新聞記事文庫 都市(3-043)
台湾日日新報(新聞) 1918.5.6(大正7)


台北市街の今昔 (1〜5)


(1) 二十年の変遷

十年一と昔況や二十年以上を過ぎた今日、顧れば茫として夢の如く、桑海の変、感慨なきに非ずである、現今でこそ市街の一部は大厦高楼軒を並らべ、其の大道路にはコールタール塗りの立派な設備が出来て居るが、二十年の昔を回顧すると、殆んど別世界の如くに思われる道路と云う道路は悉く玉石を以て敷き詰められ、其間に二条若くは四条の細い板石が軌道の如くに敷かれて居た、これは人力車の軌道として作られて居たのだが、其の軌道たる敷石が例の砂石なので轍の跡が深く凹んで、為にこの上を走る人力車は恰かも踊るが如くで、乗客としては頗る危険を感じたのである
当時の人力車は以前内地に使用されて居た車で、其の車体には美術的に武者絵などが描かれて居た、そして蹴込みの両側に粗末な角灯が取附けられて落花生油などで点火されて居た、車夫は竹の子笠で暑い時分は袴計りを著けて、上半身は褐黒色の肉体を剥き出して居た、これが殆んど廃物に等しいボロ車を挽くのだから甚だ恐縮したものであるが、之が唯一の交通機関であったのだ、今日ブラブラ飛び廻る自動車や護謨輪の人力車を見るとつい昔を思い出すのだ、又た扁担苦力、即ち竹の天秤棒と麻縄とを担いで市内を徘徊して物品の運搬に従事する苦力、それが到る処の辻々に群集して居た、今日この扁担苦力が非常に少くなったが、之は大変便利なものであった
領台当時の遺物として今日使用されて居る物を調べて見れば決して少くはあるまいが、就中最も著るしいものは蒸汽ローラーであるこれは旧清国政府の機器局即ち現今鉄道部の石積み塀の外に、半破の憐れな姿で錆びて居たのが修理されて再び世に出て、今日尚立派に活動して居るのである、又た台北駅や苗栗駅で車輌の入れ換えに使用されて居る第一号第二号第三号などの小形の機関車も、亦清国政府時代の遺物で之等は二十有余年もの間最も忠勤を励んで居るものである、又た風俗上の珍なるものが追追と廃滅して往く事は甚だ以て心細く惜しい事である、例の恐ろしい●童などの類は無くもがなではあろうが、最も惜しむべきは惜字塔の如きものである、即ち文字を惜んで苟くも字の書いてある紙は粗末にせぬと言う所から、この文字ある紙片を道路に求めて拾い歩く篤志家のあった事である、半白の疎髯を風に弄らせ日を遮るべく渋扇を開いて眉上に置き、辮髪を以て之を挟みて頗る風流なる日覆を作り、細き竹棒に細長き竹籠を一荷に担ぎ、手に長き竹箸を携えて悠然として大路小路を打廻る其雅趣ある姿は全く画題の人である、別に之が為に給料を貰って居る訳では無く、唯だ道徳観念からして之を行う篤志に過ぎない、斯くして拾い集めた文字ある紙は之を集めて焼くのである、其れが惜字塔である、台北の市内では旧淡水館の門前に建てられてあったのが未だに眼に残って居る、夕刻には必ずこの塔の中から淡い煙りが昇って居た全く詩的であった、この惜字塔の如きものは漸次破壊されて今日では田舎へ行かぬと余り見られぬが、廟の前などにはよく見受けるのだが、其の惜字籠を担いだ何となく崇高な聖人らしい風格の老爺の姿を見る事は殆んど無いのである、之等の風俗は今日尚大に保存したいものである
書き立つれあば何程でも筆が続くが台北各街の今昔、その昔は如何な模様であったか、之を旧い人々に質し且つ又た記者が古い記憶から書いて見ようと思う、蓋しこれも一のお慰みであろうか(一記者)

(2) 発祥の地としての北門通り(上)

領台後台北市街で一番賑うたのは府前街通りと北門通りである先ずこの二つの街が繁華の中心であった、併しいずれも随分汚ない町であった、其の府前街は既に幾度か改築されて宛然で外国の絵葉書を見る様な立派な姿に変って居る、敢えて府前街通りのみで無い、西門通りでも府後街でも立派に改築されて昔の俤は全然無くなって居る、其の中に独り依然として旧態を存し其俤の一部分を認められるのはこの北門通りである、幸か不幸かこの街は今日迄で多少の修繕的変化は免れぬが改築と云う事は少数の家屋が個人的に行ったのみで他町の如く他動的の大改築は行われなった、最もこの町内でも西門街に属する一町内は其の裏手が陸軍用地で陸軍部とか法官部、或は経理部などが現存する為に其の敷地関係の為に今直ちに改築する事が出来なかったらしくそれで今日旧態を残存する事になって居るのだ、それで北門通りと一口に言って居るがこの一と筋の中には北門街、撫台街、西門街の三つから成り立って居る、其の街名を区別する事は面倒だから北門から南盛進商行の茶店に到る区間を北門通りと総括して置く、先ず北門から言うとこれは昔の門の半分が残って居るのだ、現在の城門の外面に更に一つの城門があった、即ち門は二重であったのだ第一門と現在の門との間は俗に枡形と言う四角形に凸前した城壁であった、門を這入ると現今の郵便局長官舎の辺に殆んど半壊的の汚ない本島人家屋が二三軒と其他に一二軒並んで居て附近は草っ原であった、確か其辺に渡辺甚吉と云う御用商人が居住して居た様に思う、そして本島質店の側にも家屋があった様に薄々覚えて居る、時代は確かと覚えないが元府直街と北門街との十字路の東南角即ち現今理髪店の在る所に弁務署即ち警察があった、これは後に北門亭なる寄席に使用された、それから南へ行くと成淵学校へ曲る向う角即ち経理部の裏に当る角に十字館と云う劇場があった現今理髪店のある所から洋灯屋や古着屋などの位置がそれである、源氏節や新旧の演劇が開演されて当時台北に於ける唯一の大劇場であったのだ、それから北門街一丁目、恰度現今の撫台街堀内商会の所に料理店の月ヶ瀬があった、現今の台湾楼も名前は古いものである、以上の記憶は明治二十九年から三十二年頃に亙る事であるから前後した点も決して少なくない事を御承知願いたい、それから近藤商会の北方に蕃産物などを売る家がある、この一棟の大きい家屋は唯一の鰻屋武蔵屋の旧蹟であるこの武蔵屋なるものは即ち江戸長の前身なのだ、又た撫台街の現今の本島質店附近に大芳なる鋤焼屋があった、恐らくこれが台湾に於ける鋤焼屋の鼻祖と云うべきであろう、この家に何とか云う別嬪の弗箱娘あり大に騒がせたものであるが三十一年の五月と思うが此家から百斯篤が発生して娘の肩入連が青くなって気を揉んだ事がある、又た盛進茶店の辺に禿八百屋浅井元次郎と云う風変の男が八百屋店を出して居たこの男児玉総督に愛せられて大いに名を売ったものだ
この北門通りに現在古い名前の残って居るのは樫村時計店、台湾楼、有田写真館等で昔の儘に名も人も変らぬのは高進商会、堀内商会、竹井商店、近藤商会などで他にもあるだろうが鳥渡思い出せない、併し茲に特筆大書すべきものはこの北門通りは台北に於ける成功者の其の発祥の地である、斯く言う本社の如きもこの町から生れて居る、今日では見る影もない汚ない町ではあるがこの汚ない町から多くの成功者を出した事は大に誇りとすべきものである、其の発祥の地、如何なる人々が現われたか之を書いて見よう

(3) 発祥の地としての北門通り(下)

この北門街は斯く言う本社の生れた最も因縁の深い町である我が台湾日日新報なるものは二十年の昔、台湾新報と台湾日報の二新聞が合同一体となって出来たものである、即ちその半身とも言うべき台湾新報は実にこの北門街に在ったのだ其の位置、それは恰度現今の近藤商会の一部である、鳥松の北隣が其の台湾新報の所在地だ、現今の近藤商会は三戸を併合したもので、新報社の北隣が同社長山下秀実氏の住宅で其の北隣が近藤商会であったのだ、それで山下氏の跡には本社初代社長守屋善兵衛氏が居住して居た、今日では近藤商会が発展して南隣へ店舗を拡張し大きな店になって居る
今日台北屈指の大商店として押しも押されもせぬお歴々がこの町から大分生れて居る、先ず第一に盛進商行である、これが始めて開店されたのは、現今室谷呉服店の所である、明治二十九年十二月に台北で発行された実業名鑑を見ると、同商行では茶を中心として和洋酒、茶器、漆器類、諸缶詰、高等袋物、箪笥類等の営業品目を以て広告が登載されて居る、当時は尚微々たる一商店に過ぎなかったが、トントン拍子に発展して遂に今日の隆盛に至ったのである、次に江里口商店も亦たこの町に興った店である、これは現に西川てんぐ屋の居る家で開業されたのが忽ち大きくなり、府前街へ移転して堂々たる大店舗を張る事になった、又た茶苦来山人三好氏の辻利茶舗もこの北門通りに開かれた店である、現在台北随一の陶器商として知らるる共栄商会の如きも、大塚久兵衛氏に依ってこの町内に開かれた小やかな店であったのだ、古い所で著名なものは略っと以上の如きものだが、尚これ以上にあるかも知れない、又た最近の分では文武街へ移転して益益大きくなった小塚兼吉氏、書院街へ転じた末吉山金堂などである、之等はこの北門通りに発して大きくなった商店である、要するにこの町は斯の如き最も芽出度い歴史を有って居るのだそれから台湾楼の辺と思ったが田中梧一の台北支店があった、其の主任は甲本喜四郎氏であった事や、現今松田以文堂の居る家に田辺商会なる大きな店があって、店主田辺直之氏が有名の癇癪持であった事や、台湾楼の田代民助氏が円山公園へ支店を開設した当時、おみねさんなる美人が評判の的となった事など、悉く追憶の種であろうが、この田辺直之氏は現在の台北測候所を受負って建てた人だ、尚この町内には台北活版社なる最も古い印刷業者があった、其の経営者は高橋利吉氏でこれは故人となったが、何でも大連で石炭事業に大成功したそうだ
富山の代議士として人も知る広瀬鎮之氏も亦この町の住人であった、現今盛進商行茶店の角で郵便切手などを売り、本社の広告取次も依頼してあった、この広瀬氏は頭が禿げてピカピカ光って居たので、ハゲ鎮などと綽名されたものだが、其の隣りには前稿に鳥渡書いてある名物男浅井元次郎なる八百屋の禿げ男が居た、ハゲ鎮にハゲ八百屋はなかなかに振ったものであった、内地人組合なるものは早く出来て居たが、町内団体を作ったのは恐らくはこの町が最初であろうそれは当時北門街二丁目の居住者中高橋由義、三好徳三郎、竹井政治、大塚久兵衛、石本喜兵、藤田力造、高橋利吉、野中勘次郎、田代民助、国野道太郎(これは現八州庵の初代経営者)等の諸氏に依って組織され、交友会なる名称の下に町内組合が出来て、其の事務所が府直街の角の旧弁務署跡の一部に置かれて居た、そもそもこれが町内組合の始まりで、続いて追々各町内団体が出来た事は特筆すべく、以てこの町内が如何に活躍して居たかが推測される訳だ
北門街物語として伝うべきものよりは血醒い事件ではあるが当時立派な洋服屋を営んで居た野中勘次郎氏が、古亭庄の川端に別荘を持って居た、それで折々この別荘に出かけて、所有の小船を艤し網打をするのだ、処が某日恰度川端に警察連中の懇親会か何かが催された、其際野中氏は其の別荘から船を出して例の網打をやる所へ、大分聞召して上機嫌の警察官がやって来て其の船を貸せと要求したのを、野中氏が断わったとかで忽ち間違いが生じ、大勢の警官は野中氏を袋叩きにして、古亭庄の派出所へ引立て、随分官憲濫用の大乱痴気が出演された、それが為めに野中氏は全身に負傷して大問題が持上ったが、結局警察方面の一部の人が免職或は転勤其他の処分で落着したので、当時この事件に関連した警察官はまだ警察に現在の筈である、何しろこの時分は未だ土匪騒ぎが治まらず殺伐な時代で、警察にもなかなか血気の先生が多かったので、時の警務課長は大山綱岳氏であったから、これは大分後の事件である
艶っぽい方では前にも書いて置いた大米の娘や台湾楼のおみねさん、それからこの町に開店して居た田辺ペンキ屋の娘で、小円と云う芸者対三十四銀行の支店長遠田某との関係などが古い艶話の材料である、最新の所では極彩色の靴屋のお娘が問題であったが、これは内地へ帰ったので自然消滅、ヤマハ商行で古馴染の山岡好文氏がこの町へ来て再咲なども先ず新らしいものである近来町の一部に骨董屋が増えた事は鳥渡眼に附くが、要するにこの町には大商店として指を屈するものが少ない代りに、小なりと雖も存外堅実な店計りである事を書添えて置く、この町の改築、それは軈て来るべき問題ではあるが、陸軍部の移転が先決問題である、書き落したが支那料理の酔郷楼なども、この町内から大くなって出た家だ(此項終)

(4) 城壁外の草原が今日の北門口街

光緒五年と言えば我が明治十二年、其の年に起工された台北城は光緒八年に竣功したのである、旧図に依って見ると其の城壁の長さは北面が四百八十間、南面が五百間、東面が五百八十余間、西面も同じく五百八十余間、略っと正四角に近いものである、其の城壁跡が今日の三線道路である事は先刻御存じであるが、この北面城壁の外の草原が今日の北門口街とは実に変れば変るものである
現在の北門の外には北門外街へ通ずる道路があった、そして一方北門から左斜に台北停車場(現在の大稲●駅)へ通ずる道路もあった、そして随分賑やかであったが、北門外には城壁に沿って小さい溝渠が流れて居て、現に台北駅構内の位置及びその東北一面は、見渡す限り田圃で所々に竹薮が見え、城壁の近くは草茫々たる荒れ地で水牛などが放飼されて居た、それがこの北門口街の前身である、比志島枝隊澎湖島を占領する、続いて畏多くも北白川宮殿下の率い給える近衛の精鋭が基隆背面の澳底に上陸して攻め上る、この宮様の軍が台北城に押し寄せた際、敗残の兵が各城門を固く鎖して一歩たりとも踏み入れさせまいと、最後の抵抗を試みるのであった、当時某なる本島人の婆さんが健気にも何処からか梯子を持って来て、これを城壁に立て掛けて呉れたので、それに依って早速台北城の一番乗りが現われ、遂々苦も無く開城となったのであるが、其の功に依って件の老婆は元より、之に繋がる縁者なども樺山総督から賞を受けたるのみならず、此者共は特別待遇の下に保護されたとの事で、何でもこの梯子一挺のお蔭で今日立派な本島人紳士が出来たとの噂が残って居る、嘘か真か、兎に角も伝わって居る咄として記して置く
この北門口街の建設されたのは、言う迄も無く台北停車場の移転後である、現台北停車場が大稲●から移転されたのは、確か明治三十四年頃と記憶される、其の当時尚だ城壁が現存して居た、それで府前街の突当りの城壁が一部分切り崩されて道路となり、府前街通りも後に城壁を打ち抜いて道路が出来たが北門の外面城壁に沿うて新台北停車場へ行くべき道路もあった、この当時未だ城壁が存った程だから、停車場の他には家屋とても無く、間も無く建築されたのは鉄道関係の運送店であった、それは大坪与一君の商船組事務所と、岡今吉君の岡田組との二つであったそうだ、これは勿論城壁外へ建てられたのだ、それがそもそもこの辺へ建てられた家屋の始まりである、この時分、府後街辺に方る城壁に凸出した一の砦があって、其の上に於て午砲が発射されて居た、後間もなく城壁が取払われて弗々家屋が建ち始まった、それが今日の北門口街の表通りであるが、現在の軒並は城壁外の溝の上に当るのだ、一番古い商船組や岡田組の建物は、今日では通りの裏手になって居る、翻って現在の北門口街を見ると恐ろしく変ったものだ、三線道路の南側は新北門街とか、府後街府前街に属して居るが便宜上之れをも北門口街の通りへ引張り込んで言えば、先ず台北停車場前の堂々たる偉観を見るべしだ、三井物産の支店とビヤホール跡の藤田鉱業、此の両建物の向う側には鉄道ホテルと煉瓦会社がある、藤田出張所の角から西へは約一丁の間は運送店計りで、この区域が台北に於ける百貨の集散地であるそれから東へ進んで行くと建物会社に次いで有明商会などがある、菊屋花家などの粋な家もある、梅屋敷も亦た北門口街の町内である、昔は草茫々たる荒地ではあるが、今日は恐ろしく金看板の光る街である、其の金看板の数、これを数えて見ると主なるものは鈴木商店の大小十箇が横綱で、三井物産支店が七箇、赤司商店が三箇、郵船出張が三箇、有明商会が二箇、略っとこんなもので他に黒い看板は数知れず、代理店だ何だ漢だと蒼蠅いほど並んで居るのが沢山ある、金看板一箇の家はまだまだあった様だ、この町で一番大きなのは府直街から焼け太って来た日の丸館で多々益々発展して新らしく煉瓦建の工事中だ、鉱業会事務所や赤司商店は向う側で振って居るが、同じ並びの金子圭介氏などは古い顔である、庁長官舎に次で庁官舎、此処辺は鳥渡淋しいが消防詰所は此の通りの最新建築として光って居る
この町の出来事としては材木屋の火災と、工事中の倉庫が壊われて死人が出来たなどの不祥の出来事と、長谷川さんの銅像移転、おっと銅像で思い出したのはこの通りを見渡し居られた大島前々長官の寿像である、之を仰ぎ得るも其人は既に逝かれたのである、銅像を有するこの町の人々は殊に世の果敢なきを覚えるのであろう、艶っぽい咄しとしては三軒の料理店に依て限り無く製造されて居るが、不粋な記者の耳へは聞えず、唯だ此町に評判のカチューシャ娘があった事を記して擱筆するが、この北門口街の建設は確か明治四十年か四十一年頃の事であると記憶する

(5) 御玄関先きの府後街

台北停車場に下車て正面の大道路を見ると実に堂々たる景観である、広い道路の両側は立派な洋風建築で、其の三層楼の見事な軒がズラリと並んで居る、そして正面突当りには博物館の大建築が巍然として聳え立ち、道往く人や自動車は豆の如くに見える、此の街を見ると宛然で欧羅巴の如うだとは洋行戻りの人々も然う言ったのだ、唯だ悲しい哉堂々たるこの通りに電車の影が見えぬ丈けが物足らず、若し絵葉書としても、それが何よりの欠点であるこの街の添景として電車の無い事は寧ろ不思議に属すべきもので確かに物足らぬのだが台北市街の玄関先としては確かに堂々たるものである、先ず端から言えば鉄道ホテルと煉瓦会社と旅館の吾妻が、両側の門柱とも云うべき位置にある、何処の市街でも停車場の前には必ず宿屋がある、それも多くは道者宿であるが当地計りは和洋の代表的高等旅館である、台湾唯一のホテルとして一方がハイかれば、吾妻は又た浴衣で打ち寛いだ点を以て、日本人はこれでなくってはと女中が鼻ひけらかす、同じ宿屋でも新旧両横綱の対照がそもそもこの町の取つきである、芳醸社対宅支店、これは酒屋としての対照だが其の中へ世界長ウイスキーの行成商店が割込んで居る、すると台南新報の支局と台湾新聞の支局とが之も亦対照的にこの街に新聞を掲示して居る久原の出張所や三菱出張所や、大倉組出張所も即ち事業家の対照である、弁護士の対照では無いが安田氏と増田氏の二氏がある、葬儀屋の博善社などは対照されないで結構だが、共保生命と横浜生命と看板も対照的である、華民会館と南国公司などが浜口商行跡に納まると浅野セメントが鎮西組跡に看板を光からすなど、この街は総てが対照的に出来て居る、吉岡商店が内地米であれば竹田商店は朝鮮米だ、石坂新太郎氏が動であれば徳丸貞二氏は静である、この他に万屋と台北館との二旅館もある、写真屋もある、消防の頭取太田の親方事船越倉吉氏もこの街の人であれば、前代議士金子圭介氏もこの街の古顔である、徒手空拳、以て今日の百万長者を贏得たる煙草成金の松本真輔氏も、大きな家を貸して横町の小さな方へ経済的に凹んで居られる
斯う見渡した所府後街通りは実に立派である、併しこの立派な府後街は決して昔から立派なのでは無く、それはつい最近に俄かに光ったのである、試みに領台当時の旧い市街図を披げて見ると、現今の芳醸社の向う角鳥小の角を引廻して南は石坂商店辺りまで家屋があるのみ又た東側は台北館の点から絹川写真館の辺まで家が建って居たのみである、其後追々家屋が建並んだから賑やかになったが、それも決して繁華の町では無く謂わば裏通りであったのだ、現今府後街の裏通りとなって居る台北庁宿舎の位置に当る一帯は陸軍の兵営であったのだ、当時の府後街は縦から見ても横から見ても街外れの淋しい光景であったのが漸次賑やかになって来た、時代は確と覚えぬが明治三十年頃だったか、この通りに『麦とろ屋』が出来た、それがなかなかの人気で大に繁昌したものだ、又た梅屋敷の前身たる吾妻が恰度現今の万屋旅館の位置にあったのだ、当時故沢井市蔵翁や故川瀬周次氏や木下大東氏などが殆んど其の顧問的によく引立てられたものだ、そしてこの吾妻は近隣に高砂検番なるものを置いて、対抗的の独立検番を開いた事がある、但し馬鹿な咄しだが、この吾妻の陰気な穢ない座敷に落ちた不生産的の金の額を今日調べ上げたなら随分驚くべきものであろうと思う、この街の旧い事、それは余りよく覚えられて居ないが、著名なる出来事としては不祥事が少なくない、其の一番大きなのは明治四十四年八月三十一日から九月一日へかけた大暴風雨に際して片側は半分計り倒壊した惨憺たる大災害があった、それは当時本社長たりし今井周三郎氏の居宅の隣りから、北へ将棋倒しにズラリと滅茶々々に潰れたのだ、茲に其の倒潰家屋を挙ると
桶屋谷口元吉、東肥館、外山市和、吉岡雑貨店、林芳蒼雑貨店、炭□林□南、菓子屋朝日軒、茶商末永栄治、床屋中村利兵衛、藤原保太郎、作野雑貨店、秀島雑貨店、飲食店小松屋、山田光太郎、市原表具店、石井電気商会、井上治三郎、浜口商行、山田ちか、梶田□吉
以上悉く吾妻の軒並びで高砂検番も潰れたのだ、この際の騒ぎったらそれは大変なものであった、次で出来事として覚えて居るのは、台湾神社の御祭礼に神輿が暴れたのと、正月の出初式に吾妻の前で梯子乗の消防夫が落て死んだ、それから最う一つ艶っぽい所は井上某なるこの町の住人が鉄道部の宿舎か何処かで、当時鳥渡人気者であった芸者のお茶羅と言う女を刃物で殺した事件だ、これは覚悟の情死で先ず男は女の咽喉笛を斬って殺した上、自分も死なんとしたが心後れて遂に死を止まり生恥を曝らしたのだが、自殺幇助とか何かで男は暫く入監したのだ、次は最もお芽出度い所で徳丸貞二氏の身の上だこれは其名の徳丸と云い七福神の誰やらに似たニコニコの福相と言い何処から見ても福運のあるべき人相であるが、果せる哉第二次彩票で大当り、それを永い間秘して居たのがつい先頃に至ってパッと知れ渡ったそうだ
最近では露西亜バーなるものに於て眼色毛色の異った舶来美人が大に発展した事がある、これは間も無く追っ払われたか退却したか永持はせず此の街から消えたが、石坂新太郎氏がこの街から出て、又た此の街へ戻ったのは、故郷忘じ難しとでも言う寸法だろう、現在の噂は鉄道ホテルの不評判である、随分手酷しく彼此れ云う者もあるが、全く火の気の無い所に煙は無いらしい、曾って懇話会の出席者が盗難に会った事もある、若いハイカラ男の風紀問題も喧かましいものだ、殊に近頃宴会の料理も随分と問題になって居る、おっと筆が辷ったからこの辺で止めて置く


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