席上で米国の代表者の意思表示に徴するも亦明白である。
理屈から言えば田舎の伯父さんの言い分は悉く間違いだ。ヤップ島に就て保留はしたであろうが其後に議が一決し、ウィルソン氏も其席に居て黙認して終った以上最早や昔の保留は権利拘束の何等の力にも成り得ない。
一旦承知して出来た縁談、而して世帯一年を経過した後に至り、其縁談成立前に抗議をして置いたからと言って、今更改めて世帯を分裂す可しとは、伯父さんも余りに聞えない。理論上、何を見ても日本の主張が正しい。米国の主張は強弁で、ただ声が大きいと云うだけだ。
然るに日本の主張反駁を無礼だと叱るのは酷い仕打ちにも程がある。偉大なる手の掌で大煙管を振り上げ、理屈は構わずに厭迫するのは、田舎横綱の相撲振りで到底江戸には通用せぬ。
私が豪農と呼んだのは、善良なる地主の意ではなく、大地主にして剛慾無作法の者を指たのだ。花合せならば、「やく」は御構なしに二十札を狙う連中を言う。精々進歩した所で四光を造るだけ外知らないのが、米国の今日の外交ではあるまいか。或はロランプの場合にスペードのエースを抱えて喜ぶようなもの。

実利は如何

外交上の主張に於ては、米国は日本を圧することは出来ない。ヤップ島と電線とは当然一体して、而して既に日本の管理に委任せられ、其委任決議にはウィルソン氏も与って居たのであるから、理屈の上では米国は何としても勝ち得ないのだ。
然し乍ら世間のこと、理屈以上に出でで処理せられねばならぬ場合がある。実利の大局観に依□処理することが是れである。剛力なる田舎の伯父さんの説は不合理であるが、「力と田舎」の二条件を酌量する一方に、大局に利益を静観して、抗争を止めるのが当然だと私は思う。若しもヤップ海電が日本の交通並に国防上、重要なる価値を有せないならば、青筋を立てぬ方が宜しいと思う。
而して米国の慾する所は、ヤップ島其者には非ずして電線に止まる田舎の大地主はヤップの地所には慾は無い。ただ其地所に立って居る電信柱が慾しいのである。ヤップ島の価値は前稿に依って明白なる所、断じて、此一島を治むる価値はない。経済的にも亦国防的にも米国も之は承知して居る筈。
日本から見れば如何。私はヤップ海電が左して大事なものとは何うしても考えられない。之を米国に譲っても別に積極的に失うところはないと信ずる。譲れない理由として、今日頑張って居るのは、外交上の主張に重きを置く為めで、実利の方面から眺むれば、田舎の伯父を相手に長い手紙で議論するだけのものは無い。
戦略上、また経済上、ヤップ海電の譲歩は私の颯々と認める所だ茲に反対論あらば、それは此一譲歩が他の第二、第三の譲歩要求を誘発するならんと云う点に発するであろう。然し之は心配の必要がない。実利、国防上及び経済上の利益を脅かされる譲歩は、如何なる場合にも断じて肯んぜざるは吾人の精神である。

颯々と始末

之に反して、利の大局上、譲って支障なきものは之を譲り其代り退却線を確立して不可譲の利益は飽迄固守するの覚悟あれば足る。
米国はヤップ電線に依りて利用を収むるを得れども日本の利用は遥に低いのであるから、国際の大局よりも之を米国に恵んでやるが宜しい。貰う事ばかりでなく、稀には恵んでやることも、日誌を飾る所以だ。而してヤップ海電は正に其程度の代物である。
然るに最高会議を楯に取り、理論は素より正々堂々たれども、頭から伯父さんの慾求を斥けて了うのは損だ。伯父さんは素々ヤップ海電だけを説いて居たのに、日本が余り頑張るので愈怒鳴り出し遂に委任統治其者を否認する勢を示して来る、斯うなると問題は一転して険悪になることを思え。
伯父さんは成金のみならず高飛車である。ヤップ海電を固守する日本こそ小癪千万なれ、一番進んで南洋統治の否認を主張せんなぞと、腰を据えたら厄介なことになる。是れ腫物をトガめて難症の床に寝るものだ。馬鹿々々しいではないか。
更に其為めに他の親類筋にまで迷惑をかけ結局は切解せられて身体衰弱に及ぶは誠に割に合わぬ話だ重ねて言う、ヤップ海電は日本から見て毫も固執に値しない。値しないものを固執して却て重い余病を併発してはならぬ。寝ているのは厭でも、一日引籠って風邪を治おすのが大切だ。
戦略的考察は論策編に譲るが、兎に角ヤップ島海電は早く譲って宜しい。私はモー譲ったことにして颯々と芳香を転じ、肝腎のヤルート島を指して旅行誌を急ぐことにする。

(二十五) 命懸けのヤルート島に到る

日本の崇拝

赤道の北六十浬の辺を西へ進むこと一昼夜半、貿易風の最も規律的に吹く海上は、左程の暑さもなく、一月の末にクサエ島に入る。
此島は其昔、日本人に依って開発せられたと云う伝説のあるのとモ一ツは米国の宣教師が数十年来布教の本拠を置くことに依って有名である。日本人が何百年か以前に此島へ殺到し、強大なる武勇を現じて島民を神服せしめたと伝えられるのであるが、古来南洋の諸島には一片の史料も記されて居ないのだから真偽を知る由もない
然し日本を知って居たことは、此島民が最も古いと言うから、何等かの関係があったとも想像せらる。独逸人の調査した所に拠るとクサイエと云う語は九州の訛ったものだと云う。日本の九州から偉大なる一軍が来て此島を領し、□威併せ示して立派に統治をしたものと考えられて居る。
現に此島の七民中には、自分が日本九州人の子孫たることを誇とするものも少くない。吾々は無論愉快に此伝説を聴いて敢て之を否認せんとはせぬ。寧ろ之を裏書するような事実の存在する事を喜ぶものである。不幸にして此島の上には活ける記念の刻まれたものはないが、百年、二百年の昔に、日本人が此遠海に活躍したことは事実であるから、此一小島を征服する位のことは在り得るのだ
マーシャル群島のビカールと云う島には独逸人の来ない以前から日本の捕鳥船が往復して居た。独領となって以後、密猟船として独逸官憲に押えられ莫大なる生産物を没収されたことがある。之は一例に過ぎないが、西班牙時代、或は夫れ以前より、日本人が此海上島嶼に出没したことは疑いなく証明されて居る。斯くてクサエ島民は最も日本の統治を喜び拝して居る

米人の教化

日本人の後裔たるを誇るクサエ島民は其文化教育に関しては悉く米国人に依頼したのも皮肉に見える。南洋諸島の頭数は八百に近しと雖も、此島位外国人の足溜りとなった島はない。余程風の方向が変って居るのであろう。一八〇四年に、米国の船長クロヂア君が始めて来航し、一八二四年には仏国海軍大佐ヂュープレー氏が来航し次いで露国海軍少佐セニャーウィン氏も一艦を此島に投錨し各旅行誌上にクサエ島を紹介して居る。
英国の巡洋船、サーベント号がハトメット中佐に率いられて寄港したのは一八三八年のこと、次いで独逸の探険船が来る日本人は前記の如くズット昔から現われたと言われて居る。南洋諸島の中、此余り重要ならぬ一島のみが、最も古くから広く世界に知れて居た事は、実に不思議な縁である。而して夫れかあらぬか、米国の宣教師は亦最も古くから且つ最も熱心に此島に耶蘇数を輸入した。
米国の宣教師スノウ夫婦が、此島にアーメンの第一声を挙げたのは一八二四年である。而して三十年が間、味気なき未開の孤島で神様を宣伝したのは洵に凄じい業績と言わねばならぬ。今日、バイブルは土語に翻訳されて居るが、之もスノウ夫妻の創製に係る。
医者兼宣教師なる米人ピース君が一八五八年に来島してスノウ夫婦の後を継いだが、其後、米人ワルカップ夫婦、同じくライフ夫妻が布教に来る、続いてソイルチャーナン、スリーレンなぞと云う独身者の若い宣教師が天下ったのである、目下はバルドィインと云う婆さんが御祈りを上げて居る以外に老嬢ポッピンがマーシャルと此島とを、駈持ちして居るだけだ
ホッピン老嬢とは私も数時間の対話をしたし、彼女を中心として書くこともあるから後廻しとして、偖て前に並べた米人宣教師はボストン教会より派遣せられたもので、コングレーショナルに属する。其分派の何たるを問わず、彼等の布教は土人の獰悪性を矯めるのに偉大なる功績を示したのみならず、学校や病院を起して土民を教化した恩も少くない。

危き低礁島

二時間内外の上陸で、レロ島を半巡し、南洋貿易社出張所の野口君より理想的美果パパイアを贈られ、直にヤルート島に向けて出航海は二十日ぶりで凪いで鏡のような水面が展開された。信天翁、所謂「ばか鳥」が白い大きな翼を張って船について来る。飛魚が舷に跳る。白雲の濃密な一団が落ちるように懸って空は蒼く、純碧な海水を渡って来る柔かな風は、東京の初夏の海辺を偲ばせる。
船の中も長閑になった。一等船客は、ウッド君と、南洋貿易会社の支配人にして日本有数の南洋通たる原君と、私の三人きりである単衣一枚に黒の編上げ靴を穿いて居た人だの、黄色のカラーと間違えられる位に徹底的に垢のついたカラーを着けて居た人や、三週間一言も他人とは話をせずに、朝から晩まで講談倶楽部、う□よ、講談落語界、其他此種の雑誌に読み耽って居た人、また鼻の先に著しく赤いので、ウッド君が彼を舷灯と綽名した人々は悉く下船して了った寧ろ淋しサを感ずる程であった。
ウッド君は既に横浜で仕入れて来た日本の単衣を着慣れて居る。食卓は福神漬を経とし、鮭の缶詰を緯として、会話も九割九分は日本語であるから起居甚だ自由を極めつつ、二月はじめ、南洋文明の先駆たるヤルート島に着く。

(二十六) 最も興味あるヤルート視察 南洋の鎌倉と島流れの危惧

南洋の代表

広袤が長さ二千哩、幅百何十哩より成る南洋諸島も、之を絞れば百六十里平方の一土塊と化する次第は、曩に「地の悪い手拭」に譬えて一言して置いたが更に之を絞り縮むれば、一ヤルート島に帰するの趣がある。此一島を中心として、多くの興味ある南洋観を草し得る。
南洋独殊の文化、輸入新文明の変態、人情の暗い方面、地理的特質、経済的真価、是等の諸現象はヤルート島に於て代表せられて居るのだ。戸須賀大尉の懇切なる斡旋に依って、ウッド君と私とは、前後五日間を有意義に此孤島に暮したのであるが、其上に上妻医官の説明に得る所多く、先ず以て完全に南洋を解し得た自信を持つに至った。
ヤルートの名は独逸時代の南洋生産事業が、ヤルート会社の独占の下にあり、且つ半官半民の事業として栄えた事実を知る者には、御馴染の島である。一言にヤルートと言うのは、マーシャル群島中のヤルート諸島中のヂャブールと云う一島嶼を指すのであるが、便宜上一般の呼称に従って単にヤルートと言って置く。
此ヤルート島が南洋諸島の地理的代表である所以が面白い。海図の上で見ると、マーシャル群島は三十二の島から成って相当の大きさを備えて居るが、偖行って見ると驚く可し、之は島には非ずして海水の池に他ならぬのである。ラグーン即ち□湖に過ぎないのであある。詳しく言えば、珊瑚礁に包まれたる湖であって、島ではないのである。
マーシャル群島は実に礁湖の散在に過ぎないのだ。島は其礁湖の周囲に、ホプリホプリと浮んで居る岩である。
故に海図を染た群島の面積の百分の一位が、人の住む岩であることを注意して置きたい即ち柄は多きいが、絞れば一攫みにしかならぬ。南洋の代表島ではないか。

一浪に不堪

而してヤルート島は、何十哩平方かの□湖を包む所の十数個の岩塊の総称であり、其一塊なるヂャブール島の中にヤルート港が控えて居るのだ。故に南洋の経済的中心地たるヤルート島(俗称)は、二十分足らずで一週することが出来る。島の中央に立てば勿論□□□一方の海浜に立てば、□□□□□岸が見えるのである。
島のの小な□□□□□□□□とするも、□□□□□□□□□□とで、海抜実に六尺を最高地とするのである。だから一暴風が小海嘯を送れば、ヤルートは一寸の余す所もなく洗濯されて了うのだ。
一九〇五年に、島の三分の二が大波の洗礼を受けて、それだけの人畜が魚腹を肥やした歴史があるので、在留邦人は誰しも先ず第一に海嘯の心配で痩せるのだ。
之は実に冗談ではない。私は前後四晩だけ戸須賀君の家に寝たがそれでも多少は海嘯のことを考えさせられた。兎に角音が両方の岸から迫り来り、半哩程前方の波は自分の頭より高い所で白い飛沫を揚げて居るのだから、神経質の人には寸時も安心立命の立場がないであろう。マーシャル群島の民政署が最近ヲーヂュ島に移る理由も、一つは茲に存する。

南洋の鎌倉

立命の条件は右の如く心細いけれども、然も都市としての姿は何と言っても南洋第一である。申す迄もなくヤルート会社の南洋本部があって其社宅以下の設備が完備させられた其上に、土民も長く欧米人と接してきただけに、多少レファインされて居て、トラック島やサイパン島で見るような、野蛮な趣は消えて居る。無論程度の問題ではあるが。
ボナベ港に譬うれば、ヤルートは鎌倉と云った趣がある第一に此町に酒場か二軒もあって南洋のバーは悉く此町で占められて居るなぞは、見逃してはならない現象だ。道も綺麗であるが、土民の服装も余程整って居る。二千噸位の船が横付けをする桟橋は外の港には無い。教会や其寄宿舎なぞは日本内地でも二流とは下がらない結構を備う。
鎌倉たる所以の随一は、此町が富豪(大部分は酋長)の避暑地であり、また歓会の巷たるに在る、マーシャル群島には十何人かの酋長と、同数以上の小酋長が居て年に何回か会議を催す、其議場はヤルート港にある、二月三日は丁度その議会開会日だったので、町は特に賑やかであった、一週間位会議があって其前後は、我代議士諸君の一月中の行動と同様の生活を楽しむ。
酋長諸君は十数人の御伴を連れて乗り込んで来るのだから周囲一浬内外のヤルート島は人間で埋まる、会議は椰子の栽培、道路の修築、風俗改良、摂生教育の振興と云った政綱の討議で、其容易に実現されぬ所まで、よく我政党の宣言に似て居る!
土民に□□□□□□□□□□ても、日本人□□□□□□□□□場所と言い得る、□□□□□□□日同じ道で、それも□□□□□□尽して了う、何の慰籍も□□□□□一浪で洗い去られる危険に□□□て居るのだから、島流しに相違ない、否、島流れの死を免れ得るのが仕合と言いたい位だ南洋の守備隊員は一年交替であるが、ヤルートだけは半歳で交替せしむる必要がある、次稿を一読せんか惨澹たる理由が痛切に私の主張を裏書するであろう。

(二十七) 島に非ずして岩なるの惨状 世界最強の蚊は便所を塞ぐ

箱野菜

マーシャル群島即ち礁湖の集合に外ならぬのであるから、其一島たるヤルートも亦礁湖の片割れに過ぎぬことは言うまでもない。既にして礁湖である以上は、島と称する所が珊瑚礁であることは明かであろう。珊瑚礁が土に非すして岩石の一種なるは勿論であるから農産物の名の付くものは先ず以て皆無なりと解る。
其処で日本人の生活は、著しく脅かされる。肝腎の野菜物が出来ないからである。独り日本人のみならず、人間は菜食物なしに活きることは出来ないのに、土民は何うして活きて居たかと云うと、彼等は必要に応じて無自覚的に木の葉を噛んだり、或は果実中より其要素を摂取して居た。然し日本人は、青菜や豆なぞを喰わずには居られぬ。
茲に於てか世界稀なる栽培法が発明された。其第一は箱畑である。箱畑の観念を実生活に移したものである。椽の側らにビール箱があって其中に豆類や大根、其他の野菜が優しく培われてある。吾々は最初は、随分物好きな箱庭を作ったものだと思ったのが、之が実生活の主要なる部分と聞いて驚いた次第である。
ヤルート島農業政策の全部は実此ビールの空箱の中に発達しつつある。耕地は二尺平方の面積に於て厳格に独立して居る。其中で青蜿豆なぞが、紫の花をしおらしくも見せて居る。外に大規模の耕地は、花壇式に出来て居て大根なぞが細々と育つ。而して此耕地はヤルートに二箇所しらない。

土一升金一升

実に土一升金一升の諺を最も正確に適用される所である。東京の中心地の土の価値よりは、ヤルート島のそれの方が大きい。銀座の土一升が金一升に当ると云ってもそれは土ではなくて土地である地球の表面としての土地である。不動産としての価格であるが、ヤルート島に至っては然らず、実に土として動産価を持つのだ。
不動産としてはヤルートの地面(岩)には価格はないであろう、然し乍ら土は土地の上に置かれる移動的生産財として取扱われるのである。土は悉く日本から移出せられたか、或は島々から寄贈された商品に外ならぬ。土が商品として貿易せらるる所は、天下ただヤルートあるのみと言って宜かろう。
独逸のヤルート会社が造った、コンクリートのテニス、コートが南洋貿易会社に依って野菜コートに改造されたのも哀れだ。娯楽も運動方法もない小島では、テニスコートは蓋し重要なる機関である消夏、慰安、体育に寄与する所甚だ大なる可きは想像に難くないが尚お野菜物の必要には代えられなかったのである。
戸須賀大尉との四日間は、美食を擅にした生後一ケ月の豚の丸焼だの、椰子飴だの、甘いロースト、チキンだの、松山丸では到底得られぬ美食を味わったが、其中で鞘豌豆の煮物は最も高価なることを説かれた。何となれば夫れは二個の耕地を全滅せしむるの犠牲に成ったからである即ち箱畑二ツの前収穫が提供されたのである。
耕地の面積と、土の分量並びに土の置場に絶対的制限があるのだから、生産物の種類にも悲しむ可き制限がある。豌豆、葱、青菜、細い大根位が関の山で、南瓜、西瓜、芋、ポテートー、人参の如き、土地の幅或は深さを要求する野菜はヤルート邦人の生産の圏外にある之を思えば、南洋に勤むる官民中で、ヤルートに於ける人々は、他島に勤むる者よりも二倍の好待遇を要求して構わない。

魚に毒あり

モ一つ書き加えればならぬことは、ヤルート島で取れる魚に毒の多い事実である。現に昨年も日本の水兵が死んだ以外に、半死半生の陥った邦人はダースを以て算し得る。加之、毒魚が特定されて居ないところに大禍が潜む。平時は無害の魚として賞味されて居るのが時に人を殺すの毒を帯びて来るのだから油断がならぬ。
私の行く少し前に、此島の署長代理の某君は妻君と猫と三巴になって魚毒に打たれ、猫は死んで人のみが辛くも助かったそうで、私に会った時にも未だ蒼い顔でぼんやりして居た。野菜が碌々食えない所へ、魚もワカと食えないで、朝夕海の力に脅かされては、此島での長命を期することは出来ない。
いやなことは序ながら未だ二つ三つ在る。飼って居るのかと思われる程に、蚊の多いことは特筆に価する。大森に住んで蚊を云々する吾等は、ヤルートの蚊を知ってからは不平を言う権利を喪失した然も其蚊は極めて強翼を有し、其上に正確なるコンパスを持って居る‐、如何なる強い逆風に向っても、少しも辟易せず、黙然殺到して立派に人を刺し、人の気が付く頃は既に退陣して居る。
驚くばかりに迅速にして且つ強行だ。其第三の特徴は夜よりも昼間に活躍することである。無論夜間でも、蚊帳の附近に数十匹は飛んでいるが、昼は何事も蚊を考量に置かねば遂行出来ぬ。蚊取線香を右手に携えて便所に入るのもヤルートに固有の光景であろう。便所で新聞を読むのは、少くとも百日以上を此島に暮し、以て蚊に対する抵抗力を養成したる後に非ずんば能ず。況んや沈思熟孝おやと附記するのは読者の自由也。
故に若しも腸の運動が鈍渋な場合には、便所は失敬して土人と共に海岸へ出張するのが皮膚を全うする所以である。否、旅人ならば須らく下剤を携えて颯々と処分するの軽便なるに如かず。入浴も亦蚊に奉仕することなしには完了し得ない。
浴後身体を拭いて股引を穿く間に、〇、〇〇五グラム位の血液は人間から蚊へ移動して居る。吾人は三十年以上蚊に接触して可成り抵抗性に富む。然るに米人ウッド君は此訓練がない、加之本来の柔かい皮膚を所有する上に挙動は悠々たるものであるから、蚊の種族保全に対して偉大なる貢献を為し、無数の受取の証印を股や脛の辺に頂戴して居た。

(二十八) 兄妹不可淫の化石教訓と恋愛自由の公則(上)

淫風満島

ヤルート島が南洋諸島の代表者たる事情は、其風紀の弛廃、情慾無節制、乱淫好色なる方面に於て頗る顕著なるの大事実を閑却する訳にはゆかぬ。南洋の写実に忠実ならんとする以上硬筆を呵して此濃□狂態なる事相に、□稿を染むるの余儀なきに至れるは予の甚だ遺憾とする所なりである・・・・・・・・・・・・。
否□人生は真面目よ墓は其行く可き所には非ず而して歓会あり平たく言えば南洋の土人は自然の子である而して偽りの文明をば人生の目的観に拠って嘲笑するものである。
臭い物に蓋をするのが文明であるならば、彼等は明かに野蛮人である。孤礁ヤルートは、臭き物を以て充満するが故なり。而して淫風のタイフーンは正に其主たる現象である。然し乍ら、凡ての自然は雨の如くただしく、之を曲げ之を掩うものは悉く、偽りの、神に唾するにも等しき自然の犯人であるとすれば、吾人は土民の幸福と、自由と、公明正大とに敬服こそすれ、断じて軽蔑の一言をも発することを許されぬ。
以上は、十九世紀の文明を罵倒せる米国の大詩人ワルト・ウィットマンの立場から考えたるので、必ずしも私の主張ではない。わたしは是非は何うでも構わぬ。ただ、自由も、斯くの如くに節操なしに許されては、社会の道徳と云うものは有り得ないこと、並に吾々の古い祖先は果して野蛮時代に斯かる生活を営んだであろうかを疑うこと、此二ツを考えながら、誠実なる描写の筆を進めんのみ。

化石の教訓

土民が性慾を生活の全目的として其自由の為に闘いたるの歴史は米国が正義の為に戦えるに次いでの光彩陸離たる世界的現象だそうである。彼等には性の意識のみありて、他の凡ての関係は認められなかった性を趁うの情熱の前には、名誉も、法律も、約束も、遂には親兄弟の観念も無かったのだ即ち野獣と全然相等しかったのである。
然るに土人ながらも、人間としての良心が気ざして来たのは、人が万物の霊長たる所以を、最低限度に於て証拠立てたもので、夫れは親子兄妹の間に相互淫行を禁ずるの自覚が発生したことである。理論として又道徳的理想として自覚されたのが、今を距る三百年前と想定されて在る。即ち親子兄妹不可淫の理法は、獣類に最も近き彼等の先祖に依てすら、三百年前に公認されたのである。
理論は成れりと雖も、実行は成らざりき。茲に於てか実物教訓として化石の物語を発生した。ナモリックと云う島に行くと、其処には十一の人体に髣髴たる化石が波に打たれて立って居る。之が物語の結論で、甚だ簡単のようであるが、話の筋は面白く且つ不可思議に出来て居る。

兄妹の隔離

話の起源は、一人の美しき母が五人の男子と五人の娘とを持って居たことに発する。兄弟姉妹合わせて十人は、難なく育って落葉の音に空牀の淋しきを感ずる秋を迎えんとして居た。此事態は、当時の南洋にありては、頗る穏かならぬ形勢なのである。性は血縁遠近の外に超越して居た時代なのだ。然も一方に、兄妹不可淫の理法が、土人を万物の霊長に導くべく言論界を風靡しつつある時だったのである。
正に昇格運動くらいの喧ましい問題となって居たものと思われる。某の文相よりは実行に忠実なる、進歩的なる美しい母の上に、重い心配は懸って来た。今日の日本にすれば、女学校を起して何々女史と称せられ、新しき老女たるの資格十分なる彼女は、茲に断乎たる処置を取った、それは我息子五人と娘五人とを、徹底的に分離したことである。
実に彼女は南洋の孔子様だ。孔子様の決めた年齢よりは三、四歳後れたけれども、然も、席を同じうせざるの「南洋道徳」を発案且つ実行したのだから偉いものである其時、十人の同胞は未だ性を解せず、随って賢母の分離政策は容易に行われ、五人の豹狼の卵子と五人の桜姫とは、別居の原因に想到することなしに平凡なる生活を送った。
然るに、南洋の女孔子様は、食料問題が同じ程度で人生を支配するの哲理を遺却したことを、後に至って知覚した。此時既に南洋に於ても男児は生産者供給者たるに傾き、女性は消費者、需要者たるに傾いて居た賢母は遂に此習慣をも革むるだけの聡明と勇気を持って居たのである。

(二十九) 兄妹不可淫の化石教訓と恋愛自由の公則(下)

五人の殺到

女孔子様の捌きに依って、男女五人ずつ難なく郷地を異にして住んだけれども、五人の娘に対して、食料を供給するの方法に困じた後孔子様たる賢母は、遂に乳母の本性に立ち帰って、自ら親しく此大任に当らんと決心した。何としても、五人の息子達に、五人の娘を見せることを慾しなかったからである。
食料は言うまでもなく椰子の実である。賢母は之を五人の娘の住む所(一哩を隔てたりと云う)に運ぶことを得るとしても、偖之を調達するのは男子の腕でなければならぬ。而しても之も、難なく五人の息子をして為さしめた。
母は毎日、或は隔日に、夜半ひそかに之を娘達の居所に運ぶの心労と体労とを厭わなかったのである。然るに、春秋僅かに一遷、五人の息子は前後して、自ら春宵の夢にあやしき情を覚ゆるの成熟を遂げ、胸憶の琴線、何物にか触れずんば止まざるの緊張を呈した一夜夢さめし息子の一人が、母の閨の空なるを発見するに至って、事態は急転の緒に就て了った
明けの夜も、その明けの夜も、引続いて母は脱出することが確かめられた。異性の行動‐‐母なれども‐‐奇怪千万なりと認めたる息子たちは、当然一夜彼女に密行した。それとは知らで、息女のためまた肉身不可淫の新道徳の為め、一貫の老母体を鞭って毫も意とせざりし母親は、気息奄々椰子の実一籠を娘の家に運び入れた。
密輸出!偖は平常から、過剰なる筈の椰子の実が、易々と何処へか消散し去るを怪しみ居たる其疑問は、解決した次第であるが、茲に新なる未解決の大問題は、投げたる石の地上に落つるが如く当然に、五人の性体を縛り付けて了った。

円満解決

未解決の大問題は、母が秘蔵の女性達の、其心を解くことに依ってのみ安全且つ確実に解決せらるるの消息に就ては、吾人片言の註を要せじ。此件に関しては、南洋土人の智恵は早熟、一人にても充分なるを五人にて絞り、母の昼寝の機を利用して、娘の館に殺到するの議を即決可決するに至った。
況んや両性、数に於て等しければ喧嘩の余地もなく、相啣んで目的地に至れば、心は同じ五人の娘共は、「性情第一」の伝統的精神を受けて、此点だけは母の苦労も認め得ず。実は待つこと久しかりし消息も型の如く椰子の実は遂に完全に媒介人たるの実を現じ畢んぬ
茲で一日に五組の夫婦簇生せる次第であるが此大事変を知りたる母は、悲痛と憤怒の為に、悶絶して遂に此世を去ったのである。人情は母の死を悼み、其徳と勇とを賞賛する一方に、十人の子女の不孝を糺弾し、十人の面目は全く潰れることとなった。恐らくは又肉親結婚の弊害を具体的に証明したのか、十人は間もなく変死或は病死したと云う。

化石の意義

神は南洋に於ては、死せるものをの懲罰す。斯くて十人は醜き石と化し、左右に五人ずつ、モナリック孤島の南岸に、波に打たれて穢れたる姿を曝して居る。其中央に一石高く巍然として起てるのが母の化石である。之は懲罰の反対で、其石の姿は、左右五人の醜体を嘲りつつ、其身端然として厳立す。尚お子を思う親の心より、此海辺を去らざるの情を抽象するものと解せらる。
情慾に節操を破る者は、化して石となり、醜き姿を永久に曝さねばならぬ。茲に肉身不可淫の教訓が成立した訳だ。南洋の女性孔子は、道徳の実行策を誤ったけれども、彼女の精神は、死後永久に伝えられて其名と共に不朽の実を結んだ。
之で話が終って了えば、私も楽であるし、化石の教訓も徹底するのであるが、余韻余りに漂渺として、其反響は、「教訓を化石にする」の趣あるに依り、更に稿を次で本員の遺憾を発表せねばならぬことになって居る、幸なる哉、肉身不可淫の理法は今や事実上に確立せられて、モナツリク島の化石は尚お活けりと雖も、他の群島の之を悪意に解するを如何
群島の他の島々では恋愛自由の情勢は大河洪濫の光景を現じて居る、無論、肉身は相侵さぬけれども其反対に、他人同志は余りに相侵し過ぎて、恋の為め「石になり度や」の狂歌唄わるるが如き是れ豈に「化石の教訓」を化石にするの背道徳非ずして何ぞやである

(三十) ヤルートに松浦佐保姫あり 化石教訓を化石とする狂態

艶恨の化石

化石の序であるばかりでなく、南洋人情録中に断じて逸す可からざる他の化石物語りを、南洋佐保姫の嘆きの石となう。而して此化石たる、前稿の「化石の教訓」と反対の情痕を刻んで居るのだから、愈々以て研究家の本能を刺戟せざれば止むまい。
ヤルート群礁内にエボン島と云うのがある。ボナベ島の古城ナンマタールが仏蘭西の名所の名を偲ばせた如く、エボンの名は亦、仏蘭西の女に通有の呼称だ。日本の「御花さん」位にポピュラーな名である。此エボン島に、艶麗なる化石の存するは、如何にも応わしい趣があると言わねばならぬ。
昔、一人の美しいマダムゼルが此島に住んで、御定まりの恋に落ちた。男も勿論うれしかったのであるが、其男の酋長の厳命に依りて、湾を隔てた対岸に幽閉せられ若き両人の蜜の如き交渉は、獰悪なる酋長の残酷なる手に断たれて桃腰花顔空しくエボン島の海風に褪せむとす。
彼女は最早、懐かしき人を見ずには一刻も居られなくなった時、無情なる悲報は男の悶死を伝えて来た、哀れ南洋何百年の昔、女性には百尺の対岸に渡らん術も無かりしかば、彼女は岸頭に一本聳えたる椰子の樹に攀じ上り、之を対岸向けて倒さんと悶ゆる折しも一陣の強風は、彼女の願いの如くに大樹を吹き倒して身は対岸の岩に届いた。

官幣小社か

然るに春風花を咲せて又花を散らす。彼の手は対岸の岩に触れたけれども繊細楚腰之に上ることが出来なかった。もがけば却って身は海中に滑ろ斯くて心のみは既に死せる恋人に届いたけれども、我身は遂に厳頭不帰の客となって、万尋の恨みを蒼浪の中に留めたのである。
其椰子の樹は、彼女の心を体して化して石となり、中間に小舟を通すだけの隙間を造って、其港口を横に渡って居る。女の心は屡々夜叉に譬られるけれども、其固形状態は往々にして化石となって現わる。孰れにしても物凄いものには相違ないが、石になる程堅いと云う意味が面白い。之が日本と南洋とに、期せずして軌を一にして居るのは、ますます面白い。
松浦佐保姫は日本の代表者で、エボン嬢は南洋の代表者である。ただ両者の相違は、佐保姫が十何町も遠方まで飛ぶと云う一念の飛翔力を与えられたのに反し、エボン嬢は漸く椰子の木へ攀じ上ったに過ぎない点にある。茲で両嬢の体力だの智力なぞを論じて居ては此方が化石になって了うから止めにして、終りに一言す可きは思想歓念の暗合に就てである。
一念凝って石となろうが鉄となろうが、それは堅さの問題で大した考慮には値しないが、日本でも南洋でも、之を石に譬えた所に思想の平衡がある。忌憚なく言えば当時の日本人の頭脳も、南洋土人の智能も。五分五分であったと見られる。
なんだ馬鹿にして居る、なぞと憤慨する人は憤慨する前に一度九州に下り璧島神社に御詣りをして来るがよろしい。璧島神社は、松浦佐保姫を祭った神社である。祭ったまでなら未だ宜しいが、之れが大日本帝国の官幣小社である事に注意せぬばならぬ。南洋では石の化け物を祭って官幣社なぞに担ぐことをせぬ。社務所の役人が、畏る畏る穴蔵を開いて、之が佐保姫の寝石で御座い、なぞと御賽銭を徴するような芸は敢てしない、佐保姫とエボン嬢では、後者の方が霊の安泰を感じて居るだろう。

石より鳥へ

エボン嬢の恋の化石を、ヤルートの島民は恋愛自由の表徴として尊重して居る。前にも延べた如く、彼等は余りに自然の子、余りに肉体的であるからして、右の表徴を芸術的に詩想することはせぬ性慾万能の神の本態なりと附会して此意味よりエボン姫に感謝して居る。
石になりたやと云うことは彼等が性慾乱行の末に発する自棄の言葉である。而して今や石たらんことを慾せぬ彼等は「鳥になりたやの俚謡に情を遣る、獰猛なる。
此一事また日本の社会の一面に存する思想に似通って居る。鳥になって想うものの側に飛んで行きたいとは、日夜遠方の人を思慕して明月を鏡なりせばと祈る心に等しい。一概に排斥すべきではないであろうが。今日では飛行機が出来て居るから、鳥の翼を借りるような意気地無しでは、恋の□引は出来ないと云う結論になる。
然し乍ら未開の南洋中、其最も進歩せるヤルート島では、鳥になって恋の目的物に達せんとするの歓念は正に旺盛である。否単にイマジネーションとしてのみならず更に進んで信念と化し、大流行の祈祷と共に、事実問題となって騒がれて居るのは驚く可き現象と言わねばならぬ。

(三一) 性問題を中心としての迷信 鳥になりたやの思想共通也

鳥に化けて

「鳥になりたや」に就ては迷信的に根拠がある。夫れは人を恋するに一心不退転の誠実と熱誠とを以てすれば、南洋出雲の神は、彼女に与うるに鳥の姿と翼とを以てし其恋を叶わしめるのだそうだ。鳥になり(然も眼は人間のままで)暗夜に乗じて思う所へ飛んで行けると迷信して居る。
斯るが故に恋は恐ろしきものにぞありけると、土民は信じて居る而して今を去る一年の近き過古に於て、島民が其鳥目撃した話がある。笑ってはいけない、彼等は之を真面目に主張して断じて信を曲げないのだから。シャンペンと云う美しい娘が、アスカリスと呼ぶ独逸系土人に惚て魂を献上するまでになって居た。
シャンペンだの、アスカリス(蛔虫の意)だのと云えば直に冗談だろうと疑う人もあろうが、之に就ては別項に於て一言する通り、立派な土人の姓である。扨てシャンペン嬢はアスカリス君に恋をしたが、親父はメジリギリキ島の酋長で彼女は其一人娘、随って嫁にやれぬ、また酋長は混血児を婿にすることを肯んじないので其恋は具体化せず嬢は父に連れられてヤルート港を去るの余儀なきに至った
之は数稿前に述べた如く、酋長がヤルート港へ保養に来て居た避暑中の出来事である。シャンペン嬢は明け暮れ男の上を思って居たが、或る夕暮のこと、遂に鳥に化けてヤルート港(ジャブール島)に飛来し、アスカリスを擁して逢う瀬を楽しんで了った。シャンペン嬢が来島したと云うので狭い島中は大評判であったが、事実彼女の外殻はメジリギリキ島を一日も去っては居なかったので、土人には問題が甚だ複雑なものになって来た

目撃の主張

何うも不思議だと騒いで居る時昂然と、村人の迷いを嘲る一人の若者が現われ、説いて曰く、シャンペンは鳥になって飛んで来たので、拙者は昨夕之を目撃した、豪も怪しみ騒ぐ可きに非ずと。島民は手を打って其当に然る可きを感心納得して了った然も目撃者は他にも一人あって話は頭尾立派に符合して居た。
□言も休み休み言え、とは在留邦人の評なりしに、一般の島民は熱心の余り怒気を含んで斯説の正鵠なることを主張し、目撃者二人は神の前に正直を誓って、偖其光景を説明するに、一九二〇年春の或る夕、一匹の美しき鳥は何十丈にも達せん尾を曳きて、羽音静かに此島に飛来した。顔は紛れもなく見おぼえのあるシャンペン其人であったと。
シ嬢とア君が、島内椰子の木影に、時ならぬ艶姿を現じたことは、多くの人の目撃した事実だそうだから、愈々従来よりの伝説が二十世紀も二十年を喰い込んだ現世に至りて、雄弁に裏書されたと信じて居る。而して此迷信の強烈なるは、何人が如何に懇切なる科学的反駁を試みても、決して屈しないのだから、吾人も茲で筆を抛って置く。

恋と呪文

恋や迷いと見れば悟りにて、悟りと見れば迷いなり。理性の光輝は迷える恋の前には寸毫の権威なきこと、文明人の実情に於て尚お免れじ、況んや土民をや亦況んや裸なる自然の徹底児に於ておや、
智の低劣なる加えて恋の迷いの定則を以てす。土民が幾多の迷信を構えて愚に明け愚に眠る、寧ろ当然の事相なりと言う可きなり。日本人だって、之を嘲るの資格を欠ける事例は少くもないのだからまあまあ彼等の滑稽なる迷信録を喝采裏に読んで居る方が無事泰平で御座ろう。
我国に於ける呪い殺すとか、祈り殺すとか云う観念は、モット平和的に南洋で発展して居る。何となれば彼等は殺すまでには追及しないで、呪文で必ず恋を叶わせるか、或は他人の恋を割いて了うと云う迷信に限って居る。日本のは信長の心であり、南洋のは秀吉の智を学んで居る訳だ。
日本の一医官が嘗てヤルート何百の娘に恋われたことがある。変な話であるが、婦人病患者が、毎日百人づづは欠けなかった記録が現実に病院の帳簿に残って居る。本来は一日に十人には達せぬ筈なのが、百人とは、ヤルートの女狼は遠慮がない。其医官は土人の体臭を嫌う倭民族であったから、凡ての女を振って、任期満ちて帰国した。
其後で島内随所に呪文の声が流れ初めた。娘達が之に依って恋を叶わせん情略である。即ち自分の恋を感じて其医官を日本より呼び戻さんと慾し、多くは之を期待せるのみならず、第三者の地位にある島民は、其医官が誰の呪文を感応して帰島するやを問題とした。問題は誰の祈が適中するかに存せるものにして、其呪文の効力自体に関しては寸毫の疑いをも挿まなかったのが面白い。

(三十二) 文明人の裏面は南洋人の全面 日本の将校を口説ける狂態

破戒の代表

情慾無節操の事実を中心として南洋諸島の顕著なる一大現象を描写すること既に六回に及んだ。然も此問題は実に南洋諸島の大なる半面にしてキリスト教徒も仏者も断じて之を不言裏に葬り去ることの出来ない問題なのである。依って更に進稿す
性の動発は南洋に於ては火である。他を焼かざれば遂に己れを焼くの運命自体である。随って自己保全の良心より、性の発動は其決□に至るまで、常に自由の道を進んで他の擁塞を許さざるものと認めらる、少くとも斯く実現せられて居る。驚く可き又物騒なる自由だ
例えば姦淫沙汰の如き、其課程の強和如何に拘らず、敢て道徳上の是非には上らない。単に感情上の制裁問題となるのみであるが、之は当事者間の私的交渉であって南洋の社会、或は社会道徳の関する問題ではない。即ち妻を貞節ならしむる為めには亭主は美と力とを備えねばならぬ。妻も亦亭主を独占する為めには少からぬ努力を要する
之が南洋では自由競争の観念なのである。文明国ではダンピングをも不当廉売と目して、之れを商業道徳の違背であると定義する程であるから、夫婦自由競争なぞは素より沙汰の限りであるが、南洋の自由競争はヒドク徹底して居る妻や夫の浮気は、蓋し避く可からざるの人情的発動と観念される。而して罪の大半は、其浮気を発せしむる対象人に在りと認む
己が夫を恨まずして芸者の非を憤るなる好妻女の心が即ち南洋土民の心に外ならぬ。貨車の牽かれるのは、機関車に牽引力があるからだと云う論法だ。妻の不貞も亭主の浮気も、畢竟は林檎が落つるのと同一の理法に拠ると考えるニュートンの過信者である。性慾引力説の創造者にして而して実行者である

自由への道

父を知らざる児童は到る所に遊んで居るが、母を知らざるものは一人もない、孝行は母のみを対象とし、父には無関係である一事は偶々自由性慾の徹底を社会的に黙認する活きた証拠ではないか
戸籍もなく、法律もなく、役場もなければ巡査もない所では、私生児と云う生産物はあり得ない、産児は等しく黒い人間である而して自由に椰子の実を食って自由に育ち、而して自由に婚し且つ自由に姦す。全く以て自由の濫発廉売だラッセルなぞも支那で哲理を説くことをやめて南洋で著作に従事した方が面白く且つ長命の道であったろう
法律と約束の巷へ生まれて、巡査や探偵と喧嘩をし乍ら、クロポトキンだのバクニンなぞを騒ぎ立てて居る日本の名士諸君も、此二三年の間に随分奮闘なされ、モー言いたい事は言い尽して了ったようだから、限りある人生の余を南洋諸島で暮すが宜かろう。満足に自由と共産とを享楽し得るのみならず、自ら啓発せらるる所も少くは無いであろうぞよ
武子姫とか白蓮女史とかが、佳人薄命で売り出すような不完全なる社会は、南洋には御座らぬ。女の美と男の勇とは、常に「成り飛車」である。長躯殺到また近隣自在だ。夫や妻とは彼等の屋号であって其商品の名ではない。買手、はり手の引力は彼等の自由行動を弁護するのであるから、煩悶は無用なり
不貞浮気は既に性慾引力説に依って保証されて居る罪は自分にはなくて、相手に存す。即ち客観自然主義とも言う可きである。左れば文化の理想たり亦指南車たる人格的個性主義とは正反対を行くものだ仏法で説けば他力宗として排せらる可きか。孰れにしても文明と野蛮、人間と準人間の差□は右の人格個性主義と客観自然主義の哲学的相違に依って明証せらる可きなり

美男の将校

美男を見ての不貞、美人を見ての浮気が自然の沙汰として客観的に容認せらるることは、夫婦の間よりは独身者間に一層徹底せられて居る。ヤルート島の花と唄われた二人の娘が、日本海軍の守備隊長を口説く可く正々堂々と役所□□り込んで来たなぞは蓋し客観□□主義の正発動と言わねばなる
二人の娘は、剣銃を捧げた二人の番兵の誰何を反対に叱咤し「隊長に直談あり、家来共控えろ」と云う権幕で官舎へ通り、隊長に面会を求めた。隊長は何事ならんと彼女等を部屋へ通すと、別に用談もなく、艶かしい笑を見せて後、遂に自分は泊って行きたいと申込んで来た、隊長は唖然として暫くの後、大声一喝、退室を厳命したので、二人は悄然として帰った。
由来、隊長は不可淫の肉体であると定義されて、自然に畏敬することになったと云う。兎に角、一島の最高官憲を、己が褥上袤裏の捕虜たらしめんとして、些かの遠慮もなく、公然直談に来訪する所に、彼等の性慾自由観が暴露せられて居る。
番兵の剣銃なぞは、ラングトン以上に見縊って居るのみならず、自分の美は優に隊長を溶解するに足り、亦其権利もあると信じて居たのが物凄い。更に之位の事が出来なくては、美人たるの面目が施せぬと揚言せるに至っては、南洋の美人は洵に恐る可きものである隊長は結局野暮なものと相場が付いたのであるが、然も風紀道徳の観念の上には何等の革新的影響を与え得なかったそうだ。いや実は日本の民政官吏の一部には、此隊長の実訓を極めて有力に破壊して居る人もあるのだから、風紀取締も笑止なりと申さんか。

(三三) 宗教の効果は昼の間のみ 早熟早世の活ける好標本

好色好信徒

政策論に於て宗教にも論及する筈であるが、南洋人の性慾道徳と宗教の関係は茲で一言して置く。私は不幸にしてバイブルの内容を詳にしないけれども、イエス・キリストは、自分を産んだことの原因を容認してはおるまい。不義、密通、私生児なぞは、歓迎す可きこととは教えておらぬ筈だ。夫婦、貞操、節制を説いて居る。
キリスト教は南洋に於て非常な発展をして居るが、特にヤルート港に多くの信者を持つ。而して牧師宣教師の重要なる一任務は、島民の淫乱を矯正するに在りと言われて居る、随って最も節操ある島民が最も西洋人宣教師の信任を得て居るのも事実だ。
米国宣教師ホツピン嬢の第一の信任者に、ウィルヘルム・キヤベールと云う娘が居る。無論独逸系の土人だ。ホツピン嬢の勢力を享けて島内に並ぶ者なき勢あるキリスト教徒であるが、夜になるとキヤベール嬢は一転して、南洋式性慾観の最も雄弁なる信者となり土民、混血人、日本人、平等に取扱って恥づる所なし。
彼女の親は、富豪にして洋館に住み、鍵を閉して娘の深夜外出を防止した。然るにキリスト文明の一面に通じた彼は合鍵の利用を知って、親の深眠を窺い、毎晩外出して反キリストの行為を恣にして居たが、或る朝、枕の下に合鍵を置き忘れて親に発見せられ、勘当騒ぎ迄起った末に、或る日本人の入れ智慧で治まった話がある
彼女の説に従えば「宗教は昼間の教、性慾は夜間の人生なり」と云うのだ。此娘を第一の助手として信任措かざる米人ホツピン嬢も老いたる哉であるが、斯かる現象は例外なしに土民の公認行為である。若しも不貞浮気を許さぬキリスト教あらば、同教は南洋に一人の信者をも有し得ないであろう。と言うのは真理の逆を証するもので、実際は、如何なる宣教師も南洋の道徳観を矯正することが出来ないと云うに帰着す。即ち宣教師諸君の努力は其大半は当初より水泡だと観測せらるるのだ。

十三歳の母

不義不貞は無論責む可し、罵倒す可しと雖も、其早熟は気候と生活の関係より来るものであるから吾々が怒って見た所で暖簾に腕押しだ。十三歳位のマンミーと言うよりはマム(下等民の用語)は珍らしくない。
尋常六年生位の女が子供を産んで居る。別に恥かしい様子もない一ダース位産んで懐妊を茶飯事なりと云った洒々然たる我が強母の態度に似て居る。男も無論十三歳前後から成人して居るのだ。小学校の寄宿舎が、到底、監督しきれない理由も自ら明白であろう。
十三歳位から生産に従事するのだから、老ゆるのも亦早い。二十は年増、三十は大年増、四十の声を聞いては完全に中性化して南洋人生観の上から見れば死せる人となり畢る。
頭の禿た浮気者の居らぬだけは南洋は住み心地の好い天地だ。早熟である上に、無節制に濫造濫費するのだから早老早死は必然だ。是れ生活の悠暢呑気なるに拘らず平均年齢の日本よりも遥に低き一原因を構成するのである。衛生の観念、設備の不足も有力なる原因であるが、死亡率の高い一因は、何うしても過淫に存す。戒む可き哉だ。

人生観結論

親は早熟の弊を知って居る筈だから娘達を戒めるかと思えば、決して左うでない、娘の成人を祝い之を広告し且つ解放する即ち娘が十二、三に達し、見るものを見るに至れば親族知己を招いて祝いをする、島の狼連が容易に餌の熟せるを知り得るのは実に此御祝の為めである、然らば是れ一種の血祭りとも言う可し。
血祭りの後に親は大概は娘に自由行動を許す、而して茲に又、女の心得として、一度男に呼びかけられたら、素気なく之を拒むことが戒められてある、厄介な心得もあったものだ、性慾自由主義に伴う所の必然的世習ではあるが、之が為めに、早熟は多産濫産の弊をも伴うに至るのである浩嘆すして□島の狼と書いたが、女にも狼は非常に多い、前稿にある海軍将校を喰いに来た女狼は、趣好の高尚なるものに属する美食家であるが、中等なのは日本の役人に秋波を送るのが多く、下等なのは子供を狙うのだから物騒千万と言わざるを得ず、夫れは小学校生徒の帰路を擁したり、或は寄宿舎を襲撃するのである。
凡そ斯る卑しむ可き、唾棄す可き、猥らなる現象は、枚挙に遑なき南洋普通の世相なのである、其程度が、日本位なら私は無論之を記述しない、素々余り書き度くない事象なのであるが、然も是れが南洋人の公然たる生活理由であり全島の人情風俗の根源であり且つ形而学上の大部分であるに依り余計な苦心を払って其大略を描写すること如件

(三十四) 早熟早世と他の死亡率高大因 九割は花柳病十割は指腸虫

ワイズマン

早熟は早老早世せざるを得ない生殖機能の早熟は、吾等の祖先の上にありしが如く、食うに困らず智労に悩まざる場合には自然に起る現象であるから頭脳を使わず寝て食ている土人が、十三、四から生殖機能の発展を遂げるのは毫も怪しむに足らぬ。然も安息楽食する彼等は、尚お早老早世を免れないことは一考察に値する
生物は次の生物を産し且つ独立せしむるに至って生存の意義を終えるものだ。換言すれば個体の老死は、種族全体の利益の為めの自然的約束である。自分が新体を産み夫れが種族の一部として自分に代る時が来れば、自分は死滅するのが其種族の利益に相違ない。
役に立たずに、否社会の厄介物となって何時までも生きて居るのは、明かに種族全体の不利益だ。新陳代謝の理法にも反するしまた後進に路を譲る道徳にも違背する。斯くて一個体は、新個体の独立し得るを俟って老死するのが当然であり利益であり、又約束であると論ぜられる。ワイズマン博士の説である。
新個体の生産独立に長年月を要する種族にありては個体の生命は長いけれども、子供が直に成長独立する生物の場合には旧個体(親)の生命は短い。之は確に実在する現象であるから、ワイズマン氏の以上の因果説に反対することは何人も出来ないであろう。
斯くて南洋土人の場合を観るに其生殖機能わ十三、四にして爛熟する、即ち独立の期に達する。十三、四になれば人生の根本事業を営み得るのであるから、労働も相当に出来る。加之、肝腎の食物は自分で求めることが出来る椰子に□て果実を取り、海に入りて魚を刺すことが出来れば、食物には不足はないのだ。そして彼等は十三、四で之を完全に行う。早熟早世の説は立派に南洋でも確証せられて居る。

梅毒早世

病気特に三等症では、綺麗な記事の出来る道理はないけれども是れ亦人情論に劣らぬ顕著なる事実であって、南洋描写上の落し得ないことを一言する。実に土人の九割は花柳病に罹って居るのである是れ豈驚異す可き現象ではないか
梅毒はフランベシアと称する南洋独殊の梅毒にして、初期には唇、肛門または足等に苺のような湿疹が出来、進むに従って全身に鱗状の膿疹を生じ、三期には鼻の障子が落ちる。而して其苦痛は普通梅毒の程度、其影響は生殖に支障少くして能率を激減する。
伝染は高速力だ。第一に衛生の思想がなく、第二に設備を欠き、第三に気温は菌の活動に最も適して居るのだから、苟も流行病たる以上は、其蔓延の宏度は稀有の濃密を示す。フランベシアは遺伝でもあるが同時に伝染の強い病気である。蠅や蚊が傷口を通して菌の媒介をする。親子は血を分けるのみならず梅毒湿疹の局部を平気で接触する。全島に弥蔓せざらんとするも能わざるの状勢である
今日は、何十パーセントが梅毒に罹って居るかを示す統計がないし、又島々に依って同一でないが、少い島でも人口の五割以上は之に罹って居る。私は大抵の島の到る所でこの苺畑の歩いて居るのを目撃した。潜伏しては時々発病するので、土人は左程気に病ぬらしいが、之が彼等の体力を減耗し、間接に死亡を早からしめることは勿論である。目下我が医官が熱心に治療を施して居る。

醜き肉体

産れたばかりの子供の顔へ苺畑の熟して居るのは、吾々文明人の見るに堪えない光景であるが其光景は実に織るが如くに開展して来るので無情を感じて了った。南洋の村々を歩くことは、座って居てフランベシアの活動写真を見るのと同じ理屈になる、と言いたい位に苺病が蔓って居る。
偖フランベシア(南洋梅毒)は特産物であるが、淋病は米国人が注射したもので、例の如く無抵抗に蔓延して、輸入後僅か三十年、船着場の住民の四割は之に侵され、フランベシアと淋病の共有者、又は各個に所有するものを総計すれば、ヤルート島では人口の九割近くは花柳病人だと云う。
ヤルート港の病院は南洋一の設備を有し、住民また最も開けて居るから病院は忙しい。普通の薬価を徴すれば一日に二百円の収入はあるそうだ(医官説明)。フランベシアに劣らない疾病に十二指腸虫がある。之は日本でも得意な病気で、野蛮病と言われ、欧米人から厭がられる所だから、吾々は特に南洋土人に相憐むの情を呈する次第であるが、其割合を聞くと驚く
ヤルート島では人口の十割、トラックでは九割、ポナペでは九割五分、サンパンでも同率の人口が十二指腸病に罹って居る。之は独逸医官の報告で、日本の医官はモツト低率だと言っても七割は下るまいと称せらる。脱糞自由、□歩、穢水沐浴等の行為が、虫卵発育の便利なる地方で行われるのだから、流行も当然の話し而して之亦間接に死亡率を助けて居る。

(三十五) 土人の苦労せざる各方面 食料は十分=年齢を不知(上)

生活無難也

食物は作らずして採るのみの労にて足り、衣は防寒の必要なきを以て、裸に非ざれば一枚の布にて十分、住むには木の葉の屋根にて小屋を作るのみなれば、生活難と云う不穏なる世相には面することがない。椰子の実に付いては後に一稿を費す積りであるが、要するに之を常食として堂々と太って居る。
私に商売をする積りがないから茲で椰子の実の滋養価を分折するような面倒は断じて試みないが、何でも非常に滋養分があると医者は感心して居るし、土人は其立派な体格で之を実証して居る。蛋白澱粉、脂肪凡ての養分が理想的に椰子の実の中に含有されて居るそうだ。之さえ飲食して居れば、他に何物をも要せずに活て行ける。之が年中、樹の上で実って居るのだ。
更に面白いことは、人間のみならず、凡ての動物が之を食べて活きて居る状態である。豚の主食物は椰子の実の腐敗せるものである鶏も之を最良の食となし、猫に至っては鰹節よりも更に之を好む。また椰子蟹と称する強大なる蟹さえ住む。此蟹は昼間は何処かに潜伏して居るが暗夜密かに椰子の樹に攀じ偉大なる鋏を以て直径一尺大の実を切り落し、之を穴の中へ運び去る代物である。
日本の商人でマーシャル群島に居る者は椰子の実の商売に限り、米国商人の住む者も主として椰子業者であり、唯一の外国商会として来島するバンス、ヒリップ商会(濠洲)は亦椰子の実の輸入を専業とする。土人は之を主食物とし、他の動物悉く然りであるから、マーシャルの生物は椰子の実を背景として生存競争をして居ると言える。然も此天産物は未だ彼等の生活難を誘致するには至らないのである。

年齢を不知

土人は老若一様に自分の年齢を知らない。実に南洋の天下は泰平に出来て居る。樹木さえ柾目に依って年齢を知り得るのに、土人には算齢の根拠も記憶もない。近来はクリスマスを祝するの風が生じたので、十歳位までは知って居るのが多いけれども、其後は面倒だから抛って了う。
横着者の日誌みたいなものだ。一月の十日位までは殊勝らしく寒暖晴雨なぞを記して見るが、何時とはなしに日記帳は忘れ紛失されるのが、即ち土人の年齢に対する観念である。之で些の不便も感じないのが面白い。
戸籍もなく、徴兵もなく、学齢なく婚姻法なき国では年齢の必要はない筈だ、反対論者は疑わん、之は必要の問題ではなくて自我意識の自然感情ではないかと。然れども、南洋には自我意識の他働的主因たる環境の徇遷がない。春夏秋冬一気温、同じ樹の実と緑葉と鳥と魚と太陽と風とは、一年中彼等の上にあって気候天然に変化がない。
随って一年と云う観念が生じない。一年と云う週期が不明である以上は、人間に年齢なるものの附会せらるる余地がない筈だから、土人は年齢なしに悠々と活きるのである。近時、文明人と称する人人が、大きな御世話を焼いて年齢を強制した結果が、漸く「横着物の日記帳」まで漕ぎ付けた次第なのである。日誌の容易に正記し得ざる如く、土人の二十歳以上を算定し得る日は遠いことであろう。

年齢の推定

日本で、年齢を二ツ三ツ御隠しになる婦人なぞは、前稿に記した如く、共産主義者と共に南洋に帰化するのが立命の第一である。曩に一言せるように、土人は早熟早世であるから、七十歳は正確に古稀である。而して七十歳とは如何なる老人かと言えば、孫、孫子、やしや子の其又子供を持つ老人で大抵リューマチに罹り、全身是れ苺畑にして随って蠅を夜具として茣蓙の上に寝て居る。
十五歳で子を産むものとしても七十の人は孫子の自乗に当る人間の基として活て居る訳だ。之は子供の方から逆に繰って行って七十位と推定した老人の年齢である。此子の親は甲、甲の親は乙、乙の親は丙で、其親が此人で御座いと云う所から、先ず七十歳にもなろうかと推算した次第だ。
推定は目下必要になった、と云うのは日本は土人の子供を学校に入れるからである。其処で戸別訪問で子供の年を尋ねるが親は大概は不調法で解らない中に、殊勝にも我子は今年七歳なり、何となればクリスマスを送ること生後七回なればなりと答える優等親が見当る。村には一人位は此種の博学者が住む。
茲に於てか日本の御役人は、村の子供達を広場へ集め(保証人ともに)一人ずつ呼び出して之を前記の七歳の児童と列べ、偖此二人は孰れが先きに産まれしやを衆議に問う。村中の知識を集めれば、二人の生産の前後は明解する。凡そ幾何程前後かを正してから各児童の年齢を役人が決定して了う。小学生徒の行列を見ると粒が不揃いで随分怪しい推定もあるらしいが、稀には小学生徒が人の親となる位の滑稽以外、無事に治まって居る。

(三十六) 土人の苦労せざる各方面 名を持たぬ児童=跣足観(下)

姓名の軽視

年齢を知らず又之を意に介せぬ彼等は姓名にも深い考慮は払って居ない。産まれて四、五年は名を付けないのが普通だから、真実の無名子が蠢動して居る。無名児の間に既に苺を所有(フランベシアー)して居る連中が多い。
日本の親達は、子供が母胎に住む中から、名前を考えて待って居るらしい。南洋の父母は産んでから四、五年は抛って置く。別に考えようともせぬ。其中近所にも無名子が発生して混同の恐れが迫って来るので、其区別の便宜上、颯々と命名をする。理屈もなければ縁起もない随って不合理な名が多いが、子供は成長して後に又一向に之を気に留めない。
独逸人は之を面白く思って自分の混血児‐下女兼土妻として在島中だけの方便とせる女よりの児‐に命名するのに、何れも乱暴な名を付けた。蛔虫の意味のアスカリスだの消毒剤のナフタリンだのサイダーだのビールマンなぞと云うのがあるし又ナポレオンやリンカーン君なぞも出来て居る。
日本の統治になってから、命名の依頼に応じて、正直に日本式の名を付けて居るが、混血児たるの故を以て混助なぞと云うのは酷い部分だ、四歳の女児が入院したが無名なので医官が彼女にナシ(無名の故に)と命名した所が、両親が後から哄笑して之を迎えた、ナシは土語にて子宮の意味である然るに女には相応しいと言って之を喜ぶ両親の心は、よく南洋人の姓名観を代表したものである。

悠々生産

名前も年齢も一向に気にせずに暮して居るのだから月日の経過なぞは当然眼中にない。食事でも其通りで一定の時間なぞは無論決めてない。空腹を感ずる時に勝手に食うのだ。サイパンとロタに住むチャムロ種族が食時食を摂るだけで、八割の南洋人は出鱈目に飽食する。
月日を考えないからして立派な茣蓙が生産されるのである。之は椰子、パンダーナス其他の葉や皮を以て極めて精巧に編まれた敷物で、成金の茶席位には敷ける代物であるが、四畳半を編むのに四十日を費すのだから驚く可きである価格は付し得ない。強いて評価すれば、四十日の労銀と原料と利潤とで右の一枚に八十円は申し受けねばなるまい。
果して然らば買手は無論あるまい。即ち商品にはなり得ないものだ。然も価値は相当に大きい。全然手先のみを使って、樹葉の漂白から強化、夫れから念入りの編上げまでには、一通りの辛棒では出来ない労苦が罩められて居る。暦日なき南洋、気長の土人、手先の妙巧、また之を売らんともせぬ貨幣上の無慾、是等の諸現象が一枚の茣蓙に織込んで在る。
彼等は特に煙草数本で此種の物品を手放すことすらあると云う、現に煙草一箱で一隻のカノー(舟)を占めた外国人もある。近来は貨幣価値を多少理解はしたが、寝て食って居られる天然の下の自然児は、横着な西洋人が金銭を見て動き出すような気持にはなり得ない此慾のないことが、往々にして統治者を困らせることのあるのは勿論だ。

靴を残して

土人の跣足は無論のことで、医学者は跣足の為めの負傷が、流行病や伝染病の蔓延する一因であると説いて居るが裸で下駄を穿くのは、洋服で下駄を穿くのと同様、決して推奨す可きスタイルではない。今や土人の一部はシャツ或はスカートを着けて居るが、下駄は此場合にも調和を得ない何うしても靴をはかせる外はない
然るに南洋には靴を修繕する店は一軒もない其上に、靴は日本の道路に於けるよりも遥に破れ易い勢い靴は上流の男女が祭日にでも穿くだけに止まる。彼等の足の裏は夫れ自体が露店のビーフステーキを顔色なからしむるもので、木の根、岩角或は小砂利の上を踏み付けて些の苦痛を感じないのだから、当分跣足で置くのが宜しい。
天長節の晩の話しである、酋長夫婦が洋装端然と守備隊長の晩餐会に列した。隊長の家は靴を脱いで上ることになって居る。酋長は御酒を召し上がって非常な満足を表し起居も立派に西洋式に振る舞って帰って行った。
翌朝隊長は不思議なものを発見した。二足の靴が整然と靴脱ぎの上に置かれてあった。生酔い本性たがわず、酋長夫婦は陶然となって全然靴を忘れて了ったのである平常穿いたことのない靴だから、全く気が付かずに跣足で帰宅し、翌晩になって、笑い乍ら靴を取りに来たそうである。
やはり跣足が相応して居るのだ衣物も其通りで、垢の付いたシャツなどを着けるよりも裸の方が余程清潔で気持が好い。跣足で裸で茨も背負わず椰子の実を食べて居るのが彼等の本然であり随って幸福なのである

(三十七) 彼等の共産主義の実行 東京市に対する実教訓

私有無観念

食物が豊富で地価もなく、成金も居らぬ、南洋では私有財産の観念はあり得なかった、今日は生存の基礎が有限となり、外来の智識に刺戟せられて私有権の意識と保護とが発達しつつあるが、共産主義の実行は依然現在する。
昔は何処の椰子の実を誰が取っても少しも差支えなかったのが近頃は之が団体の帰属となった、徹底共産主義から社会主義に転じたのだ、大概は村の財産として之を酋長と人民とが共有する、其の分配法は期間に依って行われて居る例えば一月から三月までの実は酋長へ、四月から十二月までは村民へ与えられると云う具合である。
酋長は之をバーターして村民を使ったり、公益の為めに投ずるのだ。残りの果実を村民間に分つのは全く共産的で、各自の生存の必要以上には決して椰子を取ることをせぬ、随って椰子は、所有権の表札もなく、況んや石や煉瓦の高塀で囲まれることなしに、海浜、山林庭園等に自然の成長と景趣とを見せて居る。
共産制の是非は茲に論ぜず、ただ自分の屋敷庭園を城壁て包んで了い其景趣を独占するは未だしも必要以上の土地を狭い日本から奪い占めて封鎖するようなケチな根性の曝露せぬ所は、如何にも気持が好い、椰子や、パンの樹や、南洋の天地を飾る所の偉大なる天然にして而して人民の命の源である之が到る所に公に生長して居る星のは、景色と同時に制度人心の真美をも描象するものである、日本の成金輩の恥死す可き光景と言う可きだ。

無家賃住宅

慾と不徳とあらば、椰子の実を取り貯えて私利を得るに難くないが、土人は身は汚れたれども然も盗泉の水を飲まぬ。己が生活に必要なる分量を取るのみであるから果実は常に樹上にあって永えに彼等の立命を保証する。美しと謂つ可し。
公徳心と責任観念とは、社会主義、共産主義の実現せらるる基礎条件であることは、南洋の土人が之を明示して居る。マークス、クロポトキンを説く前に、論者は先ず、第一に国民の責任観念徳義、心に質す所がなくてはならぬ。私は窃に憂うるに、今日の我が国情民心の上に、社会主義や共産主義を移したならば、十年にして克く一国を粉砕するに至るであろう。
土人には挙ぐ可き多くの欠点がある。特に共産主義が男女関係の上□拡充されて居るなぞは、吾々の排斥せんとする所であるが、生存を中心としては大体に於て公徳の観念あるを喜ぶ。絹を纏える日本紳士と、裸一貫の南洋人と孰れぞや、と借問したい節もある。
制度の上に吾々は公住宅の理想が現化されて居ることを見遁すことは出来ぬ。土語を英語に直訳して、オールメン、ハウスと言って居るのは即ち何人も宿り得る公の無賃旅宿である。家を失える人や旅人は、自由に此家で起居衣食して支障なく、而して寄宿人は責任を以て此処に住んで居る。而して此公住宅が、土人の造った家の中で最も丈夫に且大きく出来て居ることは一層注意すべきであろう

東京に教ゆ

或島には公会堂の形式で存して居るが、要するに其観念と設備実行とは日本よりは偉い。而して之を東京市に較べると、教訓と言わんか或は先鞭と言わんか、孰れにしても統治国の中央政府所在地を嘲笑するものが数々御座る。
市営住宅が今頃になって出来ないで、家賃の調査だとか、借家□案だとか(之も都市の問題なり)騒いで居る東京市や政府よりは、南洋の方が百年は進んで居る。
薪炭と下女とを節す可く、中央焚飯所を設けて飯を配給せんとする計画は、南洋で何十年前から実行されて居た。公の竈があって村民は此処で一緒にパンの実を焼くのである。大東京市以て如何となすである。
其名怪しけれど南洋の一部には月経室と云う公共家屋がある蓋し婦人の最も大切にす可き病なるが故に、之を公の設備ある家に休養せしむるの理由に出でたものである。つまり公立婦人病院に外ならぬ。日本の慈善病院などは比較にならぬ。否日本では婦人の此重要病期を軽々に虚使する公娼の制度あるに至って、衛生的にも南洋に劣る点ありと嘆ず可しだ。
ロタ島では毎週土曜日に、各家が其面する道路を掃除することになって居る。之を以て街路清潔、炎天の下にも一塵の穢物の空気を汚すものなし。東京に較べて遥に行届いて居る。少くとも実行の出来るのが教訓だ。東京市は計画は租税公債の手前相当に発表して居るが、行わぬことは罪悪以上に行わぬ!
道路なぞは其代表である。吏員の視察は欧米たるを要せず土人の島で沢山だ。市民の徳義心が土人に劣るの点あるも掩う可からず。電車は必要なきが故に南洋の町村には存せぬ。其為めに此点に就て東京市に教訓を与うることの出来ないのは、土人の甚だ遺憾とする旨を、私が代って東京に告げて置く。

(三十八) 半開化せるヤルート民情 頤髯の芝居=食料結婚

同盟罷業

以上十数回はヤルート島を通じて南洋の一面を描いたが、既に大部分を了したから帰って此一港に一日を費した後、早く復航に就かんとす。
ヤルート港は最も開けた所であるから、住民は生意気になって居る。男女の最も横着であること、労銀が破格に高いことが之を代表して居る。特に同盟罷工は南洋中で唯一度、此群島内に勃発したことも、一面は思想の進化を語ろうが、他の一面は生意気の表示に外ならぬ。
先ず罷工の滑稽に就て述べん。昨年のことだが、コージャリン島の土民は、労銀が安いとか、椰子の実の相場が安すぎるとか云う理由の下に、コブラの輸出労働を罷めて日本の商人を困らせた。其処で日本の警吏が之を説諭に出かけ漸く彼等を復業せしめた。
其警吏は恩威ある珍らしい男であるが其一大特徴として鬱蒼たる密林を頤にブラ下げて居る。其頤髯は実に胸を蔽うて堂々たるものだ。日本の如何なる易者も及び難い。罷業土人は、一つは此髯に圧迫された傾向がある。兎に角、復業が完了して警吏はヤルート港に引返したのであるが、罷業中止と其髯との間に密接なる関係のあった事が、クリスマスに至って明白となった。
クリスマスに至って其島の土民は芝居を演ずると云うので邦人も招待せられて見物すると、安くんぞ量らん其芝居は、該警吏が罷業を鎮圧に来た経緯を演ずるものであった。而して警吏に扮せるは座長格の男で、其扮装を見ると、頤へ椰子の葉を一抱えもブラ下げて威風堂々と演じたので、邦人も思わず吹き出したそうであるが、此一事偶々彼等の生意気を明証するものである。

横着の極致

椰子の樹へ攀れば主食物は天然に実って居るのだから、生活の安楽は言う迄もない。然るに邦人が其安易を羨むと土人は之を遮り木へ攀上るのが厄介だと主張する慾望と横着は素逓増不尽のもので飽実は単に刹那の感情に過ぎぬ。安楽をすれば其上に楽がしたくなるのだ。
結局寝て食べて而して食慾の旺□り望むことになる。人間は働く可きものだとは茲を言ったもので□々働いて居るのが、安楽のマーヂナル・ポイントを高める所以であるから、帰する所は人生が愉快だと云うことに決する。椰子の実を天から戴いて居ながら、尚お面倒を嘆ずるのは、人間の暗き本性であって必ずしも無智の土人のみを責む可きではない。
然るにコージャリン島の土人は図々しく横着だ。此島の男が、一時近海のナム島の女を嫁に貰うのが流行った其理由はナム島から無代価で食料を得んが為めだったと云う。食料結婚で、日本にもザラに聞く現象であるが、土人としては悪知慧のある方である。
魚は海浜で潤沢に漁れるのに拘らず此島の土人は面倒だと云って漁業をせぬ。在留の邦人は其為めに魚が食べられないので、日曜を卜して何時も漁猟に行く。すると土民は之を知って日曜毎に日本人の帰路を擁し、其魚を売って呉れと迫るそうだ。資本家と労働者とが地位を転倒して居るなぞは、横着の骨頂ではないか。

公定相場

独逸時代から公定相場が強制実施されたのは此ヤルート諸島を最たるものとする。コブラ(椰子の干核)が一噸八十円と公定されてある。蓋し島民中に狡猾なる分子があって、往々不当利得を考えるものがあった為めに独逸が之に備えたものである。
豚は一キログラムで二十五銭、其去勢したものは二十八銭と、細かい点まで公定されてある。鶏一羽は五十銭で鶏卵は一個五銭であるがある土人が新参の邦人に鶏卵一個五十銭を請求した話もある。其主張を聞けば、卵も軈て鶏になるのだから五十銭の値打はあるのだそうだ。生半開化すると此程度の悪智慧は免れぬものと見える
また監獄はヤルート港で最も多く利用せらるる事実も此島民の悪智慧を説明する。夫れは土人が米の飯の味を知って、之を食う為めに態々監獄に繋がれんとするので爾来獄裏でも椰子の実を給することにしたら、犯罪者が減少した事実もある。
病気を偽る所謂擬病なぞも此島に限って存する現象である。荷役中に卒倒を擬して労働を免れる悪者が時々現われる。然し統治者にも方法はあるものだ。卒倒の体質のものはダンスをすることは危険だから禁止する旨を申渡したら、爾来此患者も跡を絶ったと云う話しだ。
半開化の暗い方面ばかり書いたが、良い半面は無論ある。清潔を尊ぶ結果、衣服なぞも他島には見られない清浄を保ち、女は洗濯を第一の務めとして居る。但し依然便所の設備なく、朝夕定刻に、海浜に蝟集して歓談高議しつつ失敬するのは宜しくない。吾々は大切の朝夕の海岸散歩を臭圧されたことを遺憾とする。

(三十九) 米人ホツピン嬢と我民政官 階級観念亡びつつある進歩

ホツピン嬢

クサエ島のバードウィン嬢以上に、ホツピン嬢は有名なる米国の宣教師で、本拠をクサエに置き、最近はヤルートに活動して居る七十歳の姥さんである。此一人の姥さんはヤルートの日本民政官の頭上の瘤、少くとも疣位の勢力を有するもので、我官憲対外国宣教師の関係を代表して居るから、一言を費す可きであろう。
ホツピン嬢は四十歳になるかならぬで、花の姿を南洋に移し長々三十年の朝夕を土民のクリスチャニーゼーションに投ぜるのみか、其白骨をも椰子樹の下に埋めんと志せる所の熱□異常なる宣教師だ。何人と雖も彼女の懸命の努力と執着力とを尊敬せぬ訳には参るまい、一年や二年で、仕事せずに貯金して颯々と内地へ御免を蒙るような日本一部の民政官根性とは、神と罪人だけの懸隔がある
彼女が三十年の間に教化せる効績は当然大きい、随って隠然大勢力を持つ。日本の成金式の小役人が、金モールと短剣をブラ下げて威張って見ても、仲々以てホツピン嬢の実力には対抗し得ぬ場合が多い。彼女にして若しも悪意を以て日本の民政に反抗するの意思あらば、鉋屑のような民政官は忽ちにして困憊の状に落ちるであろう
然しホツピン嬢には悪意はない私も二、三時間会談をして見たが、性は善良の婆あさんで憾むらくは思想が三十年後れて居るだけが疵である以外、毫も噂のような厄介婆あではない。
三十年南洋に居ては人間は後れざらんとするも得ず。加うるに、独□で七十歳まで暮して来た所に中性的頑固なる癖質は免れぬ。彼女の私に語れる所を要約すると

(イ)妾は文明の進歩に後れて居ることを自覚し且つ之を恥と思わぬこともないが、今となっては自然の子として世の進運の外に住む外はありません
(ロ)教化事業の為めに、世□進歩の大要を知ることは必要ならずやとの御尋ねですが、妾も左う思いながら機を得られないのが残念にも感じます
(ハ)日本の統治方針には成る可く協力して影ながら力になりたいと思ってます、ただ宗教の方面を軽視せられぬように願いたいんです

と云うことに帰する。自己の存在を認めて貰いたいとの希望は、彼女三十年の努力よりして要求し得る立派な権利であろう。

民政官厄介

民政官に言わせると、あの婆さんの勢力が強くて島が治め難いと愚痴を溢す。学校教育を宗教教育にて邪魔をする。また一般に、自己の勢力は日本官憲以上であることを島民に信ぜしむるような術策を弄して困ると訴える。兎に角、ヤルート民政官はホツピン嬢に圧迫されて不平を溢しきって居る。
京童の説に拠ればヤルートは民政の最も堕落せる所署長代理が理髪店の婿さんで何うだとか、信望も技倆も威信もなく、島民からも馬鹿にされて居るので自然にホツピン嬢に頭が上らぬのだと言って居る。私はヨク知らないがホツピン嬢一人の圧迫を朝夕訴えて居るのでは碌な民政ではないと思われる。不振と放漫は事実だ。
一つには英語が話せぬ為めに誤解が多いのである。私が話をして見た経験では、困難な問題は□る筈がないと信ずる。会話と妥協とを知る民政官が居れば、南洋の米人宣教師を厄介視する道理はない許りでなく、之を利用するの道は広く大きいことを知れ、詳しいことは政策論に於て書く。

階級制危し

南洋と言っても一概に論じ得ないが、酋長が生殺与奪の権を握り一般人民は単に酋長の使僕に過ぎず、経済的には共産主義の形式に於てデモクラシイの観念を具体化して居たが、政治的にはアリストクラシイ、オートクラシイの極致が表現されて居た。十年前までの話だ。
階級観念の熾烈なりしはマーシャル群島である。士農工商式に立派に階級順位があった。イローヂは華族、ブーラックは貴族、それから庶民と三つに分れ、庶民は奴隷にして何物の所有をも禁ぜられて居た。現在は名称のみ存し、イローヂは酋長として財的王者たるのみ。
イローヂに就て話がある。イローヂ級の土人は己れを持する頗る高く、日本人に対しても権威を衒うのがある。日本人にもまた目出度い連中が多くイローヂを天皇と翻訳して了った。其所で一部のイローヂは日本の皇室と同等に考えて居る。嘗て軍艦淀の入港に際しイローヂにも出迎えを奨めると、彼の曰く、日本では軍艦入港毎に天皇様が迎えに行くかと。
ヤップ島では階級は自由民と賤民とに分れて断じて融合せぬ習慣が残って居る。自由民は賤民の所有物には絶対に手を触れぬ許りでなく、食物中にも賤民の常食物は食わない。而して其食物は本来自由民の好まぬ種類(鰻、鯊等)に限ったもので、実は賤民をして他の種類の捕魚することを厳禁した半面である。自由民は日本の幕末の武士の専横を恣にしたもので、今日も遺風が弊を醸して居る。
ただ一般に此悪風が亡びつつあるのは慶す可きである。却て貴族士族平民の区別を今も尚お戸籍に貼り付けて居る日本の方が進歩が遅い位のものだ。統治国の方が被統治国よりも保守旧想を呼吸して居ては困ることが出来る。

(四十) オッヂ島より横浜に飛ぶ

遷都問題

初航海を試みたオッジ島は、ヤルートの民政を移さんとする南洋諸島の最東方に位する島で、ウッド君は之を戦略的意味がないかと聞いて居た。同君の新聞電報に「オッジ島は港内稍深く潜水艇も安全に入港し得る云々」とあるのを見ると、此感想を持って居ることは争われない。
然し潜水艇はオッジ島のみならでマーシャル群島の更に東端に占拠し得るのであるから、オッジ島のみを心配するのは一局観だ。要は斯かる必要の発生するや否やに在る。而して之は米国のみが平和的に解決し得るので日本の施設を検するは抑も末なり矣である。
ヤルート港中心主義をヲツジ港に変ずる理由は(イ)港の地理的便宜(ロ)島の安定(ハ)島が群島の中心にありて政治上便利なること、(ニ)食料生産上の理由等に拠るのであろうが、私は別に遷都の必要もあるまいと思って居る。特にヤルートには独逸人の残した官舎住宅の立派なものがあるが、日本がオッジに新設する建物は所詮碌なものではあるまいし、随って邦人の滞留□益不便を増すだけであろう。
オッジ島は幅十町、長さ二哩半の陸地を有するから、ヤルートの五倍大で、マーシャル第一の巨島に相違ない。畑も少しは出来ようし、椰子も相当にある、蠅は確実に多い。私は船長と船医と三人で此島から白砂と石とを拾って来たこと、及び頤髯の名警吏(ストライキを鎮圧したる)に会ったこと以外に、オッジ島に印象なし。

復航ポナペ

一泊してヤルートに帰り、戸須賀大尉宅に二晩を宿り嘗て観光団に加わって日本に来たことのある三郎君と云う土民の、完全なる日本語と悧巧とに満足して出航、クサエ島で軍艦春日のボート転覆の奇禍を聞きそのまま直航してポナペ港に寄る。□遊の地も大袈裟であるが、ウッド君と共に第一の好印象を得た島であるから喜んで一泊を忍んだ。
丁度二月十一日、だったので運動会が催された。例のハイド・パークに於て盛大に挙行された。私も病後に拘らず弥次馬に加えられて、貰った賞品は□濯石鹸であったことを注意しておく。蓋し南洋人にとりては極めて重要なる商品なのである。
翌日は歯医者にして且つレモン草の栽培者たる本間君も訪問した軍艦勝力の今橋艦長と大島大尉、ポナペの隊長中山大尉とウツド君の顔触れで、小躯大胆なる企業的医師の開拓の光景を視察した訳である。山の中に孤影淋しくも思わず、十年を要する事業に従事して居る同君の態度を、南洋発展の上に尊しと思うと同時に、其堅忍と成功とを祈った。
昼に豚の石焼を食べたのは南洋一の美味たりしを断言して置く。土人の調理は石焼法以外にない。枯葉を焚いて多数の石を焼き、其石もて豚一匹を包んで蒸して了うのであるが、燐寸一本の生産費を以て絶大なる効果を得る方法と言える。

横浜へ

帰心矢の如きに際し、トラック島に水が足りないので給水に三日を費したのは無情の思いありしも此機会に野崎少将、森大佐等の司令部幹部と親しく会談の時を得たのは、給水難で失った犠牲を補償したものである。
倶楽部で晩餐会が開かれ其席上ウッド君と司令官とは南洋統治に関して種々の話があり、夫れはウッド君の電報となって市俄古デーリイ・ニュース紙上に掲げられた通りである。即ち南洋諸島は国際連盟に委託された島であり随って日本は戦略上之を利用するような敗徳なる行為は断じて致さぬと云う意味に外ならぬ(此批評は政策論に譲る)
サイパンに来たのは夫れから四日目の朝で、港内も波濤の為めに船の激動止まず、其日の中に出航途中一暴風に出会って小笠原島に入る。東京府下に帰った訳である茲で単衣を袷に代えた。二ケ月の間未だ一回たりとも食慾の起ったことがなく、一杯の飯を消化するのに五時間を費した胃袋は、此頃より少しく活動を始め出した。
小笠原で袷を着たのが、一昼夜の後に綿入となり、急に冬の米だ故国を去らざることを偲ぶ。サイパンから一人の本願寺派の若い坊さんが乗った。自由主義の男で頗る超越して居る、俗界に住む資格十分であるから、進歩した世の中には適応して居るだろう。
「一人坊主と一人女は荒れる」と云う航海業者の迷信なる所以を主張して居たのは面白かった。私は此坊さんに九目置かせて碁を打った。生れて始めての経験であるが仲々愉快なものだ。仏の祟りを恐れずに散々に此坊さんを碁盤の上で虐め付けて得意になって横浜に帰る。
以上四十回は旅行誌である。無論書き残した所も多いが事実余りダラダラと書いて居る時がない。之より論策に及ぶのである。之に依って自分は南洋諸島の全面目を描写すると同時に、如何に今後に処す可きかの政策の基準を示すことが出来る積りである。


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