新聞記事文庫 貨幣及兌換銀行券(3-072)
大阪毎日新聞 1916.2.27-1916.3.4(大正5)


古銭の談 (1〜5)


(1) 先ず掘出しの珍談から 天下一品ぞろい 珍古銭の由来

[図表あり 省略]

本紙に古銭流行の記事を掲げて以来当地及び各地から之に関する問合やら鑑定を求めてくるもの夥しく市内の古銭商はもとより甲賀、原田、水野諸氏などの数奇者連は此等の紹介で恐ろしく多忙な目に逢っているコノ古銭熱復活の機を利用して更に二三の古銭談を試みよう
先ず真先に古銭掘出しについての珍談から始める、日本古銭のなかで目下天下の至宝と目されているのは
 御物の「開基勝宝」と当地の数寄者亀岡氏の秘蔵「太平元宝」
の二品で中にも「太平元宝」は時価五千円という素敵な呼声を上げている、この二品は明治の初年奈良の西大寺で発見されたもので「開基勝宝」は同寺住職から宮内省へ献上し御内帑金一千円の御下賜があったほどである、その時の「太平元宝」は何うした都合かその後持主不明になっていたのが京都の中島嘉兵衛という人が当地の刀剣商成田兵衛方で刀の目抜きに使用されていることを発見して亀岡氏に話をしたので氏は直成田方へ懸合い
 三百円を抛って終に右の一品を買い取った
所が某数奇者にもそれと同様の一品が秘蔵されていると聞いたので亀岡氏は自分のものの真偽を見定めるつもりで早速東京へ出掛けて行って当時古銭通で聞えた故成島柳北にこれが鑑定を求めると流石の柳北も驚いてこれが本当のものだとの鑑定から「天下唯一品」という箱書を与え東京のは偽物と分ったから亀岡などはこの記念の箱書と共に今尚大切に所蔵している次に日本最初の古銭と目されている
 顕宗天皇二年の鋳造にかかる「無文の銀銭」
というのである、目下当地原田氏の所蔵になっているがこれも現存三品しかなく明治六年奈良県生駒郡都跡村字横領の土中から掘出され土地の百姓が所持していたのを原田氏が一品百円で買いとったものだという次に又支那最古の通貨と伝えられている中に「建中通宝」というのがあるがこれは世界唯一品というので明治の初年百五円で東京の或る方面へ買い取られその後は数奇者連の羨望の的になっていたものだが
 此程西本願寺二楽荘の整理中右と同様の物五品発見
された、これは光端前法主が支那漫遊中庫車と吐魯蕃地方で発掘したものでその中二品は原田氏と本社々長本山氏の所蔵になったがこれで天下の宝が五つ増えたといって数奇者の喜びは非常なものである、古銭に関しての照会は爾今大阪市南区八幡筋畳屋町東入下間寅之助氏方へ問合すべし、本社は一々返信の責に任ぜず

(2) 寛永通貨は千数百種もある 其他天保銭型に永楽銭

[図表あり 省略]
 
今度は古銭のなかで一番種類の多い寛永通貨の一厘銭、天保通宝の当百及び永楽銭の三種について説明する
寛永一厘銭には鋳型や文字の違ったものが多く種類からいうとザッと千数百種天保銭も大型小型その他を合せると無慮数百種もある、これに次で多いのは永楽銭でこれにも種々の違った鋳型があって約百種という多数である
 寛永銭は寛永三年に常陸水戸で
鋳出されたのが最初でこれは十種余あるが俗に二水寛永と唱え中にも元和銭の字風に倣った元和手は一品三十五円太平手は二十五円見当の値段である、その後十三年から寛文年間までに鋳出された通貨約三十種、古寛永と唱えられて一品二十円位なのもあり中には島屋文銭といって一時珍値を吹いたものもあるがこれはその後各所で発見され現存品が多くなったので昨今は一品二三円から五円相場に下落している、その上寛永銭は余りに種類が多い為に
 今日ではまだ全部の鑑定が届かず
鋳造地や年代の判明せるは僅に二百種位しかないとのことだ、天保銭型の通貨では「万年通宝」の当百、「土佐通宝」の当百と当二百、「土佐官券」の五匁と十匁、「筑前通宝」「盛岡銅山」の百文通用などがまず珍しい方で中にも「万年通宝」は現存二三品で一品五十円見当「土佐官券」は五匁十匁とも現存四五品、これも一品三十円から五十円、「土佐通宝」もまた目下当地では二品しかなく一品三五十円相場だという、永楽銭は支那永楽年間の通貨に倣い
 奉公が各国の銭座職に命じて鋳造させた
もので種類は多いが金銭で裏面に桐の紋を鋳出したのが同通貨中の珍品で現存十品しかなく一品五六十円相場に上っている、また同鋳型で銀銭のもあるがこれも当地に三品ある切で一品五十円以上に扱われている

[図表あり 省略]

(3) 素人の誤まり易い古銭が多い

[図表あり 省略]

 チョットのことで価が雲泥の相違種類の多い古銭のなかでは同時代でシカも同鋳型に出来ていて文字が一字違っているために価格に非常な差のあるのが少くない今度はこの素人眼で誤られやすい類似古銭について説明する
中でも素人眼で一番誤られ易いのは「至元通宝」と「至道元宝」だ、過般来本社へ向けて種々の問合せが来る中にこの
 両者を見誤っての質問が大部分を占めている
「至元通宝」には通貨が二種、通貨でないのが二種都合四種あってその中元の世宗時代のと同じ順帝の至元年間に鋳出されたのとが珍しいので世宗のは現存二十品で一品五十円、順帝のは現存十品で三十円見当に扱われる、これと誤られやすい「至道元宝」というのは宗の太宗の至道元年に鋳出され文字に真草行の三体あって鋳型、大きさなどに種々の相違があり、大抵の家では五品や六品を所蔵している位で珍しくも何ともない、次に
 天下一品と目されている「太平元宝」と
支那通貨の「太平通宝」とがよく誤られる、「太平通宝」は宋の太宗の太平興国年間に鋳造されたものだがこれも現存品が非常に多く数奇者からは全く見離されている「建炎元宝」も亦「建炎通宝」に誤られ易い「建炎元宝」には真隷の二種あって現存各一品しかなく一品百円という珍値を吹いているがこれと同時代の通貨「建炎通宝」となるとこれも現存品が余りに沢山なので
 時価一品五十銭という情ない下落を見せている
また宋の通貨「宣和元宝」と同時代の「宣和通宝」とがよく誤られる、「宣和元宝」は現存四五十品しかなく先年大和郡山で掘出されたのが当地の原田氏へ一品二十円で買いとられた位で数奇者間には珍しいものだが「宣和通宝」となると二三品位は何処でも所蔵されている、南漢の高祖時代に出来た通貨の中に「乾亨重宝」と「乾亨通宝」の二種品があるこれは双方とも現存品が少いので一品二十円から四五十円相場に上っているがこの外に見誤られやすい「乾元重宝」というのがある、唐の粛宗時代に鋳出された通貨だが前品とは文字
 一つ違っているだけで時価一品一厘
とは同じ古銭でもこの位相違があればあるものかと素人の我々には呆れる外はない

(4) 支那銭と韓銭

[図表あり 省略]

 掘出しが多いので下落した日本古銭は昨今の流行熱に段々高価に競上げられてゆくが支那銭や韓銭は近来のべつに掘出されるので折角の珍品も余りに喜ばれぬようになった、少しく此支那銭と韓銭について説明する
支那は古い国だけに歴朝の通宝を算えると無慮数万種に上る、その中での最古銭は周以前に出来たという●幣と空首布の二種で
 一時数百円を唱えられたほどの珍品だったが
現存品が多くなったので今では一品二三十円見当に下落をしている、この空首布についで古いのは周時代の古布銭と古刀銭で周の景王二十一年に鋳造された「宝六化」というのが布銭中最初のものと伝えられているが中にも「斉川金化」は最も珍品で現存一品しかなく時価二百円と評価されている、古刀銭には各種ある中に珍しいのは「斉建邦之法貨」と記した六字刀で現存二三品で一品二百円見当だという、そして此刀銭は初唐に入って初めて円銭に変り
 唐の「開元通宝」が即ち円銭の初鋳と伝えられ
昨今我国で喜ばれている「和同開珍」などもその頃唐の銭工が渡来して鋳出したもので年代から云えば随分珍しいものだがこれも現存品が多いので唐銭と云えば全くの台なしになっている、支那歴朝の通貨中で一番高価に扱われているのは「建中通宝」位でこれは日本に現存六品しかなく一品百円見当だという、元から明神に入って以来は通貨約数百種に上り中には唐宋時代の模造古銭など随分跳ね出したものだがいずれも現存品が多いために余りに珍しいのは無くなって了った、次に韓銭となるとこれはまた一層の下落で一時は可なりに喜ばれた明孝王時代の「三韓通宝」も昨今慶州や開城附近で
 盛んに掘出されるので今では見向きもされぬ位だ
この外に年代の古い「朝鮮通宝」というのがある、これは八分書といって尻跳ねのした妙な字風の古銭で一時は一品二十五円という珍値を吹いたものだが同じく現存品が多いので昨今は十円見当に下がっている、当地で支那古銭の所蔵家は黒川幸七氏についで造幣局の甲賀博士中にも黒川氏は支那古銭中の珍品と目されている王莽の十布銭を始め歴朝の通貨を年代別に取纏めて所蔵しているという

(5) 贋造品と模造品=大阪に腕達者な三人

書画骨董に偽物がある如く古銭も昔から盛んに贋造された、この稿を最後に少しく古銭贋造について説明する
支那では唐宋から元明時代にかけて種々の通貨が鋳出されたが中にも珍品と目されるほどのものは清に入ってから盛んに贋造された、我国では銭貨鋳造の最も盛であった寛永頃から
 ボチボチ漢銭や唐銭の贋造が始められて以来は
各所に腕の立った贋造師が出来て唐銭中でも珍品という珍品には大抵贋造が附纏うている、又慶応から明治に入っては日本古銭の模造が行われた中に前記贋造の意志とは異うが御物「開基勝宝」も亦その頃帝室技芸員であった狩野夏雄氏の手で五品模造された、これは銀に金鍍金をし実物とは寸毫違わぬという出来栄に今でも一品五十円と評価されている、その後「太平元宝」にも銀銭と錫銭との二種の模造が出来たが余り広く世間に流布されたので珍しくも何ともない、こういう機会に今度は
 大びら切った古銭贋造師が明治十四五年頃から
各地に現れた、中にも当地は古銭の本場といわれるだけに随分腕の冴えた贋造師が多く東区淀屋橋南詰に古楽堂、御寮裏に毛間屋、南区鰻谷佐野屋橋には林定吉という腕達者の贋造師が一時に三人も飛出し古楽堂では古鏡を潰し銅色かかった寛永銭を鋳出し毛間屋では古色づけ、林では銀笹葉の「和同開珍」をという風に盛に鋳出したものだ、これより先
 名古屋にも久八という夫婦連の贋造師が
あった、これは古銭贋造に妙を得ている外に近代銭にも手を出し各国へ売廻って大儲けをやったという、元来古銭の贋造には漆盛り、削り直し、正型抜きの三種があるなかに巧者な正型抜きになると一かどの鑑定師でもその真贋を見分けるは困難だ(完)


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