新聞記事文庫 東南アジア諸国(16-082)
産業経済新聞 1943.3.27-1943.3.31(昭和18)


新生ビルマの全貌 (一〜四・完)


(一)

大東亜戦争の勃発は昨年五月一日皇軍のマンダレー入城、ビルマルート怒涛の進撃と急展開し、ビルマから暴虐英勢力を一掃し、翌月四日には我がビルマ方面陸軍最高指揮官はビルマに軍政を施行すると同時に、元首相バーモ氏を委員長とし、十名の委員長からなる中央行政機関設立準備委員会が任命され、従来有名無実であった議会を廃止し、行政府長官統栽のもとに行う長官会議をもって之に代えられた、従って従来の行政区分たる三十七県の制度はそのまま残置して各県に県知事が任命された

[図表あり 省略]

かくて早くも新生ビルマの建設工作は着々と進展を見ている、この皇国のはるか南方、泰国および仏領印度支那、中華民国雲南省に接し、西方は印度に境をなし南にベンガル、マルタ両湾を臨んで、南北延長約一,九二〇粁、東西約九百二十粁、その面積六〇五万平方粁といわれ、我が国の内地及び朝鮮とほぼ同じ面積のビルマは、熱帯から亜熱帯に跨り、農産物をはじめとして鉱業、石油、林業、工業、牧畜及び漁業に南方圏の一豊庫といわれ、外国貿易においても出超の国の地位を持している

ビルマの歴史

ビルマの古代史は伝説的なものからなっているので、差当り王朝時代と英国の侵略時代に分けて見ることとしよう
バガン王朝の興隆時代すなわちアノー・ラーター王(一〇四四年)時代からビルマの歴史は権威のあるものとなっている
ビルマ帝国には全ビルマを統一支配する強大な王国が三つあった、前述のバガン王朝およびトングー王朝(十六世紀)アランバヤ王朝(十八世紀)がこれであった
トングー王朝のバインナン(一五五〇年)は大帝国を建設し、ビルマ帝国建設者中最も卓越した王でビルマのナポレオンと称せられ、又アランパヤ (一七五二年) はビルマ全土を平定しビルマにおける最後の王朝を建設した、これらの王朝時代にはビルマの一切の政治、経済、財政、軍事、社会生活、交通、宗教、芸術、文学等は国王を繞って行われ、宮廷は一切の国家生活の中心をなしていたものである
たままた英邁なる王が現れて強大なる帝国を建設してもその王朝が永続しなかったのは王位継承に関して一般に確認された法規がなかったためである、それは●々内乱や宮廷における陰謀の原因となり、残忍な殺戮を惹起するところとなってきたのが、しかも近代史を通じて宿命的であったのはビルマ族とモン族の闘争である、この闘争は十八世紀中葉迄継続し、ビルマにおける英仏の葛藤と相結合して行われた
そうした闘争の半面には幾多英雄的な王の出現によって全ビルマの統一から進んでアラカン・泰・雲南・アツサム等に侵略を試みて発展を遂げたことはビルマ人が東亜における尚武的優秀民族であることを現実的に示すものであろう
ビルマ史の後期とも云うべき英国の侵略時代は西暦一六一二年東印度会社のビルマ進出に始まり、一八八五年(明治十八年)には全ビルマは悉く英国の征服する処となった
英国は印緬国境紛争等を口実として何等の謂れもなく第一次、第二次及第三次英緬戦争に依り一八八五年にマンダレーを陥れてビルマ王朝を滅亡せしめ、ここに独立国ビルマは亜細亜の一角から全く姿を消し、英領印度の一部として編入せられるに至ったのである
しかもビルマ民衆は此の不可思議な英国人官吏の統治を承服せず、其後も久しく反乱其の跡を絶たぬ状態にあったが、一九三七年 (明治二十年) 再び印度から分離し、印度と並び英帝国の一構成単位となったのである、英国のビルマ統治は人種的優越の政策を徹底化し在緬英国人は少数の英国人社交倶楽部等で排他的な孤立した独自の社会生活を営み、被統治者であるビルマ人を全く相手にせず、統治者被統治者間には全然融和がなかった
こうした差別待遇乃至は不同化政策は誇り高いビルマ人の反英感情を唆る最大の要因となり、人心は全く英国人から離反していたのである
しかも英国はビルマ全体を一つの工場かまたは投資の対象としてのみ考え、ビルマ人の福祉等は全く考えずビルマの重要なる天然資源を独占し、資源開発によって富んだのは独り外国人だけで取残されたビルマ人は其のため貧困化していったのである
さらに英国はビルマ内にある雑多な各種族、各党派を対立させて所謂分割統治政策によって統一的反英運動の防止にこれ努め、殊に有力なる少数種族である印度人を利用したり、ビルマ族を戦争に役立たない非尚武的種族として印度軍に徴募しない方針を採る等、英国人は社会的にも経済的にも又軍事的にもビルマ人を問題にしなかったのであるが、今やこうした望ましからざる高慢な英国人は一掃されビルマ人は彼等を兄弟のように遇する日本人の庇護と協力の下に精神的にも物質的にも幸福な希望に満ちた生活を営むに至っているのである

(二)

民族及び宗教

ビルマ人は性格純朴、感激性に富み、純情で恩義に厚い処は我々日本人に甚だ似た特性で、殊に物質的欲望乃至は執着心の少ない点は亜細亜民族共通の点を持ってをり、物事を苦にせぬ「ユーモア」に富み不断に微笑む民族と称せられているが、一面自尊心、廉恥心、名誉心が頗る強く侮辱されれば殺傷も辞せぬ気概と熱情的性格を有するところは我が武士道の意気に似通ったものが多分にあると思われるのである
しかも印度と異なり窮屈な階級制度や婦人隔離の制度無く、社会生活には明朗且つ多彩なものがあり、天然資源の豊富な中に生活し、仏教の影響もあって概ね悠長、長閑で寧ろ南国特有の遊隋な国民性を有するものと謂われている
ビルマの人口は昭和六年の調査に依れば、一、四六五万(昭和十六年調査に依れば一、六八二万)で、其の内容はビルマ族がその大宗を為している、しかも其の宗教は左の如く仏教徒が最も多いのである

[図表あり 省略]

この様にビルマ人の大部分は信仰深き仏教徒であって、宗教即生活の生活を営み、バゴダを聖なるビルマの象徴として其の功徳を慕い至る処に建立し所によっては宛然バゴダの林のごとき観を呈する程である、バゴダのビルマの反面には〃ポエ〃のビルマも亦ビルマ文化の代表的な一つであろう
ポエはビルマ人の殊に愛好する所の国民舞踊で夜を徹して行われ、始めがあって終わりなしと称せられている程で、ビルマ王の武勇伝を題材として、優美なビルマ宮廷の古代語を以て語られ、王朝が独立を享有して居た楽しかりし当時を懐古し、多幸なる日の再来を祈る民族的祈念を象徴するものとされているのである
こうした純愛と宗教の国ビルマでは、男子は一生に一度は僧侶となる習慣があって、僧院における寺子屋式教育の為に読み書きの能力のある者が極めて多く教育の普及程度は英領印度の如何なる州よりも高い

反英闘争

ビルマ王朝に代わって英国が統治を行うようになった後もビルマには反乱が絶えず、内乱状態は五年余も継続し反英を叫ぶ志士、独立を標語とする政治結社が牢固たる英国の鉄枷のもとに相次いで出現を見るに至った、昭和五、六年の世界経済不況当時勃発したタラワヂ事件を直接の動機として結成された「ドバマ・アツシアヨン」(「我等のビルマを目標とする党」の)は党員の名の前に〃タキン〃(「自由な息子」の意)を附すことに一般に「タキン党」と呼ばれるようになり、往年の反英闘士「ウー、ソー、テン」等の激励によりビルマの自由のためには生命のやり取りさえ何とも思わぬという活発な青年運動となったのであるが、党の結成の歴史若く、又その推進力をなす有力党員が何れも三十歳代以下の年少気鋭の知識階級青年達がことに感激性の強い純朴な農民大衆に呼びかけ燎原の火のごとく短い年月の間に全ビルマに拡大しビルマ人の大多数が住居するイラワヂ河の三角州地帯一円に多いが近年はタトン、モールメン、タボイ等のテナセリム地方にも急激に増加して、印度と肩を並べて、印度の指導者と密接な関係をもつに至った、今回来朝したモンミヤ内務長官、オンサン軍司令官などを送り出したタキン党の活発なる運動の只中に昭和十二年ビルマは印度から分離して新ビルマ憲法に依る統治が始まり、バーモ氏がこの最初に当選して下院議員となり、かつ最初のビルマ内閣を組織したのはこの時だった

黎明の前奏

斯くて英独戦争の勃発を契機として独立運動は再び台頭し、政党は保守派と云わず、革新派たるとを問わずこの好機を逸せず独立を獲得すべしとの熱意を持つに至ったのである、今次の独立運動の特異性は政党だけでなく一般ビルマ民衆も我国の援助あってのみ独立の実現を可能とするものであるとの観念が深くビルマ全土に行き亘った点に在る、元来ビルマ人は蒙古人種であるから日本人と同一種族に属し、生活様式も日本人と類似し、早くから親日感情を包蔵していたもので、殊に英国の圧政からビルマを救うべき事を訴えた日本からのビルマ語放送は絶大な人気を呼び、ビルマ人は津々浦々に至る迄ラジオの附近に幾十人幾百人と群れをなして集り毎夕これを聴くことを無上の慰安としたほどで、これに大いに困惑した英当局は大東亜戦争勃発数ヶ月前にすでに日本からの放送を敵国からの放送と同視する旨の法令を発した位で、毎夕ビルマ人の家庭から一斉に我が愛国行進曲の栄を聴いたことは〃英領ビルマ〃の光景として寧ろ悲壮な感をすら漂わし恰も英国のビルマ撤退、皇軍進駐の前奏曲の如き観を呈したのであった、又ビルマ人は占星家、預言者等神秘的なものを信ずる民族であるところから「ビルマにおける英国の統治は将に終焉に近づけリ」との予言が弘まっていたのは今にして思えば感慨深いものがあろう、ここに至る機運を敏活に悟りこれを実行運動に利用したのがバーモ氏を盟主とするビルマ自由連盟に属する各派であった、野に下ったバーモ氏は氏の率いる平民党とタキン党学生連盟および連合党の一分子とともにビルマ独立獲得を目標とするビルマ自由連盟を結成した、今回来朝したバーモ氏一行四名は、それ等各派の党首または領袖であった人達である、この「日本の援助なくしてビルマの独立は達せられぬ」という観念は単に自由連盟加入の党員だけでなくウー、ソー、或はウー、バー、べー等のビルマ政界巨頭の率ゆる各党派に属する者達も云わず語らずの裏に身内に感じていたのである、しかし独立運動の必要条件として日本をビルマ大衆の頭に植え付けた何といってもタキン党およびバーモ氏の率いる平民党の活動によるところ大なるものがあったといわねばならぬ

(三)

ビルマ自由連盟が結成されるまでのビルマにおける政党としては連合党、バーモ党、チー・ライン党・独立党・農民党・ブエビアン党・タキン党・ボイコットG・C・B・A党・ビルマ自由連盟などが挙げられる、連合党は人民党(ウ・バ・べ党)ハ・ボG・C・B・A党(バ・シ党)自由ビルマ連盟(エム・エ・モーン・ヂイ党)マンダレー21人派、エ・ウ僧正G・C・B・A(バ・シュエ党)の五派が構成する政党で土語でヌガー・ブウイン・ザイーン(連合五党)と呼び、別名ユナイテドG・C・B・Aとも称されてをり、仏教青年会の後身たるビルマ人連合協会 G・C・B・A)加盟の前記五派を以て一九三六年四月末、マンダレーの国民大会で結合され、ビルマ王の孫テイ・チン・ワ公を総裁に推載しているが、内部的には多数派である処の人民党党首バ・べの勢力に引摺られ他の四派は之に追随しているのである
今回バーモ氏と共に来朝した財務長官テーモン氏は此の人民党結成の一人で党領袖として印度議会議員に選出され、印緬分離後の昭和十三年ビルマ下院議員としてバーモ内閣の商工大臣を務めた人であり、後にはバーモ氏と共にビルマ自由連盟を結成ビルマ自由獲得に奔走し、英字紙ニュー・バーマの経営に当ったものである、バーモ氏の率いて来たバーモ党(別名平民党)は一九三二年十一月ビルマ分離可否の選挙に当ってボイコット派から分かれ、ビルマ分離を標榜して選挙に臨んだ結果、一躍第二党の地位を占めたのである、党の政綱としては同氏が一九三六年八月二十六日ラングーン大学生に対する講演において発表した処によれば「新統治法も依然としてビルマ民衆の政治的乃至経済的解放の根本問題に触れていない、従って本党は飽迄これを排斥する、本党員は便宜入閣し又は議席を獲得した上で内部から新統治法の変革に当り、もって最終目的たる完全独立に邁進するものである」とし、ビルマ大衆の直面する政治的及び経済的更正を目標とする目的達成のため五カ年計画として

一、農村の自治制度確立
二、国庫支辨による義務教育の確立と一農村毎に少くとも一校を開校すること
三、貧農に一定面積の耕地を与えること
四、土地抵当銀行を設け、農民を高利の負債から解放すること予
五、地租税法を改正し貧農の負を軽減すること

などを挙げ一部青年層、知識階級、および農民間に好感を以て迎えられた
チー・ライン党はビルマ参議会議長チー・ラインを党首として結成され、往年の所謂二十一人組の両頭制度施行賛成派に対抗してボイコット派を組織し、その後これを自治党(ホーム・ルール)と改称したが、印緬分離問題で二つに分裂して劣勢となった、党首チー・ラインは常に人頭税の撤廃と国債の軽減とを主晶し、漸進的完全独立を獲得すべしと唱えて来た
独立党は一名モーン・ヂイ党と称しビルマ最古の政党で、両頭制度実施に至りビルマ人連合会が分裂するや故オスカー・デ・グランヴィルを擁して第三党として進歩党を創立、大体政党の方針に追随して来たが、グランヴィル没後はゴールデンヴァーレ党と改称して再びサー・モーン・ヂーが牛耳り、更に独立党と改めて分離派に加担し同志八名の議席を得て選挙に臨んだが惨敗を喫し遂に解散するに至った、農民党は五十年の党歴を有し国民党即ち二十一人組の前身で、崩壊まで終始ニーを党首として帰農運動を中心に農村問題の解決を主なる政綱として来た、フェビアン連盟は十九世紀の末葉の英国フェビアン協会に範り一九三六年九月一日創立され、バーモ党の副首領ミヤを党首としビルマ字紙デードク(週刊)主筆パー・チヨー同じくミヤン・マゼヤ紙記者バー・キーネおよび前ラングーン大学生連盟書記長ヌーなどの中堅所の参加によって党勢大いに挙がった、同党は一名デードク党とも呼ばれ秘密党則三十二項を有している
タキン党については前に述べたが、同党は土語名をコ・ミン・コ・チン党と呼び、別名自由闘争連盟とも称する、アイルランドのシン・フェーン結社に則ったと謂われ、僧侶ノヤ・ミネを党首として強烈な自由獲得運動を続けて来た
ボイコットG・C・B・A党はエナンヂャウンの石油業者ソー・テインの主宰で新統治法に絶対反対を唱え、農民労働者および学生間に浸潤し独立独歩他党と離れて独立運動の急先鋒をなして来ている
ビルマ自由連盟(バーマ・フリードム・ブロック)は前に述べた如くバーモ氏によって統率され、在野各派を糾合してビルマ政界に新たな政治運動を開始したもので、大体ガンヂーの非協力非暴力主義抵抗運動を採り入れているものと見てよいであろう

ビルマの財政

一九三七年の分離によってビルマの財政収入は地租税、関税、所得税、頤税が主なものとなった、即ち分離後の英国支配下の一九三八ー九年度における国庫現計は歳入一億六千四百二十万ルピー、歳出が一億五千三百八十万ルピーとなって歳入財源は土地税及び消費税が約半数を占めうち純土地税だけでも関税に匹敵して三千七百万ルピー、土地税に包括される処の人頭税、戸数割は一千万ルピーに上っている、一方歳出では英人が国債元利金、恩給、徴税行政費その他の人件費を含めて半数に近い七千二百八十万ルピーと云う巨額の搾取を行っている、このように分離後の支出は一般行政費、国防費、監察費、土木費および恩給費を以て主たる地位が占められていたのであるが、これ等に増してビルマ人が希望していたものは工業の奨励、農村振興費、衛生費及び教育費などビルマの国力増進の方面の増額であったのであるがこの方面のビルマの福利厚生には英当局は殆んど目を向けなかった形である
斯る暴英財政政策に反し皇軍軍政下の財政は支出の面においては人件費の切下げを行い、産業施設、民生向上に支出を集中し、収入では人頭税、阿片吸飲税を廃止し、個別割を軽減しまた純土地税も半額に引下げたのである、更に軍政部が実施した内国税の皮切、酒税(五月)米輸出税および砂糖、食塩、石炭、煙草などの輸入税(六月)の徴税も良好な成績を示し、地租、所得税、一般消費税等が極めて安当に実施されるに至ったのである
(写真は特産馬蹄型葉巻を作るビルマの少女達)

(四)

産業と交通

ビルマの産業は農林資源を中心として鉱業資源及び熱帯資源の開発によって繁栄が齎されるものである、しかも大なるビルマ天然資源を開発するに英国は自国の資本と印度労働者で行い、その結果はビルマの経済、貿易、金融と実収はことごとく外国人に握られビルマ人はビルマの富の増大にも拘らず却って貧困化しビルマの経済生活において彼等ビルマ人は殆んど何等の役割をも持たせられなかった、又一面英国はその老獪な植民地政策からビルマに対して不開発方針を採り、鉱産資源等は未開発のまま捨て置かれてきたのである、ここにも南方圏建設の上から我が国の有する責任の重大さが今後ますます加重される必然性があるのである、ビルマ産業の根拠を南方ビルマの資源が一九三九年度の輸出貿易の面に表われた所から見ると次のような構成を示している (単位千ルピー価)

[図表あり 省略]

その中でも米は総輸出額の四割五分を占め、さらにこの米を含むところの農産物がビルマ総輸出額の五割余を占めていることに依っても、ビルマの農業問題が如何に重要であるかを知ることが出来よう、それと共に一面英国の政策のよった未開発方針の鉱業についても将来の希望が不可能でないという観方も有力な訳である、このビルマの産業と資源開発に密接なる関係をもつ運輸交通機関として重用なものは水運であろう、イラワヂ河はその上流九百哩まではニ百頓前後の船の逆行が容易であり、サルウイン河も二百哩上流まで百頓前後の船の航行が可能であって英国系のイラワヂ河航運会社がこれらに使用した船数は大小併せて○○余隻に及んでいる有様である、次に鉄道は総て国営で総延長二千五十九哩に達し、主要路線としては

ラングーンーマンダレー三百八十六哩
マンダレーーミイトキーナ三百四十一哩
ラングーンープローム百六十一哩
ぺグーーマルタバン百二十一哩

等が挙げられる、この外自動車路は相当に発達して居り、総延長約三千五百哩、主として鉄道に沿って走っている

農業事情

ビルマ人は元来ビルマの故郷を愛し土に大なる愛着を有し、外国移住等を好まない特性をもっているので、ビルマといえば直ちに水田を思わせる程ビルマと米とは深い関係にあって、ビルマ農産物の大宗はラングーン米の名ですでに前大戦直後の頃から我国にも知られている米であり、農業国ビルマは瑞穂の国を想わせるものがあってそのうち最も盛んなのはイラワヂ、ミヤンミヤ、ぺグー、マンダレー、メーラチ等の地方で一九三九年度には耕作地一千七百三十八万七千エーカー、可耕荒蕪地および休閑地合計二千百三十万七千エーカーであった、概して北部岳陵地方は可耕地が多いが今の処では住民が自分達の食糧として米作を行っているに過ぎずアラカン沿岸地方は雨量が極めて多く、農地は主にアキヤブの背後に在って此処は米作を主としているのである、ビルマの農業は何といってもイラワヂデルタ地帯が中枢部であって耕作面積も他地方に比してはるかに広く、主要作物としては米の外に豆類、煙草、野菜、玉蜀葱等が作られている、ビルマにおける米の生産高は戦前は約七百五十万頓でその総量においては勿論日本には及ばないが、約三百万頓の輸出余力を有する点では世界に冠たるものである、しかも戦前のビルマの総輸出額約五億五千万ルピー、総輸入額約二億ルピーという数字が示すごとく尨大なる輸出超過がビルマ貿易の特長であるが、このうち米の輸出額だけでビルマの全輸入額を突破しているのである、由来ビルマの繁栄は籾米の価格により左右されて来た所以である、なおビルマの米は昭和十八年度においても約○○○万頓の余力があるが、極力アルコール、ブタノールへの転換を促進中である、このようにビルマは世界一の米の輸出能力を有するにも拘らず、種々の原因と相俟って農民は多年に亘り高利貸しに対する負債から浮び上ることの出来ない窮境に追いつめられているのであって彼等の負債の総額は下ビルマだけでも数年前には五億ルピーという巨額に上り、何時しか耕作土地の過半は土地の改良乃至はビルマの永久的繁栄を省みない不在地主の手に帰し、農民の大部分は小作人の地位に転落させられていったかくてかつては自給自足を事として来た農業は下ビルマでは産業的乃至は更に進んで工業的性格を帯びるに至って、土地は転々と商品のごとく次々に新しい所有者に転じ、農業立法其他政府の施策も農民救済にその効果を期待出来ないものとなって了った、農民が人口の大部分を占めるビルマでは農村問題が今後の重要問題の一つであるという事は此処にも十分窺い知ることが出来る訳である、ビルマの農業は米の他には中部乾燥地帯で玉蜀黍、胡麻、落花生、綿花、豆類等が作られ、イラワヂデルタ地帯には前述の如く豆類、煙草、野菜、玉蜀黍、テナセリム沿岸地方にはゴム園が多く、未開地の多いシャン高原地方では現在米のほかに馬鈴薯、野菜等が作られているが、この地方は将来温帯作物の栽培地として期待されている、その他戦前から約三十万ピクルを産出されていた綿花は乾燥地帯が北から南に走る東側に栽培せられて、リントおよびファイバー別に収穫されているが、原綿の年生産高は一エーカー当り二百五十ポンドで品質優秀なものの可能性が有望視されており目下五ヵ年百万ピクル計画のもとに鋭意増産が進められているのである

有望な林業

ビルマにおける林業は森林面積が全土の七〇%を占めている関係上極めて恵まれた条件のもとに置かれており、登記森林地九千二百万エーカー、未登記森林地推定約九千百万エーカーで主要木材であるところのチーク材は戦前年産約四十万トン、雑材約五十万トン、新炭材約百三十万トンが産出されていたが樹木の種類が多く漆、樹脂などの副産物も少なくない、重要森林は国有林となっているので伐採は政府および特殊会社が行って、年約二十三万トンの木材総輸出量は主として印度に向けられてビルマ輸出貿易額の重要なる部分を占めて来た現在においても木造船建造用材料等として我が南方建設のために重要な役割を果たしているのである

(完)

豊富な資源

ビルマの鉱産資源は又頗る豊富で石油等を含み現在二十五種の地下資源が採取されているが、鉱質物としては鉛、亜鉛、錫、ウオルフラム、金、銀、石炭、ルビー、サフアィヤー、硬玉、琥珀等が各地に賦存しているが、最も注意すべきは石油で大東亜圏においては東印度に次ぐ優位にある、一九三七年度においては一、一〇三千瓩を挙げて全英共和連邦石油産出高の一割八分六厘を占め、世界産額の四分に相当し、第十二位となっている、記録によればビルマの石油は十三世紀のころから始まってをり、そして比較的発達したのは一八八六年英領となってからで、戦前には年平均産出量は百三、四十万瓲で、広大な面積からすれば比較的少量なわけである、主要油田地帯としてはイラワヂ河中流ミンブ以南とチンドヰン河流域が中心となり其他にアラカン地方がある
油田はイラワヂ河北岸約三百哩、マウウエ地方エナンヂヤウンの東方約二哩の地点にあり八百エーカーの小地域だが一九〇〇年以来の産油量三十億ガロンに達し、ビルマ油田中の最大油田で、ラングーン石油、ビルマ石油等の諸会社が活動し、戦前商業的重要性とともに英東洋陸海空三軍の給油源をなして来たものであった、一九三四年には一億三千七百四十四万七千九百八十三ガロンを産出している、シング油田はミンヂヤン地方にあってイラワヂ河に臨むシングの南方二哩半にイラワヂ河をはさんで南北三十八哩に及んでそのうち七哩が同河の東北のあってシング油田を形成し河底一哩半をへだてて三十哩がエナンヂヤト油田をなしている、シング油田中ではモクソマ、コン丘附近が屈指のものだが、英国は将来に備えて採油を控えてをった、このシング油田の面積は二千五百英反で深さ千呎乃至、二千五百呎で西部では六千呎に及んでをる、ビルマ石油会社の手にあって全部電化経営が行われて来たもので、一九三四年の産油量は八千百九十二万七千百十四ガロンでエナンヂヤウンとともにビルマの二大油田をなしている
シングに続くエナンヂヤト油田は一八九三年から近代的採油に入り一時産油量頽勢を見たが最近ではやや見直し一九三四年の産出量は二千七百七十一万七千五百五十二ガロンを挙げている、エナンヂヤトの南方部分と見られるラ二ワ油田は一九二四年採油開始以来一九三一年までに千二百六十五万バレルを出している、深度は千七百呎で近年はイラワヂ河底に伸びて採油を行っている以上の他インドウ油田 (チンドヰン河上流) は開始以来の総産油量六十四万六千バレル、一九三四年三百九万五千二百四十五ガロンおよびミンビュー油田 (一九一〇年開始以来三一年までに二百二十七万七千バレルに過ぎぬ) ウンガラインドン油田 (バコック油田) ポダウビン油田 (サエツミヨー地域) エナンマ油田 (同) その他アラカン地方にバランガおよびチヤウピユー等があるが、これ等は少量乃至は試掘に近いものが多いのである、これを産地別産額について見ると次のごとくである(一九三九年現在)

[図表あり 省略]

ビルマの石油に付随して天然ガソリン其他が挙げられるが一九三七年現在の産出量は石油百十万三千瓩 (世界第十二位) の他にケロシン油五十三万三千瓩 (世界第五位) 天然ガソリン三万三千瓩 (第六位) 滑油六万三千瓩 (第七位) 、重油二万五千瓩 (第二十六位) となっている
農業国ビルマに於ては工業方面は未開発の状態で僅に約一千の工場も其の過半は精米工場で製材工場が之に次ぎ、製油、紡績工場が挙げられ、工場法の適用を受ける従業員は約八万六千人と謂われている

貿易関係

一九二九年から三九年の十年間の貿易状況に見ても常に二、三億ルピーの出超となって輸出国ビルマの面目を発揮している、主要輸出品は米、鉱油、木材、金属、綿、皮革、石油、パラフィン等で中でも米、鉱油、木材、だけで全輸出額の八割を占めている、これに対し輸入品は綿製品を主位として飲食料品、機械器具等が主なもので、ビルマが原料国であることは此の貿易面に依っても窺い知ることが出来る、一九三九ー四〇年度の輸出入数字は輸入二、五一六ルピー輸出五、五〇五で二、九八九ルピーの出超となっている
以上が大体ビルマの産業状態で、斯る資源を擁し、既に独立が現実の問題として進行している新生ビルマ将来の問題は二千万民衆の教育の向上に重点が置かれねばならぬであろう、現在ビルマの教育は比較的発達し、特殊教育機関としての僧院の他にラングーンには文、法、経、理、工農学部から成る教育大学と総合大学並に美術学校、工業学校がありマンダレーには農業大学、ピンマナには林業学校、インセンには獣医学校及び官立工業教育施設があって機械工業、土木工業、電気工業等の課目について新生ビルマを担う子弟の教育が行われている


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