新聞記事文庫 災害及び災害予防(7-087)
大阪朝日新聞 1927.8.26(昭和2)


美保関沖で夜間演習中軍艦四隻の大衝突

行方不明百三十余名を出す

駆逐艦蕨は沈没、三艦は損傷


【海軍省発表】昨二十四日連合艦隊夜間演習中午後十一時二十分美保関の北東約二十哩の地点において第五戦隊軍艦神通と第一水雷戦隊第二十七駆逐隊駆逐艦蕨と衝突、蕨は約十五分の後沈没し神通は前部錨鎖庫に浸水あり軍艦金剛に曳かれ舞鶴に廻航中また第五戦隊軍艦那珂は駆逐艦葦と触衝、葦は船体の最後方の一部を切断せられしも応急修理の上軍艦阿武隈に曳航、那珂は損害軽微自力にて舞鶴に廻航中である、また那珂御乗艦中の博義王殿下には御異状あらせられず(東京電話)
今までに判明せる行方不明者左の如し

「蕨」乗組員

(准士官以上)
 少佐官庁五十嵐恵、中尉内俊範、同新田義熊、同宮地道哉、機関少佐福田秀穂、同中尉前田軍治、特務少尉勝田理一、兵曹長古藤一令、機関特務少尉増岡倉平、機関兵曹長平川近次、委員(水雷学校学生)大尉佐々木茂夫
下士官兵は生存者二十二名の外全部行方不明(約九十名)

「葦」乗組員

行方不明者は下士官以下二十七名

陛下に伏奏 大角次官参内して

前記艦隊の遭難に関し大角海軍次官は岡田海相代理として午後一時半赤坂離宮に参内し陛下に委細伏奏した(東京電話)

死体捜査に大活動 主力艦全部居のこりて

連合艦隊の旗艦長門以下六十七隻は二十五日午前中に舞鶴に入港する予定であったところ第一水雷戦隊の駆逐艦の衝突事故のため入港が遅れ午前中に入港したのは第二水雷戦隊旗艦夕張以下駆逐艦、航空母艦鳳翔、能土呂及び潜水戦隊で旗艦長門及びその他の主力艦は午前中に入港せず、珍事の現場附近にあって死体捜索その他に活動中のよしである(舞鶴電話)

当面の責任者は第二十七駆逐隊の倉田司令

[写真あり 省略]

右巡洋艦駆逐艦の衝突椿事は海軍において査問会を開き、その原因責任者に関する事情などを明瞭にするはずであるが沈没艦蕨損傷艦葦は第二十七駆逐隊に属するもので同駆逐隊は海軍中佐倉田七郎氏司令のもとにあり、同氏の指揮により艦隊運動中に勃発せる事件で同中佐は当面の責任者であると【写真は倉田七郎中佐】

遭難した「蕨」と「神通」

蕨は大正九年大阪藤永田造船所で起工され同年九月進水同十二月艤装完了と同時に佐世保所属第二十七駆逐隊に編入されたもので排水量八百五十トン、長さ八十三メートル八二、幅七メートル九二、吃水二メートル四四、速力三十一節五、十二サンチ砲二門、魚雷発射管四門、乗組員百二十名を有する二等駆逐艦で、本年三月豊後水道における第一期訓練の際にも僚艦菫と衝突し舷側に大穴を開けたことあり、また蕨を沈没せしめた
神通は大正十一年八月神戸川崎造船所で起工、大正十二年十二月進水、同十四年七月艤装完了海軍省に引渡され呉所属となり一時第一艦隊第三戦隊に編入されていたが古鷹、加古の竣功後第二艦隊第五戦隊に編入された排水量五千五百九十五トン、長さ百五十二メートル四〇、幅十四メートル二五、吃水四メートル八四、速力三十三浬、十四サンチ砲七門、八サンチ高角砲二門を有するいずれも我が海軍の奇襲部隊を代表する精鋭艦である

本社機を現場に特派す

美保関沖における水雷戦隊遭難大椿事の報に接するや本社では現場の模様をカメラに収めて逸早く読者に速報すべく小菅写真班員を日本航空会社藤本飛行士操縦の川西七型水上機に同乗せしめ二十五日午後一時五十分木津川尻飛行場出発、現場に急派した、同機は現場の上空で空中撮影の後そのまま着水せず往復八百キロを一気に翔破して即日帰還の予定である

蕨の沈没箇所は深さ五十尋以上 救難派遣準備や家族への通知で大多忙の佐世保鎮守府

軍艦常磐の機雷爆発から一ヶ月をおかぬうちまたまた軍艦蕨の沈没の悲報をでかした海軍は殆ど失神の態だが、殊に佐世保鎮守府は二回とも所属艦のこととて最も心を痛め長官代理島参謀長以下詰め切って遭難者の家族への通知その他準備に忙殺されているまた工廠工務部などの救難関係部では酷暑日課中にも拘わらず係員の外出を差止め命令一下直に救難隊を派遣すべく準備を整えておるが遭難ヶ所は五十尋以上の深所で引揚はよほど困難であろうと

殉職将校略歴

五十嵐恵少佐 明治四十四年海軍兵学校卒業、大正元年任海軍少尉、七年十二月任大尉桐乗組、十年三月比叡分隊長、同八月葵乗組、十一月矢矧水雷長兼分隊長、十一年十二月白露駆逐艦長、十二年十二月駆逐艦長を経て十三年十二月任少佐大学校甲種学生となり十五年十二月大学卒業と共に現職に補せらる
福田秀穂機関少佐 大正二年機関学校卒業、三年任機関少尉、八年十二月任機関大尉米国駐在、十一年帰朝呉鎮守府附、軍司令部出仕兼海軍省出仕を経て十三年九月海軍省軍需局々員、同年十二月任機関少佐、十五年九月第二十七駆逐隊機関長となる
佐々木茂夫大尉 大正十年兵学校卒業、十一年十二月任少尉、十三年十二月任中尉第十六潜水隊附となり、十四年十二月○呂号第二十八潜水艦乗組、十五年十二月大尉任官と同時に水雷学校高等科学生となる
内俊範中尉 大正十一年兵学校卒業十二年十二月任海軍少尉梨乗組、十四年十二月中尉進級と同時に夕張乗組となり十五年十二月現職に補せらる
新田義熊中尉 大正十一年兵学校卒業、十二年十二月呉海軍少尉夕風乗組、十四年十二月中尉進級川内乗組となり十五年十二月現職に補せらる
宮地道哉中尉 大正十二年兵学校卒業、十三年十二月任海軍少尉夕張乗組、十四年十二月砲術学校普通科学生十五年五月水雷学校普通科学生となり両校卒業十五年十二月中尉進級と同時に霞ヶ浦航空隊附となり、今二年三月同隊飛行学生、六月現職に補せらる
前田軍治機関中尉 大正十一年機関学校卒業、十三年六月任機関少尉呉鎮守府附、十四年二月利根乗組、十五年十二月中尉進級と同時に機関学校普通科学生となり本年六月同校卒業と共に現職に補せらる
増岡倉平少尉 海軍機関特務少尉増岡倉平氏(四十七)は熊本県上益城郡飯野村の人、たつ子夫人と養子みさお(十四年)が留守宅におる、氏は明治三十四年佐世保海兵団に入り爾来海軍部内の生字引といわれ、日露役日独役を経て大正十四年五月□乗組を命ぜられた

軍艦衝突の地点(×)(美保関より二十マイル)

[図表あり 省略]

如何に実戦的であったか 井上佐世保海軍人事部長談

「何分夜間演習は事故が発生し易く演習が実戦的であればあるほど不測の惨事を惹起し易いわけで将卒が如何に身命を賭して演練をしたかが想像されて一層同情に堪えぬ、殉難者の葬儀は多分艦隊碇泊地の舞鶴でやることになるであろうが遺族らははるばる遠方に出かけねばならぬことと思われこの辺のことについてもお気の毒に堪えない」


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