新聞記事文庫 市場(7-113)
神戸又新日報 1933.8.9-1933.8.13(昭和8)


世界の市場へ三年目にデヴュウ

国産タイヤ「ブリヂストン」

超人為的工業界の驚異


(1)

「非常時日本」の非常時を解消して「工業日本」建設の礎石に、努力の槌を打込まうとする、真に大いなる人間の力強い「力」をはじめて見た、久留米市に本社及び工場を持つ、旭地下足袋の日本足袋株式会社が、時流に投じてその部分的に完成せるゴム工業を更に拡充し、断然自動車のタイヤ製造に従い、創業三年で急角度に進展しその声価と販路を海の内外に拡大しつつあることである、しかも非常時に処する「自力更生」の大理想を具現し純国産としてはじめて市場にデヴュウした製品「ブリッジ・ストン・タイヤ」が、すでに業界に霸を唱うるダンロップ或はグットリッチの塁を摩し縦横に驥足を伸ばして彼等を有力に牽制し遂にブリッジ・ストン時代を自動車業界に出現しようとしている
抑も世界の産業界はすでに鉄綿のの時代を更に飛躍してゴムの時代となった過去数ヶ年間における世界ゴムの消費量は平均七十五万トンで、最大の消費国である米国はその約六割四十三万トンを占めている、しかもその大部分は自動車のタイヤ製造に使用されている、米国における毎年のタイヤ製造数は五千五百万本で、この
金額が十五億円内外を算し、この内輸出が二億円内外に及んでいる、そこで日本のゴム界を見ると、生ゴム輸入が約二千五百万円で、タイヤの輸入五百五十万円であるが、更に日本で生産消費されるタイヤは二千万円である、しかもこの全部が純然たる外国資本にある工場の支配にあることはなんといっても遺憾に堪えないことだ、第一に日本における交通はいよいよ飛行機、自動車の時代となり、自動車の増加率は毎年実に二割以上を示し、この分で十年後には四十万台が予測され、タイヤ消費も一億円以上になることは明白に推断される、あたかも未会有のゴマ相場
低落の今日における一億円、これを過去の平均ゴム相場で計算すれば三億五千万円という巨大な金額となるわけである、これによって見ても自動車及びタイヤの国産計画の確立は、国家経済上の見地より、更にまた一朝国家有事の際から見ても焦盾の急務で、日本に純国産のタイヤーが生れねばならぬ機運は充分に向いて来ている、しかしタイヤの製造については従来幾多の会社が、幾百万円の研究費を投じ、種々研究に従事したが皆失敗に帰しこれも忘れ得ざる
苦杯をなめている、実にタイヤ製造は生産工業のうちでも難中の難事業とされている、日本足袋株式会社がその特製品として完成の域に達している旭地下足袋其他のゴム製品の経験だけを基礎として茲に敢然としてタイヤー製造に手を染めたのは社長石橋止二郎氏本来の工業報国の国家歓念に出発し、その事業着手の前後及び過程においては全くお話にならぬ程暴挙に等しいものがあったが、犠牲的の努力と献身的の研鑚とはわずかに創業三年でその
製品を世界市場に送り出すという実に驚異的の大きな事実を示したのである、そこで当の石属社長の苗字の(ストンブリッジ)をそのまま利用して英名で付けた「ブリジ・ストン」タイヤ創製の苦心談を石橋社長から親しく聞く(つづく)
純国産品として、ブリヂストンタイヤを三年前に創製し、その声価を世界市場に問うた石橋社長のどっちかというと乱暴にも等しい豪胆さが、この驚異的の成功ををおさめさせたのである、ブリヂストンタイヤが、自動車のタイヤとして殆ど革命的に優秀であったことももちろん会社の組織的な努力のたまものではあるが、創業の当時何一つ研究もせず、外国の技術なり機械なりを唯の一つさえ輸入することなしにここまで漕ぎつけたことには多大の優然と僥幸が手伝っている、石橋社長は苦心談を物語る
今や我国は生ゴムの消費量において米国につぐ世界第二位の大ゴム工業国となった、そのうち、私のブリヂストン会社で消費するゴムは一割五分を占め、今日従業員八千人を有して、年産額三千万円、全く東洋第一のゴム会社であることは私のひそかに誇りとしているところである、元来自動車タイヤの製造技術というものは、最高科学に属する難事業で、日本の業界で嘗て
多数の事業計画者があったが、いずれも失敗している、併し近代のスピード化は自動車万能時代となり、自動車の用途は益々拡まって行って、タイヤの需要は殖えて行くばかりだが、何しろ日本でタイヤの製造が成功しない為めにその全部を外国の輸入に仰がねばならない実状であった、為替の相場が下ると同時に、いよいよ日本は不利益を増すばかりだ、この非常時に、かくの如き事実をこれ以上辛抱して傍観していることは忍びない、殊にゴム工業会社として
代表的に自ら任ずる私の会社は幸いゴムに対する智識とその他原料関係等でかなり有利な条件を備えているので、ここに断然タイヤ製造に手をつけることに決意した、私はこの決意を先ず会社の相談役でありゴムについての権威である九州大学の教授の君島工学博士に相談したところ、君島博士は「百万円を損するつもりならばやって見てもよかろう」とのことで、私は全く百万円を棒に振るか、うまく行って国産タイヤの声価をあげるかと、昭和五年にいよいよタイヤ製造に着手することとなった、原料は何んといっても南洋よりの
輸入に待たねばならない、が其他の機械一切をぜひ国産によらなければ私のいわゆる工業報国であり自力更生の根本趣旨に反するので、ただ僅にセーラーの機械の一部分を米国のアグロンモールド会社から供給を受けたのみであとは全部私の会社の研究室で設計をなし東京の沖其他の会社で拵えさせた、それで間に合わせてまずタイヤの製品を出したわけである、思えば乱暴な話ではあったが幸いに私の計画は時流に投じた、実用者やタイヤ販売業者等の実際の
智識を唯一の資料として、研究改良して、一昨年米国ミシガン州にあるフォード会社のデイカボン研究所世界的権威―のテストにブリヂストンタイヤーを送って性能試験を行ったところ、ダンロップ、グットイイヤ、ファイヤーストン、フィスク、ゲッドリッチ、ミチリンユーエフス、ミラー、ケリー等のすでに世界市場に古くから馳駆して声価をあげている九種のタイヤを一蹴して断然当時生れて二年にもならぬ我がブリヂストンタイヤが最優秀の折紙をつけくれた、私はこの
電報を受取った時は全く嬉しく胸一杯になり、タイヤ製造に従事する全社会は思わず万歳を叫んだものである
自動車が地上にスピード時代を現出して三十年、タイヤ工業もまたそれだけの歴史を有して、現に日本の持つ自動車の台数は十万台といわれているが、純国産のタイヤ・ブリヂストンが生産されるまでは、その全部が外国製品若しくは外国資本によって占められていた、一九三〇年ブリヂストンタイヤが出現するや自動車運用者が一斉に需要を国産ブリヂストンに向けてこの新国産タイヤは一躍業界の寵児となった、ブリヂストン躍通の一大事実は久留米市における親会社の日本足袋株式会社内におけるタイヤ工場の拡張につぐ拡張による継ぎ足しだらけで広くなった工場の実況を一目すればすぐそれとうなづける、何しろブリヂストンタイヤの販路がぐいぐいと輸入タイヤを圧して伸びて行くためにタイヤ界の霸王として許され、日本の市場を壟断していた形のダンロップ、グッドリッチ両会社は遂に新米のブリヂストンに牽制を加える必要を生じて来た、ことしの二月になって遂にダ、グの両会社はブリヂストンを合して三社の販売協定を行い、ブリヂストンの身辺に延びて行くその芽を●みとろうと企てた、以下は営業部長中道安吉氏の話である
弊社の新タイヤが、何故にかく長足に延びて、はじめの杞憂を吹き飛ばし一躍タイヤ界の王座についたかというと、第一は日本足袋会社の一貫した工業報国の国家的観念に出発し時代に投じた国家的事業であったことに原因することはいうまでもないが、まず弊社の工業的地位が天与の好条件を備えていることをわすれることが出来ない、即ち本社は工場を久留米市に持っている為めに、神戸や
横浜に比し(神戸にはダンロッブ工場横浜には横浜ゴム会社あり)労賃が極めて低廉であり、労資間の交渉が至極親密で全く一個の大家族主義に則っている、それが為めに二十年来八千人の職工を有しながら一度も争議など起した例なく、円満に工場作業を継続している、次は九州一帯に電力が安有に得られることであり、また日本最大の工業地である北九州に散在し例の八幡製鉄所を始め各種の製造工場が多く工場の機械購入などに自然容易で非常に利便を得ている、更に九州本線にあり門司港に近く支那、南洋、印度への通運が非常に便利で
運賃がまたかなり割安である、最後に会社は石橋社長の巨大な財力を中心にした株式組織で、資力が豊富であり、何時でも必要に応じて増資し得る特殊の実力を持っていることである、現にいよいよ近く本格的のタイヤ工場を計画し目下工事中で来年三月には、一万五千坪の六階建東洋第一の大工場が完成する、この準備として従来日本足袋会社五百万円、ブリヂストン会社百万円の資本を最近七百万円と三百万円計一千万円に増資し現在殆ど過渡的の継足し工場から理想的の大工場に移って日本全市及び東洋市場に大進出する
積極的政策実行に着手したわけであるそれに旭地下足袋や、ゴム靴其他各種のゴム製品で原料地南洋との関係は深く今日既に二年分の割安な原料を仕入れてあり、恐らく如何なる外国の資本力が現れて来ても国産ブリヂストンがこれに対応して決して商戦に敗れないだけの信念を今日では全社員が確実に把持している次第である、ブリヂストンの進出に影響を受けた外国資本の某大会社は、結局日本の国産タイヤという点に異常ないけ目を感じて三社協定に際して「ブリヂ・ストンタイヤ」の宣伝には国産の
文字を使用することを少し遠慮されたいと不合理な申出でをしたことさえある程である
一躍して自動車業界の寵児となったブリヂストンタイヤ製造の本格的な製造工場はいよいよ久留米市の本社構内に約一万五千余坪、建坪約千五百坪、鉄筋コンクリート六階の近代建築として目下工事中で完成の上は東京の丸ビルを凌ぎ、東洋第一であるばかりでなく、その科学的設備において世界的に誇示し得るものである、かの日本産のゴム製品が、世界市場を刺戟して、列国の経済界の大問題として扱われている際にゴム工業の王座を行くタイヤ製造に成功し、新工場完成の上は北九州久留米市の一角から全世界への投光塔たる勇姿を輝かし「工業日本」の威容を如何に巨大に輝かすことであろう、なお茲にブリヂストン会社が、タイヤ界に直進し、早くも「低圧」タイヤの研究に成功し、業界に一大驚異を与えたことを忘れることが出来ない
「低圧」タイヤは新ブリヂストンの名で市場に提供した、その構成は普通バルーンタイヤにくらべセクション拡大し、リム幅が倍加して、エヤー圧力僅に三分の一、その容針は三倍、流線型の合理的タイヤである、その特徴としてはハンドル操作が手軽で、ガソリン
消費量は普通タイヤにくらべ多くならず、如何なる悪道路においても、スピードを落すことなしに運転して、かつ凸凹の道をば左右に曲折せずに直線で進むことが出来る、しかしてロープレッシャーより得たクッションの爽やかさにおいて運転手も乗用者も殆ど疲労倦怠を受くる憂なく、最も快適な操縦を可能ならしめることは、およそ新ブリヂストンタイヤの試用者が誰でも明白に認識して、この新式の新ブリヂストンが絶讚のうちに迎えられている所以である、低圧新ブリヂストン
発表と同時に、会社では秩父宮家へ献納したところ殿下には御嘉納あらせられて、非常に面目を施したわけであるが、光栄に感激しながら石橋社長は再び語る―弊社が一九三〇年タイヤ製造事業開始以来常に新規考案になる特別進歩的のものを発売すべく慎重な注意を払いつつあったが、就中「低圧」タイヤの研究に最も真摯な態度と努力を払って来た、一九三二年の春鈴田技師を米国に特派するに当っても特にこの
低圧に関する研究を命じ多大の期待をかけていたが米国のゼネラルタイヤ会社の製造したかのジャンボウタイヤが、既に弊社の理想とし研鑚しつつあったものと殆ど、その軌を一つにするもので益々興味を覚した特に在米中之が研究を重ねさせ、一年来最も苦心研究を重ね来った「理想とする低圧タイヤ」を絶対の自信を以て製造し得ることとなったのである

[写真(東洋一の新設タイヤ工場―来年三月完成―)あり 省略]

全日本の自動車台数は、今日十万五千台程度で年々二割の増加を見つつある現状だがブリヂストン会社の目的は、これがタイヤの純国産化を実現するに止まらず、年来の大方針である海外輸出、即ち遠く印度の十六万台、濠洲の擁する五十四万台、アルゼンチンの三十万台の大重要市場に乗出さんとするものであって、それが為めに商品名を世界的通用語として石橋社長の名からブリヂストンと英名でつけた、たまたまダンロッブタイヤの本国英国の一市場の代表者はブリヂストンは即ち橋梁の基礎石の呼称で、最も堅固を誇る大磐石の代名詞であることに一個の脅威を持ち、日本のブリヂストン恐るべしと唱えた好個のエピソードがある
会社は普通のバルーンタイヤ・ブリヂストンの外に更に高級トラックタイヤを製作して市場に出している、この高級トラックタイヤも、現実に日本の道路に向く様に研究され、クッション良好、トレッドとカーカスのゴム質を改革して釘十いがなくブリーカーとクッションゴムの改善で把捉刀豊富で制動確実、トラック使用者から大好評で迎えられている、以上長きにわたって、ブリヂストンが、一躍世界市場に雄飛し、経済陣頭にあって日本製品の名声をほしいままにしているのは何んとしても愉快なことであるが、最後にブリヂストン会社の親会社である旭地下足袋の日本足袋会社の事業が、今日一大完成の域に達し、ゴム工業としては全く日本の代表的な巨大な事業であることに敬意が払われる、現在地下足袋製造に従事している女工が八千人、彼等の織手から日に十五万足の地下足袋か生み出される、この驚くべき数量の地下足袋が、洪水の如く製造されてさてどこに需要されて行くかという疑問がわくが、実は旭地下足袋は、現実に日本固有の草鞋を完全に農村より駆逐した、あの全日本人の足に
馴染んだ木棉の足袋に科学的の工夫を凝らして穿き心地よくし底にゴムを用いた旭地下足袋は、およそ地上労働者に無くてならぬ最適の必需品で、草鞋にくらべてはるかに経済であり衛生的である、実をいうと旭地下足袋が九州の炭坑で百万といわれる坑夫に普及され、それから農村に喰い込み、草鞋を駆逐し去ったので、副業を奪われた農村の代表者は、日本足袋会社に猛烈に抗議を持ち込んだ、そこで石橋社長は経済の法則を平易に説いて、一個五銭の草鞋か水かき足袋とともに使用して月に五、六十銭はかかる、旭地下足袋は一足八十銭で大事に使えば一年は持つ、そんな不利益な草鞋を副業とするよりは外の仕事に努力する万が農村の経済
復興になろ旨を諄々として主張した、最近では農村も理解して能動的の旭地下足袋か農家に盛んに需要されて行く、特筆したいことはかの上海事件当時、出征の陸軍将兵が全部旭地下足袋を用いたことだ、或る司令官がこの間久留米の日本足袋会社を訪問した際に「今度の上海事変は旭地下足袋の宣伝に戦争したような気かしてならなかった」といった程である、旭地下足袋は軽快であり、市街戦などには昔がしないで誂え向きだ、強行軍にも持って来いだし、電気にも絶縁性だからよく木登りも出来るという実戦用としては全く理想的の国産副兵器である、上海事件当時の実況写真が雄弁に旭地下足袋万能の
事実を物語っているので会社では「皇軍武威の足跡」という粛帖を発行し事変当時旭地下足袋の実戦の功績を大いに誇りとしている、かの久留米が生んだ廟行鎮の三勇士もまた生れ故郷で出来る国産旭地下足袋を穿いていた、石橋社長は光栄に感激して三勇士を出した名気の久留米工兵第十八連隊の営庭に三勇士の記念堂を建立し永く勲功を讚える資料に供した(完)


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