新聞記事文庫 経営(4-012)
満州日報 1930.6.2(昭和5)


時の合理化


 五月も過ぎ六月に入った。例のサムマータイム、今年は問題にならぬようであるが、日の永くなったことは確実である。一方、いろいろな社会生活に、合理化の提唱せられつつあるに、時刻の方の合理化が一向、徹底せぬは如何のものであるか。時間の励行などということも、随分、久しい間の問題であるが、大連には大連時間あり、旅順には旅順時間ありという風で時間の歓迎の深刻でないことも、今さらながら遺憾とせらるるところである。
時、これを哲学的に、やかましく論ずるときは、空間の問題と共に、なかなか厄介な命題である。過去、現在、未来といったところで、一刻一刻と刻みつつ行く時刻は、一たび過ぎ去れば、永劫に還り来らぬものである。すべての問題は、過去から現在、現在から未来へと流るる時によって解決されるといわれる。が併し、その時なるものは、未来永劫、われらの命題として課せられ、恐らく永遠に亘って解決し能わぬものであろう併しわれらは、今日、必ずしも哲学上の問題を論ずるのときではない。われらは日常の生活上、この時というものを如何に取扱うかを論ずれば足るのである。
人生、七十は古来稀れなりとせらるる。われらの寿命は、すこぶる短きものなることを知らねばならぬ。光陰は矢の如く、白駒の隙を過ぐるが如しというている。この矢よりも早い時を、この人間生活において、如何に利用せんとするか。その一端は、すでにスピード時代の出現とさえなっている。ただ併しながら、そのスピード時代なるものは、ただ客観的なるモノの動きをのみ眺めたるときのことである。主観的には、そこにスピード時代に順応しつつありとも思われぬのである。すなわち時代は急スピードを以て走るけれどもわれらは依然として遅々、時を合理的に利用するまでに至って居らぬのである。サムマアタイムの利用の如き、いろいろの支障の派生することは、これを否まぬ。併しながら、夏の日の永きを喞つのみにして、更にこれを利用せんともせぬのは、抑も何の故ぞや。例の産業合理化の如きも、結局、当然に時の利用をも敢てせぬならば、決して完全ということは出来ぬのである。
この時の問題と関連して、われらは、日本商店の年中開店主義を何とかならぬものかと思わざるを得ない。日本の普通商店は年百年中、二六時中、不眠不休で開店しているのである。その勤勉ぶりには驚かざるを得ぬが、果して左様の必要があるであろうか。この辺にも、産業合理化の精神が、相当に取り容れられて然るべしと思う特殊な店舗以外は、朝の八時から午後は四時か五時、而して日曜は全休、その間に主として主婦が購買に出かける。それでも生活に必要なものは購入せねばならず、その間に、冗費を節約し、無駄を整理し以て顧客に対し格安のものを供給し得るという結果になるのではあるまいか。産業合理化の時代には、日本の普通商店と時間の問題というようなことも、大に研究すべき題目であろうと思う。
それから次に、小学校その他の夏季休暇である。この問題も時という問題を研究する一端として大に考察せられねばならぬ問題ではあるまいか。夏季長い日数を、学校の課程から離れるということは精神的に衛生的に、これ決して面白い現象ということは出来ぬ。大に身心の休養を行うことは悪いことではないが、併し、これ一年中に割り振り、なし崩しに行うというようなことが有意義ではあるまいか。勿論、今日の学校では昔のように、夏休みだからとて全く休みというのでなく、その間に、色々の工夫もあるようであるが、併し、夏季休暇として三十日とか、五十日とかを休む代りに、何とか他に、より以上の有意義なる時間の利用方法というものがないであろうか。
要するに、この時間という問題一ツを合理化さして行きさえすれば、人間社会のあらゆる方面に合理化を実現し行くことが、極めて容易であろうと思うのである。豈ひとりサムマアタイムの採否如何のみの問題ではないのである。


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