新聞記事文庫 市場(8-134)
報知新聞 1939.5.10-1939.5.11(昭和14)


米穀市場 (上・下)

巷の経済実地踏査報告 (50・51)


(上)(50) 内地米は山の手商人外地米は深川市場 米穀の東京移入とその配給

米屋といえば普通白米小売商人を指すが、米穀を取扱う商人は米問屋と呼ばれる卸売業者もあれば、産地と問屋との中間で仲介業を営む買出人もあり、本年中に廃止にはなるが売った買ったの竸売買で毎日何回も相場を建てる蠣殻町の取引員も仲間に入るそこで実際の米穀配給に従事している業者の数は昭和十三年十二月末日現在で全国に十二万六千人、外地は一万六千四百五十人であり、東京市内では約一万人の米業者を擁するが、政府の米穀統制政策によって日本米穀会社が設立される運びになったので従来の如き自由竸争に基づく営業が不可能になるため、弱小白米小売商人の間には廃業者が続出している模様で、これは勿論東京市のみならず全国的の現象であろう
東京市への移入米穀量は昭和十三年度(自十二年十一月至十三年十月)においては深川正米市場の調べによれば内地米鉄道廻着九百四十万五千四百二十一俵、朝鮮米入津三百一万七千六百三十八叺、台湾米入津四百十七万五千八百八十一袋で、この外近県よりトラックで移入した数量は二百万俵と推定されたが、人口の増加に伴なって米穀の移入は益々増加するものと思われる、移入される系統を見ると、内地米においては生産者の米がその地方の買出人、販売組合、農業倉庫、販売斡旋所、出荷団体等の手を経て、先ず地元の比較的大きな米問屋という類の商人の手に一旦移り、それからこれを東京の商人が買付けたり、委託販売の形になったり、または何々県共同販売所、斡旋所等を経て市中の白米小売商、公設市場、購買組合なりの手を経て初めて消費者の家庭に入るのであるが、近頃は消費者に取次ぐ商人が直接に地方の農業倉庫や組合から、その産地の移出検査を信用して電信一本で買入れる売買も盛んに行われている
朝鮮米の東京進出は大正十一年の大震災を契機として発展し、加うるに米穀検査が国営になったので品質の統一を招来し、東京消費者の嗜好に応じてついに東京市消費量の約二割を占めるに至った、朝鮮米の配給は卸売業者が仲次人や鮮米協会の手を通じて産地移出商あるいは農業倉庫等から買付け、これを小売商あるいは消費組合に売り、消費者へ渡るという順序になっている、台湾米は近年完全に声価を揚げ、殊に一期蓬莱米は内地下級米の出廻時に新米としての新味を満喫させるため歓迎され、二期蓬莱米は朝鮮米との配合に好適で下級米中の寵皃となり、東京進出は飛躍的の発展を示した、台湾米の配給は生産地側の移出商三井、三菱、加膝、杉原等と移入側の深川廻米問屋が主体となって台湾米移入協会を作り、統制的販売系統を形成し仲次人の手は省かれている
市内の正米市場としては東京廻米組合の経営する深川正米市場と神田川正米市場組合の経営する神田川正米市場がその枢軸をなすものであり、この外市場を有せざるも米穀配級機構上市場に準するものとして山の手、城南、芝、亀島、江東、隔田川、城北各米穀問屋組合がある、組合員の現在数は総計二百八十七人で、その全部が大なり小なり産地から買付けて白米商に売付けている玄米都市配給の主流をなしているのである、米穀問屋によって取扱われる数量を正確に知ることは困難であるが、主要米穀問屋組合について見ると、深川正米市場が移入数量の三割五分を占め、次は山の手米穀問屋組合が二割三分、神田川正米市場が一割三分、以上三組合の取扱数量は他の組合のそれに比して断然多く、内地米扱い高は山の手組合最も多く、神田川これに次ぎ、深川第三位にあり、また外地米の扱高は深川最も多く山の手、神田川の順である、深川正米市場は水運の便を利して発展したものであるが内地米の移入が大部分鉄道及びトラックで輸送されるに至って内地米配給上の地の利を失い、一方近来東京市の人口は山の手方面に向って急激なる膨張を来し、深川は東京市の中心より次第に遠ざかるの結果を招来し、内地米扱市場として重要性を減するに至った、これに反し新宿、池袋、恵比寿は年々人口増加し、今後においても発展の余地のすこぶる多い新市域を背景にし完備せる鉄道綱に恵まれているので、山の手米穀組合は益々隆盛に向うであろう、しかし朝鮮米と台湾米はすべて汽船により芝浦沖に廻着する関係上、水運の便と発達せる配給機関及び設備を有する深川は移入外地米の六割以上を扱い、これを東京各方面の米穀問屋及び白米商に対し配給すると同時に広く関東、東北、北陸の各地へ再移出し外地米扱市場としては今後も引続き確固不抜の地位を保つと予想される(つづく)

(下)(51) 米穀の統制強化日本米穀会社設立

東京市の白米小買値段は昭和十三年七月八日改正以来変らない、即ち十キロにつき無砂一等白二円九十五銭、同二等白二円八十五銭、同三等白二円七十五銭、同四等白二円六十五銭、同五等白二円五十五銭、胚芽米一等二円八十二銭同二等二円七十二銭同三等二円六十二銭であって、他の日用品小賈値段が最近までほとんど例外なしに騰貴した中に、白米値段の据置かれたのは府や市の当局が商工省の内意に基づいて東京白米商同業組合に対し値上を禁止したために外ならぬ、これもひとり東京のみの現象でなく全国一様に白米小売の引上は許されぬ状態にある、東京白米商同業組合は組合員九千百二十名で、市の市場課と協調して白米等級販売価格及び各等白米原料に対する細目等を制定して居り、価格の改正基準として、正米標準値段が石十円以上二十円未満の場合は値幅四十銭より五十銭の変動を生じた時改正、石二十円以上三十円未満の場合は値幅五十銭より七十銭の変動を生じた時改正、石三十円以上四十円未満の場合は値幅六十銭より八十銭の変動を生じた時改正する旨を制定しているので、本年一月頃正米市価の昂騰により白米採算の向上した当時猛烈な値上陳情を行ったものであるが、その後正米市価が低下して白米採算が引合いようになった、正米市価の低下も自然発生の原因によるものではなく物価抑制政策が強化されて最高価格制を施行された品目が増加し、一方米穀自体においても白米小売値段の取締、外地米輸出の許可制度及び取締、価格設定等が行われた影響である、政府の統制が単なる需給調節の範囲を出でなかった時代の米価は生産者の販売機構も幼稚であったし、また商人の投機駆引が熾烈を極めたから、騰落の幅が無茶に拡大し常に波瀾を描いていたもので、産地からの出廻りも出来秋には特に増高し夏期には激減するため米価も出来秋に下り夏期に上る傾向を免れなかった、これでは農村の経済が改善される筈がない、昭和八年米穀統制法が制定されたが、価格、数量両者に亘る調節確保を期する画期的に強力なもので、最高最低の公定価格を定められたため商人の投機的行動は甚だしく局限され、生産者は最低価格の保障を得て一年中安心して産米を売ることが出来ることになり、一方既に各府県において結成され発達しつつあった農業団体は、この頃から加速度的に活動力を加え米価の支配権をも掌握するに至って市価は公定の最高価格に接近し、往々これを突破する場合をも生じた結果、政府は統制法制定の眼目であった低米価対策を放葉し、高米価を処理する必要に迫られて今日に及んだことは経済政策上の買に急激なる変還である過去の米価を願れば、現在の市価も未だ欧洲戦後の高物価時代の米価には及ばぬが、あの時代は自由経済の下で米穀の需給は均衡を欠き、ランダーン米、サイゴン米等を輸入したような事情を含んでいたしである、今日では朝鮮、台湾の大増産によって円滑なる需給関係を保ち、次年度への持越も相当に見込み得るので、多少の不作に遭遇することがあっても外国米によって補給を仰ぐ懸念はないのである、かく楽観すればとて聖戦遂行中の時局において、消費は極力これを戒め、消費節約を励行すべきことは論を待たない
時局の重大から主要食糧であるところの米穀配給の国家統制も喫緊の問題となったので、政府は三年来研究を重ねて来た米穀配給統制法を過般の第七十四議会に上程し、農林省当局が各種の質問に対し詳細なる答弁に努めて貴衆両院を通過し、既に創立委員を任命して日本米穀会社の設立に着手した、該法案を議会に上程した時の理由書には平時、戦時における食糧問題の重要性に鑑み米穀の円滑なる配給と適正なる価格の構成を図るため速にこれが取引機構を改革し投機取引を抑制し実需に基く正米取引を原則とする機構に改め、併せて米穀取扱者の許可制を布き米穀配給統制の体制を整え以て食糧問題の解決に資するの要ありと述べてある、日本米穀会社は最初の資本金三千万円で、その中一千五百万円を政府が出資、残り一千五百万円は民間出資である、米穀取引所は全部廃止され、六十年間続いた蠣殻町も堂島も『米相場』と呼ばれた清算米市場がなくなるのである、正米の売渡しあるいは買受問屋や農業関係団体がいずれも市場員になり、会社は米穀の出荷、集荷を通じて正米取引の独占事業を経営するわけであるが、差当り配給径路の著しい変化は起らぬものと見られている、会社の業務開始は遅くも本年十月一日までの予定であるが、台湾においても米穀管理法が決定し、本年二期米から施行されることになり、朝鮮も内地に順応して官民共同の米穀配給会社を設立する計画を進めている(この項終り)


データ作成:2008.4 神戸大学附属図書館