新聞記事文庫 人物伝記(2-018)
大阪毎日新聞 1923.2.27-1923.9.2(大正12)


関東関西の財閥鳥瞰 (一〜百五十七)


(一) 資本系と郷土系

諸財閥の現状

結束によって自己の立場を鞏固にし確実な基礎の上に進路を開かんとするのは普選運動や労働争議のみではない財界では夙に茲に着眼し各種事業の合同熱は数年前から著しい傾向を現わしているが殊に最近では一層激しく昨年末動揺を来した銀行界はいわずもがな肥料製糖製粉其の他の事業も機会があれば合併の形式によって自己の立場を鞏固にしようとしている中にも牛は牛づれ同じ郷里から出た事業家が相率いて事業界に突進し事業の種別こそ異なれ互に扶助の便宜を得ようとする特別形式の合同が非常の力を以て進み偉大の勢いを財界に扶植しまた扶植せんとしている一方大資本を有せる事業家は益々自己の勢力を進展して小事業を抱擁し益々その大をなさんとしつつあるかくして之等の大事業家は我国財界の大動脈となりその脈動を高鳴りせしめつつ愈々その大を加えんとしている動脈の大なるは血液の輸送に利便の多きは勿論であるが一朝負傷すればそれだけ出血量も多く一本の財界動脈の切断が或は日本財界の致命傷となるかも計られぬその是非は別として我国財界の大動脈とも目すべき三井三菱安田系を初め甲州系江州系等が如何にその偉大の手を事業界に拡げつつあるかを知るもまた財界観察の一助であろう

電灯瓦斯を握る甲州系

甲州系といえばまず若尾系に指を屈せねばならぬが小野系根津系もまた侮ることが出来ぬ加うるに若尾渡辺連合系雨宮系等もまた相当に勢力がある若尾系の経営せるものでは二億二千二百万円の東京電灯を初め若尾保全(五百万円)若尾銀行(五百万円)堂貯蓄(五万円)信越電力(三千二百万円)京浜電力(二千万円)東京モス(千五百万円)日本製麻(千五百万円)ボルネオ殖産(千万円)三ッ引同族(二千万円)三ッ引商事(千万円)関東電気鉄工(千万円)東京紙工印刷(六十五万円)バグナルヒレス(五十万円)横浜若尾銀行(五十万円)小池銀行(三百万円)等三億六千八百七十万円に上っている若尾渡辺連合系では四千五百万円の東京瓦斯の外五百万円東京乗合自動車が主なるものであるが小野系では富士水田(三千三百十六万円)富士身延鉄道(八百万円)日本煉炭(千五百万円)東洋遊園地(千万円)北海電灯(二千百六十三万五千円)穴水合名(二百万円)富士製紙(三千五百十五万円)富士パルプ(三百万円)駿豆鉄道(百万円)保安倉庫(五十万円)大日本自動車保全(三十万円)吉田式防水布(十二万五千円)等一億六百九十七万円に及び更に多少疑問ではあるが甲州系の小林一三氏がその腕を振っている二千四百万円の阪神急行を小野系に加うることを容れたら一億三千万円となる雨宮系は大体に於て五百万円の京成電気軌道と一千万円の庄川水力に過ぎないが根津系は東武鉄道(二千四百五十万円)日清製粉(四百五十万円)日本ビール鉱泉(九百万円)日出セメント(三百万円)東京紡績(三百万円)根津合名(五百万円)千葉貯蓄銀行(百万円)東京製パン(百万円)大日本信託(五百万円)で五千六百万円を算え所謂甲州系と目されたるものの事業資金は総計で実に六億二千六十七万円の巨額となり此六億円の巨資が如何に活動しているか又かかる巨資を甲州系が握るに至った径路はどんなものであったろうか

(二) 甲州派の活動

東電の実権を握る

夜の東京を支配するものは甲州系である、東京市並に其の接続町村に対して電灯、電力を供給するのは東京電灯と市電当局とであるが電灯は市電の六十五万灯に対して東電は三百九十六万灯電力は市電の五千キロに対して東電は二十二万キロ而して東京電灯の実権が甲州系の巨頭若尾家に在るは洽く人の知る所で且つ東京瓦斯も東京及横浜の渡辺家と提携して若尾家が至大の勢力を揮っている試みに東京電灯と東京瓦斯の株数をみるに東電は総株数四百四十四万株中(十一年十一月末)若尾一族に属するもの三十三万一千八百五十七株渡辺一族に属するもの七万百三十九株、瓦斯は総株数九十万株中渡辺一族に属するもの七万二千百十四株、若尾一族に属するもの三万八千三百九十株(これは若尾某々、渡辺某々若くは若尾保全会社とか渡辺銀行等の名義となってるものに止まる其他親戚乃至同じ勢力下のものを加えれば更に多数に上るであろう)で現在東電の社長神戸挙一、瓦斯の社長小池国三この両人は若尾家の勢力を代表するもので又現在若尾系の実業家の両大関である

若尾家の一族

若尾系の本部はヤハリ甲府に在る甲府には若尾家の本家及若尾銀行(頭取若尾謹之助)ありて若尾家の事業を統轄している謹之助氏は若尾本家の当主有名なる逸平翁から先代民造氏を経て謂わば若尾家の三代目である謹之助氏の姉婿に若尾璋八氏がある璋八氏は土地の旧家広瀬家から入りて若尾家の人となったものツマリ当年の成金若尾と旧家の広瀬の抱合提携が成ったもの今は故人となったが璋八氏の実兄亘氏これもかつては天下に著聞した雨敬事雨宮敬次郎氏の養嗣子となり実弟為久氏は現在広瀬家の当主である

東京電灯の変遷

信越電力は資本金三千二百万円、神戸挙一氏社長たる外若尾璋八氏取締役、渡辺勝三郎氏監査役たり京浜電力は資本金二千万円、若尾幾造氏社長、若尾璋八氏監査役であり、この両社は工事完成の上は東京電灯に合併せらるる筈である東京電灯は明治十六年資本金二十万円を以て矢島作郎氏等によりて創立せられ同十九年営業を開始してから爾後数年間は社運兎角に振わず二十四年頃には資本金も百三十万円となったが矢島社長以下の辞職と共に減資の止むなきに至った事もあり其の後藤本文策、松下一右衛門、木村正幹氏等の社長時代を経日清戦役の事業勃興時代に際会し三十二年九月には資本金三百五十万円となり同年十二月佐竹作太郎氏が社長となった頃から社運も追々隆盛の域に入り同時に若尾家の勢力下に属するに至ったのである

(三) 甲州系の現状

関東電気の大合同

我国の電気事業も明治三十四五年頃までは主として火力によったものであるが同時代から追々水力旺盛の時代となり東電でも三十七年山梨県下に水力発電所を起す事となり四十一年春工事の完成を見るに至った佐竹氏は就任後大正四年八月まで前後十六年間社長の職に在り甲州系の勢力を代表すると共に同社の発展に尽力し明治四十三年六月には資本金五千万円となり大正三年末には既定の計画全部完成して五万馬力三万五千キロの送電を行うに至った佐竹氏死去の当時は恰かも同社、市電、日電等所謂三重競争激烈の時代であり阪谷市長の如き同問題解決難の為め遂に其の職を去るに至ったが後任奥田市長の居中斡旋により大正六年七月三重間の協定成り同社の社運も愈々好運に向い翌七年十二月資本金を一億円となし爾来日本電灯、利根発電、横浜電気、第二東信電気、高崎水力、熊川電気、桂川電力、日本水力電気、猪苗代水電等幾多の同業会社を合併して現在に及んだものであり佐竹氏の死後若尾民造氏の取締役会長を経て現在の神戸社長に至っている神戸氏の社長たるは言うまでもなく甲州系特に若尾家の勢力を代表するものである

水晶を水電に乗換える

若尾逸平翁はなんでも例の水晶を持ち出して横浜あたりの外人に売りつけて意外の利益を獲得し爾来生糸にも手を出し米や株の相場をも試み漸次富を築いたのであるが今日の大を為すに至ったのは勿論電気に関係したからである由来山梨県は天恵に薄い産物としては水晶と葡萄、生糸も出来るがこれもその儘出しては大したものでないから甲菱絹として出す有様である幸いに山国で水流―それも発電に都合のよい水流に富み殊に東京という電力の大消費地に接近している畢竟天然に而かも無限に流るる水を利用して必要欠くべからず而して益々需要の増加する電灯、電力と化し夜の東京を支配して莫大の利益を占むる中々うまい話である、甲州系の事業には電気に関連して交通事業なども多い往年の日本鉄道は甲州系の勢力があったのは人の知る通り現に久米良作氏(久米氏は渡辺系の人であるが若尾渡辺の関係浅からぬは前回述べた通り)は同社の副社長たり又神戸挙一氏も営業次長か何かであった

(四) 甲州系の現状

東京の交通機関

東京市内の交通事業といえば先ず其の起りはかの馬車鉄道であろう馬車鉄道は明治十三年頃鹿児島の人谷田道之、稲田某氏等によって起されたものであるが、爾後数年間は業務一向に振わず十九年頃に至り牟田口元学、中野武営氏等代って経営の任に当り追って二十二年頃若尾逸平氏も之に加わるに至り営業漸次順調に向い二十五年頃安藤保太郎、山本源太、磯部保次、神戸挙一氏等の入社を見たこれ等四氏は何れも甲州系の人に属する時勢の進転は永く旧式ガタ馬車を許さず是より先雨宮敬次郎、藤岡市助諸氏は米国を視察して帰朝し明治二十一年頃早くも政府に対して電気鉄道敷設の出願をなした次で二十六年頃、馬車鉄道も動力変更即ち馬車を電車に変更の出願をなした而かも機運未だ熟せず容易にその出現を見るに至らなかったが日清戦後事業勃興の時代に際し、東京市内に電気鉄道敷設の出願をなす者続々として現われ即ち前記雨宮系、馬車鉄道系の外、藤山雷太、中上川彦治郎氏等の慶応系、神鞭知常、利光鶴松、井上敬次郎氏等の星亨系、郵船会社の一派、その他二三に達し政府も容易に之が取捨に苦しむに至ったので星亨系、慶応系、雨宮系に合同を慫慂し之が実現して東京市街鉄道となり最初藤山氏社長となり雨宮敬次郎、井上敬次郎の両氏常務となった

市内電鉄と甲州系

東京市街鉄道は市内に二百三十五マイルの軌道敷設権を獲得し現在市電車の馳りつつある線路は多く之に属する馬車鉄道の後身は東京電車鉄道となり郵船一派の起したものは東京電気鉄道となった之等三社は明治三十九年合同して東京鉄道となった東京鉄道の社長は最初牟田口元学氏次で千家尊福氏となったが川田鷹、井上敬次郎、安藤保太郎の三氏常務取締役となり甲州系の勢力依然たるものであった東京鉄道は四十三年市に買収となり以て今日の市電気局となったのであるが井上安藤の両氏は同時に市電気局の人となり井上氏は主として電車、安藤氏は電灯を管掌し安藤氏は例の百万灯計画を樹てて少からず東電を手古摺らしたのは人の知る通りである井上氏は後電気局長を経て今は退いて閑地に在り安藤氏は其後幾変転後の今は若尾璋八氏の息鴻太郎氏の社長たる三ッ引商事に専務となっているが兎に角現在の市電も嘗ては甲州系が大勢力を擁していた事が知れる東電を困らしたといえばモ一つある

(五) 甲州系の現状

日本電灯を設立

 それは例の雨敬氏で氏はとくから桂川における水利権を所有して居り東電との間に売買交渉談の起った時雨敬氏は二百万円を要求したのに東電では精々四五十万円に評価したので雨敬氏の憤慨一方ならず安田と提携して例の日本電灯を起し散々東電を手古摺らしたものであった前に述べた三電競争の激烈を極めたのも当時であった今日の東電は日本電灯も桂川電力と共に手中に収め市電との協調も成って天下は泰平である甲州系が東京における電気界を左右するに至った次第は略ぼ右の通り而して現在では単り東京市のみならず関東八州はおろか進んで東海道越後筋奥州たる福島県までも其の勢力範囲内において馬車鉄道、東京鉄道、市電車と時代は移っても甲州系の勢力依然で現在の東京乗合自動車これも渡辺勝三郎氏が社長で甲州系の堀内良平氏が常務取締役であり若尾璋八氏も取締役である甲州系の事業で電気交通に属するものはこの外に根津嘉一郎氏の東武鉄道及び高野大師鉄に社長たる小野金六氏の富士水電及び富士身延鉄道に社長たる穴水要七氏の北海道電灯社長、本田貞次郎氏の京成電車軌道社長、南部助之丞氏の庄川水力電気常務取締役等なお多いがこれらは後に述べる事とする

若尾系と其他の事業

甲州系は単り若尾家独占ではなく今は振わずと雖も雨宮敬次郎系あり又根津嘉一郎系、小野金六系等があるからここらで一先ず若尾家を切り上ぐる事として以下若尾系の事業で書き残した所を一括しよう、東洋モスリンは明治四十年一月創立現在資本金一千五百万円神戸挙一氏社長で専務の田中海一氏も若尾系の人、若尾幾造、渡辺福三郎、若尾璋八の三氏監査役である日本製麻は大正三年二月創立現在資本金一千五百万円、神戸挙一氏取締役会長で若尾璋八、渡辺勝三郎両氏取締役、渡辺岱三、渡辺六郎両氏監査役である東京電灯や東京瓦斯に限らず若尾、渡辺提携の事実は右東洋モス日本製麻等でも同様である若尾一族で現在最も活動しているのは若尾璋八氏であり又神戸挙一、小池国三両氏は若尾系の両大関で神戸氏と小池氏とは些か趣を異にしている神戸氏は逸平翁の甲府市長時代から徹頭徹尾若尾家の腰巾着、懐刀たりかくて遂に若尾家の代表的事業東京電灯に社長となり兼ねて東洋モスリン日本製麻、信越電力等をも主宰するに至りつまり若尾家の総番頭たる観がある、之に対し小池氏は、兜町に山一合資会社を経営した頃から直接間接若尾家との交渉関係はありながら独自一個の活動的方面があり現に小池銀行を経営し又今は富士製紙に合併となったが日本化学紙料会社を起して樺太方面にも活動し現在では三菱家とも関係が浅からぬという関係会社も神戸氏は前に述べた外は僅かに飯山鉄道に取締役たるのみであるが小池氏は東京瓦斯社長、小池銀行頭取たる外東京電灯、東洋モスリン東京株式取引所、武蔵野電気鉄道九州炭鉱汽船、東京イーシー工業登帆炭鉱の各取締役、若尾銀行、富士製紙、富士パルプ、帝国ホテルの各監査役である金持や事業家というものは多くの会社に関係しているものである。

(六) 甲州系の現状

若尾系の山なす各種事業

甲州系を代表している若尾系の各方面に亘る事業は殆んど数え切れぬほどであるが今主なものを挙げると左の如し

(イ)若尾謹之助氏関係事業
若尾保全(代表)若尾銀行(頭取)常盤生命保険、日本電気鉄工業大日本電球、東京電灯、武蔵野電気鉄道、帝国火薬工業、日本曹達、国際信託、東洋電気具製作所、朝鮮産業貿易、大日本紡織(以上取締役)、中華企業、東京商業貿易、内外製糖(以上監査役)
(ロ)若尾幾造氏関係事業
京浜電力(社長)平沼銀行、横浜興信銀行、七十四銀行、東京電灯、横浜土地、日清防疫、横浜火災海上保険、東洋モスリン(以上取締役)東亜製粉、横浜生命保険(以上監査役)
(ハ)若尾璋八氏関係事業
東京電灯(副社長)ボルネオ殖産(社長)、三河鉄道、東洋モスリン、台湾拓殖製茶、東京乗合自動車、日本製麻、原安商会、亜細亜煙草、信越電力、日支食料富士製紙、大正水産、日本竹材工業、日本味噌製造、原町紡織箱根土地、三ッ引同族、静岡電力、上毛モスリン、富士身延鉄道(以上取締役)、若尾銀行、日本化工、高砂麦酒、東洋電機製造、日本甜菜製糖、京浜電力(以上監査役)

璋八氏の関係会社が多いそれも道理かの戦時戦後の財界活況当時踵を接して現われた新設会社の株式募集の広告に発企人とか賛成人とかとして同氏の名前が現われた事は大したものであったそれ等の会社中、現在命脈を維持しているのはどれ丈けあるだろうか

(ニ)若尾鉄之助氏関係事業
若尾銀行、大日本紡織、若尾保全、内外紡績、三ッ引商事、日本耐酸窒素、東洋電機製作所(以上取締役)
(ホ)若尾音造氏関係事業
関東電気(代表)東洋紙工印刷(社長)大島拓殖(取締役)日米ゴム工業(監査役)
(ヘ)若尾倫氏関係事業
横浜取引所、帝国ホテル、帝国冷蔵、輸出国産(以上監査役)
(ト)若尾幾太郎氏関係事業
横浜若尾銀行(代表)帝国ホテル(取締役)三ッ引商事(監査役)
(チ)若尾鴻太郎氏関係事業
三ッ引商事(社長)バグナル・エンド・ヒレス(社長)三ッ引同族(取締役)

両敬系と若尾系

次いで養子亘氏の死によりて今は殆んど世間から忘れられた観はあるが甲州系として雨宮系往年の活躍は目覚しきものがあり所謂、天下の雨敬の名は今でも一部人士の間に喧伝せられている若しも敬次郎氏にして尚お余名を存し乃至養子亘氏にして尚お生存したりとせば甲州系の代表は若尾か雨宮か容易に測るべからざるものであったろう雨宮家は当年に於てもあまり金はなかったそれは敬次郎氏は飽くまでも事業家を以て任じ有らん程の金はすべて之を事業に投じ尚お若尾家若くは安田家からドシドシ金を引き出して事業の計画経営に努めたものである雨宮家と若尾家との因縁浅からざるは雨宮家の養子亘氏と若尾家の璋八氏とが実兄弟の間柄に在るのも明白である。兎に角逸平氏と敬次郎氏とは相並んで傑物であったから有利な事業と見込めば共に提携して之れを経営した

(七) 甲州系の現状

両者の利害衝突

しかし両者の間に競争抗争となった事も珍らしくなかった桂川の水利権売買一件に関して雨宮氏の憤慨となり雨宮氏は安田家と提携して日本電灯を起し少からず東電を困らした事は前にも述た通り、又東京市内に東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道の三電車が現われた時若尾家の勢力を擁したのは馬車鉄道の後身たる東京電車鉄道であり雨宮家の勢力を擁したのは東京市街鉄道であったが電車の賃銀問題即ち賃銀は三電車協定して共に同一均一制とすることとなったのに電車鉄道及電気鉄道の両者は勿論市街鉄道の当事者間でも五銭説を執ったが雨宮氏は敢然として三銭説を主張し遂に三銭に決するに至った雨宮氏の主張主義に勇敢なるこの一事を以ても明白であろう尤も右三銭では各社何れも経営困難に陥り後三社共遂に市に買収となった雨宮氏は交通事業に余程熱心であったと見え大日本軌道会社を興し同社の経営する軽便鉄道は殆んど全国に亘っていたと称せられる仙人製鉄所も雨宮氏が残した一事業でありこれも氏の在世当時は兎角経営難であったが欧洲大戦に際し莫大の利益を得て復活の気運を示した

甲州系中の雨宮系

雨宮氏は更に、北海道炭鉱汽船及日本製鋼所にも大なる勢力を揮った時代があった、若尾家と抗争の種であった日本電灯も桂川電力も今は東京電灯に合併となって、東電の株主名簿によれば、雨宮保全合資会社代表雨宮てる十六万七千八百六十五株(これは一箇の名儀では同社最大の株主である)雨宮四郎親権者雨宮てる一万六千六百二十株雨宮鉄郎(これは雨宮家の当主)後見人雨宮てる三千五百五十株、合計十八万八千三十五株、これ等はすべて敬次郎氏の遺物と云わねばなるまい、サテ、雨宮系として、現在実業界に活動している人としては桜内幸雄、南部助之丞、本多貞次郎氏等であろう桜内氏は北海道炭鉱汽船に雨宮氏が勢威を有していた時代に同社に入ったものであり現在でも同社の取締役である桜内氏は其の他利根川水力、揖斐川電気、相模電力、巌手電気企業、南部電化工業、中国電球、支那興業の各取締役相模紡績日東保証信託の各監査役であり氏の関係事業に電気関係のものの多いのはこれ亦甲州系たる特色であろう桜内氏は又政友会所属の代議士である。南部助之丞氏も其の新聞記者時代雨宮氏に引立てられた人でかつては雨敬四天王の一人と称せられたが近来兎角に振わず現在は庄川水力電気(大正八年九月創立、資本金一千万円、社長浅野総一郎氏)の常務取締役たる外東京製鉄、加越鉄道、野積川水力電気の各取締役、旭電化工業、飛州木材の各監査役である本多貞次郎氏は京成電気軌道(明治四十二年六月創立資本金五百万円)の社長とし外に関東電気東京琺琅の各取締役雨宮製作所の監査役である甲州系としては若尾系を巨頭中幹となし例えば彼等の誇称する富士山となせば愛鷹箱根に配すべきは根津系小野系であろう

(八) 甲州系の現状

凋落に瀕せる根津系

根津嘉一郎氏はたしかに甲州系の一棟梁である根津氏は土地の可なりの旧家に生れ村長郡会議員県会議員、代議士と順を追うて進み政治家としても相当の名声を博し財界の人としても東京商業会議所副会頭、東京米穀商品取引所理事長等の要職に在ったが現時は東武鉄道を始め日清製粉日本麦酒鉱泉日出セメント等に社長たるの外幾多の会社に取締役若くは監査役となっているが世人は漸く過去の人として記憶を薄くしつつある様であるこれ蓋し氏の人と為りの然らしむる所か氏の事業を開始するや遠謀熟慮寸を得れば寸を守り尺を得れば尺保つのやり方であり之は前記政治家としての進路に見るも明らかであるが氏の性格の隠忍精励は一面に於て執拗冷酷たりとの評を免れず為めに有力なる子分を有せないのも根津系漸く振わざる一因ではあるまいか現在に於て根津氏の中心事業は東武鉄道である同社は明治二十九年十月創立現在資本金二千四百五十万円根津氏社長であるが実務は専務取締役吉野傅治氏に当っている次に日本ビール鉱泉がある同社は明治二十九年十一月創立現在資本金九百万円根津氏社長で亀田寅吉氏筆頭常務取締役である日清製粉は明治四十年三月創立現在資本金四百五十万円根津氏社長、正田貞一郎氏専務取締役正田氏は恰も東武鉄道の吉野氏の位置である右の外根津氏が社長又は取締役会長たるものに日出セメント、東京紡績、高野大師鉄道があり尚東京電灯、横浜土地、富士身延鉄道、日本化学工業、足利紡績、大阪高野鉄道、東京地下鉄道、通王開墾、京津電気鉄道、東京製パン、大湯鉄道の各取締役、帝国劇場の監査役である吉野傅治氏は前記東武鉄道の専務たる外千葉貯蓄銀行の頭取であり正田貞一郎氏は東京製パンの社長、日清紡績、東武鉄道の各取締役、日本共立火災、輸出国産、千代田興業の各監査役であり亀田寅吉氏は大日本信託の社長大北産業の取締役東武鉄道の監査役である

信玄の遠謀深慮を伝えた甲州系の各方面の事業

小野金六氏も、甲州系の先輩で甲州系の一分派として見のがすことが出来ない、但し其勢威は若尾系には勿論或は根津系にも及ばない観はあるが小野氏の親戚であって且現在小野系の驍将たる穴水要七氏の如き近来メキメキと勢力を加えつつある所から見れば将来或は根津系を凌ぐの時代があるかも知れぬ。小野氏の中心事業は富士水電で同社は明治四十四年一月創立現在資本金三千三百十六万円、小野氏取締役会長となり、白井新太郎氏を専務取締役に据えている

(九) 甲州系の現状

小野系の事業

次ぎに富士身延鉄道がある明治四十五年四月の創立現在資本金八百万円、小野氏が社長で甲州系の重役に根津嘉一郎、堀内良平、若尾璋八氏を挙げている、この他小野氏は日本煉炭(資本金百十万円)社長、東洋遊園地(資本金百万円)の取締役会長であり、更に小倉鉄道、加納電気亜鉛、朝鮮中央鉄道、日本観光、東北鉄道鉱業の各取締役、帝国商業銀行の監査役である。穴水要七氏は、小野氏が富士製紙に社長たりし頃同社に入ったもの富士製紙は明治二十年一月創立、現在資本金三千五百十五万円、現社長は大川平三郎氏であるが、穴水氏は専務取締役兼販売部長として、抜くべからざる勢力を有している。小池国三、若尾璋八両氏も同社の監査役である。穴水氏は、其の他富士パルプ(資本金三百万円)の専務取締役、北海道電灯(資本金二千百六十三万五千円)の社長たる外、静岡電力、日本加工製紙、日本フェルトの各取締役を勤め又政友会所属の代議士である。白井新太郎氏も小野系の人、富士水電の専務取締役たる外、駿豆鉄道、保安商事の各代表社員であり、氏の息白井竜一郎氏は、駿豆鉄道、富士水電、化学豆粕、東海石炭、保安商事、内外商工社等の各取締役である。堀田良平氏も小野系に属すべき人であろう。氏は東京乗合自動車(現在資本金百万円)の常務取締役たる外、大日本自動車保全の代表社員吉田式防水布の社長、朝日製帽、富士身延鉄道、日本観光の各取締役、早川電力の監査役である

関西方面の甲州系

甲州系の事業は、東京を中心とし関東方面に属して居り、関西、ツマリ京阪神方面には格別見るべきものが無い。ただ一人小林一三氏がある。小林氏も小野系の人、小野氏の親戚で、最初岩下清周氏の配下に属し、箕面鉄道の建設の如きに際し大いに努力したものであり、岩下氏失脚の時、岩下氏の輩下は多くは事件に関連したものであったが、小林氏は南等の悪名を蒙むるに至らず、現在は、右箕面鉄道の後身たる、阪神急行電鉄の専務として、大活動を続け、かの宝塚少女歌劇の如き、全く氏の創案に属し、嘖々の好評を博している。由来、甲州人は天正の昔信玄、謙信争覇の時代から、遠謀深慮、精励刻苦、よく築きよく守る性癖の傾向があり、これぞ、今日我が国の財界に甲州系あらしめた所以であろうが、一面において、鄙吝狡猾或は冷酷没趣味の評あるを免れない。小林氏の如き蓋し荊棘中の芝蘭たるものか(甲州系終り)

(十) 安田系の銀行網

八億の預金を抱く銀行中心の安田系

日本橋のほとり、三越を前に控え日本銀行と隣りして、三井銀行、三井物産、三井鉱山の立ち並ぶ有様。丸の内一帯、赤煉瓦、白煉瓦、鉄筋コンクリート、七階、八階のビルヂングが、新を競い、大を争ってそそり立つ光景。サスガは天下の三井、三菱かなの感を起すと同時に、かの旧式なる江戸橋の上に立ちて、安田、第三の両銀行の黒漆喰、更に旧式なる若布橋を距てて、これも御多分に漏れぬ黒漆喰の明治商業銀行を望む時、華々しくは無いが、どこかに底力のある安田の勢力を看取せない訳には行かない。安田の事業といえば、ナントいっても銀行業である。安田銀行、第三銀行、これぞ安田の銀行業の中幹トコロで安田銀行も、第三銀行も、之を東西の大銀行に比する時、格別大したものでは無い。試みに、預金額に就いて見るも、三井銀行の四億二千万円、十五銀行の三億六千万円、住友銀行の三億四千万円、第一銀行の三億三千万円、三菱銀行の二億五千万円等に比しては勿論、三十四銀行の二億一千万円、川崎銀行の一億七千万円、近江銀行の一億六千万円等に比しても、安田銀行の一億四千六万円、第三銀行の一億四千二百万円は遜色ありといわねばなるまい。シカモ、安田は全国に亘って銀行網を有す。安田家関係、否、其の勢力下の銀行は全国を通じて二十一行を算す。次にそれら銀行の名称、本店所在地、預金額を示す事とする(金額の単位は千円)

[図表あり 省略]

備考 大正十一年二月末現在による

内地より満鮮に亘る多数の銀行本支店

即ち本州、四国、九州、北海道遠く満洲に亘りてまで銀行本店を有し、これら二十一行の支店、出張所の数は非常に多数に上っている預金額も合計七億七千四百万円とあっては、三井、十五、住友、第一、三菱の諸行と雖も瞠若たらざるを得まい、株式会社に在りて総株数の一割を確実に自己の所有に帰すれば、其の会社を左右する事が出来ると称せられる。昨年末に於ける全国銀行の預金総額は五十億一千三百七十九万三千円であった

(十一) 安田系の銀行網

全国銀行の預金額の一割五分を占む

前記安田系の銀行の有する預金合計七億七千四百九十九万八千円は全国銀行の預金総額の一割五分以上に当る。安田が全国の金融界を左右するの勢力あり、所謂金融王の名があるのも偶然では無い。勿論七億の金は決して安田家彼れ自身のものでは無い。シカモ之を其の手中に収めている以上、之を支配し之を運用する事が出来る。現に右二十一行では、合計七億二千八百四十九万九千円の貸出がある。ツマリ債権である。債権者は或る程度まで、又或る場合に於て債務者を支配する事が出来る、兎に角七億の預金を有する安田の信用、安田の勢力は驚くべく、恐るべきものである。繰り返して云う、安田の事業の中幹は銀行業である、銀行業は堅実を尊び、漸進を重んずる安田の遣方の堅実であるのは世既に定評がある。堅実は一面に於て保守となり、消極的である。安田が三井、三菱、大倉、浅野等に比して、華々しからぬは之が為である。シカモ、故善次郎氏は一面に於て頗る積極的であった。浅野総一郎氏は現代に於て放心大胆なる事業家と称せられる。而して、浅野氏と事業上の関係最も深く、常に浅野氏の事業に対して応援賛助を吝まなかったのは実に安田善次郎氏であった。善次郎氏は事業上の応援賛助に関して、時に大胆であった許りで無く、銀行業の経営に於ても、時に積極的平常のやり口に似ぬ場合があった

算盤次第の安田式

三井銀行は、曾て日本銀行から融通を受けた事が無いとの誇りを有し又コールも之を出してはいるが取った事が無いと称せられる。金融界に於ては、三井よりも、三菱よりも勢力がある安田の事である。マサカ、日本銀行に金を貸すと云う事もあるまいが、三井銀行が日銀から借りた事が無ければ、安田も借りた事が無いか三井がコールを取った事が無ければ、安田も取った事が無いかと云えば、大いに然らず、往年、市内の一流大銀行が日本銀行から融通を受けるなどと言われては聊か面目に関するなどと尻込みをしていた時代に、善次郎氏は算盤に合うと考えれば、ドシドシ日銀から融通を仰いで之を他に貸出したものであり、又コール市場に於ても、安田系の銀行は出しもすれば取りもする。ツマリは算盤次第である。所謂これ安田式とも称すべきか、一面世間から辛辣冷酷の評があると同時に、安田家の援助によりて興起発達した事業□それによりて窮境難関を切り抜けた銀行会社が少く無く、ツマリ、我が国の金融界事業界に於ける安田家の功績は、決して見のがすべからざるものがある

(十二) 安田系の銀行網

窮境を狙って合併

安田系の銀行は、前記の通り二十一行を算えているが、創立の初めから関係を有するものは、安田、第三、明治商業、日本商業、安田貯蓄の諸行に過ぎず、其の他の大多数は、何れも大抵それ等銀行が窮境に陥った時、之に関係し、遂に之を引受くるに至ったものである

安田銀行の起源

安田銀行は、善次郎氏が元治元年日本橋区小舟町、現在の所に安田商店を開き、両替業を創めたのに基因し、後明治十三年一月、安田銀行と改称し、爾来今日に至ったものであり、現在は資本金二千五百万円、頭取安田善五郎氏(善次郎氏次男)副頭取結城豊太郎氏である。僅に路を距てて第三銀行これは善次郎氏が明治九年十二月国立銀行条例に準拠して創立したもの、銀行としては安田銀行よりも旧い訳であり、現在は資本金三千万円、頭取安田善雄氏(善次郎氏三男)副頭取原田虎太郎氏(最近大連にて客死)頭取、副頭取以外、安田銀行の取締役安田善四郎、竹内悌三郎、監査役安田善雄、藪田岩松、第三銀行の常務菅原大太郎取締役安田善四郎、長井利右衛門安田善衛、監査役秋山忠直、小倉常吉諸氏、以上は何れも安田一族乃至深い関係のある人々である。而して安田善次郎氏(二代目当主)は右両行の何れも顧問である

安田家事業の根幹

兎に角、安田、第三の両行は、安田家の事業の根基をなし中幹となるものであるから、人間の配置も整然たるものである。善次郎氏は、今日では安田家の内閣たる保善社に総長たる人であるから、これは両行共に別格の顧問とし、一方は次第の善五郎氏を頭取とし、一方は三弟の義雄氏を頭取とし、之に配するに、一方には現在安田家の総理大臣格たる結城氏を以てし、一方には安田家の元老格たる原田氏を以ってした。以上の点は甚だ相似ているが、両行には相異なる方面も少く無い。安田銀行は全く安田一族の銀行というべく、株式も総数五十万株中、保善社の二十四万八千五百株を筆頭とし殆ど安田一族の所有であるのに対し第三銀行は総株数六十万株中保善社の所有は七万二千七百七十株其他を合しても十六七万株に過ぎない

安田銀行と第三銀行の営業振り

営業の状態に見るも、安田銀行は東北六県に広く勢力を延ばしているのに対し、第三銀行は大阪方面並に山陰道鳥取、島根県方面に関係が深く、又安田は証書貸付が多く割引手形の如きは極めて少ないのに反し、第三は資金の出入極めて頻繁活発であり貸付よりも割引が多く、殊に為替取扱いの多いのは第三の特徴とも言うべく、第三銀行に於ては立派に為替の市場が成立しているとも称せられている日本商業銀行は明治二十八年十月創立、創立当初から多少の関係はあったが、全く安田の手中に帰したのは大正六年である。現在資本金一千万円。明治商業銀行は同二十九年八月創立、現在資本金一千万円頭取安田善四郎氏、副頭取金原磊氏である。なお取締役に安田善助武井守正男等があり、善次郎氏は相談役となっている。武井守正男及金原磊氏が安田家と関係の浅からぬのは、かつて武井男が鳥取県知事時代、同地方に例の銀行救済問題が起って故善次郎氏が之に関係した事があったからであろう金原氏は当時武井知事の部下であった。旧鳥取藩主池田仲博侯が第三銀行の大株主であるのも、之等の関係である。安田貯蓄銀行も同じく二十九年の九月創立、現在資本金三百三万五千円、これは善次郎氏自身が頭取で善四郎、善弥、善造の三氏が取締役、伊沢竹衛氏が同兼支配人、善五郎、竹内悌三郎の両氏が監査役であり全く安田一家のもちものである。明治商業、安田貯蓄の両行は主として東京市内外を縄張りとして居り、尚前者は群馬県方面にも活動し後者は横浜、名古屋、京都、大阪、遠く北海道函館方面にも支店、出張所を有している

(十三) 安田系の銀行網

安田系の銀行経営振り

安田家関係の爾余の十六行は、何れもそれ等銀行が窮境に陥った際、整理救済の為め、之に関係し、之を引受くるに至ったものであり、安田家が引受けの際は、例によりて随分苛酷辛辣と言わるる位の条件を持ち出して、種々の悪評を蒙った事もある、が其の結果は、勢い基礎鞏固、内容堅実となる次第であり、而して安田式経営方法を以てやって行くから、漸次業績を挙げて、ツマリは安田其のものを肥やすと同時に、預金者乃至旧株主も喜ぶ次第となるのである。右十六行がそれぞれ安田家の支配下に移った当時の事情経緯を調べれば、色々に記すべき事もあろうが、銀行が窮境に陥るに至る径路は、大抵似たり寄ったりのものであり、又安田家が引受くる際のやり口も大抵同一轍のものであったろうから、茲には一々之を述べない。ただ右十六行の創立年時と、安田家の支配下に帰した年時と併せ示す事とする。

[図表あり 省略]

財界反動期に併呑

上記の如く(A)二十二以下百三十の諸行は明治三十四年乃至三十七年までの間において(B)高知以下正隆の諸行は明治四十年乃至同四十四年の間において(C)関西以下帝国商業の諸行は大正十年乃至同十二年までの間において何れも安田家の手中に帰した訳であり、(A)は日清戦役(B)は日露戦役(C)は世界大戦後のそれぞれ財界反動期において何れも窮状不始末を暴露した銀行を安田家において引受けたもので安田家は戦時において船成金鉄成金同成金、染料成金、缶詰成金たる事の無い代りに戦後の大祓い総浚いに際しいつでも四五の銀行を其の掌中に収め益々全国に亘る銀行網を大にし密にして銀行界、金融界における勢力を逞しうしつつある次第である。

百三十、正隆、肥後の三銀行

尚前記諸銀行の内聊か記すべきは肥後、百三十、正隆の諸行であろう肥後銀行は熊本に本店があり、現在資本金一千万円、株式は安田家及熊本の旧藩主細川家で各半数位宛所有して居り、安田系の銀行中でも有力なもので、かの鎧橋々畔の東京支店は安田、第三の本拠本陣に対し一方の明治商業と共に左右翼を為している観がある。百三十銀行は大阪が本店、現在資本金二千万円、安田善次郎氏自ら頭取であり、副頭取は小川為次郎氏である。同行はかつて大阪財界の重鎮松本重太郎氏頭取であった際松本氏があまり手を拡げ過ぎた結果非常に難関に陥った時、時の首相桂公が六百万円の低利資金を融通せしめて故善次郎氏に整理を依頼したものである、爾来着々業績を挙げて現在では預金額も一億を超え、押しも押されもせぬ一流銀行となった。正隆銀行は三十七八年戦役の結果、満洲における露国の利権が我が国に移った時日支合弁を以て創立されたものであり、安田家も最初から関係はあったが、財界の事情殊に幣制の不統一なる同地の事であるから、営業兎角に困難を免れず遂に安田家において引受くるに至ったものであり、現在資本金二千万円、頭取は安田善兵衛氏である。尚お日本昼夜銀行はもと浅野昼夜銀行と称し、浅野氏の経営であったものを引受けたものであり、帝国商業銀行が安田家の手に移るに至った事業は最近の事に属するから省略する事とする

(十四) 安田系の諸事業

銀行以外の安田系の事業

安田系の事業の中心は無論銀行業であるが安田家の富力は各方面の事業に其威力を示して居る、曰く保険業、曰く鉄道業、曰く電気瓦斯事業、曰く土地建物事業曰く何とかぞえきれぬが保険業は安田家にとりて似つかわしい事業であろう。蓋し銀行業が特に信用を重んずる事業であると同時に、保険業も特に信用を重んずる事業である安田系の保険業として先ず挙ぐべきは共済生命保険会社であろう。同社は明治十三年、故善次郎氏が銀林綱男氏等とともに、共済五百名社なるものを興し五百名を一組として相互救済的機関を創めたのに源を発し、二十七年四月現在の会社としたものであり、現在資本金三十万円、社長は安田善四郎氏で志田●太郎、甲能順の両氏が常務取締役である、安田氏の極めてジミな遣方で株主配当は年六分に制限している。次に挙ぐべきは東京火災である。共済生命は生命保険会社として第一流とは称し難いが、東京火災は火災保険会社としてたしかに第一流である。同社は明治二十年七月創立、安田家が同社に関係するに至ったのは途中からであるが、現在資本金一千万円、株式の総半数は安田家に属して居り現に社長は安田善雄氏で、善助、善五郎、武村守正諸氏取締役、志田●太郎氏監査役、善次郎氏評議委員である。帝国海上運送火災は東京火災の分身であり、明治二十六年十一月創立、現在資本金一千万円安田家が同社に勢力のあるのは東京火災同様である。現に社長は安田善五郎氏で武井守正、安田善衛氏等の取締役、志田●太郎氏の監査役、善次郎氏の相談役たるあたり、東京火災其のままである。東洋火災海上再保険は、前記東京火災及帝国海上運送火災の再保険を目的として、大正九年十一月創立されたもの、資本金五百万円、取締役代表は安田善雄氏で、取締役に安田善助氏があり、監査役に志田●太郎氏がある

安田系銀行会社の使用人

由来安田家には所謂人物がないと称せられる。多くの銀行会社の使用人は大抵給仕上り小僧上り、乃至は精々中学校、商業学校出身者を採用して、之に安田式の訓練を施したものであり、大学や専門学校出身者を採用する事は極めて稀であった。高商教授法学博士たる志田氏の安田家入りは当時多少の驚異を以て迎えられたものであったツマリ善次郎氏在世当時は、安田家の事業は全く同氏の独裁専制で銀行の如き特に善次郎氏の最も得意とする所であり、また何人を煩わすにも及ばなかったが、保険業の如き特に専門的智識を要する事業に就ては、何人かの助力の必要を感じかくて志田氏を迎うるに至ったものか、安田家の保険業に重きを置くのは之によりても知る事が出来る、志田氏は安田系の保険事業のすべてに関係している

安田系の鉄道事業

次に鉄道としては京浜電気鉄道、中国鉄道、水戸鉄道、小湊鉄道を数える事が出来る。京浜電気鉄道は明治三十一年三月創立、現在資本金は一千五百万円、社長は安田善五郎氏で、青木正太郎、中根虎四郎の両氏が常務である。中国鉄道は明治二十九年創立、現在資本金は四百三十万円、者y当は杉山岩三郎氏であるが、安田家から派遣されている川崎清男氏取締役総支配人として実務を行っている水戸鉄道は明治三十四年十月創立、現在資本金五十万円、安田善弥氏が社長である。終りに小湊鉄道は、大正六年五月、資本金一千五百万円を以て創立されたものであったが、地元に種々なる反対運動があって、未だに其の開通を見ないが問題も其の後解決して、目下鋭意工事中であり社長は安田善助氏で善次郎氏及志田●太郎氏も取締役である

(十五) 花より団子の安田系

安田系の瓦斯電灯

安田系における電気瓦斯事業としては秋田電気、秋田瓦斯、群馬電力、熊本電気がある、秋田電気は明治四十年六月創立、現在資本金百万円、秋田瓦斯は秋田電気の姉妹会社で同四十四年五月創立、現在資本金三十万円群馬電力は明治三十九年頃から群馬県下の田島達策、高津仲次郎氏等によりて計画されたのであったが大正七年頃に至り安田家が之を援助するようになってから着々歩を進め翌八年七月創立現在資本金千二百万円、社長は安田善五郎氏で副社長は田島達策氏、専務取締役小倉鎮之助氏で善次郎氏も相談役である熊本電気は明治四十二年六月創立、現在資本金一千万円、群馬電力、熊本電気の両者にありては安田系は総株数の約半数位ずつを有するに過ぎないが秋田電気、秋田瓦斯に在りては全部の株が安田系のものであるサテ今は東京電灯に合併となったが日本電灯、桂川電力この両社も甲州系の雨宮氏と提携し安田家が絶大の勢力を有していた事はさきに甲州系の事業を記した時にも述べた通り現在東京電灯の株主名簿を披く時安田系に属するもの十八万四千余株を算するのは之が為めに外ならない又安田家は富士水電にも十万に近き株式を有していたが、これは同社が東京電灯へ合併談進捗の都合上東電及富士電の重役の手に移った

土地建物に関する事業

土地建物に関する事業としては先ず東京建物会社であろう明治二十九年十月創立、現在資本金一千万円社長は安田善雄氏で副社長は藪田岩松氏、藪田氏は安田家の元老格である、なお取締役に善五郎、武井守正、小松林蔵、永滝久吉の諸氏がある同社は土地建物の経営を行うと共に土地建物を担保に資金の貸出を行い単り内地においてのみでなく朝鮮、支那方面にも活動している次に満洲興業会社がある大正六年八月創立、現在資本金五百万円、安田善雄氏が取締役代表で取締役に藪田岩松氏、永滝久吉斎藤恂諸氏があり、同社は北満洲方面において土地建物の経営を行い満鉄との諒解もあって満鉄の社宅其の他の土木工事の請負などもやっている興亜起業会社これは山東地方における土地建物の経営を目的として大正八年十二月創立されたものであり創立日尚浅いから未だ業績の見るべきものが少い現在資本金一千万円、取締役会長は守屋此助氏であるが総株数二十万株中保善社のみで十二万九百十七株を有して居り取締役に安田善次郎直田虎太郎、斎藤純諸氏があり監査役に安田善助氏がある尚満洲興業及興亜起業の両社は全く東京建物の分身とも見るべきものである

安田系の製造工業

安田家の事業は銀行以外のものでも凡て安田式堅実とジミ張りを振りかざし前記保険業、鉄道業、電気瓦斯、土地建物など何れも此種のものに属する茲に例外という程でも無いが聊か趣を異にした製造工業がある安田系の製造工業の筆頭は帝国製麻である同社は明治四十年七月創立、現在資本金三千万円、社長は安田善次郎氏で条無取締役雑賀良三郎氏、安田系の重役に鈴木鈴馬、菅原大太郎、安田善助氏等がある台湾製麻、奉天製麻この両社は帝国製麻の分身でありツマリ帝国製麻の経験から新領土たる台湾や植民地たる満洲に原料の栽培乃至製造工場を興したものであり台湾製麻は大正元年十二月創立、現在資本金二百万円社長は林献堂氏であるが安田系の重役として小倉鎮之助、永滝久吉、阪本治郎(以上取締役)土岐□(監査役)諸氏がある奉天製麻はもとの満蒙繊維工業が昨年九月減資と共に改称したもの大正八年二月創立、現在資本金百五十万円、社長は安田善次郎氏、雑賀良三郎、永滝久吉、菅原大太郎諸氏取締役川澄末吉、阪本治郎、鈴木鈴馬諸氏監査役である製造工業は敢て安田式に非ず堅実に非ずという訳でも無いがかの日本紙器に安田家が関係し遂に之を引受るに至ったのは確に安田のやり方として聊か毛色の変った次第というべく又故善次郎氏失策の一であろう前にも述べた通り善次郎氏は一面に於て頗る積極的大胆であり事業に対しても有望と見込めば随分大規模に而かも徹底的に力瘤を入れたものであり日本紙器の如きも善次郎氏自身同社の各工場を視察して事業の有利なるを認め興業銀行から六百万円の融通を求めて貸付を行ったのであったが大正九年春財界の反動と共に同社も滅茶々々の窮境に陥り資本金も五百万円に減資し更に一千万円の優先株を発行して安田家で引受くるに至ったものであり即ち現在資本金は一千五百万円、社長は前々からの行懸りで鳩山一郎氏である

(十六) 花より団子の安田系

安田系の商事会社

安田系中安田商事会社というのがある。商事としてば海外貿易、貿易でなくとも何か商売でもやるかと思えば、これもサスがに安田式で、貿易の如きハデな事は安田ではやらない。同社には東京支店安田製釘所、大阪支店安田鉄工所、函館支店安田倉庫、運搬部(東京本店内)の四部門があり、ツマリ安田家の何んでも屋の観がある。シカシ、右製釘事業に就ては面白い挿話がある。なんでも故善次郎氏がかつて本邦製の釘の外国製に比して遥かに劣っており、打てばグニャグニャ曲る様なのを見て、頗る遺憾であるとなし、多大の研究費を投じて製釘事業を始めたものであるといい、今日では三菱の旭硝子、三井のセルロイド、安田の釘と特色ある三幅対と称せられている。同社は明治四十四年九月創立、現在資本金二千万円、社長安田善次郎氏、取締役に善四郎、善五郎諸氏、監査役に善雄氏がある

流れ込を待ち自ら創立せぬ安田系事業

以上挙げ来った所によると安田家も銀行以外随分種々な事業を営んでいる様であるが、安田家が創立した会社というのはむしろ少い。創立以来関係している会社は、安田商事、共済生命保険、東京建物、群馬電力、満洲興業、興亜起業、台湾製麻、奉天製麻、東洋火災海上再保険の諸会社であるが、而かも前にも述べた通り満洲興業、興亜起業の両社は東京建物の分身、台湾製麻、奉天製麻の両社は製麻帝国の分身、東洋火災海上再保険も東京火災及帝国海上運送火災の子会社であるから、正真正銘、安田家が最初から計画創立して連綿今日に至っている会社としては、安田商事、共済生命保険、東京建物、群馬電力の諸会社に過ぎぬ。而かも群馬電力も最初は地元の田島、高津氏等の発起計画にかかり資金の関係で安田家が之に関係するに至ったものであり、かくて安田商事、共済生命保険、東京建物この三社こそホンの正真正銘、安田家の事業会社と称すべく、恰かも銀行方面でいえば、安田銀行、第三銀行、明治商業といったところに相当する

利息取り主義

由来安田家では飽くまでも利息取り主義で、かの安田家と事業上の関係が最も深いと称せらるる浅野氏の事業、例えば東洋汽船でも浅野セメントでも、或は社債の引受けを為すとか、或は貸付をするとかはするけれども、其の株式を所有する事はあまりしないに拘らず、東京電灯、満鉄等の電気会社や鉄道会社の株式は却々多数に之を所有している。シカモ、安田家の経営する電気事業や鉄道には大したものが無い。秋田電気、群馬電力、熊本電気、これ等は今日電気業合同膨大の時代に於て、甚だ微々、例えば横綱、大関に関して十両株にも当るまい。鉄道は今日国有鉄道の下に固より大したものは無いが、それでも京浜電気で集うにせよ、中国鉄道にせよ、水戸鉄道にせよ、何れもあまり華々しいものが無い。シカモ、これ矢張りツマリは安田式である。燦然として華々しく人目を惹くのは安田の好む所では無い。花より団子名よりも実主義である。電気界に在りて其覇王、保険界に在りて其お横綱、紡績界に在りて其の巨頭、製糖界に在りて其の総帥等は安田の好む所、安田の行う所では無い。そんな所に成るのには、少しは無理も交るというもの、余計な心配もしなければならず、余計な費えもかかる。そんなに目立つ様に成れば、世間の嫉視反感も買うと云うもの。要するに広告費もかかれば虚栄税も払わなければならぬ次第安田のやり方は皆茲にある

最近は余程空気が変った

最初に述べた通り、安田銀行も、第三銀行も、其の資本金は二千五百万円たり、三千万円たり預金額も一億三千万円たり、一億四千万円たり、之れを三井銀行の資本金一億円、預金四億二千万円、十五銀行の資本金一億円、預金三億六千万円、乃至は住友銀行にも、三菱銀行にも三十四にも、川崎にも、山口にも、近江にも及ばない観がある。而して建物と云えばあの黒漆喰の土蔵式入口には麻暖簾をかけて、行員は一斉に黒サージの背広、このころはそうでも無いが大学卒業とか専門学校卒業とかは寥々暁の星、安田のジミ、安田のケチは通り相場であった。事業の合同合併、殊に銀行の合併合同は政府当局も之を勧奨し、学者識者も之を唱説し、近来続々之が実現を見つつある。何かの関係のある銀行は追々と合併し合同しつつある。安田家関係の数々の銀行、どうせ同一系同一家の銀行である一つ資本金二億円安田銀行とでも出かけたらと思われる様であるがそこはそれ安田式である花より団子である。そんな事をするには多少の無理も加わる事であり、厄介もあれば面倒もある。揚句の果ては虚栄税も支払わねばならぬ。地方の銀行会社、そこの重役には、何々銀行取締役何々会社監査役の肩書をこの上も無く喜んでいる連中が少く無い。安田家では実権を握っていればそれでよい。株式の過半数を有し、乃至有力なる債権を有しておればこっちのものである。専務とか常務乃至は支配人としては安田の一族或は安田直系の者を配してあるこれは銀行でも会社でも一様一轍である。但し時は流れる。善次郎氏既に亡し、結城豊太郎氏総理大臣たるに及んで、安田の空気も余程変って来たと称せられる。銀行の合同なども近き将来に行われんかの風説がある

(十七) 今日の大を為した所以

安田善次郎氏の生立

今を去る事六十九年前、安政元年某月某日、遥々越中から江戸にやって来た当時十七歳の一青年、破れ股引に破れ笠か、単衣一枚に風呂敷包み一つだったかは穿鑿の限りで無いが、やがて下谷御徒町あたりの鰹節店に奉公し、数年の後十五両の金を貯めて自ら鰹節、海苔、砂糖などの店を開く、更に両替業の有望なのを見込んで、元治元年日本橋区小舟町に安田商店を開く、春風秋雨否櫛風淋雨爾来幾十年、今日の安田王国たらしめたのは、個人の力も恐ろしいものである、故善次郎氏に対しては、毀誉褒貶さまざまである、大正十年九月二十八日、大磯の別荘に於けるかの非業の死は、故人にも非議すべき欠点があったことを物語るものであろうが、兎に角、意思の人、努力の人、実行の人とするに於ては、何人も異議はあるまい、一代にして巨億の富を積み、天下の金権を握る非凡の人で無ければ出来ない所である、而かも政府と特別の因縁を結んだのでもなくまた缶詰に砂利を入れたのでも無く、独立独歩、奮闘努力、勤倹節約、今日の大を為すに至った事は正に敬服の外は無い但し富は之を積むに易く散ずるに難しと称せられる金銭は之を蓄積しただけでは効用がなく之を利用するに於て効用がある、善次郎氏と雖もたしかに利用はした、然り、他人よりもより多く之を利用した利用したればこそ一文二文を積んで之を十五両とし十五両を利用して今日幾億の富となしたのである善次郎氏は散ずるにせよ利用するにせよ更に蓄積せんが為而かも自家の富を更に増大せんが為にのみ之を行ったと云う事に就て非難され攻撃されたのである桂公が済生会を起し天下の富豪に寄附を求め男爵を餌に善次郎氏に対しても百万円の寄附を依頼したのに一議に及ばず之を拒絶したのは有名な事実であった男爵といえば、渋沢氏は子爵となり、大倉、古河、住友、藤田、鴻池、森村等何れも男爵となったのに、安田の男爵たらざるは又面白き一事象では無いか而かも善次郎氏には善次郎氏独自一家の見解があった帝大の印度仏教講座に百万円の寄附を行い又後藤市長との間に諒解があって東京市に多大の寄附の約があったのも人の知る所である

保善社の創立

保善社なる名称は何の意味か之を知らない保はやすとも読むやすは安田の安で善は安田家の通り名前保善社はつまり安善社か、乃至は安田の行った所、行う所は種々世の批評は免れないにせよたしかに悪ではないソコデ善を保つの意味か、大抵其の辺の所であろうが我れ等の推測する所によれば安田家の御家万歳、百代に存続、即ち善次郎、善之助、善五郎、善雄、即ち善を保つの意味であろう閑話休題、保善社は資本金三千万円、明治四十五年二月の設立にかかり所謂安田十一家の出資で其の出資額は左の通り
 善次郎(八百四十万円)善四郎(八百二十万円)善五郎(三百万円)善雄(三百万円)善衛(二百四十万円)彦太郎(二百四十万円)善兵衛(百八十万円)善弥(百二十万円)一雄(六十万円)善造(六十万円)
保善社の目的は有価証券及不動産の所有、各種事業に対する放資でありツマリ、安田一家の内閣であり参謀本部である保善社には総長がある善次郎氏之れに任じ、其の下に専務理事結城豊太郎氏があり善五郎、善雄、善衛、善兵衛の四氏が理事である組織を六部に分ち秘書部(部長飯田武也氏)庶務部(部長近藤重三郎氏)銀行部(部長兵須久氏)会社部(部長斎藤恂氏)理財部(部長小笠原鐐次郎氏)調査部(部長斎藤恂氏)之である結城氏は安田系の総理大臣、氏の安田家入りはツマリ、善次郎氏のあの事があったからであり高橋前首相、井上日銀総裁等の斡旋奔走によったのは人の知る通りであるが一面に於て時勢の然らしめた所であろう、氏が安田家に入ってから安田家の経営方針、安田家のやり方にどれ丈けの変転改善があったか未だ深く之を知らないが何しろ爾来未だ僅々一年二三箇月総ての成果すべての批評はむしろ今後に属するであろう安田家の人物としては結城氏、最近大連で客死した元老原田虎太郎氏、それに同格の藪田岩松氏等の外に余りに著聞した人々が無い

隠れた大参謀

安田には人が無くてよくあの大事業が出来たと言われているが故善次郎氏には隠れたる大参謀があったと称せられる山本達雄氏、後藤新平氏等は其例であって善次郎氏は時々これ等の人の言に聞いて、大方針を決したとの事である、由来富山県は南、立山連山、白馬連峰に遮ぎられ、一方能登半島に抱擁され北、日本海の陰風を迎えて雨量に富み地勢、気候の関係上、人間の性質兎角に陰鬱となり執拗となる、加うるに幕府三百年の間、前田侯の版図に在ったのであるが、百万石の城下というので加賀の人間は兎角に威張りたがり鼻が高く越中人に対しては越中さ越中さと称し、素町人とし百姓として軽蔑の眼を以て迎えていた、越中の人間思えらくこれはどうしても実力を以て対抗せなければならぬとセッセとコツコツと実力の涵養蓄積に努めた、実力=体力となって現れたのは梅ヶ谷、太刀山である、実力=財力となって現われたのは安田、浅野である粘り気が強く信用の利用に厚いのは例の富山の売薬売りに見ても明かである(安田系終)

(十八) 関西に雄飛する江州系

隠然たる大勢力

関西殊に大阪の財界において現在最も重きをなしているものは綿業即ち貿易、綿糸布、織物の三業者であってまたその中心勢力を京成しているものは所謂江州並に尾州の二系統によって営まれている綿業関係者である由来京阪の地に於いて財閥的系統を作った者は住友鴻池の如き世襲的のものを別として古くは五代友厚松本重太郎より土居通夫等其他にも大小相当にありシカモ之等は何れも相応の地盤と後継者を残したに拘わらず現在に於いてそれが正統として残されているものは殆ど稀である。然るに綿業界における江州系なるものは連綿的の系統を継いでいない迄も甲から乙或は丙と相応の筋合を辿って現在隠然たる中心勢力を維持しているのは如何に彼等が普通の実業家と努力の程度を異にしているかが窺われる

猶太民族と江州人

『近江商人はその郷国を去て異郷に黄金国を作る、彼等は即ち日本の猶太人である』との声を聞くのであるが、併し猶太民族は国家の独立を失い他邦の虐待に堪えないので故国を亡命して世界の随所に黄金国を作り他国の保護の下にその余命をつなぐので彼等は敗残の身を託するのに黄金を択んだ、一方、近江商人は江州に立脚してその墳墓の地を死守せんが為めに黄金に向って突撃したのでその出所には非常な差異がある、猶太人は黄金を得る以外、何等の理想を持たぬので到るところ『ジウ』の一語を以て禽獣視されているけれども近江商人は堂々たる一国民の資格に於て活動しその得たところの黄金は墳墓の地たる故国を賑わし且その商業は興国の要素となって国家に貢献したことが頗る多く両者は到底同日の談ではないただその堅忍、克己、節制等の至難な行為を敢てする点は稍や相似ている、詳しくいうと近江商人の態度は古来一貫して積極的、冒険的、遠征的、独立的である、どんな辛酸にも堪えどんな艱難をも意とせない堅忍不抜の精神に至っては海内無比である、越後人は堅忍持久の点で近江商人と好一対だといわれてはいるけれども彼は唯だ堅忍、唯だ持久で機に臨み変に応じて宜しきを制する分別はとても近江商人の足許へも寄れないのである、ところで一概に近江商人といっても琵琶湖の西と東とによって大にその趣きの違っていることを忘れてはならぬ、近江の史実研究に熱心な三浦周行博士はこういっている『西近江の商人は権門勢家、山門(延暦寺)寺門(三井寺)などの庇護の下に発達しこれ等の保護者とその運命を共にせねばならぬ羽目に陥って後世余り振わなくなったが、一方、東近江の商人は独立自営天秤棒を担いで天下を闊歩したものでその系統は今日尚お三府を始め全国にその勢力を揮うている、これは政治上や宗教上にも見るように商業上に於ても何等の主義定見もなく只だ依頼心の強いだけでは栄える道理のないことを物語るものである』と、誠に然りで今日のいわゆる近江商人は全く東近江の商人で蒲生神崎愛知の三郡を主とし犬上阪田の二郡を従とした湖東五郡出身者に冠らせる呼称であって殊に蒲生郡の日野町と八幡町、神崎郡の中部(南北五ヶ荘旭の三ヶ村)とは近江商人の根源地―近江商人の本場だと見られ現代に三府を始め各地に雄飛している実業界の巨人中にこの地方から出ているものが少くない

江州系発展の径路

由来江州の地は織田氏の永禄年間以来常時争乱の巷となり従って人民の疲弊甚だしく偶々徳川氏が幕政を布くに至っても政策上近江を一諸侯の領有とせず約百四十余に所領を分割したため政令もまた区々であって民心を納めるより租税を収めるのを政策とし苛斂誅求を逞うしたから人民の苦痛は一層甚しいものがあった、殊に大湖を控えているために土地面積の割合に人口多く他に生産物を求めなければ迚も農産のみにては生計の途を得ないので八幡の蚊帳或は畳表日野の売薬高宮の麻布長浜の縮緬等の副業的産業を促した訳であるかくて之等製品の販路を求めると共に暴政を免れんがために窮民は競って地方行商に出るようになり之れが即ち近江商人の起源である彼等江州商人は追々行商の途に慣れるに連れ啻に自国産物を他国へ行商するに止まらず更に甲国の品物を乙或は丙地に移入するなどその当時の交通不便を却って逆に利用して思わぬ巨利を博し益々自己の地盤を築くことに努めたのである、漸く資本を蓄積するに随い行商より転じて主要都市に店舗を設けるようになり大阪の地に商業的地盤を築くに至ったのは天明年間頃よりと伝えられる

(十九) 関西に雄飛する江州系

江州人の系図調べ

江州系発展の径路は大要上に述べた通りであるが更に溯って一瞥を要する点は往古応神帝の御代秦漢三韓地方から政治的圧迫を受けた所謂亡命的帰化人が蚕業と織物工業を江州の地に齎らした伝説的の歴史である即ち秦公(はだのきみ)の祖となった弓月王(融通)というのが大約千六百四十余年前に百二十七名の移民を率いて帰化し之等が夫々各国に分布されたものだが雄略天皇の時代には各地の秦民を集めると其数実に一万八千六百余人あったとのことでありその後漢の帰化人相踵いで大和近江播磨阿波地方に移入した、応神帝が秦氏の祖を招き宜わせられたという歌詞に
 この蟹は何処の蟹じゃ、つぬが(敦賀)の海を横這うてきた蟹じゃ、それといまさかもりするをよろこぶ
と伝えられている勿論此歌詞は意訳したものだが之等の伝説が今でも大和竜田地方に存在しているこの蟹とはその当時の帰化人を指し横這うは日本海から敦賀に渡り近江を横切ってという意味で兎に角その当時近江の地に之等帰化人が少からず入込んだことは争い難いようである、而してこの移民は主として湖東の地で農産の業に従事しその子孫が活動を続けたことを想像され惹いて江州商人の一部には秦人や漢人の血の伝わっていることも万更無稽の伝説とも思われない。シカモそれがその後どういう経路で発達したかは的確に研究されていないが所謂江州商人の本場である日野八幡地方が近江源氏の根源地であったに徴し或は近江源氏即ち佐々木氏の祖も同一系を辿っているかも知れない、江州商人が近江源氏の系統を引き武士的の面影のあることは既に史実によっても明白となっている、佐々木氏滅亡の後残党の徒が弓矢を捨て帰農し転じて天秤棒を肩に行商を営む中年と共に経験も加わって遂に純然たる商人化したものであろう現在日本の大富豪である三井家の祖或は鴻池抔も其系図を溯ると祖先は何れも近江源氏の支流で湖東出身の武士ということになっている。現に安土の沙々貴神社の例祭には三井家より代表を参拝せしめる古例もある位である兎に角江州商人其幾分かでも秦漢人の血を受けているということは現在江州系実業家の商策が往々上海や天津地方における華商のソレと大いに似通っている点などとも結び付けて一般に信じられ易い風説を成している

営利に抜目ない江州商人

営利に抜け目のない江州人の個性と商才に長けていた彼等は少しも小成に安んぜず尤も多少の消長あったにせよ継続的に方針を襲用し次第にその基礎を固め遂に今日の大を為すに至ったのである殊に現在織物界における覇権は何んといっても江州系によって占められ同系発展の経路もまた織物業に端を発しているのである、次で醸造界における勢力も却々侮り難いものありこれは主として日野方面の商人の根拠とする所で目下労働争議に紛糾している醤油の産地である野田の醸造家の多くはその源を江州系に発している社会組織の尚調っていない当時からその発展の途を織物、醸造など衣食必需品の供給に精力を注いだ、江州人の奇才は今日の大を為すの因となった訳で決して偶然でないと同時に興味のある現象である

第一期は織物時代

江州系の発展径路は四期に岐つ事が出来る即ちその第一歩は織物時代であり次いでその原料である綿糸布に移り更に拡張して銀行及びその他工業に手を延ばす者も現れ一部においては保険事業を計画したものさえあるが然し要するに其大勢力は殆ど繊維工業品の取引商に集中されているのである、物貨の行商に端を発した近州商人は天下を以て我家となし草鞋脚絆に天秤棒を肩にして国産を商い或は四国中国を過ぎて九州に入り又は関東奥羽を経て遠く蝦夷の内地に迄も踏入り華主を南海の浜辺に求めるかと思えば顧客を北陸の辺陬に尋ねるなど六十余州を精力のあらん限り身体の続くに任かせて雄飛し各地の産物を甲地から乙地へと転々する内に確乎たる商業的地盤を各地に築くことが出来遂にその営業の本拠を商業の中心地たる京阪の地に求め益々個性の発揮に努めた訳でその多くが織物営業に従事したのである、シカモその当初の経営振りは頗る大胆であって相応資産のある顧客と見れば躊躇せず貸売を行い時には強売することさえあった従って顧客は不必要な品物でも購入することあり一方貸売代金の取立方も頗る巧妙を極め徒に資金を固定せしめない、かくて資本も次第に豊富になるに連れ地方の同業者を掣肘して益々地歩を固め同時に店員を各地に派遣し所謂「持ち下り」の商業方針の下に拡張又拡張と勢力を昂めて行き成功の基礎も堅まり今日系統を引いている者の多くは此時代からの経営者で即ち稲西系、丸紅系、外村与系、森五系、阿部、山中等で之等は何れも本町を中心として織物問屋中の主力と目され殊に稲西外村の如きは少からぬ分派を有し船場中において隠然たる小王国的勢力を有し一時は稲西又は外村等の屋号を使用することを許されて分家する事を無上の光栄視し惹いては其間の勢力拡張扶植は著しいものがあった

(二十) 関西に雄飛する江州系

合名組織の元祖稲西系

系統からすると稲西系などは随分古いものでシカモ之は一個人でなく神崎郡出身の稲本利右衛門氏と蒲生郡出身の西村重郎兵衛の二氏によって系統を作られているが遠く文化年代に相互の頭字を取り所謂稲西屋なる合名組織の店舗を開いたのが最初で斯界における会社組織の元祖を為している、経済組織の極めて幼稚なるその当時において共同出資による合名組織の有利であることを看破し且之を遂行したということは如何にその方針が進取的であったかを想像せしむると共に江州商人の経済的手腕の決して凡ならざることを証明するものである、同系の古い記録によると当初は主として織物仲買即ち「持下り」商内又は卸売をしていたが商運の発展するに従い甲州武州地方の織物を関西の地に引き所謂甲斐絹を一般的に拡めるなど関東機業地と京阪織物問屋との連絡を密接ならしめ同時に関西における特殊織物を関東市場へ移入して販路の拡張を図った、斯て稲西屋の商号は遠く奥羽から九州の端まで嘖々たる名声を謳わせたものだ。加之天保の初年に至っては所謂「対州行」と称して幕府の禁制したる織物海外貿易に先鞭を付けたのは特筆すべき事であろう、即ち直接外国との取引は国禁を侵すものだから対馬を仲継として甲斐絹等の織物を朝鮮その他の方面へ輸出するなど織物輸出の上にも少なからず貢献し遂には支那朝鮮にまで稲西屋の名を知らしめるに至った而して稲本西村両家の系統は今尚連続し且当初の協同以来両家共四代を経るも依然として組織を変更せず今日に至っては大小三十余店の分系を出し西健合名会社稲本唯七などはその最も重きを為し現在の大丸呉服店も多少の系統を引いているとのことである

外村系と織物業

現在三都の織物卸問屋間において古くより最も重きを為しているのは外村与左衛門系である。之は神崎郡の出身で初代与左衛門は文化年間の人である、此人は江州系に於ても代表的勤勉の人で郷党間にも今尚有名な逸話が少からず残されている常に世の所謂金持なる者の思慮浅薄を憂え驕りを慎み精神的に快楽を求め昔日の貧苦を忘れずに、部下一族の指導頗る宜しきを得た、従って一門はそれに促され勢い堅実なる商風に慣れ今も尚一系十数家が東西の地に斯界で覇を争うの有利な地位を占め正系である現代の外村与左衛門氏は大阪織物業界の重鎮とされている。外村与左衛門氏の傍系に外村市郎兵衛氏がある商号を「外市」と称し之も斯界に重きを為し同一系の外村宇兵衛氏は「蛇の目」即ち九星合名会社を組織し現在外系中の中心となり外村定治郎氏また斯界の巨商であるなど一族の多くが織物界に覇を争うの優勢なる状態にあるだけに同系の斯界に於る勢力は頗る偉大なるものがあり東京並に京阪の三都において平均的に活躍しているのは何んといっても同系で右に出るものはない

現在の森五系

稲西外村両系に次いで古い歴史を有しているのは森五郎兵衛系である森系は八幡の出身で同地の豪家□系に属しているがその発生は随分古く大阪に地盤を築くに至ったのは元禄年間とのことである。現在正系たる森五郎兵衛氏は実に十一代を経ているので家柄としては寧ろ前二者よりも古い方である、併し其傍系は外村、丸紅に見るが如く多岐に亘って居らず大阪に於る同系は寧ろ関東に比して稍や劣るものがある。当主五郎兵衛氏は他家より入ったものであるが純然たる江州系によって経営されている現在唯一の有力紡績即ち近江帆布の社長として同系を代表し東洋紡績に於る阿部房治郎氏と共に江州系出身紡績界の重鎮となっている

麻布商の元祖布屋山中

麻布は近江国産中の最も有数なものである、シカモこの麻布の販路拡張と麻布製織に偉大なる成功を収めたのは山中系の中興山中利右衛門氏である山中家の祖は佐々木氏に発しているというが利右衛門氏は文政年間他家より迎えられて山中家に入家したのである、その当時山中家は僅かに麻布の製織に従事していたがまだこの頃は近江麻布の声価がその割合に挙らず従ってその販路については遉がの江州商人も聊か手を焼いていた、随って麻布の生織は頗る振わないのみか畢竟麻布商に使役せられるに過ぎないような結果に往々陥るので利右衛門氏は茲に麻布の販路拡張を企て偶々土佐藩が藩令によって土民の絹布を纏うことを禁じた機会を利用し一方運動の末藩用達の命を受けて土佐一国の麻布需要は勿論氏国一帯の需要をも独占的に供給することとなり一気に商業的地盤を築き上げ大阪の血に布屋利右衛門一名「布利」の名を挙げ山中系の基礎を固めたのである□曾て本家の家憲を設け家督相続権を制限し即ち主人は五年交代とし期限が到来すればその主人に最も近い系流にある者に相続を譲り苟も擅断の処置のないように警めたなどは曩に鐘紡社長武藤山治氏が自ら社長の就任継続を制限したのと似通ったものである。シカモそれが明治初年に行われたことであるとは如何に家系の維持に厳であったかが窺われ今尚山中系が麻布は勿論その他の織物界に江州系として重要な位置を占めている所以であろう。現在東洋紡績の重役として阿部系を代表し且江州出身の紡績業者唯一の成功者である阿部房治郎氏も一時はこの山中家に養われたことがある

(二十一) 関西に雄飛する江州系

江州商人中の成金丸紅

明治維新から最近にかけ京阪において織物及び綿業界に最も羽振りを利かしたのは丸紅系即ち伊藤忠兵衛氏である。シカモこの丸紅系は稲西外村阿部等の如くその系統が余り古くないだけに一層世間から注視され、江州系の成金を以って目された貌がある。明治維新の覇業成り国運の進展するに従い商業界もまた賑い織物、或は綿業と総てに発展の著しいものがあり江州商人としては乗ずべき機会もまた決して少くなかった、その機に乗じて他の豪家を追い抜くの活躍を擅にした丸紅系の祖先代伊藤忠兵衛氏の努力は江州系を語る上において決して見逃すことの能きないものがある、現在巨万の富を擁している江州系の多くは当初より地盤のあった訳でなく今日の大を為す迄には、凡ゆる惨憺たる辛苦を忍び且数代の系統を経て来ているが、丸紅に至ってはその系統最も新しく現在で漸く二代目に過ぎない然るにその発展の程度が他の連綿たる諸系統を抜いている程烈しいのであるから家柄を尊ぶ側のものから見れば確かに成金の部に属する訳である、シカモ傍系としては綿業界の重鎮といわれている田附政次郎氏もある日東綿業系を作る外海鉄次郎氏も同系に属し大東綿業系の村岸休五郎氏関西紡績の直川安次郎氏最近富士瓦斯紡績に買収された日本紡織系等も共に丸紅系より発している

丸紅系の起源

丸紅系の祖である先代伊藤忠兵衛氏は犬上郡の出身で天保十三年を以て生れた。営業的系統の順序を正して行くと目下では絶えていえるが同氏の伯父に当る成宮武兵衛系であるともいえる、少年の頃から頗る商才に長けていた方で明治維新善後の財界混乱に乗じ血気に任かせて随分思切った商策を用い僅か数年間にして系統の古い巨商の端に列するの成功を収めたがその間には曩きにも述べたように、少からぬ辛苦を嘗めて来ている、殊に明治初年防長を始め各地に戦乱争闘が起り商人は何れも活動を阻止されていたがその機を利用して盛んに活躍し国内平定の後反動的の好景気に入るや忽ちそれに乗ずるなど頗る商策の妙を得た、大阪の血に初めて丸紅の暖簾を掲げたのは明治五年で商号を紅忠と称したその当時本町界隈における江州系としては全く新参に過ぎなかった、その後明治十年の西南役或は日清戦争等の前後には財界の波瀾著しいものあり流石の江州系中にもその悪影響を蒙って破綻の運命に接したものが少くなかったのに反し紅忠即ち丸紅のみは日進月歩の勢いを以て進展し遂には大阪における江州系の大動脈とも称せられる程の大勢力を織物界と綿糸布界に築き上げたのである

雑貨直輸の魁

紅忠の発展は単に内地のみに限らなかった、漸く海外の事情が伝えられるに連れ織物並に刺繍絹手巾その他雑貨の直輸出を企て明治十八年に伊藤海外組を組織し本拠を神戸に支店を桑港並に支那各地に設け本邦輸出貿易界に一新紀元を作った、その当時この種計画を断行したものはこの伊藤組と森村市左衛門氏の経営する森村組の二に過ぎなかった、次で英国手織物の直輸入を試み本邦毛織物界に刺戟を与え、日東合資会社を創立して支那棉輸入の途を開き、同時に邦糸支那輸出の端を開くなど、その当時の大阪商業界に活躍し凡ゆる方面を風靡した。博多に本店を構えていた家兄伊藤長兵衛氏の紅長商店の業務が偶々不振に傾いたので遂に之れを紅忠に合し、初めて商号を丸紅と改め組織を五百万円全額払込の株式会社とし現在の丸紅商店が即ちそれである。一方紡績綿糸布の発達に連れ更に之れを分派し伊藤忠商事株式会社(伊藤糸店)を設けて綿糸布専業として綿業界の中心勢力を作るに至った

星久と小泉系

如上の外にも大阪織物業界で古くから、地盤と系統を有しているもの尚尠少でないが、その内でも塚本並に西川系は共に関東に本拠を置き京阪は寧ろその一支流に過ぎず従ってその勢力は左程でない。星久松居敬と小泉一家は今尚相当の勢力を有し且その系統も江州系としては有数であり京阪当業者の中堅を為している

(二十二) 関西に雄飛する江州系

第二期綿糸布系の発展

第一期織物系統時代から第二期の綿糸布専業系統に移ったのは、本邦の紡績が試験時代から漸く発展時代に入ろうとする明治二十年前後の頃である、従ってこの系統の発達は我国紡績事業の発展史と恰度併行し大正八九年の紡績揺籃時代には、之等江州系の綿糸布業者もまた極度に発達した時である、故にこの系統を述べる順序として先ず本邦紡績の発達径路を略述して見よう、民間において株式組織で紡績事業が計画されたのは明治十五年に渋沢栄一子が一万錘の大阪紡績会社を起したのが最初である、しかしこの当時は印度綿糸の輸入が盛んであり、屡々それに圧迫されて迚も好結果を得られなかった、越えて明治二十年に至り、阿部市郎兵衛山中利右衛門中村治兵衛小泉新助阿部周吉同市太郎等純粋の江州系のみによって金巾紡績が設立された、これが江州系の紡績事業に手を染める第一歩であった、現在綿業界に覇を唱え将軍と渾名されている田附政次郎氏も、その当時にはこの金巾紡績の販売係を勤める一会社員に過ぎなかったのである、此頃より本邦の紡績界は漸く発展の緒につき鐘淵紡績は三井系を背景として十万円の資本金を以て起り、内外綿会社は当初から五十万円の巨資というので世間から注視された、その翌年倉敷紡績が発起され続いて大日本紡績の前身である尼崎紡績が、内外綿同様五十万円の資本金で設立された、こうして各方面に紡績事業が勃興するに随い綿糸に最も密接の関係ある織物業者に影響を及ぼすのは当然でシカモ大阪はその織物の集散地であり且斯界における権威が江州系において握られているのであるから、嫌でも紡績と江州系の織物業者との関係が密接にならざるを得ぬ訳で、殊に紡績経営の上に要する資金に就て富豪を多く擁する江州系の援助を受けなければならなかったのは当然の帰趨であるまいか、この意味からすれば現今我国蚕業の唯一と称される紡績事業の中心を大阪の地に据えたのは江州系の手柄である

紡績と江州系糸屋との関係

今でこそ糸屋は紡績会社の御用を勤めている一商人の如き観があるが、当初は前に述べたように現在と地位が全然主客転倒していたのである、それはその筈で地方の機業家と云うものは関東関西は勿論氏国中国から大和泉州方面の何れを問わず、本町を中心とする織物問屋即ち殆ど江州系のそれによって支配されていたのである、要するに機業家の多くは原糸の供給をこの機物系から受け製品の種類を随意に選択して命じられ、シカモその相場は之等問屋において独断的に決定するのであるから、その間に機業家の勢力は頗る薄弱で織物問屋に使役せられる職工の元締め位の価値しかなかった、従って紡績が幾ら綿糸を紡いだ所でこの織物屋強いていえば江州系のものに反感を抱かれたならば製品を消化すること覚束ないのみか、既に印度その他外国綿糸と競争して行かねばならぬのだからどうしても彼等を味方に引き入れて置かねばならぬ、夫には江州系商人の巨財を利用して出資を求め資本と販路を占める一挙両得の経営方法を講じたのである、その意味からすると故人になった山辺丈夫、川邨利兵衛或は菊池恭三氏等は所謂紡績企業者側に属していた、その後紡績界には少からぬ消長があり、現在の一流紡績さえ棉代の支払手形を危く不渡せんとした窮状さえもあったくらいで、尼崎紡績株を只で貰い手のなかったようなこともあった、しかし明治二十七年に三品取引所が設立され、綿糸の取引が漸く一般的に行れるようになり進んで輸入綿糸を防遏するのみか、少量ながらも輸出をするようになって茲に初めて綿糸布専業が起り江州系の第二期発展時代となったのである

中宗と薩摩治の分系

現在大阪綿糸布界において江州系で重きを為しているのは順序は別として、阿部市系、丸紅系、田附系、不破系、前川系、江商株式系等である、発展の当初から説明すると「中宗」即ち中村宗兵衛氏などは頗る勢力のあったもので、綿糸布取引が今日の大を為すに至ったのも同氏の努力による所が少くない然しこれも今では既にその系統を絶ち昨年故人になった元三品取引所取引員組合委員長山田留吉氏が僅に系統を引いたに過ぎない、中宗に次いで斯界に一時勢力を示したのは薩摩糸即ち薩摩治兵衛氏と其養嗣子の経営した薩摩商会である、薩摩は東京における江州系の重鎮小林吟右衛門氏即ち「丁吟」から系統を引き純粋の江州人系であったが、養嗣子として迎えた薩摩吟次郎氏は三重県の出身で郷党的の系統が絶えているのみか、日露戦後財界動揺の厄を受け、同氏の経営していた薩摩商会の倒産と共に綿業界における同系統杜絶し強て求むれば、株式会社山本商店の主脳者山本顧弥太氏などが多少業務的系統を継いでいるに過ぎない

(二十三) 関西に雄飛する江州系

紡績の発展と江州系の膨脹

日清戦争の結果は従来支那商人が独占していた、朝鮮市場を日本の商人によって占めるようになり、従って朝鮮における綿糸布の需要は本邦から供給するようになった、おまけに明治三十年から連年孟買に悪疫が流行して印度紡績の生産力を著しく阻害したから、勢い支那に対する綿糸の供給も本邦の綿業者によって行われる途が開け日本の紡績は単に内地需要のみでなく輸出にも力を注ぐようになり、漸くにして紡績の基礎が出来かけて来た、これより先き紡績と綿糸商との間に資金関係その他から販売上に特約があり、紡績の多くは綿糸商の手を経てでなければ製品を市場へ出すことが能きぬ組織になっていたから、紡績の発達販路拡張に伴って綿糸商の得た利益は実に巨大なるものがあった訳である、かくて江州系綿糸商拡張は日に旺盛を極め、丸紅系の伊藤糸店は伊藤忠商事となり更に田附政次郎系を生じ前川善三郎の養嗣子前川弥助は株式会社前川商店を起し、不破栄次郎は永楽屋系を代表し、阿部系統は阿部市商店、下郷並に北川系は北川株式会社を瀬尾一家は瀬尾喜、瀬尾秀等があり之等は凡そ同業者中の重きを為した、三井物産棉花部、日本綿花等の如く棉花取引と輸出綿糸を兼営するものに対抗するため純江州系を以て江商会社を創立するなど綿業界における江州系の扶植は益々優勢となり之れに所謂尾州系なるものが加わって一層斯業の発展を促した訳である

綿業界における阿部系統

大正九年財界大動揺の先駆をしたものは株式界でそれに次では綿糸界であった、綿業界初まって以来というよりも寧ろ有史以来未曾有の動揺という方が適当であるということ程稀有の出来事であるから、これが綿糸界に齎らした打撃が如何に甚大であったかは想像に難くはあるまい、戦後の好況当時には一流と目される綿糸商は何れも累資一億円を目標として進み、又その当時の状況はそれ位の巨利を蓄積するのは、糸商の大を以てすれば敢て難事とせられなかったのである、従って二流三流に至っても三千万或は五千万円と相当の目標を樹てていたのが、九年の大動揺によって根柢から崩されたのだから反動的の悲境は随分甚だしいものがあった訳で、さしも驕っていた江州系の基礎に少からぬ亀裂が入ったのも無理ならぬ事である、この亀裂の這入った江州系中で現在比較的優勢に勢力を握持しているのは阿部一家即ち阿部系に属する諸系統であろう

投機で固めた阿部系の祖

阿部系は代々市郎兵衛氏がその正系を継ぎ、傍系として阿部市太郎、阿部彦太郎、阿部房次郎等が重きを為している、阿部家中興の祖ともいうべき先々代の市郎兵衛氏は神崎郡能登川の出身で、成功の端は矢張り織物の行商である、商号を紅市又は布市と称して、最も利財の途に長けていた、家業が追々発展するに連れ、その時は尚未開の地であった北海道との貿易に目を付けて、米雑穀と鯡干鰯等との交易を行い、一方丹後縮緬或は近江麻布を関東方面へ移出するなど頗る活躍したものである、殊に商品販売の方法について、三ヶ月乃至六ヶ月間の延売方法を案出し、取引先の歓心を得ると同時に収益の増加を図った、即ち一の商取引に対し商品より得る利益と、決済の延べより来る利息と二様に利を納める訳で、その当時としては極めて進歩した取引方法である、現在の所謂先約取引の濫觴である、シカモ市郎兵衛氏は商機を見ることが頗る敏で、従ってその方針は兎角投機に傾くものがあった、しかし思惑は一として外れたことなく事毎に成功し、遂には今日の大を為す基礎を築き上げたのである、市郎兵衛氏の次第に同姓市太郎がある、先代の阿部市郎兵衛氏がそれでこれも家兄に劣らぬ奮闘家であった、商才の非凡であったことは市郎兵衛氏以上で絶えず商界に思惑を試み、他人から神商人とさえ渾名された位いである、その末弟が往年米界に雄飛して「天下の阿部彦」と称し一代の大相場師と謳われた、阿部彦太郎その人である、阿部彦の事跡については沢山述べることもあるが、兎に角三人の兄弟がかく揃いも揃って、投機好みであるということは稀有であるのみか、一人の失脚者も出さず却って今日の阿部系の基礎を固めたに至っては、寧ろ奇跡というも過当ではあるまい

(二十四) 関西に雄飛する江州系

現在の阿部系

現在の阿部市郎兵衛氏は即ち三代目で、川柳子の所謂「唐様でかく三代目」の諷刺に反して、頗る堅実の聞えがあり一系の総本家として世も人も許している、阿部市太郎は一門の中堅として重きを為し阿部房次郎は総参謀の格である、阿部系の綿業界における地盤は、株式会社阿部市商店、又一株式会社、並に江商株式と東洋紡績内外綿会社である、尤も江商株式と東洋紡績内外綿会社は、阿部系の主力でないが、勢力の扶植範囲である、阿部市商店は阿部系の策源地で、阿部市太郎を社長に他の重役は一系を網羅している又一株式会社は阿部元寿、同禎次郎、藤造等を首脳者として資本金は僅に百万円である、ここが阿部系の最も狡猾な所であって、即ち自己の信用を極度に利用し少額の資本を以て五百万円或は千万円の巨資を擁する同業者と対抗して、斯界に活躍している、江商株式も阿部市太郎氏を社長にするだけあって、総株式の四分の位置は同系によって握られている、東洋紡績との関係は遠く明治二十年金巾紡績時代から繋がっている、というのは金巾紡績の発起者は、阿部市郎兵衛同市兵衛同周吉と阿部系が多数を占めていた、その金巾紡は大阪紡績と合併し、更に大正三年大阪紡績は三重紡と合同して、今日の東洋紡績を作ったのであるからその間の関係は深く且長いものがある、現在では一門の阿部房次郎氏が主席専務として阿部系を代表し、また監査役として阿部彦太郎氏が加わっている、内外綿会社へは、阿部彦太郎が同系を代表して取締役の地位にあり、一門の持株を合すると約六万株はあるそうで、同社唯一の大株主である、阿部房次郎氏は前にも述べたように、布屋山中利右衛門商店の一店員に過ぎなかったがその才能を先代市太郎氏に見出され、遂に今日の地位を占めるに至ったのである、紡績界における江州系としては兎に角唯一の西郊者で、或は今後の阿部系を支配するのは同氏であるまいかとの世評がある、既に紡績界において之れだけの基礎があり、一方綿糸布界においても大正九年の動揺以来方針を更め、曩きの阿部市商店から又一株式を分離せしめて、綿糸布の専業に努め、前に述べたように信用本位の経営をしているから斯界の勢力侮り難いものがあるのも当然であろう、如上の外に一門には伯爵油小路家から迎えた先代市郎兵衛氏の女婿、同姓市三郎氏があり現在の市郎兵衛氏は即ち市三郎氏の長子である、その他同系の関係事業としては、近江帆布、大阪製麻、豊国土地、太平火災、大阪商船等もあるが、兎に角中興の祖が何れも投機好みであっただけに、その間の辛苦も一方でなかったと見え、子弟に対する遺訓は凡て投機を警めている、先代阿部彦氏の如きあれだけの傑物でも投機界生活の数年間は随分苦しかったと見え嗣子に対し投機市場に入ることを絶対に禁じている、現代の彦太郎氏もまたこの遺訓を厳守し、投機思惑は勿論他の事業も余り顧ず東洋紡績監査役、大阪商船及び内外綿会社の取締役その他二三の会社に関係しているのみで只管先代の蓄財を減らさぬように番をしているという有様である

永楽屋系統の不破と前川

綿糸布商の多くは内地向と輸出と兼営しているがその内に、純内地向商として重きを為しているのは不破商店即ち永楽屋系である、明治維新当時における不破の正系たる不破弥三郎氏は犬上郡の出身で一の傑商として郷党間に尊敬され織物織物業者としてよりも諸侯への金用達として相当知られていた、然るに廃藩置県の際における動揺に多くの資財を失い、勢力次第に衰え現在の不破栄次郎氏はその分系に属している、同氏は曩きの好況時にも丸紅その他の江商系の如き、極端なる発展策を講ぜず寧ろ消極に過きる嫌いがあった、従て一時は勢力他に比し薄弱の傾きあったがそれだけ方針に堅実な所があったそうで、大正九年財界動揺後における立直しも順調に行われ昨春経営の組織を五百万円の株式会社に改め、現今では兎に角江州系の中堅として目されている
前川家中興の祖前川太郎兵衛氏は不破の先代弥三郎氏に仕えた関係から、これも商号を永楽屋と称し業務関係からすると両者は即ち同系統に属すべきものである、先代前川太郎兵衛氏の活躍は江州商人中でも珍らしい方で、東京その当時の江戸に本拠を置き京阪を初め北海道その他に支店を設け、当時一ヶ年の営業金額は数百万円の多額に上ったそうである、慶応三年甥善三郎氏に大阪支店を譲って独立せしめたのが現在の前川商店の前身である、今日では善三郎氏は既に隠退し、その妹婿善助並に弥助の二氏によって系統を継いでいるが前川弥助氏は曩きの財界動揺に打撃を受けて以来業務昔日の比でなく、善助氏は前川織布を経営し同系中の全盛を極めどうなり江州系の面目を保っている

(二十五) 関西に雄飛する江州系

丸紅全盛時代

第二期綿糸布時代に入って一層活躍したのは、何んといっても丸紅即ち伊藤忠系である、今日江州系綿糸布商の唯一と目されている田附政次郎氏を出し更に横浜生糸を乗取り、内外に販路と事業を拡張したのみか、紡績の好況に乗じてその方面へも少からず力を注ぎ、傍系である直川安次郎氏に関西紡績を、古川定次郎氏に日本紡織を共に創立統轄せしめた更に忠兵衛氏の姉婿忠三氏を、日本麻糸紡績に関係せしめ、大日本紡績系で最近大日本紡に合併の議ある日本絹毛にも取締役として計画に参加した、一方支那における紡績企業熱の旺盛に、この方面への発展も試み遼陽に資本金五百万円を投じて、満洲紡績を設立すべく敷地までも手に入れたが、これ許りは遂に完成を見るに至らなかった、一時は現日本銀行総裁井上準之助氏とも密接の関係を結び、顧問格として事業拡張の上に少からぬ努力を受けたこともあったそうで、如何にその当時における丸紅の勢力が盛んであったかが窺れる併し今では既にその関係も消滅しているそうである

斯界の新勢力田附系統

田附氏の分立は、第二期綿糸布時代に入って、丸紅系の最も大いなる産物である、田附政次郎氏は先代伊藤忠兵衛氏の甥で、出生は矢張り神崎郡五峰村である明治初年のいわゆる「紅忠」が創業時代には、持ち下りと称して、四国中国方面への織物の行商に出かけたものである、その後も明治二十三年頃は金巾紡績の一社員に過ぎなかったが、独立して以来丸紅の背景を巧みに利用し着々と成功の地歩を進め、殊に三品取引所設立に参加して漸く斯界に認められるようになり、同所が開設され綿糸に対する投機思惑取引が便利になってからは常に商策を樹て斯界における強弱仕手の一方となり輸贏を争ったシカモ方針は多くの場合に的中し明治三十三年義和団事件以来市場に田附将軍の名を為さしめた、この田附氏も先代忠兵衛氏生存時代には、同氏の事業を援け現在でも人の噂によると、本家格の丸紅が田附氏に少からぬ援助を受けたとか、或は受けているとかの説もある、兎に角同氏が丸紅商店の監査役として丸紅の業務を監督している従って現在綿糸界における田附氏の勢力は著しいものがあり、斯界に於る内外の交渉は殆ど一身に引受け紡績界における江州系の代表が阿部房次郎氏であるが如く、綿糸界における同系の代表は田附氏という者もある、幾分過実の嫌いはあるかも知れぬが、大正九年斯界動揺以来、一般綿糸布商の勢頓に衰え取引紡績に対して頭の上るものは一人もないその内に、同市のみは飽く迄紡績の巨頭連に対抗して行く所や、喧しい綿業市場問題或は営業税問題等について政府当局に対し陳情且つ交渉して行くのは同氏の外にない、併し同氏は兎角後進を率いるの途が疎いようで、これ程の勢力を持ちながら系統というものをまだ作り出すに至らない強いて求むれば日東綿業の外海鉄次郎氏が実弟であり、関西紡績の直川安次郎氏が一時主従関係あったが系統としては薄弱である事業方面では金華紡績にも関係はあったがこれは富士瓦斯に合併された外に、日東捺染の社長合同紡績系の和泉紡並に江商株式の監査役を兼ね、本業である綿糸布営業は従来の個人経営を一昨年資本金五百万円の株式組織に改め、現在自ら主宰している

三品における江州系

三品取引所における江州系の勢力は、現在で尾州系と殆んど相伯仲している、役員には尾州系を代表して岩田惣三郎氏が参加していると同時に、江州系には北川与平氏が居る、併し北川氏は江州系綿糸布商を代表しているというよりもむしろ、下郷傅平氏と自系とを代表しているという方が適当であるかも知れない、取引員としては、現在四十九名中純粋の江州系は十三名で、尾州系の七名、紀州系の六名に比し多数を占めているが、これには何等系統的の纏まりがなく唯郷里が滋賀県であるとか、或は江州系の綿糸商と以前主従関係があった位に過ぎないから、正確なる系統的団結は却って尾州系の方が有力かも知れない仮りに江州系と目される取引員を挙げると
 田附政次郎、八田知至、山田清次郎、前川長一、梶井宅次、中村甚蔵、川畑寅吉、尾本真治郎小原有隣、安野傅次郎、若林佐市郎、前川吉三郎、山田伊太郎
等である、従って取引所を中心とする江州系の勢力は案外鈍いものがある、是等十三名の江州系と目されている取引員でも自己の立場を犠牲にしてまで、系統を重んずるというようなことはなく、江州系綿糸布商から委託註文を受ける便宜上、強いて系統を付けているというに過ぎないような傾きも窺われ、現に今度の限月延長問題についても、単に江州系のみでなく尾州系をも含む綿糸現物商の総てが実施に反対し、斯界における勢力者と目されている田附氏がワザワザ取引員総会に出席して、その反対理由を説明したにも拘わらず、一名の共鳴者もなかったことは即ち系統よりも自己の立場に重きを置いている証拠でありかたがた三品取引所に於ては遉がの江州系も系統的に格別の勢力のない訳である

(二十六) 関西に雄飛する江州系

洪水後江州系の動揺

以上は綿業界における江州系統の起源並に現状の大略で、この外瀬尾系北川藤井等もあるがそれは暫く措き、保険界における下郷系、近江銀行系を述べる以前に大正九年綿業大動揺以後から現在に及ぶ綿業江州系一般の興廃を略述して尾州系との優劣を調べて見ようと思う、曩きの財界動揺以前即ち大正七八年を中心として、その当時が江州系綿業者の最も黄金時代で拡張の大部分はこの当時に行われたものである、叙上の他に彦根の西田庄助氏は三井物産棉花部の社員長野辰次郎小室利吉等と提携して、大阪棉花会社を起し、阿部系は大阪麻糸紡績を設立し更に江尾両系連合即ち綿糸商同盟会を中心として、綿糸布現物取引市場会社を計画するなど殆ど拡張の果てしがなかった、かくて斯界の好況が漸く熱狂の頂点に達した大正九年四月末、増田ビルブローカーの破綻を動機に財界に大波瀾を惹起し殊に綿業界は他の事業或は商品界に比して盛況の度が甚だしかっただけにその反動的動揺が齎らされ前後二回に亘る綿糸布先約の総解合から古今未曾有の決済方法値合金七割切捨の高圧手段も行われ、相互の損失莫大なるものがあり、其跡始末として設けられた綿糸輸出組合即ち綿糸シンヂケートも結果においては全然失敗に終り、その間には遉がの江州系にも少からぬ動揺があった。随って二三の決済不能者を出すの已むなきに至ったのは当然であるが、兎に角或程度まで相互に誠意も披歴して善後策に努めた結果、一流系の大部は辛うじて当面を弥縫し破綻の憂目を暴露しなかったのは、基礎強固の賜と好況時に蓄積せる彼等の巨利が、此莫大なる損失を補って尚余りあらしめた訳だ。かくて動揺後の整理も比較的順調に行われ業務の縮小は何れも共通的に実行され、海外における支店の閉鎖、取引機関との解約、社員の淘汰、組織の改善等が随所に行われた、即ち丸紅系では一時自己の勢力下にあった横浜生糸を遂に明渡し、横浜生糸も亦整理のため減資を断行し、富士紡績系の援助を受けるなど、江州系との関係は今では全然切れている。丸紅系の代表として横浜生糸の専務であった村岸休五郎は更に大東綿業を組織して捲土重来を図り、又伊藤忠三氏の重役となっていた日本麻糸とも関係を絶ち、茲にも同系の勢力は無くなってしまった、最後に伊藤忠商事は損失填補のため、資本金千万円を七百五十万円に減資し、重役を更迭して陣容を改めるなど、その間には取引銀行或は取引紡績との間に随分波瀾曲折もあったが、現在ではどうなり基礎に纏まりが付いたようである、阿部系においても同系の新興事業である大阪製麻が、昨年遂に資本半減の止むなきに至り、更に阿部市商店の綿糸布に対する業務を新設の又一株式会社に譲って、動揺後の新規発展を企て以て今後の波瀾に備え、綿業巨商中個人組織として誇っていた田附不破両氏さえも苦き経験と今後の計を慮り、遂に両店共五百万円の株式会社組織と更める等、現在では個人経営と目すべきものは全く皆無となった、揺籃時代に世間から大に期待せられ設立当時には五十円近くのプレミアムさえ付いた大阪棉花会社も、今では悲境の極に陥り、遂に社内に内訌さえ生ずるという有様で、これも江州系としては失敗の歴史であり、その他同系によって計画或は参加した紡績の殆ど総ては現在余り芳しくなくなっている

江商株式の勢力

かく江州系の凋落甚だしき折柄、日本綿花又は東洋棉花に拮抗して斯界に勢力を為しているものは江商株式である、即ち江商株式は今の処衰えた江州系中の粋ともいうべく、同社も好況時には他の拡張に促されて、大正六年資本金を五百万円の株式組織に改めて以来僅か二ヶ年間にその五倍二千五百万円に累次増資を断行し最高八割の配当まで行い当業者の羨望の的となったこともある、シカシこれも動揺の打撃は甚だしいものがあり一時は取引紡績との間に忌わしい風評さえ立てられた、噂によると同社は当分株主配当をしないことを条件として問題が落着したとも伝えられているが、前々期以来既に少額ながらも配当を行っているから噂の真偽は保証の限りでない兎に角二千五百万円の巨資を擁し且その出資の九割迄は阿部田附北川藤井野瀬と純粋の江州系であるだけに、綿業界における同系の代表的勢力の集団といえる訳である

江州系の得失

要するに綿業界における江州系成功者は、その素質において堅忍不抜の性格を有してはいるが、一面に肝胆相照すという即ち協力的精神を欠いている、従って凡てが自己の利益を図ることにのみ汲々として他を顧みないものがある、かたがた多数の資本を集中して大々的事業の活躍を企てるということは頗る不適当で、相当資力を蓄積したなれば後はそれを守成するという風がある、故に商才には卓越しているが工業方面における活動は現在において零である、殊に最近尾州系の綿業界における活躍は可なり目覚ましいものがあり、シカモその商略は江州系と趣きを異にし曩きの綿業動揺に江州系の多くは比較的素直に紡績その他同業者との決済に努めたのに反し、尾州系の裏には唯一の巨商と目され好況時における蓄財莫大と称された向さえ、尚出し渋る傾きあり、江商中に破綻者が少かったに拘わらず尾州系中には中外綿業を始め近藤繁八商店その他可なりの醜態を演じた向があり、シカモ之等は全然支払能力を欠いていた訳でなく所謂出し渋るの結果であるに至っては、この点は遠く江州系の及ぶ所ではない(江州系終り)

(二十七) 尾州系の団結力

江尾両系発展の動機比較

江州系に次いで現今の綿業界に活躍しているものは尾州系統だが、尾州系と江州系とは発展の動機及径路について著しい相違がある即ち江州商人が他国に活動するの已むなきに至った動機は、前述の如く一部に政治的の圧迫があったのと、地勢の関係から経済上の困難が甚だしかったことなどが因をなしている、之に反し尾州商人は永禄年間織田氏が天下に覇を称えて以来、豊臣氏を経て徳川に至る三百有余年間、領土的に天下の覇者と密接の関係がある、殊に隣国三河は徳川三百年の基礎を築き上げた根拠地であるだけに、領主と人民の間にも円満なる了解があり徳川時代における為政者が尾三地方の人民を労わったことが少くない現に莫大なる経費を要した木曾川改修工事の如き幕府はこれを島津氏に命じ、肝腎の濃尾両国民には何等の負担を負わしめなかった抔はその一例である。加うるに濃尾平原を有して農産物が頗る豊富であるのみか、伊勢湾を擁し知多半島を抱いて海産もまた相当の収穫あり、背後には木曾濃尾の大森林を背負うなど、天然の恩恵が渥い等、之等の点から江州の血は迚も濃尾の比ではない、況して近江の旧領主たる佐々木浅井の両氏は尾州を出身とする織田氏のために征服されたのであるから、その関係上人民相互の間にも嫉視反目が窺われ、江州の地が常に領主から虐げられても時の為政者徳川幕府が一向顧みなかったのは、その間に情実も含まれていたからであろう、随って尾州人は江州人の如く政治的に圧迫を受けていないのは勿論、経済的には自然の恩恵により多く浴しているから、概して生活も豊かであり明治維新以前までは経済的に他国で活躍すべき何等の必要がなかったのである、大阪の地に尾州系の活躍を漸く認められたのは即ち明治の初年でその動機は由来尾濃地方は本邦有数の棉産地であったから、家内工業として綿糸を紡ぐことが従前より旺んであり、機業もまた発達の著しいものがあった、然るに生産した織物は多く大阪市場に搬出され問屋によって市価を左右されるのみかその後唐系(印度綿糸)の輸入が行われるようになり、機業の上にもまた不利な点がある所から勢い大阪の血に活動を促された訳で、シカモ江州商人と異り故郷に生活の安定を保つだけの産業を有しているのだから、活躍する上において非常に有利であったことはいうまでもない

尾州系の各勢力

現在綿糸界における尾州系では岩田一家が元締をなしている、次は豊島久七、小島逸平、戸田一家などで何れも斯界に名を成している、名古屋に本拠を置き大阪に勢力を延ばしているものは、服部商店、滝定郷名会社、伊藤三綿等がある、銀行業における尾州系としては愛知、明治、名古屋の三行が共に大阪に支店を置き何れも尾州出身者の取引機関となり、更に岩田系は尾州銀行を設立して大阪における尾州系唯一の本店銀行となっている、紡績においては大日本紡績などは遠く尼紡摂津紡と岐れていた時より尾州系と可なり密接なる関係が結ばれている、即ち東洋紡績に一部江州系の血が通っていると同様、大日本紡績にも尾州系の資本が少からず注がれているのである、尾州系綿業者の戦後好況時における活動は、江州系程ではなかったが一部においては随分過ぎた拡張を試みた向があり、随って動揺より受けた打撃は決して尠少でなかったのである

尾州系の主力岩田一家

岩田家の本家即ち先代の岩田常右衛門氏が、中島郡起町から大阪に来て根拠を置いたのは明治二年でまだ世間の空気が頗る険悪な頃であった、その当時初めて輸入の途が開けた唐系即ち印度綿糸を神戸の外人商館から仕入れ、これを各地の機業家に仲継販売すると同時に、故郷から織物を輸送して販路を拓き漸次成功の地歩を固めていた、その当時同氏の参謀として商策に与っていたのは、現大日本紡績重役の田代重右衛門氏で同氏の出身は岐阜であるが、今では岩田家と姻戚関係が結ばれ現在紡績界における岩田系を以って目されている。次に現在三品取引所商議員日比野芳太郎氏も先代岩常に代ったものでこれも姻戚関係によって傍系を作っている、その他三品取引員の伊藤秀雄、島津和平治の両氏共に尾州出身であると同時に岩常より出でたもので、これ等は三品市場における岩田系の中堅といわれている

(二十八) 尾州系の団結力

中心勢力の岩惣

岩田系の正流は現在の岩田常右衛門氏であるが、同系における中心勢力を有しているのは先代「岩常」の次第即ち現在の「岩惣」岩田惣三郎氏である、氏は明治十四年頃先代岩常氏と分立して活動を始め、岩常氏死亡後は同系を代表して綿糸布界に、紡績界に著しい発展を試み、北清事変後尼崎紡績が悲境に陥り破綻の憂目を見ようとしていたのを、出資して援助したのは同氏であった、その後綿業界の好況と相俟って業務は次第に拡張され、機関銀行として尾州銀行を設立し、更に現在の岩田商事を起して斯界に随分目覚しい活躍を試み大正八年の下半期には七十何割かの暴配当をして同業者間に頗る嫉視されたものだ、一方その頃横浜の茂木惣兵衛氏と提携して長子松之助氏を社長に据えた中外綿業会社を創立し自ら顧問として斯界の熱狂に乗じたが、偶々大正九年の斯界大動揺に遭遇して著しい打撃を受け、資本金五百万円中の外綿業が二千数百万円の負債を負い、どうすることも能きず遂に破綻を暴露するに至った、同じ提携者である茂木惣兵衛は、此時既に失脚しているのだから、如何とも仕方がないとしても同社の社長である岩田松之助や顧問格の岩惣が、この跡始末について何等の責任観念なく頗る冷淡であったということは、当時の債権者連から少からず反感を買ったのみか、肝腎の岩田商事でさえ、紡績との先約解合決済につき、綿糸布の長期先約定は法律上無効であるとの詭弁を弄して、値合差金の支払に応じなかったから、各紡績との間にわしい紛争を生じ、当時の日銀大阪支店長結城豊太郎氏は見るに見兼ねて岩惣を説得し和解に努めたが結局徒労に終り、遂に大日本紡、東洋紡合同、鐘紡などは連合して訴訟沙汰に及び、結局は之がため岩田一家の声価を落すようなことになり、岩惣の名は一時斯界に小魚う道徳破壊者の代名詞のようにいわれた然し其後漸くにして調停が成り、今日では再び取引を開始しているが何分動揺後における綿業界の実勢が捗々しくないのと相まって、岩田商事の業績余り振わず、殊に長子松之助氏は昨冬不帰の人となりその嗣子惣太郎氏はまだ弱年であるのみか、肝腎の岩惣老も当年八十一歳の寄る年波に、再び起って活動する余力も乏しく、所謂岩惣の勢力も昔日の比でなくなった

岩田系の一門

以上の外に岩田家の一門としては、先代岩常の長子に岩田保之助氏があり、これも斯界では可なりの勢力を保ち、岩惣の養子正一氏並に岩田惣次郎氏は、現在岩田商事の専務として重きを為している、一家の勢力が以前に比し衰えたとはいえ、それは綿業界に従事する者一般の傾向であるから、矢張斯界における尾州系としては今尚最優の地位を占めている訳だ。

豊島系と小島

岩田系に次いで豊島系が尾州派で重きを為しているが、現在豊島久七氏の先代が、大阪に根城を据えたのはまだ比較的新らしく、従って大阪における綿業者としては極く新参の部類に属している、然るに現在相当の勢力を扶植しているのは、先代久七氏の努力にもよるが、現在久七氏も頗る覇気に富んでいる方で、方針に抜け目のない結果であるとも伝えられる、兎に角綿業界における内外の交渉には、何時も田附氏の参謀を努めて事に当って行く点において、尾州系を代表しているともいえる、現在では綿糸布店の組織を五百万円の株式組織に改め、先ず尾州系綿業者の中堅と目されている。
豊島系の分派に小島逸平氏がある、これは先代豊島久七氏に仕え久しく同店の支配人を務めていた関係から、今でも多少の因縁を結ばれているようである、独立して尚日も浅く、従って綿業界における地盤も薄弱で、特筆する程のこともないが、綿糸布業者を地盤にして大阪市会議員の栄職にあるのが斯界で聊さか重きをされている。

現在の潜勢力

尾州系の大正九年財界動揺に受けた打撃は決して江州系に劣らないものがある、好況当時に尾州系の唯一成功者とされていた戸田栄次郎氏の傍系、戸田猶商店は、大正九年四月本町筋における破綻者の魁をした、本家格の戸田栄一家も莫大なる損失を蒙り、一時は綿糸布総解合の決済さえも怪しまれ、戸田栄次郎氏が独立で経営していた戸田紡績は、賃金の引当として大日本紡績に捲き上げられるのみか、岩惣氏と共に大日本紡績の監査役を辞して、紡績界との関係を絶たなければならぬような破目に陥った、その後辛うじて整理も行われたが創痍は尚未だ癒えず、戸田栄商店の名は漸く当業者から忘れられようとしている、一方岩惣は前述のような悪名を市場に流すし、近藤繁八大阪支店は解合決済不能で同盟会から処分される、一時は二十何割かの配当を行って当業者に誇った服部商店も種々の風評を立てられるという始末で、尾州系の凋落は可なり甚だしかった、昨今では漸く捲土重来の形跡もあるが、一般に再起するの機運に至らず、かたがた斯界における系統的の勢力は余程衰えている、然し一度斯界が好化する場合にはこれに乗ずべき潜在力は尚侮り難いものがあるといわれている(尾州系終り)

(二十九) 海陸両棲の商船系

田中の衣鉢を継ぐ

大阪財界において商船系又は中橋敬という財閥の牢乎として抜くことの出来ぬ地盤を築き上げたのは、素より商船の大御所と仰ぎ奉っている前文部大臣中橋徳五郎の威望が最も力あったこと勿論であるが、併し中橋は単に財閥の柱を立て棟を上げたままで、その礎は遠く中橋の舅田中市兵衛によって据えられたものである、商船系が今日大阪財界で一方の重鎮として砦を堅めているのもこの田中の衣鉢を襲いだが為めである、田中は明治二十年頃の大阪財界を風靡した時代の寵児であったのだから、当時官界で相当羽振を利かしていた中橋を引抜いて自分の娘の婿がねに迎え後継者に移し植えた田中も今から観れば決して凡人の器でなかったことが知れる、商船系が一面田中系と称するのも此辺から来ているのである

特質が三つ

商船系には三つの特質がある

一、財閥が親譲りだが、相続後に根を張り枝を繁らしたこと
二、人物が比較的粒揃いのこと
三、海上を本拠として電力、銀行工業方面に広く羽翼と拡げているが団結力が比較的堅いこと

等を挙げ得る。財閥の親譲りとの意味は関西において他の片岡、小山系の如くピンからキリまで自分の手で捏ね上げたのでなく、江州系の如く江州商人の寄り合世帯が大きくなったのでない、田中市兵衛の名声と威望を中橋が根コソぎ受けたことに始まるので、事業を興するにも事業に渡りを付けるのにも親の光りは七光りで、田中の後継者という所から非常な便宜と手憂とを得たことを指すのである。尤も大阪三男爵は何れも世襲的財閥とも謂い得るが、これは法律上の嫡子が財産を相続したまでで閥は附随的の格好である、田中と中橋との関係は閨閥と財閥に繋がり財産は受けていない、田中の法定家督相続人には嫡孫田中市蔵氏が今尚現存しているからである

三元老の羽振

商船系の起源を説くには勢い明治二十年前後の大阪財界を瞥見する必要あるが、古い歴史の詳細は省くとしてカイ摘んで謂うと、当時風雲に乗じた松本重太郎、田中市兵衛、外山修造三名によって大阪財界は三分野に区分され、此三元老の羽振は実に飛ぶ鳥も落しそうな勢いで、到底今日の小山、片岡、永田の三名のそれに比すべくもなかった、尤も住友吉衛門藤田傅三郎があったが、住友は沈香もたかず屁もひらず、超然と納まっていたに反して、藤田はその当時より「網島の大御所」と伝えられ事業を起すには必らず此網島邸の閾を跨げねば事が運べなかった位で三元老に対する睨みは相当利いていたものに相違ない。而も松本と田中とは影の形に添う如く相提携して銀行界及紡績界に雄飛し松本は三十二銀行田中は四十二銀行の頭取として金力に託せて事業を濫発したに対して、外山は稍道行きを異にし、国立三十二銀行に立籠って、濫りに手を拡げようとせない所に堅実味を持っていた

二元老の末路

此三元老の後年を飾ったのは僅かに田中一人で、松本は日本紡織の手違いから、国立百三十銀行破綻によって事業と銀行と近藤した弊害を最も露骨に曝け出し悲惨な往生を遂げ、弗箱だった百三十は銀行救済王安田に救を求めねばならぬ運命に陥った。外山は三十二銀行を宰していたが国立銀行改廃の時に銀行より隠退した、三十二銀行は明治三十一年第五銀行と合併して浪速銀行となり、其後浪速銀行は大阪明治と共立の両銀行を併せて今日の十五銀行の大をなす動機を造った、今日の永田仁助、松方幸次郎氏も共に此外山の流れを汲むものであるが、外山の名は財界隠退と共に漸次忘れられ、ただ修造の嫡子捨造が日本貯蓄銀行に巣くもうて、僅に余喘を保っているが閥として顧みる価値もない。ただ独り田中は金儲けに精を出すと共に自分の後継者選択に随分頭を砕いて遂に白羽の矢を中橋に立てたのだが、之が抑も田中敬即ち商船系の今日の大をなす所以である

田中中橋握手

大阪財界の利け者田中市兵衛と農商務省特許局審判官中橋徳五郎(当時の局長高橋是清)との姻戚関係が結ばれたのは明治二十一年で九鬼男爵の肝煎であった、当時田中は贅六商人に通有性の蓄妾癖を露骨に現し、宿った情けの胤を親父が承認して戸籍面に庶子とした今の中橋令夫人もそれで、藤田家の養女としたのは中橋に嫁せしめる為めに自分の娘に箔を附けたに過ぎぬ、中橋と田中と藤田の関係はこうして結ばれたのだ。其後十ヶ年間中橋は金子貴族院書記官長に随行して欧米に議員制度を視察したり、初期の衆議院書記官長となったり、逓信省参事官、会計課長、鉄道局長と官界を右左に遊泳していたが、性来野武士肌の中橋には行政官として官僚臭に取囲まれていることは居心地が好くない、鉄道局長を弊履の如く捨てて、当時あまり振わなかった大阪商船に入社したのも、一は舅田中市兵衛が商船社長を辞するので後釜に据わる為めであったが、一は財閥を建設して将来政治家となるべき野望を満たす足溜とする為めに外ならない。これと同じ寸法で田中の罷めた宇治電も中橋が引受け、一は船舶と一は電力と財界における海陸両棲の活躍を続ける幕を切って落したのだ

(三十) 海陸両棲の商船系

中橋と藤田家

歳変り星移って大正九年原内閣成立と共に文部大臣にまで漕ぎ付け明治十九年の同期生植村俊平(下関第百十一銀行頭取)戸水寛人(代議士)岡野敬次郎(現法相)等を追い越して一足先きに大人の椅子を贏ち得た、尤も大臣としては二枚舌と除名問題でメッキリ器量を下げたが、大阪財界に築いた閥は隆々たる勢を示している。
 中橋と藤田家の関係は前掲中橋令夫人の養女問題から繋がっているのだが、後中橋は元農商務省鉱山局長田中隆三を藤田組に推挙し藤田組の代表として、商船取締役の椅子を与えて商船と藤田組との楔とした、恰も三菱が寺西成器を代表者として商船に入れたと同一の筆法である、それから、藤田家の前理事池原鹿之助と中橋とのソリが合わず池原を藤田家から放逐したのも中橋だともいうが、中橋と藤田家との間がそれほど濃密であったかどうか疑問である。

田中の直系は日本綿花

 更に商船系は単に田中系の別名で其実同一体の如く世間では取沙汰しているものもあるが、厳密に謂えば区別を設けねばならぬ、田中市兵衛は娘婿の中橋に商船と宇治電とを手渡すと共に、嫡子田中市太郎に日本綿花を継がせて社長とした、惜いことには市太郎が日露戦役当時日綿窮境に陥り整理のため上海に赴いて帰途長崎で客死したから、市兵衛と親交あった志方勢七が日綿の名義上の社長となり支配人喜多又蔵が専ら事務上のことを切り盛りしていた、故に今日商船と日綿とは親類筋だが同一というのは稍妥当を欠き、前者は傍系で後者は直径と謂うべく、後年山岡順太郎が商業会議所会頭を争った時喜多又蔵が援けたのも、市兵衛の嫡孫市蔵を商船の機関銀行摂陽銀行の頭取に据え、堀及び喜多が今尚肩を入れているのも皆親類筋であるためで、同系との意味ではない、その証拠に先年中橋が大臣でいながら、大阪市から代議士候補に立った時、喜多は公然と貴き一票を上田弥兵衛に投じて、中橋を顧みなかった如き、如何に喜多が商船系と目されることに慊らないでいるかを物語るものである。

混血児の南郷

 此点からいえば田中市太郎の娘を貰い、現在神戸桟橋大阪メリヤス大正製麻の社長及重役たる南郷三郎が元商船畑に育くまれたのだから、田中系と商船系の混血児だが商船系に近く、摂津製油社長巽市郎は市兵衛の娘婿であり商船現社長堀敬治郎と共に、市兵衛の社長だった露油会社で同じ釜の飯をつついた関係から、商船系とも昵近だが寧ろ田中系に属すべきであろう。

宛ら商船王国に君臨

商船系は他閥の如く単に就職について元老株の推輓を受けたとか、或は商売上の利害が共通して互に交遊する為めに情意投合したとか謂うのでなく、何れも商船会社を背景として中橋御大の息のかかった家の子郎党が分家して一戸を創立したので、其団結力は比較的鞏固である。単に一身上の利益によって離合集散するのでなく、主従の関係で結ばれている点は他の閥に見ることの出来ぬ特色である。従って商船王国における中橋の威力は絶対的で恰も専制君主の観がある、これは宇治電の中川浅之助が頓死した後継者に、世間の予想を裏切って商船の文書課長木村清を引抜いて之に据えた手際など雄弁に証拠立てている。

中橋の述懐

中橋は人材蒐集に比較的力を竭した結果後年商船系の羽翼を拡げるに大に便宜を得た、これも商船という大会社を中心としていたために学校出身の優秀性を比較的委員会容易に収容し得たと共に、自己の眼鏡にかなった人材をドシドシ関係会社に配置したから、自然中橋の勢力扶植となると共に、今日商船系を目して比較的粒揃いと謂われるようになった、これも商船会社に負う所少くない。此点につき御大中橋徳五郎は最近天王寺の自邸で次の如く述懐した
 つまり社員の養子制度を建てたまでだ、社員がだんだん偉くなるので何時までも使用人として置く訳に行かず、船を持たせて暖簾を分けたり、株を半数以上も商船が持って擁護し、自立して金儲けの出来るようにしてやったまでだ。世間では分家させても当分親爺が社長名を持って何かと干渉するものだが、私は分家させたら其者に初めから全権を委任して自由手腕を揮わせたに過ぎぬ云々

(三十一) 海陸両棲の商船系

商船の章魚の手

現在商船系と称せられる重なる会社の事業、社長名、創立年及び資本金を挙ぐれば次の如し

[図表あり 省略]

斯く海上の船舶関係事業を本拠としているが、一面電力、機械、肥料、銀行等にも首を突き込んで、其総資本金は準商船系を加えて三億七千九百七十万円、約四億円に近い数字を示している、従って大阪財界に一大王国を建設して覇を争い、或は商業会議所会頭戦、或は衆議院議員選挙戦等スワ鎌倉という場合には随分傍若無人の振舞をやることもある

中橋時代の商船

商船系の元締はやはり大阪商船で名は其実の賓たる諺に背いていない、そして商船の膨れ上ると共に商船系の縄張りも拡げられて行った。商船の創立当時は資本金僅かに百二十万円、船舶一万七千噸、瀬戸内海を航行する小っぽけな汽船会社に過ぎなかった、中橋が入社した明治三十一年でも資本金五百万円から一千万円に倍額増資し、政府補助の下に清国揚子江沿岸航路を開いたホヤホヤで基礎も未だ確率していなかった。当時意気旺んな中橋は直ちに南支那航路を開き汽船三十二隻二万九千噸を建造購入する等積極方針を採ったが、たまたま日清戦後の反動来で商工業の不振と共に航運業も萎靡して経営困難となり、資本金を当時一千万円より払込額五百五十万円に減額して漸く一時を弥縫したが、無鉄砲な中橋もこの時には相当苦い経験を嘗めさされたことであろう。

残された功績

併し在職十七年間、中橋の商船に竭した努力は買ってやらねばならぬ、此間にはこれまで内地航路に跼蹐していた商船が日露戦後北米航路開始の準備に着手し、北米シカゴミルオーキー鉄道会社と連絡輸送の契約を結び、初めてビューセットサウンド航路を開始し、南洋印度方面における新航路の開拓に努めたなどの功績は商船として没すべくもなく、後年日本郵船を向うに廻して海運界で大立廻りを演じ得る素地を作ったものだ。

反りの合わぬ堀と山岡

中橋が欧洲戦争の初まる一年前に商船を引退した、引退の理由は紋切形の後進に途を拓くというのだったが、その実金と地盤が出来たのでそろそろ政界に游ぎ出したくなり、議員となるには政府から補助金を頂戴する会社に関係することが不可という為めであったのだ中橋引退後の商船は堀敬次郎、山岡順太郎、加福力太郎の連立内閣となったが、一時何となく寂莫の感を与えた、併し暫らくすると欧洲戦争という大鳴物入りで囃され海運界は俄かに景気附いて有象無象の踊り子は皆踊った、商船会社も之れにつれて踊ったので中橋を喪った哀愁は何時しか消えて終った。此踊りの最中に山岡は僚友堀と面白からず、表面関係事業が繁多の為めとの理由で、副社長を辞して平取締役となり表向きの関係を絶った。大体山岡は中橋の局長時代の属官で、中橋の商船入と共に商船に附いて来て文書課長の枢要の椅子に据わったものだから、当時仁川、神戸支店長などの田舎稼ぎをしていた堀よりも羽振がきき中橋の信望も厚かった。尤も堀は東大卒業後直ちに田中市兵衛の社長であった露油会社に入り、会社解散と共に明治二十八年田中の肝煎で商船の人となったので、山岡より一日の長であったに相違ない山岡にすれば堀の社長の下に自分が副社長で堀の下風に立つことは役不足で、心中怩忸たるものがあったのであろう。

長江内閣を実現

加福は永年の宿痾癒えず、山岡引退後理事から副社長となっても、まるで他人事のような態度で職に精を出そうとせず、好きな和洋書を繙き、骨董と彩管をいじくる方が寧ろ本職と心得ている様子だから堀の支柱とならない。茲に此欠陥を補う為めに専務取締役の補充となり、浮かび上ったのが投じの東京支店長深尾隆太郎、文書課長木村清で、少し遅れて遠洋課長村田省蔵海務課長太田丙子郎の面々で暫らくして木村清は宇治電社長の中川浅之助が岐阜の旅行先で客死した後を襲うて宇治電に鞍替したので、茲に商船は純然たる長江内閣を実現した。蓋し堀、村田、太田何れも長江で鍛え上げられ、商船として長江は比較的重きをなした航路であったからである。

(三十二) 海陸両棲の商船系

堀の性格の長短

堀は謹厳且稀に見る廉潔の士で、事務上では寸毫も仮借せない所に氏の面目がある。これだけの大会社の社長毎期の賞与金が戦時好況期でも一万円を超えたことがないと謂えば、世人は恐らく信じないだろうが事実だから止むを得ない。それで重役連中の公務上の宴会費でも大抵会社から支弁せず、重役の自腹を切ることが多いが「社長があの調子だから」とて会社の会計から曳出せないということだ。この辺郵船会社の会計課には毎月重役立替金をいう請求書が舞い込みこれは大抵重役の宴会費から待合入の費用まで含んでいるというのに較べて雲泥の相違がある。中橋が自分の天塩にかけた商船を山岡を措いて堀に託したのもこの性格を沽ったのに相違ない。だが清き水には魚棲まず、堀は馬を陣頭に進めて大軍を叱咤する器でないと観るものもある。

村田の放縦と太田の寡言

之に偶するに横縦の機略と不撓の胆力とを有する村田と、温厚寡言な太田を持ってした天の配剤頗る妙を得ている、村田は今や会社の台所を切って廻わし、潜勢力が漸次社員間に加わっているのは事実だが、堀に対して叛旗を翻す下心ありと観るのは無稽の言である。堀は村田を又なき相談相手として殆んど全権を委ね、商船の積極方針は村田の胸三寸から割出されるようだが、堀を軽んじて独断に事を運ぼうとはして居らぬ。新年に諸新聞を飾る堀敬次郎の海運界前途観なるものは、村田の口から村田の意見其儘を堀の名で出すのだがコンナ小さなことでも一応堀社長の内諾を得ねば村田は承知しない。

遣繰世帯が強味

太田は商船学校から留学し、倫敦で帆前船に三年も乗った経験ある船長出身だけに、海上生活の酸いも甘いも噛み分けている所から、海員間の信頼厚く、海員側の鎮めとして重きをなしている。恰も郵船の安田柾と共に篏り役で、与えられた己の領分外に余計なオセッカイをやらぬから安心なものだ。商船の強味は郵船のように重役間に暗流がないのと貧乏な遣繰世帯に存する。従って社長排斥運動や株主間に積立金崩しに絡まる船舶合同問題の謀叛が起らぬ、総会で重役賞与金二万円が多過ぎるとて株主から返還論を吐いて社長に喰ってかかる位が関の山だ。これ郵船のように尨大な積立金を有せず戦時中に積立てた配当平均準備金も、余す所四百六十万円という財政窮乏だが、此の遣繰世帯が今では却て強味となっているのだ。だから要するに石橋を叩いて渡る堀と、薄氷の上を馬で乗切ろうとする村田との性格が、互に融和して亀裂の生ぜぬ間は、商船王国に尚活気横溢たるものがある。

欧戦の大鳴物入

商船の現在資本金は人も知る如く一億円、使用船百三十三隻総噸数四十三万二千余噸、五十有余の定期航路を有している、日本郵船の使用船百四隻総噸数五十四万二千余噸に比して稍遜色あるが、世界海運界では押しも押されもせぬ威望と信用を繋いでいる。これ殆んど欧洲戦争の賜と謂い得る。此戦争は世界海運の一大転機を劃し、交戦各国の船舶は或は航路を廃止又は撤退した、大西太平両洋は勿論、南洋印度濠洲南阿南米の各航路でも、従前欧洲より物資を仰いでいたものが、外船撤退と共に此供給の途を塞がれて本邦品の需要頓に多きを加え、邦船の活躍は此時より初まった、商船でも或は南洋諸島間、濠洲アデレード、亜爾然丁ベノスアイレス、仏国馬耳塞等世界主要港に定期又は随時の航路を開いて会社の屋台骨はイヤが上に太くなって来た。

航路網の目を細かく

此戦時旺盛の惰性を用いて商船は戦後には極東復航同盟に加入し、北欧洲線を開き、更に太平洋方面にはニューオリンス線、印度方面には日本瓜哇カルカッタ線と次から次へ航路網の目を細かくして行った。大正四年からこちらへ、定期不定期を混ぜて開航したもの二十八線の多きに及んでいる。試み其重なるものを掲ぐれば
大阪青島、香港海防、桑港、濠洲、南米、日本南欧、瓜哇盤谷、スマトラ、孟買ゼノア、瓜哇カルカッタ、日本欧洲、日本瓜哇、基隆新嘉坡、基隆花蓮港、基隆福州廈門、甲谷陀ニューオリンス紐育、基隆福州、瓜哇欧洲、日本甲谷陀の各線などで商船全線約百線の三分の一は戦争ツイ前から始めたのだ、商船は如何に戦争に恵まれたかを窺うに足りる。

ノタ打ち返る巨鯨

商船は飽迄積極方針で押通して来た、商敵の郵船を目標として何とかして敵の牙城を衝かんとする努力は社中に対して一種の緊張の空気を漲らしている。これ皆中橋の性格によって培われた社是で、小中橋の村田専務は此辺の呼吸を呑込んで巧みに之を利用している。日本、甲谷陀線開始の時の郵船、ビーアイ、印支三社の甲谷陀同盟に宣戦し、二ヶ年の日子と多大の資金を捨てて遂に妥協成立加盟し得たことや、戦時中郵船が船舶購入に逡巡していた際に、大型船建造を企て大車輪の活躍を続けた等、中橋式に髣髴たる所がある。しかし無暗に膨れ過ぎて戦後の反動襲来には稍狼狽の気味で、大型船の配船に難色あり、徒らに積荷薄を喞ったり、堀社長の配当一割維持の声明が見事裏切られて、毎朝準備金から二百万円を喰い込み七分配当に減じたりするなど今や大海原で巨鯨がノタ打ち返って●いている光景である。

(三十三) 海陸両棲の商船系

功労者の範多

商船系を説くに際し逸してならない役者は範多竜太郎で、中橋を信頼し、崇拝して陰に陽に商船系の後楯となっている。範多は従来単独で鉄工所を経営していたが、中橋と昵懇な所から、鉄工所経営者の銓衡を中橋にもち掛け同時に大阪鉄工所を一般に開放して株式の一部を大阪株式現物団から売出さしめた、而して中橋から推輓して貰った山岡順太郎に全部の経営を託して自分の社長の椅子を譲った当時範多の麾下に山口勉、木村某あったが疑獄が起って山岡の連れて来た元商船会計係長下村耕治郎が、のし上って専務の椅子を占めたので、大阪鉄工所は純然たる商船系と化して終った。
更に大阪鉄工所から分岐した大阪製鎖所は高倉作太郎、下村耕治郎山岡倭で経営し、山岡順太郎が相談役となったことと一方兵器製造会社が戦時中雷管を製造して露国に送るべき契約を整えながら、金融難に陥って遉がに大正の天一坊と異名を取った社長小西喜代松も遂に馬脚を現わし、会社の全財産を債権者たる範多に投出した。範多は此経営を商船系の宇電から来た村木正憲に委ね、工場を模様換して紡績機械製造と営業課目を改め機械製造会社と看板を塗り換えてこれまた商船系に帰化した。

大阪海上も範多の橋渡し

更に説かねばならぬのは大阪海上保険会社との関係である。同社の前身は日本海上保険会社と共に右近権衛門によって経営され、大阪火災保険と名乗っていたが著しく経営難に陥り二十八年資本金百二十万円から六十万円に減資するの止むなき窮況に陥った、それで資金の関係で範多竜太郎に泣きを入れたが、範多は二つ返事で之を引受け、中橋や日本綿花の喜多等と語らい、いよいよこれを乗取る計画を進めて範多が社長となり、専務に多羅尾源三郎、支配人に浅井義明などの商船系を配し、之に日綿から喜多、商船から木村及び内輸の南郷三郎など平取締に据わらせ、大阪海上保険と銘打ち資本金を五百万円に増資するに至って右近一派は影を潜め、商船系が之に代って絶対権力を揮うようになった。その後範多は隠退して平取締となり社長を多羅尾に譲り、専務を浅井に昇進せしめたが、右近と中橋、喜多との橋渡しは此範多であったことを忘れてはならぬ。

倫敦の同業者と握手が流行

同社が商船系の手に移ると共に逸早く倫敦の保険業セジウィック・コリンス商会と提携して、日本におけるリストを倫敦市場で売捌く途を拓いた。恰度東京海上が同じく倫敦のウィリス・フェーバ商会を握手して旺んに活躍を試みた顰に倣った訳である。此二つの倫敦保険商会は英国保険界で両立相対峙していて後者が先に日本の東京海上と提携したから、前者は極東において好い商売相手を索めていた矢先だから、大阪海上の申出に対して渡りに舟とこれに応じたのである。同社の社運を堅実にしたのは実に此英国保険会社との提携にあった。当時神戸海上、日本海上、帝国海上などの先輩会社は此新参者に出し抜かれた形である。それで先輩会社は遅蒔ながら倫敦で握手する相手を捜し出したので保険界で毛唐との握手が一時流行したのも此時である。
同社は其後着々業務の刷新を計り大正七年更に一千万円に増資するまで社運の隆盛を見たのである。これは商船会社が郵船の勢力圏内にある東京海上保険に対抗せしめる為めに殊更に力瘤を入れたことに基因している。

濡れ手で粟の保険屋

戦時中は一時「船の世の中」と謳歌され船に脈絡ある商売なら、猫も杓子も成金風を吹かせた時分だから、大阪海上保険の御歴々が再保険を目的とする摂津海上保険を戦時の半ば後に計画したとて何の不思議もない。大阪海上の浅井が専務となり其実務を引受け、ただ看板に日清汽船社長の竹内直哉を社長に据え、商船の村田省蔵が平取締となって後れ走せながら保険屋の仲間入をした。抑も保険屋は海運業の如く固定資本を要せず株金は全部銀行預金か個人貸付にして利殖の途を講じ、信用さえ出来れば被保険社から契約を申込んで来てくれる。殊に再保険であれば保険金が嵩んで頬張るようなら、倫敦のロイドあたりへ出したら幾らも買手あり、その保険率の鞘取だけで優に懐ろは膨らむ一方だ。真に濡れ手で粟の攫み取りという寸法である。

泥に酔うた鮒

戦時中海上保険が雨後の筍のようにニョキニョキと濫設され、多い時には四十幾社を数え、戦前の幾倍かに増えたのもこの理由に基く摂津海上も此筍の一つだ。尤も現在ではその反動で船屋が上ったりだから海上保険屋のみ乾からびぬ道理なく、遂に仲間の同士打が初まり門司浜の石炭船さえ料率協定が出来ぬ。海で糧を得られぬと諦めた連中は陸上の火災保険屋となり今度は消防の警鐘でスワと直ちに櫓に駆け上る商売に早変りしても之また仲間多く保険の協定率破壊で摺った揉んだと譟いでいる惨めな態だ。大阪海上は今日迄の暖簾があり苦痛の程度も左程でないが、新参者の摂津海上は泥に酔うた鮒の如きものだ、商船系の策士も策に悩まされている形だろう。

(三十四) 海陸両棲の商船系

摂陽商船と北日本汽船

同じ汽船会社関係では商船に二つの分家がある、一は摂陽商船で他は北日本汽船である。中橋の所謂社員の養子制度によって暖簾を分けられたものだが、いずれも大正三年の創業で商船が半数以上の株を有している、前者は瀬戸内海に従事している小さな船主が合同して設立され、商船の元大阪支店長阿部克太郎が出でて社長となり後者は商船を初め樺太航路に従事している島谷、山本、佐々木等の船主が共同して設立され同航路の船舶と一切の商船の業務を之に引継がせ元商船台湾係長末永一三が社長となった、これは混り気のない商船系である。

幸運児と不運児

而して前者の摂陽商船は最初資本金二十万円であったが、業績頗る好く、だんだん増資して現在では百万円となり、且一割五分の配当を続けている。本家の商船が、社員を馘ったり、接待煙草を敷島から朝日に落してまで節約して、辛じて七分の配当をしているのに較べて、これはまた豪気なものだ。之れに引換えて後者の北日本は資本金が三百万円と比較的大きいのに、収益が伴わないので業績振わず、僅かに五分の配当しか出来得ないとは情けない。これは日本郵船の樺太航路と営業区域を同じくしているので、常にその圧迫を蒙っているからだ。如何に社長末永の鼻柱が強うても、北日本が郵船に対抗しては蟷螂の斧に向うようなものだから止むを得ない。

宇治亀の濫觴

藍より出でて藍よりも濃くならんとしているものに宇治電がある。宇治電は明治三十九年十月の創立当時発起人中に京阪派、東京派、滋賀派の三つに分れ、結局京阪派が勝を占めて創業に携わることになり、京都電車の創始者高木文平等と共に田中市兵衛が此目論見を立てた、時の大阪府知事高崎親章を抱き込んで社長に就かしめる内諾まで得ていたが、高崎は知事を罷めるのが惜しくなり、創立総会二週間前に断って来たので、急に模様換となり、中橋が乗出すことになった、中橋系が生みから匍い上って陸上の電力界にノサバリ出たのも之からである。当時電力界は微々として振わず、大口動力供給など殆んど夢想だもするものがない、漸く大阪電灯が市内で千五百馬力の需要家を擁するのみで、其他の動力需要家は蒸汽機関、瓦斯機関石油エンヂンなどを使用して自家の要に供していた時分だ、此の時に当って宇治川の水利を利用して発電し、その捌け口を大阪に求めて大いに水電界に貢献しようとの計画に眼を注いだ田中市兵衛は慥かに先見の明があった。

煙突目当てに電化を勧誘

殊に火力電気が将来石炭の昂騰で到底豊富な水電に拮抗し得られぬことを二十年前に算盤に入れていたなどは遉がに商売にかけて抜け目が無かったことを立証するものだ。それで電力に全く素人の中橋は田中の意思を継ぎ蒸汽力や瓦斯力を電化せしめれば目的が達せられるので初めは、社員を督励して市内の煙突を目当てに動力需要家を勧誘に廻らせ電力販売方面にのみ力を注いでいたというから面白い。しかし今日のように電力戦が激しくなく、九条方面で生産費以下で電力を売る必要ないが、頭の硬い昔の人を電化するのに骨が折れたそうである。

智嚢に商船系

中橋は創業早々商船から木村清を引抜いて一時事務上のことを手伝わせたことあり、彼は半年余で商船の古巣に舞い戻ったが、後年彼が宇治電の社長に就く●縁は此時に出来たのである。木村の去った後は村木正憲が常務として中橋を援けていたが、村木は中橋の期待に反して、強敵大阪電灯会社を向うに廻して、タジタジの気味あり手腕を現わさないので表面病気辞任として之を郤け、元商船の経理課長中川浅之助をその跡釜に据え、又村木常務の下に支配人として不平を鳴していた林安繁の病気が全快したので中橋は社長を辞すると共に中川に社長の地位を、林に常務の地位を与えた。

鶴の一声で木村が社長に

中川は中橋を小さくしたような男で多少の衒気はあったが、気魄もあり、議論もあり、中橋の後継者には摺って附けた適任者であっただけ中川急死後の宇治電は社長物色難に陥った、空席二三箇月の後中橋は後釜に投じ印度方面に渡航していた木村清を銓衡して指名した、木村は船中で此電報を手にし驚愕措く所を知らず一旦は辞退したそうだ。蓋し将来商船社長を狙っていた木村としては寝耳に水であったからである。之と共に宇電の社員間に林安繁擁立者多く随分騒いだものだが、鶴の一声如何ともし難く、木村は四面楚歌の裏にしかし内心期する所あるものの如き風で社長となった。然るに人の運はどうして巡り遇うものやら、若し今日まで木村が商船に居たとしても矢張り堀の下で商船の一部局を担当していてとても現在のような面白い芝居を打つことが出来まい。しかも宇治電は社礎いよいよ堅く本家商船の塁を摩する勢力を示している、木村にして此投じを顧れば転た、苦笑を禁じ得まい。

(三十五) 海陸両棲の商船系

四会社を併合

木村は元郵船社長吉川泰次郎の息と学窓で且ベースボールの遊び友達という所から、その妹を女房に貰い受け、暫らく逓信省の小役人をしていたが、女房から連る縁で商船に入り中橋の寵を得た程の幸運児だから、宇治電に入ってからでも素人の割合に仕事をしてる。尤も電力界の分野で、商売敵の大同電力の福沢桃介が大電の株を竹原友三郎を通じて買占めたり、関西水電を買収して、大阪送電の足場を拵えたり、天空を駆ける奔馬のように縦横に活躍し、切りに宇治電の陣地を脅かすから、宇治電もジットしていられない四囲の環境に迫られた関係もあるが、社長就任早々から近江水力(資本金四百万円)大和電気(三百万円)熊野電気(百五十万円)大正水力(一千万円)の四社を併呑して終いそして神戸市、滋賀、奈良、和歌山三県の電灯及び電力供給権を一気に握った。青二才がと見縊っていた福桃が、アット驚いたのも無理はない。

膨らんだ資産

更に先頃阪急電車と提携し、二百万円を出資して今津発電所を創立し、阪急の所要電力以外は全部宇電に受けて自己の手で売捌いている。今や宇治電の資本金は八千五百万円払込五千二百万円に増加し電力総出量は宇治川発電所二万九千キロ、福崎火力発電所三万キロ元大正水力四千キロ、之れに近く完成する宇治川第二期二万六千キロを加うれば八万九千キロワットに達する。

木村の凄い腕

木村は商船で永らく人事を管掌していた関係からか、秘密一天張で官僚臭の紛々たる男であった。従って肌触りのあまり滑らかな方でなく、接見する人にでも折に触れ利刀を擬する様な鋭さを現わすこともある。社長となってから、あれで圭角がとれて来た方なのだ。頭脳は比較的明晰だから、謀を帷幄の裏に運らすには誂え向きに出来ている。自分が社長に就いたために常務林安繁の不満を招き社員の動揺するのを恐れたのと、電気に精通している林が居ては他社買収などの際どい芸当が打てないとの理由で、林を立てごかしに春の日永の世界漫遊を試みさせたり、京阪電車の太田光熈が電鉄敷設の競願を取下げる為めに大軌から貰った一万八千株を川北企業の川北栄夫から手を廻して、コッソリ宇治電の手に買取る相談を纏めたり、極めて辛辣な所を見せている。

大電買収の黒幕に宇電

昨今頻りに問題となっている大電買収交渉についても、真偽は保証出来ぬが、宇治電は大電買収期成同盟会成立に際し、兵糧金五万円を提供したともいう。これについては本年四月八日大阪市会刷新派の山本芳治が、築港高野山で大電買収反対演説会席上、大ビラ切って演説しているから、万更火のない煙とのみ思えぬ、木村にしてはソレ位の芝居を打つこと朝飯前の仕事である。

糸をあやつる

山本は此演説は更に附言して、新澪会に二派あり一は市長擁護派一は宇治電擁護派だから、大に市民の監視を要すると喝破している。蓋し今回の大電買収の妥協成立して、電灯に要する電力一万九千キロを大電の手から全部買うこととなったら、折角宇治電が市との間に締結している電力供給の独占権が侵害されるとの理由で、其内一万キロでも是非自社から供給したいというので、目下市と新澪会の一派に対し躍起運動を試みている。それで市も新澪会一派も宇治電に款を通じて、大電からの供給電力を一万二千キロに減量せしめんと交渉中である。仮契約の調印間際になって行悩んでいるのも之に引かかっているためで、山本が市民の監視を要すといったのは此辺を指すのであろう。

宿年のうらみ

大電と宇治電とは共に政友会系統に属するものだが商売上の仇敵という訳で犬猿も啻ならず、新設動力需用家に対しては、血の滲むような競争を続けている。尤も表面宇治電は大電より生い立ちが遅れていただけに、電柱共用問題などで常に大電に窘めつけられ、大電に送電している電力二万キロの料金も一銭三厘というベラ棒な安い値で協定せねばならぬことになっているので、いつか大電に眼に物見せてやろうとその機会を狙っていた。恰度その時に起ったのが大電買収問題であるのだが、利刀のように鋭い木村が何条この好機を遁すであろう、こう思い運らして見ると黄白撒布や、市会議員買収なども或はと首肯される節もある。尤も大電社長の宮崎敬介も、一騎打ちにかけては敢て木村に後ろを見せる弱兵でないが、惜しことには病臥しており、大電買収交渉の衝に当っている大電常務の河合鼈も病い上りで脳細胞の怪しい男だから、此機会に大電を亡きものとせねばと木村は裏面から実弾攻撃をやっているのかも知れぬ。

(三十六) 海陸両棲の商船系

土俵間際で踏ばる大電

大電買収問題が仮契約の調印間際になって容易に最後の幕が下りないのは、大電の残存会社から市に供給する電力料金に引かかっている為めである。市はその料金を大同電力や宇治電の申出価格並に下げるのなら、大電から買うてもよいが、それより高いと市電の九条発電所の二万キロが完成して余力あるから、大電から買わぬと言い出し、大電は宇電及び郊外電車に現在給電している最低値段で供給するがそれ以上は負けられぬ、若し負けたら残存会社が四分見当の配当しか出来ぬから死活問題である。それで、料金を宇治電同様に負けるのなら現在市が宇治電に与えている市内小口動力供給の独占権を与えて貰いたい、此独占権を与えずして料金のみを値切らるれば残存会社は鬼の死骸に等しいものだとソロソロ駄々を捏出した。

大同下駄を預く

此処へ首をつき込んで来たのは大同電力の福沢桃介、山本条太郎の面々である。大電が買収に当ってソンナ安い値で残存会社の対市電力料金を折合うて、残存会社がどうして算盤が持てるか、大同と大電とは既に六万キロの電力供給契約を結び、この七月から読書発電所の完成と共に直ちに契約を実行しようと思っているが、その取極料金より安い値で大電が市に給電するようなら、残存会社の財政は極めて危く、大同との契約を実施しても料金を支払えぬかも知れない。それで大同と大電との契約を市に引継がすか、残存会社の算盤の立つようにして欲しいと、五日の大電重役会に桃介が怒鳴り込んだそうである。

知事に凄い文句

福沢はその足で直ちに買収交渉の裁定者である井上知事を訪問して今日までの御厚意を謝すると共に「大同と大電との間には電力の需給契約があって、大電又は大同が他に合併又は事業の全部又は其一部を他に譲渡す時には、本契約を後継者に引継がしむることを規定しているので、此契約を尊重して裁定して戴きたい。これを無視して買収契約を成立たしても後日悔を貽すことがありますぞ」と凄い文句を並べたそうである。世間では大電が買収を嫌がって、仮契約の調印間際に福沢を使って八百長の喧嘩をオッ始めているのではないかと邪推しているものもあるがそれは事件の真相を知らないものの囈言で、大同電力は真面目であり、真剣である。

好敵御坐んなれ

大同電力が真面目であり、真剣である理由は、之れが大同電の盛衰に関する重大問題であるからである。宇治電では、大電は晩かれ早かれ買収される運命にあるが、恐ろしいのは大同であるから何とかして大同の大阪入りを阻んで、これを自分の手に収めたい余り、第二回の大電買収妥協成立したと同時に市に対して宇治電は二万キロを一キロ二銭で供給することを提議した。その使命を仰せつかったもの林安繁だそうな。之を聞いた福沢は嚇となり、宇治電がその気なら大同は料金などどうでもよい一つ大阪市へ直接送電契約を結び宇電を叩きつけてやろうというのが今回の横槍を入れた一つの動機である。それで大電が、若し大同と大電との需給契約を摺った揉んだいうのなら、寧ろ之を破毀して直接大阪市に送電してもよいとの意嚮を漏した理由もそこにある。

大同の盛衰に

更に、今回大電が残存会社から市に送電すべき電力量を、二万九千キロから一万五千キロに減量されたのが福沢の癪の種である。大同が折角関西水力を合併して大阪送電の活動の足場を拵えても、肝腎の大阪がコンな按配であると、巨資を投じて建設している木曾川筋の読書、大井、桃山三発電所の大正十三年三月迄に完成する約十万キロの捌け口を限縮される。尤も此十万キロの内六万キロは既に名古屋や京都で予約済となっているが残りの四万キロはドウでも大電を通じて大阪市内と自己の手で大阪市外で消化させる目算だが、ドウやら外れそうなのである。福沢を焦らした他の動機は此処にある。

役者同志ゴテつく

大体福沢は名古屋電灯会社の名義で一万株の大電の大株主であり、大電社長の宮崎敬介は大同の副社長の地位にあるばかりでなく、大電の現重役島徳蔵、寺田甚与茂、阪仲輔は何れも大同の重役であるから、大同と大電とは切っても切れぬ深い仲であr。福沢とても大電を袖にして自分のみ好い児になろうとは毫頭考えていないが、大同の立場を失うようになれば責任上看過出来ない。しかも大電及び大同の両重役が電力需給契約を無視して、大同に損害を与える結果になると、之等重役は背任行為をやっているも同様だとて、福沢が大電重役に一本きめつけに来るのも無理のない話である。之が為に折角一キロ二銭二三厘で市と折合うとしていた八日の大電重役会も議論百出して纏まらない。而して此福沢の影には、京阪電車の岡崎邦輔、太田光熈が策動していることを忘れてはならぬ。太田は大同の常務であり岡崎は平取締役である此事は後に説く。

(三十七) 海陸両棲の商船系

小口動力は小児の喧嘩

今度の大電買収問題で奇怪なことが一つある。それはこれだけ八釜しくなっている小口動力供給権割譲の大事な附帯条件が、妥協成立の時に市に通じてある筈のものが今日になって市がソンナ条件は聞いていないと白を切るのと、大電は慥かに謂ったと強情を張ることである。市の方に謂わせると、大電との交渉委員であった佐竹電鉄部長が聞いていない以上、市長や関、有田両助役がそれを聞いている筈なく、佐竹は電力料金と電力量のことは承知していたが小口動力のこと毫頭知らないと謂う。大電側の交渉委員河合常務はその事は妥協成立の日に口頭で述べたといい、五日の重役会が済んで島徳蔵が重役会の模様を井上知事に報告してその裁定を仰ぐべく、小口動力問題も文書に作成し、島が急用のため知事訪問を見合せたが其文書を使を以て差出したから、知事も承認している筈だと謂う。然るに今日に至って井上知事もそれを知らなかった、文書もまだ見なかったと謂うに至っては、知事の無責任も甚だしいが、大電側にも手落ちがある。それだけ大事な附帯条件を僅かに口頭で謂わせた大電重役も軽率なら、河合常務も功を急いだ憾みがある。今日まで買収交渉に常に有利な地位に立っていた大電が、昨今主客顛倒して受太刀の不利な立場にあることは事実である。

譲歩した裏面

序に、話しは少し後に戻るようだが、最初石に噛り付いても、大電を手放すまいと構えていた大電重役が、何が故に中途でポッキリ腰が折れ、市や宇治電に対して裏を掻かれるようなヘマをやったか、最近の経緯を内証で話そう。井上知事の斡旋で本年二月二十日に大電重役と大阪市との間に一旦手打が済んだが、其時の買収価格は慥かに六千六百二十五万円であった。之が今度の第二回目の妥協価格が六千四百六十五万円と最初より百六十万円をアッサリ負けているのは、どうも腑に落ちない。如何に市会議員が騒いだからとてそれは市当局と市会との問題で、会社の与り知らない所、市会が通らねば市長が詰腹を切るまでの事だが、それを知りつつ会社が百六十万円減を納得したのは曰わくがある。大電の大株主の間に、買収を見込んで大電株を七十幾円かでシコタマ買い込んだが、これが買収不成立となったら、折角昂騰して八十二三円処にある株価が暴落して元値となる虞あるから、ヨイ加減に市の云い分に譲歩したらどうかとわざわざ永田仲裁居士に好い智慧を附けたものがあるとの事だ。これがそもそも会社の島、河合を動かした理由であるが、これでは土俵の真中で、自分の力で自分が倒れたようなものである。

商船系恵まるか

仮契約の調印が済めば当事者と重役会の意思合致となる訳だが、その後ろに大阪市会と大電株主総会が控えているので尚安心が出来ない。普通の商事会社の合併或は買収なら、大抵総会に文句のない筈なのだが、大電問題は大阪市政上の癌である。大正二年肝付市長の時にも市会議員谷口房蔵、杉村正太郎等の肝煎で、当事者間の手打が済みながら、市会が通らなくてお流れになった前轍があるのだから今度もなんともいえない。
それは兎も角大電買収がいよいよ成立して八九月頃事業の引渡しも済み城明け渡しとなると、多年此処に巣くうていた大電系は殆んど打ち壊され、残存会社で孤塁を守るとなると、木村一派の商船系はそれだけ活動の天地を拡げることとなる訳だが、昨今のように大電買収の雲行きが怪しいと、宇電の思う壺に篏るかどうか。

巨手を電鉄界に

既に特許を得た港南電車と南海急行(旧称和泉軌道)の二つと、最近許可さるべき阪和電気軌道の三つの電鉄は、共に宇治電系と密接の関係を有するものである。港南電車は財界の攪乱者高倉為三の失脚以来、富島組の井上寛治が創立委員長となって目下高倉の跡始末に追われているが、創立委員の内には木村清の名を現わし、電力の供給も宇治電から受くることに略定まっている。此の電車は大正七年頃元田鉄相の当時、京阪電車の太田光熈が自分に欲しくって堪まらず、鉄相を動かして憲政会派に属する高倉輩に許可をさせない運動をしていたが、内閣更迭のドサクサ紛れに武内作平、芝谷三郎などが漸く特許権を得たものだ。其後高倉事件に巻き添えを喰って、鉄道工事資金約二十万円ばかりをフイにされてから、工事着手も遅れ創立委員の顔揃いに随分永らくゴタゴタしていた。それで一方木村清は自分が発起人総代で山岡倭が発起人である阪和電気軌道が未だに許可ないので焦り出し、此港南電車と合併して特許を早からしめようかと目下切りに画策している。

(三十八) 海陸両棲の商船系

南海の競争三線

更に南海急行は宇治電の前社長中川浅之助が発起人総代であった関係から、木村清は追加発起人に据わり現在柴谷利一が発起人総代となっているが、宇治電とは浅からぬ●縁があり、消費電力も宇電から受ける黙契がある。大正八年南海鉄道の買上問題の喧ましかった当時、和泉電気軌道は南海鉄道の和歌山本線を除き、阪堺線及び支線を六百万円で払下の諒解を政府との間に得ていたが、京阪電車の社長岡崎邦輔が茶々を入れたのと財界動揺の為め買収が無期延期となった。それで和泉電軌の計画はガラリと外れ、浜寺佐野間の特許のみ残って頭も尻尾もない電車が出来、用をなさぬというので、今度目的を変更して浜寺と大阪今宮間高速度軌道の許可を取り、以前の浜寺佐野間を結び付け、将来佐野和歌山間の特許を得る目的で、南海急行と名前換をしたものだ。此電車は軌道条例で許可を得たが速力の関係から地方鉄道法に変更すべく、目下準備中である。斯くて宇治電は自社の動力販売と沿線の電灯供給区域獲得の意味から、和歌山大阪及堺大阪間の新設電車三線に渡りを付けている。
これを知った南海鉄道はジッとして居れず、四月十日の重役会で資金九百七十万円を投じて難波佐野間の複々線敷設出願を可決している、将来南海方面はこの四線の電車が入り乱れて激烈な競争が始まるであろう。

爪を磨く京阪

京阪電車の社長岡崎邦輔、常務の太田光熈は商船と同じ政友会に籍を置いていながら宇治電系と肌が合わぬ。殊に宇治電に大阪の電力界を掻廻されることは大同電力の重役である岡崎、太田の堪える所でない。今度の大電買収問題に福沢が横槍を入れたのも岡崎、太田の智慧附けだとも謂われている。岡崎は大阪の電力界で一旗挙げようと先ず大同電力を以て宇治電を慴伏し、電力界及電鉄界に牢乎たる地盤を扶植したい野望を抱いている。夫は電鉄界に於る京阪一派のやり方に徴しても明かである。最近北大阪電鉄の過半数を株を一手に買占め、摺った揉んだの内にマンマと乗取って、北大阪の電鉄は新京阪電鉄に合併し、北大阪の所有せる千里山土地は之を鉄道と引離して独立した新京阪土地会社を経営した。新京阪電鉄が四五年も向うで、城東線払下線の利用によって辛じて梅田に連絡する極めて不経済且不便な計画であったものを北大阪の買収によって訳なく天神橋六丁目の北部大阪の喉首で乗降客を呑吐せしめるようにした。

鳶に油揚を浚わる

昨年南海鉄道に合併された前高野鉄道はもと京阪電車が咽喉から手が出る程欲しかったのでソッと大阪電灯に手を廻して之れを買収せんとした。時の大電社長宮崎敬介は高野電車買収の議が、もし重役会で容れられなかったら、宮崎の個人名義で買取ってもよいと謂った程であった。それが買収価格の僅かな処で折合わず、横から不意に出た南海にマンマと取られて、鳶に油揚を浚われたよりも尚惨めな目に遇った。か程迄にボロ会社の高野電車が欲しかった理由は京阪が之より先き和歌山水力を合併して和歌山電器鉄道を握ったが和歌山大阪間の電鉄線を有たないので、高野鉄道を買収して此和歌山電器鉄道をより有用にしたい為であった。宇治電が阪和電軌南海急行の二つの先願あり南海急行が特許なりかかったので京阪は気が気でなく邪魔立てしていたというのも此辺の事情に基くものである。

岡崎一派の野望

京阪電車の岡崎、太田が電鉄界を席捲せんとて機会ある毎に買収やら合併の魔手を延ばしているが此外、同僚奥繁三郎の経営している京津電鉄に垂涎し、奥繁が昨今病気で再び起つ能わざるを知って之れに取って代わらんと画策中だそうな。斯て大阪和歌山間の電鉄さえ手に得れば、南端和歌山から大阪京都を包擁し北部大津に終る大延長哩の電鉄を掌中に収め得る訳である。更に此電鉄を踏み台として電力界に雄飛せんとする野望は年あり、大同電力を大阪で生い立たせたらわが事成れりである。宇治電が大正水力、近江水力両会社を併呑した際のその競争者は大同電力であったが、その影には岡崎太田が幻のように動いていたのも此間の消息を語るものだ。

右手に電鉄 左手に電力

大体電鉄と電力とは血の引いた御親族筋で、電鉄は電力の好い御得意だが電力会社の為めに電鉄が好い児にされていてはたまらぬ。大電と郊外電車が電力料金問題で常にゴテゴテ揉めているのも之れが為めである。岡崎一派が此祈願成就して右手に電鉄を握り、左手に電力を掌ることとなれば、仇敵宇治電も枕を高くして眠られないというのが京阪系の心願である。太田光熈が最近市役所に池上市長を訪い、大同電力は一キロ二銭と宇治電と同様の値段で一万キロを直接売り込みたいからと申込んだそうだが、大同が一方で大電に対し台電に送るべき電力六万キロの大阪市へ引継ぎを迫っていると同時に、裏から市役所を訪問して大同の直接送電を開始する為めに躍起となり、大電の感触を悪くしても尚大同の立場を強くしようとするのは、之れ皆岡崎一派の大野望の発露である。将来電鉄及電力界で、同じ政友系の岡崎派と中橋派が対陣して猛烈に鎬を削る時機も遠いことではなかろう。

(三十九) 海陸両棲の商船系

日電背水の陣

山岡順太郎が商船を退く時の表面の理由は関係事業会社が繁多だからというにあったが、此関係事業の重なるものは最早や開業期に迫っている日本電力を指すのであろう。日電はやはり商船系の山岡一派によって大正八年に目論まれた宇治電の姉妹会社である。社長の山岡順太郎、副社長の林安繁、専務取締役の池尾芳蔵等の諸氏何れも商船からの入婿で、之に附するに堀啓次郎の養子朋近氏や其他二三の商船出身の課長連を以てしているのを見ても金箔附の商船系である。日電の創立された大正八年は財界の最高潮時であったから、当時大電系によって計画された日本水力と共に株は数十倍の募入超過となったものだ。その後一年財界の波動を受けた日本水力は非常の苦況に陥ったが、大阪電灯との間に九万四千五百キロの大阪供給権を有しているのに眼をつけた福沢桃介氏は自己の支配下にある木曾興業と京阪一派の大阪送電の合併を策し遂に大同電力を拵え上げたものだ。目下大阪市対大電と大同との間に問題の焦点となっている大同と大電の電力需給契約の本体は、此九万四千五百キロが昨年十一月六万キロ料金二銭五厘に改訂されたものである。

電力の洪水を予想

一方日電は此苦況を辛うじて持ち耐えたが、同社の事業計画は飛騨川、益田川、神通川等で約十三万キロの発電所を造り、庄川、富山県営、越中電力等の同業者の電力を受電して大阪に送電するもので瀬戸発電所の二万四千キロは来年三月頃までに完成するが、同時に強敵大同電力の木曾川筋の読書大井、桃山三発電所も来年四月頃に約十万キロ大阪送電予定あり、宇治電の第二期工事二万七千キロも本年十月頃までに完成するから、こうも一時に電力のホースを大阪に向けられると来年五六月以降は電力の大洪水を予想される。

姉妹会社の越電

日電は最近発行した一千万円の社債殆んど全部を既に完成に近づいている瀬戸発電所工事に注ぎ込み、大同電力の読書発電の大阪入より一足先きに送電開始せんとて大車輪の態だ。しかも一方において黒部川に水利権を獲ている東洋アルミナム会社の過半数の株を買占めて其実権を掌握し、他方川北電気企業と提携し宇治電と語らい、その驥足を遠く中国筋一帯に伸ばすべく、中国の電力統一計画を企てている。更に日電は関西電力を自己の勢力圏に引入れ、姉妹会社の越中電力に気脈を通じている。越中電は元商船の基隆支店長白庄司芳之助が出て、社長となり宇治電の林安繁日電の池尾芳蔵等重役となって守り立てているので、洗えば同じ商船の流れを酌んでいる訳だ。

中国送電統一の計画

日電及宇治電一派が中国送電統一計画を樹てた動機は大同電力が東邦電力を参謀長格で、尾三電力、矢作水力、白山水力、濃飛水力等を股●とし旺んに名古屋を中心とする東海方面に堅い根城を築き東邦電力が遠く九州電灯鉄道と合同して本土、九州と相呼応にしているのに奮起したからである。宇電日電が中国筋を活動の舞台と睨んだのは中国筋に目下創立計画中又は工事着手中の三電力会社即ち、中国送電、瀬戸内海横断電力、四国送電会社がある、之等を利用して中国発展の足場とする為である。中国送電会社は日本電力、宇治電、島広電気関係者を発起人とし資本金三千万円で、大阪を起点とし山口県を終点とする送電幹線を建設し、沿道の電気事業者に送電連絡を完成することを目的とするものだが山岡順太郎、林安繁、池尾芳蔵及び木村清の諸氏が加わっている。福沢桃介と仲悪の川北栄夫と宇電日電の提携の結果出来た会社である。

中国筋の足溜

瀬戸内海横断電力会社は、大正十年十二月因島電気を買収し資本金五百万円で、前因島電気社長新井栄吉其他の発起で設立され、先ず伊予鉄道と提携して同社の有する電力を中国に送電すべく、海峡越送電工事に着手している。之れには池尾芳蔵監査役に木村清取締役に加わっている。此瀬戸内海横断電力を活かす為に高知、徳島、愛媛の各県下に亘り四国縦貫送電線を建設し、一方電気会社と送電連絡をとり、その剰余電力を瀬戸内海横断電力に供給する四国送電会社あり、資本金一千万円だが、此発起人に林安繁、木村清が参加し、因島電気買収以来遂に商船系の傘下に走った新井栄吉が社長である。

(四十) 海陸両棲の商船系

濃淡の色とりどり

尚山陽電気取締役には日本電力取締役市川誠継ぎを配し山陽電気及出雲電気取締役には宇治電取締役野口遵を当てがい、中国筋の覇者を以て任ずる広島電気には、川北電気の川北栄夫が自ら目付役として取締役に就ている。其他渡川水力、因幡水力等濃淡の差こそあれ日電及宇治電の色彩が現れている。
此外に宇治電系によって最近大阪機械工作所(社長林安繁)日本電熱器製造会社(社長中本良資)の二社あり資本金何れも少く、章魚の足の疣に等しいものだが、電力販売から電気器具製造販売に手を染めていることは注目すべきである。

鉄工所に巣籠った山岡

御大中橋の推挙に依て範多竜太郎所有の大阪鉄工所の不動産、動産債権債務の一切を引受けた山岡順太郎は商船から引抜いて来た下村耕治郎を唯一の股●として、鉄工所の経営に没頭し、範多には二百万円を延払とし残額三百万円は第一回払込金を以て直に之を支払った。戦前においては鉄工所の業績も左程振わず藤永田造船所と兄たり難く弟たり難き程であったが、欧洲戦争の余慶を受け、俄かにブクブク膨れ出し、戦時中には喧ましかった日米船鉄交換船を提供したり、海軍省註文の特務艦鶴見、石廊二隻及掃海艇を建造したりなどして業態を一新し、資本金も五百万円より一千二百万円に増資した。今や造船台十五台、造船能力二十万噸、船渠数七を有し三菱、川崎両造船所に次ぐ第一流の造船所になり終せたのも社長山岡の手腕に待つ所大井とも謂い得る。先年八幡製鉄所の疑獄事件勃発した時、山岡も之れに連坐しているのではないかと睨まれ、その身辺も危うかったが、当時の常務取締役山口力、木村鐐之助が引かかったのみで、山岡は難を免れ、鉄工所にも何等の損失を与えずに済んだこれは彼の命数の未だ尽きない処だ。山岡が日本造船協会並に本邦ロイド船級協会の委員に選ばれたのも此鉄工所の代表者である為めである。

海路の日和待ち

現今造船界は海運界の疲弊によって青色吐息の有様で、世界的船舶過剰は容易に回復の曙光をさえ認めしめない。殊に一昨年秋から冬にかけて倫敦市場で繋ぎ放しの古船投売りが始まり、眼先きの見えぬわが銀行屋と銀行屋に頭の上らぬ借金船主がグルになって三十万噸も古船を輸入したから、労銀の高いわが造船所は全く上ったりとなり、註文船は杜絶して造船台は欠呻している状態となった、大阪鉄工所も労働争議を起しながら鉄工馘首又は工場閉鎖の大整理を行い、残った工場は模様換えして水力電気の鉄管やら橋梁など製造する元の鉄工業の歩に返って、漸く其日を糊塗しているが何日まで待てば海路の日和が来ることやら。

造船屋の頭痛鉢巻

大体造船材料の鉄鉱を有せない日本においての造船行は非常に不利な地位にある。鉄の輸入税従価一割五分免税となっても、外国から輸入する運賃だけが高くかかる道理である、殊に労銀が昨今のように昂騰しては普通貨物船としても重量噸一噸百五十円位の新造費を要するのも当然だが、それでは五年未満の中古船噸当り四五十円で買う方が船の欲しい方にも有利だから、造船屋に一瞥もくれぬ。造船屋の上ったりも亦当然である本家の大阪商船が、ロンドン丸パリー丸の建造を英国に註文して分家の大阪鉄工所を袖にすると怨んで見た処で、算盤の上で勝目なかったら地だんだ踏んでも追っつかない。

山岡の延びた手

山岡は商船の堀と性格を異にし、多少の抱擁力を持って種々の事業に手を延ばして商船系の為めに気を吐いている。日本電力、大阪鉄工所を主宰していることは前述の通りだが、宇治電には平取締役となっている外、日本綿花系の矢野慶太郎が専務していた沖台拓殖製糖の相談役となり、沖台拓殖が台南製糖と合併された相談役を罷めた。山岡が沖台拓殖に手を延ばした理由は砂糖の積取問題は、当時沖台拓殖のせむ矢野が商船を薬籠中のものとして置くことが、商略上必要であると考えたからである。此系統を辿って此程肥料界を驚かした大日本人造肥料、関東酸素、日本化学肥料の三社大合同で田中栄八郎が社長となったが矢野慶太郎との●縁から、山岡も之に絆わって相談役となり、山岡の伜の倭をして取締役に就かしめている。

(四十一) 海陸両棲の商船系

何を相談の相談役か

更に極東硝子工業会社は山岡の経営しているものだが、表面倭を専務に立て順太郎は相談役となり、村木正憲の社長たる大阪機械製作所では範多竜太郎と共に相談役、元大阪鉄工所の技師であった高倉作太郎の社長たる大阪製鎖所では倭を監査役、順太郎が相談役、大阪天王寺と河内長野間を連絡する大阪鉄道には、宇治電との受電関係もある為めか、倭を取締役順太郎が相談役に、それぞれ名を列ね、船舶から鉄道、硝子、砂糖屋まで間口の広い玄関を張っている所、彼の面目が躍如たるものがある。抑も素人の山岡は何を相談する相談役か。

商議会頭時代の山岡

更に山岡は事業会社に関係するのみで満足せず、大正六年に商業会議所会頭となり、一期を無事に勤めて、二期戦に一敗地に塗れ、今西林三郎の為めに会頭を奪われたことは人の記憶に新たな所である。その今西が積善銀行破綻の余沫を受けて辞任した跡釜に、山岡一派は順太郎擁立の野心あったが副会頭稲畑勝太郎の御馳走政略の薬が廻っていたので、山岡は形勢非なりと見て候補を辞した。併し会議所が今尚営業税改法陳情やら、会議所経費賦課徴収方法等の問題のある毎にゴタゴタを繰り返しているのは山岡の黒幕が八木与三郎、小島逸平、山岡顧弥太等を操っているからだとも謂われている。

敵を蔑んだ落度

大正六年山岡が会頭戦に栄冠を得たのは、当時の副会頭稲畑勝太郎と今西林三郎の醜い会頭争いから全く漁夫の利を得た訳である。当時日本綿花の喜多又蔵、大電の宮崎敬介、安宅弥吉等は此鷸蚌の争いを見るに見兼て、全く利害関係のない大阪商船の代表者山岡順太郎を新人の急先鋒を上げる意味で会頭に擁立したので、副会頭の両名は一溜りもなく蹴落された。在職中の山岡は功罪相半ばし、多少の治跡はあったが同時に横暴の譏りも受けた。蓋し彼のブッキラ棒な人を見下すような態度が禍したのであろう。夫で第二期の会頭戦には既に耄碌している今西を己れの競争者と知った時、到底真面目に相手にする気になれず、殆ど鼻でアシらっていた。此山岡の高慢な態度と油断を見済ました今西派は死物狂いの躍起運動を試みた。

氏神に願かけた今西との対戦

今西は商業会議所議員選挙にさえ落選したのでガッカリしていたが三品取引所の秋岡義一が義侠敵に選挙間際に議員を辞して其椅子を今西に譲ったので、萎れ返っていた今西の勇気を喚び戻し、議員間に叩頭百拝、「どうか六十幾つの今西の死土産に当選を憐みたび給え」と斎戒沐浴して氏神にまで願をかけたとか。天も彼の至誠を納れたのか、此時恰もよし、曩に山岡を援けた大電の宮崎は戦時中の四ヶ年で自分の管掌している事業がだんだん膨れ上ると共に山岡の関係している宇治電も縄張が拡張されて常に商売上の接戦が日に激しくなって来た時だから、山岡に対する温情は昔日の如くでなく、極めて曖昧の態度をとり、終いには今西に加担するに至り、遉がに山岡派は喜多又蔵、安宅弥吉のみでささえることが出来ず僅かに一二票の差でアノ布袋腹がどっと横に倒れたのだ。此時稲畑が今西に加担したのは任期二ヶ年間で稲畑と更迭するとの報償契約が成立して稲畑が今西を援けることになったと噂されるが、若し事実で今日稲畑の会頭がその結果だとすればこれ公機を私するもので許し難い罪悪である。

外様格の日綿

日本綿花が田中系の直系で、大阪商船が寧ろ傍系であることは前にチョット記したが、商船系と名を付けて中橋を中心に財閥系統を索めたら、宇治電の譜代格に対して日本綿花は外様格であろう。宇治電が中橋の股●で固めているに対して、日綿は中橋と、友情関係に繋がるのみで、田中市兵衛の恩恵に生きているのである。現社長喜多又蔵は副社長の山田穆と同じく日綿生え抜きの種であるが、田中との姻戚関係から謂えば、山田が社長となるべきであった。然るに埒外の喜多に社長を譲ったのは、喜多の手腕が前者等志方勢七等に認められていたからである。尤も山田は米国に永らく遊び資性温厚の士君子で、賽の目を争う賭博に類する棉業界には肌合が向かぬのに反し、喜多は太っ腹で、眼先きが利いて、物に動じない所が売った買うたの棉業界の活動に誂え向きに出来ているからである。大正九年日綿の資本金一千万円より、一躍五千万円に増資して同業者を驚かしたのに見ても、喜多の性格の一斑を知り得る。

(四十二) 商船系の外様格の日綿

喜多の采配振

最初に喜多の手腕の認められたのは、田中市兵衛社長時代に小笠原上海支店長が三井上海支店長山本条太郎と太刀打して到底刃が立たず其上銀為替の思惑で大失敗を招き日本綿花瀕死の禍根を貽した、之が整理に上海に向った市太郎は帰途客死して日綿は今にも危く見えた。其時喜多は後任社長志方勢七を援け腕に撚をかけて日本綿花の減資整理を為し奮闘力戦した結果、遂に社運回復の緒に就かしめた、其功績は日綿として没すべきもない。日綿の今日あらしめた隆運は大半彼の太ッ腹に宿ったものと謂ってよい。志方が社長を退き副社長の喜多が社長となって以来思い切った君主独裁政治を行い、瑣細の事にても喙を容れて社員を怒り飛ばすに拘らず、一方社員の待遇を好くし面倒をも見てやるので、社員は彼に威服しているのも彼の功を認めているからである。

日綿と江商東棉

綿業の中心地はわが大阪であるが、其大阪で綿業界をわが物顔に振っているものは、日本綿花、江商株式、東洋棉花の三社であろう。しかも此三社を代表する喜多又蔵(日綿)野瀬七郎平(江商社長阿部市太郎は単に文鎮に過ぎぬ)児玉一造(東洋棉花)の三人の性格がそれぞれその会社の経営振に現われているのは最も面白い対照である。喜多は性来事業家気質で、儲かることなら、何でも来いと手を拡げたい方であるから、従って日綿の営業振は極めて派手で、米国又は印度の棉花をその儘日本に輸入するばかりで能事終れりとせず、米国、埃及の原棉を欧洲方面に転売して専ら営業の範囲を世界的に求めている。東洋棉花も日綿と同じく、世界的に商売の網を張っているが、児玉一造の一徹短慮の武士商売は東棉の業態に現われ、その営業振は大風な処がある之れに反して、江商は、天ビン棒担いで行商に廻った祖先の遺風をその儘受け継いで従来は頗る地味であったが、時局中、日本綿花に対抗的に大増資を決行し高率の配当を敢てした、然るに財界動揺で大思惑をした江商は非常な窮状に陥り莫大な欠損を暴露し、手も足も出なくなった様で、目下その挽回策に苦心している。

水平線に現る

大正七年より八年にかけ約八ヶ月間、巴里の講和会議に列席のため実業家顧問の名義で西園寺公に扈従して渡仏してからの喜多又蔵の名は、漸く水平線上に現われ出した。それまでは生れ故郷の糸村で僅かに彼れの粋名を謡われていた位だ。現に講和使節一行の名が新聞紙上に発表された時に、東京の有名な実業家が「喜多とは何だ」と怪訝な顔を向けたというのも道理である。当時、政府は講和使節の関西側実業家顧問の選択を大阪商業会議所会頭及び三十四銀行頭取小山健三に委任した、当時の会議所会頭は誰あろう商船系で且つ会頭戦に喜多の援けた山岡順太郎であったのだ。使節顧問の候補者には商議副会頭の稲畑勝太郎、住友の山下芳太郎、大阪商船の加福力太郎などの呼び声高かったが、山岡は之等を却けて喜多を指名し小山も之れに同意した。喜多と山岡との関係は此時より一層濃密の度を加えている。

プレミアムで一儲け

欧洲戦争の好影響を受けたものの内で棉業海運などはその最も著しいものであったが、船舶などは平和克復の警鐘響くが早いか、運賃傭船料の大瓦落を来し逸早く反動に襲われていたが、棉業界は支那印度、南洋方面の需要衰えなかった為め、最も遅くまでその余沢に浴していたものだ。日本綿花は大正七年に至って資本金五百万円を増加し、更に九万四千万円を増資して四十万株は旧一株に新二株を割当て、三万株を功労株とし、以上四十三万株の第一回払込は戦時中にウンと貯め込んだ積立金を崩して之れに換え、三十七万株はプレミアム六十五円均一で公募したが即時売切れの盛況を呈した。

喧嘩の仲裁と大解合

日綿の増資新株払込の期日迫った際に財界動揺の機運が見えて株は遂日暴落となったので、喜多は払込不能者の続出を慮り、日綿の将来益々有望なること二割五分の配当また容易なる事を頻りに宣伝した。しかし大河の決潰する如き勢いで崩れ出した我財界は到底人力で抗し得べくもなく、新株は喰い意地穢く頬張った現物団の背負込となって終った。日本綿花は独り所期の目的を達したが財界の波紋は次第に拡大し諸商品の大瓦落と共に糸価も捲添えを喰って二百円台に落ち込み、紡績屋と先物取引を結んでいた糸屋は二進も三進も動けなくなり、切破詰まって詰め腹でも切らねば納まらぬという始末、此時紡績屋と糸屋の喧嘩の内へ「マアマア暫く暫く」と手を拡げて割って入ったもの、これなん喜多又蔵であった。これから綿業界大解合の一鎖となる段取である。兎も角喜多は講和使節の顧問と綿業界解合の大立物となって一段と男を上げた訳である。

(四十三) 商船系の飛地たる日清汽船

一族郎党の集合

喜多は日綿を以てファミリーカンパニーとしたい宿望から他人を混えることを好まず、己れの母校大阪高商出身者を以て堅塁を築かんと心掛けているので自然日綿は大商の学閥の巣となっている。これ喜多の排他的性格がよく現われているが、その代り大阪高商で喜多の威力が校長を圧する勢いを示しているのも此辺から来ているのであろう。且重役は単に出資によって会社をわが物顔に振舞う単純な資本家を却けて元会社の使用人を引上げて重役の椅子を与えんとの方針をとっている。副社長の山田穆を初め、取締役大岡破挫魔、中村利三郎、楠本吉次郎、安井豊太郎、監査役馬場義興等皆それである。日綿が喜多の一挙手一投足に命是従うという風で比較的団結力の強いのも、此一族郎党を以て砦を築いている結果に外ならぬ。

和田富紡と接近

喜多は紡績界の奇傑和田豊治と肝胆相照らし、和田の支那における仕事には大抵手を繋いでいる。先ず営口及び天津の取引所及炭山を経営している中華企業会社には和田と共に取締役に名を列ね、和田の社長で上海で紡績を目的とする資本金一千一百万円の日華紡織では矢野慶太郎と共に取締役となって居る。其他支那における事業の関係筋では資本金二千万円の東亜興業の監査役をやっているが、これは日本綿花が三菱と提携して支那に製油工場を有し且つ日本が東亜の大株主たる関係から日綿代表者として重役に加わったものである。同社は荒井賢太郎社長であったが、荒井が大臣に据わって辞し顧問工学博士古市公威が社長の後釜になった程の相当有力者の顔揃いであるが漢口水電、武昌電灯、江西南潯鉄道など割合に地味な商売であるだけに、配当も年八分に止まっている。

学閥の観念も強い

南洋護謨拓殖では社長横尾孝之亮と同窓の関係から親交深くその取締役となっている。横尾は曩に商売敵の内外綿会社の支配人たり又タタ、サンスの支配人たり、現今は帝国綿花社長たるに拘らず斯く提携しているのは主にこの学閥の然らしめる所である。その他大阪海上摂陽銀行の取締役、過般大阪莫大小紡織と合併した日印紡織の監査役などは共に各社長の多羅尾源三郎、田中市蔵、南郷三郎が何れも商船系であるから之を援ける為めに外ならぬ。戦時中の創立で喜多が社長となり貿易を目的とする中外貿易会社は財界の煽りを喰って武運拙なく夭折した。

田中の正統摂銀

前北浜銀行を改名した摂陽銀行の頭取田中市蔵は神戸高商の出身で今なお嘴の黄い弱冠であるが、田中市兵衛の嫡孫である関係から日綿の喜多又蔵、大阪海上の多羅尾源三郎、この間商船文書課長を罷めた石崎震二及び範多竜太郎等田中系の流れをくむ面々が一肌脱いで之を援けることとなり、前正金大連支店長井上一男を引抜いて来て常務に据わらせ、市蔵を社長にしている。しかし摂陽銀行は、岩下の没落後、商船系が、後を引継いで、護り立てて行こうとしたが、信用を基礎とする銀行の経営ばかりは、甘く行かず、五十円払込済の株券が僅か三十円台を唱える有様で業績一向振わぬ。市蔵は日本興銀総裁を辞した土方久徴の娘を女房にしている関係からか、最近摂陽、近江両銀行の合併説が伝わり、近江が目下頭取池田経三郎の死後社長のないのを勿怪の幸い同社合併後の社長に土方久徴を引張って来る計画を目論んでいるというので、摂陽銀行の株価が少し撥ね上った。又三十四銀行が昨今頻りに小銀行に合併の手を延ばしているので、これはまた摂陽をも合併するのではないかとの説もある。尤も本家の三四銀行では一向そんな素振りも見せない。

日清汽船の生立

明治四十年頃、日露戦役後の海運界大不況の当時慥か西園寺内閣と記憶するが、やはり昨今のように船舶合同問題喧ましくなり、郵船や商船も政府筋から陰に合同を勧誘せられて、近藤廉平や中橋徳五郎も、こんな時節に競争も愚策と悟ったものか、航路上の提携となり、長江筋では支那まで乗出して兄弟牆に鬩ぐことの外船に乗ぜられる基と知って、合同を計画し、郵船商船は各自の長江航路の暖簾を船舶を等分に割愛し、これに大東汽船湖南汽船の全部を合体して資本金八百十万円の一大会社を創立した。日清汽船は茲に呱々の声を上げたのである。斯く生立ちが既に政府筋の御声がかりというので最初は逓信省の石渡書記官が天降り社長となり、重役は郵商及び湖南、大東等よりも出た。その後石渡が罷めて近藤廉平が取締役会長となり其下に、湖南、大東を代表する支那通の白岩竜平、郵船代表土佐孝太郎、商船代表竹内直哉が取締役となったことがある。

(四十四) 商船系の飛地たる日清汽船

近藤と中橋握手

近藤廉平の死後商船代表の竹内直哉が会長となるに及んで、同社の株式所有数にも移動を生じ、最初郵、商相半ばしていたもの漸次商船の持株が郵船を超え、之れに比例して重役も商船から多く輩出することになった。現在重役は商船から竹内を初め、取締役に商船社長堀啓次郎、商船東京支店長深尾隆太郎及び元商船畑に育ち後日清汽船の漢口支店長となった角田隆郎などが介添役となり、郵船から元郵船大阪支店長だった森弁次郎を副社長に配し、取締役に郵船社長伊東米次郎、須賀虎松が之れを援け、此外に大東湖南を代表する白岩竜平と、郵商の間に介在して緩衝地帯となっている古川合名会社の専務取締役荻野元太郎が控えている。かく御歴々の舅が居並んでいては社長竹内も思い切った芝居の打てないのは当然である。

上海で配所の月

社長竹内は商船筋の系統争いとなると堀よりも先輩であり、山岡が逓信省でまだ中橋の下で属官時代に、竹内は高等官で済まし込んでいたものだ。且中橋と竹内とは夫人同士に姻戚関係があるので、閨閥からいっても竹内が本家商船を相続すべき可能性を多く持っていた訳だ。それが中橋の覚え目出度くなかったのか、外に原因あったのか、明治四十一年、当時商船の仁川支店に居た竹内と上海支店に居た堀とが入れ替えとなり、竹内は一足先きに重役の椅子を得たもののこれが贔屓の引倒しでグレハマの発端となり、今頃上海あたりで配所の月を眺めねばならなくなったのだ。副社長の森弁次郎も郵船の上海支店に想到永くいて後大阪支店長となったもので、年齢、閲歴から謂っても程なく郵船の重役まで漕ぎ付くべき人物であったが、これも森の前任の郵船大阪支店長であった安永安吉が横浜船渠に追いやられたと同じ筆法で、伊東郵船社長に因果を含められ、とうとう上海落ちとなった。思えば社長と副社長が揃いも揃って相似た径路を辿っている。同病相憐れむセイか此二人は近来意気相投じて同社を漸次発展の緒に就かしめている。南清航路を開いたなどはよい例である。

南清と重慶にはみ出す

同社は大正七年三月資本金八百十万円を増資して一千六百二十万円としたが、欧洲戦争の最中には例の消極主義の近藤廉平が取締役会長であった為めと、長江航路より一歩踏み出せば舅の郵船や商船の縄張を犯すこととなる遠慮から、世間の景気を外方に見て長江航路に押い込められ、手も足でも出せなかった。近藤の死後竹内が会長を襲うに及んで、積極的に航路拡張を計り、南清沿岸に手を延ばすと共に支那船舶の迫害を受けつつ重慶航路を開き、同社永年の惰民を破った。所有船もぼつぼつ買い整え現在では十八隻四万一千二百噸を有するに至り、殆んど内地同業者に忘れられていた同社は漸く視線の内に入るようになって来た。

支那の航権を奪還

一体支那の沿岸航海権は日本又は支那自身がシッカリと握っていなければならぬ筈である。支那が海運自立の能力ないものとすれば境を接している日本が之れを支配すべきである。然るに我国は徳川三百年の鎖国主義で武陵桃源の夢を貪っていた間に、遠い英国がコッソリ来て着々支那沿岸に勢力を扶植したものだ。現在支那沿岸で航海権を握っているものは、怡和洋行(英商)太古洋行(英商)と招商局(支商)で之れを三公司と呼んでいる。この外尚幾多の小汽船会社あるが、日清汽船が今度南清航路にはみ出せば、どうしても此有力な三汽船会社を向うに廻して戦わねばならぬ。戦えば己れが傷くか敵を衄るか、とても無事には納まるまいが、支那あたりで英国船に跋扈されることは日本海運の恥辱である。国権伸張の為めにも日清汽船を伸ばさせたい、これが同社の使命だと、本家の郵船や商船では目下その方策を運らしている。

中橋の袖に泣付いた日窒

日本窒素肥料会社は明治三十九年の創立で生い立ちは商船系と何等かかり合いもなかった。最初市川誠次、野口村、藤山某の三工学士が資本金二十万円の小ぽけな会社を創立したが、御手のものの化学工業とは謂いながら金儲けは書物を読むように、学校出たホヤホヤの書生にそう易々と出来申さず、藤山は中途で飛び出すやら、残った二人が内輪揉めをやるやらで会社が潰れそうになったので、市川と野口は相談して同県人の誼みから中橋に救いを求めたものだ。

(四十五) 商船系の濃淡取混ぜ数点

中橋窮鳥を救う

窮鳥懐ろに入っては猟師も之を捕えず、中橋が自分に判りもせぬ化学工業などに手を出したのは此窮鳥を救う為めであった。中橋はその経営を諾して商船会社から榎並直三郎外一名を連れ込み、資金を醵出せしめる為めに三菱を説得して株主に加え、倍額増資して資本を四十万円とし、その組織及制度を革新して中橋自ら取締役会長の椅子に据わって同社発展の礎を築いた訳である。同社に三菱系と共に商船系の色が織り出されたのは此時からである。

化学工業から電力へ

大正三年中橋が商船を退くと同時に日窒肥料とも関係を絶ち、堀が監査役となって会長は空席の儘専務野口と常務市川がその実権を握り、取締役に渡辺義郎、仙石貢、桐島像一、監査役に各務幸一郎などあり、三菱系からも之を援けて後事業は追風に帆をかける如く順調に進み、増資に増資を重ねて大正九年一千二百万円を増加して二千二百万円とした。現在同社は硫酸安母尼亜その他窒素肥料の製出を本業とし、副産物としてカーバイド、セメント、酸素等を生産しているが、生産費の大部分を占むる電力を発生するために、曾木、白川、内大臣川、川内川、緑川、栗野等で三万七千四百キロを自ら発電し、緑川電力会社より尚一万キロを購入して之れを全部自分の手で消化すると共と、中国筋における電力会社の創立を画し、大正八年広島電灯と共同で六百万円の中国電力を設立したのを手始めに五瀬川電力、阿武川水力電気を起して其大部分の株を引受け、別働隊に又日本鉱山会社も拵えてその半数の株を持つ等八方に活躍の手を拡げている。斯くして自分の経営する事業が発展すると共に、商船系の蔓を伝って宇電及日電と気脈を通じて画策していることは当然の成行である。

漸く息つく陶業

電力関係で稍毛色の異ったものに大阪陶業がある。これは水力電気の送電線の鉄塔又は木柱に用する碍子を製造販売するのでもともと宇治電の発案であるが、資本金三百万円で会社を設立し元商船調度課長香月錠之助が宰し大陶碍子と銘を打って市場に売出している。碍子製造は現在日本で名古屋の日本碍子製造会社、京都の松風工業会社の外になく、此独占より免れんとする為めに生れたのが会社設立の動機である。近来電力界の好潮で事業も漸く其緒に就き、製品は良好となったようである。

扶持を受る富島

株式会社富島組と日本海事工業会社にも商船系の血が流れている。共に元商船大阪支店の係長だった井上虎治が社長で、前者は商船の船舶貨物の蒐集及積卸を一手に引受け艀人夫船内人足などを供給し商船から糊口の扶持を受けているので、甘んじて商船の頤使に従わねばならぬ地位にある。最近住友が住友倉庫の関係から富島組の多数の株を買占めたので多少住友にも遠慮せねばならない。

日暮れて途遠い

後者の日本海事工業は遭難船舶救助事業で、最初山科礼三、松田助八、三菱造船所の船舶救助機関部など個人経営のものを打って一丸とし、元商船監督課長の千浦友七郎が社長で納まっていたが、事業が思うように運ばずやること為すこと鵤の嘴と喰違って資本金五百万円払込三百万円を百五十万円全額払込に減資せねばならぬ憐れな状態に陥り、千浦は居堪まらず逃出し井上虎治がその跡を引受けたまでである。事業の前途は日暮れて途遠い観がある。社長の井上は此二社以外に高倉為三の関係していた港南電鉄や、木津川運河土地など何れも基礎の尚堅まらない会社に首を突き込み、高倉失脚以来之等会社の整理を仰せ付かった弱っている。来年の衆議院議員総選挙に生国の播州から打って出ようなどの野心を捨て、之等のボロ会社を物にする方が先決問題でないか。

その他濃色淡色

中橋に遠ざけられた元宇治電の専務取締役村木正憲は、今や大阪機械工作所の社長で返り花を咲かせている。機械工作所の前身は彼の小西喜代松が設立した日本兵器製造会社であった。露国の雷管引受けで一時は営業成績良好だったがその後露国の破壊で日本兵器も莫大の欠損を挙げ続いて、小西の経営する福喜洋行の破綻暴露で日本兵器会社は全く、解散の外なきに至った。之れを商船系の範多が引受け、紡績その他の諸機械の製造に着手し、村木正憲を社長に引張って来たもので、中橋の恩誼に浴すること浅くない。中橋は公務上宇治電から追ったものの、故人関係から彼を援け、最初は大阪鉄工所の平取締役たらしめ、其分身である播磨船渠の社長とし、播磨船渠の解散後は兵器製造会社を整理して之に乗り替え社長とならしめた訳である。最近大阪製鎖所の高倉作太郎が同じく大阪鉄工所の技師であった関係から村木と提携して専務となり技術方面を担任することになったが径路を辿って見ると之も亦同じ穴の狸仲間である。東京に本社を有する海外興業は郵、商、東洋汽船、東洋拓殖等の共同によって作られ、南米移民輸送や海外興業発展の為に出資する目的の会社であるが、今は東拓によって殆ど経営され、商船も株主の関係で微弱な脈絡を持っている。其他堀啓次郎個人として大東塗料会社の相談役、住友銀行の平取締役になったりしているが、財閥として掲げる程でもない。(商船系終り)

(四十六) 萎れ行く北陸系

北陸系の船稼ぎ

北陸系の濫觴を解くには遠く文化文政時代に溯らねばならぬが古い話を持出すのが目的でないから省くとして、由来銭屋五兵衛を生んだ北陸(越前、加賀、能登、越中)は貿易について慥かに先覚者であったに相違がない。明治初年、我国の航運業として殆んど見るべきものなかったが其時に、和船によって僅かに北海道と大阪間の内地間の貿易を営んでいたもの実に之等の北前船であった。此北前船は大阪から米、雑貨、砂糖、酒、敦賀から縄、蓆などを満載して陽春四月の頃難波津を出帆一身の危険を恐れず、扁舟に棹して北へ北へと進む、北海道に着けば其国の鰊、鰊粕其他の海産物を積んで十月頃大阪に帰って来る、一年一航海で冬期は船を繋いで本国の妻子の下へ帰るのだ。此事を毎年繰返すのであるが、素より船主等は大阪に腰を据えているのでなく大抵は草鞋脚袢で宿屋住居というから当時の船稼ぎの風情も稍偲ばれる。

海運の革命時代

此当時の北前船主には浜中八三郎広海二三郎、大家七平、右近権左衛門、馬場道久等あったが明治十五六年頃府令が出で五百石以上の和船を作ることを厳禁した、これは航海上和船の危険多いことを認めたからである。之れと共に之等の船主も和船を捨てて次第に帆船に代って来たものあり、暫らく和船帆船の過渡期に彷徨していた。併も之等の船主は何れも個人個人の行動を採っていたので、未だ財閥敵に何等の根柢なく、北前船の名が漸くわが大阪で荷主間に持て囃されていた位である。
然るに一方に於て早くも汽船時代が現出していたので明治初年から二十年頃迄は和船から帆船、帆船から汽船と三階梯を一度に通らねばならぬこととなった。即ち船舶界の革命時代である。北前船が漸く和船から帆船に遷る過渡期に於て、政府では汽船購入を企てていた。

航運一時に起る

明治七年台湾征討起り、政府は其運送用として十三隻一万三千余噸の汽船を購入し、戦乱鎮定後之を三菱会社に下附して毎年二十五万円の補助金を十五箇年間給与する契約をした。又明治十年西南戦争の字に政府は又三菱会社に七十万弗を貸与し汽船十隻を購入せしめた。これが日本郵船の前身である。日本郵船は毎年政府から補助金八十八万円を貰って内海航海の拡張に従事し、香港、孟買、上海、南洋、布哇等に定期航路を開くようになり日本航運業の発達として稍見るべきものがあったので、北前船主等もこの時勢に遅れることが出来ず弗々汽船の購入に着手したものもあったが郵船の如き大会社の現出によって北前船の名は漸く同業者間に存するのみで、一般に忘れられんとしていた。

北前船主の変遷

一方において瀬戸内海を航行する汽船が、西南戦争後船舶の過剰となって互に運賃競争起り、積弊団結して殆んど矯正することが出来ぬ程になったので、広瀬宰平外数名が発起で船舶の糾合を企画し、九十余の汽船を纏めて株式会社大阪商船を組織した、これは明治十七年のことである。商船は当時四国中国、九州の沿岸に亘り十八線の航路に従事していたが、北前船主は同じ系統を辿って此商船と握手せんとせず、相変らず北海道航路に従事しているもの多かった。しかし星移り歳変る間に此等船主の内にも変遷は免れない。大家七平は二十四五年頃から帆船を捨てて三千噸級の汽船二隻を購入し、浦塩航路に延長の計画を立てた、之れと前後して広海二三郎も汽船二隻を購入し、海運に対する執着心を強めていたが、右近権左衛門は日清戦後の不況から海運業より足を洗って終い、浜中八三郎は明治二十四年持船日光丸が遭難してからだんだん衰微し遂に没落して影を失った。北陸系の財閥として一時大阪に植付けられんとした種は商船系を除いたら、生育極めて鈍く、日影の唐黍のように力弱いものになって終った。

栄えた人と亡びた人

其後大家は浦塩商船を創立して逓信省の命令を受け、小樽、敦賀、浦塩、朝鮮航路に所有船交通丸を配して経営していたが、大阪商船に航路と船舶全部を譲り渡してから大家の名は海運界から忘れられるようになり、右近は海運界を捨てて保険屋になり済まし、日本海上、大阪海上の経営に鞍替した。ただ広海のみ持船御室丸、御吉野丸(何れも三千九百噸)二隻を以て北海道航路から撤退して荷物を見掛けて何処へでも配船するトランプ船に改めると共に、傭船主義に宗旨換えして飽迄海運業として押し通して来た。後日数千万円の暴富を贏ち得たのも彼の運気と根気の連続の賜である。

広海頭角を現す

商船会社の合同に対抗して徳島汽船、阿波共同、宇和島汽船、尼崎汽船は関西汽船同盟を組織して旺んに瀬戸内海で商船と鎬を削っていたが、広海は之等の船主より離れて超然とトランプ船を操縦し、明治三十二年初めて晩香坡に持船京都丸(四千噸)を配して社外船の外国航路開設に先鞭をつけたりなどしていた。斯くする内に欧洲戦乱勃発して海運界が百花繚爛の如き好景気を齎らしたことは今更絮説するまでもない。北陸系で船に凝り固まっていた広海のみはこの戦争によって一時に身代を大きくしたものだ。

(四十七) 萎れ行く北陸系

利慾に抜目のない広海

戦前においては彼の持船として御吉野丸(三千九百噸)御室丸(三千九百噸)の二隻あったが、戦時中傭船料の暴騰で最高時四十円位まで飛び上がり、戦前の約十五六倍となった位だから、利慾に抜け目のない広海は外部との五月蠅い交渉を要するトランプ船の自営方針より、算盤の明瞭したそして経営の安易な傭船方針に改め、この二隻を挙げて傭船し大抵料率三十円見当で貸して此古船二隻だけで一箇月二十三万四千円宛持って入ったのだから、懐は膨らんだ訳だ。之れに味を占めた広海は大正五年浦賀船渠に広福丸、広永丸、何れも六千八百噸を註文し、更に大正六年大阪鉄工所に広通丸、広速丸(何れも五千百噸)を註文した、之等の船舶は何れも一箇年程で竣工し、広福丸は大正六年十月から料率三十二円で、広永丸は七年六月から料率三十二円で傭船しているので、此両船の一箇月収入は四十三万五千二百円に上ったから一千万長者となったのも瞬く間であった訳である。

繋船茲に二箇年

平和克復の警鐘を聞くと共に大正八年頃から海運界悪化し、傭船界もガラガラと来たので甘い汁も左程永く味うことが出来なかったが、思惑を毛虫ほど嫌いな彼れでも戦時中の僥倖は身に答えて嬉しかったと見えて、大正九年に至り広祐丸(八千四百噸)を長崎三菱造船所に噸当三百十円で註文し十年竣工した。蓋し大正九年を以て海運界の底と睨んだのであろう。併し海運界悪化の足取りは尚歇まず、遂に傭船料は大型船二円以下と最高値の二十分の一となり、彼の思惑が稍齟齬した訳だ。併しこれ位のことで何条屁古垂れよう、彼は一時自営方針を採ったりしていたが到底船舶収支償わないと自覚して、断然繋船主義を樹て持船全部を挙げて神戸港に繋いだ。尤も御室丸のみは昨年九月頃慥か北海道かで擱坐したので総数六隻三万六千百噸だが、繋ぎ放して顧みざること二箇年其間神戸の社外船では共同繋船とか運賃同盟とか苦し紛れに色々と●いでいたが、彼のみはわれ関せず矣で、超然と構えている。超然と構えていられるのは船舶に鐚一文の債権の縄がかかっていないからである。

ソロソロ運航に取かかる

昨今において漸く繋船解除の方針をとり既に船渠で修繕に取かかっているが、広通丸は既に神戸のプール団へ料率二円三十銭で傭船契約整い其他の瀬ぱくも同団へ交渉中である。蓋し最近成立した勝田、国際、川崎、山下、帝国五社のプール団が広海に加盟を申込んでも容易に応じないのみか、逆手に運賃切崩に出られると折角のプールも破壊する虞あるから、持船を傭船して広海の手足を縛らんとの魂胆から此挙に出たのかも知れない。

広海の好い相棒

此広海と兄たり難く弟たり難き人物に岸本兼太郎がある。北陸系ではないが広海と同じ主義の下に、同じ径路を辿り、同じ程の富を擁している。岸本の所有船は岸本汽船で十三隻七万三千六百噸、摂津汽船で六隻一万三千四百噸を有し之れも久しく繋船主義を奉じていたが、広海より一足先きに繋船を解除し目下大分運航している。此両者の相似た処は

一、自己の所信に猛進せること
二、強気一点張のこと
三、機を見るに敏なること
四、発足点は金貸なること
五、傭船方針を取っていること

等殆んど変らない、強て相当点を云えば広海は岸本に輪をかけた程専断的で、飽迄算盤珠から弾き出して理に生きようとする点にある其一例として岸本は養子貫之助に汽船部の仕事を一切委任し、自分はその締め括りを見るのみで、従って之等若い者の言をも容れることもあるが、広海は洋行帰りの実子四郎あるに拘らず今尚之れに仕事を譲らない、何処までも専制君主の暴威を振っている。

個人主義の信者

極端な個人主義の信者であるから財閥を作って之れに恩誼を売らんともせず、之れに手蔓を求めんともしない、商船系を除いた北陸系の長老たる広海が此調子であり、その他大家でも右近でも各々独自の世界で、独自の見解を以て生を繋いでいるから、財閥としての脈絡は殆ど認め得られない。商船系が財閥の堅塁を築き、之を根城に四方に活躍の手を拡げているに相対して北陸系が次第に衰微の兆あるも之が為めであろう。

例外として吉田

尤も広海の平素の行動に対する例外として吉田長敬がある。彼は弁護士出身であるがやはり北陸系で戦前広海の口添えで日本船主同盟会の理事となったのが幸運の第一歩で戦時中船舶で巨富を積み海運界の悪くなる前に船稼業から足を洗って保険屋になり済まし、目下神戸岡崎汽船、神戸海上保険に取締役となり、八千代海上保険、日清火災保険の何れも専務取締となっている。先年島定治郎と多額納税者の貴族院議員を争い、島徳蔵などは兄弟の誼で定治郎を後援し、一時競争激しかったが小山健三、永田仁助など財界長老の仲裁によって吉田は止むなく手を引いたので、島定治郎は無競争で議員の栄冠を贏ち得たのである。蓋し吉田は広海の顧問弁護士格であったからである。(北陸系終り)

(四十八) 薩州系の得意時代

薩の海軍長の陸軍

 世に薩の海軍、長の陸軍というけれど、海軍でも陸軍でも軍人は陛下の軍人であり、国家の軍人である。国民皆兵は明治維新の宏謨以来の事実であるのみならず、国防に任ずるものは、国民全体であって単理軍人のみに非ざるは、欧洲戦争によりて明かに証明せられた所である。さは言え、東郷平八郎、山本権兵衛、其の他の面々の存する間、尚お我が国に薩の海軍なる名称を抹消することは出来ない。薩長土肥。土肥は夙くに斥けられて、天下は薩長の廻り持。シカモ、南洲、甲東の歿後、薩の勢力は長に及ばず、大正の政変、権兵衛の崛起は、一時世の耳目を聳たしめたが、幾干も無く挫折の已む無きに至り、次いで大隈寺内内閣時代はまたまた長派の跳梁に委したが、原内閣の出現は再び薩派の擡頭を示したものであり、現加藤内閣また政友内閣の変形連続であると称せらるる次第。大御所山県既に歿して、薩の大本山、松方其後公爵となり、上原勇作久しく参謀本部に蟠居し(先き頃退いたが)床次竹二郎未来の総理大臣を以って擬せらる。蓋し、当今は薩派の得意時代であろう。

薩州の大本山松方公

かくして、海軍並に政治界に在りては、録すべき事素より多いが、サテ、財界、事業界にありては如何。言うまでもなく薩の大本山松方公の本領は財政にあり。古き事は今更いわずもがな、明治十四年大蔵卿となり、十八年内閣官制と共に大蔵大臣となり、爾来蔵相、若くは首相兼蔵相となった事幾回明治初年時の財政釐革に井上、大隈と共に松方の功績の大であったのは敢て呶々を要せぬ。後年、公債の海外売出し、金本位制の実施等、松方の名は本邦財政史上没すべからざるものであろう。

井上侯との比較

長州の井上の得意の壇場も亦財政であった。井上は又有名な世話好きであり、民間事業家との関係浅からず、三井、藤田、貝島、鴻池、古河、今村等の相談相手、顧問役となり、殊に三井貝島の如きは、井上を以て守護神となすの有様であった。松方は井上の如く、密接の関係を民間事業家に結ばなかったが、兎に角、財政当局者という位置が位置だけに、一般財界、民間事業界にも関係交渉のあったのは言うまでも無く、現に往年においても、関東方面においては井上の勢力が偉大であったが、関西方面においては松方の勢力むしろ井上を凌いでいた。

子福者の松方公

そは兎に角、松方は有名な子福者で、嫡子、庶子を合せて三十明を超え、ソノ孫、曾孫を加うれば百人以上にも達すべきか。而して、名門、富豪の子弟往々にして不肖庸劣の徒を出すの例であるのに、松方の息は何れも爾かく乃父の名を辱しめず、シカモ、揃いも揃って実業界に活動しているのは、奇観むしろ壮観ともすべきか。薩の海軍、薩閥政治家、往年の警視庁、所謂芋は芋蔓、これらに就ては記すべき事の余りに多きに苦しむのである。之に反して、実業界に在っては、格別薩州系という様な言葉を聞かない。けれど松方一門を中心に薩州出身の人々の活動も、我経済界の大動脈をさぐる上からは又到底逸すべからざるものであろう。さて松方巌は松方家の長子、最近まで十五銀行の頭取であったが、今は之をやめ、同時に同行と密接の関係に在る帝国倉庫運輸の社長泰昌銀行の頭取等も退き、東京銀行集会所副委員長の肩書等もとれ、今では表面上財界には無関係の人となった。人と為り温厚の長者、蓋し老公百年の後には公爵たるべき人である。二男正作、かつて外交官であり、現在も牧野伸顕子などと親善の間柄であり、薩派特に松方の息という事が却って累いをなして案外振わなかったが大使位には成れる人であったと聞く。猪苗代水力電気の取締役、これも単にお付合に止まるであろう。

松方一門の立役者

松方公の三男は即ち幸次郎氏である。兄弟にも色々あって前に松方一門の兄弟連は何れも実業界に活動しているとは述べたが、巌、正作の両氏は要するに前記の通り幸次郎氏に至りて、始めて実業界、事業界における活躍振りを見るのである。幸次郎氏は松方一門における立役者たるに止まらず、関西における財界の大立者。否我が国における財界事業界の大立者たるを失わない。然り而して、氏は松方のバック無しとするも、優にこの種の活動を為し得る人であると称せられる。巌氏、正作氏の如きは松方なる名称が或は却って活動の妨げとなっている場合があるかも知れない。幸次郎氏に至りては聊か趣きを異にしている。氏にとりても松方なる名称が有利好都合な場合があると共に、不利妨碍となる場合もあるであろう。

(四十九) 薩州系の得意時代

松方の名前を利用

有利好都合な場合は十分に之を利用し、不利妨碍となる場合と雖も聊かもそれに屈託しない。これ幸次郎氏の幸次郎氏たる所以であって、ツマリ幸次郎氏の生命は事業そのものにあるのである。朝は職工と共に否時には職工より早く工場に入り。ワイシャツ一枚となってハンマーを揮うという、之れ這個の事実を物語るものではないか。幸次郎氏は慶応元年十二月生れ、学習院、帝国大学に学び、後欧米に遊びて、オックスホード、巴里、エールの各大学に修業した。帰朝後帝大の講師となったが、これは一向評判が悪かったと聞く、転じて日本火災保険に入り支配人となった。明治二十九年十月、川崎造船所が故川崎正蔵氏の個人所有から株式会社となった時(当時資本金二百万円)幸次郎氏は懇請せられて同社に入り専務取締役となった。

社業振わなかった川崎造船

川崎造船所は明治三年五月加賀藩が兵庫に加州製鉄所を起し、爾来幾変転して、同十九年五月、正蔵氏が之を引受くるに至り、尚別に明治十一年中から同氏が東京築地に有していた造船所をも移転して、二十年七月始めて川崎造船所の名称としたものであり、二十七八年戦役の結果として、業務拡張の必要に迫られ、前記の如く二十九年株式会社となり、同時に幸次郎氏の入社となったのである。而かも氏の入社時代は社業余り振わなかった。振わなかったというのは造船業の如きは由来大事業であり難事業である。遠大の計図を有し豊富な資力を有せなくては却々出来ない事業である。それが証拠には我が国において造船業の代表といえば先ず三菱川崎の両社である。三井、三菱と天下に覇を争う三井と雖も造船業は新しくもあり規模も小である。三菱の造船業は或は川崎に優り、三菱の計図に遠大性のあるのは、最近に至るまで三菱ヶ原(今日誰か原と言うものぞ)を草茫々たらしめて置いたのでも知る事が出来る。閑話休題欧洲戦争前における我が国の造船業の如き見るべきものが無かった。川崎造船所の如きも、其の後漸次発展はして資本金も三十三年十二月には倍額の四百万円、更に三十九年五月には一千万円となったが、当時は八朱か一割の配当すら却々困難で、払込を取るにも容易ならず常に社債の募集を行い、社債の募集といえば又川崎かという様な訳であった。船渠造築の計画なども正蔵氏時代からあったのであったが資金難から容易に手を下す事が出来ないでいたのに、幸次郎氏入社後は、予算無しにドシドシ之を造築するという様なやり方、すべてが積極的で、機敏に、大胆にやってのけた。欧洲戦争のもたらした我が国財界の殷盛、殊に船成金の栄華は、真に驚くべきものであった。幸次郎氏の積極的やり方が欧洲戦争に際して非常の成功を収めたのはいうまでもないところである。

ストックボートの製造

三菱の造船はサスガに三菱式に一段の堅牢優秀を称せられるが、川崎が戦時中重量噸九千噸型船を、起工から進水まで二十四日間、進水から全部の艤装まで六日間、合せて三十日間に完了せしめた機敏さ、お手際は当時欧米にも其例が無いといって鼻高々であった。船価噸当り一千万円を称した時代には、造っても造っても船が足りない時代であった。かくてストック・ボートの出現となった。工場に入りて一から十まで目を通さねばすまぬ幸次郎氏は遥々倫敦に出かけた。蓋し時局の中心は欧洲にあるから時局の推移を見るには、其の中心に行かなければならぬと考えたからであろう。而して氏は戦争は尚お一ヶ年以上は継続するものと断定し、万端の指図を本社に打電し米国を経て帰朝の途についたのであったが、未だ本国に着かない間に休戦条約の締結となった。弘法も筆の誤り、猿も木から落ちる。否、余りに積極の暴露、大胆を通り越して聊か無謀、ツマリ余りに勢いに乗じ過ぎた結果であろう運賃、傭船料の激落についでは船価暴落多大のストック・ボートを擁していた川崎造船所は容易ならざる打撃を蒙らざるを得なかった。

打撃の跡始末

大正八年四月川崎汽船株式会社の創立、同年七月国際汽船株式会社の創立、何れも共にこれ、如上のストック・ボートの跡始末のために生れた鬼子と称すべきであろう但し川崎造船所そのものは、サスガに多年の経験歴史を有して居り一朝の失敗に挫折するものに非ず大正四年十一月、倍額増資の二千万円となったのに引続き、同七年十二月には四千五百万円となり、更に十年五月には九千万円となり以て今日に至っている。軍縮の結果、同社の事業などは特に打撃を受くる次第であるが、最近においても一割五分の配当を行っているのは偉いといわざるを得ぬ。

(五十) 盛衰激しき川崎造船

川崎造船の社長

現在資本金は前記の通り九千万円内払込額は五千六百二十五万円、重役の顔触れは左の通り。
 (社長)松方幸次郎(取締役)野本驍、広瀬満正、坂湛、田中泰重、川崎武之助、目良恒、小川栄太郎、藤井総太郎、山本盛正、安部正也、永留小太郎、成瀬正行(監査役)田中常徳、松方正雄、成瀬正恭
右の内、松方社長及野本、広瀬の両取締役は明治二十九年創立以来の重役であり、又川崎武之助氏は故正蔵氏から二代芳太郎氏を経て川崎家の三代目である。芳太郎氏も立志伝中の人、小僧時代から川崎家で叩き上げ、遂に同家の養子となり、造船所の副社長であったが惜しい哉先年故人となった。

国際、川崎両汽船の出現

川崎汽船、国際汽船両社出現の由来は前記の通り。川崎汽船は現在資本金二千万円の払込済。総株数四十万株中、三十九万九千三百十五株が川崎造船所の所有であるから名は株式会社でも全く川崎造船所の持ちものである事が知れる。重役も両社共通で、松方幸次郎氏の社長たる外、野元驍、広瀬満正、安部正也、藤井総太郎、山本盛正永留小太郎氏等の取締役、目良恒、小川栄太郎氏等の監査役である。国際汽船は戦後財界反動、海運界の如き、先きの栄華に対して打撃沈衰特に甚だしく、噸当り一千円を称せられた船価、急転直下三百円を呼ぶの有様となった時、例のストック・ボート並びに社外船救済のため、苦悶に喘ぐ連中の狂奔となり、時の逓相野田大塊の斡旋もあり、それらストック・ボート並に社外船を噸当り三百五十円見当に見積り、之を出資として成立せしめた名代の会社であり、資本金も天下御免の日本郵船同様の一億円、片や大阪商船の当時五千万円に対して丁度倍額、まことに堂堂たる観はあったが、成立の由来が由来だけに同社の状勢今はた如何と言わねばなるまい。

国際汽船の株主

同社重役は取締役社長松方幸次郎取締役会長金子直吉、常務取締役安部正也、四本万二、取締役橋本喜造、高畑誠一、成瀬正志、中山説太郎、内田信也、野元驍、山下亀三郎、松方正雄、浅野良三、広瀬満正、常任監査役磯野定次郎、監査役太田保太郎、渡辺嘉一、勝田銀次郎、進藤信義である。右の内、松方幸、安部、成瀬、野元、松方正、広瀬諸氏は何れも川崎造船所の重役であり、以て如何に国際汽船が川崎造船所と関係浅からぬかを知るべきであろう。株主名簿に見るも、総株数二百万株中、川崎造船所代表松方幸次郎百一万八千四十株、川崎汽船代表松方幸次郎十四万七百十株を始めとして川崎造船所系統の株数百十六万四千七百五十株を占めている。幸次郎氏の活動舞台が神戸であるだけに、神戸における氏の勢力は大したもので、氏は神戸瓦斯の社長もしている。瓦斯事業は近年色々の事情で、全国の斯業会社何れも営業不振を免れないのに拘らず、神戸瓦斯は名古屋瓦斯と相並んで、良好の成績を挙げ、同業者羨望の的となっている。尚お神戸瓦斯は尼崎瓦斯(資本金二十万円、内払込十一万円)の総株数四千株中三千五百九十株を所有して居り、全くの子会社である。

日本毛織と松方

日本毛織は東京毛織と相並んで、我が国の毛織界両大関、而かもあらゆる点において前者は後者に優っている。同社は明治二十九年十二月創立、現在資本金二千万円、内払込一千五百万円、社長は川西清兵衛氏で、幸次郎氏も大正九年下半期から取締役となっているが、これは単に出資関係に止まっている。幸次郎氏は北九州一帯にも勢力を振っている。九州電気軌道株式会社は九州における第一の電気鉄道であり、全国において阪神電気鉄道南海鉄道と相並んで有数の電気鉄道会社である。同社は明治四十一年二月創立、現在資本金五千万円、重役は取締役社長松方幸次郎、取締役富安保太郎、山口恒太郎、妹尾万次郎、小畑岩次郎小曾根喜一郎、専務取締役兼支配人松本松蔵、監査役広石紋太郎、関口高次、伊藤傅右衛門諸氏であり、神戸瓦斯の例に倣い、松本松蔵氏が采配を揮っている。松本氏の夫人は正義公の四女で、ツマリ氏は幸次郎氏と義兄弟の間柄に在り、往年大阪財界の巨頭松本重太郎氏の養子となった人である。次ぎ九州土地信託がある。同社は大正八年十二月の創立日尚お浅いから未だ大なる成績を示さない。現在資本金六百万円、内払込百五十万円。社長松方幸次郎氏以下、取締役、監査役は全く前記九州電気軌道と同一であり、以て其の関係を知る事が出来る。
東京方面において、幸次郎氏の事業と見るべきものは格別無い。ただ旭石油がある。同社は、もと日本石油にいた瀬島猪之亟氏が、石油界活況当時の大正十年頃、こしらえ上げ、日石に売り付けようとしたが、色よき返事がなかったので、鈴木系統の岡和氏が専ら経営していた帝国石油と合併したものである(大正十一年三月三十日)現在資本金九百六十万円、重役は取締役社長松方幸次郎、専務取締役瀬島猪之亟、岡和、取締役成瀬正行の諸氏で幸次郎氏は看板である。要するに氏は事業界の大立物たる割合には、関係事業が少ない。この点において恰も武藤山治氏と似ている。武藤氏は鐘紡に立て籠り、幸次郎氏の真骨頂は川崎造船所に在り。川崎造船所は、所謂薩の海軍、元勲松方のサムシングがあり国家のために利益を得た事も少くなかろうが、造船事業の進歩拡張によりて帝国の為めに貢献した所も少くなかろう。幸次郎氏の勲二等は之がシンボルに外ならない。

(五十一) 盛衰激しき川崎造船

松方公の正腹と妾腹

次は四男の正雄。長兄巌氏に似たタイプの人。合併前の浪速銀行に頭取であり、合併後引続き十五銀行の取締役となっている。其の外福徳生命保険(明治四十五年四月創立、資本金五十万円)大福海上火災保険(大正八年四月創立、資本金五百万円、前記福徳生命保険の姉妹会社)両社の社長、国際汽船、国際信託、豊川鉄道各社の取締役、川崎造船所、大阪瓦斯会社の監査役を勤めているが、何れも看板乃至お附合いに止まるであろう。五男の五郎。兄弟中幸次郎氏に次いでの活動家である。不幸にして氏の最も力を注いだ東京瓦斯電気工業会社の事業が戦後甚だしき打撃を受け、且つ種々なる問題を惹き起して、サスガの五郎氏も今は気勢甚だ昂らざる観はあるが、時運転回すれば再び氏の活動舞台が開かれるかも知れない。明治四年四月生れ。巌氏始め八男義輔氏に至るまで何れも欧米の教育を受けたのに、五郎氏一人帝大法科の出身である。又巌氏以下正雄氏までは正妻の腹であるが、五郎氏以下は妾腹であると称せられる。道理で巌氏以下正雄氏までは、幅広き顔、低き鼻、老公の風貌其のままであるが、五郎氏、乙彦氏等は却々瀟洒としている。五郎氏は帝大卒業後、川崎造船所に入り一使用人として、サンザン幸次郎氏にコキ使われた。後、日本製鋼所の重役ともなったが、陪職たるに過ぎなかった様である。

東京瓦斯電工

五郎氏といえば先ず東京瓦斯電気である。同社は明治四十三年八月旧い佐賀県知事徳久恒範氏が、資本金百万円を以て、本所業平町に瓦斯マントルの製造工場を起したのに始まる。翌年工場浸水にかかり、又徳久社長が逝去した。同社は創立の字から松方老公の援助があったので、四十四年八月五郎氏が社長となった。五郎氏は由来積極的の人、いわば仕事師である。単り瓦斯マントルの製造のみでは、社運の発展望みなしと考え、更に瓦斯事業の設計工事請負、瓦斯ストーブ及瓦斯器具の製造、琺琅鉄器の製造等をも始めた。欧洲戦争は我が国の多くの事業界に活躍をもたらした。大正四年の暮、露国から我が国に対し多くの砲弾の註文があり、瓦斯電気も大阪砲兵工廠から信管の下請をなして、大いに儲かった。但し、同社で之が製造をなすには従来の工場設備による外無く、不便、不十分を免れないので、五年十二月資本金を三倍の三百万円とし、大いに事業の拡張を行った。事業の拡張と共に、製造品の種類も益々増加し、到底従来の設備では需要に応ずる能わざるに至ったので、大正六年更に大森に一大工場を起し、各種工作機械器具、陸舶機関、諸兵器発動機、自動車、飛行機、紡織機、光学機械器具の製造をも開始し、瓦斯計量器を拡張して一般計量器、瓦斯ストーブを拡張して各種のエナメル製品の製造をも行うに至り、資本金も七年九月一千万円、八年十月二千万円と、僅々三年間に二十倍の躍進を示し、世人をアッといわせたものであった。

大欠損を暴露す

東京瓦斯電気の前記諸製品中には立派に成功したものもあり、或は試験的、学術的には成功しても、経済的には成功と称し難いものがあるが、兎に角、機械製造工業は我が国においても最も欠けている事業である。尤も、大雑把な機械は石川島造船所、、川崎造船所、新潟鉄工所、大阪鉄工所その他でいくらも製造しているが、精巧緻密な機械器具は、瓦斯電気が漸く成功の緒に着いただけと言う状態で、同社は陸海軍その他との諒解もあり、大いに将来を属望されていたのに、戦後の財界反動の大怒濤だけはサスガに同社も如何ともすることが出来ず、資本金二千万円内払込一千七百四十万円の会社が、十一年度下半期決算に際し、一千四百十七万余円という大欠損を計上せざるべからざる悲境に陥入り、資本金も六百万円に切下ぐべく目下鋭意整理中である。五郎氏の事業には次ぎに常盤商会(株式会社)がある。明治四十三年十月の創立現在資本金五百万円内払込百六十二万五千円。大阪に支店、福岡、八幡、呉、京城、上海に営業所、横浜、佐世保に出張所を有し貿易業を主とし、外国火災海上保険その他の代理業合金製錬業等を営んでいる。氏の中心事業たる東京瓦斯電気の事業が振わないので、勢い常盤商会も大した活気の見るべきものが無いのは是非もない。社長松方五郎、取締役大島要三、木村俊吉、宇都宮鼎、同兼支配人中村貞作監査役山路今太郎諸氏である。五郎氏はこの他、東洋製糖、東海生命保険相互、東洋海上保険、東京地下鉄道、帝国合金製錬各社の取締役宇治川電気の監査役をしている。

(五十二) 薩州系の各種事業

石油業と製糖業

六男は乙彦。兄弟中、幸次郎、五郎両氏に次での活動家は、乙彦氏と次ぎの正熊氏であると称せらる。乙彦氏は学習院卒業後、米穀ハーバード大学に学び、帰朝後独立曹達工業を始めたが、これは失敗に帰し、日本石油に入り重役となり、大いに活躍せんとしたが、これも余り香ばしからず、今は東京瓦斯の常務となっているが、要するに暫時雌伏の姿である。氏は尚お東洋製糖、朝日興業、国際活映、大阪舎密工業、東京コークス販売各社の取締役、日本石油、東京ワゼリン工業両社の監査役を勤めている。乙彦氏は一面政治に趣味を有していると聞く、氏の夫人は権兵衛伯の女である。年歯未だ若し、活動は恐らくこれからであろう。七男は正熊。正熊氏の勢力を注いでいるのは砂糖事業であり、事業の中心は帝国製糖である。同社は明治四十三年十月創立、最初資本金五百万円であったが、其の後数回の増資を行って、大正九年九月には三千万円となり、配当も当時十割を行った事もあったが、同氏も気勢に乗じて、聊か手を拡げ過ぎた観があり姉妹会社北海道製糖を起し、又帝国製糖汽船部を設け、大いに斯界に雄飛せんとしたが時理利あらず、帝国製糖の如き、近来無配当に次ぐに無配当を以てし、遂に資本金も三千万円を一千八百万円に減資の止む無きに至った。
北海道製糖は大正八年五月、北海道において甜菜糖製造を目的として創立せられたものであるが、海のものとも山のものとも付かない中に、財界の反動に会した訳であり、資本金一千万円、内払込四百万円、重役は殆ど帝国製糖と共通である。氏は其の他北海道殖産の取締役代表、日本甜菜製糖、東京瓦斯電気工業、大村湾真珠、太平洋炭鉱、大成漁業各社の取締役、朝鮮紡織、日浦炭鉱の各監査役である。正熊氏は兄弟中第一の美男子で、且つ最も胆力家であるとの評判である。年も若し、活躍は矢張り今後であろう。八男は義輔。最近まで日本銀行に在りて、何処かの支店長をやっていたが、今は国際信託の専務取締役となって、専ら同社の経営に当っている。国際信託は十五銀行との関係が浅からぬから、後に述ぶる事とする。氏は尚お大福海上火災保険、三光紡績の各取締役、濃美電気の監査役をしている。

松方公の婿連中

松方兄弟は以上で終りとする。イヤ、まだある。それは松方のお婿さん連である。サスがにお婿さん連にも財界知名の士が、少くない川上直之助、松本松蔵、堀越角次郎諸氏即ちこれである。川上氏夫人は老公の二女、松本氏夫人は四女、堀越氏夫人は五女である。川上氏は洋行帰朝後横浜正金銀行に入ったが、明治三十年勧業銀行に転じ、三十三年理事に挙げられ、今日に及んでいる。松本氏が九州電気軌道の取締役兼支配人たるは前に述べたが、氏は其の他大阪毎日新聞、大阪曹達、大正電球、帝国鋳物の各取締役、中外商工の監査役をしている。堀越氏は東京に於ける大地主であるが、年も若し、実業界では格別活動して居らず、僅にモスリンキャリコ合名会社の代表社員たるに止まる。

十五銀行と薩州系

十五銀行を以て薩州系の事業とするのは、或は当を得ていないかも知れない。同社の株主名簿を見ると、御維新後の功労で華族に列せられた新華族は別問題とし旧華族即ち維新前からの各藩の大名や公卿華族の名が列ねてある。公侯伯子男爵取混ぜての共進会の様で、平民共の株主はその間に、挟まって恥かしいような何だか妙な感じがしたものである。何しろ同銀行の初めは、旧大名や堂上公卿即ち国家の藩屏を以て自ら任ずる人達が設立した銀行で、久しく華族銀行として知られていた。従って経営方針なども一面堅実であり、上品であると共に、兎角に消極的であり、退嬰的であった。明治三十年国立銀行条例の廃止と共に、同行も普通の株式会社となった際、園田孝吉氏が頭取となり、其後、松方巌氏頭取となった。欧洲戦争に会し我が国の各種事業が何れも殷賑を呈したのに連れて、銀行の業務も発展増大して、預金の如き、大正三年末には第一銀行七千二百万円第三銀行三千五百万円、三十四銀行三千六百万円、近江銀行二千万円であったものが、九年上半期末には、第一が三億八千万円、第三が一億三千二百万円、三十四が一億九千四百万円、近江が一億二千五百万円と何れも五六倍の激増を示したのに、この間十五銀行は三千二百万円から七千六百万円となったに過ぎず、精々二倍程度の増加に止まった。然るに大正八年十二月同行は大阪の浪速銀行、神戸の川崎銀行及び丁酉銀行を合併して資本金四千万円を一億円に増加して以来資本の尨大な点で正金、三井と共に我国の三幅対となり預金も十一年下期の決算によれば三億五千五百万円、之に対し三億四千二百万円の諸貸付を有するに至った。支店出張所の如きも現在では全国にわたり、支店三十六、出張所四十九を有し、その他国庫事務取扱代理店五、宮内省金庫事務取扱代理店二十二があり十五在来の堅実味に加うるに、浪速の大阪式、機敏、大胆を以て、我が国の金融界に活躍せんとしつつある。

(五十三) 薩州系の各種事業

大株主は薩州系

斯く十五銀行の株主には我国華族の大部分を網羅し、且つ五千株一万株と云う大株主が少なくない、株式は華族の世襲財産として重きを為しているが、シカシ、浪速銀行神戸川崎銀行の合同によって内部の空気がひじょうに変化したと共に薩州系や川崎造船所系が一大勢力を占むるに至ったのは疑いを容れぬ処である。蓋し同行の大株主としては川崎武之助男が宮内省の持株高を突破して同行株主の筆頭となり浪速銀行の合併で同行の大株主だった島津公その他鹿児島一派は十五銀行の大株主として大勢力を占むる事となった。殊に前頭取松方巌氏の後を襲うて頭取となった成瀬正恭氏や常務の愛甲兼達氏も、薩州系の頭目である。かくして十五銀行内に薩州系の色彩が益々濃厚となったのは争われぬ処である。又丁酉銀行は全く十五銀行の子銀行である。尚現在、十五銀行と深い関係を有しているのは泰昌銀行である。同行は大正二年十二月創立、最初は赤星家の持物であったが、先年十五銀行のものとなり、松方巌氏頭取となり、十五から工藤金三郎氏が入りて常務取締役となった。又武田割引銀行(頭取武田明氏)も近時関係を有するに至り、十五から山下寛次氏が出張して監督の役に当っている。

松方と国際信託

帝国倉庫運輸、国際信託この両社は十五銀行と離るべからざる関係を有している。現に松方巌氏が十五頭取であった時代は、同時にこれら両社の社長であり、松方氏辞して成瀬正恭氏十五頭取となれば現在成瀬氏が両社の社長である。帝国倉庫運輸は明治四十年四月の創立、現在資本金百万円、総株数一万中、十五銀行が八千株を有している。社長成瀬正恭副社長前田青莎、常務取締役小川貞一、取締役久野昌八、監査役今井高行諸氏で、何れも十五系統の人である。国際信託は大正九年五月創立、同じく十五銀行系、帝国倉庫運輸の姉妹会社であるが、同社には西脇済三郎、渡辺勝三郎氏等の資本も加わっている。

薩州系の実業家

十五銀行系の人としては、元老園田孝吉、松方巌両氏、現在では成瀬正恭、佐藤五百巌、愛甲兼達、松方正雄諸氏であろう。右の内、松方巌、同正雄両氏に就ては前に述べた。園田氏はもと鹿児島県士族明治四年外務省出仕以来、久しく外交官生活を為し、英国に在る事十五年に及び、この間銀行の研究もなし、帰朝後は日銀総裁たる希望もあったが、都合により正金銀行に入りて頭取となり、明治三十年十五銀行に転じ、同行の今日ある基礎を固めた。大正七年財界に於ける功労により男爵となった。現在は十五銀行、東京海上火災保険の各取締役、園池製作所、国際信託、早川電力の各相談役となっている。二男武彦氏は園池製作所の取締役代表であり、三男忠雄氏は園池製作所、北海電化工業、島田商会等の取締役をしている。又三女米は三井系の実業家で棉花通の評があり、東洋棉花の取締役代表たる児玉一造氏に嫁し、甥武田氏は前掲武田割引銀行の頭取武田明氏の養子となっている、成瀬正恭氏は香川県に於ける名門で且つ富豪の生れ。慶応義塾卒業後、米穀コーネル大学に学び、帰朝して正金銀行に入ったが、園田氏が十五に転ずると共に、明治三十一年成瀬氏も十五の人となり、爾来累進して、松方氏頭取時代は久しく副頭取であったが、今は頭取となり其の他帝国倉庫運輸の社長、国際信託の取締役会長たる外、千代田火災保険、国際汽船の各取締役、川崎造船所の監査役である。十五銀行の二常務取締役佐藤五百巌、愛甲兼達の両氏。前者は最初から十五の人、後者は浪速銀行から入った人であるから、佐藤、愛甲の順序となっているが、愛甲氏の方がむしろ著明の人であろう。佐藤氏は十五銀行に於て鰻上りに上った人、十五の常務たる外、国際信託泰昌銀行の各取締役たる亦この関係に外ならない。愛甲氏は鹿児島県士族。久しく浪速銀行の常務酉島試薬として、頭取松方正雄氏を助けて浪速の発展を遂げしめ、現在十五の常務たる外、泰昌銀行、鹿児島電気軌道、大洋商船、大隈鉄道、鹿児島紡織、日本海事工業、日本水電、東印拓殖、南国ゴム工業、薩摩製糸、羊毛整製、東京瓦斯電気工業の各取締役をして居り即ち単に十五銀行関係のみならず郷県の事業に可なり関係している。現在も依然として旧の十五銀行大阪支店に在り、関西方面に於ては薩州系財界の人々の重鎮である。氏は僅かに師範学校を出たのみで、シカモ、中々に積極的、進歩的の人で、浪速銀行でドシドシ学士を採用したのは氏の方針であったと云い、現蔵相市来氏とも親善の間柄であると称せられる。

(五十四) 薩州系の各種事業

その他の薩州系

此のほか、薩州系としてはもとの日銀総裁三島弥太郎、名物男岩谷松平氏等もあったが、今は故人となった。安楽兼道氏は、曩に大日本人造肥料の取締役会長であったが、今は北海道拓殖、東洋化学工業研究所格社長、東海商事信託、山下黒鉛工業の各取締役、合同肥料の監査役などをやっているが、要するに看板に過ぎない。赤星鉄馬氏は、恐らく薩州系財界の人で随一の資産家であろう。先年骨董を売った時も、売上げ高五六百万円に達した。但し氏は一向事業という様な事業をしてない。先年まで泰昌銀行をやっていたが、それも単に資産運用保管の目的に在ったらしく、それすら今は十五銀行に譲り渡したのは前に述べた通り。現在は僅かに千代田火災保険の監査役たるに止まる。赤星氏は朝鮮京城附近に可なりに広い牧場を所有し、馬を飼養しているが、これも要するに道楽仕事である。赤星家の財産は先代弥之助氏が造ったものである。赤星家元来樺山伯家と親戚関係がある。樺山氏海軍次官、山本権兵衛氏軍務局長時代、共に欧米に赴いた時、船が横浜を出帆するや、赤星弥之助氏も同船していた。赤星氏は大倉の手先であった。尚お同船には樺山氏の甥橋口文蔵氏もいた。山本氏も橋口氏の同船したのは格別不審にも思わなかったが、赤星氏は少し変だと思った。桑港に上陸後も橋口、赤星両氏は常に樺山、山本両氏と行を共にしていた。山本氏頗る之を不快とし、シカゴに着いた時、樺山氏に談判して赤星、橋口両氏を離れしめた。この時から樺山、山本両氏の間聊か離反したと称せられる。赤星、橋口両氏は其から紐育に先行し、又倫敦にも立寄って帰朝したが、ロンドンではクライド造船所アームストロング会社のエゼントを取って来た。樺山、山本両氏は何も気付かずに帰朝し、後クライド、アームストロングに軍艦其の他を註文したが、当時二三年間に赤星家に金が出来たとの評判が立った。権兵衛氏始めて赤星の魂胆を知り、激怒してクライド、アームストロングに交渉を試みたが、両社では赤星氏に対し八年間のエセントを契約してあるとの事で如何ともする事が出来ず、契約期限満了と共に権兵衛氏は赤星氏と海軍との関係を絶たしめたとの事である。但し、右のコムミッションは精々百万円そこらであったとの事であるが、赤星家の資産がそれを土台にしてふくれたのは事実である。現在中渋谷に本店を有し、日本橋、神田、広尾に支店があり、明治三十三年三月創立、資本金百万円、内払込二十八万七千五百円、吉田鉄太郎氏頭取、中村嘉寿氏専務取締役たる福徳銀行も、もとは赤星家のものであった。樺山愛輔氏は伯爵家の当主、乃父の子に似ず、軍人、政治に関係せず、全く実業界の人であり、現に松方巌氏隠退後の泰昌銀行の取締役会長であり又日英水電の社長、日本製鋼所の常務取締役、千代田火災保険、蓬莱生面保険、函館船渠、千歳火災海上再保険、三光紡績の各取締役等をやっている。赤星家との関係は前に述べた所で知れるが、氏はもと井上馨侯の引立により、日本製鋼所の重役となったのが、財界の人としての始まりで、この点において却って長州系の人とも言われる。町田豊千代氏が久しく桜組支配人として、我が国の皮革、製靴事業における功績も没すべからざるものであろう。氏は其の後浦賀船渠の社長をも務めたが、今はこれを退き、現在では東京鋲鎖製造、日本鋼管シャフト両社長、大正商船の取締役代表たる外、日本皮革、日本製靴、東京煉瓦、東北電化、明治紡織、東洋電機等の各取締役、山下汽船、内外興業の各監査役をしている。故宇都宮金之丞氏の陸上運送業における成功も録すべき事であろう。当主金之丞氏は尚お弱財であるが、京浜運河、大正板硝子、輸出水産の各社長、秋田木工の取締役代表、日本製銅、東海保険、鹿児島紡績、大徳汽船、帝国蓄電池、富士生命、相模鉄道、ボルネオゴムの各取締役、大日本自動車、東海工業の各監査役である。久保田勝美氏も亦鹿児島県の出身である。かつて日本銀行に在り、後満鉄理事ともなったが、今では大信銀行(大正五年五月創立、資本金百万円)を経営している。山名次郎氏は東洋石膏の取締役、千代田火災、東洋網製造の各監査役等をしている。

他の財閥の使用人

三井、三菱、住友其の他財閥の使用人として有名な人も少くない。三井の山田直矢氏は、予備海軍中将山田彦八氏の弟、又大久保甲東の甥に当る。彦八中将は不幸予備となったが、恐らくは異体の東郷平八郎たる人であると称せられ、直矢氏亦人格高邁、学識あり、現に工学博士の学位を有し、帝大工科卒業後、同教授ともなったが、後三井鉱山に入り三池炭坑の経営に当り、現在は三井鉱山の取締役兼業務委員、北海道炭鉱汽船の取締役である。直矢氏の弟三次郎氏は三菱の人。旭硝子の常務取締役たる外、高千穂製煉所、日米板硝子の各取締役を務めている。肥後八次氏は帝大法科卒業後、官界に入り、逓信省電気局長にまでなったが、先頃辞して住友の人となり山田為栄氏は帝大法科卒業後、勧業銀行に入り、累進して現在は理事兼大阪支店長をしている。日本郵船にいる西郷午次郎氏は、大西郷の息、近藤社長時代永らく秘書役であった。終りに民間財界の人では無いが職掌柄、現大蔵大臣市来乙彦氏の女も及ばぬ市来式丁寧さ、外柔内剛、而して納豆売りから仕上げた立志伝中の人たる事を録して筆を擱く事とする。(薩州系終り)

(五十五) 貿易商としての鈴木

三井物産と鈴木

 神戸の鈴木商店は、東京の三井物産と対立して、世界的貿易商の双璧であることは余りに明白な事実である。倶に海外諸国に支店又は出張所の網を張り、世界を股に掛けて安い処の商品を高い地方に振向けたり、此事業有望なりと睨んだら遠い近いは抜にして、直ぐ腰を掛けて根城を造るという処など正に酷似している。けれども名にし負う三井は大王国を背景として、歴史は古く取引高は多く鶴翼の陣形を張って動ぜざる点に於て天下の白眉であり、また鈴木の追随し得ない処である。然るに其歴史は、より新しく、其取引総額は劣ることありとも、疾風迅雷苟くも的を決めて跳掛ったら、春風影裏刀閃の快を見せるのが鈴木の独壇場だ、之は三井の企及し能わざる処であろう。要するに彼は一歩を進めて寸地を失わざる甲信流の大軍師であり、之は一歩退くも十歩を奪取する不識庵流の猛将である。老舗と新鋭との差異は何処でも変る処がない。ソシテ彼れ善なるか是れ賢なるか所謂孰れを勝と白真弓、正にシックリ息の合った好相棒で、軍配団扇はチト揚げ兼ねる訳である。

鈴木の組織変更

 貿易商たる鈴木商店が一方に諸種の事業を兼営して、三井物産と覇を争うに就いては、時流に投じて矢張り組織を変更する必要に迫られた、というのは三井家の諸事業が夫々別個の株式会社となり、孰れも株式資本の限度を以て信用の限度としているのに対し、鈴木商店は最近まで一個の合名会社として兼営諸事業の全責任を負わねばならないから、一事業の頓挫、一商品の思惑外れ等による損失の全部を無限に負担しなければならなかったからである。斯うなると世間でも聊か危ながるのみならずチト組織が時代遅れの観もあるので、新たに資本金八千万円の株式会社鈴木商店なるものを創設し、従来経営せる商業貿易の一切を継承した。之と同時に旧合名会社鈴木商店を鈴木合名会社と改称し、関係諸事業会社の株式土地建物其他の一切を管掌することとなった。之で当世流行の株式組織となり、信用を繋いで損失負担の限度が劃された訳だ。斯て関係諸事業会社を打って一丸とした鈴木合名会社を総本部となし、鈴木よね子刀自が代表となって、金子直吉外数氏を理事監事として帷幄に参ぜしめた。又別に株式会社の方にも此顔触で並び立つことは勿論の話で右に合名左に株式、さあ斯うして鈴木商店の四股が踏まれたのである。

納まり返った屋台骨

 商業貿易を切離して、八千万円の株式会社で御座いと納まり返ったが、其内容に変りのあるべき筈でない看板は依然として鈴木商店であり、仕事も同じことだ。ソノ屋台骨も大政所よね子刀自で金子柳田両氏の顔も見えている点亦同様である、只異る点と申せば、旧合名会社時代に社員として出資せる者は金子柳田の両氏に過ぎなかったが、株式会社に改まってからは息の岩次郎氏が副社長として納まり、金子専務、之に添う外同店幹部乃至支店長格の古参連の数名が新たに取締役または監査役に就任した位のものであろう。
 斯うして鈴木商店の看板は株式組織の色も鮮やかに塗換えられた次第であるが、その際会社の名称に就いて幹部間にアレやコレやと頭を悩した問題が起ったものだ。ソレは鈴木よね子経営の鈴木商店以外に別個の合名会社鈴木商店というのがあって、相互に取違えられ、其支店の如きは孰れも頓珍漢の郵書を届られて甚だ迷惑だから、此組織変更の機会に於て鈴木商店の上に神戸の二字を冠しては何うだという議論が出たからである。成程コレは名案だヒヤヒヤ賛成という者も多かったがソコは気位の低からぬ連中のことだ、暫く諮っている中に、『だが待て暫し、こうして世界的になった鈴木商店の頭に神戸なんていうケチ臭い形容詞をつけるのは自ら己を小さくするものだ』という議論で沙汰止みになったのだそうな。之も看板塗換えに起った一挿話である。

関係ある諸事業

 ソコで合名会社の管掌する諸事業会社の数は甚だ多いのだが、之等の中には株式の全部又は大部分を鈴木商店が持っている所謂直系会社もあれば、株の一部を持って他の出資者と共同経営に属する所謂傍系会社もあるが、直系会社は鈴木商店の幹部及び店員が業務に当るもので、社長専務の如き首脳者は、勿論鈴木畑の出であらねばならぬ。稀に外様の首脳者があってもソレは特殊の関係ある者か若くは看板に過ぎないのだ。直系会社の資本額左の如し。(単位千円)

[図表あり 省略]

(五十六) 貿易商としての鈴木

三代前の起り

右に述べたようにして、資本金五千万円の合名会社が、八千万円の株式会社を経営し、兼て二十九の直系会社を頤使して所謂世界の鈴木商店で候うと踏反り返っているものの、素々大名門富豪が有剰る資本を投出して創めた鈴木商店ではない。揚子江の源でも、漸く觴を濫べる位のもの、鈴木とて三代前の起りを洗って見ると、モト是れ一介の浮浪児、食うや食わずに東西を駆廻った小商人の奮闘に端を発している。だから、今までの径路を仔細らしく三分すれば、先代岩次郎氏が個人商店を創めた明治初年から合名会社になる迄を第一期、それから株式会社に変るまでを第二期、それ以後を第三期という具合になる。

武州川越藩の小者生立

武州川越藩の末者小者、ざっと足軽級の、さる二男坊と思召せ、名前を申上げる程のことはない。其男二男と生れて生涯部屋住みに甘んずべからずとあり、所謂青雲の志を抱いて江戸に上ったのが維新前の話であった。田舎の青年が上京して苦学するのと同じ筆法だが来って見れば武家奉公の目星い口は見当らなかった。青雲の志□ラリと折れて、遂には飛脚とまで成り下がり、味気なき世をフラフラと送っている中に、妻が子を生む尚お更困るという有様となる。ソノ子供とは長男を文次郎次男を岩次郎と申します。岩次郎はんが鈴木商店を今日の大に導いた本家本元で、第一期の沿革は岩次郎立身出世の物語から始まる。
茲にいう岩坊即ち御先代様御幼少の砌りは、赤貧誠に洗うが如く先ず型の通り艱難苦労を嘗めたものだ。殆んど藁の上から魚屋へ養子に遣られ、西も東も判りかけた十二三歳の頃に『洟垂れ小僧小煩さい』とばかり追出されてしまったもの。今から考えると魚屋風情に先見の明を求めるのは無理だ。生臭い処に愛想を尽かした岩坊は、一つ甘い処で身を立てるべく、イソイソとして菓子屋の丁稚に住込んだ。岩坊は江戸ッ児である、然し「宵越しの金は使わねえ」などという不量見を捨てた締り屋の岩坊であったから、商才の閃きを見せつつ小金を貯め、少壮の頃独立して場末の駄菓子屋の旦那となった既う岩坊でなくて旦那である。

砂糖屋になる迄

場末の砂糖屋の主人と納まって間もなく一夜飄然と昔の生みの父親が戻って来た。例の川越藩お足軽の出る、武運拙なくして飛脚に落零れた薄命児である。その後間もなく、赤ん坊の時に別れた実兄文次郎どんも舞込んで来た。
文次郎兄も岩次郎同様の運命を辿ったもので、漂泊の旅を続けて何年というもの殆んど消息を絶やしていたものだ。けれども文次郎は長崎に渡って菓子屋の職人をやっていたから、製菓業では当時の新智識、岩次郎どんに較べたら其技倆の差はカステラと瓦煎餅位の比ではなかった。
親子三人水入らず、搗てて長崎仕込野文次郎兄が腕に撚かけての味塩梅も手伝って、場末なりと雖も千客万来の大繁昌を来すに至った。けれども当然の帰結として一家の権力は実力の文次郎に移り出した。ソレは仕方のない話で廂を貸して母屋を取られる事は随分と世にあることだ。岩次郎どんは大に憤慨した、が、兄弟喧嘩をするというようなケチな量見でなく、「俺も一つ長崎で修業してやろう」と男らしく出たのである、ココが偉い。

神戸の将来に眼を着ける

兄に負けた仇敵を長崎で打つべく家出をした岩次郎は、神戸に着いた頃既に無一文となっていた。当時反物商兼菓子商を営んでいた木村又右衛門という人の許に身を寄せて、奉公し聊か小遣が貯ったので四国の多度津に渡り、再び津山へ戻って中国筋を一散走りに下関へ辿り着いたものであった。処が岩次郎は生抜きの江戸っ児だから何れ幕府の間謀だろうという具合で官軍に縛られたこともあった。然し正真正銘の菓子職人ということが分って放免され此処でも菓子屋の使用人となった。今尚遺る名物『江戸金』と銘打ったる亀の子煎餅こそ、当時江戸弁の岩次郎が菓子屋の娘に惚れられたローマンスの名残だそうな。岩次郎名からして堅い、随って恋に捉われず長崎に渡り一修業しての帰途神戸に足を停めた時にフト思った。「商売は江戸より兵庫だわい」と。ソコデ心を決めて江戸から道具を取寄せ些やかな店を開いたが、曩に旅費を恵んだ木村又右衛門が怒るわ脚気になるわで再びドン底生活に陥ったのを近処のお妾さんに救われたものだ、斯くて大阪の辰巳屋常七という砂糖商に使われ兵庫弁天浜の出張所に通って下っ端にコキ使われていたが、長崎仕込の菓子職人の岩次郎だ、砂糖の鑑別はお手のもの、之から愈々岩次郎砂糖で世間を甘く見るの御話。

(五十七) 貿易商としての鈴木

弁天浜の辰巳屋

 兵庫の弁天浜にあった辰巳屋の出張所は、岩次郎の鑑識眼と商才とを以て段々繁昌した。彼も先輩を凌駕して上役となり、出張所も支店級に昇格したが、此頃岩次郎の頭は矢張り生れ故郷の江戸に帰って見たらしかった。が、辰巳屋は都合あって弁天浜の出張所を廃止することになり、残務整理の上岩次郎に譲渡したから、彼も気を変えて店を継承することになり、辰巳屋の商号カネ辰を其儘名乗って一本立の砂糖屋となったのである。

メキメキと頭を擡げる

 砂糖屋の旦那となっても小金が出来ると、江戸へ帰ろうとした事が何遍もあった。然し売掛金の回収難に引留められ、グズグズしている間に店は発展する一方だ、発展すればモット儲け度いが人情で、砂糖の傍ら銀の仲買の兼営を初めたものだ。其当時はまだ不換紙幣時代だから、外国貿易の決済に要する銀貨弗と紙幣とを両替する為替業者が、何処の開港場にもウヨウヨ居たものだ。勿論神戸にもソノ通り。処で、神戸では是等の連中が集って、会員組織の神戸取引所というものを設けた。コレが今の神戸取引所の前身である。岩次郎は挙げられてソコの理事に就任した之れ彼の凡骨ならざるを証明したものだ。又其当時貿易会所というものがあって、全国から集まって来る各種の輸出品を国産波止場へ陸揚げするに当り価格百円につき五十銭の荷揚賃を長州したものだが、俗に之を五厘金と唱え、揚り高で神戸の道路改修若くは衛生設備に用途したものだが、ココでも彼は選ばれて委員長となった

絽の羽織着たなりの権威

貧乏人の小粋で、漉餡を掻廻すことは習ったが、「いろは」のいの字も教わったことの無い岩次郎が何時の間に何処の誰方に習ったものか、彼は曲りなりにも意味の通った往来文を書覚えていた。之が理事と仰がれ、委員長と奉られる主因であるが、彼は幼にして頴悟物事を取扱うに粗笨なことは微塵もなかったという。彼は江戸を走って関西中国をノタ打廻って居た時でも、絽の羽織一枚だけは着通したというのだから、彼が几帳面であったということは判る。足軽級なりと雖も彼に士分の気位は欠けていなかった。之れ彼れの大成せる所以ではあるまいか。其後市政の確立となって、五厘金の制度廃れ、貿易会所は解散されたが、其残った財産で神戸貿易為替会という会社が出来、銀行条例の発布に伴い、貿易部を上組へ譲渡し、組織を変えて株式会社神戸銀行と改まり依然彼は頭取と納っていた。後幾干もなく此銀行は北浜銀行に合併されてしまった。

尼将軍の出現

 其頃彼の店で扱っていた主なる商品は樟脳と砂糖であった。番頭の大物では、今財界に時めく金子直吉が樟脳の采配を振り、柳田富士松が砂糖を預って、お家堅固に護っていた。然るに岩次郎氏も寿命が来たか、明治二十六年溘焉として彼の世の人となった。貧乏に生れて富貴に死んだ奮闘児の後継者は当代の岩次郎であるが、彼は当時十二□のボンボンに過ぎなかった。次男の岩蔵に至っては鳩ポッポを苦心して覚えるという頑是なさであるから、幼子の護立てに陣容を固める必要があった。ソコデ未亡人よね子女史が、簾を掲げて尼将軍となって現われ、金子柳田を先陣として経営し、西田忠兵衛門藤田助七の両氏が後見となって厳重に身構えた。
 西田忠右衛門は尼将軍の実兄で播州姫路の城下から乗込んで来た株式仲買人であった、その頃北浜市場で鳴らした相場師だが、晩年失明しても依然売買の大将株、時人称して「座頭の大相場師」と称えたに見ても彼の大商略は窺われるであろう。藤田助七は先代と同じ釜の飯を食った辰巳屋の相棒番頭で之も辰巳屋の商号カネ辰を冒して、今尚大阪に光る千万長者の砂糖屋である。ソシテ鈴木直系会社の社長若くは取締役で羽振を利かしているものだ。本営の要害この通り手厳しくなると共に、尼将軍の威令よく行われ、金子柳田の蛮勇が事毎に成功して、先代の時にも勝って華やかな健闘振りを見せるに至ったのである。斯くて明治三十五年には資本金五十万円の合名会社組織をなし、尼将軍鈴木よね子女史を代表社員として、更めて財界に「見参々々」と呼ばわった。先代岩次郎が尾羽打枯らして漂浪した兵庫の地は、鈴木家発祥の地となって先代歿後十年足らずで一方に雄飛する猛者となった訳だ。先代岩次郎草葉の陰で「嚊出来したぞ」と微笑んだことであろう。個人商店の暖簾は取れ、合名会社となったのだから、お約束の通り第二期に移る事とする。

(五十八) 貿易商としての鈴木

大日本製糖との大相撲

事業は其後トントン拍子に発展して住友樟脳を引受けたり、神戸製鋼所を買収したり、可なり調子が好かったので、今度は当時の難事業と目されていた製糖事業に目をつけたものだ。ソコで大里に製糖工場を設け、諸事業中最も多くの資本を之に投下したのだから一時は金融難に陥って一寸フラフラの態であった、が三十七年になって兎にも角にも製品を売出す迄に漕つけて、ヤレヤレと胸を撫下ろす暇もなく、例の大日本製糖と製品の販売競争をやらかしたので楽ではなくなった。素々競争は予ねて覚悟の上ではあったが、相手は名にし負う斯界の権威、大日本製糖のことだ、彼の辣腕家磯村音介を向うに廻して「ヤッ」と取組んだのだから此相撲却々の苦戦に違いない。ソレデモ足掛四年というもの汗を流して揉合ったが、いい処で水が入り、四十年六月大里工場を六百五十万円で大日本製糖に譲渡することとなった。之で競争の努力も要らなくなり建設費の数倍も高く売れたのだから、鈴木としては雨降って地固まったようなものだ。斯て工場の引渡と同時に二百五十万円を現ナマで受取り残金四百万円は日糖の社債として受取ったのだ。然る処、かの有名なる日糖事件が起り、アワヤ四百万円を棒に振りかけたが、工場を担保とした社債を握っていたから、債権者会議でも特権を認められ、六年の償還期限を十年に延長した位のことで之も無難に終りを告げてしまった。

カンカン強気の先達

結局十年に延したが、資金の回収を得て其金で四方八方に手を延し初めた。欧洲戦争の初まった大正三年七月頃は世界の人心が動揺して、景気は段々悪くなりそうであった。ソシテ当時銅樟脳其他各種の対欧輸出品を神戸から積出した郵船平野丸が、香港に着いた頃に欧洲航路が危険だといって、戦時保険を附けることになったが其料率は箆棒に高いもので、僅かの口銭を目当に輸出する商人に取っては正に一大痛棒である。だから欧洲まで持って行かず新嘉坡辺りの途中で陸揚げしたものもあった。初め英仏海峡を出没していた独逸の潜航艇は地中海を荒し廻り商船の難に遭うもの頻々たるに至って保険料率は一層高くなるばかりであった。ソシテ積出されずに埠頭にゴロゴロしている商品は山積するという有様だから、政府も何とかしなければならなくなり農商務省内に戦時保険局を設けて自ら事業を経営すると共に興銀をして輸出資金五百万円を融通させ台銀にも為替業務を開始させて貿易商の輸出難を緩和してやったものだ之が大正三年十月の話で、輸出商もホット一息つけた訳だがソレデモ尚お前途の見込がつかず停滞貨物の処分に頭を悩ます位のもの、トテモ好景気早晩来るべし抔との思惑を張るものはなかったのである、然るに鈴木だけは早くも積極方針を立て、翌十一月中に殆んど独占的に船腹を予約すると同時に各種の輸出品を買占的に手に入れたものだ。

買占めの味を覚える

開戦当時不安に満ちた財界の雲行は、尚陰鬱を免れないが、ソレでも時折好転の足どりを見せないでもなかった。翌年に至っては、交戦各国の諸産業停止の結果各種の物資を我国に引合って来るようになった。ソシテ船腹も漸く不足しそうになって来たので、初めて一般貿易商の頭を変えるようになって来たのである。ソノ頃鈴木は既に買仕入れた豊富な商品を予て傭船せる船舶に積込んで欧洲へ売出し、一挙に巨利を博した敏捷さは世間周知の事実であった。一方これと前後して語学に精通せる店員を誰彼れの区別なく海外の要所々々に配置して貿易の網を張ると共に、連合国食糧委員に交渉して、物資の供給方を協定するというような凄いところを見せたものだ。斯くて内地は勿論世界中の物資を買漁って食糧委員に売付けて儲けたものだ。ソノ儲けで造船製油精煉伸銅人造絹糸製織木材乾餾魚油等の事業会社を兼営するに至ったのである。当時財界は資金時代の観があって何をやっても儲かったもの殊に鈴木の如き生馬の目玉を引抜く遣方を以てするんだから、暴富驚ろくべきものがあったに相違なく大正五六七年に至って鈴木の声名は旭日沖天の概を示したものだ、然し鈴木が逸早く商品の買占めをやって奇利を博したということは引続いて各種の商品に思惑を慫める結果となり、外米小麦の買占めで世界的に活躍し過ぎた結果大正七年の焼打事件を惹起するようなことになった。少し調子が好過ぎると何かのケチはつくものだ。

(五十九) 貿易商としての鈴木

失敗せる隈閣の米釣上策

世界戦乱の巷から懸絶していただけに、我国の商工業界は、パット明るくなって、諸物価はソロソロ頭を擡げて来る。カンカン強気の商人が復た儲かったソラ儲かったで有頂天となり、工業家はソレ造れヤレ造れで凡そ買った程のもので儲からぬものはなく、造った程のもので売れないということは少しもなかった。
商工業の繁昌まことに斯の如きものがあるに反し、農民は三年以来の豊作で米価が下がる一方という憂目を見つつあった。世の中は公平に行き兼ねるもので、農工商と士分の次に位した農民階級が、世界戦争の影響で商工業者に頭を抑えられたのみか、工場繁昌のお蔭で、働き盛りの子弟を吸取られてさえしまった。農民を救え、米価を相当の処に安定させろという農村救済の声は到る処に喧しくなったから、憲政会を踏台にして総理大臣の印綬を帯びていた大隈侯も一つ米価を釣上げてやろうと腹を決めたものであった。処が隈侯、高遠の理想は蓄音機のレコードにも残っているように、人万倍御承知だが米釣上げの妙法は素より御存知ない。ソコで米を取扱っている民間の素町人どもの智慧を借るのも、時に取っての妙法とあって早速御前に喚出されたのが鈴木の金子直吉であった。金子は仕事に掛けては目から鼻に抜ける男のことだ。「米釣上げ位は朝めし前の話で御座る、処で茲に両法がある、一は其筋で定期市場の買方を援けてやること、二は過剰米を海外へ輸出することだ、が、第一法は素より内閣自らのなし得ることではないが第二法は成程尤もの儀で御座ろうがな」と献策したそうな。

献策して海外輸出を承わる

過剰米を海外に輸出するに如かずという点に共鳴した隈侯は、金子直吉の同郷で当時大蔵次官を勤めていた浜口雄幸に旨を含め、鈴木商店に向って、過剰米の輸出を命じて来たのである。浜口雄幸というのは憲政会の総務で、物価調節の本尊であるかのように年百年中津々浦々で力説主張している男だが、まだ此時分は若かった為めだろう、斯うして米価釣上げのお先棒を承わったものである。
斯くて鈴木は阪神間の政府の買上米を初め、中国九州から米を蒐集し、岡山や大里で精白したやつを英仏露の三国へ運出したものである。大正五年から六年に掛けて輸出した精白米は七十五万俵を算しなお外にも玄米十五万俵をマルセーユ又は桑港へ出している。疾風迅雷とは此事だ、寔に斬れ味じは水も堪らぬ位ではあったが、斯うなると、貿易商に米の玄人が、シテやられる悔しさと、実際米の蒐集に力を尽していた其劇しいところを恐れられて、鈴木が米を買浚っているという噂が期米市場の強弱ともなれば、門司からの対米輸出米を諾威船へ積替えたのは鈴木が敵国へ食糧を供給したものだとの噂さえ、湯のように熱を持って世間を流れ廻ったものだ。

いろんな噂で鈴木の焼打

ソレでも米価は依然低迷の有様であったが、大正六年末から世間の事情が変って来た。というのは、商工業も一時の隆盛より下り阪となり労働者の失業というような商工業の衰兆も現われて来た。一方過剰米一掃の効果も見え、殊に廉価から来た国民の濫食は需給の不潤沢を云為するような人気になって来たのだから、生糸高で懐ろに余裕の出来かけた農家が今までのように売って来なくなった。当時は寺内内閣で、農商務大臣仲小路廉は躍起となって米調に大汗を絞ったもので、全国期米市場の買方の手を縛って三十有余の取引所に官命停止を命じたり、暴利取締令を発布して、岡半増貫を戒告したのも此時だ。収用令を出してお百姓の米を時価より十円安の三十二円から三円位で捲上げる算段を講じたのも大正七年の夏であったが、都会の在米は減る、農家の囲米は減るで、米不安の人心は六十余州に拡がったものだ。斯くて越中滑川の漁師の女房連が、昔からある「毀し方」という最後の手段を講じたのが源となって、所謂米騒動は全国に蔓延したもの。東京大阪は勿論のこと、少し大きい町ではコレラ病のように此勢が拡大したのは凄じいものであった、ソシテ米で最も活躍した神戸の鈴木商店は、暴動の渦中の真只中に巻込まれて、店舗焼打の箆棒な目に遭ったことは読者の記憶に新なるものがあろう。

(六十) 貿易商としての鈴木

焼打とは知らなんだ

時の農相仲小路廉が、検事上りの本領を発揮して暴利取締令収用令を八方に振翳したことは、前に述べた通りであるが、更に一方では外米管理令というのを発布して外米の大輸入を計ったことは、却々の大出来であった。暴利令は次の政友内閣出現と共に、伝家の宝刀という名称を貰って、此世を去り収用令もソレと同時に廃められてしまったのだが、外米補給に至っては、食糧問題の骨子として永遠に葬らるべきものではない。斯くて外米買入れのお役を被むったのが鈴木であった。大正七年の米価狂騰に際して、鈴木は既に買付けていた二十六万袋の外米を阪神間の市町村に廉売した、四国中国方面にも補給したものだ。ソレから当時兵庫県知事であった清野長太郎が廉売資金の調達をやった時でも大枚金五万円の寄附を申出たものである。処が内田信也でさえ五万円出すんだぜと煽てられて十万円を吐き出して居るのだ。米の補給を致し、金の寄附を仕っているのだから、買占や輸出の非難は此辺で帳消しにして貰った気でいた。焼打とは全く知らなんだ。

金子が新帽を冠ること

八月十二日の夕暮、金子直吉が元町を通って神戸駅へ急ぐ路すがらソコ此処に迂散臭いモップのゴロゴロしているのに気がついたそうだ。が、これ等の連中が後刻鈴木商店を焼打とうとは気がつかなかったという。沼津へ着いた時に東京支店から「本店焼打に遭うた」という電報を受取り、東京支店に着いて漸っと消息が判って茲に更めて驚き直したとは遅かった。本店は申すに及ばず須磨の別荘も金子の棲居もポッポと焼かれ、姫路の軍隊が飛出して陛下の赤子を田楽刺しにするという騒ぎだから、如何に金子が図々しいと雖も驚かずにはいられまい。
彼れは取るものも取敢えず神戸へ逆戻した。彼れがプラットホームに降りるや否や、出迎えの店員は矢庭に金子の襟から鈴木商店のマークを●り取って『コンナ場合に襟章をつけていたら大変です、サア此帽子をお冠んさい』という具合で新調の帽子を頭に載せたそうだ。ソシテ変装成るや柳田の宅へ逃げ込んだのだが、直吉何年振りで新しい帽子を冠ったことか。風雨五年彼れは今尚連綿としてこれを戴いているに違いない。

ミルトンの詩と極楽鳥

金子直吉大人を序に御紹介申上げて置く。彼れは鈴木の金子か、金子の鈴木かと、失体にも大義明分をチャンポンにされる程世の中から奉られているが、一遍会って御覧じろ、詰襟を着て鉄縁の眼鏡を掛けた世にも稀なる貧弱な風●の持主である。田尻北雷でも今少し気が利いている位貧乏恵比須然たるに驚かされる。ソレでいて文句を謂わせると所謂談論風発、何でも御座れで、国家百年の大計は大分持合せがあるようだから、煩さくって堪ったもんじゃない。何時だったか南洋から極楽鳥の剥製が本店へ届いた時、寄って蝟って眺めた連中『極楽鳥という鳥は存外綺麗じゃないですな』といったものだ、此時直吉咳一咳、説明して曰く『極楽鳥には三十幾種もあってモ少し美しいのもある。然し極楽鳥というのは美しいから有名なんじゃないミルトンの詩の中に出ているから喧しく謂われるんだよ』だと。財政経済上の議論なら商人だから、知っていても差支ないが、ミルトンの詩まで引合に出されては、聊か痛み入るじゃないか。彼れは土佐の山の中で生れて、鰹節の味は知っているが、極楽鳥を見に行ったことはない筈だ、年百年中日本内地に燻って、船の旅行は台湾の鼻っ端に渡ったことがタッタ一度あるきりだと聞えている。コレ此通り何事に掛けても素人通だけの知識を持ち得るのが彼の天分だ。斯うした天分を持った男の下に使われる店員は、定めし楽じゃなかろうと思われる。

商機を発作的に掴む

金子の頭は春夏秋冬時々刻々何物をか考えていなければ立って行かない頭だそうな。彼は店が退けても考出したら、胃病の小猫が居眠りをするような恰好でソファーの上にゴロ寝をする。ソシテ首尾よく名案を見付け出すと、腹下しをやった難波橋の獅子のように起上って、海外の支店に電命を濫発するということである。海外の或支店長の話だが、時々有望事業を見付け出して報告して見ても、一向返事を呉れないで、報告した方が忘れてしまった頃に、オイソレ、ヤレソレと急電を叩きつけられて戸惑することがあるそうだ。だからお膝許を離れていても、油断は寸分も罷り成らぬとある。一応耳に入れて置いて、よくソレを忘れずにいるのも偉い、而して時機来れりと見て、発作的に仕事を捻り出す彼の頭は当分鈴木の国宝であろう。

(六十一) 貿易商としての鈴木

『焼打大慶の至に御座候う』

御本家の大危難を耳にした鈴木の一族郎党は内地からも海外からも『一大事愁傷の極み』に存じ奉る旨の電報が次から次へと舞込んだが、倫敦支店長を勤めている高畑誠一だけは慶賀に堪えずという電報を送ったものだ。そして次の様な進言をなしたというから一寸話せるではないか。
 ソレ御覧なさい。日本の様な小さい土地の物許りを売ったり買ったりするから斯ういう目に遭うのです。之を機会として、外国の物を買占めて、外国へ売りつける算段、取りも直さず世界的に物貨を移動する大方針を樹てたなら、禍却って幸と相成りまする。だから、焼ぶとりという諺もある通り此意味において、焼打こそ大慶の至りと申し上げた次第で御座る。
幹部連が上を下へと混乱している最中に、人を喰った此進言を突き付けられた金子はポンと膝を叩いて『ああよい、よい、よい』と槍さび流に、済し崩し的賞讚の辞を惜しまなかったという。感心である。猫の額のような日本内地で、多寡の知れた商品を弄じくっていればこそ、コンナ目に遭うんだという高畑の進言は卓見であった。ソコデ従来金子の代理となって、欧洲連合国食糧委員と毎度折衝していた高畑が、麦粉で御座い、小麦で御座い、奇妙不思議に浚い廻って同業者を「呀つ」といわせたのは周知の事実である。将来金子の跡を襲うて、鈴木商店の運命を双肩に担う者は彼れ高畑であらねばならぬ。以ある哉、彼は岩次郎の令嬢を賜って血統的にも鈴木添う点の一重要分子と納まり返るに至ったのである。

瓜糖買占に英支商人呆れる

方向転換して世界の仲継貿易に乗出して以来、鈴木の最も目覚ましかった奮闘は大正九年から十年に掛けての瓜哇糖大買占であった。当時瓜哇糖は三十一盾から三十三四盾の間を迂路ついていたが、世界の需給観より先高を見越した鈴木は大阪支店での、砂糖通上村政吉をスラバヤへ走らせて、買って買って買捲くるべく命令した。上村が瓜哇へ渡ったのは大正八年末で、トラストの売るが儘に大買占を敢行したものであった。当時瓜哇糖の騰落を支配する者はフレザー・エトンと建源号であったが、鈴木は之等の買占める以上に買取って遂に彼等の光栄ある歴史を踏躪り砂糖取引額随一の金看板を掲げてしまった。之には流石のフレザーも建源も尻尾を巻いたという。爾来鈴木は糖界に於て依然首位を何人にも渡し得ないのだ。サテ砂糖は鈴木の思惑通り大正九年三月より徐々上向き、四月に入っては天井知らずの沸騰となり五月遂に七十四盾という未曾有の新高値を示現するに至ったのである。鈴木の得意思うべしで、此ボロ儲けの結果汽船事業その他にも手を拡げるは勿論の話、そして瓜哇第一の建築といわれたエドカーの大邸宅が鈴木の手に渡り、クラポンクの大別墅も鈴木が所有するもの也との登記が履まれた。同じ砂糖屋ながら此年増田屋が倒れ阿倍幸が滅びた、フレザー・エトン建源も大正十年糖で一寸儲を吐き出したに拘らず、鈴木は危機の来る毎に、巧みにヒラリと体を躱しているから妙だ。

米国婦人柳眉を逆立つ

瓜哇糖買占の序だから今度の買占も一寸申上げて置く。昨年の九月頃から鈴木は再び瓜糖買占に着手した。今度は寺崎栄一郎をスラバヤに特派して「それ買え、やれ買え休まず買え」と申送った。寺崎の商略は金子の衣鉢を継いだもの金kおが彼を派遣するに就いては少し長く居る覚悟をしろと附言したに見ても、鈴木の居合腰は判るであろう。シカモ一月寺崎の妻君と子供を瓜哇へ送って「瓜哇の士となれ」と激励したというんだから勇しい。斯くて十一盾見当の瓜哇糖は、二十盾以上暴騰したから、此買占めによって暴富を積んだ鈴木は、更に手を延ばして玖馬糖を買占めんとし、ポツポツ買付け出したところ、偶々米国政府が禁止せんとしている一方、相場の暴騰にムカッ腹を立てた米国婦人連が砂糖の不買同盟を行ったので、玖馬糖は反落し、瓜哇糖も之に靡いて低落したので、折角玖馬糖を買占んとした鈴木は茲許多少気勢を挫かれた形である。但し破戸漢の焼打と違って相手は米国の別嬪さんだから鈴木も満更でないかも知れない。一説によると鈴木は手持の砂糖を露国へ持込む相談が出来たとか相談中だとか噂されている。

(六十二) 貿易商としての鈴木

鈴木の霞ヶ関

太宰春台の言葉じゃないが、経世済民の術之を政治というのだから政治と経済とは昔から附物である随って今も尚、大きな商売の裏には政治の脈絡を保っていることに変りはない。われ等は堕落せる現代の政党者輩が利権に盲目になっている間隙を窺い、理を非に曲げて私慾を貪る現代の所謂商党なる者を唯の鳶商人とこそ思え、決して公正なる政商の意味に解するものではない。われ等の所謂政商とは、商業貿易の結果が国是に背馳することなく、否寧ろ国是を背景として遥かに其後援を以て、国利民福に合一する発展を策する商人の謂である。此点において我国の大貿易商大実業家が、当路者と繋ぐ各自の一線を有することは、正に事実であり又必ずしも咎むべきであるまい。鈴木亦然り。彼は東京丸の内海上ビルディング内に鈴木商店事務所なるものを設け、合名会社の理事を勤めている長崎英造を駐在せしめている。彼は差詰め鈴木の外務大臣格であって、要路官憲に出入して、巧に脈絡を保っているのはソレだ。彼は公爵桂太郎の女婿だというから成程ハハーンと肯れるではないか。

樟脳液で台湾に根を張る

台湾が版図にならない前から、蛮民は樟脳を造ることを知っていた。併し之が製造に際して出づる樟脳液はソックリ捨てていたものである。所で鈴木は之が副産物である事を知っていたから、早速渡台して樟脳液買上所というようなものを設けて旺んに買占めたため遂には之が重要なる副産物となってしまったのである。其後樟脳専売法が布かれると共に、樟脳は英国サミユル会社が一手に取扱うこととなったけれども、副産物たらしめた功労により、樟脳液は鈴木が引受けることとなった。此頃から金子と後藤新平とが知合いになったのである。

基隆発展策はあるまいか

後藤新平と金子直吉が昵懇になった起りは斯うだ。後藤が台湾民政長官をやっていた時のこと、或日金子は商用で下関へ出向き、後藤も偶然ソコで落合ったものだが、後藤が単身徳山方面へ視察に廻るというので、如才ない金子は鞄持ちの格でお供をしたらしい。此お供素より尋常一筋縄の男じゃないんだから、箸の転がったにつけても一応尤もな議論を吐く、一言訊けば十言喋舌るという具合だに仍って、後藤も気の利いた奴だと思ったに違いない。ソシテ其夜泊った宿の徒然に『何と金子、基隆を繁昌さす名策はあるまいか喃』と尋ねたものだ。御参なれ名案の候うと矢庭に金子が捲し立てたのは瓜哇糖を輸入して基隆で精製すべしという議論であった。

渡りに舟とホクソ笑む

斯く申上げると折角砂糖を耕作している台湾に外国糖を輸入するのはチト訝しいと思召すかも判らないが、御覧の通り唯今の処、台湾糖から砂糖を取ろう抔とは甘過ぎる御量見ですぞ。此際外糖を入れたらば、品質粗悪な湾糖の耕作に大刺戟を与えて、改善の指導と相成るべきは必定、金輪際悪影響の御座らぬことは金子直吉お請合な仕る。況んや外糖を入れる精製する積出すと来ては新たなる産業を勃興すると共に人気弥が上に舞上り基隆の大繁昌疑あるべからずと喋舌り立て、五色の虹を吹いたという。後藤も成程と感心してソンナラ一つ事業を起して呉れと内命され「委畑承知」とばかりポンと胸を叩いたそうな。舌をペロリと出したともいうがソレは嘘だろう実はすでに斎藤技師と岩次郎を倫敦に派遣して機械を買入れていたんだから、早速位置を定めて工場設置に取掛ろうとした時、其年の議会で樟脳樟脳油共通専売法案が否決されたので、金子が考えた。内命を受け保護をして貰う約束だが、後藤が民政長官の間は安心だとしても代った後はチト怪しいぞ基隆よりは大里の方が工場建設には持って来いだ。大里にしようというのである。そして此旨後藤にも諮った上で遂に大里へ鞍替してしまった。コレが今日の日糖大里工場その物である。

新平意気投合

大里工場が斯うして出来上った関係と、金子対後藤の肚がシックリ合ったので、両者の関係は漸次密接となり、新平が往くさ来るさの寄路には大里を訪ねるという有様で其後日糖対鈴木の火花を散らす大激戦中も、後藤を知っているということが鈴木に取って万鈞の重みをなしていたのは素より申すまでもない。ソシテ新平内地往復の途次神戸から船に昇降する度毎に鈴木のランチが鼻眼鏡の後藤を送迎していたことも事実である。さればこそ後藤といえば鈴木を想出し鈴木といえば後藤を巻添えに考出されるのも誠に無理からぬことである。この後藤鈴木の緊密の程度を忖度するため、当時強大な日糖に対して鈴木が如何に猛烈に吶喊したかを再説する必要がある。

(六十三) 貿易商としての鈴木

大里鞍替魂胆

基隆繁栄策と外糖の輸入、成程巧く新平を説伏せたものだ。然し金子の肚の中は基隆の繁栄ではなくて、日糖の前身大阪製糖所の鼻ッ柱を如何にして挫いてやろうかという点にある。そして既に機械は買込んで素破といえば取掛るだけの用意をしていた処へ、繁栄の名策はないじゃろうかと訊ねられたから、砂糖を引張り込むこと、後藤民政長官の後援を確保するが為めに出でた献策であろう。故に基隆で遥かに内地に対するよりは、九州に近寄って大阪工場から、大阪製糖を攻撃する方が、第一運賃だけでも大きな違であるだけ有利な訳だ。之れ基隆工場を暫らく見合せて大里へ鞍替した魂胆に外ならない。

大阪製糖と相摶撃す

当時関西の糖界に勇躍して、糖業者の利益を壟断していたものは大阪製糖所であって、関西の砂糖屋は全く屏息して居ったものだ。それも其筈で、今し、財界に飛ぶ鳥も落さんず松本重太郎の名が、其社長の位に光り、旨を含んで八方を踏んだのが名代の驕児不二樹熊次郎とある。不二樹は富田屋でダンダラ遊びをやった揚句の果名妓八千代を根こそぎ引抜いた程の辣腕を更に糖界に十倍の強さで憂ったものだ。駆出しの鈴木輩が鯱鉾立になって突掛った処が素より勝負にはならなかった筈。殊に大里の工場が漸っと製品を売出せるようになってイザ之れからという時分には、当の仇の大阪製糖が日糖に合併されてしまったのだ。日糖を向うに廻しては、トテモ大阪製糖どころの騒ぎじゃないんだから鈴木も散々の苦戦であった。然るにも拘らず六百五十万円というボロい値で日糖に身を任せ、鈴木が大利喰をやったということも、此間豈鼻眼鏡の二閃三閃が与って力あらざらんやである。其当時口の悪い連中は、後藤が鈴木と共同で大里工場をやっていたものに違いないとまで、騒ぎ廻ったオセッカイのあったに見ても略窺われるではないか。

日露通商の主張者

華盛頓会議の開かるる前、金子は某大官を訪うて露国承認問題に就いて力説したそうだ。承認するに致してもしないにしても、各国まちまちに交渉しては駄目だ、是非とも華盛頓会議で決定すべきもので、アノ尨大な露国を其儘打棄てて置くのは世界人類のために不幸であるというたのである。然るに新平がヨッフェを小手招き、鈴木が瓜哇糖買占で儲け、新平が市長の椅子をポンと投げ、本気になって交渉を開始している間に、鈴木は西伯利と沿海県方面へ砂糖供給の話が纏ってしまったというのである。世間がアレヤこれやと云い囃すのは当り前じゃないか。鈴木の政商式の色彩は先ずザッと斯んなものである。

堅い神戸製鋼

閑話休題。あとに戻って鈴木の事業振りをホジくって見る。直系傍系二十有九あるが中に目立ったものの三つ四つ宛を御覧に入れる。最初は直系の方で、いの一番が神戸製鋼で、資本金二千五百万円(払込千二百五十万円)の大会社であるが、直系といっても生れながらにして鈴木の血を引いているのではなく、初めは教科書事件で有名な小林某が創立したもの、忽ち屁古垂れて経営難に陥ったのを鈴木に抱き起して貰い、脈が無かりそうなを鈴木が買収してしまった。時維れ明治三十五年の話である。経営難は相も変らなかったが、陸海軍の御用命を承って遣繰算段をしている中、大戦が捲起って、連合各国からも軍需品の御用命を辱うしたから頗る儲かったもの、大戦済んで一寸閑になり、八八艦隊オジャンとなって滅切淋れたとはいえ、軍艦を造らぬという程度の軍縮だから、命を取られる心配はない。鋼材、船舶、機械の製造をやって堅くなっている。首脳者は専務依岡省輔、常務田宮嘉左衛門と仰せある。まった之は恐るべきでないが社長こそは海軍中将伊藤乙次郎閣下でいらせられるから、儼めしなんどいうばかりなし。

古暖簾の日本樟脳

日本樟脳は今こそ資本金九百万円(内払込六百七十五万円)の大会社であるが、これは鈴木が個人商店の初から経営し来った比較的古い事業の発展せる一会社である。由来樟脳事業というものは、何処でも初め儲からなかったもので、鈴木などでも樟脳液の一手取扱を許された時だって、ソレ程有難いものの一つではなかったようだ、唯専売法が布かれるようになってから、漸っと引合ったというに止まる。従って何れの会社でも一様に経営難を免れなかった。

(六十四) 貿易商としての鈴木

高木は伯夷叔斉の様な男

日本樟脳も其他の樟脳会社も、専売法の発布によって兎に角一息ついたものであったが、住友樟脳だけは相変らず清貧に甘んじていた何となれば其主脳者であった高木という男は、悪く申せば褊狭とでもいうであろうが、誉めたら伯夷叔斉跣足で逃げるという潔癖の質、誠に小気味の宜い●骨漢だ。人様が馬鹿だなと冷笑っても『俗物に判るかい』と澄し込んだもの。かるが故に専売法のお憐れみで儲けさして戴こうというような考は微塵もあるべきでない。ソシテ他の同業者が曲りなりにも聊か儲けつつあるのを無関心で眺めていたものだ。士族の商法華族の会社、之等は昔から余り有終の美を済さないもの、況んや伯夷叔斉が三舎を避け、屈原糞を喰えという聖人賢者の高木某のことだ、滅多に栄える気遣がない。だものだから遂に鈴木の金子のニコポンに掛って丸められるようなことになった訳で矢張り聖人は実業に適しないようだ。爾来高木某の名は余り聞かなくなったが、恐らく世を嘆じて蕨食べに山の中へ入ってしまったのではあるまいか。

住友樟脳喰われてしまう

政府から原料の供給を受けず、自分勝手に損をしていることは余り気の利いた話じゃない。ソコで金子が之を合併して日本樟脳の玄関を大きくしようという野心があったのだから、当時住友銀行の神戸支店長を勤めていた山下芳太郎を橋渡しに物色したものだ。御存知の通り山下は後年住友の大黒柱となって、多大の貢献を致し住友王国今日の基礎を固めた功績の大部分は、彼の恪勤に因るとしなければならぬ。就中住友銀行の大地盤は彼が叩いて固めたもの、石井定七が一寸位噛ったとて貧乏揺ぎもしたことじゃない。彼今や弥陀の安楽浄土に眠っているが、名前通り其善行は芳太郎今尚芳しい名残を財界に留めている。其山下を通じて金子が『住友樟脳工場を鈴木と共同で経営しようじゃないか』と談じ込んだのである。其条件は万一損をしたら全部を負担し、儲かったら必ず折半致すというのだ。即ち『損は俺が持つ、儲は山分だ』というんだから三千世界に是位確かな商売は、まあず無いようだ。素より話は二つ返事で纏まったのだが、成程道を以てすれば賢者も欺かる、流石の高木も引込んでしまったそうだ。斯うしている中に住友樟脳の匂が失せて、何時の間にやら日本樟脳に喰われてしまった。鈴木の日本樟脳の正体は先ず此通りのものだ。

豊年製油の油がキレかかる

資本金一千万円、右は全額払込という立派な会社の豊年製油が平和来と共に油がキレかかり、茲許豊年豆粕で起ち直ろうという御話。専務を承っているのが妹尾清助さんだ、御胸中御察し申す。そもそも豊年製油というは戦時化学工業勃興の折柄、鈴木が気張って捏ね上げた大きな会社だが、其源を洗って見れば斯うだ。開戦当時の大連油房は全部圧搾法によっていたが、満鉄の中央試験所だけは独逸人の特許権を譲受けて、揮発油で豆油を抽出していたものだ。けれども製油事業というやつ却々ヌラクラしたもので、原料も製品も騰ったり下がったりの変動が難儀である。生抜の商人でさえ手古摺るんだから満鉄なんどが決してやる柄ではない、型の如く失策って特許権ぐるみの工場を鈴木に譲渡してしまった。鈴木は南満洲物産という一会社を設けて満鉄の事業を継承すると共に、其特許権を以て日本の国は横浜清水鳴尾の三ヶ所に大規模の製油工場を建設し名も豊年製油株式会社と、御幣担ぎの金看板を打付けたのである、南満物産と姉妹会社で、妹尾清助両社諸共専務の日本足で踏張っている。

豆粕が気付薬となるか

豊年製油は一日千二百噸の大豆を消化する能力を持っているのだから、豆油輸出の旺盛な時代には其鼻息の荒かったこと正に側に寄付けない程、素晴らしい景気であった。が、ソレもホンの束の間で、工場が全部出来上った頃に休戦となり、欧洲の油脂需要は著しく減退してしまったのと、従来日本の油脂を輸入して精製していた米国が高率の関税を賦課することとなったから、日本の製油工場は一斉に屁古垂れ皆閉鎖してしまい、豊年製油も同様で殆んど全休という凶年製油に化けてしまったものだ、大きな男が遊んでいると馬鹿に見える如く、豊年製油がアノ図体でゴロゴロしているのは、見っとも宜くない。ソコで近頃は豆粕を主とし、豊年豆粕と銘打って売出した。同業一斉屏息の折柄だから競争がない、お蔭で清水と鳴尾の両工場が煙を吐いている。サテ首尾よく豆粕が製油の気付薬と相成りましょうや、暫らく後へに控えて高見の見物を仕ろう。

(六十五) 貿易商としての鈴木

人造絹糸光る

鈴木の直系会社中で、一寸光り出したのは資本金百万円(全額払込)の帝国人造絹糸である、之はパルプを原料にして絹糸を造る仕事だからボロイ会社の筈だが、創立当時から一向冴えた光を発しない。最近に至って漸く芽を吹いたに過ぎない。そもそも人造絹糸という事業は早くから問題になっていたものだが、やって見ると思うように行かない。鈴木も早くから着眼して米沢高工の教授であった秦逸三に之が研究を委ねたものだ。研究費を鈴木が差出したことは申すまでもない。秦先生大に研究した結果が甚だ宜しく、此通り立派なものが出来ました前途有望で御座るという報告が幾干くもなくして鈴木に届いたもの、茲に於てか米沢に工場を建設し、秦先生を技師長に奉ったのが帝国人造絹糸という艶々した名前の会社であった。

欠損の助の神

けれども工場を造って本式に始めて見ると、研究室で造上げたような具合には参らず、秦先生諸共鈴木もチョッと気抜けがして、欠損欠損また欠損という不体裁を続けていたが、石の上にも三年、果報は寝て待てと昔から誨えてある。時なるかな欧洲大戦という一大事件が捲起ったものだ。お蔭さまで生糸の暴騰となったから人絹も浮み上がり、今度は欠損の厄を免れて聊かながら配当可能となったので、調子に乗って広島工場を建設した。が、大戦終了と共に欠損の蒸し返しをやろうとした危ない瀬戸際に、軽薄なる人心の推移は、仮令人絹でも光りさえすれば宜いという流行を作ったから需要が増加する一方となり、再び踏み留って仕事に精出す事と相成った。尤も人絹が生糸安に靡かなかった原因は、最も高率なる関税に護られていること、純絹と人絹の混織が流行って来たこと等が、この事業の根を固めて呉れた訳である。此頃大分景気を直して社長の岩次郎がホクホクもの、続いて佐藤法潤、松島誠なんどの専務連が浮かれ廻っているそうな。

次は太陽曹達

お名前は頗る赫灼たるものであるが、其実聊か名負けの会社である。資本金百万円内半額払込の代物だが、阿弗利加はマガヂー湖の天然曹達を販売すべく両三年前に生れた会社であった。岩蔵が社長で磯部房信が専務を仕っている。マガヂー曹達は英国の富豪サミュル商会の経営するものであるから売出当時は素晴らしい意気込であった。そして斯界随一の大会社たるブラナモンドを叩き潰して終えという鼻息だから、東洋一手販売を引受けた鈴木の喇叭は嚠喨として遠く鳴響いたものだ。然し、相手は戦前世界中で廉売競争をやらかし片っ端から同業者を叩きつけた猛者だから、鈴木が大童になって見た処で、歯の立つ筈がない。それでも三年が間噛みついて放さなかったんだから可なり根強い話だ斯うなると側が迷惑、「ソンナに競争して我々を窘めるなら承知しない、プラナモンド、マガヂンの両社に対し、ダムピング・デューテーを課してやるぞ」という問題が積んだり崩れたりしたものだが、其中太陽曹達の旗色が日蝕式に曇り、兎角ジメジメして来たのと、マガヂー本社が曲り本社となって打倒れたから、此喧嘩は自然消滅となった。マガヂー本社が浮み上らぬ限り太陽曹達は光れる筈がない

其他いろいろ

西岡貞太郎が社長の椅子を占め、石田亀一を専務として飾り立てた帝国炭業は二千万円(千八百九十万円払込)の大会社で、鈴木系の主なものの一つである。その昔虎大臣の山本唯三郎が福岡鉱業会社長と時めいていたが、多分虎の祟りであろう、鈴木の手に打たれて茲に帝国炭業と化けて出たものである。資本金一千五百万円のクロード式窒素工業も鈴木の大思惑で着手せんとする事業である。之は空中窒素を固定して硫安を造る仕事だが空中窒素は取った処で、誰も金を払えというものがないから原料ロハという点に目を着けた訳であろう、出来たら頗るボロいに違ないが、まだやって見ないのだから何とも判明しない。この計画に就ては資本金の大部分を特許権の買収に払ったもので、仏国へ渡り実地に就いて研究を試みた技師が帰った許りである、海のものとも山のものとも申されまい。

浪華倉庫を背負込む

五百万円払込済の浪華倉庫は安田から買取った大阪五大倉庫の一であるが、之を買った訳は自ら倉庫業を経営するという考ではなかった。当時台湾糖業者が、内地で砂糖を取扱う機関倉庫を建設し度いという考があったので、鈴木が台湾糖業者の諒解を得た上で、安田商事から買込んだものである。その後糖業者連中の此計画は中止されてしまったので、勢い鈴木が背負込まざるを得なくなった訳だ札幌門司横浜等に支店を有し、相当に働いている。社長は例の藤田助七で青木一葉が専務である。

(六十六) 貿易商としての鈴木

ポップ説立る

早くから神戸へ渡って来て、貿易をやっていた独逸人に、ポップという男があった。金子が神戸へ来て以来の喧嘩相手で、狐と狸の欺し合い、相当鎬を削ったものであったがポップ元来独逸男にも似ぬ小才の廻る男と見えて、巧く下手から出て金子と喧嘩の仕放しをやらなかった。其後ポップは散々の失敗をやって国へ帰ろうとした時に金子を訪ね
 私は三十年も日本にいて能く見ているが日本人位得体の判らぬ者はないね。アノ男は必らず成功するだろうと思っていると、飛んでもない大失敗をやる。またアンナ厄雑者がと莫迦にした奴がトントン拍子に偉くなるんですからね。私も日本へ来た思出に今一度旗上げをして見たいのだが、何と資本を一つ貸しては戴けまいか
と熱心に説立てたものだ。ソコは変り者の金子のことだ、窮鳥懐ろに飛込んだのだからだとか、汝の敵を愛せの憎めのとかいう様な面倒な心理状態からではなく、何か考えが別にあったんだろう、諾し来たと引受けてポント投出した金で出来上ったのが日本商業会社とい、只今全額払込五百万円の法人である。此世の思出にやっている程の芳しさもないが、社長さんは岩次郎大人で竹村房吉が専務に在しますです。

金子が自慢の船鉄交換

金子が松方幸次郎と手を組んで、財界不況名題の産物、国際汽船という病める大象の如き船会社を作ったことは皆様御承知の筈である成程株数からいえば川崎造船系が過半数を占めてはいるものの、船を造る鉄材を米国から曳摺って来たこと、出来た其船を大方鈴木がデチ廻していることに於て、国際汽船と鈴木との関係は頗る深い。
想起せば大正七年、船成金や鉄成金が世間をノサバリ返り、就中鉄屋などは泡吹金の有るに任せて、極力日本帝国の公序良俗を紊った年だ。というのは道側で古釘を拾ったり泥溝の中から桶の古金輪を掬上げても銭になる、缶殻や錻力屑でもヤッチョロ任せを踊る位の利益はあったというのだから無理もなかろう。ソレ位鉄の需要が旺盛であって、此分ならば鉄屋は無論の話、造船屋鉄工屋の天下は延べつ幕なしに時めかんず候う、アーラ望月の虧けたることも無しと思えばなんて浮かれ廻っている折柄、唯一の供給者たる米国では、鉄材輸出禁止令というお触れを廻わしたんだから正に晴天の霹靂「呀つ」と叫んで腰を抜かすも道理誠に小気味よい有様であった。船鉄交換の騒ぎは之から始まる。

鉄関係商狽て騒ぐ

米国から鉄を輸出して呉れないとあっては、鉄屋鉄工屋は申すに及ばず造船業者の難渋は言語に絶したものだ、建造中の船が船渠で昼寝をしている間に二倍三倍の暴騰を演ずるという時に当って、鉄材を供給されないのだから、道楽息子が卒業前に学資を絶たれるよりも困ったことだ。首を鳩めた造船業者、窮余の一策として米国に対し船と鉄との交換を交渉しようじゃないかという分別を出して見た若し夫れ米国が首を竪に振って呉れさえすれば、大体一噸の鉄材で三噸の船が出来るのだから、交換船以外に差引二噸の鉄材を流用し得る訳だから、有難い仕合せである。ソコで政府に縋りついて談判方を願出たものだ、けれども霞ヶ関の睨みは一向に効を奏しない、一方鉄関係商の苦悩はだんだん深味に陥って行くから、鼻糞程の縁故も時の氏神と縋りついて、単独に夫々交渉して見たが、大日本帝国の外務大臣が話をしても纏まらないものを、下々の平民などに何が出来るものか。時々刻々鉄材不足の度を加えて作業に差支を生じ殊に神戸の如き鉄工業中心地では失業者を出して思想を険悪に導かんとする虞もあるので、市民大会の決議を米国大統領に送ったりもして見たものだ。然し米国ならぬ日本の神戸と大統領との関係は、爾く密接でなかったから、音沙汰は一向梨の礫という情ない有様。

大使モーリス

解禁運動で米国へ行っていた鈴木の或店員が帰社して金子に詳細を報告した上、次のようなことを附加した。
 『今度来たモーリス大使は華盛頓で弁護士をやっていたが、シカモ破産管財人に選ばれたりした男です』
ソコで金子が考えた。世界を跨にかけた外交官の古手なら喰えないが、破産管財人までやった男なら純真な点もあろう、一つ誠意を示して、大使から口説落しに掛ろうとしたのだ。彼は矢庭に上京した、当時鈴木は一億円の鉄材を買付けていたんだから、湯気を起てて鉄引張り込に奮闘する筈である。

(六十七) 貿易商としての鈴木

金子大に熱誠

金子直吉早速上京して、例の後藤新平を訪ね、モーリス口説落しの声□を願った処、お前とならば何処までもという新平のことだ百も合点十も承知之助と来て、直ぐさま添書を書いて太鼓判をポンと捺して呉れた。新平は当時内務大臣閣下であった。その添書には此男こそ日米船鉄交換問題を解決する日本第一の男で、此人を措いては外に一人もありませんぞという文句であったと承る。いや手紙ばかりじゃない、英語に堪能な頭本元貞を附添えに貸して呉れたんだから金子も気強かったそうだ。
さて頭本と連れ立った金子は大使館にモーリスを訪ね、一生懸命の口説を捲し立てたという、其要旨は「此際連合国としての責を果すために是非とも鉄を供給して貰いたい」というのである。連合国を引張り出して、世界平和の貢献を餌としたんだから、モーリス殿も厭とは申されまい。況んや此時ばかりは金子の熱誠面に溢れ他人の分まで借りて来た有様であったというからモーリスが感動する尤もであった。弓矢八幡も照覧あれ別しては那須の大権現じゃない土佐の大明神、此談判過つことあらば折角買付けた一億円の鉄がフイになるんです、仮令寿命を縮めるとも救け玉へ払い給えと念じた祈願の甲斐あって、モーリスが諾と首を縦に振った時には、流石の金子も飛上って喜んだそうだ。

御熱心なこと

直吉一生一代の骨折で船鉄交換がモノになったんだから、鉄関係屋は大安心である。元来金子は余り世間に出遮張らず陰でコツコツやる男であったが、大明神に誓った手前もあり、又実際金子が交換の事務を執るのが当り前でもあったから、金子は熱心に働いていたものだ。今神戸市長となって時めきそうになっている石橋為之輔なんども、金子の書記となって交換事務に立働いたものであった。斯くて輸入し来った米鉄で百十万噸の船舶が出来、内四十万噸見当を交換船として米国に引渡し、残余を同業者間で分捕ったものである。然るに戦後襲い来った不景気風はストック・ボートを滅茶苦茶に暴落させたので、三井三菱横浜船ドックの分を差引いた残余五十万噸の持主たる川崎造船、鈴木山下内田勝田久原橋本の烏合の衆が勢揃いして大同団結と洒落込んだもの世に所謂国際汽船株式会社というのである。

政党頼りない

不景気風が集った当時の船会社は惨めなもので、借金の借廻りに日も之れ足らぬという有様であった。大正七年松方幸次郎が外国から帰った当時、モトの歩になり掛けた船成金共が悲鳴を上げ、寄集って海運助成法案なるものを考案し、政府の救けを乞うことになって其運動に着手した。利権を喰わせたら直ぐ吠えつく政友会の門を叩き、宿将元田肇を捕えて具体案を示し「是非とも之を議会に提案して頂戴」と頼込んだものだ。元田も然る者、ソレは尤もの話だから上は総裁から下は陣笠に至るまで斯くいう元田がチャンと賛成させて見せる、だが政友会から提案すると又何とか彼とか世間の口が煩さいから、国民党に提案させなさいというのだ。ソレから国民党に走って説立てると犬養木堂も蓄音機のように同じ返答をする、政党の頼りないことを今更知って、悄々と引退ったのは哀れであった。ソコデ今度は新帰朝の内田嘉吉案に耳を傾けたもの、内田は滞米中ヴァンダ―リップの旨を受けたと称し、浅野造船所に談合し米国の資本と、日本のストックボートとを繋ぎ合せ、日米間の貿易をやろうというのである。ソレ結構と一同賛成をやったが、米国で沿岸貿易を許さないんだから、モノになる見込はないということが直ぐ判って之も同じくオジャンとなる。

やっとの事で創立した

本当に困り抜いた揚句、山下亀三郎が浅野の旨を受けて松方に対しストックボートぐるみに各造船所の大合同をやり度いがどんなものだろうと交渉したところ、松方は剣もホロロに拒絶した、ソコで金子が山下に対し船価一噸三百五十円の見積りで、各手持ち船を合同し国際汽船創立を提議したのが各社の賛同となったのである、かくて、約五十万噸を一噸三百五十円に評価すると、総計一億七千五百万円になるが、これを担保として創立と同時に半額八千七百五十万円を借入れる計画を立て、各自船の提供船価に応じ其半額を株券で受取り、他の半額は借入金を分け取るという体のよい借金機関を創立し、政府より低利資金二千五百万円を借入れ、十五浪速第一興業の銀行団より六千二百五十万円を社債の形式で借り入れたのであるが、低利資金借入後未だ銀行団よりの借入れられない中に一寸厄介な問題が持ち上った。

(六十八) 貿易商としての鈴木

大臣が調停す

国際汽船が創立したのは大正九年八月であった。その創立以前から重役問題でゴテていたが、兎に角金子の使命で二十五人という並び大名が決まったのだが、元来松方という男も権利の主張には忠実であったと見え、乃公が船の過半数を提供しているんだから随って重役も亦過半数を提供せざるべからずというのである。けれども松方系が過半数の重役の椅子を占領することを誰も好まない、ソレで大分紛紜したものだが、遂に山下内田中山の三人が辞表を提出してしまった。金子は一生懸命で調停に努めたが、何をいっても成金共の勢力争いなんだから纏まる気遣がない、而も之等の暗闘が禍して、纏まりかけた社債も不成立になりかけるという始末だから、金子君大心配毎日二時間位は店員を引連れて国際汽船に通ったものだ。ソシテ其揚句原首相官邸で大蔵大臣逓信大臣其他国際汽船関係者一同の大協議となり、結局逓相野田大塊和尚の仲裁ということになって、山下も内田も中山も重役の椅子に舞戻ったのだが、何かというと大臣を引張り出すのがお上手で御座る。

尼崎築港には手を焼いた

いろんな事に手を出して、四方八方にチョッカイを出す金子どんの遣口を評して彼は西瓜の蔓なりといったものがある。大抵のことはモノにしてしまったが、之ればかりは閉口したというのが尼崎築港の失策であった。時離れ明治四十五年頃のこと、工業地として認められかかった尼崎へ来て、此町を近い内に大阪神戸ソチ退けという大商港にするんだという前触れで隣接地大庄村の一角、約十万坪の荒廃地を埋立てて、工場地帯を造るという大計画を樹てたものだ、ソシテ其筋に対し、避難港湾築設、並に水面埋立の件を出願せる一方丸島築港会社を造り愈之に着手せんとしたものである。
兵庫県庁は其隣接町村に予め賛否を諮ったところ、勿論結構な仕儀に御座るという返答であった。けれども尼崎町が鈴木の期待を裏切って「ノーノー」といって聴かない。然し、問題の埋立地と川一つ隔てた尼崎はこの計画の遂行によって益こそあれ損は毫頭ないんだから町会議員中にも賛成派が出来町会は二派に岐れて、茲に双方の悪辣な対立となり、尼崎が市に昇格した後も、相変らずこの問題で啀み合ったものだ。然し戦後の好況は物価の騰貴となり、最初三百万円で完成する見込であったものが一千万円でも難かしいということになったから、トテモ算盤が持てないので、鈴木もとうとう手を引いてしまった。此計画を始めてから十年の日子を費し、広井博士を煩わして地質調査をやったり、其他いろんな費用を掛けたのは、之で全くの丸損となった、ソシテ丸島築港会社も解散の已むなきに至ったことは申す迄もない。

権大教正とは厳めしい

此の尼崎築港の大計画に参与し自ら代表となって丸島築港を背負って立った岡謹一郎は鈴木の幹部であるが此男は一寸変り者で、商人に相応しからぬ代物である。彼は感心にも古事記を研究して一名論文をものし、神道家から賞められて遂に権大教正という位を貰っているから目出度い話である。衣冠束帯で納まり返っていればソレで宜さそうなものだが、存外娑婆気が豊富で、近頃は本邦染料の発展策というのを閑に任せて研究しているそうだ、そして朝鮮に染色学校を建てなくちゃ嘘だといって盛んにパンフレットをバラ撒いているが、彼も鈴木の屋台骨に入っている変り者の一人

チョッキが燃えあがる

金子君に云わせると昨今鈴木は財界の覇者であるそうな。そして肩で風切る勢いも凄じいが、何回も何回も「鈴木危なし」と噂されたことは御存じであろう。昨年末もそうであった、鈴木の本店も金融難で大に閉口し、金子御大すぐ様東京支店へ走って融通の方法を講じたんだが、巧く行かない。支店長の久保田駒吉と顔を擦り寄せて協議したけれども算段が出来ない、ソコデ久保田は吸っていた敷島をボンと投げて室内を歩き出したが其火が金子君のチョッキに入り、暫らくしてボカボカ燃え出したというが、ソレを気づかない程金子先生が冥想に耽ったんだから余程苦しかったに違いない。そして瓜糖の思惑を立てた時に『背水の陣屋を囲る桜かな』と駄句ったが、一月砂糖が上向いたので得意となり『此春は宝の山の昇り口』と駄句った。そして愈儲かったもんだから『海底にキラメク真珠の光かな』と謳って伸び上ったそうだが安易と拙い俳句ではないか。因に金子夫人は神戸俳壇の重鎮で、金子大人が余りに俳句の拙いということを気に掛け、毎日々々教育しているそうな。勉強したら今少しは上手になれる。シッカリやんなさい。「飛行機や太平洋の春の風」では平凡でがな御座ろう。

(六十九) 貿易商としての鈴木

先代岩次郎の面影

先代岩次郎氏が菓子屋の職人から叩上げて今日の基礎を造ったことは既に述べたが、今一度鈴木商店の根本を洗上げるために引張り出す必要がある。彼は勤倹を一生のモットーとした男だけあって可なり厳格であったらしい。金子大人も今こそ棟梁の器と仰がれているが、先代に揉まれたことは頗る深刻なものであった。何でも金子先生が鈴木商店へ入って半歳位経ての話だが、「コラ金子鋏を研いで見ろ」と命令されたものだ。金子拳々服膺して見事に研上げ岩次郎旦那に渡した処、旦那頗る丹念に調べ上げた上『お前は鋏を研ぐことだけは巧いな』と気を持たせて置いて、『だが研いだ序に錆も落さにゃ駄目じゃないか』と小言を附加えたそうだ。之位い細かい処に気がつくんだから、店員共も葉書一枚書損ねたって大目玉を頂戴したものだという。某大目玉の出る度毎に今の尼将軍当時のお家はんヨネ子さんが調停役を仕ったものであった。

よねさん変る

先代在世の折は、斯うしてよね子女史が温柔であったが、岩次郎歿後に至って、数多の店員を取締る必要から俄かに女傑の本領を発揮して、ピシピシとやっつける様になった。ソシテ七十の阪を越した現在でも毎日須磨から海岸通りの本店まで自動車で通勤し、自分用の一室で盲判を捺すという熱心振りは流石に偉いと謂わなければならぬ。聞く処によればよね子老は運動のためと、若い者の取締のためという考で毎日通勤するのだというが、世間有りふれた婆さんの到底出来ることではない。

若旦那声楽家

よね子刀自がお腹を痛めた当主岩次郎君は御覧の通りの色男にして且遊芸家である。彼が学校を卒業するや店員同様に立働いて、外国商館へ売込んだ品物の看貫に行ったり、砂糖の売子として地方へ行ったりしていたものだが、彼は生れながらにして比類なき美音家であるそうな。何でも十五六の時だったというが店先に来た阿保陀羅経を一遍聞いて直ぐ真似をやったというから天才である。宜なるかな彼は長ずるに随って声楽家の本領を発揮し、特に常盤に至っては何とか太夫という名取の腕前を見せるに至ったそうだから偉い。けれども芸事と商売は背中合せになるのが普通と見えて、、完全無欠の遊蕩児とはなったが店の方は丸きりお留守となる有様である。さればこそ店が五十万円の合名会社となった時でも、アンナ道楽者を代表社員にしては、第一店の信用がなくなるといって老媼よね子が其位に即いたのでも判る、然し彼は決して馬鹿者じゃない。道楽が募って浪費が嵩むというので店の印章を若旦那から取上げるということになった時、温しく渡すかなと危ぶまれたものだが、本人は素直に印章を投出して「ソレではお母さんに御面倒を願いましょう」と出たそうだ。右の通りお母さんにお願して依然ダンダラ遊びを止めず合名会社の持分までを担保にして遊び廻ったから終いには合名会社の出資金までも取上げられたというんだから徹底している。

彼の徹底振り

出資金を捲上げられた位で屁古垂れる若旦那じゃない。社員で在ろうが無かろうが借れるだけの金は遠慮なしに借廻って一代の驕児となったものだ。当時鈴木は儲けていたから金の不自由はなかったが店の秩序が立って来ると金の引出しが面倒となり、嘆じて曰く財産も百万か二百万位の時は引張り出し易いが、斯う大きくなると却って困るねといったそうだ。道楽が過ぎると先代の位牌を担ぎ出して大目玉を喰わせるのが、柳田富士松の役目である。柳田は辰巳屋の忰で柳田家へ養子に行ったもの謂わば主人筋に当るんだから相当睨みが利くと見える。若旦那は此大目玉を避けて遊んだが、寄る年波で洗練され近頃は甚だ謹慎していると見え副社長に納まって名誉を恢復したから偉い。何でも或時友人が若旦那に忠告して君がソンナに遊んでばかりいると、鈴木の財産は金子と柳田に横領されてしまうぜといったそうだ、其とき若旦那の曰く、俺は鈴木の財産を皆使ってしあmったんだ、今残っているのは金子と柳田が儲けて呉れたんだから皆やっても惜しかあないと答えたそうだ。此話を後で両人に喋舌ったところ両名共に感じ入り更に責任を感じたというんだから岩次郎決して凡庸の才では□□ようだ。人に謂わせると彼れは金子柳田が一生懸命にやっているから安心をして道楽をやったが、若し斯くの如き棟梁の臣がなかったらアレで人一倍働ける男だというんである。道楽をやる位の男だから身持が直ったら頭は宜い筈だ、之あるかな最近の岩次郎君は却々お偉いということである。

(七十) 貿易商としての鈴木

次男坊岩蔵君

岩次郎君の総領振りに較べると次男坊の岩蔵は遊芸の技倆に劣っているが、店務を見ることに於て遥かに真面目であるらしい。何を云っても鈴木のボンだ勤倹貯蓄というような野暮な味を御存じないことは無論である。夙く米国に渡ってボストン大学に学び、応用化学を修めたというんだから、正真正銘の新知識、聞くが如くんば時々外国雑誌を引繰返して、之を焼直し、専門の技術家連を頭から捲し立る位の腕があるそうだ、総じて貴公子然たる意地張りだとも謂われている、マア上出来の方だろう

名の川辺の子

柳田老と共に鈴木の大黒柱となり一族郎党は摩利支天の再来とばかり畏服し、世間でも実業界の鬼才だと迄嘆賞している金子直吉君の生立を洗って見ると、テモ扨情けない名の川べりの鼻垂小僧であった。名の川と申しても判らない。之は土佐の国の北陬、伊予と境した一辺境で、人情敦朴厚性、とても一代の商略家を生み出すような田舎ではなかった。両親というのがお定まりの貧窮、僅かに免許商売というので其日の煙を立てていたのであるが、先祖は太閤秀吉が四国征伐の砌り、先手を承った加藤虎之助を散々と苦しめた金子傅兵衛という豪の者だ。何かと云って負けじ魂が金子の血の中に流れているのは、傅兵衛のソレを受入れたものであろう。

高知に流込む

名の川の暮しも思わしくないというので、金子親子は高知の町に漂浪った。何でも十歳許りの頃であったという。相変らずの貧乏で雨の降る夜などは、漏る水を避けて親子三人が壁に寄添ったという哀れ話も此時分のことである。然る中に父親は直吉を野放しにして置く訳にも行かないから学問させてやろうかという提案を母親にしたものだ。処が「武士の子じゃあるまいし商人の餓鬼に何の読み書きが要るものか、第一此貧乏では」と肯入れない。ソシテ学問を仕込まれることはオジャンとなってしまったのである。

神主様が先生

けれども世間は、だんだん開けて来て文字を知らないでは、商売も難かしいという気運になって来たので両親も頭を悩まし、其結果日頃出入する神主さま藤田常七大人を先生に頼むこととなった。常七殿は神主に違なかったが別にお仕する神社がある訳ではなく、俎や塵取を造る職工に過ぎなかったソコで直吉少年は毎日手習草紙を携えて神主さまの家に通い、俎や塵取りの切屑の間に坐って、丹念にいろは四十八文字を覚えてしまったもの、寺小屋よりもモット果敢ない学校である。
手習を卒業して直吉少年は、尚相当の知識慾があったと見え、学校では読方というものを教えて呉れるそうだ、序に一つ習いたいというのである。先生一寸困ったというのは、教えてやる本などのある筈がないからである。考えた末奇抜にも先生は奥から一冊の禊祓を持出して「サア之を教えてやる」といったものだ。神主としては当然持出すべき本である、ソシテ直吉少年も文句なしで教わることになり、高天ヶ原に神留まり……云々の可なり難かしいものを毎日詰込んだが、素より悧巧な頭だから存外苦しまずに祝詞一冊を覚えてしまったそうだ。若し其儘であったら彼も今頃は県社の神官位で終ったかも知れない。が、彼は更に商売往来の読方をも教わった。当時商売往来を一冊暗んじたら商人としては何の不自由もなかったという位、立派な教科書であった。

いよいよ御奉公

まず之で当時の普通教育を終ったのだから、貧乏人の子にはお定まりの鹿島立、いよいよ御奉公の順番と相成った。さて何処ぞ宜い家はないかと物色した揚句、いの一番に身を寄せたのが、当時開業●々の葉茶屋兼砂糖屋の小さい店であった。主人は武士揚りで商売の道は余り委しくなかったが、相当の家柄であったから、店員も概ね身柄のいい処の息子だちで、直吉少年の如く爾かく貧困な仮定に生立ったものは無かったという。随って朋輩から莫迦にされる事も往々あったが、両親の貧乏を見るに見兼て紙屑買をやったことさえある直吉少年のことだ、天秤は得意なもの、此点に至ると他の朋輩は到底直吉の真似が出来なかった。ソシテだんだん其商才を認められて来たのであったが、当時一斤五銭位の砂糖を買いに来て「三銭五厘だけ下さい」などという分数式のお客様が来たら直吉の独壇場であったソシテ士族の商法で半端の計算が出来ない主人並に朋輩の為に細かい計算表を作って樽に貼ったので、主人から賞められたという話さえある。之から愈偉くなる。

(七十一) 貿易商としての鈴木

新聞学問を始める

商売往来が読め、分数の割算が出来ても士族商法の店にいたんでは何といっても朋輩に睨みの利かない事実は時々体験する。ソコで直吉少年はいろいろ考えたそうな矢張り勉強して実力を涵養しなくちゃ嘘だというんで、隙がなあったら読書に耽ったというから偉いといわなくてはならぬ。丁度その頃であった。何でも近処に桃花堂という看板を掲げた一寸風変りの店が出来た、一体何の店かしらと探って見たら、之は活版屋で自由党員が立志社というのを組織し其機関新聞を発行する所だということが判った。成程新聞が発行されたのを見ると却々重宝なもので商売往来や祝詞なんかよりも世態人心の帰趨が手に取るように判りそうな刊行物らしいと看て取ったから彼は一生懸命に拾い読みをやったそうな。何しろ「いろは」四十何文字かはお手の物だから熱心に拾って読めば筋書はチャンと判る但し困ったのは、其新聞の論説に振仮名がないということで、之には先生も大分閉口し、字引と首っ引で散々苦しんだという。ソレでも何とかして読めるようになったので世間のことが判りかけて天成の自惚が一層自信を強制するに至ったというんだから凄じい。

質屋の倉で軍学書

兎に角読書力のついた直吉君は漸く偉物になりかけて、慫める人の有るまま、之も近くにあった傍士と名乗る質屋の丁稚に鞍替することになった。当時は士族が追々貧乏になりかけた時で、典物の大部分は漢語であったという。直吉君に漢字の素養を強制するには、正に一種の図書館であらねばならぬ夫れかあらぬか彼は典物の番号札を整理すると、自分の好きそうな本を一冊倉の窓の前に措いて、往くも帰るも一字一句を必らず読むと共に辞典と首っ引して独学に余念がなかったから、至誠天に通じ熱心岩をも透すという金言並に大分上達したという。誠に感心な話ではある。斯うして勉強をしている間にも六韜三略が一番御意に適ったそうな。此種の篇中最も共鳴した本は孫子呉子であった。先ず戦を挑むに際しては『彼れを知り己を知って戦えば百戦必ず勝つ』と教えてある。又兵を引揚げる機会に関しては『我に七分の勝味があると睨んだら三分を敵に残してやってサッサと引揚げろ』ということが書いてある。何でもヒドク此文句に共鳴したと今でも述懐している。彼は六十に垂んとする今日まで酒を呑むことを知らないが酒は八分目という真理に共鳴した処が天才である。矢張り上戸の素質は有っていると見える。

ルーソー民約論

商売往来から漢語に乗替える程の進境を自覚した直吉とんだから更に時代の駸運に鑑みて翻訳物に目を移す位のことは想像するに難くはない。当時廃藩置県の新政となり議会開会という新機運に乗じた時であるから、御領主様を拝んでも眼が潰れなかったという自信諸共民権の主張が仏蘭西から旺んに舞込む折柄であり、殊に同郷の先輩中江兆民はルーソーの民約論を翻訳して天下に鳴ったものだ。況んや板垣退助は自由民権を唱えて政治的輿論の黎明期に活躍するんだから、当時土佐出の青年が政治的の覚醒を絶叫したことは頗る凄じいものがあった。ソシテ老いたるも若きも走って名流の玄関番たることに淡い誇りを感じたのも時代の一流行であった。

出奔せんとす

直吉少年も幾度か出奔して東京の名士の玄関番となり、往く往くは日本の政治家たらんとしたものでった。が、然し其折父親が中風を病んでいたから『父母在さば遠く遊ばず』という漢籍の素養に支えられ甚だ不本意ながら土佐の田舎に温しく留っていた訳だ。処が監獄から出て来た陸奥宗光が試みた大演説の筆記を転載した記事を読んだ直吉は矢も楯も堪らなくなって飛出す決心を固めてしまった。というのは田舎にいても是位の識見は判るんだから東京へ行って一奮発したら政治家になる位はお茶の子サイサイだと思ったからである。尤も陸奥の演説というのは内外の形勢を論じて我国の国防を論ずと云った演説だったから、金子の自惚を刺戟するに適当なものであったに違いない。ソコで彼は国を脱走することになったのである、ソシテ兵庫へ上陸した時に一寸考え直したそうな。というのは待て待て今こそ政治家の方が偉いもの立派なものと思っているが俺が世間に乗出す時分には、政治家が果して偉いか拙いか判ったもんじゃない迂闊には踏め出せぬと拱手三考した結果、砂糖には俺も少しの腕は持っている、政治家よりも実業家になった方が目を吹くかも判らんと考え直して鈴木に入ってしまったのだと告白している。何よりもコレが偉かった流石に金子大に話せるよ。

(七十二) 貿易商としての鈴木

樟脳ハタ売りで大味噌

鈴木商店へ落付いた金子御大は樟脳や薄荷なんどを、外国商館へ売込み方を担当させられた、時は丁度日清戦争が済んだアト日本人大得意の時代であるが、其頃ノースという男を盟主とした独逸商館のトラスト式連盟は、大仕掛で樟脳の買占をやったものだ、お蔭様で樟脳相場はポツポツと舞上り止る処を知らずという有様となったので、金子先生コレを以て不自然の高値なりと観じ此処を先途と売向って見た。手持は勿論のこと、無い物承知のハタ売りで奮闘して見たが相手は外国人の同盟だ金子輩の歯の立つべき筋合じゃない。そうこうしている中に受渡期日が迫って来たが、いくら飛廻って探して見ても樟脳の現物がない。此勝負鈴木の大敗で其財産が幾つあったって追付かないという惨敗だから金子も唸ってしまったそうだ。

よね子同道で北浜へ

万策つきた金子は尼将軍と伴立って北浜の大相場師、鈴木の後見たる西田忠右衛門を訪れ、斯の如き大失敗を致しましたから尻を拭って下さるようと手をついて謝ったものだ。ソコデ座頭ながらも北浜で鳴らした忠右衛門だ、いろいろ善後策を講ずることになったが失策の張本人が座にいては、何かと話がし難いから何処ぞブラついて来いと追払われてしまった。表へ飛出した金子は尚冥想に耽っていたが、大阪で樟脳の暴騰を知らない商人がいたら一つ買ってやれと虫の好い考を起して同業者を探ね廻って見たが、素より皆様先刻御承知の有様でモノにならない。処が肥後の国で樟脳の山を経営している肥田景之が大阪の花屋に滞在して居った、肥田は正金の取締役様である。総じて銀行屋というものは時勢に遅れているものだから肥田だけは樟脳の暴騰を知るまい諾し来た此奴のを買取ってやるべいという謀を巡らし、早速花屋に肥田を訪ねて見た、丁度その時肥田は気分が悪くて寝ていたが、会って話をしている中に電話が懸って来たので、肥田の代理で電話口に出て見れば、何のこったい住友樟脳から樟脳暴騰致して候という御注進の電話じゃないか。肥田景之を討取らんずる謀計は見事に失策ってしまったので、悄然北浜へ帰って見れば、小田原評定未だ相纏らずモ少し遊んで参れという命令である。

羨しいかな鶴と亀

ソコデ金子は天満天神に苦しい時の神頼みに出掛け、鈴を振って手を合せ色々無理な註文をしたのち境内をブラつきまわり、鶴に鰌を奢って千年の齢をアヤかったが、だんだん財布が軽くなるので、持前の本性に立返り今度は鰌より安い麩を買って亀に与えたが、天満天神を頼み鶴亀の縁起を担いで見ても名案は浮ばない。浮ぶものは麩をパクつく亀の背ばかりである眺むれば亀は水中を游弋して樟脳ハタ売りの苦しみを外に天下泰平を謳歌しているようだ。此時ばかりは金子も熱々泣出し度くなり、若し若し亀よ亀さんよ、噫われ亀なりとせばとグルグル三遍廻ったそうだ。既う宜かろうと北浜へ帰って行ったら、天満天神の霊験イヤチコにて、評議一決忠右衛門が口添えで因果玉を解合うことになったのである

売占は誠に手痛いもの

樟脳ハタ売りの失敗は、解合ということで収まったが、金子は茲で考えさせられた。手持を売って損しても値下がりだけで済むんだがハタ売りというものはドエライもんだ。金の融通がついたら買占をやるとも生涯ハタ売りは決して仕る間敷候ことを心で契ったという。だから店員が『無い物売の積りでやっているが品物は有余るッ程あるんだからハタ売は如何で御座る』と建白して『ムニャムニャムニャ』何ということを申すんだ恐ろしや怖やと身慄いするくらい。但し買占めの段となれば砂糖よかろう米よかろう小麦粉賛成と出掛けること屡々申上げた通りである

国字改良とは洒落れたりな

金子君を訪ねて『アンタは何が好きかいな』と訊いて御覧じろ。鰻丼だとも支那料理だとも謂わない況んや俳句に於てをやだ。彼は言下に『商売だよ』という、『その次は?』と尋ねても『商売だよ』と繰返す程爾く商売御熱心であるが、やることは俳句さえやるんだから大抵の事は考えている。ソコデ日露戦争の過ぎた頃、国字国語改良論を四方八方に振り蒔いたものでった。其理由は戦争に強くっても世界の平和戦に勝たなくちゃ駄目だソレには通信、取引の俊敏を計る必要がある、然るに現在の日本文は誠に大欠点があって難解だ之れ我輩の改良論を叫ぶ所以であるという前触れであった。六韜三略から孫子呉子の通義を体得し、商売往来から神留る祝詞催馬楽までを渉猟した金子君がいうんだから、日本語の大欠点はザラにあるに違いはあるまいソンならドンナ改良か?

(七十三) 貿易商としての鈴木

英語日本語をチャンポンに

ゴ自慢の国字国語改良法は、世界の商業共通語たる英文と日本文とをチャンポンに使うべしと主張するのである。第一用件として日本文も亦横書にしなければならぬ元来文章というものは横書にするのが順当で、目玉の横に二つ並んでいるのは何よりの証拠であるそうなソコで金子式改良法を詳細に説明すると例えば「船を傭う」という意味を「Charterす」と書き此英字に傭船と振仮名をつけるのである斯うして置けば英語を知っている者は一目瞭然、知らざるも振仮名で助かり知らず知らずの間に英語と親友になれるというのである。此大発見をやった時の喜びは、空中から窒素を取る発見をやったクロードどころの騒ぎじゃなかった。早速一高教授の須藤傅次郎に諮ったところ、やんやと賞めたんだから堪らない店員中の英学者上田貢太郎に命じて一論説を認めさせ、神戸クロニクル紙上に掲載したが今度は須藤が賞めなかったので躍起となり、自ら一文を草して天下に呼号したんだから凄いじゃないか、今其冒頭語を紹介仕る。
JapanにかなのidiographありながらChina-Characterをmix useはvery inconvenienceなれどもancient-timeよりのusageにて…………

独りで威張っている

之程の名案も未だ天下に知られていない、誠に残念である。何分我等は黒船が浦賀湾に現われる頃から、尊王壌夷の旗風に武者震いした丁髷の子孫である、牛肉を食って七十年まだバタの香が気になるんだから、異国の文字を神州の仮名の間に挟むは帝国の尊厳を害するとでも思ってか、漢字制限位の処でお茶を濁しているのは金子君に取って歯痒いことであろう。ソレでも金子君は隠忍持久して焦らない『見給え狂人のようになってエスペラントを説き廻る時代になったんだ。今に小学校の教科書は金子式を採用するに決っている、其字だね金子という男が天下の恩人と謳われるのは……』だと。弘法大師は、いろはで威張っている但し牛肉矢でではない。ソシテ金子も大正の弘法大師となって、和英チャンポンの開祖となる時代が来るであろうか。彼は今、更に進んで「御座候得共」とか「なかるべからず」というような決まりきった文句を一字に型る方法を研究しつつある。フレーフレー。

何をクヨクヨ川ばた柳

当時の英学者店員上田貢太郎の名を、チラリと出しただけで直ぐ引込める訳には行かない。というのは彼は英語に堪能なという許りではなく店第一の気難かし屋で、彼の部下として半歳を堪うる者が二人となかったに見ても判る。辛抱したのは高畑誠一只一人で、三年が間我慢して英学の奥義を盗出し倫敦支店長になってからも、其免許皆伝の腕前が今日の誠一を造り上げたようなものだ。貢太郎は斯の如き難物であったが、一杯の酒を聞召さんか、恵比寿様が酔払ったように笑いこけていたそうな。酒の好きな奴は英語が巧いということはないが、少くとも酒好きに悪人がいないということ丈は昔からの統計が示している。随って彼は気難かしい男ではあるが、存外の好人物で卓子の抽出しには玩具を一杯入れ、ソシテ子供に呉れてやるのが酒と同じ位好きであったという。又彼は自ら観水と号していた、何をクヨクヨ川ばた柳、水の流れを観て暮すというストライキ節から取ったのだそうだから、彼も亦一種の楽天家に違いない。彼の姿は今鈴木の店に見られなくなった、浮世を捨てて水の流れを観て暮しているのであろう。

重役は概ね並び大名

鈴木商店の直系傍系会社の重役は其数頗る多いが、天下に認められている重役は望遠鏡を振立てて眺めても見当らない。鈴木といえば金子柳田を思出し、新しい処で高畑芳川永井ぐらいのものだ、アトは何をしているのか世間が一向知って呉れない。或者にいわせると鈴木が外界に知らせない方針だともいい又知名の実業家を担ぐ必要がないからだともいう。けれども鈴木商店は洋館造りで金看板を揚げているが、其組織はお店式、紺の暖簾にカネ辰と書いた昔の方針を更めない。暖簾を潜れば金子柳田の大番頭さえ見えたら可いんだろう。ソレから店員の古手が関係会社の重役になっても賞与は本店の会計へ納めることにしてある。其理由は、鈴木商店の財産は店員共同の財産で、店の貧富は店員の貧富であるから、店と店員とは物質的にも精神的にも不可分の性質を有しているというのが鈴木商店組織の大信条だと力味返っているのだ。だから功労の有った店員の死後長しえに遺族を扶養しつつある実例は少くない。コレ鈴木の店員が薄給でも手が廻らんでも丸でブルドックの如く商売に噛みつく所以でがなあろう。

(七十四) 貿易商として鈴木

店員の頭の中

斯うして御世話様に相成りまする以上、滅多矢鱈に身を退きますことか精々立働いて御賞めの言葉が頂戴致し度いので御座います、之れ鈴木商店少壮店員の心理じゃと申す。手前共は大きくなれる柄ではない、お店が大きくなれば手前共も大きくなる、つまりお店に大きくして戴くんですなというのが故参店員の真情であるそうな。確かに八分通りは嘘であるまい、其ここに至った原因は大政所が大番頭を信頼し、大番頭が小番頭を叩いたり撫でたり、寛厳よろしきを得た賜で、金子の智、柳田の情以て上下靄然たらしむるに至ったものである。

四月六日を選んだわけ

はやりばやりは真似ねばならぬ此開けた御代に何時まで合資会社でもあるまいと、看板を塗り替えたのが新らしい去年のことだ。特に組織変更の義を四月六日に選んだのは大に意義がある。古今の大帝明治天皇が、南殿に御して天神地祇を祭り、五箇条の御誓文を発し賜わったのが四月六日であった。此大訓を遵奉して帝国の隆運をアヤからんとする真意に外ならない。而して暑い寒いの文句も云わず、多年神妙に働いた古参店員を行賞して、只名のみながら、夫れでも重役の末席を汚さしめた。豈奮闘せざるべけんや

株式会社鈴木商店役員
 社長鈴木よね▲副社長鈴木岩次郎▲監事鈴木岩蔵▲常務柳田富士松▲専務金子直吉▲取締役窪田駒吉、西岡貞太郎、高橋半助、井原五平、平高寅太郎、志水寅次郎、日野誠義、高畑誠一、永井幸太郎▲監査役谷治之助、芳川荀之助

ずらりと列んだ譜代の大名、之が世界中に手を出す鈴木の幹部である、今古暖簾の合名会社の顔触如何というに代表社員は尼将軍よね子の君、理事に岩次郎、直吉と共に東京探題長崎英造を一枚加え、大塚を持って行って監事の位を支えている。

分株を覘ったとは嘘だろう

株式組織変更に就ては勿体なくも明治大帝の御誓文に鑑みたというんだから、「万機公論に決する方針だな」と早合点し、不肖なれども我等とて一株半株を持たせて少数株主の意見をも聴取するに違いない「占めたッ」と横手をピチャピチャ叩いた平店員が多かったというがソレは一体本当かい。聞く処によれば株を有つ有たぬは大した問題でなく、随って之を覘った抔とはソリャ嘘じゃ嘘じゃと極力否定しかけたということだ。我等は株の有無に拘らず働くんです、株を頂戴したからって特別尻尾を振るということは致しませんと、偉い哉言也、多分覘ったのは嘘であろう。因に鈴木商店の株は百円券で八十万株に上っている、茲に於て幹部は「八十万株もあるんだから……」と余韻嫋々たる処を示し、或は与えるが如く又与えざるにあらざるにあらざるが如くであるそうな。

ここに誠に残念なるは

「ここに誠に残念なるは」鈴木が大正七年に焼打たれたことで、談ここに至れば金子は粛然と弁じ立てている。ソレを忘れたから一寸附け加えて置くが、アレは全く誤解された結果に外ならない。其理由は当時『米価問題と鈴木商店』と題し永井幸太郎君が一冊をバラ蒔いたのに詳しく書いてある。政府の御命令で米を蒐集し、又配給にも尽力した、然るに期米市場の買方が大鈴木の買占を材料にして宣伝した悖徳の犠牲に外ならぬとある。然しソレは過ぎたことじゃないか、同じ焼かれても越後の川佐の焼跡は蓬草満茂、鬼哭啾々である、君の方は海岸通りに新館が聳り立ち株式会社合名会社の金看板が光っているんだ、無理を云っちゃいけない。

精々御勉強遊ばすこと

兎に角三井と覇を争って日本貿易商の大宗たらんとするまでに至ったのだから、紺の暖簾でも縄暖簾でも、お店の風など何だって構やしない。一流の蛮骨を振って国家のために奮闘することだ。聞けば柳田御大は瓜哇へ出掛けて、馬力を掛けつつあるとは結構だ、主任の寺崎が相変らず眼鏡越しに相場を睨んでいることであろう。そして金子をして「海底に真珠を閃めか」しむるか、太平洋の春の風を唄わしむるか、それは判らない。時は夏なり、小田の蛙さえギャーギャー啼く時節である、御承知の通り「生きとし生けるもの孰れか歌を詠まざりける」と紀貫之が古今集で煽てているんだ。大に奮闘して俳句を濫発することを祈って置く(鈴木系終り)

(七十五) 閥を作らんとする社外船系

財閥なんて時代遅れだ

神戸の松方幸次郎に対して、話しの序に「神戸における財閥関係は何んなものですか」と水を向けると、先生言下に『今頃財閥を口にするなんて時代遅れだよハハハハハハハハハ』と例の□笑に始まる
 俺は適材適所主義で、手腕のあるものはドンドン抜擢もするが出来ないものは学歴あろうがなかろうが、手蔓が好かろうが悪かろうが決して重用しない方針だ、現に川崎造船所には日給五銭で茶吸みした給仕や、日給三十銭の雇員だったものが、重役に出世して立志伝中振りを発揮しているものさえある。尤も社員間には閥らしいものが無いとはいえんば社長たる我輩の頭にもソンなものは屁でもない。鈴木の金子君と時折意見の交換をするからといって、鈴木と松方が提携したとか何とかいうが、誰だって利害相通ずれば寄り、相反すれば離れるの人情じゃないか、川崎のストックを鈴木の高畑君に頼んで、四百七十万磅で倫敦市場に売放って貰ったのもコレさ、町人に財閥など大禁物だよハッハハッハ
ハハハハに始まってハッハハッハハに終る、ソシテ最後に勿体なくも町人になるなど成程才人じゃ。彼は老侯松方の忰、幼にして●党大志ありと謂われ川崎造船所前社長川崎正蔵翁に拾い上げられたというんだが、其何分の一かは七光が与って力あるだろう。但し有っても無くてもソレは昔のことだ、況んや当人は天資英満の賜と深く自信しているらしいから、其方が確かであろう。

雨後の筍の社外船

神戸財閥は何方に御座るということを尋ねるなら、川崎造船の松方閣下鈴木王国の金子大人に謹聴しなければならぬ程、御両所は神戸財界の大立物たるに拘らず、あんな風だから財閥は出来にくいのであろう。従って欧洲戦争の勃発で一躍数千万円の暴富を贏ち得た一夜作りの船主が、雨後の筍のようにニョキニョキ頭を擡げたからとて之を以て直ちに財閥の名を冠せることは党っていないかも知れない、財閥という以上少くとも或期間の永続性と、個人と個人との間に霊犀相通ずる脈絡を必要とするのだが、我社外船主間に限って、此両条件が欠けているからである。しかし、此永続性と脈絡が無かったからとて我社外船の活躍は戦時中から戦後にかけ相当目醒ましいものであったが、戦後引繰返って社外船主の債務は数億に上り一切合財洗い晒さんか、ゴロゴロ破綻銀行を出し再び財界を危機に陥れんとしつつある位、社外船集団に一種の力があるのだから、閥といわれないまでも、ソレ位の敬意を表しても悪くない之れ社外船系を上場する所以である。顧みれば、大正四年頃の本邦船舶所有高は総噸数一千噸以上四百十六隻百三十四万一千三百八噸に過ぎなかったが戦乱の賜とはいえ、現在八百七十六隻三百十万五千六十一噸という大激増を見るに至って、不肖ながら海運界の水平線からズンと頭を擡げ、曲りなりでも何でも宜い兎に角世界第三だ、此間社外船の奮闘を十分に認めてあげる。

社外船主の大粒

何をか社外船という、社外船とはそもそも抔と申す迄もなく郵船、商船、東洋汽船の定期命令航路を主として経営するものを省いた其他の船主一般を包含するものだが、此社外船が揃いも揃って根城を神戸に据えているから面白い。尤も岸本汽船や広海商事の如く大阪居住のものもないではないが、その大部分は神戸港の地の利を用いた為めであろう。それで茲に神戸における社外船の主なるものをズラリと列べてお目に掛ける

[図表あり 省略]

(七十六) 閥を作らんとする社外船系

特殊扱されても怒らない

我国の現在所有船舶総噸数は約百三十万噸だが社外船総噸数は約二百万噸に達するのだから、われこそ船会社世界じゃ暖簾が古いと自惚れている郵商船乃至東洋汽船などよりは遥かに世界第三位に貢献しているのだ。かるが故に社外船懲りせば、噸数を以て英米のお次に座れる義理じゃないのである然るを何ぞや我等を社外船と称して殆んど特殊扱いをしているではないかというような狭い量見は起さない。随って水平運動もやらないのだが、もともと先生達の頭は大分異っているのだ、というのは海運業を以て浮沈常ならぬ一種の賭博と感じ、板一枚下地獄という観念が頭にコビリついて放れない。だから買って二三年経たない中に元利を上げて、あわよくば売逃げようとするのである。綺麗に申せば船に執着を持っていないのだ。又社外船主の有する多くの船は倫敦あたりの老衰したやつを引摺って来たものだから、ノロい癖に石炭を腹一杯噛むという代物だけに一概に噸数で社船の鼻づらを一擲りしてやるという訳にいかぬ。観じ来れば水平運動を起さないんじゃなく起せないのかも知れぬ。

海運界のシケに悩む国際

国際汽船は名にし負う一億万円の大会社、川崎汽船の松方初め浅野勝田、鈴木、内田、橋本、山下等戦時中一騎当千の荒武者揃いを大株主に加えているのだから、定めし会社の内容も御立派なものに思えるが、其実年が年中欠損続きの遣繰世帯、八千万円に減資したのもツイ此間のことだ。
それも道理、国際汽船の設立動機は之等社外船主が、休戦後二進も三進も動けなくなった結果、借金と船を持寄った部分的の船舶合同で、その後海運界は一向晴れた日とてなく、秋粛条の哀れを改めないのだから、噸数と資本金で威張ろうと思っても世間が買って呉れないから困る。ソハ兎も角国際汽船設立の方法などについては詢々と申上げない、唯設立当時の鼻息が、如何に荒かったかを紹介するに留めて置く。

ガラリと外れた国際の越中褌

設立当時の大正九年ごろは、傭船料がまだ十五円見当を維持していた時分だから、国際汽船の収支予算見積書を見ても傭船料を十円と建て、全部傭船しても六十隻四十七万噸となり一ヶ月の収入実に七十万円に上るんだから、一割五分以上の配当金打致して誓うという易々たるものだと触込だ。然る処、十年度には船価償却は愚か、法定積立どころの騒ぎじゃない。三百七十万円という膨大な欠損を曝け出してしまったんだから捕らぬ狸の皮算用、あて事と何とかは何とかだいぶ破目に陥ってしまった訳だ、誠に味じ気ない世の中ではないか。ソレはソレとして会社の膳立は出来たものの社長と常務の銓衡にはシコタマ弱らされたものだ。社長は野田逓相の肝煎で松方が据わったが、常務の人形探しには足を棒にしたものだ。まず其時、大阪商船の遠洋課長を勤めていた村田省蔵に白羽の矢を立て、御為めごかしに口説いて見たが、本家商船の重役が目の前にブラ下っているんだから応じそうな筈がない、次で当時の郵船神戸支店長石井徹やら大洋海運の専務石井貞二、それからそれへと御鉢を持ち廻ったが、いずれも肱鉄砲を喰った揚句川崎造船所の庶務課長だった安部正也をスルスルと巻込んで其椅子に坐らせてしまった。

船舶運用は鈴木

国際汽船の経営は大体社長松方と会長金子との方寸に出ているのだが所有船の殆んど全部を大西洋に運航せしめる関係上、倫敦市場で外国人相手の場合が多く、これは鈴木商店の小金子高畑誠一が国際の倫敦におけるエゼントとして采配を振っている。一体船舶の運航に関しては殆ど鈴木の手で切盛されているようなもので、現に鈴木の小麦買占の時の如き、大半国際の船に積まれたものだ、鈴木の支那に買附けた食料品を欧洲へ輸送するにも重に国際を利用している。実に国際は鈴木と川崎造船所の別働隊のようなものだ。

虹のような気焔

松方は最近、世界安定の暗礁と外国眼にて視た我物価問題と題する小冊子を刊行して虹のような気を吐いている。その内には独逸賠償問題を世界経済の暗礁として掲げ欧洲経済政治策としての国際銀行案国際公債案を却け、彼の私案として『余は賠償問題及び対米債務問題の解決策として国際会議を開き、其協定により償金の造幣メーク、ゴールト、即ち金貨の単位価値の切下げによりて貨幣価値を二倍にする。換言すれば従来の一磅の金貨を二磅に通用せしめるのである』と鉄槌のような断案を下している。そしてゼノア会議でも此説を世界安定の一方法と決議し米国商務卿フーヴァー氏も同説であり、スタチスト誌も旧本位より低い金本位制を採用すべきだと同意見を述べているので、斯くして余の説が漸次共鳴者を得、実現せらるべきを信ずると、恰も世界の経世家が彼の説に翕然集まって来たように感じて威張っている。此安定案の是非は兎も角、自己の所信に対して忠実に驀進する彼独特の勇気には估うべき所が多い。

(七十七) 閥を作らんとする社外船系

鼻柱の強い経世家

 更に筆を転じて我国の物価問題に論及し、我物価を引下げるには消費を節約し生産品を多く生産するの二つより外に途なく、生産制限、操業短縮などは以ての外だと罵り、更に正貨を確保することは国威を発揚する必須条件だから、之れを減少する儘に放任してはならぬ、之れが為めに多少為替相場が下落することあっても意とするに足りないと断定し。最後に『我国の紡績業者の内には棉花の輸入の点のみより考えて金輸出解禁を要望し為替高によりて蒙る内国産業の創痍や金銀比価の変動による為替関係上の不利を論じているもの少い』と為替の補正作用や、原料輸入と製品輸出関係を述べて反覆説明し、金輸出解禁論者に一矢を酬いている。此の所論は謹んで紡績界の耆宿武藤山治君に呈するのだとも何とも書いていないが、金解禁論者が之れを聞いたら、定めて額に蚯蚓のような青筋を立てて奮激することであろう。要するに金解禁在外正貨払下共に尚早とするのが、彼の立論の根拠で、内地の物価高は必らずしも通貨の膨脹のみに起因していない、故に通貨を縮小すれば幾分か物価は下落するがこれが為めに高い金利を更に昂騰せしめて企業の基礎を脅かし、産業を萎縮せしめ其結果将来の物価を騰貴せしめる原因となるから、我国の如き現状では寧ろ金利の引下げと政府及公共団体の政費節約各人の消費節約と能率増進による生産費の低下によって物価の引下げを図るに外ないというのである彼れは飽迄負嵎の虎のように鼻柱強く反論あろうが無かろうが独断的にグングン議論を進めて行く所楽天家の本性を遺憾なく発揮しているから面白い。

明滅自在の合同

国際汽船を中心に船舶合同問題は一再ならず唱えられるが、いつも正体を現わさずに立消えとなっている。その第一は太刀川一派の提唱で大正九年頃から合同総本山野田大塊居士の意を迎えたもので郵船、商船、国際、三社を打って一丸とせんとした、太刀川は野田の合同論を担ぎ上げたパンフレットを両三回も優勝の大株主に配布したので、郵船などは大分脅かされ遂に総会には九州の大親分まで飛び出しアワヤ血の雨降らんとして摺った揉んだの揚句和田豊治外両三名の仲裁で結局郵船の内部に『船舶合同調査機関』を設立するとのことで漸く鳧がついたのだ、世に之を『郵船の御家騒動』という。一時は斯く騒動が持ち上ったものの太刀川の合同趣旨は積立金を崩して船舶を裸合同せよというのだから郵商の積立金狙いにあらずんば国際汽船救済案に過ぎない苟くも帝国航権の伸展策に触れること遠いというので識者の嗤を招くに止まったからモノにならなかった。

反古紙と船との交換は真平

第二はツイ此間浅野総一郎の提唱した国際、東洋、川崎汽船、明治海運、帝国汽船、勝田汽船等船舶百一万四千噸の社外船大合同論である。合同の目的は内国船相互の競争を避け、重複せる店費代理店費手数料を節約し集中的経営をやって雑費を切下げようというのだから表看板はなかなか立派だが、さて合同の実行方法となると国際以外の五十二万数千噸が国際に買収され国際は重量噸当三百十五円の割で船価を支払う代りに国際の新株を渡すので新株に対する銀行貸付額と提供船主の負債額の差は提供船主の責任とするというのだ、之れもまた国際及び東洋二社の救済策から編出された案で、誰がコンナ稚戯に類する手に乗るものがあろうか。大体国際の船価は一噸当三百十五円見当だが之と殆んど同額の負債を脊負っているので、船舶経営上には船価六百三十円の船を廻しているのと同様だ、経営に苦心惨憺たるものあるのが当然である、此国際の反古同様の新株と船主には大切な持船との交換は真平御免というに不思議がない。今度の合同を側面観察すれば各船主の対銀行関係を緩和するのが主たる目的で、銀行手形の書換に幾分金融の途を開き一方損失を一所に集めて負担を均分せんとする、それで尚いけなければ政府の低資を仰ぐ方便にするカラクリが見え透いているではないか。その後合同論が膿んだとも潰れたとも聞かないのは誰も真面目に受け入れない結果であろうがな。尤も船主が無理に承知せしめても、安田銀行が首を縦には振るまい。

(七十八) 閥を作らんとする社外船系

パンフレットで船員を口説く

海運界大不況の今日、国際汽船が繋船もせず曲りなりにも全量噸約五十万噸の所有船をドウにか運航して、容易に尻尾を現わさないのは同業者の驚異とする所だが、これは何といっても社長松方の猪突的勇猛心に負う所が少くない、七千噸乃至八千噸の船舶に対し、船員の数をウンと減して社船なら六十人以上乗せるべき所を三十六七人とし、その代りに給与や待遇をよくして能率のフルスピードを出さしめることを考えている、そして或は「海員諸子に対する余が感想と希望」とか「従業員諸子に告く」などのパンフレットを、川崎造船所の従業員と共に広く海員にも配布したり、或は船員の行動を警めてその自覚を促し凡ゆる手段を以て船員を督励するなどは人に見えない苦労をしている訳だ。松方は船員の待遇について次のような見解を持っている『一体労銀が高くなったからとてそれは日本の労働者の生活状態を見ないからだ、労銀は戦前の三倍になり物価も殆んど同様二倍乃至二倍半になったに相違ないが、それは戦前の賃銀をその儘標準とするからで、その戦前日本の労銀は英米国に比して比較にならぬ程低廉であったからである。労働者だって生活の向上を希望するに何の不思議はない』という御説一々御尤だ。それで松方が外国から帰朝早々川崎造船所の従業員に三百八十万円を分与する筈であった所四百五十万円をバラ撒いて、撒過した分は自腹を切るとまで高言した肚も忖度出来る。

傭船自慢の山下

社外船の仲間の中でも男一匹、海運界の大旋風が渦を巻いて船会社を呑込もうとしている際に、俺ばっかりは傭船で突張って見せるというのが、我山下亀三郎ぬしである。彼は殊勝気に「船会社の活躍するは正にこの時に在り」とばかり、今尚幾万噸の持船の外に傭船本位を曲げず、旺んに傭船を扱って或は北米に、或は濠洲に将た又南洋にトランプ船を配して、航路の範囲を比較的手広く求め、積極的に立廻っているのは実際である。ソシテ「正に此時に在る」のか無いのか素より分らないが、兎も角船を廻して法螺を吹続けて行けるんだから兎に角、社外船中の一異彩に違いない。

樽木事件の失敗が儲けもの

船で成功した山下亀三郎も、今より十六七年前即ち日露戦後「樽木事件」に引かかり、大味噌をなすりつけたことがある。樽木事件とは小樽木材会社の破綻を指すので同会社は木材の海外輸出大思惑の目算、ガラリと外れ此の会社に関係していた山下の痛手も軽からず、金融ハタと止まって二進も三進も行けなくなったが、男子坐らにして死を待つべきでない、死中に活を求めるのが其本領だと自ら励まして、少しはあった臍繰金を綺麗薩張投出して第一銀行の債務を払い、一夜その頭取渋沢翁の門をハタハタと叩いたものだ。東西南北孰れから見ても正真正銘の裸一貫、ソコを渋沢に認めしめて一策を講ずるという段取りだ。
 こうして私の自由になる竈の灰まで取られた亀三郎、再び世に出でる望みも絶えました、これが今世の御判れになるかも知れませぬ
と手を突いた。縁側の方で秋の夜の虫が喞々と啼くに調子を合せて暗涙そぞろに留め敢えずという見得が頗る真に迫ったという。コレを翁は世に所謂赤誠なるもの之なんめりと感に堪え
 諾、君が今死ぬ覚悟までするなら、不肖渋沢は生れ変った山下亀三郎に一瞥の力を貸してやろう
と大きく出られたので、山下は遂に死中に活を求めるに至った、第一銀行と山下との腐れ縁は、丸裸と暗涙と而して喞々の虫声によって糖分離るべからざるものとなったのである。

船舶代金の延払

生れ変った山下は、石炭商を初め一面木材を取扱ってコツコツ働いていたが、当時名古屋で台湾の塩専売をやっていた小栗商店から、其所有船豊臣丸を極めて低廉で手に入れた、更に四十三年大阪商船から彰化丸を四万円で買ったが、金がないので現商船の東洋課長野村治一郎に泣付いて約手で代金を取って貰う便宜を得た。之は至誠を誓ったものの為す事ではない。而して山下の子飼の郎党林武吉郎鋳谷正輔、玉井周吉なんどに対し月給を手形で渡したのも此時であった。併し此二隻購入が将来山下の船成金として功を遂げた淵源であるから世の中は判らぬものじゃないか。

商船に弓引かぬ

その後日本汽船の株を大半買収して乗取った資金は皆此豊臣丸彰化丸二隻が生み出したもので、ソロソロ懐ろが膨み出し、之れまで石炭商で横浜を根城にしていたものが船屋を兼営するに及んで神戸に支店を設けるという鼻息、尚更に越中の中越汽船が沈みかけているので之が代理店となってその実全部の船を引取り運航を自由にする迄に至った、之が明治四十五年の頃である。此日本汽船乗取り、中越汽船抱き込み等は、何れも商船の野村の智慧が入っているので、山下は今尚此旧恩を忘れず、野村に対して商船の方に足を向けて寝ませんとまで述懐したそうな。これが基で野村を自社に聘せんとしたが野村も然るもの決して応じなかったからその儘となっている。

(七十九) 閥を作らんとする社外船系

人に先んじて踊る

欧洲戦争中に於る山下汽船の活躍は相当目覚ましいものがあった。その活躍は単に船を外国航路に振向けたというのでない、彼は逓信省の諒解を得て倫敦、濠洲、米国印度、新嘉坡方面へ仲間の手の触れていない先に逸早く人を覇権して配船の思惑を断行し、その思惑がどれもこれも当ったことにある。濠洲航路に割込んで定期配船を声明した時は、同航路同盟の郵、商、東濠汽船から睨まれ随分苦境に陥ったが、南洋方面では南洋印度間のベンガル線或は南洋欧洲間に不定期船を配して、本邦社外船の気を吐いたこともある。後北米濠洲に不定期航路の新航路を開始したり南洋航路に割込んだり、近く台湾航路に定期船を配して砂糖積取で郵、商、三井の仲間入をした。台湾航路では先年砂糖積取についてコッソリ精糖会社と結託して同盟側より安運賃で砂糖の内地輸送の任に当ることとなり、同盟側の鼻をマンマを明かし、精糖会社と同盟側とに砂糖積取数量の割当について一捫着起さしたこともあった。その時商船の野村は山下を捉えて「商船に弓引かぬといった舌の根を乾かぬ内に、座頭に煮湯を呑ます如き仕打は怪しからぬ」と憤慨に及ぶと、山下は「それはソノ店の者がソノ……ムニャムニャ」と言葉を濁す外はなかったという、ソレはそうだろう、その結果同盟側と山下との間に妥協成立して、山下は同盟に難なくズルズルと辷り込んで終った。山下が基隆ハイフン間に台湾総督府の受命船を配するようになったのはそれより以後のことである。

渋沢翁の眷顧

先年英国炭鉱夫の大ストライキが始って英炭の輸出禁止となり、中欧は勿論新嘉坡方面まで英炭の影を潜めた時に、邦炭が代って新嘉坡方面まで侵蝕して行ったが、その当時山下は逸早く九州炭の輸送の任に当ったものだ、兎も角山下汽船は戦後においても大したボロも出さず、郵船や商船の大敵を向うに廻して奇利を博せんことにのみ努めているようだが、献身的の奮闘は聊か見るべきものがないでもない。此奮闘の糧を与えているものは第一銀行であり、渋沢は山下の陰になり陽になり山下の面倒を見ていたからで、現に山下は第一銀行に対し五千万円の借金を有し三千万円の預金を持っているそうなが、此借金や預金が何程あろうと問題でなく、渋沢と山下との関係は切っても切れないのだ。

同郷の誼から郵船へ色眼

喉もと過ぐれば熱さを忘るという譬の如く、大体山下汽船はその経営において昨今商船を目の上の敵とし、郵船に好意を寄せていることが多くなって行くように見るのは満更僻目でもないようだ。此点について山下汽船の畑専務は弁疏して「それは商船が郵船に比し近海に固い地盤を有しているので、山下汽船と航路を同じくし利害一致しない場合多い、例えば台湾、青島、朝鮮、北米等皆それ然らざるはないのだから」と然し商船側に云わせると、山下の信条とする例の「立寄らば大木の影」の事大思想から来ているのだそうな。さなくとも山下と郵船新社長の伊東米治郎とは、木綿絣と盆踊で名高い伊予の産だもの、名門と権勢を抱え込むに妙を得ている亀さんが、此同郷の誼みという誂え向きのよい斯う実を何条見逃そうやだ。商船の方へは足を向けて寝ませんといったのは時に取っての方便だ、山下はコンナ事位気に懸けない男である。

模範的政商の徒

山下は深い学識あるでなく透明な頭脳の持ち主というでないが、天稟の愛嬌は一種人を魅了するものがあるそうだ。彼は此特有の性質を極度に発揮して権門に近づくことを怠らない。先ず渋沢翁をホロリと参らせて第一銀行と悪縁を結んだことは前述の通り。或は自分の大磯の別荘を寺内正毅や、山県有朋に貸して閥族の棟梁に渡りをつけ多摩川の鮎狩に名を藉りて田中義一大将の意を迎えたり、中橋前文相の帰阪毎に奉伺して自分の忰の嫁の周旋を頼んだり、近くは台湾総督府に出入して大粒の御役人衆の鼻毛を読んだり、世に権門と呼び名閥と唱えられる誰彼に媚を売ることにかけてはナカナカ抜け目がない所純然たる模範的政商の徒である。だが政商にしても比較的尻の穴の大きく、思い切って彼の所信に猛進する所に彼の面目即ち図々しさが躍如としている。

(八十) 閥を作らんとする社外船系

「泥御前」の尊厳

世間では彼のニックネームを「山亀」と呼んでいるが同業者の仲間では「泥亀」で通っている。更に花柳界では「泥御前」の尊称を奉っているが、その語源の研究は彼の尊厳を冒涜することを慮って秘して置く。しかし新橋あたりの阿嬌をズラリ並べて盃を重ねる傲奢振りを想像すれば、泥御前の尊称は皮肉ながら当っている。ソレは兎も角此泥亀先生の股肱と信頼するものは、豊臣丸時代から傍を離れぬ前記林(現監査役)鋳谷(東京本店専務取締役)玉井(同常務)の外に、専ら神戸支店を預っている畑茂がある。畑は谷道商店の番頭であったが、中越汽船が山下の手に帰すると同時に、谷道商店で中越汽船を取扱っていた関係から山下の傘下に馳せ来り今尚忠勤を抽んでている。之等の面々の外に船舶部長取締役白城貞一は畑の下で船舶運用の采配を振っている。戦時中社員に百箇月の手当を与え腰弁共の羨望の的となり、社員を他社からグングン引抜いた当時である。逓信省電気局長松木幹一郎を聘して総理の地位を与えたので此不意の闖入者と子飼の郎党間に軋轢があったこともあり、その後松木は去り、又泥亀も元の歩に復したから平穏に帰した。亀さんも此時ばかりは「女房には添うて見よ」の箴をツクヅク味うたことであろう泥御前の尊厳は之等の面々によって支えられている。

泥御前の鬼門

泥御前の尊厳挟斜の巷に鳴響いて阿娜者の追従ソレからソレへと絶える間がないというのに、之はまた何うして、追従どころか首根っこを抑えつけて尊厳を踏躪り得る女がタッタ一人ある。東京岡本旅館の女将がそれで、逢えば忽ち柳眉を逆立てて面罵する、面罵されても泥御大は一言半句の御返答が出来ないのだ、子爵渋沢をホロリとさせた腕前は岡本女将の前に何等の効力を発揮し得ないと見える。ソレも其筈、女将の姪に界隈評判の美人があって、□かんずる風情の転た掬すべきあるを喜び、泥御前懸命の口説よろしくあって、珍なるかな濡れごとに成功遊ばしたそうな。傭船主義の発展が美人に及んだのだから徹底しているが、船主に無断の傭船は、あるべからざることだ。かるが故に船主岡本が強硬に噛みつく所以であって、泥御大は岡本のおの字が耳に入っても「桑原々々」と恐れをなすという。慎しむべきは色である。

資本と運用船

山下は大正六年五月、石炭と船舶とを分離して、資本金各一千万円の山下鉱業と山下汽船の二社に分け、大正六年汽船会社を二千万円に増資したが、戦後の不況に期する所あったのか十一年三月両社を合併して資本金三千万円の山下汽船鉱業会社を創立して今日に及んでいる。社外船中にあって所有船重量噸九万五千噸といえば、相当大船主の部に属する方だが、更に同社は傭船を所有船の如く自由自在に運用するを以て眼色毛色が変っている。本年は多少減少しているが昨年八九月は管理船四万噸、傭船十二万噸、扱船十五万噸、合計三十一万噸、所有船を加えると運用船重量噸四十万噸以上に及んでいるから目立っている。

プールの大芝居

目下神戸方面から捲き起った運賃プール制の問題は国際汽船山下汽船などが火元である。多数の船舶を傭船したり、多数の瀬ぱくを持ち捲ぐんでいる国際が運賃傭船料の騰貴を歓迎することは当然の話。此プールの大芝居はマンマと当って山下や国際の思う壺に箝まり、海運界は二箇月以前より見違える程の好況となった。北海道樺太方面の荷主は積取契約木材の出廻ってくると共にまだ多数の積取無契約の木材を包擁しているので狼狽し初め、結局荷主間に協定を拵えて船会社にブチ当らんとしているがどうやらその効も薄く、運賃は昂騰して北海木材二百三十円、大連豆粕二十三銭のプール呼び値に接近し傭船料は大型でも二円五十銭と飛び上って荷主は不本意ながら引摺られている。人為的釣上策は何日まで続くかとプール団の前途を悲観するものもあるが、プール団の一当事者は
 北海木材などの貨物は何ぼでも転がっているんだから、船主が慌てて抱き込みにさえ行かなければ運賃なども至当の処で落付くものだ、船会社だからとて運航費を償うまでの算盤を立てて運賃を頂戴しても不当ではあるまい、昨今の運賃の騰貴は人為でも何でもない。

(八十一) 閥を作らんとする社外船系

石橋を叩く辰馬

浮沈常なき社外船中にあって飽迄健実な営業方針を家憲とし、一歩は一歩より地盤を固めて行くものに辰馬汽船がある。社長吉右衛門は西の宮で銘酒「白鹿」を醸造する大酒造家で今では酒屋が本職か汽船屋が副業か孰れが孰れやら見境付かぬ有様だが此造酒家が船に手を染めた動機は一ヶ年何千石という酒を、東京方面へ積出すに船舶運賃が高く掛りソレだけ儲けが薄くなるので、コンナことなら一層自分の持船でとの思い付きに端を発しているのだ、随って肚からの船主ではない。だから自分の手で船を運航するのでなく、殆んど他へ傭船して握り睾丸で傭船料だけをセシめるのだから、これほどボロい商売はない。由来丸持の船主は乾でも岸本でも皆この手で、此連中には働らいて焦り貧乏する奴の気が知れぬといった顔。

同姓が取持つ縁で船を買う

吉右衛門は幸運な男で、四十三年頃日露戦後の財界大不況時に、同姓が取り持つ縁となったのか鳴尾の辰馬半右衛門から、船舶五隻を神戸の船舶ブローカー佐藤勇太郎を通じて、三十万円で全部買受けたのが、彼の海運業に乗出す発端である。鳴尾の半右衛門は銘酒「東自慢」の醸造元で旧家だが、持船を売る程だから当時懐ろが豊かな筈はなく、阪神電鉄の株を買占めたり、或は酒造米の買付から堂島の米相場の味を覚え、米に手を出したりなどしている内に戦後の財界不況で米も株も大瓦落となり大分痛棒を喰わされた。それでも伝来の田畑など相当あり之れで今尚社外船の一隅に踏み堪えている一方船を買った吉右衛門は日独戦争の開始により之等の古船が相当値が吹いたので、全部を手離すと同時に新たに新造船六万噸を安値で購入した。之れが戦時中傭船料五十円に飛び上ったのだから、嫌でも懐ろが膨らんだ訳である。台湾銀行の借金など今ではスッカリ皆済となっている。半右衛門は吉右衛門の此成功を指を啣えて見ていねばならぬ悪い役廻りを仰せ付ったものだ。

爪に火を点した八馬

姓に馬の字が冠り、同じく西の宮で酒屋に縁を有し、船会社を片手間でやっているものに八馬汽船社長八馬兼介がある。八馬の当主兼介は三十台の若蔵だが先々代の祖父が偉かった。酒屋の出入で米の運搬する牛馬児から身を起し、小銭を蓄めて水車を持ち、傍ら帆船から汽船に変って一隻より多く持つようになったのだが勿論爪に火を点ずる程の節約振で、今日の富を拵えた。兼介はただその財宝を護衛する為めに生れたに過ぎない。従って欧洲の大戦中でも新らしい思惑などやろうとの野心は薬にしたくもないから、依然古船をあやなしているばかりだった。反面から見れば戦時中世間の奴輩が素手々古舞を踊っているのに、彼ひとり泰然自若と構えていたのはチョット真似の出来ぬ芸当だったというものもある

馬の字の由来

辰馬、八馬、何でも西の宮を中心として馬の字のつく姓の多いことは事実である。一説によると馬字のつく姓の祖先は、神馬の手綱持ちをやったからだという。あの有名な摂津西宮の戎祭りの、渡御に列する神馬の手綱をば、ハイハイドウドウと曳いた人の後裔が現代の馬字冠姓氏であるというのだ、之は素より筆者の知る処ではないが、そういえば西宮地方に馬の字の姓が少くない。就中八馬ならぬ六馬という姓などは頗る妙だ、六馬は酒屋でもない船屋でもない鼻下長の鼻毛を数える遊女屋だから此間幾分密接な関係がないでもないという位である。

隠然重きをなす

吉右衛門は寄る年波と共に業務の全権を殆んど常務取締役の四井喜一郎に委ねているが、その四井は辰馬で丁稚から叩き上げ、吉右衛門の薫陶を受けて温厚寡言、推されて海事委員会委員及び船主協会理事となり、三井船舶部長川村貞次郎と共に社外船系においても隠然重きをなしている。辰馬の所有船総噸数十四隻六万噸に上っているが、そんじょそこらの船主のように船に債権の縄がかかって、運賃が右から左へ利息に吸い上げられるような惨めなものは一隻も持っていない。だから経営は極めて呑気なものだ、尤も昨年頃には他へ傭船しようにも借り手なく、借り手あっても傭船料が滅法廉いので痩我慢に手慣れぬ自営をやって運賃の廉い上に荷主の払いが悪くて手痛き目に遇い、今では殆んど元の傭船方針に舞い戻っている。

(八十二) 閥を作らんとする社外船系

大渦巻を起した辰丸抑留事件

辰馬汽船で想起するのは第二辰丸抑留事件で、この事実は本文の主人公吉左衛門の持主時代でなく、前持主半左衛門当時のことだが、兎も角日本と清国との間に、高が一汽船会社の船舶争議から日本帝国の外交問題に転換し、アワヤ戦争の導火線となるのではないかとまで危ぶまれる程の大渦巻を描いたのだから、此所に掲げる必要がある。しかも第二辰丸の抑留は程なく釈放されたが釈放されないのは日清間に築かれた感情の疎隔で、支那における現今の国恥記念日だの日貨排斥だのと今尚騒いでいるのも、源を探ればこの辰丸事件がその幾分を構成しているのだから決して無意味ではない。

突然抑留命令

維持明治四十一年大阪安宅商会扱い、栗谷品三出荷の弾薬四十箱(四万発)モーゼル銃九十四箱(千五百挺)を、受荷主澳門港清商広和号に引渡すべく第二辰丸が大阪を出帆したのは一月下旬のことだ。同船は二月五日澳門港に投錨したが、突然清国政府は有無を云わせず同船を抑留してしまった。問題は之より大きくなる。此抑留の原因はこうである。日本在留の支那商人が巷間の浮説を信じて、辰丸積載の軍用品は南清革命党に属する暴徒に売渡すものだと云って、其筋に打電したから、清国政府は驚いて直ちに両広総督張人駿に此旨を急電したので、総督は事実の真相をも究めず、之れ亦広東水師提督隆鎮泳代理除振鵬に抑留命令を発した事に初まる。

砲艦四隻で包囲

抑も澳門及其附近は千八百八十七年三月リスボン議定書第二条によってポルトガルの占領統治に委したもので、同船の投錨地点は清国領ではないから、清国官憲の管轄区域外に属している。且つ同船の該貨物輸出については既に神戸税関の輸出免状を有し、澳門政庁からの輸入許可証も握っているので法規上手続に□然する所がない訳である。それにも拘らず清国政府が砲艦四隻を以て辰丸を包囲し兵士を随えて同船に臨み、船員の拒否するのも聞かずに檣頭に掲げた日章旗を撤去せしめて無法にも携え来った黄竜旗を之れに代えたのである。そればかりか船長に直ちに広東に廻航する命を与えた、照峰船長は其不法を詰り、其命に服する理由なきことを抗弁したが、血に迷える官憲はこの陳弁に耳を藉さばこそ、命に背けば只一撃と青竜刀を擬するので武装なき同船は涙を呑んで広東に廻航した。しかし素より船員の上陸を許されないのみならず其取扱はさながら捕拏船に異ならない。

軍艦和泉を急派

サア事だ。日本の新聞は筆を揃えて清国政府の暴挙を憤激し、我政府の腰抜け外交を攻撃したので、輿論は沸騰した、そこで我政府もジッとしていられず、林北京公使、上野広東領事に訓電を発して真相を明かにすると共に、軍艦和泉を支那に急航して、清国政府の正式の謝罪を迫った。風雲漸く急となる。

怨を呑んで南清の露

謝罪の条項は左の如し

一、汽船第二辰丸を釈放すること
一、同船抑留による損害を賠償すること
一、責任ある官吏を処罰すること
一、日本旗引卸の官吏を厳罰すること
一、国際法により謝罪すること

かく極めて平穏正当な要求であるに拘らず、清国政府は瓢箪鯰で更に要領を得なかった。当時上海の英字新聞などはこれ日本が私設汽船の抑留に藉口して日頃磨いている刃を向け野心を逞うするに相違ないなどと毒づいたものだ。しかし再三の強硬談判に、当時清国直隷省の総督で軍規大臣であった袁世凱も遂に我を折り、我政府の要求を殆ど異議なく容るることとなり茲に一段落がついた、それで第二辰丸も漸く青天白日の身となったが、乗組船員等は抑留四十二日間恰も海上の牢獄の如き生活を続け照峰船長は悲憤と倦怠のあまり急性肺炎に壊われ、遂に万斛の憾を呑んで南清の露と消えた。彼こそ辰丸事件の第一犠牲者であった。

日貨排斥の遠因

辰丸事件は事済みとなったが、当時支那実業家の間には日本の要求を過当のものと穿き違い、爾今陸軍教官は日本より傭わない事、日貨を排斥する事等の決議をなし、之が為我南清貿易に一時多大の悪影響を及ぼして、遂には南清で利権回収などの声を聞くに及んだ。支那に於る日貨排斥は此時代より甚しくなり、運動の形式を益々具体化せしむるに至ったのである。

(八十三) 閥を作らんとする社外船系

内田と勝田の相撲

内田汽船の内田信也と勝田汽船の勝田銀次郎とは其性情が全然相反してはいるものの其癖霊犀一点の相通ずるものがあると見え、十年の交游を変えていない。内田は極めてスマートで其仕事振が却々派手好きだ。彼が三井船舶部に就職して神戸に赴任した其夜、学校出たてのホヤホヤの小僧の癖に、堂々と常盤花壇に御腰を降ろして同僚を驚かした一事を以ても大抵判る。しかし彼の利刀の如き理性に禍されるのであろう、何うも情誼が薄い。ソシテ人に対する約束事なんかは遊女の手管ほどにしか考えていないようだ、従って掌を翻す如き言動も平気でやって退けるから、世間の信望が厚かろう筈がない。之れに比して勝田は世の中の酸いも甘いも噛み別けているセイか性情敦厚という方で内田程信義を軽蔑しないようだ、ソシテ一旦いい出したら後へは引かない性らしい。嘗て日本汽船から汽船六隻引取につき破約し得る条件が十分具備していたに拘らず、ウンと呑み込んだ抔は認めてやっていいこれが為めか眼先の早い内田は船価の暴落せぬ先に持船を綺麗サッパリ売り抜けて世間で見る眼より懐合が豊かであり、勝田は船を意地穢なく持って逃げそこね貧乏の上塗りをやっているから好い対照である。

ヤマ気の分量が多い

 誰でもあるものだが、内田の山気は人に優れて分量が多いから愛嬌である。彼は三井船舶部の川村貞二郎の下に居て漸く係長の椅子を贏ち得るや此ヤマ気がムクムク頭を擡げ、当時船鳶の勝田や上西亀之助の手合とコッソリ手を組んで船のブローカーを初め鞘取りをやったり、遂には共有の船を持ったりなどしていたことが、だんだん露顕に及んで部長川村の耳にも入り、社内の風紀問題が喧しくなって来たので内田は居たまらず、トウトウ三井を飛び出して独立したブローカー屋になり済ました、これが船で成功した基である。律気者で、甲斐性なく、そして勤勉な同僚は今尚窮屈な腰弁生活を続けているのに、怠け者で、法螺吹きで、風紀を紊した内田が一朝風雲に乗じて、肩で風切る分限者となったのだから、人生何が幸福となるか知れたものでない。

金が渦を巻いて入り込む

 内田及勝田の黄金時代は大正七八年頃船価一千円を唱えた当時のことで、「船成金」の名を擅にした彼等は例によって酒と女と住宅に金を投ずる凡俗の域を脱し得なかった。前者は須磨へ、後者は塩屋へそれぞれ庭石の一つに幾万円かを投ずる如き、金に飽かした邸宅を築き、伊東傅ネムの銅御殿の向うを張ったものだ。そうだろう内田と勝田とはその当時門戸を開けたら毎朝五万円の金が渦を巻いて唸り込んだという勢であった。

黄金時代の神戸

 尤も内田と勝田とがコンナ豪奢を極めたからとて必らずしも彼のみを攻める訳に参らぬ。其当時の神戸と云えば御話にならぬ程箍が緩んでいたのだから。回漕問屋の註文取の足袋のコハゼが金であったり、洋服のネクタイ止めがダイヤモンド入りとなり船屋鳶が一等寝台にフンゾリ返りそして「今日申込んだので上の棚しかなかった」などと不足面するのだから当時の風儀は大抵想像がつく。内田が一夜の宴会に御客一人当百円以上を投げ出したと謂えば肝の小さい連中は腰を抜かすだろうが、それは其席に侍る芸者共に別誂の縮緬の衣装を着せそして御客の焼き物にダイヤの帯止めや襟飾りを附けたからだが、箆棒な真似をやったものだ。

とりどりの術策

黄金慾を満し得た内田は進んで第二の権勢慾を満たさんことに腐心し、先ずその手初めにその頃時めく政友会総裁故原白頭翁の門を叩いて彼の誉顧を金で購わんとした。更に憲政会総裁子爵加藤高明にも渡りをつけた、其他政友会の横田千之助、広岡宇一郎や憲政会の関和知などはいずれも江木翼が内田汽船の法律顧問であった関係から手蔓を求めて兎も角「神戸の内田」の存在を之等大小陣笠連中に知らしめることを怠らなかった。その結果有名な珍品問題まで惹起したのだが、それは後述するとして、兎も角彼れが之等の大頭株の知遇を得るために巨万の金を政党にバラ撒いたことは世間周知の事実である。此辺泥亀先生の道行きと類似しているが同じ権勢に媚いるにしても亀さんは愛嬌を唯一の武器として対手を円め込み、内田は御馳走政略を六韜三略とするが更に大なる利権を得んとすることは同様だ。内田の相棒勝田も国民党に五万金を贈与したとの事だが、これは犬養が政戦三十年の苦節を守り、今尚少数党に凝り固まっている彼の政治的境遇に同情の涙を濺ぎ、無条件で国民党員の選挙費に投げ出したのだ。選ぶに事を欠いて貧乏政党を選ぶなんかは勝田の肚に贈与に対する無形の報酬などテンデ考えていないことが判る。尤も勝田は之れによって世間の同情を身に蒐める魂胆があったのかも知れない。

(八十四) 閥を作らんとする社外船系

原に血道を上ぐ

内田が之等政党の領袖株に会った時の感想につき昵懇者に述懐して曰く
 憲政会の加藤子は会うと早々苦虫を噛み潰したような顔付で、「平民が何をしに来た」といわぬばかりの尊大振に接して、すぐさまムラムラと反感を起させるに反し、政友会の原白頭翁はアノ童顔に笑を湛えて十年の知己に出逢ったような態度にスッカリ惚れ込んで終った
と内田はこぼして原白頭に●縁を結び、遂には政友会の為めに血道を上げてノボせたのである。蓋し一面から観れば内田は江木翼との関係上当然憲政会に牽附けられねばならぬ義理合であるに拘らず、却って政敵の政友会に靡いたのは素より白頭居士の如才なさにも因ろうが、モット適切な理由は利権獲得に最も都合よい多数党の牽引力によったものではないか。彼は初めから政権に縁の遠い国民党ナンかには一瞥だもくれなかったのである。

児戯に類する茶番狂言

三井の腰弁先生が一躍俄分限者になった彼の鼻息ッたら噴火山の焔ほどの勢でとても寄つき得なかった。原や加藤は常に同列の友達扱にし、横田千之助などは「横田」「横田」と口癖のように呼び捨てにしていた、恩誼を受けた川村貞二郎や堀啓次郎の先輩に対して「君」扱いにしていたのはよくよく尊敬を払っていた部であろう。三井物産当時の同僚や先輩を一時盛んに引続いて自社に入れたが、六十割の配当をしたり、五十万円の資本金を一躍一千万円に増資するほどの人並勝れた見得坊で、燃ゆるような衒気に駆られる内田だもの、其同僚や先輩に、駅まで御出迎を命じ、プラットホームで社員一同とともに整列せしめ、最敬礼の裏を恰も凱旋将軍のように意気揚々と帰邸する如き剛宕振を気取ることなんかオ茶の子サイサイだ。しかしその豪宕振を見せ附けられる先輩や同僚は好い面の皮で「糞面白くもねえ」との反感を抱くにこれまた何の不思議もない、一時百箇月に近い手当に眩惑し、内田の頤使に甘んじようとした面々も居堪らず殆んど尻に帆かけて逃げ出した。取残された現相談役窪田四郎、高木陸郎などは内田の児戯に類する茶番狂言を虫を殺して我慢し切った連中である。

寄附をする心

内田は何れの方面にも活躍し奉加帳に喜□したことも少くない。母校の東京高商にも講堂の建設費として約二十万金を投げ出した。それは彼の信仰心から発足しているのか見得坊から来ているのか知ったことでない。孰れにして善事には相違ないが、しかし断って置く、その寄附金は彼のその当時儲けた富の程度から考えたら鼻糞みたようなものだ。更に内田汽船が戦時中連合国軍事策応の実を挙げる為め米国政府へ邦船十五万噸を提供する時に内田は郵船商船の驥尾に附して所有船愛国丸を第一船として提供したことや、日本の西伯利出兵に際して大正丸を御用船として軍隊輸送の任務に服したなどは、いずれも多少の犠牲に相違ないがこれとて無意義に終ったのでなく、この自家広告によって何程の無形の収得をしたか判らない。彼の敏感な理智は斯くの如き天下の晴舞台に率先して飛出したくなり、例の豪宕を見せびらかすことを怠らない。彼は性来非常に算盤高く、金銭には至って意地穢ないとの事であるが今に至って「カミコ」にならないのは穢い意地の賜である

網に掛った椋鳥

好運の附き纏っていた内田は欧戦の終熄する一ヶ年前所有船第二福井丸を噸五十円で六年間仏国政府へ傭船に応じた、コレが我傭船界の最高のレコードである。内田にしてはよい椋鳥が引かかったものだ。一ヶ年を経過したところ、我国の船価はドカ下りに下って、今度は売価を噸当五十円という値に辷ったのであるが、契約によって仏国政府からは毎月噸五十円の割で傭船料を送って来たのだから、毎月四十万円宛ほどは全く濡れ手に粟の攫み取りという寸法であった。しかもその第二福井丸は期限到来して漸く帰路に就いたが太平洋の中央で幸か不幸か沈没したが乗組船員は皆救助された。沈没したといい条噸五十円の海上保険が附いていたので、船主の腹は少しも痛まず、結局今日までの傭船料は儲け得となった始末で、此船ばかりは身を殺して主人の為めに忠勤を抽んでたのである。

拝金宗の信者

彼れは飽まで拝金宗に凝り固まり黄金の前に刃向う何物もないとの厚い信念を懐いていた。その黄金の自由になる彼の意思に従わぬものは叡山の坊主と加茂川の水だ位の自惚があったかも知れない、宜なる哉一昨年彼れが令兄母堂と共に東海道線で列車の大衝突に出喰わし、寝台と荷物の間に挟まり令兄は卒去し、母堂は大怪我して彼れも亦生死の境に身を置かれた時彼は夢中に「俺は神戸の内田だ、金はいくらでもやるから俺を救うてくれ」と絶叫していたそうだ。人に死なんとする其声や悲し、彼が今死神の手に掻浚われんとする時にも尚黄金の力を信じているなどは彼の平素の身嗜身も窺われるもので、彼の面目が躍如としているではないか。

(八十五) 閥を作らんとする社外船系

恋の勝利者の悲哀

内田が三井にゴロゴロしている頃だ、彼は今よりも若く今よりも元気でソシテ今程銭を持っていなかった時だ。紅灯緑酒の間に淡い恋の対照物として映ったのが、当時情界に匹儔なしと謳われた神戸中検の阿嬌梅之助である。彼女が内田の魂を捉えたのは楚々たる風情でなくて、綿々たる彼女の情恨であったという。彼は日毎夜毎現を脱かして遊び廻り、お定まりの借財に悩んで、屡ブローカー仲間の勝田、上西、谷道なんどに軍資金の調達を頼んだのも其頃のことである。然しながら内田も決して馬鹿ではない、いつまで斯うして果てしない遊を続けて行けるものじゃないということに気がついた。そして、一層のこと根曳して其愛を独占することに決めたが、一番先に困ったのは、玄人を其儘正妻に納めることに対する世間の批判であった、ソコで当時花柳界の大立物であった加福力太郎(商船副社長)末永一三(北日本汽船社長)の分別を借りに行ったところが、ソコは粋人同士のことだ。早速梅之助が加福の養女となり末永が月下氷人ということに決まって正々堂々の輿入れが目出度く終ったのであった。彼の恋は爾かく真面目で爾かく徹底的であった、が、好事魔多しとやらで、伉儷幾年も経たない中に令夫人は宿婀に悩む身となって、今尚熱海の別墅に●弱の嘆を喞っている。人は「果報負けしやはったのだ」という、ソレは判らない、兎に角果敢ない恋の終局ではある。

思い切りが無形の身上

欧洲大戦が我国に投げ与えた景気もソロソロ危くなり、遂には財界の空に暗雲の徂徠を見るに至ったのだから、上っ調子の船主等は腰を抜かさんばかりに驚いたが、ひとり内田は沈思熟慮、今後の対策につき業務緊縮、整理節約の大方針を心に描き、それによってグングン押し進んだ。眼先の早い彼が「モウ駄目だ」と睨んだら思い切りのよいのが彼の唯一の身上である。此無形の身上がある為めに有形の身上も残し得たのだ。彼の最高借金は二千数百万円だというがその借財を弁済する為めに朝日海上保険会社、明治海運会社の万以上の所有株を全部売り放ち、東洋製鉄、国際汽船の株も千株を残して其他は松方幸次郎氏に引渡し更に自分の経営していた横浜造船所には約七百万円をつぎ込んだが、これも百五十万か二百万円程度で大阪鉄工所に売却した。その他船舶は大鵬丸、大海丸の大型船を初め手当り次第に売り飛ばし、其額船十万噸、株二十万株に及んでいるが之によって曩の借財をカバーして尚二三百万円を剰し得ているかかる思い切った芸当は内田にして初めて断行し得るものであろう

台銀と相住い

ソレだけじゃない。彼は中町の堂々たる内田汽船事務所の階下を台湾銀行に貸し、自分は二階の隅っこで事務を取っているが、これも人に先んじて断行している。船成金簇出当時は社外船が海岸通り辺へ庇を並べて高層な事務所を建築したが、船を売って事務が閑散となると、伽藍堂のような大きな建物が不用だ、といって之を人に貸すのは如何にも体裁が悪いとて躊躇するものが多い時分だったから、内田の此貸間方針を冷やかに見たものも多かった。上西亀之助や、菊地吉蔵なども其連中である。ソンナ非難に頓着もない所に彼の機敏さが現われている。

小気味よい皮肉

世間では内田を以て「船成金凋落物語」の第一頁を飾る資格のあるもののようにいうが、決して然うではない。須磨御殿を小曾根喜一郎に譲渡したのも其売値六十万円と云い触されているが、事実は百万円で売った如才のない内田のことだもの、資産の全部を挙げて堅実な満鉄の社債に乗換え何喰わぬ顔で、口に貧乏を標榜している位の世間体を償うことは却って小気味良い皮肉である。若し果して彼のいう程の貧乏世帯ならば毎月数千円を投じて新橋の常盤津の名取を何とかする余裕があろう道理がないじゃないか。

波紋を描いた満洲丸事件

内田所有船満洲丸(九千噸級)の満鉄会社売却事件は当時政友会内閣の議会において時ならぬ大波紋を描いたものだ。事の発端は憲政会代議士で同じ神戸の社外船である橋本喜造が議会において満洲丸の売値が不当の高値たることを政府攻撃の道具に使ったことに初まる。実際満洲丸の売値は噸当三百円だったが、その売却契約の纏まった大正九年一月頃は船価の足取りが奈落の底へ落ち込む最中であった。内田が八年十月に満洲丸と同型同噸級のハンブルク丸を大阪商船に譲渡したのは噸当二百五十円であったに拘らず、それから二三箇月も後れて満鉄に売った満洲丸がハンブルク丸より五十円も高い理由がないというのが、その骨子であったと記憶する。

(八十六) 閥を作らんとする社外船系

輿論の力に押さる

聞けば、満洲丸の身請け一条には内田信也が窮状を訴えて当時の宰相原白頭に泣きを入れたものだ、その橋渡しに三浦観樹将軍まで登場役者に引摺り込んだのだから堪らぬ。原首相も遂に動いて密着を満鉄社長に送った結果、マンマと身請けの相談が整ったということだ。売値の幾割かが政友会の党費に奉納されたのか、されなかったのか、夫は筆者も保証し難い。この内証事がパッと明るみへ曝け出されたのだから、政友会も満鉄も乃至内田信也もドキマギした。独り剛愎の原白頭は一商事会社と私人との商行為を天下の宰相が与り知らぬで押し切ったものだ。しかし押し切れぬのは輿論の力である。

司法権の発動

輿論の力で遂に此問題は司法権の発動となり売価の正当なりや否やで上西汽船社長上西亀之助や商船神戸支店長島村幡彦其他多数の証人が入替り立替り裁判所に喚問されたものだ。上西は東京の滝川検事の訊問に答えて
 船舶に限らず価格などは売手と買手の慾望の程度如何によって大に異なるもので、その慾望が買手に強ければ高く、売手に強ければ低くなる。満洲丸の噸三百円は多少世間並より高いようだが、これとて売買当事者の腹の内を忖度出来ない以上高いとは断定出来ぬ。既に九年一月郵船が浦賀船渠に註文した二隻は噸三百円であったと記憶します
と上西にしては上出来の証言をしたのだ。其後原首相の差金かどうか此問題もトウトウ不起訴となって終った。何ぞ知らん満鉄が船舶購入の目的は撫順炭の内地運航にあるので、既に大阪の田中末雄より三千噸型船を買取る契約あり、手金まで打ってあったものを八千噸の満洲丸と乗替える為めに、満鉄は殊更に十五万円の解約料をも棒に振っているのだ、疑えば疑う余地ないとはいわれぬ筈。

片腹痛い憲政会の仕打

橋本喜造の議会における政府追撃に片腹痛いと業を煮やした内田信也は、憲政会とて余り大きな口は開けぬぞとて例の加藤総裁よりの
 御送附遊ばされ候珍品五個難有く頂戴仕候右厚く御体申上候内田尊台
との意味の馬鹿丁寧な手紙を携えて、内田は政友会の広岡宇一郎を尋ね、議会では之れを素破抜かぬとの堅い口約の下に之れを広岡に渡したものだ。広岡は之れを原総裁に相談した所、遉がに原は内田の口約を重んじて自重せよと戒めたに拘らず、広岡は幹事長の職を抛ち公人としての名誉を顧慮する遑なく、一意政友会の愛党心から公然と議会で発表したのである。サア社会の視聴は加藤総裁の一身に注がれた。結局憲政会は藪を突いて蛇を出した結果となり、珍品事件は一時世に喧しかったものだ。

原と須磨御殿

原首相と内田との関係は想像も及ばぬ程深入りしていたもので、原は東京駅で刺客の為めに殪れたが原の西下の目的地は京都であってその序に神戸に立寄り、内田の須磨御殿の建築を一瞥に及ぶ筈であったという。蓋しその当時内田の汽船事務所は台湾銀行に譲渡しの内交渉が持上っていた最中であった。原の西下と台銀の事務所買受けとの間に若干の因果関係があったとか無かったとか揣摩された位である。兎も角御自慢の須磨御殿は実に豪壮華麗を極めた堂々たるもので内田は阪神間の貴権紳商を招いて盛んに之を見せびらかしたことは事実である。一日紳士連数十名が招かれて大邸宅の御殿作り西洋室、日本室と隈なく案内された時に誰一人此豪奢な殿堂を讚美しない者はなかったそうだ。

残骸を止める

内田汽船は大正三年十二月資本金二十五万円で創設したが、間もなく欧戦に入ったのでその時運に伴うべく、大正五年二月五十万円の倍額増資、六年七月一躍一千万円にし、新造船建造と古船購入によって大正八年頃には十八隻重量噸約八万噸に達した。これだけの所有船あれば社外船中でも錚々たるものである。しかし戦後業務縮小して大正十年五月資本金をグンと下げて二百万円に減じ今日に及んでいるが、船舶はなお大正丸外五隻重量噸一万九千三百噸を有し、自営と傭船とゴッチャにしてドウにか海運業者としての残骸だけを取止めている。

囲繞せる人々

彼の子飼といっても比較的年数新らしいが、三井物産から引抜いて来た三原美男、八木貞次位のもので、三原は同社の専務で汽船部を管掌し、八木は内田商事を預っている。近頃内田商事の業務を整理して東京に移り、八木も東京へ引越してしまった。同社相談役の窪田四郎と高木陸郎とは共に並び大名となっているのみで、窪田は信也の令兄で、東京の早川電気会社の社長であり、新進の実業家を以て任じている。高木は目下漢治萍炭坑の日本総代理店を引受けているが、有名な支那通で、支那の隆宣懐、曹汝霖などに信望を得ていた男である。内田は兎も角之等の連中に囲繞されている。

(八十七) 閥を作らんとする社外船系

振出し十五円の勝田

勝田汽船の勝田銀治郎は、明治三十年前後に大阪の貿易商吉田利平商店に住み込み、同商店が戸を閉めたので神戸の足立商会に鞍替して月給金十五円也を支給された。此時彼は雀躍りしたということである。殆んど同じ年輩で、殆んど同年期に内田は高商を出て三井に奉職し初めから相当に待遇されていたのに、彼は給仕代りに引廻されたのだから、随分悲惨な経験も嘗めたに違いない。明治三十三年に粗末な勝田商会を起して、名ばかりの船のブローカー屋を始めてから三井物産船舶部に出入し川村部長の知遇を得て運賃や傭船料の先払いやら種々な方面で川村の恩誼を受け、綱渡りのような危い芸当もやって糊口を凌いでいた。内田を知ったのは其頃である。

成功のバロメーター

其後チャーター船を以て北清定期線を開いたり、浦塩に配船したりしていたが四十一二年頃の日露戦争後の海運界大不況で繋船が神戸港に珠数繋ぎとなった時などは大分御手許も不如意となり、兎もすれば臀を割らんとしたが漸く踏ん張って切抜け、大正元年に御代丸一隻を購入して愈々船主の仲間入をした、之が後日巨富を生む種となったのだ、欧洲戦争の始まる大正四年には六隻を傭船したが、之に味を占めた彼は、海福丸外三隻を購入し又大阪鉄工所の手で、海永丸外三隻を新造した。欧戦による船成金の径路は千遍一律で大に思い切ってヤマを張ったものは大いに思い切った富を得、チョット思い切ったものはチョットの富を得た。要するにヤマ気の程度如何が成功のバロメーターで、彼や内田は大に思い切った部類である。

十五万噸計画

彼は更に大貨物船一万三千百噸の海久丸を浅野造船所に、同じく八千八百噸の海安丸を三菱造船に註文した、斯くて平素抱懐していた所有船十五万噸計画を実現せんと焦ったものだ。別段彼自身は十五万噸と数字を切った訳でなく、船多ければ多いほど結構だと思っていたと自白しているから、或はそれ以上の野望を懐いていたのかも知れない。身体は月足らずのように瘠せて小さいが、向う脛の強いことは内田に劣らない。それで遂に日本汽船が大阪鉄工所に註文した十隻約八万噸を肩代りしたのも、この野望から生れ出ている。しかし彼は進むを知って退くを知らぬ猪武者たる譏りを免れない、策もなければ術もなく、一本調子の突撃だから、先陣の一角が崩れると総崩れとなる虞れがある。後日此八万噸の肩代りが、彼に禍して抜差しならぬ破目に陥るのも持って生れた性質に運命づけられたものと云い得る。

人並の住宅慾

彼の全盛時代にはやはり成金振を発揮して種々の方面に活躍したのは申す迄もない。塩屋の別荘の建築も其当時のことだが、内田の須磨別荘に較べてはお話にならぬ粗末なものだ。世間では須磨御殿といって塩屋御殿といわぬ。よくしたものだ。尤も更に青谷に本邸を構えんとして城廓のような外塀を築き、庭園に幾万金かを投じて漸く本丸に取かかろうtした時、財界急変の突風に一先ず取止めとする外なしという目に逢った、今尚豪壮な外塀ばかりが恨めしそうに彼の雄図の名残を留めているのだ。

男の面目に対する執着

彼も亦内田と同じく母校の青山学院へ三十五万円を寄附したが、尚羽振りのよい当時だったからこれっぱかりは彼にとって左程大したことでもない。しかし此外に勝田奨学部を設けて中等学校卒業程度以上で、学資の都合上廃学せねばならぬ憐むべき学生五十名に対し夫々大学専門学校に入れて学資を貢いでいる。そして之等学生に対し卒業後も何等の拘束を設けず、全く無条件である。之が為に毎月約二千円、一ヶ年二万四千円の金が要る訳で、今も尚此制度を続けている。毎日門戸を開けたら五万円が唸り込んだ当時なら此位は雀の餌ほどの額であったろうが、今となっては相当重荷であろう。其重荷をエンヤラサを背負いながら、尚不断の活躍を続けて行く処に「男の面目」に対する執着が潜んでいる。然し誠に結構な執着である。

(八十六) 閥を作らんとする社外船系

無条件学資給与

此奨学部は大正五年に設置されたものだから本年でまだ五六年にしかならぬ。五十名の給費生は今尚学窓で汲々として学業にいそしんでいるので、未だ生きた社会に顔出ししているものは極めて少ない。だが、この「無条件学資給与」はこれ等の給費生の眼に何と映ずるであろう。国家や会社法人が或は師範教育に或は海外遊学に資金を給与すること多いが、大抵の場合は卒業後又は帰朝後三年乃至五年を縛り附ける。世に師範教育を「カマボコ教育」と呼ぶのも、その間の事情をいい現わしているのでないか。此世智辛い世の中に何の縁も由緒もない赤の他人から千金に価する学資を受けた給費生にしては、無条件じゃ済まされまい。

世間の奴等は怪しからぬ

勝田は此外に戦争中住宅不足を緩和する目的で借家三百軒を神戸に建築する計画を樹て地所まで買入れ、その手始めに約五十軒を建てて家賃を約半値位で貸している。誰いうとなく勝田は昨今御手許不如意だから、此借家の棚賃を引上げて奨学資金の足しにするのでないかとの噂があったが、当の本人は憤然として
 勝田は貧乏してもまだ船もあり家もある、それ程見縊った世帯じゃない、世間の奴等は怪しからぬことをいう。
と打消していた。大きな家も、多くの船も御持合せのことは重々承知しているが「それがそのミンなその縄付で……」ということを怪しからぬ世間の奴等が知らぬ顔して盗み見しているのではあいか。あまり金持面をすると却って銀行屋に睨まれましょうと減らず口を叩くものもある。

犬養と五万円

勝田は国民党総理犬養毅の政治的節操に共鳴して五万金を投げ出した。貧乏な犬養が天下の成金に感ずられて五万や六万の金を貰った処で、利権に附纏う朋党連の僻事とは全然異るんだから、勿論大した問題じゃない。それを問題にしたのは、当時国民党に慊らなくなってか将た又慊られなくなってか、ソレは判らないが、兎に角脱会した例の高木益太郎であった。高木は東京日本橋区から代議士候補に打って出たが、その選挙に犬養を穽れんが為に殊更に五万円問題を持ち上げたのである。その訳はこうだ。『犬養が勝田から請取った金はあれは国民党員の選挙費に充てるのが至当なのだ、それを犬養が勝手に着服して猫ババをきめる政治家として有るまじき汚ない事である、犬養は宜しく国民党費の収支計算を明示すべきである』とて到る所の選挙演説に犬養をコッぴどく扱下ろしたものだ。所が此演説は薬が利き過ぎたのか、却って高木を小さくし且選挙民の反感を助長せしめる結果となった。昨日まで党首と仰いでいた犬養を自分が脱会したからとて直ちに矛を逆にして撃たんとする如きは、あまりに見下げ果てた根性だというのでそこは江戸ッ児のことだ、高木に投ずべき札まで挙って国民党の近藤達児に廻したので、高木は落選し近藤は最高点でマンマと当選した。

高木は業腹

こうなると高木はいよいよ業腹で堪まらない、今度は犬養の五万金一件を商売柄刑法第何条かに牴触するものなりとて「恐れながら…」と裁判所へ訴えたものだ。裁判所は打捨てて置く訳にも行かないので、贈り主の勝田を召喚して、犬養か国民党か、贈与の相手方は誰かについて訊問した時に勝田は之に答えて
 金は同じ国民党の□添宗三に手渡したが、あれは国民党に投じたのでなく犬養氏個人に寄贈したに相違ありませぬ。焼こうが煮ようが但し又泥溝に捨てようがソンナことは犬養氏の御勝手であります
とやって退けた。それじゃ問題になる筈がないので遂々有耶無耶に消えて終ったのだ。結局高木は努力して恥の上塗をやった訳だ。莫迦な話である。

米国鉄材禁輸

大正六年のこと、勝田は日本汽船が大阪鉄工所に註文した船舶六隻約七八万噸を肩代りしたことは前述したが、その経緯は当時の海運界の大波動を露骨に描き出されているからカイ摘んで掲げることにした。その肩代り船舶は噸当七百円の割で大正七年引渡すという約束であった。処が降って湧いた騒ぎが霹靂□声耳朶を破ったというのは大正七年夏の米国鉄材の輸出禁止である。当時米国は欧州戦争に参加し、大統領ウイルソン氏は国民の敵愾心を利用して全国の造船熱を煽り一気に大海運国を建設して日頃忌々しい英国の一泡吹かせようとの魂胆があったから、此処ぞとばかり、各州の造船所に総動員を下して造るわ造るわ燐寸箱を列べたように同型同噸数の貨物船を二ヶ年間に一千万噸も造ったのだが今や其の仕事に取かかったばかりの大正七年頃のことだから鼻息最も凄まじく遂に造船材料とする厚鉄板を輸出してはならぬとの大鉄槌を下した。これは大統領が議会から委任された権限によってスッパリやったので、待つも待たぬもない、即時実行というんだから堪らぬ。サア斯うなると震い上ったのは我造船業者で、遽かにアタフタ騒ぎ廻るだけであった。

(八十九) 閥を作らんとする社外船系

造船屋大狽て

鉄鉱の貧弱な我国は到底国内で産出する鉄材のみでは内地の需要の半ばをも充すことが出来ぬ。その当時日本では鉄材の自給自足だとか日支提携などと騒いたが、盗人を見て漸く縄綯うような話。止むなく英国に鉄材を註文したが、戦争と労働争議で鉄の引渡期限を切ることが出来ぬという。いよいよ我造船屋は、幾日かの日照りが続けば水が乾いても魚も腹を見せねばならぬという破目になった。厚板一噸一千円を唱えたのもこの時であった。鉄材の手持のない造船屋は一時造船台を休止するもあり、手持あるものは成るべく喰い延べる方策を考えたものだ。当時大阪鉄工所は比較的手持鉄材を抱え込んでいたが、それでも日本汽船に引渡す約七万噸は、殆んど二箇年遅れて大正八年末からボツボツ引渡した。しかし其時は既に船価暴落して約四五百円を唱える時であった、解約や紛議やらが造船屋と船屋との間に喧しかったものだ。

一千八百万円を切り下ぐ

船舶買受けを肩代りした日本汽船と勝田汽船との間にも受取るとか受取らぬとか摺った揉んだの揚句日本汽船の重役中山説太郎はウンと奮発して一千八百万円を値引することで漸く和議整い、勝田は慥か興銀から金を借りて全部嚥み込むことになった。此代価は噸七百円で七万噸だから四千九百万円だったが、その内一千八百万円即ち約三分の一を切捨てたので、久原としてもよい度胸を示したものだ之で勝田の引受けた船価は噸当り四百四十三円となっている勘定で、当時だったら決して高い方ではなかったが新造船百六七十円を唱える今日となっては高いこと当然である今では銀行の金利に追われている始末だからとても船価償却などに手が届くまい。

男一匹の痩我慢

此他勝田が浅野造船所から受取った海久丸(一万三千噸)が噸当七百五十円三菱造船所から受取った海安丸(八千四百噸)が噸当八百四十円だったから合計一千七百三十万円を支払っている訳だ。勝田は此当時を追想して感慨無量、『海久丸一隻でも九百七十万円を支払ったが考えて見ると大きな金だ今時なら新造船でも噸当百七十円程だから二百二十万円で買えるものを、儘ならぬ浮世じゃなあ』と嘆じだそうだ、結局今日となってはウンと腹を切った中山説太郎が浮び上り引受けた勝田は●き苦しんでいる訳だ。之等の大型船は戦時中世界航路などをやっていたが、昨今は北米と近海航路に振向けて木材積みや石炭運びに漸く露命を繋いでいる。銀行屋からの矢のような催促にもめげず、そして一隻も売らずに「男一匹」の痩せ我慢を張通しているのだ。尤も今売ろうといったって買手もなく、殊に後ろから銀行屋の小父さんの眼が光っていては夫も出来ない相談だ。

尻の穴の小さい銀行屋

彼は或時その友人に述懐して
 自分の意思通りに思う存分船を廻して見たい。船の運用についてはいささか自信を持っているがな……
と謂ったことがある、蓋し今となっては銀行屋からあらゆる方面に掣肘を受けて、とても思うように采配の振れぬのを嘆じたのであろう兎角銀行屋は尻の穴の小さい癖に気を揉みたがるもので、知りもせぬ配船のことにさえ喙を入れたがるというから小煩さい。愚図々々云うなら借主は尻を捲って見るがよい、銀行屋はすぐに縮み上って仕まうに相違ない。

貧乏は彼の本性

彼は大正四年多額納税者の列に加わり、六年に選ばれて市会議員となり市会革新の旗印の下に想到暴れ廻ったものだ。更に七年には貴族院議員に当選し、後市会では推されて議長の椅子を占め、今もなお此両職を兼ねている。彼は此市会議員となった当時からだんだん実業家より政治家としての新生面を開くことになり、今では勝田汽船社長としてより貴族院議員勝田銀次郎の方が通りがよい。今や彼の□み得た巨財は殆んど掻き浚われ清算したら赤線の数字の方が多い位である。経済方面では尾羽打枯らした彼が、政治方面では今尚相当の社会的地位を保ち得ているのも、彼の政治的手腕の凡ならざるを示すといってもいい。しかし今日迄の彼の性格と情操から察したら貧乏は寧ろ彼の本性であろう。

(九十) 閥を作らんとする社外船系

勝田と岡崎の喧嘩

勝田と岡崎汽船社長岡崎藤吉とはどういう星の廻り合せか犬猿も啻ならない間柄だが、それは大正七年多額納税者の貴族院議員選挙当時中原の鹿を遂うてお互に山を見なかった仲間同士であったからだ。当時勝田は早くから候補の名乗りを揚げ、岡崎も打って出た。岡崎は無資格者たることを選挙の間際まで御存知がなかったのだから御芽出度い。岡崎は其当時既に千万長者に相違なく其所得も多額納税者に有剰る程あるがそれは皆岡崎汽船及岡崎銀行の法人所得で個人所得ではない。尤も御本人は大連置籍の船舶から上って来る所得を数えていたが、大連は日本の領土ではなく、果して有資格者選挙人名簿に岡崎の名が出ていない。驚いたのは党の本人ばかりじゃなかったが今となってはアトの祭りだ。そこで岡崎は窮余の一策として、丸持仲間の辰馬吉左衛門を説いて候補者に立たせようとした、辰馬も一旦拒絶したものの、金が要らずに貴族院議員が転げ込んでは悪くないと食指遽かに動いて戦線に立ったもの。岡崎と辰馬との間に当選したら二年後に岡崎が取って代る黙契が成立していたとさえ揣摩されている。開票して見ると十五点の内十二点まで勝田にせしめられて、辰馬の夢は越褌の惨に敗れた。金持が金の威光を過信すると何時も此仕儀になる。

政治屋に鞍替

更に大隈内閣の時に岡崎藤吉が衆議院議員の立候補を宣言したことがある。これは小寺謙吉に脈絡を通じて大隈侯に渡りを附けんとしたものだ。勝田は野添宗三を極力声援して此結果も田村新吉、坪田十郎、野添宗三の面々当選して岡崎は惨敗したのみならず選挙違反の網に引かかりギューギュー虐めつけられた。大きな声じゃいえないが初めから選挙費用幾万円を評定して之を自分の股肱か参謀に手渡し、御大は何喰わぬ顔で超然と構えていたら、コンナ生き恥を掻くことも無かったろうに。やれ五百円、やれ千円と小刻に自分の懐から銀行小切手を渡したのだから、銀行の原簿を押収されたらグウーの音も出せなかったそうな。御大典の特赦で漸く岡崎親子も恩典に浴したが、岡崎も政治運動にはもう懲り懲りだと悲鳴を揚げたとやら。これ以来勝田と岡崎とは事務所の建物を向い合せながら、肚の内じゃ脊中合せだから面白い。

神戸商船のつっかい棒

未だ欧戦の真最中、船に足がついて踊り狂うた時勝田汽船の使用人であった松本博雄、松井久雄、福井捨一などの手合も袖手傍観していること出来なくなり、社長勝田を動かして小型船運用専門の神戸商船会社を設立した。そして株主に勝田、辰馬、八馬、上西、山下、内田の猛者連を加えて事業を初め小型船を四五隻購入せんとしたが高くかかって手も附けられぬ程であったものを漸く四五隻買調えたそれが船価暴落で紋切型の如く行詰ったので、これではならぬと二年前勝田を社長にまつり上げて陣容の立て直しとなり勝田はこれも引受けた。此会社は如何ほど経営が困難でも上掲の御歴々が顔を列ねて、このつっかい棒で支えられているので、なかなか倒れそうにないとの事だ。この他勝田は太洋海運の創立発起人であり現に同社の相談役と納まっている。

勝田の踏み台

更に勝田は海運業組合長の椅子にいる。此組合の目的は日本海運の発展を期し併せて海運業者各自の利益擁護にあるのだが、会員のブローカー連中は其数も多く兎も角一時は羽振を利かしていたので、今では持っている財産が蚊の脛のように細うなっていても、根が向う見ずの猛者揃いと来ているので、総会などには手が附けられない。最初佐藤勇太郎が一ヶ年次に上西亀之助が一ヶ年の跡を引受けた勝田が三ヶ年組合長で納まっている。此処にも同業者間における勝田の信望が尚余温を保っていることを証拠立てている。勝田は之れを踏み台としたのが、彼の潜勢力に関係あること勿論である。

(九十一) 閥を作らんとする社外船系

ノサばる船屋

神戸は遉がに船屋の世界である、市会でも商業会議所でも其他凡ゆる公共機関にして船屋が首を突き込んでいないものはない。殊に市会は議長が勝田であり、議員には上西亀之助、岡崎忠雄其他多数の船屋がノサバリ返っている。其他船舶関係の公共及び私設機関としては日本船主協会、海運業組合、海運集会所、海運倶楽部、海事協会などがあり、海員の団体としては海員協会、大日本会委員会組合、海事懇話会など殆ど数うるに遑がない。之だけの機関に於て各会員が互に利害を持っていては船舶関係者が幅を利かすのに無理もない。

多額納税順位の番狂わせ

従って海運界の黄金時代における神戸の人気といえば殆んど正気の沙汰と思えぬほどの乱痴気を演じたことは皆様御承知の通りである東洋一の名を冠せる料亭常盤花壇などは連日連夜これ等船屋連に独占せられ、一宵の宴会に数千金を投ずることなど珍らしくはなく、互に張合となって投ずる金額の多きを誇ったものだ、従って常盤花壇の一ヶ月収入数百万円に上り瞬く間に多額納税者の大関格にノシ上ったのも之等船屋連中のバラ撒いたアブク金の賚である。常盤花壇の縁者西常盤の女将お梅、中常盤の女将お石等も懐ろがホコホコ温まると共に吐く鼻息は焔のように凄かったという。それが面白いことには戦後一ヶ年を経過して之等の船屋連がアタフタ狽て出してから豪奢を衒う宴会はガラリと減って安上りの牛肉屋で腹を拵えるようになったセイか、ミツワ牛肉屋がグンとノシ上り多額納税者の順位に番狂わせをやり、常盤花壇に失敬して其上位に坐ったといことだ。

船価の足取り

此処で一寸書きたいことは内田、勝田の大頭株から小さいブローカー連の有象無象に至るまで酔い狂うに至った原因攻査のことである。船価、運賃、傭船料は羽の生えたように舞い上り、殆んど底止する処を知らぬ状態だったが、或距離まで達するとまたフワリフワリと舞い下って来たものだ。この昇天距離を知る標準として、船価だけを数字的に列べて見る。(単位円)

[図表あり 省略]

備考 各年共最高と最低を示す十年十一年は殆んど取引なく標準相場に過ぎぬ。

昇天距離は何程

欧洲戦乱以前では重量噸五千噸の中型船三十万円(噸当六十円)内外であったもの大正六年には一躍三百七十万円(噸当七百五十円)に飛び上り、政府は六年九月船価暴騰を緩和する意味で戦時船舶管理令を発布して船舶の対外売船を厳禁したが、船価には一向響かず、却って騰るワ騰るワ七年には噸当八百円で売買成立したもの多く、勝田汽船の海安丸も八百四十円であった。さあ斯うなると強気一方で買えば必らず騰り、騰れば必らず利益があった。船主はブローカー連中はノボセ上って有頂天となったものだ、ソシテ遂に大正六年八月売買契約成立し同年九月受渡を完了した第一久美愛丸(前名第三吉備丸、大阪小野造船所建造、一千六百噸)は売主豊崎昌三郎買主神戸組合汽船会社で、噸当一千円の割合であった、之れが本邦のみでなく世界の最高記録であった。よくも舞い上ったものである。

此表が怨めしい

平和克復と共に反動気構えの警鐘乱打された大正八年には、情けなや五百円の関門も割れ同年末には三百五十円見当に惨落、爾来日を経る毎に悪化したので船主もブローカー連も奈落の底へ叩き落され新造船註文など手が震えて出せず十年十一年には新造註文絶無で、代わるに古船輸入となったんだから、相場も糞もなく、囈言のような呼び値に過ぎぬ。船舶関係者が此表を御一覧になったら定めし怨めしいことで御座ろうがな。

(九十二) 閥を作らんとする社外船系

借りた方が強い

そこで莫迦を見たのは銀行屋で船価七八百円の時に七八掛けで融通したものが一度にドカリと下がると手がつけられない。運賃傭船料も下って現在では船価百五十円程度のもので辛うじて運航経費と金利を見得られる位だから、船価それ以上なら、とても算盤珠が弾かれない。銀行の帳面には貸方に何千万円と生きていても金利は入らず船を処分すると大穴が明く。ままよ借主を拝み倒して『兎も角船を廻していて下さい。運航経費も運賃収入も銀行持ちとして、貴方には相当の扶持を出しますから……』といった調子だ。斯うなると強いのは借った方で、「海運業委託経営」というので威張っていられる。社外船の多くは大抵此例に漏れない。勝田も此口かなア……

栄華物語の一節

最近のこと、勝田と内田信也とは東京行の汽車で乗合せたが、その時あたり憚らぬ大きな声で
 俺等はもとより素裸で海運界に乗出したんだから、今更元の杢阿弥に還ったからとて、負け惜しみじゃないが左程未練も残らない。だが一番甘い汁を吸ったのは書画骨董屋だろう、金にまかせて買った立派な香炉だとか桐の箱に伝来書きのついた軸物だのを後で鑑定させたら皆資格物だったから御度rくじゃないか。だが悪銭身に付かずで、コンナ手合も別に倉を建てたとも長者になったとも聞かないが、よくしたものだ。
と擽ったいような笑い方をしたとやら。実際成金が箔を附けるためには盛んに書画や骨董をいじくるもので、内田も勝田も一時は蕪村一万円よし、呉春二万円尚よしといった風に、金を糸目を附けず買い込んだものだ。雪舟などと来たら容易に手に入らぬから、喉から手の出るように欲しがった、これに附けこんで骨董屋は金と鉛ととっかえて資格物を攫ませるのだから罪な話に違いない。之もありし昔の栄華物語の一齣である。

小糠三合の岡崎

岡崎汽船社長岡崎藤吉は元兵庫県庁の小役人で石丸姓を名乗っていたが、兵庫県書記官岡崎真鶴の婿養子となったもので小糠三合の口だ。岡崎家は酒造を家業としていたが藤吉の時代になって間もなく灘商業銀行に関係するようになり一方銘酒「菊正宗」の本家嘉納治郎右衛門などと提携して灘興業会社を起し汽船摂陽、摂州、摂海を買取ったのが岡崎の汽船に手を染めた皮切りである。所がたしか明治二十七八年の日清戦役当時、酒は暴落するわ、売惜んでいると腐るわで、酒屋の大しけが来たことがある。これを世に「灘の黒焼」と呼んでいる。当時岡崎は金が自由に廻ることを好い事にして手形を濫発し、それが返済し得なくなってハタを行詰り、トウトウ裸一貫となってコッソリ香港に落ち延びた。日本で喰い潰したから、支那で一旗上げる雄図を描いていたことは勿論である。幾年かの後どう金を工面したのか二千噸型の日洋丸を買うようになって漸やく附き纏われた衰運を盛り返し、捲士重来の勇を振い起したものだ。

船を売り逃げて銀行へ

日露戦役の時は六隻を所有し、会社組織としたのは明治四十三年との事だ。大正七年海運界の最高潮時を見計って所有船十三隻四万三千五百噸の内日盛(四千六百五十噸)日州(三千五百噸)の二隻を残し其他は全部売払った。そして一方自分で設立した岡崎銀行にその売上代金の全部をつぎ込んだので汽船業は一時中絶の姿であったが、最近岡崎銀行の抵当流れ船舶を引取り之れを岡崎汽船会社に肩代わりして海運業を再開し、養子の忠雄を常務取締役に据えて一切を切盛りさせている。根が高歩貸しから叩き上げたのだから頭が頗る堅く、多少因業の点もあるが機を見るに鋭敏なことは船を売り抜けた手際でも知られる。これもただの鼠じゃない。

船に舞い戻る

尤も高歩に等しい貸し方だから貸し過ぎていたことは当然のことであり借りる船主は二流以下のボヤボヤ連中だから、船価が下落して借り高より下に行くとサッサと流して終う。流された抵当船舶は大抵二百円以上だったというから、あまり廉い方でもない。そして戦前及び戦時中には欧洲、濠洲、米国等にも人並にトランプ船を配して居たが現在では小型船のみであるから、北清、北海道方面を主として専ら自営方針を樹てている。現今の所有船十四隻三万十三噸である。しかし今となっては小型船が払底して運賃でも傭船でも比較的高く、百方向きに出来ているから運航には容易であろう。

(九十三) 閥を作らんとする社外船系

銀行に籠城

岡崎の本業としている岡崎銀行は大正六年の創立だが、本来の金貸業を会社組織に改めたまでだ。資本金二千万円を有し、預金二千五百万円、貸出一千六百万円だが地方銀行としては大きい部類だ。尤も配当は五分しかしていないのは船に貸した創痍がまだ十分癒えない結果であろう。岡崎は先年貴族院議員と衆議員議員選挙に手酷い目に遇ってから、殆んど銀行に籠城して社会的にあまり顔出しをしていない。銀行と事業とをゴッチャにしては世間の誤解を招く嫌があるからとの事だが、御心掛けだけは殊勝の至りだ。その御心掛けなら二度と政治家になろうなどとの野心は起さないことだ。

男を擒にする奥の手

勝田の股肱に神戸海上火災保険専務取締役三木三郎と神戸汽船信託専務取締役永田章の二人がある。何れも灘商業銀行当時よりの下僚であり、後岡崎が右近権左衛門田中省三などと共に日本海上保険の重役に据ったので三木は之れに伴れられ明治四十年岡崎が日本海上保険から分離して神戸海上保険を創立するにつき其傘下に馳せ参じて遂に専務の椅子に据ったものだ。三木は岡崎の箸の転び起きにも馳せ付けるほどの忠勤振りで、殆んど側を離れない。そうあろう。三木は自分の生命に次ぐ大切な女房を世話され、内栄町三木屋料理店の婿養子となるまで橋渡しの世話を焼かせたんだから、岡崎には頭が上らぬ。岡崎だって養父真鶴の家付の娘が病歿後玄人を本妻に直すほどの粋に捌けた方だから、女房の媒介で男一匹を擒にして置く位の手は考えよう。三木屋女将と岡崎との間柄なんて筆者の知ったことじゃない。

忠雄に汽船運用を

此外岡崎は大正十年神戸海上の姉妹会社の意味で朝日海上を設立し兵庫電車は伊藤英一の整理のため大正九年引受け経営した。また生糸問屋の神栄会社は大正九年に彼の手に移ったが、今では八万数千梱の取扱をして横浜で一二を争う大問屋となっている。金を儲けるのに忠実な岡崎も子を儲けるのには不忠実で、甥の石丸忠雄を養子とし、忠雄の弟英一を岡崎銀行に入れている。忠雄の汽船運用に対する方針は年が若いのと頭が出来ているだけに極めて徹底的である彼は学校を出て二ヶ年間自ら船の機関部で油垢のついた水兵服を着て船員と共に寝起きした程あって船舶修繕と船員待遇については自信があるといっている。此自信あり、金もあるから市会議員としての将来もあろう。

伊太利に使して

小岡崎は大正九年のゼノア労働会議に、船主代表堀啓次郎の顧問として社外船を代表して派遣されたことがある、同時に郵船の武田良太郎(船長)商船の橋本梅太郎(紐育支店)三井の古川寅二郎(船舶部東京主任)が何れも社船を代表して扈従し、政府代表内田嘉吉、松岡均平、船員代表岡崎憲も数多の家の子を具して此行に列した。呉越同舟という形だったが、一行七十幾名威儀を整え、天晴日東君子国の使者として詩の国伊太利に繰出したものだ。尤も腹の痛まぬ慢遊だとの噂もあったが。

やっつけろ

船が印度洋上を辷る時小岡崎は恰も誕生日に想到し相当し祝意を表したいとしてシャンペンを甲板上に運ばせ之を同行者に振舞い、大いに気勢を揚げた心算でいた。宴果てて小岡崎が微酔を甲板上に横たえていた時頭上に船員等の声あり
 岡崎汽船は船員の待遇も十分していない癖に、我等に三鞭位を振舞ってアノ威張りようは一体何だ。気障な奴だ、やっつけろ。
驚いた小岡崎はコソコソと船室に逃げ帰り船が新嘉坡に着するのを待って、長電を岡崎汽船に送り、船員待遇に対する岡崎汽船の方針を取寄せ之を船員等に示して弁明大いに努め漸やく船員等の憤懣を解いたとの事である。船員等の言分は先輩を差置いて自己宣伝をやるのが生意気だというにあったのであろう。

古船輸入防止の問題

最近日本船主協会では古船輸入防止問題が喧しくなり、例の陳情となるようだが、岡崎は輸入賛成論者の旗頭だ、此論者の信条とする処は算盤を伏せて商売は出来ぬというにある。倫敦で噸当四五十円で購入し得るものを何を苦しんで百二三十円もする新造船を建造する必要があるか、古船は石炭も多く喰い修繕費も高くかかるが、之を二倍に見積っても尚古船運用の方が有利だというのだ。政府では大連の古船輸入税を此際引上げることは内地物価の調節策にも牴触するのみならず、議会の協賛を経るに面倒だから此問題も容易に眼鼻がつきそうにない。

(九十四) 閥を作らんとする社外船系

「さん」扱いの川村

三井物産取締役で船舶部を支配しているものに川村貞次郎がある。彼は三井物産の子飼いで新嘉坡支店長、口ノ津支店長を経て言質位を贏ち得たものだ、三井の船舶部長として慥か五代目だが、任期としては尤も古く二十年以上にもなろう、温厚寡言の士であり配下や同僚には相当面倒を見てやっているので、彼の声望は辰馬の四井喜一郎と共に神戸海運界に相当重きをなしている。現に内田信也は彼の下僚で初任七十五円也の書記から仕上げられ、十年間に船舶係長にまでノシ上ったのは前述の通りであり、太平洋海運を創立した石田貞一も広田保も或は明治海運を拵えた谷口茂雄等の面々も皆川村の息のかかったものだ。此外に勝田、山下、上西等もブローカー時代には川村に泣き付いて、運賃傭船料の延払なんかの恩恵によって一時を凌いだことは幾度あるか知れぬ。従って之等の蔭弁慶連も川村の前に出ると小さくなって「さん」扱にして「君」扱にし得ないそうな。

沈香焚かぬが却って幸い

三井物産船舶部はもともと自社の貨物を運航することを主たる目的としているのだから、その目的に副うように出来てはいるが、配船の都合、貨物の過不足などで自社の思うように参らず、社船に運賃積することあり、社外船を傭船する場合あり、従て社船に対しては大荷主であり、社外船に対しては大傭船者たる関係から、どちらを向いても頭を下げる奴許りである。殊に昨今のように荷動き閑散となると社船と雖も辞を低くして意を迎えに来るから威張り放題である。戦時中あれだけ世間が騒がしかったに拘らず、彼川村は沈香も焚かず屁も放らない。僅かに宇野造船所を設立して自分が所長となったが、これも自分個人の計算でなく三井物産会社の附属事業である、目下造船界の疲弊で事業は極度に緊縮し名ばかりの経営を続けているが、三井の背景が無かったらとても算盤がとれまい。それで今になって考えたら、あまり沈香を焚かなかった川村の方が結局先見の明があったのかも知れない。

妙な悲劇が去る

も一つ戦時中に川村の主唱に成る海運集会所というがある。これは倫敦の海運取引所に倣って拵え上げたもので、戦時中傭船界の大立物である三井船舶部は毎日門を開けたらブローカー連が二三十名程雪崩れ込み、傭船がかりを取囲んで小突き廻すので、部員は落付いて仕事が出来ぬ、一層独立した船舶関係の交易所を作ってはとの思い付きから発足したのである。之れが計画された大正八九年頃はまだ何と謂っても残んの「ほとぼり」があり、随分大規模のもので現在の明海ビルディングの建物大半を之れに充てる心算であった。建物は十年の春に竣成した立派に落成式も済み、郵、商、三井、辰馬を初めその他社外船主や大粒のブローカーを網羅する会員組織として花々しく店開きも出来た、素より三井を背景とする川村の仕事だもの、これしきのことは当然だ。だがそれが財界の不況、海運閑散で門前雀羅を張るようになって茲に妙な悲劇が演ぜられた。

船屋の三角同盟

勝田銀次郎の宰している海運業組合は戦前船舶ブローカー連の集会場所であったが、会員の懐ろが膨らんだので一つ海運倶楽部の会社を拵えようとの議が纏まった。しかし之れを維持する資金醵出の為めとあって、組合と倶楽部に憲法を作って「組合員は必らず倶楽部員たること」として万一の場合の逃げ足を縛って置いた。その矢先東洋一の此海運集会所が生れたんだが、ブローカー連はわれもわれもと入会を申込み、集会所の会員たることを一つの誇りと心得ていた位だ。鳶が鷹の仲間入をしたようなものである。それで海運業組合では再び憲法を制定して「組合員は必らず海運集会所会員たること」の一項を加えたものだ。之れを世間では「船屋の三角同盟」と呼んでいる。これで財界さえ好ければ文句がない訳だが、懐ろが淋しくなると小理窟の一つも撚りたくなり会員の内から海運集会所を目して「無用の長物だ」と云い出した。別段川村貞次郎に当る心算でも何でもないが、毎月会費を徴せられるのが具合よくないからである。

鳶は鳶づれ

そこで板挟みの苦境に陥ったのは川村と勝田で、川村は会員の会費を一人で自腹切る訳にも行かず、勝田はマアマアで今日まで来たが会員の苦痛を見ているのも気の毒であり、摺った揉んだの揚句の果て、遂には海運業組合の憲法の条章を再び改正して倶楽部も集会所も入会は会員の自由意思に委すとの事で、漸く多年の懸案も鳧がついた。鳶は鳶づれ鷹は鷹づれと元の歩に還った訳である。
今でさえ明海ビルディングの好い場所を明治海運に譲り下階の偶ッコで小さくなっている海運集会所は、此の上会員の数でも減じるとどうなることやら、心淋しいことではある。

(九十五) 閥を作らんとする社外船系

小姑多い船主協会

序に此処まで来ると日本船主協会に筆を染めねばならぬ。これはもと船主同盟会とて社外船主の意見交換機関だったものが、戦時中社外船主の勢力加わると共に社船をも包括した一つの権威ある機関となり、郵、商、東洋、三井、三菱、古河、辰馬も新に加入して所有船噸数二百四十万噸に上り邦船三百万噸の八割を占めるに至った。会長には最初郵船の近藤男、次は堀商船社長、今は伊東郵船社長となっているが、何がさて天狗揃いの船屋のことだから、会員の内へ総花的に二十名の理事を拵え上げ、専務理事には年棒一万二千円を奮発し次官局長級を引張って来るという意気込みで当りをつけて見たものだ。一寸聞けば好い椅子のようだが誰も色よい返事をしない、その銓衡が芝居がかりじゃから面白い。最初李家長崎県知事に白羽の矢を立てて本人の承諾を得、本人も乗気になって赴任し、早速就任の挨拶に二十名の理事を戸毎に廻って来ると改まった「とても俺には勤まりそうにないから御免を蒙りたい」と逃げ出した。

生命のかけ換が要る

次に日清汽船上海支店長小幡恭三次に鉄道省高等官某、曰く誰曰く誰と御鉢とソレからソレへと持ち廻り、いずれも理事二十名の就任挨拶に一巡して来ると狐に憑かれたようになって逃げ出したものだ。殊に小樽高等商業学校教授だった阪本陶一なんて酷い、赴任の為めに神戸に荷物を纏めて引越しして来り、市電のパスをも買い整えた位だから大真面目に相違なかったが、それが難所の理事挨拶巡りを済ますと案の定「とても俺には……」と悄然と云った。あまりに幾度もだから、当時常任理事であった郵船の黒川神戸支店長、商船島村支店長、辰馬四井喜一郎、三井川村貞次郎などは合点が参らぬという訳で、種々研究して見ると別に幽霊屋敷でも何でもないが、要するに有給使用人という廉で小姑二十名にも小突き廻されちゃ、生命が二つあっても足らぬというのだ。それで久しく銓衡難に悩んでいた訳だが、昨年末に至って漸やく大阪商船船客課長であった上谷続を引抜いて之に据えることになり、五六人目で腰が落着いた。だが此程その鬼門の理事を二十名から二十五名に増すとの噂がある。理事を増す前に専務理事の顔色を確めて置く方が先決問題じゃないか。

陳情攻めで納まる

何がさて理事連中は専務理事の候補者を五六人まで最初の接見だけで闇から闇へ葬むった程の剛の者揃いのことだから、理事会で問題の起る毎に口角泡を飛ばし、容易に決が採れない。昨年の今頃一時沸騰した繋船同盟でもあれ程喉際まで突き止めて置きながら、さてとなると実行が出来ないで、トウトウ御流れとなった。大型船主が利害の立場を全然異にしていいる小型船主とゴチャ混ぜの上に、抜け駆けの功名を独占しようとの算盤高い御歴々のやる仕事だものコンナことはありうちのことだ。今度の古船輸入防止問題でもいよいよ政府及び関東庁に陳情する模様だが、これも大連置籍について存置と反対とあって容易に纏まらない、結局「当分の内関東庁に於て適当の処置あらんことを望む」などの骨抜案となって総会にかけるらし。御気の毒だが、脳味噌が硬化している政府や関東庁の手合にコンな生緩い決議を突きつけた位で、牛の角に蚊ほどの手応も御座るまい。今まで船主協会から幾度か陳情攻めをやって、どれ程の効果があったか伺いたい。

女房に孝行な佐藤

佐藤商会主佐藤勇太郎は業務を左程手広くやっていないが、神戸のブローカー連中の先輩であり、恩人である。彼の膝下で叩き上げられて一人前の汽船業者となったものに、上西亀之助、菊地吉蔵、戸田実などがあり、兎も角日本に船舶ブローカーということを植えつけたについては多大の功績がある。幼少の時から語学の天才で、工科大学を中途で退学した彼は、当時文部省普通学務局長の服部一三の世話で暫らく英語の教鞭を執っていた、次に神戸の県立商業学校の校長となってから、明治二十二年範多竜太郎の親父エ・エッチ・ハンターが、日本の精米会社の姉妹会社として日本汽船会社を創立したので、出でて支配人となった。所が株主も船員も大部分英国人だったから、英語に堪能な彼は非常に重宝がられたものだ。当時郵船は共同郵船と三菱と合同して日本郵船となって間もなく、商船は瀬戸内海航行の見る影もない哀れなものであった。その時同会社では一千六百噸の船を倫敦から持って来て、之れを四国の阪出に廻し塩積取に行ったことがある。何がさて船が大きいからとの理由で沖仲仕は塩の荷役をして呉れなかったので弱らされた時分だ。其後大阪の阿部彦の積荷で、蘭貢米一千四百噸を其船で持って来て横浜に入れたら、日本の米価が一割方低下したというから振っているじゃないか。二十三年同会社解散の憂き目に遇って佐藤は独立してブローカーの看板を掲げた。

(九十六) 閥を作らんとする社外船系

思惑をやらない

佐藤氏は欧洲戦争の始まる二年前大阪商船のボルネオ丸で暹羅から紫檀か黒檀かの内地大輸入を企てて、それが思うように捌けなかって、遂に運賃を延払いにして貰ったことなどあるが、此時が彼の窮迫に陥ったドン底だろう。戦時中一番思惑のやり易い商売に携っていながら一向それに手を染めなかったのは、戦前に此始末で資金が乏しかったのと、比較的信義の念厚く気の小さい彼に思惑が不均合であったからかも知れぬ。それが幸して今日でも他のブローカー連のように銀行屋に首根っこを掴まれてギューギュー引き据えられたり、裏長屋に夜逃げするような醜い態を見せていないのは偉い。これもヒステリーで痩せ細った細君の痒い所に手の届くように世話を焼く御利益かも知れぬ。

つらい武士の情

佐藤氏の輩下であった上西亀之助氏は名ばかりの汽船会社長で船は一隻も持合せないが、毒舌と強い腕節の持合せがあるから心丈夫だ一昨年春の神戸商業会議所の改選に当り田村新吉に再選の野望あり田村擁護派と反対派と旺んに鎬を削っていた時、上西は市会議員であったが、服部一三、勝田銀次郎、武藤山治等田村反対派の間を駆け摺り廻っていた、戦が今や白熱化した選挙の前々日に、上西氏は単身田村氏の門を叩き
 貴公は公人として非難の声高いから此際候補を屑く辞退してはどうだ、今茲で俺が敵の陣地に踏込み名乗を揚げて苦諫を呈するのも武士の情である若し之を聞かねばますます反対の気勢を煽るがどうだ
とやった。田村氏はこの意気込みに恐れ意思を翻させんと哀訴したが聴かず、それでは「明後日の晴れの舞台で御目に掛ろう」となり、遂に田村氏は叩き落され、滝川儀作氏が当選した。上西氏にいわせたら武士の情を弁えぬからだそうな。辛い情である。

船価を切捨て出世証文

佐藤勇太郎氏の店で巣立った菊池吉蔵、戸田実、津田資郎は東和汽船会社を創立し一方戸田氏は郷里和歌山で三百万円の銀行を設立し、後鴻銀に合併された。津田氏は郷里岡山で五百万円の津田銀行を設立し之も後十五銀行に合併された東和汽船の船は十五銀行に全部抵当に入っていたが、本年初め世間を騒がせた船舶債権棒引問題の起った時に、全部の船を債権者に吸い上げられて終った。尤もその後四五隻を購入してまた運航している。此棒引問題は十五銀行が曩に浪速、川崎両銀行を合併したのみでなく、常盤商会、東和汽船、岡田、関口など名も知れぬ債権者に金を貸していたので、十五銀の華族様連中の怒りを估い船舶金融は罷りならぬとあって持上ったものだ。それは船舶債権の内十五銀行が帳簿貸附価格から噸百円乃至百二十円に船価を切り下げ、債権残額は之れを債務者の出世証文とするというのだ、そして此船舶は全部川崎汽船に譲渡し川崎は金を工面するために川崎造船所の社債を発して之を十五銀行が身ぐるみ引受ける形式となっている。謂わば「船舶の社債化」というようなもので、帳簿上の棒引に過ぎない。

石井定七に尻餅搗せた乾

乾汽船の乾新兵衛氏は「海運界のジュー」と呼ばれている。酒造家の下男から叩上げ、今日何千万の長者となっても名誉慾なく、骨董慾なく、貯めた財が子を孕んで更に殖えて行く同性繁殖の過程を、金壺眼で眺めている内に無限の愉快を見出している。何しろ三人仲間の岸本兼太郎氏に輪をかけた程だから世にあり触れた吝嗇家と選を異にし飽迄徹底している所が愛嬌だ。一世の借金王石井定七さえ氏にはマンマと裏を掻かれたことがある。それは石井の破産宣告前七十幾万円の石井に対する債権が期限が来たから返済すべしとの催促を送り、一度返済して呉れれば直ちに其場で御用立てるとの契約で石井は無い袖を無理に振って持って行った。氏は金が手に入ると早速臥返り、もう御貸しすることは御免葬るとアッサリ出た。これには石井も呆然として二の句が継げなかったそうな。武士ならば風上に置けぬと怒鳴られるような仕打で捲き上げた七十万両がドウやら縞の財布と共に破産管財人の手に再び捲き上げられるかも知れぬとの事だ。執念深い金である。
鈴木商店の金子直吉氏に日歩十銭とか二十銭とかで何十万円か貸した長者にも切れ目がある。其催促が酷たらしかったともいう。金を借りて期限に返さぬのはなお酷たらしいという債権者の心理状態を世間の奴等は知らぬと見える。コンナ鬼の目にも目こぼれがあると見えて拾いに行く雀共がある。乾の船を取扱っていう山本乙五郎氏ブローカーの大原幾造氏とが夫だ。

(九十七) 閥を作らんとする社外船系

鈴木に見放された橋本

橋本汽船社長橋本喜造氏は長崎の長者議員橋本辰治郎氏の弟というが、洗い浚って見ると赤の他人だそうだ。明治二十四年米国砲艦ペールスを買入れ、之を改造して大阪鹿児島間の定期航海に従事し、後上海漢口間を航行していたこともある、又独逸運送船サモアを買入れ川崎造船所でボイラーを入替えて芝罘浦塩航路に従事していたなど殆んど見る影もない小船主だった所が前満鉄理事犬塚信太郎氏と昵懇な処から、満鉄に喰い入るようになり、満鉄から金を借りて、天山、泰山、外一隻を買受け之を満鉄に長期傭船していた。日独戦争に会して傭船料がボツボツ芽を吹いて来たので、違約金を支払って返船して貰う便宜を満鉄から与えられたのが彼の世の中に浮び出た階梯であった。それだのに内田の満洲丸事件を議会で曝け出したのだから満鉄では「此恩知らずめ」と思っていよう。後神戸の鈴木商店の庇護を受け、戦時中に橋本の手形に鈴木が裏書したもの、その頂上には五百万円以上に上ったというから大したものだ。慥か二万噸程の船舶を噸七八百円で鈴木の造船所に註文し、それが船価の下落でドウにも金の工面がつかず、船は鈴木に取戻して貰ったこともある筈だ。橋本の経営していた神戸の刈藻造船所が鈴木の手に渡ったのも此時分の事であろう。一時資本金一千五百万円にしたが今では三百七十五万円に減じている。いずこも同じ秋の夕暮だ。

三井大御所から大目玉

明治海運は太洋海運と共に三井船舶部の別働隊で、専務取締役谷口茂雄を初め依田治作、吉弘素郎、倉沢弘信諸氏はいずれも一時三井家の縁を食んだものだ。株主中にも川村貞次郎、大久保武氏等三井筋のものが多い創立は明治四十四年だが最初此計画を樹てた時に、どうしても三井大御所の許諾がないと末恐ろしいとの事で、こわば伺いを立ていると「ウンそうか」という具合だから、占めたと愈々創立したが、後で之を聞こし召した大御所はどう風向きが変ったか御感頗る斜で、「三井の恩顧を受けながら社員が類似の会社を造るなど怪しからぬ」との御宣託。蓋し曩の「ウンそうか」は許諾でも何でもなく、単に話しの調子を合せる生返事であったのだろう。それで川村などは裏面でコッソリ手をつないでいても表面縁を絶つことにした。内田信也氏がその当時飛び出したのは罪を一人で脊負ったのだとも謂われている。

ビルディングが金喰虫

親爺が怒ろうが怒るまいが、纜を解いた船だ、今更後へ引けぬ。かりそめにも禄を返上すればコッちの身体、大きに御世話様だという訳で社員四五名は辞職して、大ビラに店開きした。そのうちに欧戦にブッつかり、素晴らしい発展振を見せ、一時二十割の配当をやり五十円の株券が千五百円羽根が生えて飛んで行ったものだ。其が今日無配当を続けねばならぬナンて全く夢のような話株主が此当時を回顧したら嘸くやし涙が零れるであろう。明治海運の今日の悲境は好況時に調子づいて、百四十万円も出して明海ビルディングを建てたのに基因している。河童が陸に這上って金儲けを考えるなんて僭越の沙汰だ。同一筆法で橋本喜造氏の大阪堂島ビルディングの社長なども占いは凶とある。

ホーマツ会社の断末魔

乾新兵衛の忰鼎一、岸本信太郎、小曾根貞松、沢田亀之助氏等類を以て集まって拵え上げた三百万円の神港汽船は、勿論親の新兵衛氏から金を引出していた。横浜の増田屋造船所へ中型船を註文したが例の米鉄禁輸問題に引かかり引渡期限が遅れたので文句がつき、二百万円の繋争が起って神戸裁判所で永らく審理された。其後和解出来てキャンセル・レードで船を引受けたとの事だ。
更に神戸財界の重鎮川西清兵衛、伊藤長蔵、福原芳次、辻村芳太郎岸本信太郎氏等の御歴々の顔揃いで造られた三百五十万円の大正汽船は戦時好況時代に盛んにプレミヤム附で株式を募集したりなどして、懐ろを温めて置きながら、さて海運界が悪化すると株式は反古同様となったので株主に多大の迷惑をかけ、債権者たる第一銀行へは所有船をオッ放り出して随意御処分をと出た。あの顔揃でさえ後は尻喰え観音様だから驚くじゃないか。勝田氏などは人事でないように憤慨していたものだ。現在其浅薄は山下汽船が第一銀行から委託を受けて運航しているが算盤をオッ伏せて掛っていることは申すまでもない。其他船価一千円のレコードを造ったが、遂に破産した組合汽船、戦時中社外船の大立物としてオーシアンサービスをやった太洋海運、古くから北海道方面に活躍している古船専門の日下部汽船など書き漏らしたこと多くあるがあまり永くなるから社外船系は此辺で一先ず擱筆する(社外船系終)

(九十八) 鶴彦式に網を張った大倉系

明治維新の変革に逢って、いわゆる旧幕藩士の大部分があたら家禄を棒にふり、二進も三進もいかなくなって陋巷に流浪するものが数え切れぬ程あったのと対照して幕末以降町人階級の擡頭には著るしいものがある。既に天明の頃から町人の金権はよく武士階級を、隠然支配下に置いていたが士商の地位懸絶は、僅かに表面上だけでも武士の実際的勢力の破綻を弥縫しつつあった。ところが維新以後は、いわゆる強い者勝ちとなり、世襲の特権に根ざした武士の名聞は一とたまりもなく崩壊し、苟も金力に万能の世界を建設しつつあった町人階級は、到るところに『名よりも実』の真諦を発揮しはじめたのである。ある意味でいうと、何事かのドサクサまぎれに、絶えず何がな儲け口をと鵜の眼鷹の眼で探がし廻っていた町人根性が、あわよくも明治擾乱の時世相にピッタリと適合したのかも知れない。よくいえば、江戸町人の血を貫流しつつあった河村瑞軒流の商魂のあらわれとも見られる。

他人の褌で相撲

戦争成金という言葉は必らずしも大戦後に出来上った言葉じゃない。近くは日清、日露の両役、更に上野奥羽の内輪喧嘩、ずっと昔にさかのぼって徳川豊臣の大阪夏冬両度の陣にも、いくさ成金のあったことは歴史にチャンと書いてある。殊に大阪陣の成金旗頭、淀屋三郎右衛門などは金箔付の戦争成金といってよかろう。こう詮じつめて来ると剣戟を執って敵と相見える商売ほど割の悪いものはないと同時に、そのドサクサまぎれにうまく富を致す町人くらいいい株は一寸ない。古往今来、この手が随時随所に見出される所以も亦実にここにあるのである。世にはこういう手合いを目して、他人の褌で相撲をとる者だぞと、悪しざまにあげづらう向きもあるようだが商売の妙諦は所詮そこにあるんだから仕方がない。これを再び話をあとへ、明治維新当時に持って来てあてはめてみると、血なまぐさい風の煽りを食って庇古垂れていたんでは金にならなかった。資本を相当持っている以上は、矢でも鉄砲でも、反対にこちらから持って行って官軍とやらの御用をつとめる度胸と判断とが必要であったのである。しかしこれは、誰も彼もがそうという訳には行かない。そこには資本以外に、商人としての明敏さを持っている人間の信念更に運というやつ、これ等の適当に塩梅された一つの人格が終局の寵児たり得るのであった。

御用筆頭大倉組

繰返していうが、明治以後、四民平等の時代になって始めて、爾来第四階級扱いをうけつつあった商人が、名実ともに出世したのは、金権の擡頭が露骨になった証拠である。これを換言すれば、いわゆるお上の御用商人として天下を闊歩し得るに至って一層金権者流の勢力が拡大され、士族階級の淪落が普遍的になったといわねばならない。ただ因習の久しき、曾ては士分であったという族□が、僅かに金権に対する空威張りをつづけ得たに止まる。即ち明治初頭の変革は、御用商人系を中心とした金権発達史のある一頁を濃く彩どるものといって差支えなかろう。以来御用商人なる名称は政商という文字で置きかえられ、当路の御用をつとめた境涯が、政治的に当路に対する一種の力となった。またこの力こそは金権の伸長にどのくらい貢献しているか知れない。平たくいえば、お互いに持ちつ持たれつで、ひた押しに押して来たのである。そのいわゆる政商なりものに端を発して、今日わが財界に一大勢力を扶植しつつあるもの、数えあげれば十指を屈するに余りあるが、現在においては何れも単なる御用商人で終始して居ない。従って特に御用商人系としての意味でなく、比較的政商臭味の濃厚なものを二三述べて見たい。その筆はじめは何といっても大倉組であろう。維新前後に播いた種は、その後、果してどう根をはり実を結んだか。
蒔かぬ種は生えぬという。大倉組が今日の大を成すに至った其種蒔きの発頭人は、いわずと知れた鶴彦、大倉喜八郎その人である、時節もよかった、畑もよかった、しかしこれに培う人物が余程しっかりした精神を持っていなければとても立派な収穫は得られない、偶然、明治維新という過渡時代に廻り合せ、鉄砲屋をやっていたお蔭で金儲けの第一歩を踏み出したのだと見ちゃア気の毒だ、鶴彦翁が常人には見出し難い確乎不抜な精神の持ち主だったことが一般的には偶然の鉢合せとも見られる当年の幸運をかち得、将来大飛躍の素地を作ったのだといいたい、この点だけは、たしかに買って置くねうちがあろう、しかも来年は米寿を祝おうという高齢にも怯げず若い者はだしの概があるのには、あらゆる意味で御盛んなことといわなくちゃならぬ。

(九十九) 鶴彦式に網を張った大倉系

運鉄砲狙い打ち

大倉組の発祥を説くには、どうしても本尊であるところの鶴彦翁出所進退の一とくさりだけでも述べて置く必要があろうというものだ、天保八年九月、越後の国は新発田のささやかな家に生まれ、十八歳で江戸に出てから麻生あたりのある乾物屋へ年期奉公に住み込んだ、ここで幾年か干物の臭いをかいでいるうちに小金をため、それで下谷上野に独立の乾物屋を開いて、持ち前の負けぬ気でコツコツやっているうち、追々財産をこしらえたのが、そもそも今日のモトデになったものと見える、こ□らでおさまり返ってしまったなら結局平凡な海産物問屋の大将ぐらいでケリとなったかも知れないが眼のつけどころが矢っ張りちがっていた、つらつら当時宇内の形勢を観望するに、どうも一と波瀾なくては収まりそうもない、そこへ眼をつけてはじめたのが、乾物とは余っぽど縁の遠い鉄砲店だったそれが丁度慶応元年だったというからねらい時もいい、飛び道具なぞはまかり間違うと恐ろしいなんて夢にも考えなかったところに鶴彦翁、当年の度胸もあれば機敏さもたっぷりある、しかもこれが三十前後の血気盛りだから当るのは当り前だ、つまり官軍へ兵器の売込みはマンマと成就したのである何しろ命道具の商売であてたのだから、持てあまし物の船が競争で値を呼んで呉れたおかげで成金様になった連中とは、テンで肌合いがちがっている、これが翁を目して信念の人とする世評に懸値のない所以だろう。

対支放資の先鞭

翁が追々その産を成すにつれ、殊に身上もふとった日清の役後、常に吐露しつつあった経綸は、云うまでもなく日支両国の経済的結合である。しかも自ら進んで対支放資の先鞭をつけ、数あるわが資本家連中に一と泡吹かせたことも偉い。大倉の事業はそのモットーとして是非共国家的であることが必要だ。対支投資事業なぞは、この趣意から出発するものであるとの見識こそは、夙に翁の抱懐するところであった。従って自家一個の利益は度外視しても国家永遠の計に寄与したいという心組もあったことは相当認めざるを得ぬ。これが延いて大倉組が支那で頗る重要視された理由にもなる。こういうわけで、対支放資の一番槍でも知られる通り、鶴彦翁は常に時代の先駆者たらんとつとめつつあるようだ。たとえば対独貿易の伸張を画策して、ドイツ人と共同経営になる『大倉ローデ株式会社』創立の如き、更に世は無電の時代に推移しつつあるを観破し、わが酷斯業の発達を将来するために、『日本無線電信電話株式会社』をこしらえたことの如き、八十七翁の主宰する大倉系の事業としては蓋し、そくばくの新味もあれば真面目さもあるではないか。

銀行をやらぬ訳

序に云って置くが、天下の大倉組にその経営する銀行なるものがないわけだ。一体、事業を以て終始すべき所謂事業家が、片手間に銀行を経営することの危険なことは随分云いつくされていることであるが、鶴彦翁の銀行をやらぬ仔細は勿論如上の時弊を痛感している以外に、虫が好かないのだ。他人の臍繰りを預かって利をせせるよりも、自分の金で自分の事業をやるつまり何処までも女で行かずに男で進もうというやり方だ。
鶴彦翁はまたこんなことを謂っている。即ち、『金は事業のカスである』然と。という意味は、事業の目的は金にあるのではなくして、事業そのものの完成に存する。金なるものは、云わばその完成への道程において排泄される一つの有機物に過ぎない。これが還元して事業の原動力になることは事実だが、必ずしも事業終局の標的ではないというのだ。この言いぐさは、考えようによっては頗る太平楽な申し条で、いわゆるその「カス」なるものには縁の遠い者共のやきもちを購うに充分であるかも知れないが、あの年になって今でも日曜祭日お構いなくノコノコと、大倉組の本社へ出蒐けてその経営になる各般の業務に自ら点検の労を惜しまないところを見ると、仕事そのものに余程の興味と愛着とを感じているらしいく思われるのだ。この点では、どこか安田善次郎翁と一掬の情味に似通うたところがあるようにも見える。ただ彼れの銀行屋を商売とし飽くまで金で終始したのに対しこれの事業本位な進み方が、両者の間にあざやかなラインを劃しているのに過ぎない。

(百) 鶴彦式に網を張った大倉系

唯一人の胸三寸

凡そ、その関係事業の範囲が広汎にわたればわたるほど、これを統轄する上において、主宰者にかなりの独断を要求するものだ。換言すれば統率者に一種の力が欲しくなって来る。こうなると必然的にそのひとりが、どこまでも専制君主の地位にあらねばならない。鶴彦翁の位置は実にこれである。大倉組の頭取としての以外に、幾多の関係事業に首脳としての翁の独裁的行動は、著しく眼につく。そして唯一人の胸三寸から割り出されるだけ、それだけ断行するまでに暇どらないで済む。俺がいやだから銀行なんぞやるなといえば、一も二もなくそれでおさまってゆくシムプルさだ。しかし、これは鶴彦翁のような人でなければとても出来ぬことなのは勿論である。明治十年、西南戦争当時、翁は例の兵器御用や、土木請負で官軍のお供をして九州へ出掛けたが、時恰も朝鮮は大飢饉に逢遭し、日本政府へ是非米を送って貰いたいと申し込んで来た。ところが廟議は、内政多端を口実に手もなくこの請願を一蹴しようとしたのを、傑物大久保甲東の説破するところとなり、遂に救済することに廟議一決を見たが、さて送米の事に当る者がない。この時、進んでこれに従事したのは鶴彦翁であった。当路の懇請も無論あったろうが、翁が潔く引受けたのは、また翁の果敢な天分の発露ともいい得べく、一面、他に何ものにも煩らわされずに信ずるところを行うという、独断的な意思の発芽とも見得るのである。

帝劇創立発起人

翁がはじめて海外の土をふんだのは明治五年だが、帰来、同八年には内外用達会社なるものを組織した。実際は海外貿易を営業の目的としているにもかかわらず「内外用達会社」は珍ではないか。政府の御用達が当時の本業だったからかも知れない、ロンドン、ハンブルグ、ニューヨークなぞへ支店を置いたのも、三井や三菱より一と足お先きである。この点ばかりではない。何でも新らしいことのやりたい翁は、後年渋沢子爵なぞと計って外国人御用の帝国ホテルをこしらえたり、更に銀座街頭の本社へ、当時まだ物珍らしかった電灯をとり付けたり、東京電灯株式会社の設立発起者になったり、とにかくいい意味での新らしがり屋振りを発揮したものだった。更に更に、帝国劇場株式会社の創立発起人で現社長であることなどを思いめぐらせば、そこに鶴彦翁特有の何物かがひそんでいるように考えられないでもない。息喜七郎氏に日本自動車株式会社をやらせていることも、鶴彦翁の心境に多少の脈絡なしとすまい。

当局者の大自慢

大倉組の事業は、こう詮じつめて来ると本社頭取なる鶴彦翁の方寸に悉く切り盛りされつつあるといっても差支えない。息喜七郎氏女婿粂馬氏、さては総支配人であるところの門野重九郎氏等は、無論内面的には相当の献策もし、画策もしていようが、対外的にはどこまでも鶴彦翁の一人舞台なのである。この点からいえば大倉組なるものは、他のどの一流事業会社よりも仕事の仕勝手がいいというもので事業の締めくくりにも相当融通が利くわけだ。お蔭で大正九年の財界変動時代にも、大した怪我がなくて済んだという当局者の自慢にも、若干の真実性を窺い得られるといってよかろう。さればこそ鶴彦翁も感涙会を催して得意の一中をうなり、狂歌を無暗に作っては人に与え、さては常食のウナギで生命の延長を心がける余裕があるというものである。
一体、鶴彦翁が極めて独裁主義の人物であるからその手足となって働くべき者は余程やりにくい立場にある。現在の息喜七郎氏でも、女婿粂馬氏でも、門野重九郎氏でもその各々の仕事の上に、軽からぬハンディキャップを負わされていることは争われない。ただこの傾向が年とともに漸く緩和され、老人の差出口も追々こまかいところまで突込んで行かなくなったことはちかごろ、急に目立って来たと噂されているが、帝国ホテルの社長を喜七郎氏に譲ったくらいのもので、女婿高島小金治氏の歿後新高製糖株式会社には御大自らが采配をふっていることなどを見ると所詮、鶴彦翁はその主張通りに一生働こうと努力しているとしか思われない。もう鶴彦頭取も対支関係事業だけに一枚看板として顔を出していればそれで沢山なのじゃなかろうか。こう考えると最近かつぎ上げられた日支合弁事業の「山東鉱業株式会社」社長は蓋し恰好な隠居役だろう。

(百一) 鶴彦式に網を張った大倉系

大倉組の借勘定

話は少しわき道に入るが、いわゆる富豪連中なるものの社会奉仕観念ほど不確かな、強いていえば虚心坦懐に頂戴出来かねるものは少なかろう。これを売名といっても罪ほろぼしといっても名は何でもいい、要するに人の為め、社会のために何事かを貢献するという趣旨は、必らず利己という厚ぼったい裏うちで突っ張られているとしか受けとられない。
こういう社会意識を知らず識らず馴致したのは一体誰れの罪であるか。話をもとへ返えす。大倉組が何かここに一つの社会奉仕的事業を目論むとすると、世人は一種の悪い意味合いでの微笑を投げるであろう。かの桂公の済生会創立にあたって、鶴彦翁が百万円をこれに寄附するや、これ人爵をねだる下ごころであると推される。鶴彦翁が日支の古美術品を蒐集して美術保存の蔵である集古館を建設すると、その志当すべきにもかかわらず、金持の道楽視され贅沢視される。
これを社会的嫉妬だといえばそれきりだが、畢竟大倉組が多少でも社会的には反感を買わねばならぬ種をまいているために外ならぬ。その内容にわたる記述は姑らくこれを避けるが、政商出身の色彩が濃厚であるだけに大倉組に対する世間の眼に、一種特別の光線が放射されるのだろう。これは単に政権と金権との個々に対する社会反感のあらわれと見るよりも特に大倉組が負わねばならぬ借勘定ではなかろうか。

営利奉仕二筋道

こう述べて来ると、何をしても割引なしに受取られないことになって、どこまでも損の卦である。しかしながら鶴彦翁並にこれを取く人々は漸く時代に活眼をみひらき、営利会社の本領と社会奉仕の観念とを結びつけようと努力しつつあることは、それが頗る至難事であるにしてもまた嘉すべき現象といわねばなるまい、その事業としては青島冷蔵株式会社の創立がある。大倉組当局者はこれを以て社会奉仕の実を揚げるのだと威張っている。が、まだ夫には早くないか。同社は鶴彦翁が支那の地盤を利用し、大正十年冷蔵庫設備を有する開始洋行を買収して米人カッツ氏と共同経営の下に創立したものである。営業の目的は山東河南其他から豊富な牛豚、蔬菜、果実などを冷蔵船で内地へ輸入し大に物価調節に資せんというのにある。

投資家気取り

人あり、大倉組の関係者なにがしに向って、大倉組は所詮御用商人であるというようなことを仮りにいったとする。するとそのなにがしなるものは、必ずこれを否定するような口吻を洩らす。即ち、大倉が御用商人であったのは創業以来明治中葉くらいまでのことで、それ以後は全然直輸出入商であり、投資業者であるなぞといって、いわゆる御用達という言葉をひどく気にするような風が見える。もともと御用商人から今日の地位になったことは、世間周知の事実であるから、何もそうまで遠慮することはあるまいではないか。三井だって三菱だって、歴史的に見れば立派にお上の御用をつとめていたのである。ただこの御用商人ということがそうまで大倉組当事者にとって気になるのは、大倉組が現在、前二者よりも政商の色彩が濃厚であるということを自ら承知していればこそだ。いわゆる語るに落つるのたぐいに過ぎぬ。その営業科目として、色々書き上げている最後に、「其他陸海軍御用一式」というのがある。創業当時の表看板だもの、これを落してなるものか。しかるにも拘らず、御用商人視されるのを忌むような態度を見せることこそは腑に落ちぬではないか。案ずるに、頭取は男爵閣下である。息喜七郎氏の室は溝口直亮伯の令妹であるという一種の見得が、時代おくれの三太夫根性を持つ連中に、親方の箔を落させまいため、強いて「御用商人」なる肩書から遠ざかろうと努めさせるのであろう。

金看板対支事業

勿論、鶴彦翁が今日の境地からいえば、お上の御用ということよりも、対支投資事業会社という金看板の方が世間体もいいに決まっている。しかし幕末から明治中葉へかけて伸ばして行った一つの手は支那であり、一つの手は政府であった以上、しかも現在、その経営乃至投資事業であるところの、満洲本渓湖煤鉄公司にしろ、●皮炭鉱にしろ更に鶴彦翁が支那の借款に応じてそれが基礎となって出来たと誇負する漢治萍煤鉄公司にしろ、何れも政府と因縁を結んでいないものはない。凡そかかる種類の事業が政商臭味を離れて立ちゆくものではないのである、恐らくこの点では、三井でも三菱でも乃至高田でも、きっとそう考えているにちがいない。それをその実際において一番露骨であり、濃厚である大倉組が、回護の弁を弄するなぞは頗るケッタイ至極とやいわん、寧ろ識者の嗤笑を購うに過ぎぬであろう。

(百二) 鶴彦式に網を張った大倉系

鶴彦翁の肚の中

上に述べた●川炭鉱の如きにしても、日支合併事業ではないが、これも御用商人系に属すべき藤田組との共同経営になるものだから、先ず文句はいえない。東拓と共同で沿海県に極東林業組合をやっているほか、支那における事業をあげて見ると、長春の興材公司吉林の興林公司等がある。更に内地における御用臭味を求めるならば、これ亦決して少ないことはない。目ぼしいものとして先ず大倉鉱業会社に縁あるものからいえば山口県大浜炭鉱もそうである。北海道の茂尻炭鉱もそうである。関係事業たる日本皮革、日本製靴の両会社もそうである。更に直属事業として有する日本土木株式会社なぞは、立派な御用組ではないか。これ等の事実は、大倉関係者が、御用商人ではござらぬなぞと、いい訳にも何にもならない無意味なことを謂っているのに対して、片っ端から裏切っている、「れっき」とした証拠である。これには鶴彦翁も余計なことを弁解する奴等じゃときっと腹を立てているに相違ない。最近中止の噂もある奉天の大将張作霖と共同事業、蒙古開発を使命とする興発公司の行き悩みは畢竟、日本政府の方針が始終猫の目のようにかわるからのことだとこぼしているようだが、御用商人にもこの嘆きがあることを痛切に世人に感知せしめている。しかしながら名にし負う大倉組である。これに挫折しないで、更に蒙古水田の開発を今やもくろんでいることは注意しなければならぬ。御用のお声がかりは、きっと何かの形でモノにするに違いなかろうから。既に述べた通り、大倉系の事業という事業は、大なり小なり鶴彦翁の独裁的手腕の下に統御されていることはあくまで事実であるが、その間、これを輔佐し誘掖してゆくいわゆる中枢人物なるものがなければ、鶴彦翁のような稀に見る精力家でも十分にその天資を発揮することは不可能である。これを一方から云えば、鶴彦翁にしてはじめて這個の人物を適所に配置してその妙腕をふるわしめることが出来るのだと見られないこともない。大倉系にはいわゆる人材なるものもまた決して少しとはしないのである。人物の鑑識眼、これも鶴彦翁には一つの才能と云ってよかろう。喜七郎氏はその嗣子であるから、先ず別格としても、女婿粂馬氏、門野車九郎氏等は大倉組の至実と云っても然るべき人材である、この三氏が現在の大倉組の最高幹部として鶴彦翁を守り立てている以上は、鶴彦翁も頗る力強く感じていいのである。今姑らく上記三氏について語ろう

料理の実地指導

息喜七郎氏はやがて二代目大倉組頭取たるべき人である。富豪の子弟としては珍らしき明敏な頭脳の所有者で、学歴から云えば慶応義塾、学習院等を経て英国に留学しケンブリッヂ大学を卒業している。そのロンドンにあるや、当時支店長であった門野重九郎氏の薫陶をうけ、英国流に仕立てあげられたと伝えられる。鶴彦翁も吾が子ながらひそかに恃むところが多いことを誇っているようである。喜七郎氏の関係事業としては、大倉系全般にわたって父鶴彦翁の輔佐役である以上、とり立てて云うまでもないが、先ず合名会社大倉組の監事として枢機に参与しているほか、いわゆる大倉組代表者として其勢力範囲の仕事にあたっている。現狂喜七郎氏が社長としておさまっているのは、株式会社帝国ホテルである。帝国ホテルの建築様式に関する批判は別問題だが乃父鶴彦翁が外人技師に全然一任して思うままに腕を揮わせた結晶と見るとき、これに社長たるには是非共鶴彦翁の後継者としての新生面を開拓する必要があろう。聞けば喜七郎氏は多年海外にあったばかりでなく、新時代人としてホテル改善には余程研究的良心を持っているらしく、自ら料理の実地指導までやる熱心さである。

ナポレオンの子

その他取締役又は監査役としての関係事業のその悉くが必らずしも純大倉系とはいえぬが、大倉組の勢力範囲に属するものをあげてみると、長谷川正五博士を専務取締役とする大阪の汽車製造株式会社取締役がある。これは単に名義ばかりでなく実際上氏の活動にまつものが多い。日本自動車株式会社これにも氏は取締役として就任している。氏自身自動車の操縦が上手で、アメリカのレースにも勝ったという腕前を持っているせいばかりでなく、ホテル経営者であり一方に自動車会社の首班であることは、蓋し切離せぬ仕事の上の必要からも来たのだろう。此外秋田木材株式会社、郡山電気株式会社等も氏の関係事業である。更に島津製作所(京都)三菱及大倉三社共同になる日本電池株式会社の取締役であることも記憶しなければならないが、大倉組の大事業たる対支関係の各種の仕事は、何等かの名義で大小となく関係していることは、氏の将来のため頗る重要視しなければなるまい。明敏な頭脳の持主である氏は画策にいやしくも手落のあるようなことはあるまいが、父鶴彦翁は支那人から事業上に於て『東洋のナポレオン』とまで畏称されている。しかも対支投資は、底のない瓶へ水をつぎこむような利の廻りのわるい事業といわれている。ナポレオンの子よくナポレオンたり得るか、喜八郎氏の対支手腕は昨年鶴彦翁米寿を期として隠退以後に考察しなければならぬ。

(百三) 鶴彦式に網を張った大倉系

片腕を殺がる

鶴彦翁の女婿としては、曾ては高島小金治氏があり、これと並んで現在大倉粂馬氏がある。昨年夏高島小金治氏の唐突な逝去は、鶴彦翁にとって片腕を失ったよりも更に以上の落胆であり、また淋びしさであったにちがいない。高島氏は翁の長女時子の婚家で、翁が高島氏を見るの明は流石にちがったものであった、小金治氏はその若い頃は政治に趣味を持って、遊説演説をやってあるいたくらいだから、一種の気骨を持っていたことは十分うなづかれる。その経営第一に属する新高製糖の如きは、好況時代には破格の配当をやって財界の驚異となったほとで、一に小金治氏の凄腕によるものと称されていた。しかしそのやり方が派手であっただけ、それだけ財界変動期以後に、うけた打撃は著しいもの一があった。小金治氏の苦心もここに存したのであるが不幸、天は彼に寿をかさなかった。これは鶴彦翁にも非常な打撃である。一方、大倉系の事業の一である帝国ホテルの焼失というような災厄に見舞われた。そこで鶴彦翁は先ず帝国ホテルの地位を喜七郎氏に譲ると同時に、小金治氏なきあとの新高製糖に事実上の社長として采配をふるわねばならなくなったのである。小金治氏がいたならば鶴彦翁も、余程意気込がちがうであろう。過般新高製糖と某社との合併問題が起ったようだが、恐らくこれは翁の本意ではあるまい。鶴彦翁としてはどこまでも翁一流の負けぬ気でやり通す所存とも思われるが才物小金治氏のないことは飽くまで同社の損失に相違ないのである

英才の生くる道

しかしながら鶴彦翁には現在、以てその大事業を託すに足る女婿粂馬氏がある。粂馬氏は明治二十四年帝大出身の工学士である。同期生中には既に幾多の博士を輩出しているのであるが、粂馬氏は大倉家にあって一意、同家の事業に没頭し岳父の画策に参与しつつあるのは、また氏の真実性の発露と見なければならない。案ずるに氏は単なる富豪の附馬ではなく、大倉組の各種事業、殊に土木関係の仕事にとって絶大の功労者であるとまで称揚されている所以もそこにあるのではなかろうか。氏が九州伊藤家を出て、大倉家に入るや、あたら英才を骨ぬきにしてしまうものであるとの世評もあったようであるが、名にし負う鶴彦翁の鑑識と才気とは、粂馬氏をして思う存分腕をふるわしめた。勿論表面上はどこまでも鶴彦翁の独り舞台で世間的には粂馬氏の仕事は縁の下の力持であったろうが、鶴彦翁の仕事の大部分は粂馬氏の努力に負うところが決して少くなかったのである。将来大倉系の事業の一部を代表する者として、粂馬氏のあることも逸してはならないと思う。

献身的な活動振

現在、粂馬氏の関係事業としては土木関係を第一にあげなければならぬ。安田と共同経営になる東京建物株式会社、東京湾土地株式会社、更に直属の日本土木株式会社あり、その学歴から当然と思われるものに、月島機械株式会社取締役、守随度量衡製作所監査役等がある。其他大倉組の監事、大倉商事、大倉鉱業の各監査役は今更いうまでもなかろう。而して、大倉組の事業として注意すべき、中央セメント、鴨緑江製紙、日本酢酸、日清製油等には取締役として就任しつつあることもあげなければならない。最後に大倉組の出資によって朝鮮に最近創立され、門野重九郎氏を社長とする朝鮮肥料株式会社にも氏は監査役として関係を有っている。該社は釜山に本店を置き、創立間もないこととて未だ業績の見るべきものはないが、門野氏の手腕はよくこれを育成してゆくであろうと思われる。なお、粂馬氏の令弟伊藤琢磨氏が日本皮革株式会社の社長として、大倉系事業の一勢力をなしつつあることも記憶する必要があろう。之れを要するに大倉系の事業の総帥には喜七郎氏これにあたり、その輔佐役の一人としては是非共粂馬氏がこれに従うという将来を予想する時は、粂馬氏の献身的な活動ぶりは、蓋し大倉系事業を盤石の安きに置くものといってよかろう。大倉系の事業を述べるに当って、鶴彦翁の独裁的手腕について既にあまり多くを語ったようだが粂馬氏の関係事業を一瞥すれば、翁の見識のよく行われつつあること、畢竟は粂馬氏等の努力であることを想見させられないではない。

大倉の団琢磨

三井に団琢磨、三菱に木村久寿弥太という大番頭があることを知っている者は、大倉に門野重九郎という切れ者の存在することも亦知っている筈だ。団、木村の二氏が三井三菱の夫々に対して頗る肝要な地位にあるのと同様に、門野氏が大倉組における重要さは、今更いうまでもない。現在合名会社大倉組の副頭取として、喜七郎氏の後見役として、更に一歩進めれば、大倉系事業界の参謀総長としての氏の手腕力量は、既に世間周知の事実である。

(百四) 鶴彦式に網を張った大倉系

大倉組の大黒柱

氏は粂馬氏と同様明治二十四年帝大出の工学士で、曩に山陽鉄道に関係し、後鶴彦翁に懇望されて大倉組に入った天才的な世界的語学者であるところの氏は、大倉組のロンドン支店長として彼地にあること十二三年、人格識見共に、純英国紳士的の型に出来上ってしまった。誠に大倉組の大黒柱たるに恥じぬ人材である。更にこれを忌憚なくいえば、一大倉組が占有すべき人物ではないのである。さればこそ、或は支那公使に擬せられ、或は満鉄社長に二回までも推され、更に慶応義塾の塾長に推挙されんとしたくらいだ。支那公使、満鉄社長等の職は氏の事業的手腕が遍く認識された結果、推薦されたのであろう。

広汎な関係範囲

門野氏の関係事業全部は必らずしも純大倉系とはいいかねるのであろうが、重複をいとわず、大倉系における氏の事業を列記するならば、大倉組副頭取、大倉商事取締役、大倉鉱業取締役、日清製油取締役、鴨緑江製紙取締役、朝鮮肥料会社、東京湾工地会社、日本無線電信電話会社、大浜炭鉱会社等の各社長、更に、大倉ローデ、山東鉱業等の取締役に就任し、荒井現農相が前社長であった東亜興業株式会社には、専務白岩竜平氏と並んで取締役をつとめ鶴彦翁の肝煎によって事業合併の先駆をなしたところの東京毛織物、東洋毛織、東京製絨三社から成立する東京毛織株式会社の監査役をつとめている。其他会寧にある豆満江林業取締役、原錦吾氏社長の日本共立火災保険会社の取締役、宇和水電監査役等は、門野氏一個の勢力と見てもその関係範囲の頗る広汎なることを思わしめられる。

人材登用の方針

大倉組を語る当初、安田善次郎翁と、鶴彦翁との心事に一味相通ずる点のあることを述べたように思う。即ち、若し明治事業家列伝中に、大倉及安田両家の共通的色彩を発見しようとするならば、幾らも摘出出来るかも知れないのである。いわゆる安田家とか大倉組とかの名称が有つ旧式な観念において殊にそれは容易であろう。昔風に、店員制度の形態を存し、いわゆる子飼いのお店者を養成してゆくことの如きは、両家共、ほぼ同様なやり方らしく思われていた。然るに、門野氏の大倉組に入って以来、そういった風は漸次すたれ人材採用の方針も余程変化を生じたようである。鶴彦翁がその一つの事業としてやっている大倉高等商業、同夜学部、大阪大倉商業、京城の善隣商業の如き育英事業も、門野氏の識見のあらわれと見て見えぬことはないのである。

個人としての門野氏

大倉組の重宝、門野重九郎氏についての記述は大体その要をつくしたと思うが、氏個人としての活動も実際一瞥して置く必要があろう即ち、其の政府関係の仕事と云えば、軍需評議員会委員、財政経済調査会委員等がある。更に欧洲大戦の後始末であるゼノア会議には日本側委員の顧問として出席し、吾国の経済事情についての、生きた智慧袋となったことは、世人の夙に知悉する処であろう。民間事業界では、一昨年の英米訪問実業団に加わって、対支問題、鉱山問題に関する意見の代表者となった。

其他の関係事業

大倉組の関係事業大系は、鶴彦翁を中心に、喜七郎、粂馬、門野重九郎氏と漸を逐うてその事業方面の手腕乃至業績を記したつもりである。が、ここに補遺として書きたいのは、大倉組直系事業なるものの二三についてである。其一つは、鶴彦翁出生の土地たる越後新発田に第二工場を有する大倉製糸株式会社である。同社は信州山丸組の名で製糸業界に重きをなす越寿三郎氏と共同経営にかかる。更に我国における化学工業会社創立の先駆をなすところの日本化学工業株式会社なるものがある。これが社長には鶴彦翁が自ら当っているが、此外福島県入山採炭株式会社を逸してはなるまい。

大倉独特の境地

大倉組関係事業は鶴彦翁独り舞台の観があった。しかし翁は明年米寿を機として閑地に就くといっている。翁引退以後の中心人物は誰であるか、勿論喜七郎氏が首脳となり、これを補佐するに粂馬、門野重九郎両氏があるが、ソノ他梅浦健吉、林幾太郎、山田馬次郎、横山信毅、岡五郎、本宿家全氏等その中枢人物と見て差支えあるまい。殊に梅浦氏の如きは、その学歴からいっては僅かに水産講習所出身に過ぎないが、現在大倉組関係事業中の入山採炭、日本化学工業、郡山電気、極東林業組合等にあって、大倉組代表者としての切れ味を示しつつあることは、頗る視聴を惹くに足りるという評判である。之を要するに、大倉組なるものが、明治維新に興って以来、半世紀にわたる努力によって、よく今日の地盤をきずき上げたことは、一に鶴彦翁の人物手腕によるとしても、亦これを補佐誘掖し翁をして今日あらしめた各中枢人物の献身的な活動の結果であることはいうを俟たないのである(大倉系完)

(百五) 製糸業の雄を網羅する信州系

蚕の国生糸国

豊葦原の瑞穂の国とか、八束穂のたり穂の国とかいったのは米騒動の起らね昔のこと、もし何かの特産品で強いて現代の我国をエキスプレスしようとするなら、今のところ蚕の国、生糸の国というより他に適当な言いあらわし方はあるまい。実際今日のわが国で原料その他一切を自給自足し得るもの、そして年々の対外輸出貿易に於いて最高地位を占めおまけにその輸出品が世界の市場を殆ど独占的に左右し得るだけの実力を有って居るものが、生糸以外に何がある。尤も近来外国人の間で何かとケチをつけられ出したようではあるが兎に角全世界の総生産高の六割以上を一手に産出し、最大消費国たるアメリカに対しその需要総額の約七割を供給しつつある事実は、誰が何といつても蚕の国生糸の国たる誇りを恣にし得る訳ではないか。之を仏国リオン蚕糸商組合の調査に係る最近数ヶ年間の世界生糸産額表に徴するに(単位千キロ)

[図表あり 省略]

右の如くわが国の生産割合は一九一九年が五割五分七厘、一九二〇年が五割二分三厘、一九二一年が六割一分二厘に当って居るばかりでなく、日本及び支那の数字は輸出額だけであるから、内地消費量などを加えた実際の生産高は恐らく優に世界総生産高の七割以上に上る筈である

生糸貿易の消長

序に今少しく数字を列べさせていただくとアメリカに対する日本生糸の供給割合は、一九一六年及び一七年が七割八分、一九一八年が八割二分、一九一九年が八割三分一九二〇年及び二一年が七割一分である、更に翻って対内的に蚕糸類輸出額の本邦輸出総額に対する割合を見ると、明治元年には六割六分六厘、翌年には六割六分九厘であったが、その後生糸以外の諸商品貿易の発展により割合だけはメリ込んで来て、一番不況だった大正七年には二割一分に落ち、再び盛返して来た昨大正十一年には四割三分という率であったところで値段の変遷はどうかというに、明治元年の百斤平均五百三十二円を振り出しに、明治二年が六百七十八円、同五年が八百五十七円、同八年にグッと落ちて四百五十九円それから又盛返して同三十二年には遂に千円台突破のレコードを作って千五十三円、其後一高一低、大正四年頃の八九百円台を底値とし大抵千二三百円どころを維持しているうち、大正七年には五百二十一円のガラ落ちで例の喧ましかった帝蚕の出現などもあり、翌八年には二千百七十九円に跳ね上って、帝蚕の連中を喜こばすこと並大抵でなく、武藤金さんあたりが議会で、農商務大臣気取りの口はばったい説明かなんかで『お前はなんだ』と三木君なぞに叱られたりしているうち、大正十年には千五百九十三円という漸落でチョット悲観させられたが昨年は二千二百円内外に引っ返えし、今年もどうやらかなりの高値が気構えられて居るという有様、かつて井上日銀がいうた如く今日のわが貿易は、全く生糸の値段と売行とで死活を制せられて居るといった姿、何んと大したものではないか、しかもその大したわが国の生糸の約六割までは信州並に信州系の勢力範囲下で産出されるのだから、苟くも事業界の大動脈を漁ろうとする以上わが貿易の消長を殆ど一手で左右し、わが産業全体の人気を何方へでも転ばすだけの実勢力を握っている信州系の製糸事業をこの項中に逸してはなるまい。

本邦蚕業の沿革

がしかし、ものは順序だ、信州系そのものに説き及ぼす前にチッとばかり本邦蚕業史を繰返えして置くが、そもそも本邦蚕業の起源は遠く神代の昔に存すといわれて居るけれど、人皇紀元五百年ごろまでは之れぞという史跡の徴すべきものもなく僅かに宮廷内のみの御事業であったらしい。それが漸次民業に移り、地域も近畿中国から東北地方にまで伝播したものの如く、現に延喜式には、上糸国十二ヶ国、中糸国二十五ヶ国、粗糸国十一ヶ国、合計四十八ヶ国とあり、製品の品位を三等に分ち生産地は四十八ヶ国に及んでいるのである。そして皇紀八百年以降、支那朝鮮の亡命者により蚕糸機織が渡って来たので朝廷においても特殊の保護を加えさせられ、世襲的経営の特権を附与して蚕糸機織に従事せしめたということで、これはズッと大昔の話、この時代を種族蚕糸時代と称えられて居るそうだ。上古宮廷内の御事業として創始せられた本邦蚕糸業は、その後間もなく民間に普及さるるに至ったが組織的産業の一として真に発達の緒についたのは、営利的事業として営まるるようになった徳川時代以後のことで、殊に安政六年横浜の開港によりわが生糸が世界的に紹介せらるるようになり、需要の激増、供給の不足から遂に事業組織の上に一大変革を来し、栽桑養蚕採種、乾繭製糸及貿易と分業的経営法の実現を見るに至りここに始めて家庭より工場への現代的産業たる基礎を築きあげたのである。

(百六) 製糸業の雄を網羅する信州系

器械製糸の濫觴

生糸が家内製糸から工場制製糸に移されたそもそもの起源は、上州前橋藩に明治三年スイッツル人ミウラーを技師として雇入れ、前橋市中の民家を借上げて工場とし洋式製糸器械六台を据付て器械製糸を開始したのにはじまる。当時は外人傭聘を難ずる向も少なからず、経営もまた頗る困難であったが、兎に角各方面の一大刺戟となり、古河男爵家の祖市兵衛翁まず前橋製糸場になろうて、同年東京築地に六十人繰器械製糸場を建設し、翌四年には時の勧業寮が前記ミウラーを監督として赤阪鍋島邸内に百人繰器械製糸場を開き更に翌五年には、東京の人川村伝衛が野州河内郡石井村に五十人繰の大崎製糸場を設くるなど前橋製糸工場のあとを追わんとするもの続出する一方、政府また製糸改良の方法を民部、大蔵両省に諮るに至ったが、何しろ不忍の池を埋めて茶を植付けろと怒鳴っていた事ほど左様に産業熱の盛んであった頃の政府だ
 宜しく名師を海外に求め、一大製糸場を建設し、盛んに良品を製出して市場の好評を博すべし旧習期せずして一新し、農商また生糸の改善に着手せんこと宛がら水の低きにつくが如けんのみ
と異口同音に衆議一決、いま時の大蔵省や農商務省の役人連中とは自体ケツの穴の大きさが違っていた時分の連中だ、あれも調査これも調査で結局主義だけは賛成だが……なんかと、燃え残りの蝋燭みたいな陰気な言いわけばかりしてはいない。万事歯切れよく議論を片づけてしまうと同時に、大蔵省輔伊藤博文、租税正渋沢栄一等に下命し、仏国人ブリユナを聘し明治三年十一月地を上州甘楽郡富岡に相して製糸工場の建築に着手し同五年十月竣工、全国に勧誘して募り得た伝習工女を入れて直ちに事業を開始することとなった。現に原富太郎氏経営にかかる原製糸場が即ちそれである。

旧式製糸の衰滅

洋式模範工場の竣工を機とし政府自ら率先して生糸の改良に努力した結果、其蚕に倣うもの益々多く上州、信州、奥州地方より漸次全国各地に蔓延し、上古以来坐繰式製糸以外に何の改良も加えられなかった本邦製糸界はかくて漸く一新時期を画するに至り生産高も亦遂年増加し、生糸貿易上にも次第に有利な地位を占め得ることとなったのである。尤も日清戦役当時までは未だ坐繰製糸が総生産高の過半を占めていたが、一面器械製糸発展の機運もますます旺んとなり、明治二十六年(当時坐繰糸六割四分器械糸三割六分)には百人繰以上の器械製糸工場が全国各地を通じ既に百二十余(内五百人繰以上三)に達していた程である。かくて日清役後、坐繰製糸の生産費昂騰により一層器械製糸隆興の機運をそそり明治三十年頃からは全然主客顛倒し、明治四十三年には器械糸の七〇に対し坐繰糸は二四(玉糸六)大正三年には器械糸七七坐繰糸一六(玉糸七)と変化して行った。念の為め生糸生産高を以って両者変遷の大勢を示せば左の通りである(単位千貫)

[図表あり 省略]

器械製糸の発達はいうまでもなく本邦製糸業が、小規模の家内工業より、大企業の工場経営に移りつつある事実を物語るものであって現に明治四十二年以降の製糸戸数調査について見るも、明治四十二年には合計三十八万二千余戸であったものが天正九年には二十四万七千余戸となり、過去十二ヶ年間に十釜未満の製糸戸数十三万六千を減じ、十釜以上五十釜未満のものまた六百を減ぜるに反し、五十釜以上百釜未満の工場は三百五十四を増加し、又百釜以上の工場は四百三十五を激増したのである。かくて製糸事業の大部分は次第に連合的経営に変じて家庭製糸の衰頽となり、今や旧式の坐繰、足踏生糸はわが貿易上殆どあるかなしかの余命を保って居るに過ぎぬ。
あらゆる産業が長足の進歩を遂げ、日光にさらすと忽ち変色したり、水に浸すと元の白地に返るような摩訶不可思議な染料などまで産出されるに至った今日においても、なお依然として本邦輸出品の大宗として貿易界の消長を、あのスペッこい双肩に荷ってたつところの生糸が、初めて外国へ輸出されるようになったのは、今を去る六十五年の昔、安政六年の六月、芝屋清五郎なるものがイタリー人のイノリキと取引したのが抑もの濫觴である。

(百七) 製糸業の雄を網羅する信州系

手真似で初取引

何しろ碌に言葉も通ぜぬ手真似一つの取引ではあったが、一斤につき一分銀五個という値段で話が纏まり、芝屋はその在荷六俵(一俵九貫目)を百斤一箱詰として、イタリー人の本船に持込み兎も角も取引を了した。当時芝屋は和斤百六十匁勘定で箱に詰めたのだが、買人の方は英斤百二十匁のつもりでそれだけの代金だけしか仕払わなかった。幾ら商売人だからとて、何分はじめての対外取引、さすがの芝屋もそこまでは気がつかなかったが、仲介にたった支那人は双方の斤量計算に大変の相違があることを発見し、私に談じ込んで差金四百十五両をせしめたというエピソードもあり、横浜市場が今でもなお百六十匁一斤制を踏襲して居るのはこの間違いから来たのだとせられて居る。横浜開港当時の重なる銘柄は、甲州島田糸、前橋繰糸、信州糸、八王子繰糸、栃尾糸、米沢鉄砲造、美濃曾代糸、掛田折返糸などで評判のよかったのが前橋繰糸、この価格金一両につき糸およそ二百三四十匁替であってこれを外人に売込む時の相場が一分銀十二個即ち約三両に相当していたというから、一斤二十二三円唱えの今日の値段に較べると可なり高価なものであったらしい。かくて安政六年中には通計四十八万七千六百二十五斤の輸出があり、爾後年々輸出額を増加して遂に今日の如く、世界第一の生糸産出国であり供給国であるところの盛況を見るに至ったのであるが、その生糸国たる我国も徳川幕府の建設以前には外国から可なり沢山の生糸を輸入されていたもので、明和、安永のころから内地蚕業が次第に発達したため輸入生糸の価格がグッと低下し、文化文政の頃から遂に全く輸入の杜絶を見るに至ったのだということだ。

製糸組織の分類

昔話はこれ位で打切って、ここですこし経営方面のことに筆をのばして置くが、現在わが国の製糸業はこれを組織の上からいうと家庭製糸と工場制製糸の二つに大別することが出来る。家庭製糸というのは住宅内又は住宅構内に坐繰器又は足踏器を備付け家内のものや雇人によって製糸に従事せしめ、生産品の販売利益収得を目的とする小規模の個人的事業であって、更に産繭製造、購繭製造、釜出製造の三種に分類せられる。産繭製造は自家養蚕の産繭を、自家で製糸する上古その儘の遣り方で、今でもなお地方によってこの種の製糸家を可なり沢山見ることが出来る。購繭製造は読んで字の如く、繭を他から買入れて製糸するもので今日の大製糸業者は何れもこの方法によっている。また釜出製造というのは繭を購入してこれを他人に賃挽せしむる製造家のことである。

製糸界の新傾向

次に工場制製糸というのは、一定の工場を設け、これに電動機及び繰糸器械を据付け多数職工を使傭して製糸に従事する、比較的大規模のもので、之れに持寄製造、普通製造、受託製造の三種がある。経営者としては個人もあり組合もあれば会社組織もあるが、その何れにせよわが国の生糸が既に世界的商品として欧米市場に打って出ている以上、品質の統一、改善、向上を促進する上からいっても最善能力の比較的薄弱な小規模の家庭製糸が衰えて、漸次資本の合同衆智の併合による大規模の工場制製糸に代るべきは理の当然であって、同時に又同じ工場制製糸においても比較的活動力の鈍い小規模の工場が衰頽又は併合により、段々大規模の工場に遷って行くことも自然の勢といわなければならぬ。現にこれを大正年間における大小工場数の消長に就いて見るも

[図表あり 省略]

右の如く一般経済界就中企業界の人気如何により時に多少の変動はあったが、大勢から見れば五十釜未満の小規模工場は漸減し、反対に五十釜以上の大規模工場は漸増しつつあるのであって、殊に最近外国市場から本邦生糸に対する非難が齎らされるようになってから一層大規模の工場合併計画が擡頭するに至ったのは、兎に角製糸界発展の為喜ぶべき現象であろう。

我生糸の不評判

秘蔵息子同様に大切なわが国の生糸が近来どうも外国市場で評判が宜しくない。甚だけしからぬ次第だが、聞いて見ると、まんざら他人の児憎しの悪口雑言ばかりでもなさ相だ。勿論わが国の生糸には器械、座繰、折返などとその種類品位、階級も多く(一)練減量の少なきこと(二)練易きこと(三)糸色の純白なること(四)各種生糸の供給十分なること(五)品質の割合には価格が低廉なること等いろいろの特長もあり、就中優等品に至っては何処の生産品に較べても何んの見劣りするどころか、わが国の秘蔵息子として、世界の市場を横行闊歩さすに十分な強味をも持って居るのであるが、全体を通じて見れば(一)繊度の不斉なること(二)抱合の不良なること、(三)類節の多いこと、(四)二本揚の多いこと、(五)強伸力の乏しいこと、(六)品位の一定せざること等において残念ながら外人達の非難を甘受しなければならぬ。

(百八) 製糸業の雄を網羅する信州系

各国生糸の長短

先般来朝したゴールドスミス氏等米国絹業観察団の一行から可なりフランクリーな注意も与えられ、耳の痛いような小言も聞かされたが、冷静に判断して見るとなる程欧洲糸は、ちょうど日本糸が非難されつつある点を、そっくり其尽特長として居るので、例えば(一)繊度の整えること(二)類節の少なきこと(三)強伸力に富むこと(四)抱合のよろしきこと等において確かに鼻ひこずかすだけのところはあるようだが、同時にまた練減量か多く、白色又は淡色の織物には不向きだという点などの欠陥もある。物には所謂一長一短ありて数えたてれば支那糸にだって(一)価格の低廉なこと、(二)色沢の艶麗なこと、(三)強伸力の豊富なこと等の特長があれば、又一面繊度の不斉、再繰の因難などという短所があり、自然用途も異っていて、わが国の生糸が幅広織物の紋織、綾織、繻子タフタ等比較的精巧な織物の経糸としては殆ど使用され難いに反しイタリーやフランスの生糸はこの方面の原料として独特の勢力範囲をつくっている。一口に所かわれば品かわるといって了えばそれまでだが絹織物の流行がドシドシ変って行く世の中で、こうした向不向のあるということは販路拡張の上からいっても決して意を安んじ得べき筈のものではない。可愛い息子をこんな片輪者にしたのは誰の罪かは知らぬが、既に世界的商品として欧米諸国に旅立たせている以上、何とかして息子の顔に塗られた泥だけは一日も早く洗い落してやるのが親の情けでもあり大切な義務でもあろう。

本邦製糸の地位

さてこれから愈々本題の長野県に入るのだが、その前に今一度うるさかろうが片苦しい数字を並べさせて貰うこととする。そもそも農商務省調査にかかる全国統計表によると大正十年の全国養蚕家数は百八十万二千五百四十三戸、農家総戸数の三割三分、桑園の耕地全体に対する割合が八分八厘、畑地だけに対する割合は一割七分五厘に当って居り、製糸工場数は器械製糸が二千六百九十三ヶ所、足踏百四十八ヶ所、座繰三十四ヶ所、玉糸三百六十一ヶ所合計三千二百三十六ヶ所で、これ等の工場に据えつけられた釜数は器械二十九万千九百五十九釜、足踏二千五百九十三釜、座繰九百九釜、玉糸二万三千三十八釜合計三十一万八千四百九十九釜であって、使用工女の総数が器械二十九万三千余人、足踏二千四百余人、座繰七百四十余人、玉糸一万七千六百余人合計三十一万四千五百九十人、繭の使用総数が器械製糸五千八百四十六万八千八百三十六貫、足踏製糸三十二万千九百五十九貫、座繰製糸十二万六千七百九十五貫、玉糸三百九十万七千二百九十二貫合計六千二百八十二万四千八百八十二貫という数字に上って居る。そしてこれだけの繭を使ってつくり上げる製造高はというと、器械五百八十七万四千九十四貫、足踏三万八千百四十六貫、座繰一万二千百五十二貫、玉糸三十六万三千九十七貫合計六百二十八万七千四百九十貫の生糸と、別に器械から百四十六万九千四貫足踏から一万二百七十一貫、座繰から一万二百七十一貫、玉糸から十万千五百四十五貫合計百五十八万三千六百二十九貫の屑物を得て居る。更にこれを一釜に対する生糸の製造高について見ると器械製糸が二十二貫二百二十四匁、足踏製糸が十二貫六百三匁座繰製糸が十貫六百八十五匁、玉糸が十六貫四百五十六匁という割合であって、生糸百斤に対する製造費用は器械が三百九十六円、足踏が三百五円、座繰が三百円、玉糸が三百十四円……いやはやうるさい話だ。
本年四月中器械製生糸の横浜入荷高は四万一千七百八十八梱、昨年新糸以来の入荷累計は四十八万四千九百二十六梱であって、このうち所謂信州系に属するものは四月中の入荷二万四千三百三十梱、昨年新糸以来の累計二十三万七千五百五十八梱、即ち全国総入荷高の五割乃至五割八分に当っている。信州系糸の本邦製糸界における実勢力の如何はこの数字だけで、大体これを明かにし得るであろうが、更に進んで所謂信州系とは何ものかという問題に入ると、それには可なり多くの解説が必要になって来る

信州系とは何か

所謂信州系製糸なるものは、地元の長野県内における産出糸と、長野県の製糸家によって経営されつつある県外各地の工場から産出せらるる糸の総称であって、前記横浜入荷の信州系糸について見ると大体県内が約六割、県外が約四割という割合になっている。即ち県内工場からの入荷高は四月中が一万五千五百四十六梱、新糸以降の累計が十五万一千九百二十九梱であり、県外工場からの入荷高は四月中が八千七百八十四梱、新糸以降の累計が八万五千六百二十九梱である。そして県内工場における製出高を地方別にして見ると

[図表あり 省略]

何といっても諏訪が糸の本場だけに四割乃至四割五分を一手に産出している。次に県外における信州系工場は関東、東北、関西、四国、九州から遠く朝鮮にまで分布されているのであるが、生産高の多いところを府県別にすると

[図表あり 省略]

右の如く埼玉を筆頭に、殆どわが国の主要製糸地を悉く席捲しているかの概がある。

(百九) 製糸業の雄を網羅する信州系

天賦の好蚕糸国

長野県の糸の歴史は可なり古く文献によると、遠く雄略天皇の御代の頃から海内屈指の養蚕国として著聞して居り、現にこれを桑園反別について見るも全国総反別の三割二分四厘を占め、繭産額もまた総産額の約三割、生糸産出額も約四割に上るという有様である。長野県が生糸産地として何故斯くの如く優勢なる地位を占むるに至ったかといえば、それは申すまでもなく同地の地理的環境が自らその住民を農業方面に親しましめ、殊に気候の乾燥と耕地の傾斜面に富める関係から、自然養蚕の発達を促し延いて製糸事業の興隆を来さしめた結果に外ならぬのであるが同時にまた信州人が、天賦の養蚕国たる特殊の地位を辱しめざらんがため、斯業の発達改善に苦心せる努力も並大抵ではなく、古来信州種の好評は宇内に轟きわたっていたのであるが、明治十年ごろからは柞蚕の飼育をも初め、南北安曇郡が主としてこれに当り、明治三十八年頃がその最盛期で成績亦頗る良好、飼育戸数七百余戸、掃立実数十石八斗、蚕繭の産額二千八百万粒に達し、更に進んで千葉、茨城地方にも借地して飼育に従事したのである。唯その後病害の発生などで成績案外思わしからざるに至った為め、これが挽回策に腐心し大正元年天柞蚕同業組合を組織して病害予防駆除及び斯業の発展に一層の努力を傾注することとなり、県からも農商務省からも可なりの補助費を支給して居る。

県民一致の努力

実際長野県民が蚕糸業のため尽して居る努力と苦心のほどは、寧ろ他府県民の想像以上であって、毎年これがため男女蚕業講習会を開いたり、又は蚕糸関係の各種専門学校を起したりして、盛んに優良職工の養成、専務技術者の普及につとめて居るのである。今日同県下に現存する蚕系関係の専門学校は大体左の通りであって、この一面の事実だけから見ても、長野県民が天賦の蚕糸国たる誇りを完うせんがため如何に懸命の苦心を重ねつつあるかを窮うに足るべく且また信州系の今日あるゆえんも自ら読めるであろう。
 上田蚕糸専門学校、南佐久郡立農学校、北佐久郡立蓼科農学校、北佐久郡村田農学校、県立小県蚕業学校、小県郡組合立丸子農学校、諏訪郡平野村立平野農蚕学校、県立上伊那農学校、上伊那郡組合立伊北農蚕学校、下伊那郡組合立竜東農学校、東筑摩郡立農学校、南安曇郡南安南部農学校、更科郡立農学校、埴科郡組合立農蚕学校、埴科郡組合立埴南農学校、埴科郡松代町立松代農商学校、上高井郡農学校、下高井郡立農林学校、上水内郡立組合東部農学校、同北部農学校、同西部農学校
世界の生糸の本場が日本であり日本の生糸の本場が信州である旨は以上の通りである。従って三段論法の筆法を以ってするならば、信州はとりもなおさず世界生糸の本場となる訳だが、この偉大なる信州の製糸事業が、ホントに今日の如く隆盛になる端を開いたのは、安政六年わが国の生糸に海外輸出の途が開けて以後の事で、殊に明治六年東京の小野組が上諏訪に器械製糸場を設けてから器械製糸の業が頻りに発達し、今や岡谷、下諏訪をはじめ、須阪、丸子、松代、松本等を主要地とし県内各地に製糸工場の設置を見るに至り、昨年度の調べによると、器械製糸業者六百八十五、工場数七百二、釜数九万を超え、一ヶ年の生糸製造高百九十三万三千余貫目、使用工女九万余人、男工一万余人と註されて居る。更に加うるにこれ等の製糸業者は盛んに県外にも活動の手を伸ばしいわゆる信州系に属するもの東京府外二十三県より遠く朝鮮にも及び、工場数六十九、釜数三万三千余釜生糸製出高輸出向六十九万九千余貫目、内地向三万一千余貫目という驚くべき数字を示して居るのである。

信州系の代表者

従って一口に信州系製糸家といっても、何しろ器械製糸業者だけで六百余名という多教であって、大きなのもあれば小さなのもあり新旧、強弱色とりどりにこき交ざる有様は、さながら日本アルプスの真夏に咲く高山植物の花そのままであるが、この雑然、尨然たる幾百の製糸業者中の冠冕として、嶄然一頭角をぬきんでているものは、何といっても諏訪の六大製糸として名高き、片倉製糸、小口組、尾沢組、山十組、岡谷製糸及び林組と、それに丸子町の依田社を加えた七社であって、所謂信州系製糸家として県の内外に、素晴らしい威力をふるっているのも主として、この種第一流の製糸業者なのである。したがってわれ等も、主として以上七社の事業を中心に、所謂信州系製糸家の如何なるものなるかをコンクリートしようと思うが、筆初めは何うしても諏訪六大製糸の随一に居るところの、片倉製糸紡績でなければならぬ。

(百十) 製糸業の雄を網羅する信州系

千人斬の市助翁

抑々今日の片倉製糸なるものは片倉家の当主兼太郎氏の先々代、市助爺さんが、明治十一年、爺さん自ら釜下の火焚きまでやったという、僅か三十二釜から手繰り出したもので、何しろこの爺さんは当時は勿論まだ働き盛りの元気者だったけれど、兎に角女工千人の撫で斬りを苦もなくやって退けたという噂さが、今でさえ一口話として残っているほどの絶倫な精力家だけに、眼力も人並以上利いていたと見え、安政六年の初取引以来、わが国の生糸が世界的商品となり得た眼前の事実と、いにしえから特殊の蚕糸国として覇を天下に唱えていた信州の歴史に鑑み、乃公の事業はこれだとばかり、一たび釜下の火を焚き出してからというものは、わき目もふらぬ奮闘努力に、年々歳々釜数も増せば、爺さんと情意投合の女工も多くなって行く、かくしてその一代を華々しい活動と共に、国際的商品としての本邦生糸の基礎をつくり上げた功業はまことに大きなものだったとせられて居る。今更茲に市助爺さんの一代記を説くの煩は避けるが、かくて片倉組がふとって行くに連れて、事業も段々手広くなって来たので、従来個人経営だったものを大正九年三月に現在の株式組織に変更することとなった、現在資本金は五千五百万円、所有釜数一万五千六百三十一、現在経営せる工場所在地及びその釜数は

長野県川岸製糸所 一、一二八釜
同 平野製糸所 八八〇
同 下諏訪製糸所 四四八
同 松本製糸所 一、〇四六
同 須阪田中製糸所 七一八
同 武井製糸所 一、〇二六
同 飯田製糸所 五二四
東京府八王子製糸所 六六〇
埼玉県大宮製糸所 六六〇
同 石原製糸所 五四二
福島県岩代製糸所 七九〇
山形県両羽製糸所 三九二
宮城県仙台製糸所 六七八
愛知県愛知製糸所 四九〇
岐阜県岐阜田中製糸所 七二八
鳥取県上井製糸所 六〇〇
兵庫県姫路製糸所 九三四
大分県宇佐製糸所 一八六
同 大分製糸所 九〇〇
佐賀県鳥栖製糸所 一、〇〇六
同 小城郡是製糸所 二〇〇
高知県高知製糸所 三六〇
同 長岡製糸所 一八八
徳島県鴨島製糸所 二六〇
朝鮮大邱製糸所 三六〇

右の如く地元長野県内の七工場(釜数五千七百六十九)の外、県外においては一府十二県並びに朝鮮にかけて十八工場、九千八百六十二釜を所有して居るのであるが、更に最近製糸合同の、本邦生糸改善に避くべからざる必須の道程たるを看取するや、率先武井製糸(千二十四釜)東行社の一部(五百二十釜)等を買収して製糸界の合同機運を頓に濃厚ならしめた事実もある。斯くの如く全国各地に多数の工場を有っている片倉製糸は、この外なお賃挽工場に千釜を所有し、更に殆ど同社一手の投資によって創立せられた長崎製糸会社の四百十六釜があり、目下合併進捗中(事実は成立)の尾沢組二千八百四十六釜もあり、これ等を合算すると優に二万釜を超ゆるの多数に上り全国釜数の七分強、長野県下釜数の約三割を擁する本邦最大の製糸会社であって、その工場に使用する原料生繭の購入所は全国に六百ヶ所も散在して居り、それだけ生繭の使用量も、生糸の産出高も非常に夥しい額に上り、一釜の生糸産出高を平均二十一貫目と見ても、同社全体の生産高は四十数万貫、即ち全国総生産高の八分近くに達する勘定である

片倉製糸の幹部

片倉製糸の産出生糸を種類別にすると、最優等格が三〇パーセント、毬格が一五パーセント、矢島格が三五パーセント、八王子格が二〇パーセントという割合となり更にこれを輸出向と内地向とに分けると前者が九五パーセント、後者が五パーセント、即ち同社の生糸は殆どその全部が輸出向だといって差支えない訳であるが、この生糸製出から得る屑物の処分の為には、福島県郡山に紡績所を設けて専ら絹糸紡績糸を製造して居り、その所有錘数は六千五百四十錘である、この外、同社の直接関係事業としては、長野県松本市に一代交配種普及団が設けられて居り、朝鮮大邱に蚕種製造所、横浜及び大阪には販売その他のための営業所があり、またその投資事業としては片倉生命保険会社、日華蚕糸会社、日本絹綿紡績会社などがあるが、うるさいから詳しくは説かぬ、そしてこの会社の幹部を組織して居る人々は
 (社長)片倉兼太郎(副社長)今井五介(常務取締)武井覚太郎、田中新之助、片倉武雄、今井真平片倉脩一、片倉直人、林清夫(平取締役)片倉勝衛、唐沢音蔵
といった顔触れで、殆んど片倉家の一門郎党のみを以って固められて居る。尤も元来が個人経営のものを株式組織に改めただけのものだから、一般株主はあるにはあるが、その大部分は片倉家一門の所有株、こうした幹部の顔触れを見るのも当然な話だ。

(百十一) 製糸業の雄を網羅する信州系

腕利の片倉社長

現社長片倉兼太郎氏は、市助爺さんの四男で先代兼太郎氏の舎弟だが兄貴の養子となった関係からすれば、正しく市助爺さんから三代目、前名を左市といって文久二年の生れ、当年とって六十二歳という、モウいい加減な爺さんだが、この三代目幸いに唐ようで書くドラ息子の真似もせず、市助爺さんの血を受け継いで、却々の働き人、現になお社務の一切を殆ど一手に切って廻そうという腕ッ利き、蚕糸業の機関銀行たる十九銀行の重役をも兼ねて居り、根っから若いものに譲ろうともしない。尤も年齢からいえば社長はまだ若い方で、同社には副社長の今井五介さんという、したたか者が老いて益益盛んな、かくしゃく振りを発揮している。

盛んな五介さん

今井五介さんは社長兼太郎爺さんの実兄、安政六年―わが国の生糸が初めて外国商人との間に取引されたその年に呱々の声をあげた丁度今年が六十五歳、生糸貿易の特別記念人物、先々代太郎氏の義子となり、先代真平氏の跡目を再相続したもので、兼太郎氏と同じく信州の多額納税者、大正七年互選されて現に貴族院の長者議員であるばかりでなく、蚕糸業同業組合中央会の評議員及び相談役、松本商業会議所会頭、松本電灯社長、明治水力電気、信濃鉄道、欧亜蚕糸、日本共立火災保険、片倉生命保険等の各取締役、上田蚕種会社の監査役などと公私両方面のけばけばしい肩書を並べて縦横無尽に切って廻わして居り、その抜群な精力は、さながらに、市助爺さん、当年の千人斬を偲ばしむるものがあると、同じ老人仲間で噂とりどり、尤も五介さん老いてますます盛んなこの元気は、五介さん自らにいわしむると霊薬『何首鳥』とやらのお蔭だ相である。

別風の兼太郎氏

同じ兄弟でも兼太郎さんと五介さんは大分性格が違い、前者はジッと内を引しめて家業大事を専一とする内治的の人、後者は広い世間に飛び出して、あれもよし、之れもよしの華々しい活動に適した外交家肌従って同じ片倉製糸でも弟の兼太郎さんは本家の跡目をつぐ関係から社長の椅子について、社内の切り盛りに専念し、兄貴の五介さんは副社長という一段身軽な職に甘んずる代り、公的方面の仕事は総て五介さんが引受けて切って廻わすという適材適所の分担法をやっているが実際五介さんは、あれで却々の智慧者でもあれば目先も利き、事毎にそれ相当の意見もある男、言葉だけは聊か不得要領な処もあるが、多言にして遂に何事をも語らぬ外交家としては、あの要領を得たるが如く得ざるが如き点に寧ろ五介さんの今日の成功がある所以かも知れない。

戦乱勃発と生糸

片倉製糸そのものの発展に対する功業は姑くおき、外交家としての五介さんが、その華々しい半生の公的生活において、特に目覚しい活動振りを示したのは、何といっても前後両度にわたる彼の蚕糸救済運動であろう。本邦生糸が国際的商品として、わが貿易界に重要なる地位を占むる様になって以来勿論時に多少の消長はあったが、欧洲戦前においてはまず信州上一番が糸価八百七十円を保ちさえすれば、本邦全般の養蚕業は維持し得られるものとせられていたので事実問題としてこれを見るも、明治三十七年より大正二年に至る十ヶ年間の糸価(信州上一)は明治三十七年より四十年に至る四ヶ年間が九百五十円より千二三百円、翌四十一年に大暴落を見たけれど尚九百円内外を保ち、四十二年以後大正二年に至る迄は、年々下落の状況であったけれど、この間四十二年と四十四年の両度に、ホンのちょっと八百十円という安値を現わしただけで大抵は、八百四五十円を底値とし九百二三十円を往来していたのである(最高は四十年の千四百四十円)。然るに大正三年には年初信州上一番千円以上という数年来に見ざる好況を呈していた所へ、八月の欧洲戦乱勃発という未曾有の大事件で、肝腎の米国に恐慌突発した為め糸価暴落又暴落遂に十月には信州上一七百十円という大惨落である。

第一次救済運動

その当時における斯界の驚愕混乱は、今から顧みるだに物凄まじさの限りであったが、青息吐息の製糸界において、身を挺して奮い起ったのが五介さん一派である。勿論一人ではない、原富太郎さんも出れば売込専門の三井などからも出る、それへ有象無象の政商連も加わる。早稲田の大隈邸や富士見町の農相官邸から、農商務省、首相官邸とグルグル廻りのお百度の末、やっと出来上ったのが大正四年三月十日の帝国蚕糸会社、資本金二百万円で政府貸付金が五百万円会社に損失ある場合は五百万円を限度として政府が補償するという条件、社長は大浦農相の指し金で原富太郎さんに定ったが、五介さんも重役の一人として損を覚悟の上で思い切り活躍したことは未だに尚関係者の嘆賞する所となっている。

(百十二) 製糸業の雄を網羅する信州系

帝蚕功を奏す

かくて欧洲戦乱の進行に伴い、日本其他の中立国は軍需品の註文殺到で昨日の驚愕は、今日の歓喜、所謂戦時活況時代なるものを現出し、米国における絹物需要は年と共に激増して遂には供給が需要を充すに足らぬこととなり、糸価も亦次第に盛り返えして大正四年度が千百円、五年度が千百八十円、六年度が千六百円、七年度が千六百円という空前の高値に跳ね損をする筈だった帝蚕会社も少なからぬ利息まで添えて政府へ借金済しをするという目出度し目出度しの幕切れとなったのである。

再度の救済狂奔

超えて大正八年に入りては糸価昂騰の勢い一層甚だしきを加え上一番最高三千二百円、最低千四百四十円、大正九年初頭には四千円の狂熱相場をさえ現出するに至ったのであるが、この辺からモウ軌道外れで、多少不安の気構えも見え初めていたが果然大正九年三月に入るや、世界的反動時代の襲来で本邦財界も有らゆる方面に亘りて痛烈な打撃を蒙ったが、就中生糸のそれは特に甚だしく、同年五月には最優格二千円に低下し、前途の見据えどころか、眼前の遣繰にも窮するという惨憺たる悲況に陥ったのである。かくと見た五介さん一派はサテこそ御座んなれと再び救済運動に奔走して遂に山本農相を動かし、頑固な高橋蔵相の達磨頭をもゴクリと前へ振らせて低利資金の融通やら、損失の補償やらを納得させ、出来上ったのが資本金千八百万円の第二次帝国蚕糸会社であった。帝蚕会社の事業が両度とも予想以上の好成績を挙げ得たのは、周囲の事情が、自らそうあらしむべく好転し来ったからでもあるが、寝食を忘れて奔走した五介さんなどの努力は、斯業にたずさわる程の人悉くが感謝措く能わずとせる所だろう。尤も中には何の帝蚕が、と頭から目の敵にしてかかる人もあるが、そう理窟張っては角が立つ。今どきの世の中に自分の仕事と全然没交渉な方面で、しかも夫れが何等の利益をもたらす見込みもない事柄に、命がけになって働く馬鹿があろうか。実業界の大先輩、維新草創の時ではあったが、大学で銀行論講義の草分けまでやった大物識りの渋沢さんでさえ、『論語は算盤に一致するものだ』との前提から一切を割出して説法して御座る世の中だ、殊にその渋沢さんや、亡くなった大隈さんなどからの親展書でも、その差出人の名前が活字で刷ってあると『ハ、ア、又何かの寄附勧誘だな』と早合点して、勿体なや封も切らずに屑籠へ投げ込む程、ハシッこい実業家諸君の揃っている世の中だ、生糸界の救済に死にもの狂いの奔走をした五介さんたちの職業が、直接利害関係をもつ糸屋さんだからとて、その功勲はやはり功勲としてたたえて置くが至当であろう。

元気な両頭目

こうして五介さんは国内において生糸業のため尽すばかりでなく先年第一回米国絹業視察団が組織された場合の如き、自ら団長としてアメリカくんだりまで出掛け、本邦蚕糸業の紹介は勿論、日米両国の親善にも大変尽力するなど陰になり陽になりわが国の生糸業から延いては産業全体の隆興発展に貢献しつつあることは並大抵の事ではないのである。然るにそのえらい五介さんが、何うしたことか近頃同業者仲間の人気がよろしくなく、動もすれば聞くに堪えぬ蔭口をさえ耳にするようになったのは所謂喬木風に憎まるるの類か。それとも「何首鳥」の効顕いやちこ過ぎて、若い人達をあまりに屁とも思わぬためか、社長の兼太郎さんも却々の元気者、昨年組織された南米実業視察団には自ら進んで参加し、解団後は米国から直ぐ欧洲各国を歴遊して親しく製糸業の実況を視察するなどの大奮発で帰来その舶来最新智識が、片倉製糸の社務の上に応用体現せらるること、一二にして止まらぬという評判である。

首脳幹部の面々

片倉製糸の常務、武井覚太郎氏は、片倉製糸へ合併前の武井製糸の所有者で、現に上伊那銀行取締役、日米生糸の監査役、上伊那生糸同業組合長などの要職に在る同地切っての働き人である。同じ常務の田中新之助氏もその所有製糸所を片倉へ合併して現在の地位を占めた人、同県多額納税者の一人で、信陽銀行頭取、北信鉄道、信濃電気、広野炭鉱等の各取締役、同じく常務の、今井真平氏は五介さんの長男で今年四十一歳の働き盛り、片倉脩一氏は社長兼太郎さんの総領息子で真平氏より一つ歳下の四十歳、平取締の片倉勝衛氏と常務の直人氏は、多額納税者の一人たる片倉俊太郎氏の長男(二男の兄弟で、それに正副両社長の甥である。二男の直人氏は分家して同じ諏訪の六大製糸家と呼ばるる尾沢組の尾沢福太郎氏の二女をめとっているが、昨年わが第二回米国絹業視察団の一行に加わり消費国の事情をつぶさに研究し来った社内パリパリの新智識である。同じく常務林清夫氏は郡山土地建物の取締役、川前電気大日本紡績等の監査役として今売り出しの事業家である。次に監査役安田善雄氏は、銀行王先代善次郎翁の愛子、金融関係から安田系を代表して監査役の一員に加わっているまででいわば片倉製糸の重役中、ただ一人の異分子だ、同じ監査役の飯島保作氏は上田商業会議所会頭、十九銀行頭取、諏訪倉庫会社取締役をやって居り土橋源蔵氏は信州銀行諏訪電気の各取締役で家業は酒、醤油の醸造だというが何れにせよ長野県下屈指の名門豪家である。

(百十三) 製糸業の雄を網羅する信州系

片倉系の副業

片倉製糸は、製糸事業に附随する副業として、現に蛹油の製造を営んで居り、一ヶ年の産額約四十石、販路は京都、福井方面で、この外生皮苧及び練綿等をもやって居り、生皮苧は年額一万二千余貫練綿は二千貫を製出し、両者とも海外及び内地絹綿紡績を顧客として可なりの成績を挙げつつあるが、社長副社長以下盛んに新智識を齎して帰って、何がな本邦製糸界に新機軸を出そうと焦慮して居る真ッ最中、こんな副業なんか、殆ど眼中にもないらしく、グット大きな所から斯界を見渡して重役会の議一決となったのが、製糸事業大合同の一件、その筆初めに合併交渉を開始してマンマと成功の域に達しだのが諏訪六大製糸の一たる尾沢組なのである。

尾沢組との合併

尾沢組と片倉製糸との合併は表面目下進捗中となって居るが、事実はモウ合併成立と同様であって、現にこの六月一日から新繭の買入れ其他挙げて片倉製糸が代行して居る程であるが、唯合併の形式上、まず尾沢組が組織を変更して資本金五百万円の株式会社とした上両社合併という段取となって居るので、要するに今日は外形的合併の手続中に過ぎぬ。斯くて愈々両社の合併が成立すると片倉組の資本金が更に五百万円を増加して総額六千万円となる訳である。現在尾沢組の所有して居る釜数は信州内に千七十五、県外においては埼玉県熊谷に千五、熊本県に四百十八、盛岡に三百四十八、合計二千八百四十六釜で、現在の片倉製糸に比較すれば殆ど物の数でもないけれど決して之れを軽視すべきでない。

惜しい尾沢氏

一体尾沢組なるものは尾沢福太郎琢郎両氏の個人経営で、兄福太郎氏と弟琢郎氏との関係なり性格なりは、現片倉製糸の正副社長のそれに彷彿たるものがあり、福太郎氏の二女は片倉直人氏に嫁し琢郎氏は五介さんの長女をめとっていたのだから、片倉、尾沢両家の間柄は切っても切れぬ親族関係、同じ土地に六大製糸などと対立していたからとて、別段商売敵として啀み合うこともなく、最近生糸業改善の先決問題として製糸業合同の機運が醸成され来ったのを動機として、スラスラと合併談が捗ったのも寧ろ当然の話であるが、更に此合併を一層進捗せしめた最有力な内面的理由は尾沢琢郎氏の死んだことである。個人琢郎氏は稀に見る篤実重厚の資、如何なる場合でも是非曲直を明かにせねばやまぬという高潔な人格と、総てを挙げて製糸業の発展隆興に尽さんとしつつあった燃ゆるが如き犠牲的精神とは、常に同業者間の推重する所であって、帝蚕会社設立に際しては五介さんと共に入って其重役となり、身を挺して諸般の画策に任じ、第一回絹業視察団にも同じく五介さんと行を共にして団長輔佐の重任を完うし、更に昨年の本邦実業家南米視察団にも、片倉兼太郎さんと共に之れに走せ加わって、審さに彼地商状を視察するなど、ひたすら製糸界の向上改善に貢献せんとしつつあった氏の努力は、危篤の報天聴に達して特に従五位を賜わるに至った。

兄さんも人格者

余り琢郎氏のことを書き立てると自然福太郎氏が見劣りするようになるかも知れぬが、却々どうして福太郎氏も世にありふれた総領の甚六でないのみか、さすがはこの兄にしてこの弟ありといわるる程の人格者、今日尾沢組が諏訪六大製糸の一として押しも押されもせぬ地位をかち得たのは主として氏の内治的奮闘の賜ものだということで合併成立後は当然入って片倉製糸の重役となる人だが、かような人格者を重役中に加え得ることは片倉製糸そのもののためにも一段の強味であらねばならぬ。氏もまた信州多額納税者の一人で現に諏訪電気の社長をつとめているそれは兎に角、片倉尾沢の合併成立後は従来の諏訪六大製糸家なるものは当然五大製糸になるのだが、出来得べくんば之れを機会に四だの五だのといわずホントの一大製糸になって貰いたいものだ。
信州諏訪の六大製糸中、片倉製糸についで大きいのは、小口今朝吉氏を頭目とあうぐ山十組で、個人経営の工場十三と匿名組合の三工場から成りたって居り、県内に八工場三千四百四十九釜、県外では栃木県小山の千百三十六釜をはじめ埼玉、山梨、滋賀、巌手、福岡等に六百乃至八百釜程度の工場があり、総釜数は一万三千余、今日ではとても片倉製糸と肩を並べる訳には行かぬが、本邦第二の大製糸として立派に一方の大関役をつとめて居る所属各工場を所在地別として示せば左の通りである。

[図表あり 省略]

以上の外、共同揚返えしに加入して居る工場が四ツありこの釜数が一千百となって居る。

(百十四) 製糸業の雄を網羅する信州系

一門郎党の経営

山十組を代表する小口今朝吉氏は多額納税者の一人で、組合中には今朝吉氏の従弟たる小口村吉及び小口重太郎、小口朝重、小口重衛などという面々があり、この外、小口姓を名乗るものに、今朝太郎、仙重、秀吉、卯之吉、清人氏等があり、矢島広之助、野沢健三、笠原鈴吉氏等も小口家とは切っても切れぬ深い縁者、要するに山十組は小口一家の経営にかかるものなのである。一体山十組は今でこそ第二位に下っているが、甞つては片倉製糸以上の地位にあっただけにこの両者の競争というものは却々に猛烈を極めている。尤もこの競争は何しろ相手方の片倉製糸がグングン現代式経営法を採用して羽振りを利かすのみならず、例の五介さんなどという外交家があって、盛んに其筋との諒解も得つつあるので、戦方には兎角山十組黒星がつくらしい。

農相から大目玉

第二次帝蚕が創立された当時政府は莫大の低資を融通しこれが損失補償の責をも荷うたので、自然帝蚕の行動は主務省たる農商務省の諒解と許可を求めなければならぬこととなったのであるが、いよいよ生糸の買付を開始するに当り農商務省側では、釜数を制限しなければとても際限がないという見地から、遂に出荷制限ということを申合させた。然るに山十組はひそかに其禁を破って昼夜兼行の繰糸をやって盛んに出荷したというかどで時の農相山本達雄さんから戒告という大眼玉を頂戴したことがある。当時同業者仲の蔭口では片倉製糸にも可なり叩けば出る埃もあったということだ、それが多数の製糸家中ただ日頃片倉製糸の商売敵として向うを張って居た山十組と小口善重氏の小口組だけであったのは、見ように依っては何だか江戸の敵を長崎で打たれた形と多少の疑いを差しはさまぬでもない。

時代は変化した

今日の山十組はその釜数からいえば無論本邦製糸家中の第二位にあるが、こうしたいきさつから、段々公的人気を失墜してしまった。栄枯盛衰は免れぬ浮世のならわしとはいえ、一つは確かにその経営法が時代遅れのためではあるまいか、総ての事業が必ずしも株式組織に改められなければならぬという理由もないけれど、一族郎党だけの寄り合い世帯では、水入らずの気随気儘な特長もあるが、同時にまたややもすれば依然にる呉下の旧阿蒙に甘んじて兎角時代と懸け離れる欠点もある。何しろ時代が時代だ、この辺でウンと若返って組織を変更し群小製糸家を糾合統一して今一度むかしの元気を盛り返すか、乃至はまたこれまでの行懸りを一切洗い捨てて潔よく片倉製糸と握手するか二者其一を選ぶ必要はあるまいか、生糸界の前途はモウ以前のように必ずしも坦々たる平路許りでもなさそうだ。

有力な小口組

諏訪六大製糸のうち、釜数においては少し山十組に劣るけれど、内容の充実、設備の整うている点において、寧ろ山十以上だとの定評ある小口組は、かつて第二次帝蚕会社当時、山十組の小口今朝吉氏と共に山本達雄農相から戒告の大眼玉を食ったことのある小口善重氏によって代表されている小口家一門の同族組合である。一体信州系の製糸家中には小口姓を名乗る人がすこぶる多く、前の山十組がそうであり、この小口組もそうであり、更に後に述べる岡谷製糸もそうであるが、これ等小口姓を名乗る人々が悉く親類縁者だという訳ではなく血縁はない。現に小口組の小口氏一門と、山十組の小口氏一門とも、同じ小口姓ではあるが全然別ものなのだ。ところで小口組の方に属する小口氏は代表者善重氏を筆頭に、壮六、金吾、清助、修一、啓一、三平、巻太、勝太郎、大一、理一、三郎の十二氏でこれだけは小口善重氏の一家一門であって、明治十一年以来相結合して小口組の経営に任じ、漸次今日の大をなし来ったのである。

実力以上の強味

現在小口組に属する工場は長野県内に八つ、県外に六つで、その所在地、釜数、代表者、組織等をかかげると

[図表あり 省略]

この外再繰所として共同揚返しに加入せる工場が六つ、釜数千七百四釜とある。即ち山十組に較べるとなお二千釜以上も下位にあるが片倉製糸と合併契約のなった尾沢組の二倍半で、一釜二十一貫目平均としても十三万二三千貫目の生糸生産能力があり、殊にその経営方針は飽く迄も手堅く斯界に於て一方の役相撲を取り得るものだとせられて居る。

(百十五) 製糸業の雄を網羅する信州系

一門一家の団結

代表者の小口善重氏は、どちらかといえば頑固一徹、一たび口から出したものは、入れ歯でも容易のことには再び引っこませぬという却々のしたたか者、かつて帝蚕問題で大眼玉を食ったのも一つは片倉製糸へ楯突こうとする日頃の気性がツイ、申合せ無視となったものだとせられ、それだけまた仕事に熱心なことも人一倍以上、小口組が斯界一方の覇者としてその釜数以上に、天下に重きをなして居る所以も畢竟善重氏のこの負けじ魂が然らしめつつあるものだということだ、氏もまた長野県における多額納税者の一人で、製糸事業の外十九銀行の監査役、諏訪電気、上田蚕種、欧亜産業、日鮮殖産等の取締役をつとめ、県内において相当に勢力もあれば人望もある。次に徳島県下にある工場の代表者となって居る小口巻太氏は善重氏の実弟で分家して徳島に常住しているが、氏もまた同県多額納税者の一人であり、家業たる製糸業の外関西貯蓄、徳島水電等の取締役をつとめ、徳島県下における蚕種業組合の代表者となって居る。小口組の今日ある、氏の力のあずかって大なることもまたいう迄もないところであろう。

岡谷製糸の力

信州系製糸家に小口姓を名乗る人の多いことは前に述べたが、諏訪六大製糸の一たる合資会社岡谷製糸も、やはり小口姓を名乗る金三郎氏が、其代表者であって、夫に義弟の小口槙太氏と、橋爪忠三郎氏との二人が加わっている、岡谷製糸の工場所在地と釜数其他を見るに

[図表あり 省略]

右の如く県内四工場千七百九十釜県外四工場千六百四十釜、合計三千四百三十釜で、六大製糸家中今回片倉製糸に合併せらるる尾沢組などと相似寄った程度の、何れかといえば比較的小じんまりした方であると同時に、其経営も殆ど小口金三郎氏の単独経営同様であるから内部に面倒臭いイザゴザなども起らずヂリ押しに押し進んで今日の地位を贏ち得たものだ。

岡谷製糸と林組

元来長野県の製糸事業は、その釜数の多いことにおいて、ただに本邦第一であるばかりでなく、全く斯界に一頭地をぬきんでて居るのであるが『信州上一番』などという生糸中の最劣等格をその国の名によって代表しているためでもあるまいが、最優等格というが如き極上物は、兎角期待されて居らぬ欠点があり、この点は信州製糸家の今後大に反省熟慮しなければならぬ所であるが、単りこの岡谷製糸は、明治三十年創立という比較的新らしい糸屋ではあるが、金三郎、槙太、忠三郎の三氏とも製糸以外の事業には一切手出しをせず専任製糸事業の発展改良にのみ努力し、現に著々優良糸の製出に成功しつつある点は大にこれを多としなければならぬ。次に岡谷製糸と相並立して諏訪六大製糸の一を構成するものに林菊次郎氏経営の合名会社林組がある。明治十二年四月からの起業で可なり古い歴史を持っており、現在の所有工場は

長野県内
長野県諏訪 四四五 同上 三六四
同上 一六六 同上伊那 五〇〇
長野県外
埼玉県熊谷 八八四 茨城県我孫子 三五六
愛知県 三〇〇 山梨県 三〇〇

県内四工場千四百七十五釜、県外四工場千八百四十釜合計三千三百十五釜、片倉や山十、小口両組などとは大分隔たりもあるが県内のみならず県外に於ても本邦屈指の大製糸家として六大製糸の名を恥しめぬだけの実力は備えて居る。代表者林菊次郎氏は万延元年生れの当年六十四歳、モウ可なりのお爺さんだが矍鑠壮者を凌ぐ勢いは、今井五介さんなどに較べても毫もヒケは取らぬ方、今なお若い者を叱咤して事業の発展、社務の拡張を何よりもの楽みにしているという、頗るつきの頼母しさである。

丸子町の依田社

以上で所謂諏訪の六大製糸なるものの一通りは紹介したが、信州系の製糸家を書く以上、何うしても逸してならぬのは丸子町における有限責任信用販売購買組合という長ったらしい肩書付の依田社である。この依田社に属する工場並びに各工場の代表組合員は、
 斎藤繁之助(個人)二九二釜△小林清之助(個人)三〇〇釜△柳沢太三郎(個人)八六釜△土屋条三郎(個人)二〇〇釜△倉島滝之助(個人)二一九釜△伊藤寿吉(個人)八五釜△小林周口(個人)七〇釜△関定次郎(個人)五〇釜△藤沢太作(個人)五〇釜△土屋義家(個人)四〇釜△工藤三八郎(個人)二三四釜△倉島柳太郎(個人)二二八釜△小林今朝吉(個人)六二釜△下村万助(合名)六二四釜△小林康雄(合名)一八〇釜△工藤房次(合名)一二〇釜△倉島柳太郎(株式)九六釜△滝沢寛(株式)三七〇釜△倉島柳太郎(株式合資)一八〇釜△土屋光治(株式合資)二六四釜△小井土周造(株式合資)三四〇釜△佐藤達雄(合資)一二〇釜△工藤善助(合資)二一二釜△工藤善助(産業組合)一二四釜
以上合計二十四工場、四千二百三十釜、此外共同揚返しに加入している工場二十五、釜数四千三百九十一であって、其性質から見て同社はいわば一種の寄合い世帯だが此尨然たる寄合い世帯を、明治二十二年の起業以来、代表し統率してよく斯界の一大勢力たらしめて居るのは前代議士工藤善助さんである。

(百十六) 製糸業の雄を網羅する信州系

立役者善助氏

依田社の代表者工藤善助氏は長野県から選ばれて衆議院議員たること二回、古手の代議士なみに勲四等の勲章をも頂戴して居り、故郷では甞て依田銀行の頭取であり今でも丸子鉄道の社長、信濃絹糸紡績、上田蚕種会社の取締役、信濃電気の監査役などもやって居る、一かどの有力者だが、近来スッカリ発心して政界の陣笠商売などは忘れてしまい、老後の思い出に本邦蚕糸界のため献身的努力をするんだと、本人自ら口癖のようにいって居る。陣笠がたとい年の功で裏金くらいになったところで、タカが知れたものそれよりか直接努力の効果も現われ、おまけに金も儲かろうという蚕糸事業の方へ、ウンと馬力をかけるが幾らいい思いつきか判らない。その発心の一端の現われが昨年の第二次米国絹業視察団には自ら団長として一行を率い、北米大陸を縦横に経めぐって日米間の親善を生糸で結びつける大役を無事に勤め終うせたのだ、真面目なだけに自然各方面からも尊敬せられ、あの寄合い世帯の依田社が格別内輪もめもせず歩武堂々と諏訪の六大製糸に拮抗しつつある所以も、要するに氏の力だ。

信州製糸の欠陥

以上で信州系統製糸家の重なるものだけはこれを尽した。そしてこの重なる人々によって代表せらるる信州製糸事業の如何に頭抜けて偉大なるものあるかの点も略ぼこれを紙上に展開し得たと思う。がこれを信州全体の製糸事業から見ると、その偉大は畢竟生産額だけの話であって、その経営方法などになると失礼ながら尚お研究考慮を要する幾多の事項が残されていはすまいか。何しろ神代この方とまで行かずとも、上古雄略帝時代からわが国屈指の蚕糸国として宇内に鳴り響いた国柄でありながら、そして明治維新前から本邦貿易界を背負って世界の檜舞台に店を拡げながら、未だに家内工業的の幼稚さと不統一とを繰返すのみで、かの綿糸事業が近代式工場経営法により短時日の間に比較的長足の進歩を遂げ得たのに較べ、全くお話にならぬが如きは一体何うしたものだ。会社組織といわず個人経営といわず、すべての糸屋には皆それぞれ異った歴史もあれば入り組んだ事情もあろう。従って今日直ちに各製糸家の大合同を実現せよと迄われ等は極言せぬ。しかしながら時代はモウいつまでも旧式経営法に甘んじて取引先から今更めかしく繊度の統一などを攻撃されるというは、いやしくも世界の信州として本邦貿易界の消長を背負ってたつ製糸家の恥辱でなければならぬ。信州製糸家にして資本合同なる時代の要求が何を意味するものなるかを静思三考するならば、生糸改善策の如き自ら其道が開けて来るであろうと思う。

永久の月桂冠は

一体わが国の生糸はその七割迄所謂浜表の生糸売込問屋から生糸輸出商へ、そして欧米の顧客へという順序で外国へ出て行く。この取引機関中売込問屋なるものは荷主と輸出商との間にたって売込みの口銭を得ることを主眼とするものだが、荷主に資金を融通する方の収益が遥かに莫大なので、自然資金融通の方面に力を注ぎ、両者の関係は一種の共同経営といった形にもなる。輪出商は読んで字の如く海外貿易の衝に当るもので、外商と内商とがあり、需要先の委託を受けて買入れ、その間の口銭を収得し又は市場の思惑で売買をやったり、先高見越しから先約定を行うものもあるが何れにせよ、海外事情に暗い製糸家が、こうした仲介機関によりて危険を少くする便宜はある。しかし中には種々術策を弄して市場を左右せんとする悪弊がないでもない。この外売買両者の間に介在し原料、正量、品位、練減、繊度班、強力、伸度、デニール等を公正に検査して取引の円滑を計ると同時に一般の参考に資する生糸検査所もあるが、製糸家そのものが海外事情に精通せざる限り、仲介機関から生ずる弊は改められぬ。現在海外市場における生糸の格は、階級的方法で定められるが、また商標そのものを直ちに用いることもある。この格は市場で自由競争により定められるものだから、(一)一年間少くも百梱以上供給し得ること(二)毎月一回以上の取引をなすこと(三)二年以上の取引を経ること(四)年中一定の品質なることその他相当の資格を具備していなければならぬ。がこんな講釈は茲にかれこれいうの必要はない、要はその委託売込たると、直接売込たるとを問わず、製糸家自ら、深く内を固め広く外を察して、品質を改善し、生産額の増加、価格の低廉など一般需要家の要望に副うように努めて怠りさえしなければ、世界の生糸国たる名誉はとこしなえにわが国の頭上に輝こう(信州系完)

(百十七) 時代に目覚めた三菱系

三菱系の組織

三菱が我財界に如何なる地位を持っているか、ソンナことを今更らしく形容するのは野暮の骨頂であろう。岩崎家事業の総本山たる三菱合資会社というのは、明治二十六年の商法改正と同時に設立されたもので、当初は岩崎家の事業全部を総攬したものである。随って現在の分系会社の大部分に跨がって独裁的の権能を揮ったものであった。然るに時代の進展はかかる旧套的な施設では思い切った仕事をするに甚だ不便を感じその結果大正六年十月三菱造船株式会社の独立を第一着手として、製鉄、倉庫商事、鉱業、海上火災保険、銀行内燃機、電機等の各分系会社の分離創立を見たのである。三菱造船が従来三菱会社造船部として本社に属していたと同様に、各株式会社も合資会社中の各部に配属されていたのであることはいうまでもない。従って現在三菱合資会社なるものが、資本金一億二千万円を擁し岩崎小弥太氏が業務担当社員社長として采配を揮っているとはいえ、形式上から見れば各分系会社に対する業務上の関係は余程稀薄になっているのである。即ち目下三菱合資としては、有価証券の取得利用、営業としての地所部及び岩崎家に属すべき事務の範囲を出ない。それだけ外見上は権能が縮小されたのである。これを一面から見れば現在の各分系会社の前身たる各部がその一挙手一投足に対して加えられる本社の拘束から脱して新時代に順応した業務の遂行にあたり得るようになったとも見られる。これは決して三菱本社の事毎に干渉至らざるなかったことを単に裏書するのではなくして、三菱そのものが漸く時代に目醒めたいい傾向を示したものだ。

三菱合資の特色

三菱合資会社としては、その大部分の力を地所部の経営に委ね、他方には各分系及び関係会社の大株主として単にその投資利益の採算に没頭すれば足る、今更三菱合名としての活躍の余地はない、寧ろ静かに本質を守る外はないのである。しかしながら、これを三菱とならべ称せられるところの三井家の事業に対する三井合名の関係と比較する時は未だ完全に合資会社の独自的地歩を占めているとはいえないようである。然し三菱合資会社の内部的事業として特筆すべきは、近く創設完成の緒についた資料課の外に、監理課、査業課等の各課をも挙げなければなるまい資料課なるものは主として資料蒐集にあたる以外に、尨大な図書館を擁して広く知識の吸収につとめ更に時々資料彙報なるものを編纂発行して内外に渉る経済資料を集録しているのである、これを分って『企業の部』『海外経済の部』『重要記事目録』等に類別してあるが、同課において主として活動している人物としては、元早大の議師たりし浅川栄次郎氏があるが、氏の如き語学者を登用してこの経営に当らしめているところに三菱の内部的の目覚めを窺い知ることが出来るといってよかろう、次に査業課なるものを見ると(これはもと主として支那に対する東洋課と称し)三宅川百太郎(現商事会社会長)斎藤延氏の如き東洋通を以て組織されたものであったが、機運の進展につれてカラフト、南満、南洋方面にも広く渡って、いわゆる起業の調査にあたることになった。係を分つに南洋、天産、鉱業、サガレン等の各課とし、三菱として将来営利的に経営の可能性あるや否やを検索するに利用されているようである。更に監理課なるものは従来三菱合資に属する各部に対して、会計監督社内の貯金事務等を管掌していたものであるが、各部の独立以後は単に各社貸借対照表の形式的監査及び社員共済貯金事務監理等をなすに過ぎなくかった。これは監理課それ自身の事務の縮少でなくして寧ろ三菱の各部が夫々独立発展の結果と見るを至当とする。

(百十八) 時代に目覚めた三菱系

幹部の面々

現三菱合資会社は業務担当社員として上記岩崎小弥太氏の外に串田万蔵(銀行)武田秀雄(造船)青木菊雄、三宅川百太郎(商事)菊池幹太郎(銀行)三谷一二(鉱業)等の諸氏が理事となり、これ総轄するに木村久寿弥太氏(総理事)がある、而して右のうち主として合資会社の仕事にたずさわるのは木村久寿弥太、青木菊雄の両氏で木村氏は前総理事格の江口定条氏の跡を継いだ人、青木菊雄氏は将来の総理事として嘱望されているし、更に目下外遊中の参事奥村政雄氏も未来あるを予言され、地所部長としては人格者赤星陸治氏がある以上木村、青木、奥村、赤星氏等合資会社の首脳部は揃いも揃って何れも帝大出身であることは、事務の性質上尤も千万といわねばならないが、しかもこれ等の人材をよく生かしてみるところに三菱の面目が存するといい得よう。

自慢の三菱造船

天下の両富豪と並び称される三井三菱の経営事業中、大体においてその歴史の新らしきを以て三井に稍々及ばざるやの観を抱かしめられるものも二三ないではない。たとえば商事会社の如き、倉庫の如きは三井物産、東神倉庫等に比し或は遜色あるを云為するものがないともいえぬ。しかし、三菱のその最も誇りとするものに三菱造船株式会社がある。これには流石の三井と雖も一籌を輸せざるを得ないであろう。岩崎家と日本郵船会社との遠き関係については、これまた後段に譲るとしても、わが海運界或は一歩進んで製艦技術方面においては、現在においても神戸川崎造船を除いたら宇内にその比肩するものを見ないのである。三菱の造船部として合資会社に属していた当時からその独得の勢力はわが海軍に幾多貢献をなしつつあったことは今更贅するまでもない従って世界大戦後、わが海運界の大発展と同時に、製艦技術方面の発達を招来し、殊に八八艦隊の製艦計画によっての活動は著しいものになった。これらの前後事情を慮考に入れる時は、造船会社が大正六年十一月資本金五千万円、内払込金三千万円を以ていち早く独立し三菱造船株式会社となった内部の消息も読めるというものである。而してわが国において、所謂戦闘艦の建造をなし得るものは三菱と川崎の両造船所以外には求められない程の優越な地歩を有していたのは事実である。従ってかの華府会議の結果として、製艦制限となり、延いて起工中の「土佐」先ず廃艦となり、次で「高雄」またその建造を中止するに至ったこと等は甚しい打撃であらねばならなかった。現在三菱造船として経営しつつあるものは長崎、神戸、彦島、長崎兵器製作所の四ヶ所で、長崎及神戸両造船所の規模施設については既に定評があり殊に神戸造船所の一万何千トンを容るるに足る浮ドックの如きは田舎者の目をそばたたしむるに十分である。また長崎兵器製作所では水雷其他各種兵器を製造しているのである更に長崎造船所の内容を分けると造船部と造機部があり、前者が船体、後者が各種機関の製作にあたるのであるが、この後者に属する製鋼部は日本製鋼、神戸製鋼、住友等と優に対抗し得べき地歩を占めているようであるが。而して茲に特筆すべきは、従来造船部に属していた、電気及内燃機の両部が最近独立して、夫々三菱電気株式会社(資本金一千五百万円)三菱内燃機株式会社(資本金五百万円)の両株式会社となったとである。

(百十九) 時代に目覚めた三菱系

発展途上の三社

三菱電機も三菱内燃も造船部の附属事業として夫々仕事をなしつつあったが電気事業の勃興、内燃機に属する事業の興隆につれて特に両社を切りはなして創立せしめたといわれている。今、電機会社の方面からいえば、本社は東京であるがその製作所は神戸にあり、将来名古屋に設けることは既定の事実、内燃機会社は本社東京、製作所としては神戸及名古屋の両市にこれを有している。而して当然の順序として先ず三菱造船の重役を挙げると取締役会長には海軍造船中将武田秀雄氏をはじめ、浜田尨、三好重道、永原伸雄氏等が常務となり、最近異動説もあるが、電機及内燃機の両社も武田秀雄氏の統率の下に置かれてある。要するに海軍造船界の権威としての武田秀雄氏によって三菱造船の過去は鮮やかな歴史を形作られたといっても過言でない。三菱造船は従来が主として製艦方面において異常の発達を示した同社のことである、たまたまHクラスと称せらるる郵船の榛名、箱銀、箱崎等の貨客船の建造を行い、近くは長崎上海間の貨物船として六甲、阿蘇の二船を竣工させる運びになっているとはいえ、戦艦制限の結果としてはまだまだ補助艦艇の建造については進むべき余裕が十分あるといってよかろう。しかしながら、目下問題となっている優秀船の建造について三菱としては当然意を巡らさざるを得ないのである。更にわが国の鉄道電化をはじめ電気業界の発達は必然的に三菱電機の将来に何事かを暗示しやしまいか殊に、古河とシーメンスとの合弁事業たる電機器製作所と対抗してゆくためには一段と努力すべき余地があるはいうをまたない。最後に内燃機会社としては飛行機、自動車の製作を主としているが近来舶用機関として重視されつつあるデイゼル機関の製作にもその驥足をのばす余地もないではない。

三菱鉱業会社

三菱の特長は自分の資本を自分で動かすという点にある。他に共同でやったりすると意見が纏まらなかったりして煩さいという大マカな処がある。安田系は之と反対にボロ会社を呑込んで別のいいものに作り上げるというんだから、両者は面白い対照だ。然るに、三菱としては全く例のない方式を採ったのが三菱鉱業会社で、合資会社から鉱山部と炭鉱部が分離して独立の会社となったものである。コレが三菱の憲法を破って大正九年の好況時旧株をプレミアム附の百円で一般から募集したのである、資本を一億円にしたのも其時で、其後財界のガラに遭ったけれど、三菱自身は配当を受けないで他の株主には今でも年八朱の配当をやっている。現在払込資本金六千二百五十万円の大物である。

其鉱山と炭鉱

三菱鉱業の所有鉱山として岡山県の吉岡銅山、炭鉱として長崎県高島鉱の両者は、その由緒が甚だ古い。殊に高島炭鉱は我国の最も古い炭鉱で長崎港外の海底にあることや、また始めて洋式の採炭方法を採用したことで有名である。現在、三菱鉱業の所有鉱山及炭鉱の所在及年分の産出量を示せば次の如くである(単位金属キロトン石炭メトリックトン)

粗銅 吉岡(岡山)二〇〇 槙峰(宮崎)五〇〇尾猿沢(秋田)二、三〇〇 荒川(同)一、三〇〇生野、(兵庫)二、五〇〇 明延(同)二、五〇〇 綱取(厳手)三〇〇
金銀地金 佐渡(新潟)五
錫 生野三〇〇
硫化鉱 宝(山梨)一〇、〇〇〇
 目下作業中のものとしては面谷(福井)奥山(静岡)富木(石川)高取等がある
石炭 高島(長崎)三五〇、〇〇〇 ●田(福岡)五〇〇、〇〇〇上山田(同)二〇〇、〇〇〇新入(同)四〇〇、〇〇〇方城(同)二〇〇、〇〇〇金田(同)二〇〇、〇〇〇相知(佐賀)三五〇、〇〇〇 古賀山(同)八〇、〇〇〇芳谷(同)二五〇、〇〇〇美唄(北海道)五五〇、〇〇〇 蘆別(同)一〇〇、〇〇〇大夕張(同)一〇〇、〇〇〇合計三、二八〇、〇〇〇

これによってみると、銅及び石炭の産出量はわが国の全産出量に対して概算一割乃至一割五分に相当するのである。而して三菱鉱業の経営になる精煉所を挙げると大阪(電気精煉)、直島(香川県反射炉精煉)を有し、骸炭の製造所としては九州枝光に持っているのが最大である。今、鉱業会社の営業課目なるものを見ると(一)鉱業及鉱物の売買(二)化学工業、電気事業、金属化工業、農林業、運送業及附帯業務ということになっている。

(百二十) 時代に目覚めた三菱系

経営者の顔触

而して同社は前述の通り、三菱分系会社中唯一の対外関係を有する組織であるために、その責任上重役としては取締役会長に岩崎小弥太氏をあげてあることや、監査役として三菱系の串田万蔵、青木菊雄両氏の外に諸戸清六、佐藤慶太郎の両氏が社外から就任しているのが目立つ。常務取締役は三谷一二氏で木村久寿弥太、江口定条、重松養二、能美愛太郎、田口源五郎、中本英彦、岡田岩蔵、船田一雄氏等九名の取締役を置く。同社の関係会社として最大なものは九州炭鉱汽船株式会社であってこれが社長には前の鉱業会社常務能美愛太郎氏、資本金五百万円払込額三百五十万円で三菱鉱業が五万三千余株を持っているから全然同社の分身に外ならない。この社は九州西部崎戸炭鉱の経営に当り、主としてコークス原料、瓦斯発生等の需要に対する特殊の地盤を有しているといわれている。更に関係会社としては佐賀県古賀山炭鉱及北海道美唄鉄道株式会社がある。尤も右の中、古賀山炭鉱は去る二月中解散し現在は三菱鉱業によって経営されているから問題はないが、美唄鉄道は北海道美唄駅からの岐線、美唄炭山駅に至る営業マイルとして十哩の経営にあたる払込資本金百二十万円の一会社として三好重道氏がその常務取締役に就任している。主として石炭運搬に充てられつつあるようだ。三菱鉱業の事業としては大要上記の通りであるがその販売方法の機関としては三菱商事を経由することになっている。茲に鉱業会社として最も社会的注視をうける問題としては金属山に属する約五千五百人、精煉所の約七百名、炭鉱に属する約三万人、合計三万数千人の労働者に対する施設である。わが国鉱業界において古河、住友、久原につぐ規模を有する同社のことであるから、その雇傭労働者の生活状態其他については、同社としても慎重なる調査最善の努力を惜まぬは勿論であるが、その現状について聞く所によれば、かなり綿密な施設が行われているようである。

三菱商事会社

次ぎに三菱商事会社は大正七年五月、旧合資会社営業部の仕事を引継ぎ、資本金千二百万円全額払込の株式会社として設立された。これが設立当時、社内の有力者等はこれに反対の意見を有していた、その理由とするところは、三菱の事業を背景としてその製品を販売し、その原料を購入するエヂエントとしてこそ堅実味があるが、近代式の純粋の商事企業的経営には大なる望みを嘱することが出来ないのみならず、三菱の事業が真実をモットーとする点から見て果して調和がとれるかどうかというのも疑問で、寧ろ旧来の営業部存続を可とするというのであった。しかし当時税制の問題もあり、他の大商事会社の利益をあげつつあるのを見ては指をくわえて眺めて許り居られず、進取の気象に富んだ社長岩崎小弥太氏は断然商事会社の設立をものにしてしまったのである。然るにその実際成績はどうであったかと云うと、反対論者の懸念した程の事もなく幸いに戦時の余慶をうけて相当の成績を挙げたばかりでなく、間もなく襲来した恐慌に際しても、実はあまり大した仕事をしていなかったお蔭で、重大な打撃を蒙らないで済んだのは勿怪の幸いと云えば云われる。現在は整理時代を過ぎて、三菱式の手堅い営業振で、徐々に開運の途上に進展しつつあるものの如くである。しかしながら、商事会社としての競争者には、三井物産、鈴木商店等の斯界の古狸があるために、設立後未だ日の浅い同社にとっては、頗る骨の折れる環境に処すると云わねばなるまい。

(百二十一) 時代に目覚めた三菱系

三菱商事の仕事

而して同社の仕事としては分系会社の製品販売、及原料購入の外、諸官衙の入札、関係会社の委託売買を根本とし更に、大生産品の思惑にも手を染めている。取扱商品から云えば、穀肥、砂糖、ゴム、木材、缶詰、石炭、羊毛、金物等がある。今主なる取扱商品の一ヶ年取高扱を最近の状況から概算すると次の通りになる(単位千円)

[図表あり 省略]

其他各種商品取扱高を総計すれば、一ヶ年の同社取扱高は約二億五千万円見当と註される。現在同社の幹部は左の如し
 取締役会長 三宅川百太郎、常務取締役 高橋錬逸、同 山岸慶之助、同 加藤恭平、取締役岩崎小弥太、木村久寿弥太、江口定条、菊池幹太郎、川井源八、監査役串田万蔵、同青木菊雄

三菱商事の人物

由来商事関係者は、社会的に接触する機会を多く有しているだけあって、いわゆる対外的に著名な人物に作り上げられるものだが、対世間的にはあまり光らぬ、悪く云えば引込み思案な三菱の重役としては、三菱商事のそれは著しく異彩を放っているようだ。会長三宅川百太郎氏は商大の前身東京高商出身で、東洋風な豪快児、曩に合資会社の東洋課長たりしことは既記したが、その出が九州の石炭畑だけに一調子痛烈味を帯びている更に商事会社の三頭政治を行う三常務であるところの、三者各々について云えば、高橋錬逸氏の冷静山岸慶之助氏の綿密、加藤恭平氏の放胆、共に部内の噂に上っているが、加藤恭平氏の如きは将来の会長を以て大方からの期待が甚だ厚いようだ。三菱商事会社の将来は如何、本論の冒頭に述べたる如く、その設立に当って投げられた反対論を押切って、三菱本社と分離し財界に乗り出した以上はどこまでも三井、鈴木と対抗して財界の一勢力たらねばならぬ。

思惑的の傾向

近来、その営業方針なるものを見るに、顕著な事実は三菱本来の仕事から生産される商品のソール・エヂエントとしてよりも一般に思惑的仕事の分子が逐次濃厚味を加えて来たことである。換言すれば三菱が商事会社を通じて世界的商品界にスペキュラチーヴな態度を以て臨みつつあることである。例えば往年増田貿易株式会社を販売店としていた明治製糖を、増田貿易の没落以後三菱がその手にこれを収めて、砂糖界に一種の地盤を開拓しつつある如きは、近時同社の帰嚮を示す一例である。これを要するに三菱商事としては、本社の羈絆を離れて今や世界商品市場に何等か求むるところあるを露骨に示しつつあるといってもいいのである、こう見て来ると、三井物産鈴木等のいわゆる老舖と雖も安閑としていられない。勿論、経験、看板其他の点からいって、彼等には七分の強味がある以上、慌てもしまいが油断のならないことはいうまでもない話、結論を一と口にいえば三菱商事は今方に新機運の潮先きに乗っているのである。これに三菱本来の著実さをどこまでも加味して押してゆくならば、ボロイことは出来ぬとしてもつまずくおそれは万無かろうと思われる。三菱の関係商事会社はどんなものがあるか。

(百二十二) 時代に目覚めた三菱系

三菱関係会社

三菱の関係会社という中には、投資関係から来ているものと、岩崎家事業の別働隊と目すべきものとに大別することが出来る。

投資関係 日華製油株式会社、横浜生糸株式会社、大北漁業株式会社、菱華倉庫株式会社、三五公司、窪田農園
別働隊 満蒙殖産株式会社、樺太木材株式会社、旭硝子株式会社三菱製糸株式会社、若松築港株式会社、共同運輸株式会社

これらが内容について簡単に記してみると、先ず日華製油だが、これはもと桐油の製出を三菱の手で経営したのに始まり、次いで東洋課の創立と同時に天津の落花生油製造所を買収し、尚お日本綿花会社が副業として漢口で経営した棉実油工場と合併し、茲に三菱系および日本綿花系が合体して日華製油株式会社を設立したものである。更に大正六年三月門司の日本油脂株式会社(大豆油)の若松工場を買収して茲に改めて株式組織としたものである、大戦中米国方面における油類の需要は非常の勢いで激増した結果、満洲における三井、鈴木、日清製油等の大手の活動著しくこれに刺戟されて、一方三菱商事に油脂部の設置となり、いわゆる水商売に三菱が手を染め出したのである。戦争中の際物商店だけに、休戦以後一と泡食わされ一時手を引いたようであったが最近又復根本的の地盤を築きあげることに努力している。現在幹部としては三菱系及び日本綿花系の人々を以て占めている、即ち取締役会長三宅川百太郎、取締役山岸慶之助の両氏、社外から喜多又蔵梅原徳三郎、中村利三郎の三氏、監督役に青木菊雄、山田穆氏等がある。横浜生糸はもと三菱の経営に係る日本生糸が横浜生糸に合併したもので、大正九年日本生糸の新設以後、売込関係等において横浜生糸に及ばざること甚だ遠いので遂に十年六月三十一日合併の止むなきに至った。資本金一千万円内払込金七百四十八万五千円、三菱からは最近常務となった橋本十五郎氏が入っている、氏は長崎高商の出身、頗る将来を嘱目されている、其他現重役は取締役会長新井領一郎、常務取締役山田松三郎荒川新十郎、佐藤永孝の諸氏である。大北漁業は従来三菱の経営になる北洋漁業がその競争者であった日魯漁業と提携し、その一位の勢力を合せて成立した会社で資本金六百万円(全額払込)出資割合は三菱二、日魯三といわれ、社長に南新吾(現日魯漁業の常任監査役)常務田中丸祐厚、同平塚常次郎(現日魯常務)の諸氏現重役たり。本年の生産力は三十万函と予想され、内二十万函は紅で専ら欧洲市場に捌け口を求めている。

南洋での活躍

三五公司というのはマレー半島にあるゴム園(約千五百万エーカー月産原料ゴム百五十トン)で、斯界日本人の先駆者である。愛久沢直哉氏の個人名義で経営されているが、察するに岩崎久弥男の援助が多いようだ。即ち三菱と製品販売上漸次提携の度が密接となりつつあるのを見ても知れる。次に窪田農園はボルネオ東海岸タワオの椰子園其他においてコブラの製造輸出を企画しつつあるが、まだそこまでは至っていない。最近、弗々輸出引合をやっているが将来は月額千トンは大丈夫という触れ込みである。経営者としては窪田阡米、奥村政雄氏等であって、三菱の全部投資に俟つ。以上は全部三菱の投資関係に立つ事業会社である。

(百二十三) 時代に目覚めた三菱系

三菱の別働隊

次に三菱の別働隊について事業の性質、資本額、経営者の氏名を挙げると次の通りである。

満蒙殖産 本社大連、大正九年三月の創立で資本金五百万円、内払込金百二十五万円、専務取締役向井竜浩氏(常務矢橋春蔵、三菱から入社)同東海林光治、取締役成瀬正行、永沼秀文、方将宣の諸氏、主たる事業は羊毛の生産並に輸出。
樺太木材 本社東京、大正九年十月資本金百万円で創立されたものだが、もと深川大宝商店が樺太東海岸において、京都帝大の演習林を引き受け伐採にあたっていたものを買収したのである。現重役は代表取締役佐藤梅太郎氏(現商事雑貨部長)取締役阪本正治、大宝正鑑両氏、阪本氏は研究の為め最近欧米へ出張している。
旭ガラス 純岩崎家の事業で岩崎俊弥氏が独力経営の衝にあたる。明治四十年九月創立、資本金千二百五十万円内払込六百八十七万五千円、日米板ガラスと好関係にある。事業は窓ガラス製造及曹達灰の生産で、前者は現在牧山、鶴見山工場で年産約五十万函、後者は総計一万トンに達している。現重役としては前記岩崎俊弥氏社長、常務取締役田村八二、山田三次郎、取締役菊池幹太郎、青木菊雄、監査役岩崎小弥太、荘清次郎の諸氏がある。
三菱製紙 三菱の名称を冠しているが他の分系会社ほど著名でないが、最初高砂製紙と称し明治、三十一年二月の創立以来漸次発展して大正七年三菱製紙と改称した。資本金一千万円内払込八百万円、会長田原豊、取締役木村久寿弥太、藤野懿造、監査役桐島像一、大山五郎の諸氏。
若松築港 若松港の港湾設備によりて船主に利益を与え港銭をとる。明治二十五年七月の創立、資本金三百六十万円、現重役は取締役会長松本健次郎、取締役金子辰三郎、麻生太吉、木村久寿弥太、吉田良春、佐藤慶太郎の諸氏。
共同運輸 三菱倉庫の荷役、通関手続に重大なる関係を有している。本社横浜、明治四十年六月資本金六十万円で創立、現重役には前三菱倉庫常務加藤義之助氏取締役会長となり、専務万田策郎、取締役武市利美、伊藤津太郎、高瀬理三郎、監査役柳田郁蔵、金子幾吉の諸氏。

三菱海上火災

三菱海上火災保険株式会社は、もと三菱合資会社の総務部保険課として存在していたものだが大正八年八月他の分系会社中、銀行部の独立に先立って創設されたものである。元来、保険課というものは当時の営業部其他各部の海上火災運送保険の自家保険制度の下に保険事務をとっていたものだ、然るに大正八年独立以後は三菱分系会社及び関係会社の一切の保険並に一般内外会社の保険を引受けている。
而して組織の方からいうと、海上部、火災部(自動車部を含む)海損部、会計部とに分れている。現重役は取締役会長串田万蔵.常務取締役木村林次郎、取締役岩崎小弥太、江口定条、菊地幹太郎、奥村政雄、各務謙吉、監査役木村久寿弥太、青木菊雄の諸氏がある串田氏は三菱銀行取締役会長として敏腕の称があり、常務の木村林次郎氏は前三菱倉庫、製鉄等において腕を揮い、進取的な人物で明治三十年頃の帝大出身である。東京海上の各務謙吉氏の同社にあるのは、三菱対東京海上の関係から来ている。なお同社は三菱の各分系会社中最もその歴史が新らしいだけに、社員の大部分が若手揃いであるのは蓋し特色と称してもよかろう。

(百二十四) 時代に目覚めた三菱系

三菱倉庫会社

三菱倉庫株式会社は、以前有限責任東京倉庫会社と称し、明治二十年四月十五日創立されたもので、当初資本金五十万円、内払込十万円社長として川田小一郎氏、取締役は荘田平五郎氏、株主は大体に於て三菱系から出ていた、当時の株主としては近藤廉平、犬養毅氏等があった、其後明治三十年に更に五万円払込を了し、三十一年更に五万円払込をなし、三十二年に三菱でこれを買収し更に十万円払込をなしたものである。当初は深川小松町に本店を置きその他合計の戸前数は百二十六を算した。明治四十年の上半期に二百万円に増資し払込金百五十五万円となり、大正七年三月に三菱分系会社として三菱倉庫株式会社と改称し同時に資本金を一千万円払込五百万円となった。次で大正十年二月残額五百万円を払込み現在は全額払込済となっている。業務上から見ると、普通倉庫業、保税倉庫業、税関仮置場業、運送業、貨物陸揚場業(荷捌業)桟橋等を経営している。大阪においては殊に朝鮮の委託販売業を行い、神奈川においては棉花の陸揚荷捌に当っていることなそは著しい仕事とされている。現重役としては取締役会長に串田万蔵氏、常務に谷本伊太郎、取締役に木村久寿弥太、加藤義之助、三橋信三、岩崎小弥太の諸氏がある。

三菱倉庫の分身

三菱倉庫の分身としては上海における菱華倉庫(資本金百万テール)があるが、これは三菱商事銀行及び倉庫三社の出資によって設立されたもので、谷本伊太郎氏が首脳となっている。次に三菱製鉄株式会社なるものがある。これはもと大正五年三菱鉱山部中に原田鎮治氏会長として臨時製鉄建設部なるものが創設され、主として米国式の装置を採用し、大体において八幡製鉄所の規模に則ったもので、爾来三年間はいわゆる準備時代、大正七年十月に至って分系会社として独立したのである。朝鮮兼二浦に製鉄所を置き銑鉄及び鋼鉄の生産にあたるのであるが、鋼鉄の方は製鉄制限の結果、現在は需要減少して作業を中止しているが銑鉄方面は依然持続して作業をしているようだ。資本金三千万円(全額払込)で現重役は取締役会長武田秀雄氏、常務は三好重道氏である。製鉄会社としての業態を顧みると戦時以後の恐慌に際会して、甚しき苦境に陥ったが三菱の資力はこれを持ち支えて来った。近来、民間製鉄会社の合同が一部において喧伝されつつあるが、将来、製鉄合同の機運醸成と共にこれを他と合同させるだけの思い切りがつくかどうか、蓋し注目に値するといわねばなるまい。

三菱銀行の威風

東京丸の内の発展と同時に、所謂大銀行支店の集中目覚しきものがある結果、三菱銀行も本店以外に丸の内に第一及び第二の両支店を設けて、同業者と対抗的勢力の扶植に余念がないのも無理でない。殊に日本石油のビルディング有楽館に蟠居する前記二行の支店は隠然たる勢力を有して三菱当局を相当脅威しているようだ。ただ三菱としては本拠を有しているだけに銀行の底力は容易に他店のこれを冒し得ない地位にあるのは勿論であるが、決して楽観は許されない。三菱銀行は他の分系会社同様、三菱合資の銀行部が大正八年十月独立して株式組織になったもので、合資会社に銀行部の設置を見たのは明治二十八年十月十六日のことである。

(百二十五) 時代に目覚めた三菱系

三菱銀行沿革

然し、これは単に百十九国立銀行の営業を継承し、名称を変更したものに過ぎないのであるから、歴史を繙けば勢い該百十九国立銀行の設立当時に溯らざるを得ない。抑々百十九国立銀行は旧臼杵藩士の発起によって明治十一年創設、資本金三十万円、本店を東京、支店を発祥地臼杵に置いた。これは銀行紙幣発行地の制限上、東京を本店と称したのであって、実際は臼杵が本店、東京が支店の関係にあった。初代頭取は村瀬十駕氏、同十七年には若林永興氏がこれに当った。然るに明治十二年の交、旧島原藩士発起で第百四十九国立銀行が資本金十三万円で函館に設立され、右百十九及び百四十九両国立銀行の共同出資によって、資本金三万円を有する楽産商会が函館に創立され、北海道貨物の販売に従事したが、その為替決済機関としては函館百四十九と東京百十九の両行がこれに当っていたのである。其後右楽産商会が増資を計画し、両行の保証で三菱から借入金をした、これが抑々三菱との因縁を結ぶ最初であったのである。ところが明治十五年に至って不景気の聾来、物価の下落が楽産商会の破産となり延いて両銀行の維持が頗る困難に陥った。ここに於て百四十九は百十九に合併し、改めて三菱がその経営を引受けることになった。これは明治十八年の五月のことである。

当座預金の嚆矢

第一回の頭取には肥田照作氏が推された。明治二十二年には豊川良平氏頭取の職に就き同二十三年には事業拡張を行い、当時四十三万円の資本を百万円に増加した、出資者は云うまでもなく三菱一家であるが、特筆すべき点は此年始めて我国に於て特別当座預金の制度を創めたことや、横浜の香上銀行支店に当座勘定を設定し外国銀行との取引を開始し横文小切手の発行を見た事等である。然るに百十九は明治三十一年に国立銀行としての営業満期となるので、明治十八年十月三菱合資会社に銀行部を設置し漸次同行の業務の全部を継承するに至った。其経営者としては豊川良平氏及び三村君平、串田万蔵、桐島像一の諸氏で豊川氏以下は三菱銀行の創始者であると云って差支えない、更に其資本金は当初から百万円で以来増資を行わず遂に大正八年十月、銀行の独立まで押し通した。之は頗る異例と云わねばならない、今明治二十八年の第一期決算にあらわれた数字を見ると預金総額は四百四十六万六千円で之に対し最近の決算によると預金総額二億六千六百四十万円に上る。概算四十倍余に相当するが以てその発展振りか窺知出来ようというものである。現取締役会長は銀行通たり外国通たる串田万蔵氏がある。更に正金から入った菊池幹太郎氏、海外事情に悉しい瀬下清氏及び加藤武男氏等が常務として活躍している。平取締役としては岩崎小弥太、木村久寿弥太、江口定条、乙部融、監査役に桐島像一、青木菊雄の両氏等がある。

三菱銀行の傾向

三菱銀行の最近の傾向としては、各重要都市に支店の増設を図っていることが著しく目立って来た。支店中最も古い深川、大阪及神戸の三店以外に、前記丸の内二支店と、`大阪船場、神戸三宮、小樽等の支店新設は果して何を物語るものであるか。これぞ対外為替銀行としてよりも内地銀行界に三菱の勢力は漸く重みを加えて来た証左に外ならない。東京五大銀行中、比較的その歴史浅くしてしかもその勢力においで恐るべきものがある所以、三菱の名はここにも偉大さを持っているといわねばならない。これ単に串田万蔵氏の手腕力量にまつのみではないといってよろしかろう。

(百二十六) 時代に目覚めた三菱系

門戸開放傾向

しかし茲に注目すべきは、従来富豪銀行は何れも門戸を堅くして他より侵入を許さなかったが、時勢の然らしむる処か、先ず住友銀行が門戸を開放して増資に際し、その株式の一部を一般に公募し、次で三井銀行も資本金を一億円に増資した際に株式を一般に公開したその他、山口、加島等の各銀行も同様株式の開放をしたに対して、三菱糸のみは単に三菱鉱業会社の株式を一般にプレミアム付で募集したのみで、一般世人と最も密接の関係ある銀行業の株式のみは、依然としてその全部を掌中に収めて一般に開放せぬ今後機を見て現在資本金を一億円見当に増資する際には之れを公開する事は世の同情を集むる所以であるまいか。
以上数回に渉って三菱系の事業の現況を述べたが、最後に一言しなければならないのは岩崎家直属の事業である。その一つとして東山農事株式会社がある。これは大正八年岩崎家の直属事業を株式組織(資本金五百万円)とし後一千万円に増資して現在に及んでいる、営

三菱直属の事業

業課目を見ると農林業及牧畜が主なる業務で現取締役会長に桐島像一氏がある。本社東京、支店を新潟及朝鮮、出張所を北海道浅茅野に置く会社の現在所有地を概算すると(単位町歩)。
 朝鮮(水田三、〇三二其他一、〇〇八)新潟(水田八八二其他一八三)浅茅野(山林畑其他八、一四五)
で総計水田三千九百十四歩、山林其他九千三百三十六歩となっている。新潟及朝鮮は主として米作、北海道浅茅野は山林経営に当る。次に直属事業として厳手県岩手郡に面積三千六百余町歩を有する小岩井農場を有し、牧畜並に山林の経営に従事しているが、これは明治十四年岩崎弥之助、小野義真、井上勝の三氏が共同で創始したものを、明治三十二年岩崎久弥氏が引受けて今日に及んだものである。而してこれは東山農事会社が委託管理している。其他養豚事業として千葉県末広に牧畜場を有し(約三百五十町歩)これ亦東山農事の委託管理の下に置かれている。以上で漸く三菱としての事業の概要を記述したことになるのであるが、今、重複を顧みず、三菱事業大系を示せば次の通りになる
 三菱合資、'分系会社(造船、製鉄、倉庫、商事、鉱業、保険、銀行、内撚機、電機)関係会社(日華製油、横浜生糸、大北漁業、菱華倉庫、三五公司、窪田農園、満蒙殖産、樺太木材、旭硝子、三菱製紙、若松築港、共同運輸、岩崎家事業(東山農事)
これらの総資本額を合せれば三菱が天下の金権を以て三井、安田と共に呼称するのも無理ではない。

三菱系の沿革

歴史を今更述べるの要はないかも知れぬが、先代岩崎弥太郎氏は土佐の一藩士から身を商界に投じ、先ず海運に従事して九十九商社を組織し、更にこれが拡張を行って茲に三菱商会を設けたのである。これが今日の三菱系の発祥と見れば見られる。而して、海運事業経営上において種々の苦難を甞めたにも拘らず、天運はあくまで氏に幸して明治十八年日本郵船会社の創立となり次で当時の勁轍であった共同運輸と握手して、漸く抜くべからざる地盤を財界に植え付けたといわれている。一方、明治十一年創立された東京海上保険会社と三菱との関係は頗る深いもので今日東京海上がわが海上保険界で一頭地を抜く優勢の地位にあることも、その由って来るところは実に茲に存する。

(百二十七) 時代に目覚めた三菱系

岩崎家の根柢

岩崎家の事業は現在、主として岩崎小弥太氏の手によって総攬されているが、氏は故弥之助氏の息、兄久弥氏は故弥太郎氏の直系である。岩崎家としては久弥氏が本家であるがその事業経営上には、弥太郎弥之助、久弥小弥太の諸氏が、歴事し、次いで来るべき時代は、久弥氏の息彦弥太氏だそうである。なお、岩崎家として事業界に有する根柢は、先の日本郵船、東京海上の外に、猪苗代水電、キリンビール会社、明治生命、九州水電等を挙げられている。本稿の当初にも述べた通り、世界大戦以後わが財界の大勢は著しく変化を生じ、守成の策はそのままに退嬰を意味して来た。この際、三菱がその地味な方針を改めて、各方面に進取的気分を以て臨みつつあることに想到する時は、甚だその策の賢こさを見る。由来三菱の対照としては三井が挙げられていたものであるが、現在では三井のみでなく、鈴木、安田、大倉その他の勁敵は随所に現われて三菱王国の牙城に肉薄しつつある。これには勢い三菱としても鞭うたるる如き感がないでもなかろう。これは三菱が近時、益々進取的経営方針に出でるの止むを得ざるに到った主たる導因でなければならぬ。最近、三菱がその使用人の待遇について一新例を開こうとしつつある如きは、事小なりと雖もまた一見識と称すべきであろう。

丸の内の繁栄

明治奠都以降東京の繁華は日本橋を中心として放射状に進展しいわゆる首都ビジネス・センターがここにその存在を確立したことは何人も否まぬところとなった。しかしながら明治末期から大正へかけて殊に欧洲大戦の余波はわが財界の各方面に急激な衝動を与え、或は新会社の膨脹となって、商業区域の中心を単に日本橋附近に止めることが許されなくなった。従って、大正三年東京ステーションの開通と同時に運輸交通の利便著しく促進さるるや、急激な勢いを以って、商業区域の丸の内集中が行われたのも決して偶然ではない。いわゆる三菱ヶ原としてのみ顧みられていた大きな土地の上に満二十ヶ年の歳月はビジネスのセントラリゼーションを立派に成し遂げてしまったのである。東京駅を前景とし、昨今漸く新粧成った丸の内ビルディングを中心に双翼を張って櫛比する何層楼かの大建築は、将来益々伸張し来らんとするわが財界の策源地として十分なる包容力を蔵している。蓋し大正年頭の一偉観である。

岩崎家の卓見

一歩退いて今日のこの隆運を招致した素因なるものを静観すれば、今更ながら岩崎家の卓見、画策、堅忍、努力等幾多の結晶がそれに外ならぬと思う。地味、着実をその基調とする三菱にとっては寧ろ当然の結果をかち得たものと評すれば足りるが今日の殷賑かかくまで早く到来したことは一面からいえば、わが財界の発展の著しく急であったことを語るものであらねばならない。今更歴史を繙くでもないが明治二十三年の交、当時陸軍省の所管に属していた当今の丸の内一帯及び神田三崎町等凡そ九万坪の土地が、明敏故岩崎弥太郎氏によって、時価約百十万円見当で払下げられて以来、一時はその将来の処置に多少の疑問を挿さまれたこともないではなかったが、どうにかなろぞい的の豪放な調子の中にも前途を洞察するの明があったものと見え約一万坪の交換地を除いて現在の道路一万坪、建坪六万余坪合計七万余坪は決して分譲なぞせず、永い目でヂッと握りつめる方針で進んだのである。既に土地はお手のものである。いわゆる三菱の事業本部が殆どここに集中して三井の駿河町界隈と対抗的偉容を専らにするも何とも苦情のいいようがない。

(百二十八) 時代に目覚めた三菱系

三菱の大方針

こうなると三菱としてもその力の大部分を丸の内にそそがざるを得ぬ。殊に東京駅の背後から槙町線の開通によって日本橋通りに至る交通路の新設された曉は如何、喧しく論議されている東京湾の築港実現の後は如何就中東京湾築港の実現如何は丸の内商業区域の進路に多大の関係を有するものである。三菱当事者としては此問題に就て相当の用意が必要であろう。これあるかな三菱は将来を予想して決してその土地家屋の賃貸を急がぬ。東京築港の完成した曉は潮のように流れ入る外国商館が必然的に三菱の支配下の土地家屋に集中すべきは、三菱当事者ならぬ者でも予想するに難くない。従って初期のいわゆる棟割りオフィス式建築は当然改造されるであろうし現在の空地には益々近代約アパートメントの建設を見るであろう。後者の最も興味ある対照としては東京停車場に面して丸の内ビルディングと道路をへだてて同地積を有する一廓がこれである。この土地に対して三菱は絶対に賃貸せぬ方針をとり、丸の内ビルディングとの対照上見劣りのせぬ建築をする意嚮を有しているらしく、或は一大ホテル建築案の如きもないではない。が、前述の通り丸の内発展の進路が東方日本橋の中心に向うものと仮定するならば、新建築の使途如何も自ら考え直されなければなるまい。之等諸点を概括して考えると三菱の土地建物経営は今や一転機に遭逢しているものと見られはしまいか。更に一歩進んで論ずるならば、三菱としては単に土地建物の賃貸、換言すれば地価騰貴による利益を度外した採算に立脚する現在の方針と並行して土地建物の売買を目的とする一信託会社の業務を開始するような機運に接してはいはしまいか。

地主家主としての立場

 三菱が丸の内の商業区域に臨むのに、その広大な地所の地主としてよりも寧ろ家主としての立場を厳重に守っていることは一面がら見て、頗る有意義なやり方といわればなるまい。三菱は当初、その所有地全部に亘って自家の手によって建築を行わうという計画であったが、採算上西側即ち馬場先に面した通りを全部貸地とし、中心のみを自ら建築経営に当ることになったといわれている、即ち近代の新建築様式を探って帝都に一種の美貌を添えるためには、どうしても三菱自らの手でこれをやらなくてはならぬという一種の自負心から出たものとしても、かの丸の内ビルディングの如きはこの精神をよく体現したものといわなくてはなるまい、而して、これら丸の内経営の衝にあたる機関はいうまでもなく、三菱の事業を総攬する三菱合資会社の一部局たる地所部がそれである、三菱合資会社は安田家の保善社、三井家の三井合名の如き地位におかれてあるが、これには総務,人事、監理、査業、資料等の対内的機能を遂行する各課といわゆる営業に属する事務を管掌する上記地所部なる一部を包蔵しているのだ。

地所部の基礎

抑々三菱合資会社中の地所部なるものは、当初三菱合資の庶務部に属し、一方に建築事務なるものがあったが後この二者が合して地所部となったので、年代からいうと去る大正八年であるから比較的近い過去に基礎をかためたものである、尤もこの組織の緒についたのは大正の初頭からで漸次に各部と対立するようになったのであることはいうまでもない、寧ろ現在の各分系株式会社が本部に属していた時代において、既に地所部としては事実上分離していたといってもいいのである。

(百二十九) 時代に目覚めた三菱系

建築請負業

地所部の営業方面について簡単に記せば従来其の建築事業は自家の建造物にのみ限られていたのであるが大正九年以降請負建築業を営むことになった、併しこれ以前において、帝国鉄道協会、台湾銀行、帝国劇場の如き特に委嘱をうけて建築の衝に当ったものもないではない、これ等の中には一種資金関係から来ているものがあるとやら但現在迄に社外の請負としては東京タクシー横浜正金支店等の二所に過ぎないのである。而して三菱社内の建築としては本社の増築、三菱銀行の新築等が其重なもので、殊に三菱銀行の如きは地所部が最も力をそそいだものといわれ、坪当りの価格は他の建造物の二倍に相当すると称されているが、事実該建築はフラー建築会社との協同設計に係るものである。

貸地上の建物

更に貸地契約の方から云えば、東京海上、郵船本社、帝国劇場、東京会館、報知社、東京日日新聞発行所、日本製麻、日本倶楽部、更に北方には日本工業倶楽部、大川田中事務所、興業銀行、台湾銀行、正金銀行、朝鮮銀行等を数え少し離れて三越の別館等がある、而して現在建築起工中の内外ビルディング以外の未起工貸地契約の分は、奥村電機、常盤商会、有隣生命、時事新報社、日本活動、藤田組等を挙げ得る、これが完成されて後いわゆる丸の内のビジネス・センターたる外観が具備されるのであろう、かくの如き尨大な地域に亘って活動しなければならぬ地所部は、今や単に三菱合資会社の一部としてのみ認められなくなっている。しかし守成をモットーとする三菱においては、これを直属の事業としてどこまでも地味に地主振りを発揮するが当を得ていよう。

三菱の賃貸方針

ただ茲に一部の問題となっているのは、地所部の賃貸方針がいわゆるプロには貸さず、ブルにのみ便宜を与うるということだ。これ素より道聴途説に過ぎなかろうが、その方針の由って来るところは、いやしくも丸の内を以て帝都の商業中心となさんとする以上は曖昧模糊な小会社がいくら根城を構えたところで、丸の内発展の助けにならぬというのにあるらしい、これを丸の内ビルディングに見るも二階以上は一階約九十八室に区画出来るにも拘らず、一室ずつ分けて貸すことは手間から云っても繁雑である以外に少くも将来の繁栄を予想し得る根柢のあるものに貸すという方針から、なるべく大会社大事務所に割当てを行ったものの如くである。しかしこれらは如何にも三菱としては当然なやり方と思われる、成程その監理費用の如きは莫大であるにも拘らず、単に収益の上から云っては寧ろ少きに過ぎる程の低廉さで提供している点を考えれば、強ちにこれを批難するには当るまい。ただ三菱の活動の源泉か丸の内にあるという見方からだと断じて筆を擱く。

之からの三菱

三菱の貸地方針が、デモクラシーでないとか殿様風だとかいったって、決して三菱の方針が時代錯誤だというのではない。地味で堅実な遣り口が目立つというからの批評に過ぎまい。何といっても天下の三菱で、岩崎一流の豪宕な流れは其遣り振に現われている。其豪放な手口が之から三井鈴木大倉などと対抗して如何なる形で打って出るかが問題であらねばならぬ。現に三菱の最近の方針は漸次世俗を加味した所謂やりてらしく進展して来る傾向が歴然と現われているようだ、われ等は之等の諸豪が跳廻って、我国の事業のために貢献して貰うことを希望するだけである(三菱系終り)

(百三十) 本邦海運界を代表する郵船系

“Nicest you know”……行く人、帰る人、いやしくも郵船の船に乗ったほどの人にして、フジヤマの絵のわきに、こうした横文字の刷込んである吸取紙を、そのキャビンに見出さぬ人はあるまい何だと聞くまでもなく、日本郵船会社のイニシアルたるN・Y・Kをしゃれた文句だが、こんな手前味噌のしゃれが果して世界に通用するか何うか、われ等は知らぬ。が日本の内地においては、それこそ日本郵船といえば、誰れ一人肩を比べ得るものもない最大の船会社イザ引っ越しという間際の出火は何ともはや、お気もじ様の至りであったが、サテ芽出度く出来上った和田倉門外、お濠の松の緑を照り返えすあの堂々たる七層の新館に引移ってからは、殊に社格も一段と上ったらしく、社長室に納まる伊東米次郎氏の、そう大して偉大でもない肩幅さえ何とのう急に広くなったような気持がする。

社長は四代目

明治十八年、政府の命令という有がたいお世話で、郵便汽船三菱会社と、共同運輸会社とを一つに丸め、はじめて日本郵船なる看板を掲げてから、モウじきに四十年になる。会社創立当時の所有船汽船五十八艘総トン数、六万八千七百二十四トン、帆船十一艘総トン数四千七百二十五トン、その航路の如きも大抵は内地沿岸で、外国行といえば、横浜上海、長崎ウラヂオ、神戸仁川の僅か三線に過ぎなかったものか、今日ではその総トン数約六十万トン、世界五大会社の一として、近海航路なんか足手まといだとばかり、一切を別勘定の近海郵船会社として打捨らかして了うほどの素晴らしい勢い、伊東社長か新館の天井を睨みあげて、ニタリ人知れず得意の笑みをもらすも無理は御座らぬが、初代の森岡昌純氏、二代の吉川泰次郎氏等の創業時代はしばらく措き、これほどまでに郵船が育って来たのは、要するに三代目家光格として郵船の天下をしろしめすこと約三十年に及んだ近藤廉平さん時代のことで四代目の伊東氏としては、近海線の分離や、新館の落成を機としてこれからいよいよ本舞台に乗り出さなければならぬ大きな仕事もあろう、今から得意の北叟笑などはチト御遠慮めされて然るべきものだろうね。

郵船の関係事業

郵船は会社成立の歴史的関係乃至はその後の対政府関係などにも拠ろうが、創業以来今日に至るまで全く文字通りの船商売を専業として来たので、この点においては大阪商船の中橋さんなどがやったような海陸両棲的活動とは全く其趣きを異にして居る。したがって郵船が、本邦財界の一大勢力だとはいうものの、それは要するに海運業者としての地位実力という比較的狭い範囲に限られて居り、かたがた郵船がその本社の事業以外に関係して居る所謂子会社孫会社の如きも、あれだけの大きな会社としては寧ろ少な過ぎるほど少ない。試みに現在同社が株(債券証券類を除く)を持っている出資会社を挙げて見ると

[図表あり 省略]

(百三十一) 本邦海運界を代表する郵船系

郵船重役の割込

以上の外、香港黄浦ドックの額面二百弗、香港給水の額面七千弗、香港消毒の額面三千五百弗、セイロン埠頭の額面一千磅、ニューヨーク共同埠頭の額面二万五千弗、ニューヨーク・バウチ埠頭の額面十万弗(普通株五百株)上海電話会社の額面六千五百十両位いなもので、何れも船会社として直接仕事の上に関係をもつ会社か乃至は、わが海運界を代表する世界的会社という顔のうえから自然何ほどかの投資を余儀なくせられた特殊の事業に限られて居るのである。
株式投資によって郵船の関係している事業会社は、大要前記の通りであるが、更に右諸会社中、郵船の家の子郎党が親しく当該会社の重役となっているもののみを拾い上げて見ると

一、近海郵船=取締役会長伊東米次郎(郵船現社長)、専務取締役島村浅夫(同上現取締役)取締役石井徹(同上副社長)監査役河村金五郎(同上現監査役)監査役黒屋辰六(同上元参事)
一、日清汽船=専務取締役森弁治郎(郵船元大阪支店長)取締役伊東米次郎(同上現社長)監査役小松辰吉(同上元取締役)
一、朝鮮郵船=社長原田金之助(郵船元専務取締役)専務取締役松崎時勉(同上元函館支店長)
一、横浜ドック=取締役会長須田利信(郵船元副社長)専務取締役宮永万吉(同上元大阪支店長)常務取締役東条玉太郎(同上元造船監督)取締役河上邦彦(同上元工務部長)監査役谷井保(同上元取締役)
一、海外興業=取締役水川復太(郵船現取締役)監査役島村浅夫(同上現取締役)
一、東京サルベージ=取締役会長茂木鋼之(郵船元航海監督)
一、鎌倉海浜ホテル=取締役河田儀四郎(郵船副参事)
一、南洋貿易信用=相談役石井徹(郵船現副社長)
一、横浜共立倉庫=取締役渡辺水太郎(郵船現横浜支店長)

ザット以上九社、その重役席についている人数は兼職、本職を加えて都合十八名となっている。

横浜船渠と郵船

尤も前記九社のうち、近海郵船、日清汽船、朝鮮郵船ならびに横浜ドックの四社をのぞけば、他は要するにその員に加わっているという程度に過ぎず、云わばホンの名前だけのものだが、就中近海郵船以下四社のうちでも、純郵船系と称すべきは一近海郵船のみでその他はすべて傍系とでも見て置くが妥当であろう。横浜ドックは取締役会長以下枢要の椅子は挙げて郵船系の人で固めて居り、その持株も総株数二十万株の三分の一強という六万八千余株を握って居るのであるが、会社の創立当時には別に何の関係があった訳でもなく、ただ戦時中盛んに船を註文した関係から、自然両者の仲も濃密になり大正七年頃からしきりに持株を殖やして、最近やっと株主中の筆頭になり了うせたまで、いわばツイした事から深くなった出来あいの仲に過ぎぬが、既にこうして両者の縁が結ばれた以上、郵船でも出来るだけ沢山の船を註文して共存共栄の実を挙ぐる方針なそうだ尤も根が商売づくの間柄、いくら親類縁者だからとて、算盤勘定にあわぬものまで註文する訳もなく最近一万トン級デーゼル・エンヂンの貨物船を、直接英国へ註文した如きその好個の実例だが、これは大阪商船が兄弟分の大阪鉄工所を抜きにして同じく英国へ註文を発したと同様、心あって横浜ドックを袖にしたのでは毛頭ない、強いて云えば材料の自給力もなく労銀も高い本邦造船事業の悲哀をたまたま裏書した一事例に過ぎぬ。

(百三十二) 本邦海運界を代表する郵船系

其他の関係事業

海外興業は、主として海外移民事業を目的とする会社、船会社にも縁の浅からぬというところから、大正七年二月の創立当時、他の船会社同様おつき合いに株を引うけたまで、その他鎌倉海浜ホテルや横浜共立倉庫にしたところで、何ほどか船商売に関係があるからというだけの投資、郵船自身だってそう大して問題にはして居らぬ筈唯ちょっと目を惹くのは、石井副社長自ら相談役として出馬している南洋貿易信用株式会社だ、大正十年六月創立と同時に四分の一の十五万円を払込んだまでで、其後ウンだのかツブれたのか会社そのものの存在すら一向に不鮮明で石井相談役も相談のかけ手がないのに唖然たる有様、勿論郵船としても持株はタッた五百株、どちらへ転ぼうと格別痛痒も感じはすまい、香港やニューヨークあたりの埠頭株などに投資したのは、前にも云った通り、兎も角も世界屈指の大会社として、世界を股にかけて泳ぎ廻る以上、多少は看板の手前もあり、且は商売柄、寄港の度毎に多少なりとも株主として、強腰に出で得る便宜もあろうからとの胸算用らしいが、何れにせよ事業が事業だ、少しばかり株を有ったからとて茲にかれこれ述べたてるほどのものではなく、要するに郵船の関係事業としては、近海郵船、日清郵船、朝鮮郵船の三つだけあげて見れば、まず一通りの片はつかうというものである。

兄弟喧嘩の末出来た会社

郵船の関係会社中、血肉を分けた兄弟会社として、同じ船商売を専門にやっている三つの汽船会社のうち、日清汽船会社は、その地理的関係からいっても、是非ともわが国の勢力圏内にあらねばならぬ揚子江で、しかも遅れ走せに走せ参じた後輩のくせに、われがおれがの兄弟喧嘩ばかりやっていては、いつまで経ったところで、ジョンブルなどの鼻っぱしを、へし折る時代は来まいと、お互に目の覚めかかっていた折柄、有力なその筋の斡旋もあり遂に明治四十年、郵船、商船、大東、湖南の四汽船会社が、各自就航船その他一切を持ち寄ってこしらえ上げたもの、初代の社長は成立当初の関係もあり石渡邦之丞氏であったが、間もなく近藤廉平さんが二代目の椅子につき、可なり長い間、殆ど郵船の出店格として万事を振舞って居たものだ。尤も近藤さん時代には某遣り口が一体に消極的だった為め仕事も一向に栄えず、競争会社たる外国汽船などからも格別目の敵にもされなかったが、三代目の今の竹内直哉氏時代になってから、所謂積極方針なるものに看板を塗替え、漸次何程かずつ世間の注意をも惹くようになって来た。

大阪商船に株を奪わる

近藤社長時代は消極的で一向見ばえがしなかったとはいうもののこれは必ずしも近藤さん乃至親会社(少くもその当時は)たる郵船の熱が足りなかった為ばかりではない、実の所揚子江では古い支那汽船や英米汽船に大抵のお株は取られて了った後であり、幾らもがいても後進の悲しさ容易なとで手も足も出せなかったが為で、いわば已むを得ざるに出でた引っ込み思案、殆んど二十年近い憂き年月を日蔭者のように惨めな暮らしを続けて来たのである。がしかしその事情の如何に拘らずこうした惨憺たる貧乏暮しを幾年も繰返すべく余儀なくされては、さすがに郵船もいや気がささざるを得なかったと見え、幾分か捨鉢気味になりかかって来たらしい素振りを早くも見て取った大阪商船、お前の方でいやならおれの方でと、急にのさばり出て持株もグングンふやし、遂には社長の椅子まで廻り番こという態のよい口実の下に、竹内氏へ譲渡させ、今では地位全く転倒して、大阪商船の出店のようになって了った。

(百三十二) 本邦海運界を代表する郵船系

日清汽船と排日

この間の事情は大阪商船の巻で書いて置いたから、ここに繰り返えすの煩は避けるが、とにかく斯うして憂き月日を送って居るうち、例の猫も杓子も躍り出した欧洲大戦、殊に英米船の競争が滅切り劣えたので、世にいう待てば海路の日和が向いて来て、爾来トントン拍子の大陽気、地位も段々せり上げられて今ではモウ押しも押されもせぬ揚子江第一流の船会社になって了った。と種を割って見れば何も竹内三代目の積極方針などと、かれこれ取立てて提灯を持つに事当らぬ話だが、ただ其結果容易ならぬ事件を伴うようになったというのはあの排日騒ぎだ、近頃揚子江沿岸に排日騒ぎの起るたび毎に、まっさきに目標とされるのは云うまでもなく日清汽船、代理店が壊されたり、使っている下級船員の顔へ『亡国民』の印を押されたり何時もながら散々な目に遇う。現に今度の排日騒ぎだって、元は長沙で日清汽船の船を入れろ入れぬの押問答が、いま目のあたり見るが如く各地一帯に蔓延した容易ならぬ騒動の口火ででもあったらしい形となっている。何故支那人はこうも日清汽船に崇たるのか。ある消息通の談を聞くに『微力なすなき時代ならば兎も角、既に長江第一流の船会社として、多少なりとも幅を利かし得るようになって見れば、意外のところに意外の敵も出来ようというもの、現に今度の排日騒ぎだって、運動費の一部はたしかに或る船会社辺から出ている形跡があるではないか』と、真実は知らぬが、何れにしてもけしからぬ次第、竹内社長もこんなところで是非一つウンと積極方針の腕力を現わして貰いたいものだ。

振わぬ朝鮮郵船

 ツイ意外なところへ筆かすべったが、序に朝鮮汽船をも簡単に片付けて置こう、同社も日清汽船同様、朝鮮沿岸航路に従事していた郵船、商船並に大池、堀、西脇、吉田等の回漕店が持ち船を出しあわせて明治四十五年に成立したもの、主唱者が郵船であった関係から今日でも郵船色は可なり濃く識り込まれている、現在所有船三十隻一万七千トンで、多くは朝鮮沿岸を縫ってあるく数百トンの小蒸汽船のみだが、経営航路が朝鮮沿岸と内地朝鮮間の連絡船のみに限られているので、それでも事は十分に足る筈、会社の業績はあまり香ばしくないけれど、日清汽船などと異り外国船との競争の面倒もなく、朝鮮一帯の沿岸貿易の覇を握って総督府からも可愛がられ、鳥なき里のこうもりをきめ込み得る特権もあり、この方は郵船でも別段まだお株を商船へ譲り渡そうとはせぬらしい。

総会の一紛擾

俳人子規の句に『麦秋や壮士村に入る仕込杖』というのがある。船舶大合同を旗じるしに、一味徒党を狩り催おして郵船の株主総会に飛び込み、一と浪あおり立てようとした黒竜会の頭領内田良平君等のものものしげなる行動を思いやるとき、われ等はなぜかこの句の含む一種のユーモアを連想せずにはいられない、内田君等の真意が那辺にあったかは知らぬ。ただその声明するところに従えば、戦後欧米列強の商権恢興熱いやが上にも旺んなるものあるの秋、徒らに群小汽船会社が蝸牛角上のあらそいを事としていては、貿易の発展国権の伸暢はおろか、遂には日東大帝国そのものも国際的に滅亡して了うかも知れぬ。まさにこれ邦家存亡安危の岐るるところ、真に国家の重きを双肩に荷うものは宜しく自ら進んで本邦汽船会社の大合同を計り、個々分散せる力を一所に集中して対外商権確保の基を樹立せざるべからずというにあった。古人一茶かつてうとうて曰く『向き向きに蛙のいとこはとこかな』とあアした大きな屋台骨になると、一営利会社の株主総会も、単純な算盤勘定だけでは済まされず時には意外なところから悲歌慷慨の国士的人物も飛出そうというもの、まことに以て厄介千万な話だが、それだけ会社が大きくなったのだと思えばあきらめもつこう。

(百三十四) 本邦海運界を代表する郵船系

逆手に近海分離

当時内田君一派の意気込みの素晴らしさといったらそれこそ大変なもので、一つ間違えば伊東内閣の滅落は勿論のこと、公称資本金一億円、払込金五千八百万円という偉大なる郵船そのものの大黒柱にも亀裂が入りそうな勢おい、一方では内田派の壮士幾百名車がかり陣ぞなえで、総会の席に繰りこむそうだとの流言が起る、他の一方では会社側でも対抗上幾千人の壮士を雇い入れ鶴翼の陣をつくって会場を押っ取り捲くらしいとの浮説、この大戦を見逃がしては孫子の時代までの恥辱と当日会場にあてられた日本工業倶楽部は、株主席、傍聴席とも定刻前からの大入満員、一同かたずをのんで開会おそしとばかり待ちかまえていたがその前夜来『屈原にそうでもないと柳かな』也有気どりで加藤相談役等が割って入り、兎も角も調査機関を設けて汽船大合同の可否如何を研究して見るからという和解条件で内田君一派は空弾一つ放つでもなく無言のまま引揚げてしまい、馬鹿を見た傍聴人のポカンとあけた口のふさがらぬ間に総会はスラスラと無事散会、それ以来内田君等は郵船のユの字も目にせず会社側は会社側で、合同調査に名を藉って人知れずスラスラと筋書を運んだのが、合同とは正反対の近海部分離(昨春来特別会計としていたもの)即ち近海郵船会社創立の議なのである。

意外な反対運動

郵船近海部の独立会社創設が確定したのは本年二月三日の重役会であって、その理由はいうまでもなく性質の全然相異なる遠洋近海両航路を同一会社の下に支持するは相互に不都合極まるものがあるから、寧ろこれを截然両社に区分し各自その資力の許す限りの範囲において最善の努力を致すの勝れるに如かぬであろうというにある。即ち近海部分離の理由はその一面において、種々雑多な船を持寄り一種の寄合い世帯を構成する汽船会社合同計画の不可なる所以を最も明確に立証したものであると同時に他面かくの如くにして足手まといの近海部を分離し遠洋航路に専念努力するが真にわが遠洋航権の発達伸長を期する唯一無二の捷径であり自から内田君一派の大合同論を高調せる真精神にも合致する筈ではないかというにあった。さすがは多年船商売に憂き身をやつした専門家たちの専門的研究になった新案、今度こそは何処からも異議反対の申出はあるまいと伊東社長はじめ少なからず得意の鼻をぴょこつかせかけた折柄またしても『大仏の鼻から出たるつばめ哉』近海部分離などとは言語道断のはなし、われ等は分離そのものにも大反対であるが、殊に分離を実行すべき順序と方法とに、何うしても承知できぬ節があると、近海分離の議が重役会で決定したる旨世間に発表された二月四日の日から、忽ち絶対反対を声明して蹴起した一団がある。それは同社の大株主として株主中の一部に可なりの弱振りを利かしている織田昇次郎、穴水要七、沼田敏郎南波礼吉等のいわゆる兜町派に属する人々で、ただちに反対意見を印刷して一般株主に配布するやら会社幹部に対して直接会見を申込むやら、とても素晴らしい活躍振り、前の内田君一派とは自ら関係も異なり、会社としては戦時中にも増資増配運動で一方ならず悩まされた手強い連中だけにさすが鼻っ柱のつよい伊東社長もチョット面喰わざるを得なかったらしい。

(百三十五) 本邦海運界を代表する郵船系

近海分離反対

近海部分離に反対して蹶起した織田君一派の反対理由なるものは第一、近海部独立というが如き会社の重大事件を大株主会にも相談役等にも諮らず、重役会議だけで決定するというは不法でないか、軍役等は明治四十年二月、揚子江就航船の一部を割いて日清汽船会社を創立した際、別に大株主会は開催しなかったという前例を楯に今回の専断的決定を当然であるかの如く称しているが、日清汽船の場合は買収と同時に売渡したのであって今回とは全くその性質を異にしている、殊に郵船会社そのものは明治十八年創立当時主としで近海航路を営んで居り、会社が遠洋航路を開始したのは明治二十八年以後の事に属する、従って会社の定款は近海航路を主たる目標として作成されているものであるから近海部の分離は会社の主体を分離せんとする特殊の意義を有つ重大事であらねばならぬ、然るにこれを軍役のみの専断で決行するが如きは少なくも穏当でない、第二、近海遠洋の両社員を区分し適材適所の方法を講ずると称しながら、遠洋重役が近海の重役をも兼ねんとするは矛盾の甚しいものではないか、第三、郵船が航路土地その他の財産を提供してこれを株式に振り替えた際、経営方法の如何によってはそれ等の株式は配当利廻り上無価値のものたらざるを保し難い危険がある、斯の如き財産の処分は営業以外の重大事であるに拘わらずこれを株主総会に諮らぬとは違法ではないか、況や近海に引渡した財産は会社の原資に五百万円とある、これを時価一千万円に引上げて近海の株式に書換えるとしてその利益金五百万円の株式は如何に処分せんとするか、少なくも右剰余金五百万円の株式はこれを株主に配当すべきが至当であろうというにあった

泡を食った重役

根が算盤だかい人々の主張、織田君一派の反対理田なるものには内田君等の国士的議論と異なり大分打算的ふところ勘定が織込まれている、この点で織田君一派の反対は『両方で睨み合いけり猫の恋』同じ喧嘩腰でも喧嘩の性質がちがうだけに却って始末がわるい、がただ其反対論をやる上に何程か法律論的形式をも加味されていたので、これには畑ちがいの軍役連、可なり不安を感じたものか、急遽岩田宙造、高根義人の両弁護士を招いて法律的研究をやって貰ったが、法律上の適法なるか否かも元より大切なことには相違あるまいけれど、寧ろ徳義上株主側の諒解を求めて穏当に解決して置く方が会社将来のため有利ではありますまいかと、あべこべに弁護士側から実業家道徳を説かれたなどは、何れにしても器量のわるい話で、あれだけの大屋台骨を背負ってたつ重役としてまことに心細からざるを得ぬ次第、ある口の悪いのが『三筋足る顔とも見えず猿廻し』だなんてせせら笑っていた。尤も軍役中にもその全部が同じ腹で固まっていた訳ではなく、二月二十三日、織田派と最終的会見をなす前に開かれた重役会の際、福井平取締役はわざわざ伊東社長を別室にまねいて大株主側の主張にも一応の理由はあるらしいからこの際譲歩して一時独立を延期し、円満に事件を落着さすような手筈を講じては何うかとそれとなく反省を求めたという話もある

(百三十六) 本邦海運界を代表する郵船系

両相談役の仲裁

が、一旦乗りかかった船だ、そう手易く後へ引く訳にも行かなかったと見え、同じ日の午後二時から開かれた会社重役側と、大株主側の織田、穴水、南波、有松、沼田五氏との会見では株主派から分離を有利なりとする計数上の根拠を示せと迫ったのに対し、伊東社長は既に重役会で分離を有利なりと認めて之れを決定した以上、何もその計算の内容まで株主に公開発表する必要はないと堅く執って動かず、文字通り激論数刻に亘って遂に物別れとなって了った。サテこうなると株主側もそのまま引っ込んでは居れず、双方盛んに株主の委任状蒐集に奔走し結局臨時株主総会開催とまで突っ走って了ったが、イザとなって見ると、日頃重役側の遣り口に多少飽き足らぬ不平はあっても黙って居れぬのが例の相談役連中、三月十日日本工業倶楽部へ重役側の伊東、石井正副社長、株主派の織田、穴水、阿部、有松の四君を招き郷、加藤両相談役立会いの上で改めて協議のやり直しを行った結果、双方互譲ということで、兎も角も三箇条の覚書交換で、月余に亘った近海分離戦も無事落着という段取りとなった、郵船の相談役というのは多分喧嘩の仲裁役なのだろう。

覚書の三箇条

郷、加藤両相談役立会の下に取り交わされた覚書三箇条というのは

一、郵船本社と近海郵船会社との間に譲り渡したる土地建物は何時にても郵船本社の希望により、売渡した際の代金を以って買戻し得ること並に近海会社は右土地及建物を第三者に譲渡し若しくは権利の改更設定をなさざることを特約すること
一、郵船本社長は右契約成立の旨並に本社の収得したる近海会社の株式は本社株主総会の承認を経るにあらざれば一切他に譲渡せざることを来る十五日の臨時総会において宣言しこれを記録に止め置くこと
一、郵船本社の重役にして近海会社の重役(専務を除く)を兼務するものは近海会社において無報酬とすること但し事務に対する特別報酬はその限りにあらざること

大体以上の通り、この他穴水君から郵船合同を実現する趣旨から、更に合同問題をも研究してもらいたいという希望があって分離問題もめでたくけりがついたので、三月十五日に開かれた臨時株主総会にはモウ何のわだかまりもなく一時間ばかりで万事埒があき、この四月一日から華々しく開業したのが今の近海郵船会社である。

小刻みに切廻す

近海郵船の取締役会長は伊東郵船社長だが、主として采配を揮っているのは専務の島村浅夫氏、昨年三月元の郵船社内で近海部が特別会計となった当時からの近海部監事、こんどの分離問題も主として同氏の画策主唱にかかるものといわれている。何しろ明治二十二年から郵船の飯を食っている無類の忠実ものだけに船のことには相当眼も利いている筈、今一とふんばり踏んばれば社長の椅子も自ら転げ込んで来ようというものだ。一体近海郵船の根本方針なるものは当初伊東社長が声明した通り、全然遠洋航路から切りはなして、社外船式に、小きざみにやって行くというのであって、既に開業後着々この方針で進んで行ってるらしいから一般社外船はともかく、近海に根を張る大阪商船あたりでは自然その将来を頭痛にやまざるを得まい。もちろん現在のところでは、その所有船もまだ三十三隻、七万五千余噸、傭船十九隻、三万五千噸に過ぎぬのだから、いくらのさばっても、近海船主たちが、あうりを食って総倒れにもなるまいが、これから先き、船も出来るだけ買い込み、郵船の暖簾を背景に近海航路中もうかるところなら、どこへでも遠慮なく食いこんで行くそうだから、却々どうして油断はならぬ。語を寄す商船の幹部連中、徒らにとつおいつの思案にくるるより、さしあたり瀬戸内海からウラジホ航路あたりをでも今の内あらされぬようウンと地盤を固めて置かっしゃい、先んずれば人を制すという諺もあるから。

(百三十七) 本邦海運界を代表する郵船系

洋式海運の勃興

出店や親類廻りで意外に道草を食ったから、この辺から愈々本筋に立ち返って郵船そのものの本体に入る筈だが、その前に今一つだけ明治維新前後の海運史も概説して置くこととする。そもそも寛永以来、大型船の建造ならびに外国交易の禁止によって久しく桎梏せられていた本邦海運界に新時代の風のふき込んだのは、例のペルリ艦隊の来航からである。尤もその以前文化三年に露国の軍艦がわが漂民を送り屈けかたがた長崎に来って貿易を求め、その他英米等の船舶も来て修交を促すなど、外国船の日本近海を往来するもの漸く繁く、幕府も各藩も漸次世界の風潮に目覚め掛けていたところへ、ペルリ艦隊の来航があったので、遂に安政六年九月大船建造の禁を解き、その翌年幕府自ら相州浦賀で洋式帆船鳳凰丸を造り相次いで、薩州藩は昌平丸を、水戸藩は旭日丸を建造した、慶長年間家康が洋式船を造って以来二百四十年目の解放である。その後オランダ政府から軍艦観光丸の寄贈があり、勝安房等の海軍伝習、江戸築地に軍艦教授所の設立、長崎の製鉄所建設など、安政五年の五ヶ国通商仮条約締結前後よりしきりに海運界の刷新を促し、万延元年にはオランダより購入した軍艦咸臨丸を勝安房自ら操縦指揮して米国サンフランシスコに渡航し日本軍艦渡米の端緒を開くなどの痛快事もあった。更に文久三年には神戸に造艦製鉄所を建設し同四年には横浜に鉄工所、横須賀に造船所を設くるの議が決し、日章旗を商船旗とすることに定めたのもこの間の出来事であって、大船建造解禁以来明治元年まで十五ヶ年間に購入又は建造した洋式船舶は幕府四十四隻、各藩九十四隻このうち国内の建造に係るもの汽船一隻、帆船二十隻であった。優秀船問題で未だにぐずついている今の役人などに較べれば、さすがに当時の役人は胆ッ玉も大きかったらしい。

明治初年の海運

更に明治維新の御代となるや政府は所謂開国進取の国是からしきりに洋式船舶の所有を奨励し、明治四年廃藩と同時に旧幕府及び諸藩の所有船十数隻を貸下げて汽船会社を起さしめ、諸国の産米回漕会所を回漕取扱所とし、廻船問屋、飛脚問屋等を一団として日本国郵便蒸汽会社と名乗らせた、これがわが国における航洋汽船会社の嚆矢であって、当時横浜、神戸間の船客運賃が五両、米百石の運賃が二十両ということであったが、惜しい事にこの会社は内輪もめと、外国船との競争のために明治八年潰れて了った。

三菱会社の勃興

これより前土佐の岩崎弥太郎藩主山内侯より所有船数隻を借入れて郵便蒸汽船三菱会社なるものを興し、前記郵便蒸汽船会社や九十九会社などの一向振はなかったに反し着々事業を発展せしめつつあったが、明治七年例の台湾征討に当り政府の購入せる船舶十三隻を以って、役後政府自ら日本上海間の航路を経営せるも収支相償わざるに閉口せる折柄、大久保利通欧米より帰って海運振興に関する建策あり、右十三隻の航洋船並に郵便蒸汽船会社への貸下船とを挙げて三菱会社に貸下げたるのみならず、毎年二十五万円の航海助成金及び海員養成の為の商船学校補助金一万五千円を下附するに至った。

(百三十八) 本邦海運界を代表する郵船系

沿岸航権回復

かくて三菱会社は、内地航路の外、支那上海線をも開きいささか本邦海運界のために気を吐き得るの形となったが、何しろ当時米国太平洋汽船会社は、わが国の兵馬倥●に乗じ、サンフランシスコ横浜線を神戸長崎に延長して定期航路を営み、わが沿岸航路も殆ど外国船に占有せらるるの有様だったので、この間に擡頭し来った三菱会社はおのずから外国船との猛烈なる競争開始を余儀なくされ、悪戦苦闘前後数箇年に及ぶやさすがに政府も心平かならず遂に三菱会社に資本を貸与し、太平洋汽船会社の汽船四隻とその航路とを買収せしめ、漸くわが沿岸航権を本邦汽船会社の手中に回復することを得た、これが日本海運勃興の第一期である。次いで明治十年西南の乱起るや、政府は汽船十隻を外国より購入し三菱会社をして兵士糧食輸送の任にあたらしめ、乱平いで後その功をねぎらう意味からその十隻の汽船をも同社に交付することとなったので、会社は愈々ますます太くなり、明治十三年にはわが国全体の社外船が二十七隻六千五百トンに過ぎなかったのに、三菱会社の所有船は三十二隻二万五千六百トンに上り、一箇年の平均航海浬数実に六十万海里に及ぶという素晴らしさであった。

無茶苦茶な競争

けれど余りに大きくなり過ぎると、自然種々の非難も反対も起り勝ちのもの、一時盛んに三菱会社を守り育てていた政府も余り世間の非難がやかましいので急に考え直さなければならぬ破目に陥り、遂に兵商二途の目的に適合する船船を造らしむるとの名義から、風帆船会社、北海道運輸会社、越中帆船会社及び運搬会社を合併せしめ資金二百六十万円を給し明治十五年十月資本金六百万円の共同運輸会社(英国より二千三百噸乃至八百噸の新造汽船十五隻購入)を創立せしめたのだ。共同運輸創立の目的が右の如く三菱会社の独占打破にある以上、両社の反目嫉視は自ら激しからざるを得ぬ。況んや外国汽船などとは違い同じ日本人同志の間柄だ、そこには自然利害を超越した感情も交り、意地づくからの競争は日を逐うて猛烈を極め、ハテは横浜神戸間の乗客運賃がタッタ七十五銭、その上片っ方で手拭、風呂敷の景品を出せば、片っ方はこうもり傘の景品で客を呼ふ、殊に途中で両社の船が並行するとお互に速力の競争をおっ始め、無暗に石炭を焚くので、煙突が真っ赤に焼けて、紀州沖などでは二本の火柱が暗を縫うて追いつ追われつする壮観さえ度々陸上から望み得られたという騒ぎ、古い諺だが両虎相争えば共に傷つき倒るという形勢になって来たので、世間の非難から一時独占打破を思い立った政府も到底黙視することが出来ず、明治十八年十月一日両社を合併せしめて日本郵船会社なる一会社たらしめ十五ヶ年間毎年八朱の利益補給を約し、後明治二十年に至り年額八十八万円を下付するとに改約するに至った。創立当時の資本金は一千百万円(後明治二十三年以降漸次資本金を切下げ同二十六年に八百八十万円に減資した)、所有船舶は汽船五十八隻総噸数六万八千七百二十四噸、帆船十一隻総噸数四千七百二十五噸就役航路は内地沿岸の外、更に横浜上海間、長崎ウラヂオ間、神戸仁川間の三航路であったが、とにかくこうしてわが海内の航権は再び郵船の一手に帰したのである(この前年関西に大阪商船が生れたが未だ微々論ずるに足りなかった)。今日同社汽船の檣頭にひらめく白地に赤線二本の社旗は両社合併を記念する思い出深きシンボルであって、同時にニッポンを世界的に代表せんとする当年の壮烈なる意図の象徴なのである。

(百三十九) 本邦海運界を代表する郵船系

社礎漸く定まる

三菱会社と共同運輸との競争、日ましに猛烈となり、勢いの赴くところただに煙筒ばかりでなく、やがては両会社全体根こそぎ真っ赤に焼けただれんとする形勢に立ち至るや、政府は時の兵庫県令森岡昌純氏を農商務少輔に任じ、主として両汽船会社の善後策を講ぜしめ、森岡氏はまた自己の推輓により自己の下に兵庫県勧業課長をつとめていた加藤正義氏を農商務書記官に転任せしめて直接後始末の衝に当らしめた、この関係から両社合併成立して新たに日本郵船会社の創立を見るや、政府は森岡氏を社長に、加藤氏を理事に官選した。かくて海内航権再び一手に帰し、社礎新たに定まったので、森岡初代社長はまず第一に沿岸航路を整理し、次いで対外発展に取りかからんとしたのであるが、何しろ会社そのものまで焼けただれるほどの無茶苦茶な競争を演じた後のこととて、所謂船舶外に疲れ、失費内に嵩むという始末、心はやれど手足これに伴わずで、ほぼ整理の一段落を告げた第九期に空しくあの世の人となって了い、ついで二代社長として吉川泰次郎氏その後を襲うこととなったが、偶々明治十六年商法の実施と共に従来官命に依りたる役員を現在の如き株主選挙に依ることに改められ、吉川社長の下に近藤廉平氏が三菱代表格で副社長に推挙せられたのである

日清役と海運

郵船会社創立以来商法実施に基く会社組織一新の明治二十六年に至る約九箇年間に、会社は新たに鋼製、汽船七隻一万七千二百五十八噸、鉄製汽船一隻七百五噸を加え、二十六年末における所有船舶数は通計四十七隻六万九千四百五十四噸となったが、その活動範囲は依然として極東沿海線にのみ限られて居り、わが国の対外輸出入品はその十中の七、八まで外国船の積載するところとなっていた(単位噸)

[図表あり 省略]

右の如くその百分比例は本邦船輸送量の二二乃至二三なるに対し外国船のそれは七七乃至七八でありそれだけ我が海国として利益も外人に壟断せらるるという有様であったがため、海運振興論漸次盛になり少くも欧濠米の三線には日本国旗を掲揚せる船舶を航行せしめなければならぬとの議が朝野有識者間に擡頭し、明治二十五年の議会には自由党より航路拡張案が提議され、翌年の議会には政府より航海奨励法案の提出を見るに至ったけれど、不幸何れも議決に至らずしてやんだ。この間郵船は既に内部の整理ほぼ一段落をつげ漸くその力を外に伸暢し得る時機に到達せるがため、商法実施による会社組織一新を機会とし、明治二十六年対外発展の第一歩として先ずボンベイ航路を開始するに至った、これわが国に於ける遠洋定期航路の嚆矢である、しかも海運界の大勢は依然として振わず所謂日章旗を欧濠米三線に輝かし得る日の到来は前途なおすこぶる遼遠の観があり二十七年春の議会には東京商業会議所よりボンベイ航路保護の必要を建議し、政府もまた再度航海奨励法案を提出したのであるがこの時も未だ議決を見ざるうち議会そのものが解散となってしまった。

(百四十) 本邦海運界を代表する郵船系

欧洲航路第一船

かくの如くわが海運界が伸ぶべくして未だ伸び得ざるヂレッたい日を繰返えしつつあった折柄、端なくもわが海運勃興の一大刺戟となったのが例の日清戦役である、何しろその当時、二十万の大軍とそれに要する馬匹糧食は勿論その武器弾薬糧食をひっかついで軍隊の後ろへ続こうという夥だしい人夫までをこの支那大陸へ輸送するのだから、とても今までの船で足りっこはない、政府自ら十四隻の汽船を購入してこれを郵船に貸下げ郵船もまたしきりに外国船を購入して軍役に服し、同社一手で御用をつとめた船は最も多き時五十九隻総噸数十三万余噸、運搬人員五十二万余、馬匹四万余に上るという有様で、自然その所有船舶も急激に増加し来った結果、今度は平和克復後、其増加せる船腹を如何に利用すべきかの問題にぶっ突からざるを得ない事となったのであるが、郵船では多年の志望たる欧洲航路にその第一指を染めるの決心を固め明治二十九年三月所有船中の最も大なる土佐丸をして第一航海の途に上らしめたのである、郵船第一の巨船というも僅かに五千五百噸の土佐丸が、波止場に群れつどう見送人の万歳の絶叫と海陸一斉に轟きわたる楽隊の音とともに送られて弥生の空の薄がすむ横浜港を、スルスルとすべり出た刹那、短命だった吉川二代目社長の後を襲うて、新たに社長の椅子につきこの日の壮図を見送るべく埠頭の先端に突っ立っていた近藤廉平さんの両眼からは止め度もない感激の涙がボロボロとしたたり落ちていた。

欧米濠に乗出す

土佐丸が欧洲航路第一航船として鵬程万里の旅に上った明治二十九年の三月、政府はその春の議会で可決せられた航海奨励法及び造船奨励法を発布し、同時にボンベイ航路の特定助成を決定した。この両奨励法は日清戦役の一大刺戟と相まちて、本邦海運界の隆興を促がすにあずかって力のあったもので、郵船会社はその年の五月資本金八百八十万円を二千二百万円に増加し、神奈川丸型六千噸級十二隻、春日丸型三千噸級三隻を新造して、当初月一回の発航であった欧洲航路を月二回に改め、更に同年八月には米国航路を、同年十月には濠洲航路をも開き、欧米濠の三航路に日章旗を輝かさんとする多年の宿望を遂げ得ると共に一躍して世界大汽船会社の伍班に列し得たのである。かくて二十九年同社の所有汽船は六十三隻十二万六千噸に達し、就役航路二十二線、内は千島諸島、北海道より本島の両岸に沿うて琉球台湾に達し、外は清韓両国、浦塩より印度、濠洲、北米及び欧洲にまで延長さるることとなったが、航海、造船両奨励法はひとり郵船のみならず、一般海運界をも刺戟すること甚だ大なるものあり、三十年には本邦汽船数百三十三隻六万五千噸を増加し、翌三十一年には一百隻三万八千噸を増加し、爾後年々増加して三十五年までに八百三十五隻四十五万五千噸を増加するに至った、かの東洋汽船会社が北米航路を目的とし、資本金一千万円で設立計画を発表したのは、丁度郵船が二千二百万円の増資を実行した二十九年の五月であり、その設立を告げたのは三十年の六月である。

(百四十一) 本邦海運界を代表する郵船系

助成航路の増加

斯うして本邦海運界は、日清戦役を一転機とし、更に航海、浩船両奨励法の発布に刺戟せられて、急速に船舶数を増加し来り、当初航海奨励費を五十八万円見当と予算していた政府の思惑にも、たちまち大きなくるいを生じ実施後間もなく奨励支出金五百六十万円即ち所期の約十倍に上ったので、結局かくの如き漠然たる航海奨励は徒らに不整なる船舶を増加するに止まり、航路占権には寸益もないという理田を以て、二十九年の終りに奨励金額及び条件に修正を加えたのであるが、それでも政府の船会社に対する保護はなお可なり手厚いものがあり、その年郵船の濠洲線を特定助成航路とし、更に三十三年には同社の欧米線、東洋汽船の米国線(サンフランシスコ線)をも特定助成航路に加えた、この外、日清戦役の結果わが国が航権を獲得した長江航路も大阪商船の担当として三十一年より特定航路となり、三十五年には湖南汽船会社線を補給航路とし、大家汽船会社の開始した露領ウラヂオ及びサガレン島コルサコフ線をも相次いで又特定航路に加えたのである。かく航海奨励法によりて各航路の就航船がしきりに増加した一方、製造奨励法による内地造船事業も着々面目を改め来り、新設拡張相次いで行わるるの有様で、三十三年には内国製造の船舶数、汽船五十三隻一万五千三百八噸、帆船百九十三隻一万七千八百七十三噸に上りこのうち造船奨励法の厳格なる規定に合格せるもの十九隻を算するに至ったのである。

巨船時代の顕現

この間明治三十三年には例の北清事変起り、郵船会社の社船にして軍用に供せらるるもの二十三隻六万六千余噸であったが、未だ特に海運界を活気立たしめるほどのこともなくて止み、やがて本邦海運界に対する再度の一大衝撃として現われ来った第二次転換機はかの日露戦役である。何しろあの戦争は皇国の興廃をこの一挙に賭けるという未曾有の大戦、郵船の社船にして軍役に服するもの陸軍六十七隻二十七万余噸、海軍四十二隻十二万余噸、その運搬人員約百二十八万、馬匹十二万、物資約百万噸に達し、遠洋航路に配備せる新造巨船の如き殆ど全部を引揚げて軍用任務に服するという有様であって、わが国上下がこの戦役ほど痛切に船腹の不足を感じたことは従来全く経験しなかったところである。それだけ戦後におけるわが海運界の膨脹機運を促進せることもまた従来に例のないところで、殊に目立った新傾向は、各汽船会社が相競うて大船巨舶を建造せんとするに至り、所謂新巨船時代を顕現し来った一事である。即ち郵船は四十一年より四十二年までに賀茂丸型の八千噸乃至八千五百噸級船六隻を建造し、大阪商船も六千噸級の貨物船六隻を建造して新たに香港タコマ間の貨物航路を開いたが、就中人目を驚かせたのは東洋汽船が一万三千噸級の大客船、春洋、天洋、地洋の三隻を四十年前後に竣工して北米線に就航せしめたことで、当時ある船会社の重役は、『いくら巨船渇仰の時代だからとて、大西洋に使う船を太平洋に持って来て儲かりッこがあるか』とせせら笑ったものだ。

(百四十二) 本邦海運界を代表する郵船系

各社航路拡張

東洋汽船の一万三千噸級客船を太平洋に使う船でないなどと一部の人々がせせら笑っている間に、時代はやはり駸々乎として進んで行き、賀茂丸型の六隻をつくり上げた郵船も、息つくひまなく直ちに香取丸型一万噸級二隻、徳島丸型六千噸級貨物船二隻、伏見丸型一万二千噸級三隻、徳山丸型七千噸級貨物船六隻と、矢つぎばやに大型船を新浩し、所有船総噸数五十万噸時代の実現を差し当りの目標として、ひたうるに猛進したのである、この間政府は戦後の新経営として航路補助の整理に着手し例の航海奨励法を廃して四十二年遠洋航路補助法を発布し、欧洲、北米、濠洲、南米及び支那等に対する航路を補助することとしたので、各汽船会社もまた政府のこの新政に適応するため、東洋汽船は新たに南米航路を開き、郵船は大正三年欧洲航路より六千噸級船全部撤廃して代うるに新大型船十一隻を配置し、翌大正四年には、欧航臨時船をして帰途大西洋を横ぎってパナマ運河を通過帰航せしむるの英断に出で、大阪商船もまた五千噸級船を以って大連航路に、九千噸級船を以って北米航路に充つるなど各社とも相競うて航路の拡張、社業の刷新につとめたが、くだくだしいから詳しくは説かぬ。

印航割込の競争

がしかし、ただ一つだけ付け加えて置きたいのは、カルカッタ航路割込みの一件である。郵船がカルカッタ線を開始したのは明治四十四年、当時同航路には既に英印及び印支両汽船会社が鞏固な同盟を組織し、独占的に万事を振る舞うていたので、自然郵船対同盟側の競争は猛烈をきわめ、一時は果してその割込みに成功し得るや否やさえあやぶまれるほどであったが、甞て三菱会社時代より猛烈な対抗競争に深い経験と、その経験の結果に基く一種の図太い糞肚胸とを有する郵船は、一部の疑懼や非難などテンから顧みようともせず前後八ヶ年間、さながら戦争のような大競争を継続した結果、戦いは終に郵船側の勝利に帰して大正七年漸く航路同盟加入の目的を遂げ、めでたく和解の手おちがなった。この競争は単に船会社同士の間だけに止まらず勢いの赴くところ双方の船客間にも自ら一種の競争心をそそり立たしめ、従来同盟側が甲板便乗なる名義の下に、甲板以外には一歩も踏み出させず全く荷物同様にあしらっていた印度人乗客に対しても、郵船側はその希望に応じて相当の船室使用をも許すととした結果、郵船側の印度人船客は鼻高々と同盟側の甲板便乗客を罵倒し、相並んで港を出る時など双方の乗客間に取り交わされる熱罵冷嘲の叫びは、寧ろ物凄いほどであったというエピソートもある。こうした歴史つきの航路に何を思ったか大阪商船が一昨年秋から百数十万円の巨資を投じて割込みを策した為、再び郵船割込み当時のような大競争が勃発しようとしたが、今度は同盟側に郵船が控えて居て、しきりに居中斡旋につとめた結果、外船側殊にビルマ海峡植民地間への割込みに猛烈に反対していた英印汽船も、渋々納得して早くも昨年一杯で略妥協が成立し最近各社間に商船加盟の調印さえ済まされたということである。これを郵船側に云わしむれば『商船会社はいつでも郵船が草分けした後へくっ付いて来ては易々と甘い汁を吸おうとする、けしからぬヅルい会社』だそうだが、そこが本邦海運界の先進会社だけなるだけ弟分の会社は引き立ってやるに限る。殊に郵船が今日の大を致した一面の原因としては国家の手厚い保護、いい換うれば国民全体の膏血からしぼり出された貴い補助金の力が、どれ程助けになったか判らないという事実もあるのだから……。

(百四十三) 本邦海運界を代表する郵船系

莫大な補助金額

郵船創立当時乃至それ以前の古い時代はしばらく問わず、例の航海奨励法並びに遠洋航路補助法実施以来政府が各汽船会社に対して支給した保護金だけについて見るも、明治三十二年には五百三十三万八千余円払込資本金の一割九分四厘、同三十王年には七百二十六万四千余円、払込資本金の二割三分六厘、大正元年には千百九十三万七千余円、払込資本金の二割一分四厘であって、その後遠洋航路補助金の支給は年々逓減するの方法を採って来たが、それでもなお大正二年には払込資本金の二割五厘、三年には一割九分二厘、四年には一割四分一厘、五年には九分四厘、六年には七分四厘、七年には四分九厘、八年には四分二厘、九年には三分六厘に当る保護金を支出給与しているのである、かくして被保護会社も段々大きくなり、航路補助奨励金下附の当初に較べ、大正九年には払込資本金は五倍二分、隻数は二倍二分、総額数は四倍八分に増加して、会社側の基礎も固まり大正十年上期において郵船は払込資本金を超過する積立金を擁し、商船も払込金に匹敵するだけの積立金を持つようになった。一時船会社の重役は政府の補助金を割いて莫大な毎期賞与金を自分の懐中にねじ込んでいるという非難さえあったことを今更失念してはお天道様に相済むまい。

素晴しい景気

以上の如くにして本邦海運界は勿論時に一消一長はあったけれど兎に角、日清、日露の二大戦役を転換機として、戦争毎にめきめきと発展し来り、更に第三次の転換機たる欧洲大戦にぶつかったのであるが、この間郵船会社は本邦海運界の大先輩として、さすかに其地位を恥かしめざるだけの、発達を遂げ、丁度近藤さんが三代目社長の職についた第十期末即ち明治十八年九月の資産価格は一千八百万円(資本金八百八十万円)であったものが、第二十期末即ち明治三十八年九月には四千七百三十七万四千円(資本金二千二百万円)となり、更に第三十期末即ち大正四年九月には七千百八十五万六千円(資本金同上)となり、殊にその諸積立金は合計四千六百二十四万五千余円、会社資本金の二倍強に上るという有様であった。そこで会社は、丁度その大正四年九月が会社創立後三十ヶ年の営業満期に相当するを機とし、同年六月三十日、臨時株主総会を開き、会社存立期限を明治十八年十月一日より起算して満六十ヶ年に延長し、且その資本金を倍額の四千四百万円に増加すると同時に、右四千六百余万円てう莫大なる積立金を処分し、内二千七百三十四万五千余円は諸積立金として依然これを社内に留保し、残り一千八百九十万円は整理資金なる名目の下に、内八百五十万円は船価償却金として控除し、二百十五万円は現重役、創立以来の功労者、使用人下級海員等にそれぞれ分配し、八百二十万円は内五百五十万円を新株第一回払込金に充て、二百七十五万円は持株一株に付六円二十五銭の割合で現金交付するという大尽ぶるまいをやって退けたのである。

(百四十四) 本邦海運界を代表する郵船系

戦時中の大儲け

こうして予て久しい以前から多少噂にのぼっていた増資問題も型がつき、いよいよ新たなる陣容を整えて戦時の海運界に一活躍を試みることとなったのであるが、何しろあの大戦の初期時代には財界の人心兎角に落付かず、開戦当初の大正三年七月には、最高百十二円九十五銭、最低百四円九十五銭、翌大正四年六月には最高百三十五円九十五銭、最低百二十七円五十銭を唱えてみた郵船株が、その年八月には最高八十七円九十銭最低八十一円四十銭、九月には最高九十二円四十五銭、最低八十五円十銭などという郵船会社としては寧ろ驚くべき不人気を呼んだのである。四年八、九月中における株価の崩落は一面春来の昂騰気勢に対する一般的小反動に巻きぞえされた点もあるが、主として増資の結果一割配当の維持難という同社独自の事情が、自然投資界の人望を失墜せしめたことに基くはいう迄もないところであった。しかし今からおもえばそれも要するに一場の小喜劇に過ぎず、トントン拍子で進む運賃界の活況は、例えば開戦当初六十三銭台に過ぎなかった門司浜間の石炭運賃の如きも、翌大正四年の七月には一円三十三銭台、五年七月には二円三十銭台、同じ年の十二月には四円六十三銭台、あくる六年春には早くも六円台を出現するなど、非常な勢いを以って進んで行き、おかげで郵船の利益率も五年の上期には九割二分一厘、同下期には十四割二分一厘、六年上期には十六割一分一厘同下期には驚くなかれ二十一割九分にまで躍進し、一時配当減をとやかくと憂懼されたに拘らず五年上期には二割、同下期には二割八分六年上期には一足飛びの七割配当をも立派にやってのけ、株主連中をしてそぞろ感涙にむせばしめたのである。

熱狂相場の出現

右の如き会社収益の激増、配当率の昂進は、一般戦時景気の勃興と共に忽ち株価にも影響し、一時八十一円四十銭にまで惨落した同社株も、大正五年には百六十五円台から最高四百八円九十銭(平均二百三十九円四銭)翌大正六年には二百二十八円台から最高四百二十八円(平均三百四十円三十三銭)という途方もない狂熱相場を現出し、五百円台は確実だとの呼声すら一時は株屋町の角々を色めき渡らせたのである。まことに以っておめでたい発展ぶりと申すべきであろうがしかし又一面から見れば、かくの如き熱狂相場の出現が、会社そのものの名誉ある歴史の上に、終生拭うべからざる一大汚点を印するの一原因ともなったらしい。従来郵船会社の総会といえば、勿論三菱の勢力もあったろう、宮内省の御持株から生ずる信用も加っていたろう、がその理由の那辺に存するに拘らず常に平穏無事、何等七面倒臭い議論も質問も起らず、スラスラと終了せらるるを以て有名であった。然るに今日はどうだ、曾ては平穏無事を以って天下の模範総会とせられたものが、今では反対に紛擾のこびりついて離れぬ点において総会中の代表的総会と見なされるようになって了った、飛んでもない変りようだが、之の変転はやはりあの熱狂相場のおかげではなかったろうか。

(百四十五) 本邦海運界を代表する郵船系

投機界の人気

従来郵船株なるものは比較的確実性に富んでいる関係から、華族連中の世襲財産株だとの世評もあり、それだけ株主も固定的で、いかがわしい顔触れも割合に少なかったのであるが、何しろ一時八十円近くまで暴落したかと思う間もなく、忽ち盛り返えして百五十円二百円と盛んに躍進相場を現わし出してからというものは、投機界における人気株の中心となったばかりでなく、旧来の固定的株主もツイ意外の高値にみいられて手放す気にもなり、現に同社とは昔しながらの深い関係にある某大株主ですら二百円相場を頂上と見てか一時可なりの株数を売放ったという事実もあるほどで、自然株主の異動も激しく、株界に死生を託する手あいの新らしい株主もグングン増加して行った。これも畢竟時代の変化であろうが、こうして株屋方面からの新株主が増加すると共に郵船の総会がいつまでも無事平穏であり得べき筈はなく、大正五年上期の総会前には、早くも一部大株主連中の間に革新団なる交渉団体が生れ、増配問題を中心とする改革案なるものが提出せられるに至ったのである。

増配運動の嚆矢

郵船革新団なるものの出現した最初の動機は、その年の三四月頃近藤社長が『たとい今期の利益が如何ように増加しようとも、会社としては着々実行しなければならぬ多くの仕事があるから、株主配当はやはり前期同様一割五分見当に据え置くつもりだ』と再三公言した為め、一時非常な勢いを以って躍進していた郵船株も、チョット出鼻を折られた形となったので従来の株主とは大分顔触れの違って来た打算的な人々の頭に、こうした言明が無影響であり得よう筈がなく、『けしからぬ近藤の奴』と、真っ赤になって新株主の一部が怒り出したことに端を発する。尤もこの革新団なるものとの交渉は当局(一)当期配当を五分増の二割とすること(二)船舶大修繕積立金率が定款に船価の百分の〇・六二五以上とあるを百分の〇・六二五(三)船舶減価引除金率が定款に百分の二以上とあるを百分の二・五に限定すること(四)航路拡張、船舶改良資金はこれを廃止すること(五)本支店建物修築準備積立金はこれを廃止すること(六)その他の積立金は従前通りに据置きの事という程度で妥協が整い、大した騒ぎにもならずに済んだが、しかし郵船会社としては全く破天荒の出来事であって従来補助金の関係から官僚や政党方面よりは可なり手厳しくいじめられ、ある時の如き某政党の毒牙に引っかかって根こそぎ食い物になろうとし、さる元老に泣きついてやっと命拾いをしたなどのことはあったけれど、株主に対する社長の地位は、さながら専制王国の王様そっくり、威令の行われざるなく所言の信ぜられざるなき素晴らしさがあったに拘らず、こうした株主=高が新顔の株屋ふぜいに難詰せられ、啻に配当率を引上げたばかりでなく、積立金の内容にまで立入ってかれこれと重大なる変更を余儀なくされるというが如きは、まことに以って容易ならざる次第、近藤社長に時勢を洞観するの明があったか無いかは知らず兎に角郵船幹部の鼎の軽重はこの時からモウ世間の口の端にかかるようになったのである。(完)

(百四十六) 本邦海運界を代表する郵船系

革新団の騒ぎ

世に永久の平和なく、人に常春の栄えはない、革新団の騒ぎで多少の味噌はつけたが、会社そのものの業績は引つづき良好で、革新騒ぎの時の決算では七百二万九千余円という途轍もない後期繰越をやったばかりか、更に五年の下期には配当を二割八分に増加するなど、会社の収益は益々増加する一方で、殊に九月頃から滅切り盛返えして来た海運界の盛況で郵船株の人気は湧くが如く、遂にその年の十一月には四百八円九十銭という高値のレコードをさえ作るに至り、一時革新団の連中に傷けられた権威など、何処の会社での出来事だったかとばかり近藤社長はじめ会社の幹部一同、ケロリカンとして長閑な大正六年の春を迎えたのであるが、ゆたかに酌む屠蘇のさかづきの底に郵船騒動の禍因は早く既に偉大なる潜勢力をもってはぐくまれつつあったのである。前年末四百八円台に迄はね上げた株価は年あけの六年正月には高値三百三十七円、低値二百九十六円五十銭、平均三百十九円十六銭という反動相場を現わし、超えて三月には高値三百三十一円四十銭、低値三百一円十銭、平均三百十七円九十七銭とまで続落して来た。サテこうなって見ると例の新らしい株主連中が黙っている筈はなく、殊に先頃の革新団騒ぎでくみし易しと見てとられた会社幹部だ、『オイ何とかして見ようか』とばかりムクムクと頭を擡げて来たのが東は兜町、西は北浜を中心とする新大株主の面々、旗印は世間並みの新株払込と増資要求というのだが、底に底ある世の中だ、こうした運動がそう手易くおさまる筈もなく遂には例の郵船お家騒動にまで漕ぎつけて了ったのである。

お家騒動発端

郵船お家騒動のそもそもの発端は大正六年の一月、東京大阪の一部株主間に新株払込み及増資の新提案を要求すべく同志の糾合が開始された時にはじまる。増資運動勃発の動機は、其年一月十四日の株主総会で大阪商船会社が、現在資本金二千四百七十五万円を二倍強の五千万円に増資し、新株二十四万七千五百株は旧株二株に対し一株の割合で割当て、残額二十五万七千五百株はプレミアム付で公募に付することに決定したから、之が対抗上、郵船はよろしく其資本金を一億円に増資して旧株一株に一株宛を割あて、第一回払込金は後期繰越金の千八百万円を以って之に充当すると同時に、残余の新株は大々的増賦付で公募すべしというにあった。郵商両社の歴史的均衡からいっても、此増資運動は可なり多くの株主を興がらせたらしく、日を逐うて其勢力侮どる可らざるものあるに至らんとせる折柄、又もや其第二団として八千八百万円即ち倍額増資要求の旗幟を真っ向に振翳して奮起した一派がある。

増資派の計画

倍額増資派の計画なるものは(一)現在の後期繰越金及び今期の営業成績より生ずべき剰余金より旧株一株に対し三十円、現在新殊一株に対し七円五十銭を分配すること(二)現在新株は全額を払込ましむること(三)全額払込み済となった株数八千八百万株に対し各株に一個の新増資株を与うること但しこれが払込金は前記の繰越金及び剰余金より各株に対し十二円五十銭を分配して払込みに換えしむることというにあって、一億円増資派にくらぶれば、尚一層突っ込んだ虫のよい算盤珠がはじき出されているのみならず、この派の頭領株は東西の株屋町を時を得顔に切って廻わす今全盛の織田昇次郎、野村徳七なんどという面々、比較的高価な郵船株を買入れたその過大な負担を、こうした利益金の特別分配で何とかうまく切り抜けようと躍起になっている大小株主どもを語らい合せて、その派に糾合し得た株数二十万株を、鷲づかみに引っ掴んで、サア何うして呉れるとばかり、昇次郎爺さん迄が、町人の身に柄でもなく着込んだフロックコートの尻を捲っての強談判に騒ぎは段々大きくなるばかりである。

(百四十七) 本邦海運界を代表する郵船系

加藤副社長逃出

殊に大正三年以来平取締役として郵船重役であった豊川良平さんが同じ三菱畑の育ちであり且また自分の妹婿である所の近藤社長と、何うしたわけか、この二三年来ソリが合わず、今度の増資騒ぎをいいことにして蔭からソッと糸をひくその糸につれて配下の和田豊治氏や郷誠之助男が躍り出して更に増資派の尻をつっ突く、遂には何でもない一部株主の慾得づくの増資運動が、郵船幹部の大動揺と迄拡大して了い、時利あらずと見切りをつけたものか、副社長の加藤正義氏は辞表をおっぽり出して逃げ出すという大騒になって了った。

近藤社長頑張る

加藤正義氏は幼時故郷の鳥取県で禅寺の小僧となり、県令の関義臣に知られてから役人をはじめ、山形県の属官に転じた際、県令三島通庸と喧嘩をして山形県を飛び出し、ひもじい腹をかかえて国へ帰える時、例の森岡昌純に知られて遂に森岡と共に郵船の人となった男、官選理事から取締役ついで近藤社長の女房役として副社長になり、会社創立前後から随分と長い間、郵船の為につくして居る。人物は何れかといえば着実緻密、ヂッと落ついた生真面目な方だが生い立ちが生い立ちだけにどこかしら、政治家肌のところもあり、選ばれれば東京市会ででも一肌ぬごうという方だから、増資騒ぎがこう大きくなって来ては、モウ安閑と副社長室などにおさまって居る気にもなれず思い切りよく隠退して了った。加藤の隠退と共に誰人もの想像したところは、近藤社長の連袂辞職であって、豊川老を中心とする一派の人々の間にはこの時モウちゃんと、須田利信氏を社長に、林民雄氏を副社長に据える手筈まで整うていたのだが、当の本人たる近藤さんだけはテコでも動こうとはせず、加藤の後へ須田利信氏を引上げ、その当時悩んでいた神経痛の足を給仕に助けられつつ、階段をヨチヨチと二階の社長室へ運んでは、増資派の猛烈な要求をも、根よく突っぱねていた、尤も近藤社長がやめなかったのは谷井、堀、根岸、原田の重役連中が、正副社長連袂辞職後における郵船の運命をも考えて貰い度いと、多少は近藤派たる自己擁護の意味もあって、盛んに社長辞職の不可なる所以を力説した結果だともいうが、何れにせよあの当時の近藤さんは大した勢いで『俺がやめたら郵船の船は動かなくなるからナ』という言葉を、記者も両三回直接近藤さんの口から聞かされたことがある。

近藤社長の自信

俺がやめたら郵船の船が動かなくなるから……という言葉も、近藤さんの身にして見れば、必ずしも気やすめの自惚れだとばかりもいえまい。実際近藤さんは若い時から船の為には随分と辛い経験もなめ、また一通りならぬ苦境も無事に切抜けて来ている。遥々徳島から上京して慶応義塾に経済学を学び、死んだ岩崎弥太郎氏の知るところとなって三菱会社に入り、東京本店支配人や横浜支店長をつとめていた時に、例の米国太平洋汽船会社との航路争いで、夜の目もろくろく眠らぬ奮闘をつづけ、その方がやっと一段落を告げたかと思うと今度は共同運輸会社と、あの火の出るような大競争に寝食を忘れるといった大活躍をやって退けたこともある。やがて三菱の代表格として郵船重役となってからも日清戦争時代には副社長から社長に累進して軍国輸送の大任務を切って廻わし、ついで欧米航路の開始、拡張、日露役の尽瘁などと郵船膨脹時代の一切の仕事を最高責任者としてピシピシ片づけて来たのだ。その間には男爵になったり、大きな勲章を頂戴したり、可なり手厚い優遇恩典にも浴したが、社長になってからでもモウ二十幾年会社をわが家のようにしてここ迄大きくして来た近藤さんとしては『俺がやめたら船が動かなくなる』と思うのも決して無理ではない。

(百四十八) 本邦海運界を代表する郵船系

四老人の調停役

けれどホントウをいうと加藤副社長のやめた時、近藤さんも一緒に勇退すべきであった。何故ならば幾ら過去における功労が顕著であろうとも、時勢が変って来て、自己の威令が社の内外に行われなくなった以上、綺麗さっぱり高踏勇退するのが昔しながらの士の道である、殊に当時郵船には須田利信などという立派な後継者もあったではないか。須田氏は技師出身の工学博士だが、もって生れた親分肌と、温厚なそして大胆な気質は会社内外の挙って心服するところであって、殊に海員仲間の信頼さ加減といったら、とても今日海員側の代表面をしている伊東社長などの比ではなく、事実近藤さん時代だって、あの多数の海員が困苦欠乏の不平を押し殺して、兎も角も船を動かしていたのは、一に須田氏の慰撫激励に信頼していたからだといわれている。尤も近藤さん自身も須田氏の人物は平素しきりに称揚してやまず、加藤氏隠退後早速須田氏を挙げて副社長たらしめたのであるが、あの時一層自分の後へ須田氏を据えていたら、騒ぎもあれ程激しくならずに済んだかも知れぬ。然るに近藤さんの勇断ここに出でず、依然として社長の椅子に頑張り通おしたので、当時口のわるい大株主など『近藤は欧洲大戦の論功行賞で子爵と勲一等旭日章とを夢見ているのだから、幾ら傍で騒いでもやめっこはないよ』とあざ笑いつつ、イッソ面白半分に騒ぎたつるという有様で、全く以って始末に行かなくなり、すったもんだの大紛擾の結果、渋沢、中野、土居、片岡という東西顔役の四老人が調停役として割って入り、重役側と増資派との間を説き廻わり、新たに外部から四名の重役を入れ、別に三名の相談役をこしらえて兎も角も増資問題を解決することにしようということになった。

紛擾僅に一段落

かくて同年四月の二十五日、神田青年会館で可なりやかましかった臨時総会を開き、重役増員の定款改正をやり、新たに中野武営、片岡直輝、郷誠之助、和田豊治の四氏が取締役に就任し、同時に渋沢男、土居通夫、加藤正義の三氏が相談役になった。『俺がいなければ船が動かぬ』といった手前から考えてもこうして外部から新重役が入り込んだり、屋上屋を重ぬる相談役なんかが出来たり、殊に一旦去った加藤氏が再び相談役として乗り込んで来たりせねば会社のおさまりがつかぬという事実を明白に裏書せられては、近藤さんたるもの愈々これを最後にセメテもの足を洗うべきであったが、郵船を己れの死場所と初めから定めてかかっている近藤さんには遂にその決心がつかず、一旦こうしておさまり掛けた騒擾が、やがて間もなく形を変えた内部のお家騒動として暴露さるるに至る因を作ったとは、かえすがえすも近藤さんのため惜しいことであった。紛擾一段落後、五月二十九日に開かれた定時株主総会では、当該半期の利益率が前期より一割九分増の二千二百十五万五千円に過ぎなかったに拘らず、後期繰越金を千八百余万円も食い込んで賞与金は前期より九十七万五千円増の百五十七万五千円とし、株主配当は同じく四割一分増の七割に上ぼすなど、社の内外への思い切った御馳走政略で兎も角も大風一過後の静かさで無事終了となったが、サテおさまらぬのは内部における重役間の反感軋轢、既に譲歩につぐに譲歩を以ってし、少なからず従来の威厳をそいだ近藤社長の手で、この始末を何うつけ得るかは、当時はやく各方面の疑懼するところとなっていたのである。

(百四十九) 本邦海運界を代表する郵船系

役員辞職の噂

大正六年上期の定期株主総会が七割配当という大盤振舞いで無事終了すると共に、まだ折角の増資問題は落着したというのでもないが、紛擾調停の意味から取締役の椅子についた中野、和田、片岡、郷の四氏と、渋沢、土居の二相談役とは相前後して辞職を申出でた。渋沢さんの辞職はあの人の日頃の立場から云っても紛擾一過後の郵船に、いつまで止まっている筈もなく、これは寧ろ予定の行動だと首肯されるが、その余の人々の辞職については当時種々の噂が喧伝され、甚しきは近藤社長の七割配当決定に対する態度にあきたらなかった結果だなどと伝うるものもあった。勿論それほどまで突っ込んで詮議だてする必要もないが、ただ見逃がすべからざる一事は、多年郵船の柱石として社業の発展に尽瘁していた須田副社長か去り、更にまた須田の後をついで副社長になった林民雄氏がこの騒ぎと相前後して突如辞表を提出したことである。須田氏のことは今しばらく云わず、林氏の辞職については、近来とかく健康すぐれずというのが表面の理由であったけれど、実際の動機は勿論左様な単純なものではない。

林氏と伊東社長

『林氏は元来が純三菱系の人、同じ畑から出た近藤社長が、近年とかく三菱側と折合の面白からざるにヤキモキし、岩崎小弥太男と相計って豊川良平氏を郵船に入れたのも林氏であり、豊川氏等の旨をうけて近藤派排斥の密謀を凝したのも林氏である。従ってその陰謀の暴露と共に林氏が郵船を去るのは当然でないか』と、近藤派にして現に郵船の枢要な地位に居る一重役は親しく記者にその間の事情を物語ったことがある。がしかしわれ等の頭はそう単純にすべての事件を片づけて了うべく、あまりに神経的であり、余りに複雑である。もとより既に過ぎ去った昔のことだ今更洗いざらいその間の秘事をあばき立てるにも及ばないが、ただ一つわれ等の質して見たいのは、こうした讒誣中傷のうちに恨をのんで隠退した林氏の心情を思いやるの時、常に林氏の次席として多年林氏の手厚い推挽により着々立身の階梯をたどって来たところの現社長伊東氏に、果して衷心忸怩たるものはないだろうかという事だ。友は去った、しかもその友は或る冷ややかなる一瞥を自己の頭上に投げて去った。そして己れは友の後を襲うて副社長となり、更に近藤社長の歿後社長になった、東京駅頭、四隣を圧して聳えたつあの大建物の社長室に、フト何かの拍子で往時を想い起すようなことのあった場合、果してその椅子の居心地はどうであろうか。

増資促進論擡頭

が余談はしばらく措くとして、既に須田去り、林去ったのちの郵船は、たとえ新たに相談役となった郷誠之助などという異分子が介在しているにもせよ、兎に角ふたたび近藤の天下として一段落をつげた形となったが、何しろ数次の紛擾で、スッカリ睨みの利かなくなった近藤さんの威令は、モウ昔しの半分ほども行われず、同じ近藤系のような顔をしている重役連中でも、新たに寝返えり打った伊東副社長の下につくようになって見ると、どうやら腹の虫がおさまらず、何をあいつが、おれがの反感嫉視に肝腎な事業のことなど振り返って見ようともせねば、株主連中はまた株主連中で、いまの重役なんか積立金で私服を肥やすことばかり心掛けて居るけしからぬ奴どもだ、そんな重役の手許にあの莫大な積立金を任せて置く訳には行かぬ。イッソ思い切って増資に振りむけて了えと、又しても増資促進論が擡頭する。

(百五十) 本邦海運界を代表する郵船系

一億増資の決定

ただ幸いなことには郵船社内に於るこうした暗闘が繰り返されている間にも、海運界そのものは相変らずの狂熱時代を持続し、運賃の如き戦前にくらぶれば其年の上期末に早くも八八・六という騰貴ぶりで会社の収益は依然として増進の一路をたどり、其年九月の決算に於ては払込資本金に対する二十一割九分という前古未曾有の収益率(配当は五割に決定)を示し、大増資決行には持って来いの時期となったが為、同年十一月十三日の重役会で一億円増資の件並にこれが方法として(一)増加新株式百十二万株(五千六百万円)の内百十万株は大正七年四月末日現在株主に対し持株一株に付一株四分一の割合で割当て、残り二万株はその処分を取締役に一任の事(二)第二回払込金額を一株十二円五十銭とし、申込や払込の期日その他は総て取締役に一任の事等を決定し、同時に第三十二期後半年度利益金処分案議決後存在すべき別途積立金の内一千百万円は大正七年四月末日現在株主に対し其持株一株につき十二円五十銭の割合を以って割賦し新株引受者にはこれを第一回払込金の内に充当し然らざるものには現金で交付するという第二次の御馳走案をも取りきめたのである。

漸く下り阪

かくて意外の紛擾を捲き起した郵船の増資問題も、やっとの事で鳧がついたが、同時に開戦後トントン拍子で進んで来た海運界そのものの活況も、一億円増資後第一回の決算期たる大正七年九月において、同社が半期利益金五千四百九十一万七千円(払込資本金五千百二十六万四千円)という最高記録をつくり、六割配当をやって退けたのを最後として段々下り阪に向い、その次の八年三月の決算では三千三百七十四万円、更にその次の八年九月の決算では二千八十一万九千円、九年三月には一千九百四十一万九千円と利益金も漸次逓減して行き、従って株主配当も特別大盤振舞いの八年九月決算期における十割を空前絶後の最高レコードとして、九年三月は四割、同年九月は三割、十年三月は二割五分、同年九月は二割と次第に引下げられ、昨十一年からは利益金も五六百万円に落ち込み、株主配当も一割五分ということになり、一時四百円以上にまで躍進した株価も今では、やっと百円そこそこになって了ったがそれでも大阪商船が積立金にまで喰い込んで漸く七分配当を辛うじて維持し、その株価も払込以下の四十六円見当にめり込んだり、東洋汽船が政府からの注意もあったが、何れにせよ全くの無配当で、五十円払込株かタッタ二十円などという惨憺たる落ちぶれように較べれば、サスガは郵船戦時活況時代のボロい儲けが、槿花一朝の夢と消えた今日でも、なお一割五分の配当を立派にやってのけ、別に会社から頼む訳ではないが、一騒ぎ騒ぎさえすれば幾らか纏ったモノにもありつけようかと総会毎に飛び出す有象無象のハヤシ方で、景気のいい活劇を演じつづけている所は、何といっても我国の代表会社、じたい屋台骨の太さからして違っているようだ。

郵船の国際地位

序でだからこの辺で郵船のドレほど大きいかを国際的地位といった方面より記して見ると、その持船の噸数からいえば、ブリチシ・インデア・スチーム・ネビケーチング(英)の九十万七千余噸が第一で、次はファーネス(英)の七十六万五千余噸、エーホルト(英)の五十九万一千噸、エラーマン(英)の五十六万八千余噸、日本郵船の五十六万七千余噸、ゼネラル・トランス・アトランチック(仏)の五十二万七千余噸という順序で兎に角世界で五指のうちに屈せらるる地位を占めて居り、大阪商船の四十二万七千余噸で十番目、国際汽船の三十万一千噸で二十三番目というに比較し大分懸隔がある。

(百五十一) 本邦海運界を代表する郵船系

二大航路の配船

更に同社の二大定期航路たる欧洲線、北米線についてその配船数を比較して見ると

[図表(欧洲戦)あり 省略]

[図表(北米線)あり 省略]

大体右の通りである
前掲両航路のうち欧洲航路は定期にロンドン線の外、リバプール、ハンプルグの二線をも経営し、会社が現在主力を傾注しているだけに(列国一流会社の間に伍して毫も遜色なく、該航路における郵船の勢力はモハヤ動かし難いものとなっているが、ただ北米線に至っては、大阪商船に較べても、その船質がズッと劣っている、これは例の算盤高い勘定から昨年鹿島、香取級の船を貨客が多くて儲かる欧洲線に復帰させた結果で、この方面では今や到るところ邦船顔色なく、しきりに外船の圧迫を蒙っているが其一半の責任はやはり郵船も負わなければなるまい。その他上海線、濠洲線、ボンベイ線、カルカッタ線等詳しい事は省くが何れも皆相当に羽振りを利かせ、かつて欧濠米の三線を如何にかして日章旗を掲げた邦船を走らせて見たいと焦慮した創業当初の大願望は過去三十年の奮闘努力により今や寧ろ予期以上の成就を示しているのである。

繰返す紛擾

郵船はモウ立派な世界的会社だ、伊東社長が株主総会で試みる演説は、その都度外国新聞にも掲載され、ニューヨーク往航や、太平洋復航同盟などで、会社の支店長あたりが頻りに肝煎り役を勤めつつある事ほど左様に立派な世界的会社だ、百十余隻約六十万噸の持船の力もまた偉大なりといわなければならぬが、サテ再び内に顧みて、この立派な世界的会社が総会毎にああした紛擾を繰返えしつつある現在の醜態は一体どうしたものか。われ等の小さい旅行の経験からいっても、日本へ来たことのない外国人仲間では、日本の会社といえば横浜正金銀行と、三井物産とそして日本郵船との三つだけでその他には殆ど会社らしい会社は日本にないように思っている連中さえ少なくない。それほど日本が世界に知られて居らぬのは残念至極の話だが、同時にまたそれほど大きな会社として外人仲間に持てはやされる郵船の名誉は、他の船会社連中の羨望措く能わずとする所であろう。然るにその郵船が近年総会毎にああした紛擾を醸すというが如きは、決してほめた話ではない。この点においてわれ等は伊東社長に、社長たるの職務は単に船さえ動かしていればそれで足るものでないということを十分に勘考していただきたいと思う。

(百五十二) 本邦海運界を代表する郵船系

私は伊東です

先年増資紛糾の真っ最中、重役側と大株主側との交渉の結果を報告するという有志株主会が、焼けた帝国ホテル旧館の余興場で開かれた時の事だ。代表同志の折衝が案外手間取って、定刻を一時間過ぎても二時間過ぎても開会の運びに至らぬ、ヂレ出した株主連中、『近藤を引っ張り出せ』などと甚だ穏やかならぬ不満の声をも張り上げ掛けた所へ、今暫らくお待ちを願うと一人のモーニング姿の男が挨拶に出た、と株主側から大きな怒鳴り声が響き渡った『お前は誰れか』『私は伊東であります』『伊東ッて何だ』『取締役であります』『ソンな若造引ッ込め』……で満場大笑い、伊東取締役コソコソ舞台裏に逃げこんだことがある。その伊東氏も運賦か天賦か知らぬが、今ではあの大屋台骨を背負って立つ社長さんだ。

伊東氏の昇進

老後の御奉公じまいだとばかり遥々パリーの講和会議に随員使命として出蒐けた近藤前社長は、それがホントの御奉公じまいになって帰朝後間もなく、大正十年の一月この世を去って了った。と又しても後任問題で一騒ぎ、例の兜町派が今度こそはと郷誠之助男をかついで、伊東現社長のところへ押かけ談判に詰め寄せたが、既に須田去り、林去った後の郵船はてっきり我が物と思い込んでいた伊東氏が、今更そんな脅かしで、日頃の願望を抛つ筈はなく、兜町派の騒ぎを後ろに、早速山下亀三郎氏のところへ駆け込んだとか、ころげ込んだとかいう噂、トドの詰り世話ずきの渋沢老が、事ある毎に自己の名代役を仰せつける和田豊治氏をして郷派説伏の役をつとめさせる、一方伊東氏自身も、『俺がいなければ船が動かぬ』と頑張った近藤前社長の故智を学んで、当時何ほどか海員側の人望を集め得ていたのを幸い『内部から社長を出さぬと海陸五千の社員が承知せぬ』とまで一斉に海員側を煽りたて、内外相呼応、めでたく社長の椅子を贏ち得ることとなった。がいよいよ伊東氏が社長になって見ると、サァおさまらぬのが内部関係、郷、和田の両人が渋沢老のお声掛りで一旦は伊東氏推薦と出蒐けたけれど、ドウせ伊東氏に好意を持って居らぬのは判り切った話、時ふるままに副社長の永富雄吉や、専務の中島滋太郎等に好意を寄せ、伊東社長を煙たがらせる事一方ならず、加うるに純近藤系をもって自任しでいる他の重役や、大谷、勝山、黒川、恩田などの支店長連中の『何を寝返り新参の伊東が』といった反感もあり、任徒らに重うして、股肱未だ備わらざるの憾みは昇進の喜こびまだ消えやらぬ彼れの身辺に早くも犇々と迫って来たのである。

伊東君の胸三寸

伊東社長は元来が理智の人、先輩林民雄と手を切って近藤前社長のふところ深く飛び込み、遂に今日の地位を贏ち得たところなどからすると、可なり術策にも富んで居るらしいが、自ら海員側の代表を以て任じている為でもあろうか、とにかく陸上における浮世の駆引きなど一向わが輩のあずかり知らぬところといった顔つきで、社長就任以来も一般株主などは殆ど相手にしようともせず、例の黒竜会一派の船船大合同論をキッかけに、すった揉んだの大騒ぎが押っ始まってからも、『素人のあいつ等に船の事が判るものか』と、空うそぶいて、一向取りあおうともしなかった尤も近来多少心の置き方を代えたらしく、利巧者の石井副社長などの献策をも容れて、総会前に大株主の面々を溜池あたりへ招いてお世辞の一つもいうようになったが、それでも事業上の計画などについては、独断専行、相変らず素人の株主などに何が判るかといった風で、万事をおのが胸三寸で思う存分に切って廻そうとする案外図太いところのある男だ。

(百五十三) 本邦海運界を代表する郵船系

一人専務制実施

株主の反抗など屁とも思わぬほど、それほど図太い彼れも、内部における幹部連中の反感嫉視だけは、どうも打っちゃらかしている訳に行かず、将をとりこにせんと欲せばまず其馬を射よで、本年二月三日、例の近海郵船創立の件を決定した重役会で、突如副社長永富雄吉、専務中島滋太郎両氏の辞表を発表して、これを平取締役に移し、ついで副社長に現在の石井徹氏を挙げ、専務は従来の安田柾氏一人ということにして了った。前々より病躯その職にたえずと辞意をもらしていた永富氏は、しばらく措くも中島氏の専務隠退は、表面経費節減の関係上一人専務制実施のためというにあるけれど、同氏が従来近藤系乃至加藤正義系の人として寧ろ陸上側の色彩濃厚なりし点などに思いをめぐらせば、その間の真相は自ら判明するであろう、それかあらぬか、当時陸上勤務社員間には二人専務制は社員の向上を阻止する』などという理田で可なり反抗の火の手を挙げかけたが、初陣の血祭りに中島を斬って捨てた伊東社長の武者振りに歯がたつ道理なく、徒らに『弱きものよ汝の名は現代サラリーマン』なる語を裏書しただけで、爾来、内心は知らず表面だけは伊東内閣完成の形で、彼の理想実現時代にも略到達し得られたかの観がある。

伊東内閣の面々

現在郵船の幹部として、伊東内閣に重要なる地位を占むるものの筆頭はいうまでもなく副社長の石井徹と、専務の安田柾の両氏、型は違うが何れも負けず劣らずの利巧者、殊に石井は一寸訪英実業団に加わって洋行すると、すぐさま『自由港問題』などを持ち帰って一花さかすだけの芸当をも持ち合せ、船商売以外にもツブシの利こうという才人肌、理智一点張りの伊東社長の股肱としては持って来いの女房役だとされて居り、安田は商船学校の機関科出身、船底の釜たきで一生を終らなかった所に彼れの偉らさがあるらしく、海員側を以って自任する伊東社長とは可なりウマが合うらしい、その他専務の下に好人物で評判のよい松平文書、紳士タイプの安田(繁三郎)営業及び富永調度、船長出身の武田海務の四部長があり、本社以外には神戸の黒川、横浜の渡辺、上海の恩田、ロンドンの大谷、ニューヨークの勝山等の支店長がある、寄ってたかって郵船の屋台骨を背負って立っている人々だが、サテこの人々がどれほど伊東社長に忠勤をぬきんでるかは勿論今後の事実に徴するの外はないけれど、例の一人専務制も表面経費の関係上やむを得ぬと解されてはいるものの、伊東社長自らは、追って腹心の股肱登用門として利用すべく、暗に好餌をかけて彼等の忠勤振りを睨んでいるのだと、腹の中を見透かしたような付度を逞しうしている向もある。何れにせよこの春の総会からは名物の紛擾も一やすみの形となり、内部の反感嫉視も中島氏の辞職以来、まずけりがついたらしい穏かさを示している。社長就任以来既に二年幾ヶ月、新館も立派に落成して今まさに郵船の維新革政の時機が眼前に横っている。これを内にしては見っともないあの総会紛擾の一掃、これを外にしては現に今年の製茶輸出の実例が示す如き太平洋航路における邦船の勢力失墜、外電の頻々として伝うる欧洲航路における内外船競争の深刻化等、所謂優秀船問題を中心に幾多の重大問題があり更に留保問題として船舶の大合同案も残っている、伊東社長がホントに腕を揮うのは全くこれから以後に属するが、左様な堅ぐるしい問題は『鳥羽絵には入らぬ姿の牡丹哉』で、ここには省略し、最後に万年新造の加藤高明子も、かつて郵船創業当時月給百円で神戸支店の副支配人であり、その敵役たる政友会領袖の山本達雄氏も同じ時代に月給六十五円の横浜支店副支配人として其当時から対抗的地位にいたことがあるという古めかしい事実談だけをつけ加えて、この物語の筆を擱く事とする。(郵船系終り)

(百五十四) 古い暖簾に垂籠る鴻池

三男爵家の一

豊臣の滅亡と共に武門の政権は江戸に走り、大阪は全く町人の都となった。だから近頃まで右を向いても左を眺めても平民ども許りが蠢めいていたが、世の中が進むと金の光が弥増して来て、町人の都の大阪の方が活気を呈するに至った。そして日露の大戦が済んでから国家に貢献する処多大なりしの故を以て、住友藤田鴻池の三家が男爵を賜わり茲に華族様が一時に三人も出来上ったのである。我等が説出す鴻池も其一で、千万長者という点から見て、就中古い門地を有し当代善右衛門氏は、実に十二代の後裔というのだから驚くではないか。

鶴の棲む今橋邸

何代前かの鴻池のお嬢さんであった『乞食だって丼鉢に一杯位のお宝は持っていますやろ』といったそうな。これ程娑婆放れのした鴻池家なるが故に、今だって田舎の年寄にいわせると鴻池は天下一二の分限者たることを疑わない。そして大阪見物に出向いた者はアノ鶴が鳴く今橋の旧い屋敷を大阪名物の一つでもあるかのように覗いて通るではないか。さればこそ先代善右衛門氏は幕末大小侯伯の用金調達の衝に当り、金で動きの取れぬ手綱を握って、後会計官出納司判事心得となり即がて明治天皇御東幸の供奉さえ仰せつかる誉を荷ったのだ。一門の栄誉は之に止まらない、而して当代に至りて男爵を賜わり三井と重縁関係に立って分限者の地盤は今尚牢乎たるものがある。斯くて当代善右衛門氏が六十路に未だ間のある身を以て悠々自適し、清元の旦那芸に歓興を尽しつつ遥々家元の延寿太夫を毎々小手招く抔の風騒は、偏えに祖先遣財の賜ではある。

故馨侯と鴻池

維新元勲の数多きが中に、故井上馨くらい財界に重きをなした人はない。その井上侯に取入って巧く鴻池と結付けたのが原田二郎氏であった、原田氏は先輩たりし大番頭の死や不遇やによって鴻池の重きをなすに至り後氏の思の儘に振舞い得るようになり、お店よりもモット多くの財産を貯め二千万円の保全会社を作り掛けた程の辣腕家であった。されば東京支店長以来井上侯に喰込んで、侯が大阪お成りということになれば直ぐさま馳せ参じて三助代りを勤め、恭しく背中を流したものだ。だから侯の御贔屓は大したもの随って鴻池家でも幅が利く、そして古参の蘆田順三郎氏さえ原田氏の前には光らなくなったのだ。申す迄もなく十二代に亘る長者の家だから、鴻池家には金板張りの大屏風を初とし古来得難き名器什宝数知らずという有様である。ソコデ侯が来阪して鴻池家に御輿が下りると『之は何で御座りましてソレは何々の名作と承ります』てなことを申上げ、一歩退いて御尊顔を窺うのが原田二郎氏の役割であった。斯くて侯の気に入った品があれば『成程コレは逸品じゃ身が借りて置く』でお持帰りになったもの。侯がお借りになったら命の有らん限り金輪際お返しがなかった。鴻池でも催促はしなかったそうだが、侯の薨去を聞くやソコは原田氏のことだ、物覚えが悪くない。早速お悔みに拝趨した序に予て御貸申上げて置いた名宝什器の大部分を回収して帰ったというから偉い。然し井上侯の薨去と共に、原田二郎氏の黄金時代は一歩々々滅入ることとなり、寰境の推移は遂に氏の引退を促すようになった。

(百五十五) 古い暖簾に垂籠る鴻池

鴻池の消極策

昔から名代の物持、世路辛い世の中に齷齪するまでもない。コセついて失策っては家門に疵がつくと許り、原田二郎氏の締まり主義を実行して鴻池の方針は消極主義を通り越して退嬰主義になってしまった。先ず従来経営していた大阪倉庫会社を甚だ不利な条件なるにも拘らず鷹揚に出て三井系の東神倉庫会社に売ってしまったの抔も其の一であった。銀行の方だって地方に支店などを置いては兎角間違いが起るという理由で大都市の支店をサッサと売って退けた。シカモ将来其地方に支店は設置しませぬという御丁寧な条件まで附加えたというのだから、大分ヤキが廻っていたのらしい。その結果最近因襲から逃れて新しい活動をやろうという計画に、いろんな邪魔となったのである。

可惜この信用

明治四十五年のことであった。三井物産の名古屋支店に不正手形事件が起った。事の起りは物産支店会計主任四方郁と名古屋ビルブローカー主任白井庄三郎などが共謀して同支店名義手形七十六万円を偽造行使して現金を詐取し株式投機や遊興に消費した事件である。是等の手形は増田ビルブローカー銀行、十六銀行、鴻池銀行等の割引に廻って居たが忽ち世間の問題となり一般銀行でも俄かに警戒の態度を採った。殊に鴻池銀行は、以前三井物産名古屋支店の手形五十万円を握って居たものが偽造たるを覚るや之れを他へ転嫁し、現在握って居る手形は十五万円に過ぎずとの噂さを生じ、諸新聞は一斉に攻撃の鋒を鴻池銀行に向けた並大抵の銀行なら之を機会に、お定まりの取付騒ぎが持上るべき筈であるのに、地方人の鴻池を信用することは、依然として日本第一の金満家となし、不正手形の飛沫位が飛んだところで、大鴻池の屋台骨が貧乏揺ぎもすることじゃない、安心しろという具合で一厘の預金も減らなかったそうな。あたら此信用を大切に持越すことをしないで、遂に大都会の支店を恰かも弊履を捨つるが如くに擲ったのだから、他の銀行が時代の新機運に伴れて、各自妍を競いつつあるが中に、鴻池ばかりは古い暖簾を垂れ込めて、今し偸安の夢円らかなる概がある。

目覚めんと焦る

馨侯も死んだ。原田二郎氏も引退した。さしも陳套の気に蒸されていた鴻池も最早や此上眠に耽ることを許されない。御覧じろ三十四銀行の預金額は二億と称せられ、山口銀行の一億九千万円、加島銀行の一億三千万円というに較べて我鴻池銀行の預金高は僅かに五千万円だというではないか。古い丸持長者という歴史だけで威張れる時代ではないのだ。ソコで退嬰主義から積極方針に豹変すべき大決心を起し、小僧上りばかりじゃ時代に適応しないというので、人材登庸の道を拓き、日銀から加藤晴比古氏や支店長格の腕利きを引張込んで専務その他の重役に据えコレから一つ踏張ろうと焦り出したのである。

前の約束が邪魔

ソレには第一預金の吸収に意を用いねばならないのだが、曩に支店を売払う時の条件がモノをいって支店を設置する訳に行兼ねた然しソンなことをいっている時でないから、背に腹は代えられずで設置する。案の定抗議が出る。抗議は千万承知之助という具合で駄々を捏ねて譲らない。ソノ弁明がいいじゃないか『昔約束をした時はね。アレは鴻池個人銀行時代の約束ですぞ。今度設置するというのは株式会社鴻池銀行がやる話でしてな』というのだ。自然人の約束を法人が叩き壊すに不思議はあるまいという理窟だから、却々以て凄じい話である。斯くの如くにして老獅長眠より覚めて大嘯すといった活動を目論んだが、一度放した鳥を再び掌に収めることは困難である。殊に永代経来った伝統的の旧策を一挙に蝉脱するのは容易な業でない。

(百五十六) 古い暖簾に垂籠る鴻池

醤油事件と鴻池

鴻池が手を焼いた今一つの事件は彼の有名な醤油事件である。時は日露大戦後間もない好況時代であったが、鈴木藤三郎という人が醤油を六十日で醸造する発明をやった。ソシテ専売特許を受けたものだが、いかに急いだって一年は掛る醤油の醸造が只の六十日で出来るなら、いくら考えて見たって儲らぬ筈はない。茲に於て井上馨侯の家老格たる田島信夫氏か社長に納まって、資本金一千万円也の大日本醤油株式会社が生れたに不思議はあるまい。一千万円の資本金位いは現今ではザラにあって、敢て珍しくないが、その当時は非常の驚異を以て迎えられたものである。而して当の発明家鈴木氏が専ら技術の方面を担当して日本中の醤油屋を『呀つ』と云わせる算段だから、創立当時の鼻息といったら又一段と凄いものであった。井上侯なんども『ソリャ有望な事業じゃ』とお太鼓を叩かれ、すぐさま鴻池へ御声が掛って百三十万円の融通をさせられたもの。

出鱈目の発明

そこで尼崎に工場を設け愈醸造に着手したところ、此発明は頗る怪しいもので、思ったような醤油が出来ないから大変だ。いろんな噂も取沙汰されるという訳で、大阪警察本部の大活動となり、之を精探した結果、製品の中にはサッカリンを含有しているということまで判り、製品全部を船に積んで尼崎の沖合にブチ撒けてしまうという大騒動が持上った。その時であるアノ尼崎の海水が朱に染まって、打寄する男波も女波も、血を呪うかのように凄かったというのは。

鴻池が頑張る

事茲に至ると、さしも鼻息の荒かった大日本醤油会社ながら、忽ち悲風千里より来る落魄の俤に急変し、株価は急転直下の大惨落を演じてしまった。会社の損害莫大で二進も三進も動きが取れないのは勿論の話だ。斯くて百三十万円の債権を有する鴻池銀行が、原田二郎氏を特派して矢よりも厳しい催促を続ける。田島社長が待って呉れといっても原田氏はテンデ受入れない。岩下清周氏の北浜銀行などは七万円の債権を擁していたが、之は温しく待って呉れた。然し鴻池は金輪際承知しないんだから、之には調停者も寄り付けない。

井上侯も閉口

鴻池のことなら馨侯の一声で大抵のことは片附くんだが、今度の場合は侯がお太鼓を叩いて工面させた手前もあり、且借りた方も直参の幕下田島信夫氏であるから聊かバツが悪い。殊に喧嘩の当事者が両方とも乾児同志であるだけに板挟みとなって侯もホトホト困惑してしまった。搗てて工場全部が烏有に帰するという騒ぎも起って蜂の巣を突いたようになった。そして今は亡き数に入った中野武営、朝吹英二の両君と馬越恭平老が調停者となり、双方の中に入って百方尽瘁し田島社長及重役大株主の自腹と保険金で片をつける事になった結果鴻池の方でも、頑張って頑張った揚句やっと承諾したという始末である。六十日で醤油を造る専売特許の一条も、その運命は斯うした果敢ない末路に終ってしまったのである。侯の下命にもよろうが、此専売で巧く味を占めようと私かに期待した鴻池も、見事に当がはずれ、辛うじて回収は出来たろうが、徒らに懊惱と草臥とを得たに過ぎなかったのである。

(百五十七) 古い暖簾に垂籠る鴻池

鴻池の革新策

遅時ながら古い因襲から脱しようとした鴻池系は、組織を株式に変更して時代の駸運に乗ぜんとするに際し、久原と結んで一大銀行を成立せんとの下心があった。善右衛門氏は久原の株を一万株も買って一時久原鉱業の重役に納まり関係密接となったが、什うしたものか其株をマンマと売退いてしまったので、久原との銀行合同経営も自然立消となったのである。そして鴻池一点張りの株式会社を設立し、日銀から加藤晴比古氏を迎えて新式の方法を採るということになった。

鴻池式が抜けぬ

普通銀行の預金と違って、鴻池の預金は動かぬ預金である。無暗と引出されぬ預金である。例の積銀事件の突発で各銀行の預金が大分引出された時だって、鴻池は安泰であった程ソレ程動かぬ預金を持っているのだから、他の銀行のように短期の融通を主眼とせず長いものにもドンドン貸している、而して固定しようが利率が高くて担保が堅いものであれば、高利や担保流れで間違のありっこはない。斯うした特別の強味から、多くの場合新式経営法が因襲を根こそぎ打棄る訳には参り兼ねるのである尤も大阪銀行界の或長老がいうには『加藤君を鴻池へ嫁入らすのは判っているとしても、今一人の老いそぼれたのを掴ませるなんて井上君も押付けが酷いよ』と暗に革新の実の挙らぬ所以を当て擦っていたがソレでも加藤氏の経営そろそろ効果を奏し、此分で行ったら氏の謡曲と追随して功を名すかも判らない。

無為にして難を免かる

観じ来れば十二代連綿として伝わった天下名題の分限者だけあって、細かい放れ業をやらぬところに一種の権威がある。御存知の通り戦時の好況にボロ儲けをした成金連は勢いに乗じて八方に手を拡げたものが、戦後幾干もなくして到来した反動に覆され、根柢の固らなかった連中は脆くも消し飛んでしまい、多少地盤のある者さえ打続く不況に、あたふたと狽てているのである。然るに鴻池の資産の要素である骨董や不動産などは、素より移動されたものがない。名宝什器の値上りは驚嘆に値するものがあり、尺寸の地も何倍という価格に騰ったものではあるが、左様なことに目を呉れる長者でない、騰ろうが低ろうが超然として、時運の行くに任せたものである。此結果浮べる雲のような儲けも掴まなかった代り、一時の儲けに迷わされて槿花一朝の夢の悲しみを見ることもなかった。謂わば無為にして危難を免れた訳で、老子の教訓を現代に用いて古い暖簾を維持したところに幸運があるのだ。

今一歩の努力

兎に角新進の材物もボツボツ鴻池に集まり掛けた。加藤晴比古氏も油が乗りかけたというから、他の銀行のように新時代的の経営方法は直ぐ緒に就くことであろう。今橋の旧邸に巣喰う丹頂は、九皐に高く鳴いて晴れがましさを誇ろうとしているのだ。当代善右衛門氏の清元や加藤君の謡曲に、鴻池家の歓楽が尽きざると共に、希くは起って祖先の金権を回復すべしである。ソハ光絶えなむとする当代鴻池家諸剛の正に努むべき所であるからである(鴻池家終り)


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