新聞記事文庫 災害及び災害予防(7-160)
大阪毎日新聞 1930.11.29(昭和5)


若き預言者・椋平君

嘲笑の中に立つ村の「地震博士」

お嫁さんより研究と、涙ぐましい不断の努力


若き予言者椋平広吉君の名は伊豆大地震によって一躍天下に知られた、以来毎日椋平君の元へは全国各地からひっきりなしに激励や称讚の手紙やら、「ジシンアトアルカヘンマツ」など、返信料つきの問合せ電報やらが来て秋の取入に忙しい君を面食わせている椋平君はきのうも仕事の暇をぬすんでいつものように与謝灘の江尻浜へ出かけて独特の前兆虹の観測をやった―
椋平君は十一年間というもの、来る日も来る日も地震を予知するため風の方向、晴曇、気温と一々二時間毎に気象日誌をつけている、またイセチケ(東南風の吹く景色)と見れば夜となく昼となく浜へ出て空を見ねばならぬ、その結果によっては別に頼まれているわけではないが、宮津の府立測候所や関係方面へも即時通知する、その間には家業をも手伝うのであるからその多忙さは想像以上である、で?椋平君はいつも落着かずソワソワしている

椋平君の実家は村でも相当の資産家で代々半農半漁、父佐太郎氏(六二)は日清、日露両戦役に従軍しいまは江尻区長をつとめ、長兄が家業をやっている、村人らは椋平君を「地震気違い」とか或いは嘲笑を意味して「地震博士」と呼んで変人扱いにしている、しかしこれらの人も君の撓まざる努力と熱心さにはひそかに敬意を表しその純な生一本の性格に対して一種の親しみを抱いているのも事実である時日小学校の高等科を出たばかりの椋平君が今日世に名を知られるに至ったのはその不断の努力の賜物であるといっていいのだから…

椋平君はいう―
 私が小学校を出たその翌年、大正八年五月十九日夜九時ごろ便所に立った時ふと東の空(毛島半島の宙空)にあたって初めて一種異なった雲のような虹を発見しその後新聞で某地方の地震記事を見たところへまた約一ヶ月後も同じことがあったので不審を抱いたのがこの研究をやり出したそもそもの動機ですそれに日一日と面白味も加わってきたので他人に笑われながらも英語やドイツ語は講義録等で独学しつつ研究を続けているわけです、この上は口幅ったいようですが同胞は固より世界中の尊い人命を救う一端にもと一生をこの研究にささげて完成を期したいと思っています
十七歳から二十八歳の今日まで十幾年の間、心なき人々の冷罵嘲笑をあびつつも終始一貫信ずるままに独自の研究をつづけて来たところにわが椋平君の面目がある

父佐太郎氏のいうところによると椋平君は時々頭が痛むといっては一日ぐらい休むことはあるがまだ薬一服のんだこともないそうだ、二十八にもなったのだからと親達がお嫁さんの心配をしても当人はてんで耳をかさず、なりふり構わず浜へゆく、たばこも酒ものまぬ、それに頭を悪くするからといって絶対に自転車にも乗らない、冬が来ると村の青年たちが競ってスキーをやるが、椋平君は見向きもしない、親たちも「同じ研究をやるなら相当の学者につくなり研究所にでも入って勉強したら」とすすめても「そんな金があったら研究に必要な機械の一つも買った方がいい」といった調子

わが椋平君はさぞかし科学者のような冷徹な人間だと思うかも知れないが、さにあらず、なかなかの文学青年である、地震研究の余暇に戯曲や小説も書く、俳句もやれば流行唄も作る、近く民謡集「朝霧」を出版すべく目下執筆中だという、筆まめな椋平君はその終生の目的とする地震予知に関する研究を懸命に記述し今日まで幾度か土地の新聞に寄稿したり、学者などにも送っている

しかし学者はこれまで椋平君の研究をてんで問題にしなかった、そこで椋平君はいう「日本ではあらゆる気象学者殊に三宅京都測候所長でさえいつも私を狂人扱いにして折角通報しても顧みない、この上はドイツの学界へ論文を提出して立派に博士号をとって見せる」と憤慨するあたり愉快な椋平君ではある

最後に―椋平君はよく戸外をはだしで歩いている、これは地震研究の上から大地の温かみを知るためだといっている


データ作成:2010.3 神戸大学附属図書館