新聞記事文庫 人物伝記(6-017)
時事新報 1936.2.21-1936.7.10(昭和11)


官づる物語


(1) 財界に蔓る官づる功罪果して何れか

 凡そ天下太平ならば『立身出世』は叶わぬものと、昔の豪傑も七軒長屋の奥に貧乏徳利を枕にして浪々の身をかこったものだ、ましてや今日は生れ落ちるとす ぐにヤレ入学問題じゃ、ヤレ就職問題者と『生存競争』という鞭でこづきまわされ、マゴマゴして居ればあたら学殖や才幹を抱きながら鼻の下が干上るというむ ずかしい御治世なのである。此の世相を反映する世渡りの秘訣が総てこれ『機会を握る』か『蔓を掴む』に尽きる、差し当り学生に『蛍雪の功』を嘲けってカン ニングを推奨するに似たりだが、何しろかぶと町や北浜が恐ろしく繁栄して一攫千金を刺戟したり或は此の世に『財づる』やら『閨づる』とやらが無闇矢鱈とは こびりそして又これから此処に紹介せんとする財界のお歴々が『官づる』と申す一風変ったつるを巧みに掴まえて財界遊泳術をやってのけ『財づる』『閨づる』 に劣らぬ幸運の主となった数々の事実を目のあたり見せつけられるにつけ、筆者又世渡りの妙これある哉と感嘆之を久しくし、遂に題して『官づる物語』となし 曩に読者の好評を博した『財づる物語』の姉妹篇として以て財界裏面史の一に資せんとする所以である―
 そもそも官づると申すつるがお役所と財界の間にはこびっているなどと表向きに持出す事は綱紀粛正の折から甚だ面白くないわけであるが『金』の力 は以て『財づる』となり『親の七光』とやらが『閨づる』をはびこらす…これが此の世の現実だとすれば『おかみの御威光』必しもつるが生えぬものとは断言出 来ぬ、例えば仮りにだ官吏窮して身のふり方に一考を要する場合が来るとする、目をつけるところはまず実業界、監督権やら官庁の威力を振り廻して民間会社へ ノホホンと天降ろうとする、天降られんとする会社こそ迷惑千万な次第だが在官中には色々お世話になった弱みがあるから『有難くお請け』致さねばならぬこれ を又逆に会社の方で何事か儲け事を企らもうとする場合、監督官庁から腕利きの役人をベラ棒な高給で『お抱え重役』に迎えるこの誘惑?を受けたお役人は十中 八、九『黄白』と『位階勲等』を天秤にかけて二つ返事で転向し会社の御用提灯をかざして『利権運動』のお先棒を勤める、結局双互の利益であるが青雲の志を 持ち腐らしていつまでも下積みでウンウン唸っている勤勉実直な社員連中にとっては誠に『叶わねえ』話ではある
 そこへ行くと『武士は喰わねど』の思想華やかなりしそのかみのお役人が堂々と官づるにブラ下って、商家の帳場に楽隠居したと言う話は余り聞いた 事が無い、瘠せても枯れてもと虚勢を張った訳でも無かったろうが、忠臣は二君に見えず今日の様に『転向』…つまり『鞍替』…なんて事が簡単に行われ得な かったし第一『武家の商法』が歓迎されなかった。尤も寛永年間にお精霊流しの瓜や茄子を掻き集めて巨利を博したと云う幕府の御用商人河村瑞軒が柳営の奥に 飛ぶ鳥を落す御威勢の新井白石を招聘して利権を企らもうとしたそうだが肝腎の白石先生の一喝に遭って流石の利権屋もしょげ返ったと言う話もあるが…ところ が今日ではお役人の方から『武士は喰い度し』と逆に色目を使って肩書を押し□する様になっているのだから官づる物語などと銘打って一発ものして見度くなる ではないか。
 武臣惜命、文臣愛銭、其国危矣
 筆者がさる紳士録に就て官界から財界へ転向した御仁の数を大略乍ら調べてみたが一番多いのが大蔵省の六一人で以下鉄道省が三八、海軍省が三四、 逓信省が三二、商工省が三〇、陸軍省が二九、内務省が二二、外務省が一四、其の他宮内省やら拓務省関係等が六二人を数え挙げた、尤も財界は所謂重役席に転 向したの許りを集めたのだし、此の紳士録が必ずしも世の紳士を尽く網羅したものでないのだから右の数が確実のものとは断言しないが、然し大蔵省吏が金融界 は勿論半官半民会社へ天降るばかりでなくつぶしが利くと云う訳であらゆる実業界に進出している点から見ても第一位を占めている事が首肯かれる、筆者は曩に 故に官界から転向したと書いた、転向必しも官づるに非ずとの異議は当然であり前記の数字は尽くが官づるにブラ下った人とは限らぬからである、最後に事業の 経営首脳者の経歴に就て第三者が兎や角申す必要は毫もない、―それが官吏の古手であろうが政治家くずれだろうが或は教員上り、軍人の転向であったところで 非難す可き理論的根拠は無く腕前さえあれば好い、いらぬお節介するなとのお叱りを受けるかも知れぬが、それは予め覚悟してのことだ。

鉄道省経理局は利権屋の巣窟 局長が百貨店へ天降る

 資本総額三十億を超え年々六、七千万円の改良費を投ずると言う大世帯の国有鉄道が年々又夥しい不用品を生み出す、試みに鉄道省の倉庫課選りで聞いてみる と枕木、レール、橋桁等々の類で民間に払下げられる額は年に二百五十万円前後に達すると云う、ところが此の廃物が『私設鉄道助長策』として私鉄に優先的に 払下げられる事になっている、おかみで使えなくなった屑を民間会社で更めて使用すると云うのだから私鉄は安上りで発展するだろうが我々乗客にとっては危険 千万な話である。不用品の払下でさえ斯くも重宝がられる私鉄界である。鉄道官吏の古手が夥しく払下げられるのも亦宜なる哉である。
 鉄道官吏の私鉄払下げが果して私鉄の発展に資するものであるかどうかは聞き損なったが官吏側にしても私鉄側にとっても重要な利権になる事は明か だ。尤もその点になると私鉄許りではない。何しろ三十億と云う大世帯の事だ。列車に常備する石鹸一つにだって利権屋が雲集する始末だからその関係する所、 実にあらゆる方面に行亘っている。それについて斯んな話すらある。
 先頃死んだが鉄道協会の副会長やら根津鉄道王傘下で南朝鮮鉄道の専務などをやっていた別府丑太郎君、彼は嘗て鉄道省で経理局長の椅子に坐った御 仁であるが元来鉄道省の経理局長と云えば一頃はまるで利権の巣窟みたいに思われたもので清廉潔白なかの十河信二君すら飛んだ疑を掛けられると云う曰くつき の椅子である。此の椅子に坐った別府君は御自身目から鼻へ抜ける様な才人だったから在職中疑をかけられる様なヘマはやらなかったが、一度官を辞して浪々の 身となるや早速『前経理局長』の肩書を利用してマンマと百貨店松屋の顧問に納まった
 前経理局長の名刺と百貨店とどんな因縁があったかと云うとだ当時松屋の専務内藤彦一君は強敵三越を相手に廻して宣伝戦に大童だったが、その一策 として考え出したのが鉄道切符の発売で之れを鉄道省に願い出たものである。ところが一方鉄道省でも当時三越はじめ各デパートに進んで之れを扱わせようとい う計画があったのでその間の事情に通ずる別府先生松屋の出願を耳にするや早速内藤専務を訪うて前経理局長の名刺にものを言わせ、許可を取るべく大に尽力し て進ぜよう…テな塩梅に尽力の押売りをして到頭「顧問」の椅子に坐り込んで了ったものだ松屋の内藤専務にして見れば寝ていても当然転げ込んで来る筈の切符 発売権を法外な顧問料を払わされた訳だが、それでも御当人は、之偏に別府顧問のえらい尽力と奔走の賜ものだと思い込んでいたというからお目出度い話ではあ る。鉄道官吏のつるがデパートにまで伸びたというのはチト畑違いの感がないでもないが事程左様に「官づる」の蕃殖力は強いのである。さて物語りが聊か横道 にそれたがこの辺で一つ私鉄界に悠々と納まる「官づる」のお歴々の顔を片っ端から拝借に及ぶことにしよう。

天降組に珍しい五島と種田 私電鉄界東西の双璧

 私鉄と言えば兎角ボロ電車を想像させるが、中でも関東地方では乱雑無統制さながら乱麻の如き軌道網をめぐりヤレ合同だ統制だという騒ぎで、私鉄王と云わ れた根津老人さえ待遇問題で足許からストライキを繰返される態たらく、だが此の不振の関東私鉄界に在って小林『阪急』式の商売上手で昨今メキメキ男を挙げ て来た御仁である。その仁こそは多摩川園社長、東京横浜電鉄、目黒蒲田電鉄の各専務、東京高速鉄道常務、播丹鉄道、代々木自動車東洋車輪各取締役等々並べ た丈けでも騒々しい車輪の音を想像される様な賑やかな肩書の持主の五島慶太君、五十四歳と云う若さでこれ丈けの椅子に坐る以上、大した手腕家であり精力家 に違いないが、更に彼が鉄道省監督局総務課長の椅子に在ったと言う事に多大の力が与って居る
 明治四十四年東大法科を出て一時農商務省に道草を喰ったが、後鉄道省に転じトントン拍子に抜擢されて総務課長に累進した当時第一生命社長の矢野 恒太君が将来の東京郊外の発展を見越して創立した資本金二百万円也の目蒲電鉄、次で武蔵電気鉄道から買収改称した東横電鉄、いずれも矢野君の精力主義の御 眼鏡に叶う経営者を物色して居たが、結局五島君を鉄道省から引き抜けと云う事になった
 何しろ監督局の総務課長と云えば全国津々浦々の私鉄鉄道に対して美点、欠点を隅から隅迄洗いざらいに調べ上げて居ると云う私鉄経営者にとっては 甚だ煙たい存在であるが一方又それだけに裏を返せば私鉄の理想的経営者として蓋し適任ではないかと云う事にもなる、その上にだ、五島君のあの見るからに精 力的な巨躯と一くせありげな面構えを見ろ…と言うわけで矢野御大の食指大いに動き遂に三十九歳の若さで官界の足を洗い目蒲電鉄に迎えられたのである、尤も 五島君は当時省内でも有名な独断論者で総スカンを喰い転向にはウッテツケの機会だったとも云われているが何れにしてもエラい出世であった、然かも矢野君の 眼識に狂いは無かった
 その後矢野君は一人一業主義で経営の全般を五島君に托したが後日五島君のヒッかかった電鉄屍獄も要は社を思うの一念からとあって益々男を磨き上げた最近では渋谷駅頭にキラビヤかな東横デパートを建てて多摩川近在のお百姓迄吸収し新宿のデパート街を震撼させている
 更に大倉組と結んで東京高速鉄道を創設東京の地下に縦横無尽もぐらの様に穴を穿けて早川地下鉄王の心胆を寒からせている通り商才煥発、官吏上りとは思えぬ溌剌たる経営振りだ、好漢自重せよ矣か
 五島慶太の向うを張って関西でこれ亦並々ならぬ腕前を見せているのに資本金四千五百万円、大阪電気軌道の専務種田虎雄君がある、種田と書いてオ イタと読ませる変った名字の持主だが、夫人秀子の君は現内閣書記官長白根竹介君の妹御で又竹介君の姉君松子さんは故下岡忠治君の夫人であるから三人は義兄 弟になっているので『閨づる』の方も仲仲行届いている訳だ
 明治四十二年つまり五島君よりは二年早く大学を出て鉄道畑に入ったが、運輸局関係だった為めに五島君の様に実業界と交渉が無く専ら業務に精励し たので次官石丸重美君に認められて旅客課長から門鉄局長に累進し更に運輸局長に栄進した頭脳明晰で物識だし、その上口も八丁手も八丁というなかなかの利け 者親分肌もあって後進の面倒をよくみた処から省内人気の的となって当時経理局長で鳴らした十河信二君と共に鉄道省の双璧と云われたものである
 斯んな男だから十河と共に時の鉄相仙石貢君に恐ろしく可愛がられたがお蔭で政友会からはひどく睨まれた、おまけに前記の下岡忠治や白根竹介との 縁づるが祟って昭和二年五月の政変で次の小川鉄相が就任と同時にチョキンと馘られた、チョン切られたが依願免本官の辞令と同時に、大阪電気軌道会社顧問の 名刺をチャンとこしらえていたという、文字通り電光石火の早業だったがボンクラで無い彼氏、来る可き政変で最も危い自分の地位が判らぬ筈はない、事前に同 郷岐阜の出身で憲政派の佐竹三吾君が当時大阪市の電気局長をやっていたのに頼んで大軌に渡りをつけて置いたものだ『馘首即就職』の裏面はこれだが、折も折 大軌は社長大槻竜治翁の物故で専務金森又一郎君がその後釜に坐り専務の椅子は欠員中であった為めに、その年の十月下旬開催の株主総会では一躍専務取締役に 推選された

小私鉄社長に納る古手鉄道次官 肩書の手前地位を気に悩む

種田君就任以来の大軌の成績は長谷鉄道、伊賀鉄道、吉野鉄道を合併し、阪急や南海を対手に関西電鉄界に味な事をやっていたが、近時拡張が過ぎたり姉妹会社 の参宮急行電鉄の不振が祟ってどうやら利益も思わしくないとか取沙汰され種田親分も苦戦の態だ、その他参宮急行大阪鉄道、各取締信貴山急行社長を兼任して いる
尚茲に付記して置く事は五島慶太君が同社の監査役をやっている事と種田君が就任した年の秋新しく大軌の姉妹会社として創立された参宮急行に種田君 の紹介で鉄道省管理局長の斎藤真徴君が専務に、又建設局技師で鳴らした石川強君が技師長格で共に入社し難工事と云われた同社の基礎工事に当った事が注目さ れる
 官づると言っても五島や種田クラスは最早純然たる実業家に成り下って仕舞っているが、鉄道次官あたり迄出世してから転向したのになると位階勲等 が光っている手前もあってか仲仲腰が低くならず、然も小ぼけな会社の社長か何かに納まってお高く止っているから至極く奇妙な格好である、そのお手本を示す わけではないが最近の次官は揃いも揃って私鉄界に舞い降りている鉄道院時代の副総裁野村竜太郎、古川阪次郎、仙石鉄相に嫌われて馘になった次官の岡野昇、 その次の八田嘉明、中川正左、佐竹三吾等々のお歴々が相次で私鉄に禄を喰んだ、昔ならさしむき家老がお出入商人の番頭に納まる格好である。野村竜太郎君は 安政六年生れと云うから随分古い、東大土木科を出て鉄道技術に専心し二度も欧米を視察して工学博士の学位を獲得、大正二年鉄道院副総裁に就任しているから かなりその方の権威と云って差支ない。
 後満鉄総裁を二度勤め大正十年退職と同時に当時根津嘉一郎翁の出資で創立した東京地下鉄道の初代社長に迎え入れられ、その多彩な経歴と帝国鉄道 協会々長、土木学会々長、鉄道会議々員、錦鶏間社候等々の威かつい肩書を以て当時多難を予想された地下鉄の態の良い用心棒になったわけである。其後南武鉄 道や湘南電気鉄道の設立にも参画し同様の理由で社長に祭り上げられているが老来もはや八十歳に近くロボットにもならず地下鉄方は今の平取締に引下っている 古川阪次郎君も大体野村君と同様な経歴で工学博士の肩書を持つ、その昔笹子トンネル開鑿に当り技師の野村竜太郎君が実地調査して断行に決定した後を承け、 九州のさる私鉄から引張られた古川君が八王子出張所長となって、当時未曾有の難工事を一身に引受け予定の八ヵ年計画を二年も縮めて完成したという功労君、 野村君にしろ古川君にしろ確かに国鉄苦難時代の第一人者ではあった大正六年鉄道院副総裁を辞し同八年朝鮮に金剛山電気鉄道会社創立の議起るや勧請されてこ れに参加し同社取締役に就いた
 かなりの難工事にその薀蓄を買われたが、或は建設費補助の他に電鉄用動力建設費に迄八分の国庫補助を獲得した辺り同君の肩書が光ったかどうかは 知らぬが、いずれにせよ官づる物語では大した存在ではない様だ岡野昇君も技術畑で工学博士、明治三十二年東大土木科を卒業して帝国鉄道庁技師から鉄道院工 務局長、鉄道省工務局長を経て鉄道次官迄累進した、元来鉄道畑は技術屋の天下ではあるが、彼の背後には枢密顧問官の兄貴、岡野敬次郎老が光っていたし、彼 の夫人の父は憲政会の長老大津淳一郎であった事が閨づるの力を物語っている尤もそり丈けの環境に恵まれ乍ら雷親父の仙石鉄相の御意に叶わずアッサリ投り出 された時には世間も流石に驚いた様だ、結局ボロ会社の買収や骨董品の蒐集並みに勅任官の古手として根津に買われ西武鉄道社長に天降ったが微々として振わぬ 同社にとって岡野の背後に有力な後援者が立つ模様もなく甚だ古手としての『御期待に副い』かね、今では辞してたしか秩父鉄道取締役かなんかをやっている が、本業は市政調査会理事長でこれはその学識と後藤閥を買われたものだそうだ。

『満洲屋』八田君と鉄道世話業の中川君 大馘首組=佐竹・杉浦君まで

過般、満洲経済建設の達成に内地財界から絶大な支持を受け、満鉄副総裁としては稀にみる華やかな足跡に名残を止めて引退した八田嘉明君も、嘗ては小川鉄相の下に鉄道次官を勤めた身だが退官後一時創業中の地下鉄に顧問の名目で失意の日を送った経歴を持っている
 彼も御同様東大土木科の出身で鉄道建設に独得の才腕を有していた事だが後日満洲鉄道建設時代に際して幸運の籤を引き当てたわけだが、今日の彼にとってみればうらぶれの地下鉄時代も懐しい回想の種かも知れぬ
ついでだが鉄道次官から勅選議員の栄職をかち得たのは彼と青木周三君の二人だけなので昨今省内でもっと勅選を殖やせと運動が起っているとか
 帝国鉄道協会元副会長、鉄道同志会副会長、ジャバン ツーリスト ビューロー常務理事、鉄道会議々員、運賃審議会委員等々此のさながら鉄道屋の 世話役を一手に引受けたかの如き肩書の主は鉄道界にその人ありと知られた中川正左君なる御仁、経歴は佐竹三吾君と高等学校から大学、鉄道省を同期に同じ道 を歩き、佐竹が監督局長時代彼は運輸局長おったが、後次官や迄出世した、欧米に留学して交通政策を研究し大学で鉄道論を講義する位だから鉄道の権威ではあ ろうが、枢密顧問官中村雄次郎君が義父に当り惹いて阪谷芳郎君、児玉秀雄君等とも婚戚関係に在るなど相当意味深である。
いずれにせよ、官づる閨づるに恵まれて苦労も無く退官後も地下鉄の副社長をやったり目蒲、東横、池上等々各電鉄取締役に籍を置いて盛んに斯界の発 展に世話役気取で一人飛び廻り鉄道交通界の大御所と自他共に許している人物、確か立ち腐れになった三原山登山鉄道にも首を突込んでいた様に思う
 鉄道協会で思い出したが現在の協会々長杉浦宗三郎君は工学博士で工務局長から技監に迄進んだ官歴を持っているが、勅任官十八人の馘首をやっての けた有名な石丸次官の大鉈に遭った一人、大体に家柄もよし金もあり、姻族関係も手伝って昨年買収された秋田鉄道に監査役をやった外、日本精工、東洋車輛等 にも関係しているが、一時ガス疑獄の後に選ばれて東京瓦斯の常務に納まった、昭和二年秋渡辺銀行が破綻した時には彼は逸早く自分の預金三千円だけ引張り出 して、一文も損をしなかったと云うゴシップがあるが、御本人は絶対に否定している
 越鉄疑獄で市谷に臭い飯を喰った佐竹三吾君も監査局長で名をはせたがこれも石丸次官にバッサリやられた組だその後一時大阪市の電気鉄道部長や電 気局長に転じ更めて鉄道政務次官になった男、法学博士の肩書を持ち乍ら、法に触れるとは凡そ意味なき仕儀だったが疑獄に連坐する程太ッ腹の人物でも無く、 市谷で夜な夜な慟こくして御同宿の共産党員を悩ませたのは有名な話…今では大軌の傍系大阪鉄道の社長に更生している、けだし曩に述べた種田虎雄君に恩返し をされたものとみてよかろう、私鉄疑獄ではこれも御同様な経験のある太田光□君、今や関西実業界に天晴れ業師として幅を利かせているが、元を洗えば鉄道院 出身で明治三十九年『官界よりも実業界だ』と京阪電鉄創立に参画したのがその第一歩、その当初から計数的な頭脳と鉄道時代に研究した独自の企業手腕でメキ メキ実力を発揮し、忽ち同社の実権を握ったと云うから役人上りと云っても一概に馬鹿には出来ぬ

鉄道省の姥棄山 関西私鉄の異観 岡田君を筆頭に天降った面々

 爾来太田君は『事業即生活主義』で精力に委せて事業を拡張して新京阪電鉄を合併して南海鉄道の独占地盤を脅かす等今やその肩書だけでも京阪電鉄、東大阪 電鉄各社長阪和電鉄、国東鉄道取締、信貴生駒電鉄相談役、大同電力常務、三重合同電気社長、幡町鉄道監査役、東洋車輛、大同土地監査役等と正に一ダースに 近く、その他スピードの事なら京都競馬クラブ理事と馬に迄関係しているが、その中心勢力たる京阪電鉄が種田の大軌と対立抗争している点等興味深いものがあ る
 関西と云えば営業哩数から行くと関西第一の大会社とも云う可き南海鉄道に元監督局長岡田意一、元大鉄局長中山隆吉の両君が控えているし最近迄元 工作局長後藤佐彦君が居た、岡田は官づる界の雄で、根津嘉一郎、寺田甚与茂、肥塚源次郎、、佐々木勇太郎等々老人会社にふさわしい老人許りの生気の無い内 閣に専務として迎えられ更に社長となって種田、太田に対峙していたが最近中山と替って平取締に納まった、(右の内寺田翁は先年物故して、御曹子甚吉君が代 り稍活気を注入しているが溌剌たる生気は依然認められぬ)岡田君は三菱銀行の山室宗文君と共に銀時計を貰って大学を出たと云う秀才、学生時代に目白の女子 大生に見染めれて結婚したのが現夫人、今でも女にもてて艶種をフリまいているそうだが、昭和三年の南海食堂の争議では従業員から硫酸をふりまかれる等この 方では余り人気は良くなかった
 人気が良くないといえばおよそ岡田君が南海社長をやめた時ほど気の毒なことはなかった、自分の紹介で入れた後藤佐彦君(技師長)の問題に禍され て一昨年だか一昨々年だか重役会から社長罷免の決議に遭ったなどは、本人は存外洒々たるものだったが、ハタの見る目こそ却って一掬同情の涙をそそった程で ある何れにしても岡田は社運更生には随分苦労したもので、後藤を鉄道省の工作局長から引っこ抜いて入れたのも勿論そのためだし、同じく貨物課長の小泉英一 君を引張って来たのも確か彼氏だったと思うとにかく鉄道省のお役人から関西の私鉄界に天降って、地盤を開拓したのは何といっても岡田君の功労に帰さねばな るまい、尤も後藤君は岡田君の社長引退に殉じて取締役を辞したが岡田の後釜に据った中山隆吉君にしてもまだ五十二の働き盛りではあるが、果して名実ともに 社長として十分の腕を揮っているかどうか、根津翁と寺田甚吉君の勢力下では社長も相当骨が折れることであろう
 以来京阪地方は鉄道官吏の輝北の野と言われているが、筆者の記憶に在る丈けでも此の他に前監督局長、代議士の肩書で奈良電鉄社長に買われた井手 繁三君、運輸課長から京阪電鉄取締役支配人になった三上真吾君監督局業務課長をやった阪神電鉄支配人の細野躋君神戸の改良事務所長から阪神電鉄建設部長に 鞍替えした高橋三昌君等々があり、若し夫れ顧問、嘱託、課長、技師級に至ると大小無数に及んでいるかくて電鉄会社の御用を弁じているところ、誠に一種の異 観と云う可きか

不振の関東私鉄に算盤とるお歴々 お膝下だけに幅を利かす

東京地方になると私鉄不振の折から官づるも余りパッとしないが流石お膝下だけあって相当大物級が大抵の会社に買われている
 まず京浜電鉄社長、湘南電鉄専務の生野国六を初め王子電軌常務小平保蔵、南武鉄道常務杉本義朗、京王電軌王子電軌各相談役植村俊平、大東京鉄道 顧問池田嘉六、型違いだが湘南電鉄や阿波鉄道、小湊電鉄に関係した安田の丹治経三湘南電鉄支配人中川登代吉、東横支配人松浦田太郎、武蔵野電車管理の八木 鶴蔵等々の諸君更に視野を広げてみると鶴見臨港鉄道に田中鎌造豊川鉄道に奈良原吉之助、箱根登山電車に大森保次その他富士山麓鉄道専務に監督局技術部長を やった伊藤常夫、遠く九州は小倉鉄道社長として古い鉄道技師伊地知壮熊、宇佐参宮専務にこれも古い鉄道院参事をやった中里真清と云った顔触れを想い出す が、何しろ古い事で今はどうして御座るか知らぬ
生野君は確か鉄道時代監察官をやった男だが、当時未だ市電の電気局長の椅子が鉄道省吏の独占的職場だった頃で西久保弘道の推薦でその市長の下に市電局長を勤め高速鉄道に着手したりしてかなり活躍したが昭和二年十二月西久保君の辞職に殉じ次で今日に至っている
 電気局長と云えば有名な大道良太君も鉄道院参事や総裁秘書から転じた男でその後更らに東電の取締に鞍替した筈
 最近市の電気局長から財務局長に進んだ後藤悌次君も鉄道省の経理局長の出身だが小平保蔵君は明治元年生れの六十八歳と云う相当に古い方で東大土 木科出身札鉄局長、門鉄局長から名古屋市の電気局長に転じ、大正十五年王子電気常務に迎えられ今日に及ぶ、此処に相談役を勤める植村俊平君は九鉄管理局 長、大阪市長等の閲歴があるが、英国に留学したりして家柄もよし金もあり役人と云うより実業家型朝四時に起きて洋書をひもとくが日課と云う閑居ぶりだ
池田嘉六君は最近迄建設局長をやっていたが、例の黒田秀雄や八田嘉明が面倒をみたと云う大東京鉄道会社の敷設線大宮―巣鴨、荻窪―大宮両線が免許 期間中に工事にかからず失効しかかったので世話役連が浪々中の池田を引張り出し顧問に抱えて運動させたがモノにならなかったとか?…
 池田君も発奮して残る日暮里―野田線の実現に懸命だそうだが官づるも斯うなると仲々苦労である、丹治経三君は現に二、三の私鉄に関係しているが 本職は安田生命常務、三十八年東大土木科出で鉄道省工務局に勅任技師の改良課長をやっていたが安田家と懇意な関係で大正十四年転向、当時専務理事の結城豊 太郎氏に可愛がられて出世した、鉄道の技術の役人から堂々実業界に名を成した彼、相当警抜な才能の持主らしい、関係する私鉄はいずれも安田の系統のものだ
 中川登代吉君は官づるは官づるでも大分趣が違う、彼は現業の下ッ端駅員から刻□勉勤して新橋運輸事務所長迄出世した豪い男だが、時の鉄道次官中 川正左君が此の精力的な男に感心し、それ迄帝大出身者で固めた海外研究生に抜擢して省の内外に大センセイションを捲き起した、御本人頗る口不調法で平生 黙々と働いているがあれで英語の達者な事は鉄道関係でも珍らしいと云われる位、京浜、湘南電鉄入りは親分生野の懇望に依ることは明だ、最近京浜が品川駅乗 入れに成功し且湘南と直通運転を初めたのも一に彼の仕事だそうな
 さて拾い出せば限りの無いこと、此の辺で目を転ずれば満洲に満鉄と云う鉄道官吏の養老院がある、尤も此の頃では軍人と社員会が幅を利かせて鉄道 省もロックアウトを喰っている態だが、その昔鉄道省が満鉄の監督権を握っていた、当時からの因縁もあるし々鉄道仲間だと云うので関係を絶ったわけでもな い、第一八田、大村の新旧副総裁然り宇佐美理事、佐原ハルピン鉄路局長の生々しいところ然り少々前に村上義一、十河信二両君も理事で威張っていた、村上君 は最近不振の国際通運に新設の副社長に買われている
 以て昔の事は推して知る可し、最近私鉄の振わざるに注目し鉄道官吏必しも軌道に乗る必要はない、もっと新分野を開拓しろと仲々威勢のいい議論が 省内に起っているがそれだとて東京合同運送常務に嘗て東京駅の名物駅長で人気を売った吉田十一君が四十三年の駅員生活を知らぬ気に納まり返っているし本家 の国際通運に取締役として控えている富永福司君は経理局の第二購買課長をやった男、更に新分野に入って小倉石油取締役の高草朴介君は経理課長をやり、官づ るとは云えぬが昭和銀行常務の田島道治君は元来バンカーではあるが、後藤新平の鉄道院総裁当時恩師新渡戸博士の斡旋で鉄道院参事兼総裁秘書に転向鶴見祐輔 と肝胆相照らして二年許り鉄道の飯を食い後藤に伴われて外遊迄している、此の鉄道時代人事課長として高等官四十七人を馘首し今だに省内に名を残している人 物だが此の頃金融界の大先輩井上準之助の知遇を得たとも云われている
 更らに中央火災社長森本邦治郎は経理局長の後進だし…仲々東西に網は張られている様だ、事のついでだが鉄道省以外の官庁から私鉄に天降ったの だって少くはない中にも小田急副社長池辺稲生君は内務畑出身で大震災後復興局勅任技師として苦労をしたが見事完成した手腕を認められ小田急社長利光鶴松が 同郷だとあって引張り帝都電鉄副社長に迎えた、此処で又渋谷、吉祥寺線を完成し此の六月小田急副社長に納まったの等は異色だろう、伊那電鉄社長桜木亮三君 は大蔵省出身、最後に最近迄東京市の青バス社長だった長延連君は元警視総監、鳩山の世話でゴタゴタの同社に天降ったが地下鉄の早川に乗取られアッケなく引 退して仕舞ったのは先刻御存知の通り
 池田君(上)と生野君

海運界の巻 岩崎、大隈連合と共同運輸の激戦 日本郵船社の誕生

大小私鉄を一巡り、軌道に乗った官づる物語は筆の走るが儘に無軌道の海運界へそれる、『戦争で肥って合併で強化』した日本海運興亡の跡は我が財界盛衰史の 裏面に幾多のロマンスを秘めるが、官づる物語も明治十五年の昔に溯り岩崎弥太郎の三菱会社と半官半民共同運輸会社が横浜、神戸間をコースに『欲』も『得』 もうっちゃって『男で御座る』の意地づくから血の出る様な無賃競争を演じた時代に説き起さねばならぬ、当時官営の日本帝国郵便蒸気船会社を併呑し、続いて 立ち向う渋沢栄一、三井の益田孝一派の風帆会社を踏みつぶし勢の赴く処、太平洋郵便汽船を破りイギリスのP・O汽船を退け渺漫数千里の海上権を掌握して四 海怨嗟の裏に唯我独尊を極めこんで横暴の限りを尽していた岩崎弥太郎の三菱会社に対し、世の反三菱の熱を利用してこれが征伐を決意したのが当時農商務大輔 の品川弥二郎、これに渋沢、益田系の東京風帆、越中風帆の仇討一党が加ってつくり上げたのが資本金三百万円(政府百三十万円、民間百七十万円引受)の共同 運輸会社
 何しろ対手が手剛いとあって株式募集の事なぞも全国的に大童だったらしいが、此の経営者の人選にも苦心し結局社長に伊藤●吉副社長に遠武秀行と 共に海軍の軍人閣下を任命した両会社は横浜、神戸間の共通航路で三年間に亘って根限りの競争を演じ、これが遂には政争の具となり共同運輸側の背後に井上香 品川弥二郎惹いて自由党、岩崎の背後には大隈重信惹いて改進党がつくと云うわけで将に竜壌虎薄、天下分け目の戦いに展開したが当の両会社にとってはまたた くまに数十万円の損を出し弥太郎程の男が自殺を決意したと言う程の惨状、運輸側の官づる社長達も砲煙弾雨のお対手ならいざ知らず、弥太郎対手の客引競争で は手も足も出ぬと云う次第で、遂に明治十八年九月政府の斡旋で両社合同と云う段取りとなり芽出度く手打して出来上ったのが現在の日本郵船会社
 初代社長が時の農商務小輔森岡昌純、森岡は今回の合同劇に監督官庁として奔走し、そのまま社長に天降ったのであるが此のモリオカの名が未だに郵船の略号として海外電報等に使用されていると云うから大したものである

海運界の巻 【2】 余りパットしない海運界の官づる 郵船・大阪商船の社長一覧

郵船はその後二代吉川社長を経て郵船を世界のN・Y・Kに迄発展させた一世の名社長近藤廉平氏を送り、三代社長に副社長からのし上った伊東米次郎氏が己の 保身策から所謂『海主陸従』主義を採り重役間に内訌、惹いては有名な郵船騒動を惹起す迄に立ち至ったので、大株主の三菱が久し振りに鎌首をもたげて社長入 れ替えを強行したが、此の時三菱のロボットとして第四代社長に納まったのが八幡製鉄所長官の白仁武、此の折伊東社長も社内に蓄えた潜勢力と七千の海員を バックに恃んで頑強に居据ったが、遂に渋沢栄一氏と三菱の総帥木村久寿弥太の謀策成って放り出されて仕舞った、余談だが弥太郎氏に受け継いだ海軍制覇の野 望は三菱代々に根強く伝わり伊東社長の末には漸く表面的に露骨化し、三井を代表して郵船取締役に在った福井菊三郎氏も辞任の止むきな事情となり、次で白仁 社長となるや各務鎌吉君が取締役に就いて白仁は固より大谷、武田両専務も床の間の置物同様、実質上は各務君の独裁となり、白仁君に次で遂に仮面を脱いで第 五代社長に就いて完全に三菱傘下に奪還した
 昨年十月一日には創業五十周年を迎え特配二分をやってのけお家は愈々安泰に各務君も第一線を引退して社長を大谷登君に譲ったが地下の弥太郎氏も 定めし満足に微笑していることであろう、余談に過ぎた、問題の白仁武君は大正十三年十月十六日世評を裏切って八幡製鉄所長官からお門違いも甚しい郵船社長 に天降った、白仁はその以前に自動車で負傷し健康を害していた、既に相当の年輩に達していずれ早晩製鉄所から退却の余儀ない事情にあったので、大学以来親 交のあった木村久寿弥太に泣き付いた、時もよし三菱では愈々郵船乗り取りの鋭鋒を磨きつつあった折とて、忽ち此の老朽官吏を一時利用することに依って最も 妥当なる可き手段を獲得した、此の結果は伊東社長と共に黒川副社長、安田専務も郵船を追われた、気骨で鳴った郵船社員の動揺が想像されたが、大資本の一睨 みにあっては去勢されたも同様有耶無耶に泣寝入りしてしまった、蓋し白仁は大三菱が郵船会社掌握の手段に供された官づるの変り種であった
 世界のN・Y・Kと並び立つ世界のO・S・K我が大阪商船会社もその昔、明治十七年、瀬戸内の群小船主がもて余した所有船九十五隻…と云うと大 げさだが、トン数にして総計僅か一万余トンを集め資本金百二十万円を以て創立されたのが今日の濫觴、後、日清戦争に際会して俄に膨脹し、台湾を中心に内台 航路、沿岸航路に総督府の受命会社となり、漸く海運界の一方に乗り出しつつあったが、経営者宜しきを得ず明治三十年資本金を一千一百万円に増資した時には 前途漸く行詰って何等かの打開策を必要とする難局に立った、茲に社長長田中市兵衛に代って政府の斡旋の下に社長に迎えられたのが逓信省監察局長、鉄道局長 として才腕を揮った中橋徳五郎君、彼は後年政治家としても仲々活躍したが、大阪商船社長としてもその期待に背かず商才煥発、まず半額減資を断行して資産整 理を行うと共に、外に果敢な積極策を進めて遂に商船を盤石の基礎に置いた商船の営業政策が常に郵船のそれを圧し商機に敏なる辺り中橋社長、時代の流れを酌 むものとみる可く、実に商船中興の祖として尋常一様の官づるでは無かった尤も彼にはこれだけの手腕を発揮するにふさわしい手足があった、山岡順太郎君と堀 啓次郎君だ、山岡も堀も中橋と同郷で金沢藩士の末、山岡君は中橋君が逓信省に奉じた頃その下僚として既に同郷の親を厚うしたが頭脳も秀で腕もあった中橋君 に随って商船入りをしたが忽ち累進して大正三年には副社長になって堀と並んでブレーン・トラストの実を挙げた様である。
 大阪は元来商人様の天下殊に商船なぞは『縞の着物に紺の前垂』が幅を利かしたものだがその中で官吏上りが大いに牛耳ったと云うから皮肉な話、今 日、日電社長池尾芳蔵君も逓信省から住友を経て商船に入ったのが出世の初まりであるし、日清汽船の取締役に納まる島村幡彦君も大学を出て五年許り関東州民 政署の事務官やと都督府秘書官なぞを勤めたが、これ又中橋社長時代商船に転向し大阪支店長等を歴任して今日に及んでいる、後に述べるが死んだ湯川寛吉君は 逓信省の勅任官から住友には入り総理事として住友財閥の今日の大をつくり上げた斯うなると官づるも馬鹿に出来ぬが大阪商人だからと云って頭から敬服するに も当らぬようだ、さて郵、商両者の官づる社長を述べた白仁の退嬰的、中橋の積極的と恰も両社の社風を反映するが如きも皮肉だが、総じて海運界には官づるの 傑物が輩出せぬ、もともと海運界で余り歓迎しない故もあるからだ

海運界の巻 【3】 古船整理の秋に古手官吏は御免 船屋は大体勇み肌

海運界と逓信省との関係は陸運界と鉄道省の関係と大分趣が異る、御同様監督は監督でもこの頃の逓信省には威力が無い、威力どころか逆に船主協会辺りの御用機関と云う恰好である。
 近頃のヒット、船舶改善施設だって船主連から尻叩かれての仕事だが、それも肝腎の大蔵省を説きつけたのはお門違いの海軍省、しかも時の海軍政務次官内田信也君、一枚剥げば内田汽船社長閣下が親分岡田海相を
抱き込んでの仕事じゃないか、一昨年来の大連汽船問題も些か不公平の感なきにしも非ず、殊に古船事件で拓務省と渡り合った時は両方共然りだがまる で船主の為めに『子供の喧嘩に親が出る』の血迷い振り…更に最近の日蘭海運戦に至っては一体船会社に監督官庁なるものが儼存するや否や…いやもう止そう、 あまり責めて人情大臣が妙な人情を出しても困る。
 まあザッと斯んな調子だが、これでは勇み肌の我が海運業者も『お古頂戴』とはお世辞にも云えまい、死んだ浦賀ドックの社長工学博士今岡純一郎君 も大学を出た時には天晴れ舶用機関の権威を志して逓信省を登竜門としたが技師はいつ迄も技師で後から来た若い事務官の命令にも服せにゃならぬ、斯んな馬鹿 気た世界は御免蒙ると、船舶課長の椅子を捨てて飛び出し親交のあった山下亀三郎君に迎えられ入れ替って浦賀ドック社長に天降った、彼も逓信省にいては一生 うだつが上らなかったろうが浦賀ドックに入ってから俄然男を挙げ造船連合会会長、造船協会々長、船舶改善協会理事、帝国海事協会常務理事等等造船界の顔役 に奉られていた、今岡君の後を承けた寺島健君も大株主の山下亀三郎君が建艦時代に際して引張って来た海軍中将だ、彼は艦政派の領袖だったが技術の方には何 の縁もない。
 群小会社が合同した時には初代社長に坐るのが大方の場合役人だが、明治四十年に支那長江筋に就航した郵、商両社の船舶及び湖南汽船、大東汽船が 合同して日清汽船が創立された時も逓信省から石渡邦之丞君が迎えられた、最近ではジャワ航路の邦船側郵、商両社、南洋郵船、石原産業の四社が合同して南洋 海運を創設、初代社長として管船局長の浅野平二君が乗り込んだ事は耳新しい、浅野君なぞは役人と云うよりも人品、骨柄温厚な実業家型だ、多難な日蘭問題を 控えて人品、骨柄ばかりでなく腕の方も大いに振り廻して貰わん事にゃ折角の合同が役に立たれぬと云うものだ
 郵船の常任監査役として今尚相当に羽振りを利かす宮崎清則君ら管船局長の椅子に満八ヶ年のレコードを残して郵船に舞い降りた…と云う履歴の主、 八ヶ年も頑張ったので後進は頗る不満で相当嫌われたらしいが硬骨漢で卓論家で次官の桑山鉄男君などにもかなりつっ掛って意見を吐いたとかで一部に好評も あった様だ、元逓相貴族院議員の南弘君とは義兄弟に当っている、最後に過般船主協会の専務理事に就任した波多野保二君も逓信省の局長出身で改善協会の専務 理事でもある、海運界の官づるは此の辺で擱筆としよう、八十万トンからのボロ船を処分してひたすら優秀船を建造し通商非常時を乗り切ろうと云う日本の海運 界にとって今更古手官吏の沙汰でも無いだろうじゃないか。

電力界の巻 【I】 逓信省からは小ウルサイ干渉 のさばる内務省役人に悩む

海運界からは『能無し』となめられる逓信省ではあるが、一度転じて電力事業に対する時は恐ろしく幅を利かす。電力界が十三億の借金地獄で金融資本の前には 根っから頭の上らないのは御承知の通りだが、おまけに『公共的企業』と云う厄介な肩書のお蔭で特別の義務を背負わねばならぬ。殊に今日の統制経済時代では 御同様『電気事業法』と称する大ダンビラが五月蝿く光って、逓信省の監督権に一団と御威光が輝く…と云う次第である。表面は我に『光』と『熱』と『動力』 を恵む近代文明の精だなどとおだてられているが、裏へ廻れば高利貸と御用提灯が台所に大あぐらを掻く…と言った様な調子でその上に『電力屋は山村に森林事 業を破壊し、流木を妨げ、農村に灌漑の邪魔をする、然も天然自然の風光は滅茶滅茶に荒らされる』などと近所の悪童から石を投げつけられる悪態振りでは、全 く立つ瀬が無いと言うものだ。いや金融資本や逓信省の小五月蝿い干渉は未だ止むを得ぬとしても、発電所の建設で御厄介になったからと云うのか内務省の御役 人迄にノウノウとのさばられて黙っている恰好は弱い家業とは云い条まともに見て居られない。
 話を戻して官づるをつつくわけだが逓信省役人と電力界と云えば早速話題に供されるのが曩に海運界で述べた中橋徳五郎君の築き上げた『商船財閥』
とも云う可きものである。日本電力初代社長故山岡順太郎現社長池尾芳蔵、その姉妹会社たる宇治川電気副社長影山銑三郎等々の諸君はいずれも大親分 中橋狸庵の影を慕っての逓信省出身だ。池尾芳蔵君は官づる物語りに並べると彼氏大いに憤慨するに違いない。正直な話、彼は官づるではない、二十七歳で東大 政治科を出たが、当時吉野作造君と首席を争い負けて二番で卒業した。尤も銀時計はチャント頂戴している、其頃天晴れ官界に名を馳せる積りだったと見え高文 をパスして逓信省書記官に任官したが任官早々型にはまった官界生活に厭気がさし実業界で大いに腕を伸ばそうとアッサリ辞令を返却して商都大阪へ下ったと云 う事になっている。
 此の都落ちに際し『卑しくも三十年来の志望たる官界を棄てる以上は大実業家として立たざる可らず、これが為めには今から大実業家としての風格を 持たねばならぬ』とあって三十そこそこの白面の貧乏青年の分才で堂々一等車に乗って大阪に下り羽振りを利かす大住友の門を叩いたそうだ。それから後は彼の 手腕の伸し放題で自由自在に活躍しトントン拍子の出世振り、住友鋳鋼所経理部長から商船経理課長に転じ、着々関西財界に地盤を築き欧洲大戦の好機を経て日 電の創業に参加し山岡社長の下に専務に納まり一切の経営を担って猪突猛進、快刀乱麻の手腕振りに宇治電との売電問題、庄川流木問題を片付け遂に関東に進出 して『突飛将軍』の異名を頂戴に及んだ。日電の歴史は即ち池尾の半生記であるが逓信省でのんびり出世を待っていたのでは今頃は浪人の恩給生活かも知れぬ運 命である。
 日電社長を引合いに出したついでだが、大同電力社長の増田次郎君も本物語では満更捨てたものではない。増田君は今でこそ電力界の大立物で威張っ て御座るが、元来後藤新平伯が台湾総督以来の秘書官で、伯が鉄道院総裁を辞めた後一頃浪人生活を送ったが、当時電力事業の勃興期で福沢桃介氏が木曾川筋に 水利権を握り木曾川開発に乗り出した時後藤伯に対してそのベター・ハーフの推挽を求めた。これに選ばれたのが此の失業中の若き秘書増田君であったわけだ。 後、桃介氏の後を襲って社長になったが大臣秘書官から資本金一億七千万円の社長に迄出世するなんてことは此の頃代議士になるさえ容易ならぬ秘書官諸君に とっては夢の様な話…秘書官の話が出たから引合に出すが大井川電力専務の結城安次君は藤村義朗氏が逓信大臣当時の秘書官であった。彼は元来三井物産社員で 大阪支店辺りで棉花の輸入係かなんかを勤めて居たが、藤村氏の逓相就任に際し三井より秘書として派遣されたのが出世の緒だった。
 藤村逓相の辞任後逓信大臣秘書の肩書が光って松永系の早川電力社員に舞い降り後同社が東京電力となりそれが更に東京電灯に合併さるるに及んで親 会社の東邦電力に移ったが、折しも鉄道省の煤煙防止を目的とする東海道線電化計画が信濃川開発の渋滞の為め東電、東邦合作の大井川水力が創設さるるに至っ たに乗じて一躍その専務席に就いた、と云う経歴の持主である。

電力界の巻 【2】 『罷り成らぬ』の一言で重役席が舞い込む 東邦系中西君の儲け物

徒手空拳で財界転身をやってのけた池尾御大を初め、増田大同、結城大井川君等々、擬いの官づるばかりを並べ立てて甚だ申し訳の無い次第、これから大いに本 論に進むわけであるが、先ず筆頭に今や合同電気、中部電力の取締役席に納まり同時に日本電力協会の常務理事に顔を並べている中西四郎君が逓信省の電気局長 から天降った当時の鮮かなる転身振りを御紹介せねばなるまい
 中西君が三重県の出身なるが故に津市に在る合同電気に納まり、或は更に同君が名古屋の逓信局長を勤めたるが故に、岡崎市に在る中部電力に関係が ある等と考えるのは些か早やまったりな―である、中西君が中部と云い、合同と云い何れにせよ東邦電力の傘下に天降った裏面史を伝うるに当って、筆者は再び 曩に述べた『東邦、東電対立抗争の巻』を繙かねばならないのである、即ち九州に起った東邦勢が関西電力界を掌握し、勢の赴くが儘に東部地方を席捲せんと 『早川電力』を押し立ててあたりを睥睨しつつあった頃『上方勢何者ぞ!』と許り関東武士を気負う東京電灯がこれ亦逓信当局に対して所謂『名
古屋区域への電力供給方をお願い申す…』と願い出たのである
 片唾をのむ成行であったが此の時『控えろ』と上座に現われたのが当時の電気局長中西四郎君で、現われると同時に頭から『東電の出願罷り成らぬ』 とアッサリやって引込んで仕舞った此の時若し中西君が『許す』とやっていたら案外同君今頃は東電の重役席にノホホンと坐っているかも知れぬ、何しろ此の 『罷り成らぬ』の一言が東邦勢にとっては中京戦線に於ける『神の声』であり、此の声の主中西君が後日『是非共是非共』と許り東邦陣地に抱え込まれたのは誠 に宜なる哉であろう
 次に宇治電の影山銑三郎君の御登場を願おう、同君も明らかに官吏として名遂げた後、官づるの近道で転身している
 明治三十七年東大独法を卒業、逓信省に入って累進し、逓信監察官、大阪逓信局長、逓信省電気局長に出世し通信時行研究の為めドイツに留学した り、電気通信予備会議に日本側委員としてアメリカに出張したり仲々活躍したが、大正十一年辞して宇治電常務に納った、此の他大阪電気工業所、今津発電所、 高野山電鉄、山陽、中央各水力電気会社の重役を兼ねているが、要するに大阪逓信局長及び電気局長等の肩書が光った事は否めない
大阪逓信局長の因縁ならば御同様京都電灯副社長の田辺隆二君がいる、明治四十二年東大政治科の出、高文をパスして逓信畑に入り、未来は次官か大臣 か、と夢見たが、大阪逓信局長から簡易保険局長迄累進した頃には次官迄も未だ仲々の道のりがあるのに、こりゃ此辺らで転向だと臍を極め右顧左眄の折柄、京 都電灯が安政元年生れの老社長大沢喜助氏の勇退、副社長田中博の社長昇進で副社長の椅子の空いたのに乗じキレイに局長の椅子を棄てて『京電』入りをやって のけた
 当時京電は東電から三丹地方の事業を譲渡され大拡張を行うこととなっていたので監督官庁から彼を迎え入れる事に何等異存が無かった筈である、曩の影山と云い田辺と云い大阪で局長をやって、いずれも関西の電力界に納まる辺り因縁らしいものを感ぜぬ方が変だ

電力界の巻 (完) 共同火力会社は天降りの隠居所 『変り種』筧・本間の両君

台湾電力理事の安達房治郎、畠山敏行両君は共に逓信省から当然の様な顔して悠々と天降った重役だが同社が半官会社であると云うところに此の『当然顔』が出来ると云うわけなのであろう、畠山君は先程三転して同盟通信社の理事に納まった。
 嘗て大同電力常務で今その子会社昭和電力取締に坐る近藤茂君は工学博士と逓信省電気局技術課長の肩書を買われたのであったしね中国合同電気社 長、片上鉄道社長の坂野鉄次郎君は元来が岡山県の名家の出である上に逓信省で大阪逓信管理局長、西部逓信局長等を歴任した辺り意味深だ、電力事業ではない が古川電機工業取締役の利根川守三郎君も工学博士、元逓信省電気試験所長である、電力、電気事業の陳情機関であるところの…つまり民間の総意を司どるとこ ろの電気協会、此の会長は最近まで池尾芳蔵君であったが彼の推挽で協会の常務理事に納まったのが矢張り逓信省から台湾逓信部長等をやった三宅福馬君だ、ま ず役人の古手も斯んな仕事にはもって来いかも知れない。
 大日本電力常務取締の筧正太郎君は明治四十四年大学を出て役人の振出は逓信省族ではあったが、本格的に鉄道畑で経理局長、運輸局長をやり、江木 鉄相の為め次官の鰻香を嗅がされた丈けで青木周三君にしてやられたのに憤慨し飛出して東京市の電気局長に転身、運動仕込みの巨躯と頑張りで市電ストライキ 等に奮闘したり等して世間には相当名を知られたが再転して穴水熊雄氏の良き相談相手になっている、彼は電力界では位階勲等第一だとの誇りをもっている。御 同様なのに嘗て東京電灯に市電局長で雷名を馳せた大道良太君が居た、東電と云えば前常務本間利□君は元来内務省の役人で警視長官房主事や長野、山梨辺りの 地方長官を勤めた身であるが池田成彬氏の妹を夫人に迎えていると云う縁づるの然ちしむるところか大正争四年山梨県知事を最後に官界の足を洗って今日に及ん でいる、尤も本間君としては縁づる等と云われては不服かも知れぬ。何しろ県知事と云っても、其処等にゴロゴロしている県知事とは違って長野県在任中日本で 最初のブラジル移民組合を発案し大成功を納めた事など有名な話、地方長官として電気事業に対して莫大な課税計書を立てて結局寄附金をせしめた身が今度はい じめられる身になったのだとあきらめているなど彼の身上だ、役人に見切りをつけたくせに『役人と重役では役人の仕事の方が広くて面白い』等と放言する辺り も変っている。
 本間君の場合は別として地方の中小水力電気には内務畑の役人から転身した者がかなり見受けられるのは水力事業なるが故の因縁であろう、例えば四 国水電に取締をやった下元鹿之助岩は高知県技師から県会議員などをやった人物、東部電力の常務丸山徳三郎君は茨白県勧業課長、山陽中央水電取締り田中千里 君は千葉県内務部長から、大分、熊本の県知事に歴任、庄川水田常務をやった杉村博通君も山形県土木課長から福井、富山、群馬を歴任しているし群馬水電の専 務佐竹義文君も地方長官の経歴がある等まだまだ探し出せばいくらも出て来る、最近り傾向としで所謂共同火力事業が全国各地に興されつつあるが之等の首脳部 には逓信省の老巧官吏が押しつけられている様だ、関西共同火力には天下り官吏が依存しており現に九州共同火力専務には簡易保険局長平井宣英君が天降ったと 覚えている、名古屋共同火力計画なども役人新陳代謝の一役を買っているなどの説もあり、甚だしきに至っては目下計画中の東北振興電力などお百姓救済などは 二の次で一万キロにつき勅任官一人という巷説も生れているがこんな噂はデマであって欲しい。

逓信省の巻 誘拐された『変り種』の石坂君 今日の第一相互を作り上ぐ

逓遍信役人転向の野は大体以上の如く海運界、電力界と相場の極ったものだが変り種の大物には第一相互保険の石坂泰三、佳友財閥に権勢を誇った故湯川寛吉東 京無線電信電話初代社長内田嘉吉、元日本石油専務の田中次郎、それから三井育ちと云うのが本助だが北海炭鉱の磯村豊太郎と云ったお歴々もその昔は逓信省の 飯を喰った、石坂泰三君は親分矢野一言居士が御同様に役人上りで『役人上りの会社経営馬鹿に出来ぬ』の一例を示しているようだ。
 石坂君は明治十九年の生れ、同四十四年東大独法を出て大学院で財政を研究し早稲田の先生をやったりして後高交をパス、逓信省の為替貯金同に入っ た、此処に居据って居れば彼も今頃は次官位になっていたかも知れぬ、何しろトントン拍子に抜擢され課長の椅子も目近にあったのだそうだが、その頃所謂『非 射利主義生命保険相互会社の設立』で一生懸命の矢野君がドイツ留学時代に知己となっていた岡野敬次郎博土によき女房役の世話を持ち込んだ、これを引受けた 岡野博士は優秀なる教え子の中から石坂をみつけ出し、是か非でも第一相互に行けとの強談判に、石坂としては今や群る同窓を抜いて早くも高等官席に納った 身、当時嫌われものの保険屋で、而も三流どころのケチ臭い第一相互などは真平御免だったのだが石坂君に云わせると到頭『博士に誘拐されて』大正四年第一相 互入りとなったのだそうな爾来二十年、矢野、石坂の名コンビは遂に今日の大を築き上げた、石坂こそは実に縁の下の力持であり、後日矢野が第一線を退く時は 第一相互社長として保険界一方の雄となるべき男だと云われる。
 死んだ湯川寛□氏は逓信省で通信管理局長迄やったが、招かれて住友銀行に入った、管理局長迄もいい加減半生を費しているが、彼は住友に入って更 に三十年近く頑張り総本店理事銀行専務から大阪手形交換所委員長と云う世話役も兼ね、総理事に納まって関西財界りみならず三井三菱に次ぐ大財閥、住友王国 の覇業を大成させた、昭和五年八月、幾多の功罪を残して相談役に退いたが、翌年八月二十四日貴族院議員、住友合資相談役、満鉄監事等等幾多華やかな足跡を 名残として逝去した逓信省の一役人から我国財界一方の雄としで彼の出世も異数のものだが、一面には当時新興勢力として人材不足から自然に役人輸入で官尊民 卑になりがちだった住友王国だ、当時見渡す処外務省吏の川上謹一、農商務省の鈴木左馬也、裁判官の中田錦吉と総理事連が揃いも揃って役人上り、従て社員も 小役人の転向が多かった、今や、御大小倉正恒、八代則彦君達純経済人で固められているものの、住友王国の底を流れる保守的伝統精神も斯んなところに原因し ているのではないかとみられるのだ

逓信省の巻 狸の皮算用に苦杯嘗めた中島男 附=田中次郎君の飄逸振り

内田嘉吉君を此処に引合に出すのも妙なものだが彼が東京無線社長に天降った際の経緯が面白い、内田君は台湾総督までやった人物で一役人と並べる人物ではないかも知れぬが元来逓信畑の人間で管船局長、逓信次宮、無協会長などを歴任している
 当時、遍信省の後援で渋沢栄一氏を創立委員長とする東京無戦電信電語会社の創立が計画され、此の創立副委員長となったのがその頃古河を去ってブ ラブラしていた中島久万吉君、彼は当時東京市より助成金を得つつあった復興助成会社の社長となる可く内定していたが、東京無線の創立に参画するに及んで 『こりゃ復興事業よりも無線の方がずっと有望だ』とあって『復興』の社長を辞めて『無線』の社長に成ることにきめ、『復興』の社長を当時東拓理事の沼田政 二郎君にアッサリ譲り渡し取らぬ狸の皮算用をやっていた、処がいざ会社が出来上ってみると社長のお鉢は内田嘉吉君に廻って中島君は鰻香を嗅いだ丈け、此の 裏面には発起人の酬人となった内田君が逓信次官をやった官歴と徳川家達公、貴族院議員東郷安男氏等への猛運動に効果を奏したと云われている、茲に滑稽なこ とには内田君を発起人の一人に頼み込んだのが当の中島君だったと云うのだから、中島君も浮ばれなかったに相違ない
 元日石に専務をやった田申次郎君は明治三十一年大学を出て逓信省に三十年も勤め大正六年通信局長を辞めて直ぐ日石に入っている、どうして日石に 入ったかと聞くと『官界の進歩せぬには驚くよアッハッハ…』と人を喰っているが産業合理化で盛んに馘首をやった頃、『人件費は全経費の二割にしか当らぬの にこれを少々引下げたところで径営上役には立たぬ、それより人件費を引上げて能率を増進さすのが合理化の目的さ』などと資本家らしくもない事を喋るあたり 矢張り役人上りだけの事はある、磯村豊太郎君はその昔慶応義熟を出てチョッピリ逓信省の属官をやった経歴があると云う丈けのことで珍しいから此処へ持ち出 したが勿論官ずるに縁はない、最近逓信省から放送局や通信社へ天降る傾向の多いことも注目に価するが、財界ではないから此処ではお預けとしよう

保険の巻 (I) 天降り役人は商工省が卸問屋 橋本(圭)吉野君の関係

今をときめく首相広田弘毅君はその恐ろしく高い自尊心と人を喰った言動で有名だが、例えば通商問題などで商工省と意見の衝突を来した様な場合『商工省の役 人なんか役所を罷めた後で会社の御厄介になる事許り考えて国家の為めに考えようなんて事は一寸もしない…』と頭から斯うけなしつけるのであるが、商工省の 役人が
官ずる物語の中心である事は広田外相に斯く折紙をつけられなくとも商工省と云う役所の名前からして全くショーコとない事ではある
 実際商工省の役人が財界に天降る傾向は最も甚しい、商工省が一般農商工業の監督権を握っている以上当り前な話でもあろうが、小役人あたり迄が役 所を実業界進出の足場の如く考えるに至っては、些か以て心寒きを感ぜざるを得ぬ、ましてや今日は『統制法』と称する一層輪をかけた五月蝿方が睨みを利かす 御治世で益々お役人様時代だと云うのだから思い半ばに過ぎるものがある、ガソリン戦線の第一線に立つ日本石油社長橋本圭三郎君は老来益々元気旺盛、値上け 問題で盛んに商工省の尻を叩くが、此の御仁が嘗ては農商務次官に納まり、前商工次官吉野君は当時橋本の下で恭しく昇給の辞令を預戴し、或は書類でお目玉を 喰った間柄だと云うのだから、二銭五厘の値上げなんかも軍部の横槍やノントウ大臣の選挙対策さえ無かったら、もっとサッサと判コが押された筈だと云う、以 て官ずるの有難味が判ると云うものだ
 血盟団のピストルに露と消えた三井の大宰相故団琢磨翁は三井を今日の盤石に置いた育ての親であるが、三井家での振出しは矢張り官ずるである、彼 はボストンの中学から工科大学と続いて鉱山学を修ぬ帰朝して工部省に入り、工部大学に出仕し鉱山局御用掛となりマイニング・エンヂニヤとして三弛鉱山に勤 務していたが、明治二十二年三井が三池炭坑の払下げを受けると共に彼も彼人生活におさらばを告げ、三井の技師長に天降った、実力を粥められて炭坑経営に当 り此の炭坑からザクザク富を掘出して三井財閥をしていやが上にも肥らせてしまった、彼の出世は実に此処に始るのであるが、若し三池の炭坑で役人をやってい なければ団の名前も平凡に終ったことであろうし、一方三井だって斯んなに膨脹しなかったかも知れぬと云うわけだ、
 一人一業主義をふりかざし京橋際の第一相互、あの摩天楼に怪気焔をあげる矢野恒太君は三高で医学を修得し日本生命の保険医となり共済生命の支配 人に進み明治二十八年頃斯業視察の為め欧米に遊学し、三十年帰朝したが此の時早くも相互組織保険業の設立を念願とし、これが促進の為め進んで農商務省嘱託 となり、保険業注の起草□□となり、、更に明治三十三年保□□□実施せらるるに及んで特別仕用に依って商工局保険課長に飛び上った、然し彼の終生の目的は 役人で果てるに非ず、飽く迄も非射利主義の理想的生命保険相互会社の設立にあった。だから保険局に於て斯業の研究を終えると共に大橋新太郎、池田謙三、加 藤正義、原六郎、服部金太郎、藤山雷太等の財界有力者を説きつけ、伯爵柳沢保恵を社長に立て自分は専務に納って明治三十五年、年来の希望第一生命保険会社 を創設、同時に役人稼業に別れを告げた
 彼今日の地位は損害保険界於ける各務鎌吉君の声望に匹敵すると云われる、即ち財閥資本の巨頭各務に対するに民衆企業のリーダー矢野である、彼の 場合は固より役人のなり上りではない、彼の役人生活は彼にとっては図書館生活に過ぎなかったと云えよう、矢野の場合は別としても商工省役人と保険事業の関 係は鉄道省と私鉄、逓信省と電力界のそれに優るとも劣らず大小無数の官ずるを見受けるのである

保険の巻 (2) 権力に泣いた閨づる二組 『四条君』横暴振う…の事

その中大物を拾ってみると先ず安田生命、東京火災各社長であった故男爵四条隆英君がいる、四条は明治三十七年、日電の池尾、日銀の清水君等と同期に大学を 出て農商務省に入った、商工局工場長、課畏から工務局長を経て次官の椅子を獲得、二十五年間の省内生活で老人組の間に『四条閥』を作りその陰然たる権勢は 公卿華族の御威光と共に将に四条時代を出現せしめた。彼の一睨みに会って葬非い目に遭った多くの連中からは未だに恨みを買っていると云う
 当時有名だったのでは文書課長の立石信郎君を鉱山監督局へ、商務局長松村真三郎君を水産局長へそれぞれ左遷させたり、畜産局長蔵川永充君を馘に したり、卑しくもその忌諱に触れる奴、お髭の塵を払わぬ者は片っ端から叩きつけた、東大教授の河合栄治郎君も嘗て彼の下僚だったがその遣口に憶慨して飛出 してしまったという語もあり、又
 田島勝太郎春なぞは東京市の助役をやっていたのを四条が自分で復活させて置いて福岡鉱山局に左遷したり、原田幾造君を衆議院で書記官だったのを 自分で無理矢理に引張って来て工務課長に据月えておきながらこれ又四条イズムに逆ったといってオン出したり、八千代生命に下った保険長宮内国太郎君を北海 道鉱山局の庶務課長に追いやったり、其他四条の次には次官に昇進するであろうと云われた商務局長副島千八君の如きも四条に徹頭徹尾嫌い抜かれ骨抜商務局長 にされた上に四条は辞め際に中橋商相に対し『副島を次官にしでは商工省は治まりがつかぬ』とおせっ介をした為えに副島も到頭次官を棒に振って満鉄入りをし たとか随分と暴威をふるったものである
 かように四条のために苦められた連中は数え切れぬ程あって何れも未だ恨み骨髄に徹している相だが一面またそれ丈けの事をやってのける代りに四条 は仕事も亦熱心で人材を見抜く才幹も十分持っていた、彼が上官となって暴れ廻ったのも実は下僚時代に持積した仕事上の不平不満の爆発で
 例えば曩に述べた左遷組の松村真一郎君なぞは当時四条の上に立つ農相山本達雄男の愛婿であるが山本が四条が工務局長時代作り上げた労働保険を内 務省に移管させて仕舞った遺恨の仇討だと云うし、馘にきれた蔵川はその昔四条を叱り飛した押川次官の姪婿であった事に因縁があるなど取沙汰されたものであ る
 その四条も官界二十六年目、『四条は足腰立たなくなる迄商工省に頑張る積りか』と省内雀に蔭口を叩かれるようになり『そろそろ引上げの潮時か』 と外界を物色していたが折しも昭和四年三月、結城豊太郎に飛出されて陣容建直しに人物を求めていた安田に目をつけ、故高橋是清、森広蔵の入社に次ぎ高橋の 農相時代に次官を勤めた関係でマンマと保善社理事に天降った、安田に入っても相変らずのベランメェ口調で昂然たるものがあったが商工省時代の雷名を再現す る程の事もなく専ら鉄砲と釣で満足していた様だ先程調査課長から取締役に進んだ田中直通君は臨時産業合理局事務官だったのを昭和七年四条が引抜いたが人材 である

保険の巻 (3) 膳君高給を振り捨て団体生命を設立 只『闘志の魂』の様な彼

保険業界の変り種に創立当切の目算?だか気焔丈けだったか『半年あれば一億や二億の契約は訳はない』と大見得を切ったものの一年半の今日未だヤツと三千五 百万円だとか云う団体生命の専務謄□之助君と申す名物男がいる、膳と云えぼ直ぐ全日本の産業資本の本部工業クラブを想起し、労働組号法の抹殺問題を思い出 しそしてそれから最近年俸一万二千円をサラリと捨てて念願の団体生命保険をつくり上げた資本家の闘士膳君を知るが彼が曾ては農商務省の役人だった事は忘れ られがちである
 いや勿論膳君にとってはそんなことは忘れて貰ってよい事で、彼の如き闘志旺盛な男がその昔蚕糸課長かなんかで女五人男一人の子供をかかえ月末の サラリーを貰う毎に青息吐息を吐いていたのであるが或夜六人の子供達の根顔を見乍ら『これ丈け育てるには役人じゃ無理だ』と沈思黙考して一夜を明し、辺に 財界転向の臍を決めたと云うのだから今日の彼からみれば誠に感慨深きものがある、尤も彼だって役人で頑張って居ればその同期の吉野前商工次官と同様、天晴 れ農林凍官に坐っていたかも知れぬ
 第一生命の矢野君は逓信省から石坂泰三君を引抜いたが当社にはもう一人常任監査役の伊藤万太郎君が親分と同様農商務省保険課長からの天降りだ尤 も伊藤君の保険事業に対する研究は定評ある処で、明治三十一年大学卒業と同時に農商務省に入り保険を担当し間も無く斯業調査の為のドイチに留学、我国初期 の保険界に齎す事多く帰朝して技士となり、保険事業監督に当り大正六年保険課長に就任したが、その保険通を矢野君に買われて第一生命に下り石坂君と共に矢 野君の相談対手となっている、日本共立火災の取締役中松盛雄も農商務で鉱山、山林、特許、庶務各課長に歴任し、特許局長に進み、明治三十七年スイスに開催 の国際特許局会議、同四十四年ワシントンの万国所有権会議等に列席し特許制度に関する権威として知られ在官中既に『科学所有権問題の現状』等と題する著書 等を出しているが、大正三年官を辞すると共に自分で特許事務所を開設、旁々共工火災に買われた人物だが親隣館理事に、キリスト教伝道局理事として宗教家で も有名だ(続く)

保険の巻 (4) 大小顔を並べて天降った変り種 教壇を降った二人男

キリスト教と云えば日本生命の東京探題たる東京支店監督の滝野多三郎君も京都の同志社に学んで、我国キリスト教界の父、小崎弘道師の高弟だが、同志社を出 て京郡府の土本課か何処かで小役人をやっていた身、小崎牧師の紹介で時の日本生命片岡副社長を通じ当社に入り、故社長弘世助太郎君の信任を得て今日に至る と云う変り種だ。
 尤もこれなどは小役人からの転向に過ぎないが此の会社には専務の成瀬達君が元来農商務省役人で戦時海上保険事務官や特許局事務官を経て最後に貴 族院書記官長を勤め、昭和六年辞すると共に日本生命に入った入物、官ずるではあるがその色男然たる風釆に似ず押が太く手腕があって、既に業界にも第一人者 として認められている、商工省種ではないが、今や関西財界の大御所として光る住友の小倉正恒君は住友生命の会長様だが、明治三十年大学を出た時は内務省役 人を志望し、二年許り役所の飯を喰った官歴がある
 曩に述べた通り住友と云うところは無闇に官吏上りを尊重する弊習があるが、総理事をやった鈴木馬左也君も農商務省から天降っている、事のついで に大財界を瞥見すると三井信託の副社長野守広君も農商務省で保険官をやっていたが、同郷の大先輩団琢磨氏のお目鏡で三井合名参事に転じ、信託の創立と共に 副社長の一人に納まったと云う跳躍降りだ。元来、大親分の団が役人上りだった故でもあろうか有賀長文交氏亦農商務省書記官、同参事官を勤め当時の三井同族 会に天降り漸次重用されて今日に至っている人物であるし、理事の阪井徳太郎君が確か日英博覧会理事官、外務省課長等の官歴を持っている
保険界を述べたついでで余聞だが愛国生命専務の曄道交芸君が法学博士の肩書を持ち京郡帝大の教授から大学時代の親友原邦造氏に招かれて実業界に転 向したのは東京海上の常務掘内泰吉言が神戸高商教授から転向したのと共に変り種として有名だ最後に香町会ですっかり腐った河合良成君が日生命の専務で、彼 は大学を出て農商務省に勤め、省内の俊秀として前途を嘱目された身だったが、実弟鉄二君が川崎八右衛門の愛婿たる関係で川崎財閥の顧問格、郷誠之助男の東 株理事長時代に外米課長の椅子を乗てて東株理事に天降り次で川崎財閥の保険界出に伴い、その方面の代表者として第一線に立ったもの
 彼の明敏と言うがその目から鼻へ抜ける商才は財界一般の認むる処、役人としてでも相当の所乞ノシ上ったであろうし、又川崎財閥を控えなくともかなり世に名を売ったであろうが才余って身を過ったのは彼の為めに惜い事だった

保険の巻 (5) ボロ保険を整理 保険部長が専務 昭和生命創立の経緯

中小弱体保険会社の整理に手を焼いた中島元商相は、当時その代表的なボロ会社と云われた国光生命、蓬莱生命、中央生命、東海生命、日本医師共済生命の五保 険の合併を纏め上げて、兎も角『昭和生命保険』を作り出したが、現在此の会社の取締役席に顔を並べる大塚健治君は当時中島君の命令で直接昭和生命設立の衝 に富った=当時=商工省保険部長大塚健治君の後身である、と云えば諸君もハハーンと合点されることであろう。
 筆者の記憶に依れば、当時右五生命り合併を発案した中島君は、これを大塚君に命じたが、大塚君としては些か難役だったと見えて、直接手を下さな いでその斡旋役を斯界の顔役、愛国生命の曄道文芸君に頼み込んだ。其処で曄道君は更ちに日本医師生命の社長八木逸郎君に目をつけその出馬を促したが、八本 君もさる者で、オイソレとは引受けず、ゴタゴタ停頓を重ねている中に、一方ボロ保険の方は益々弱体を暴露し、『国光』等に至っては手のつけられない程悪化 して仕舞ったので、御大島君遂に自ら乗り出し八木君と直接談判を続けた揚句、『大塚を呉れれば引受ける』と云う八木君の条件を容れて、大塚君はボロ会社整 理の犠牲みたいな形となって昭和生命に嫁入りしたわけである。
 八木社長としては大塚を握って居れば、対商工省との折衝にも押が利くだろうとの考えからなのだろうが、その後果して大塚君が重宝がられているか どうかは筆者の聞知する処に非ずだ。大塚君ばかり槍玉に挙げるようで相済まぬ次第だが名前の出たついでにもう一つ大塚君のボロ保険合併の功労談を御紹介し よう尤もこの話などは功労談と云っても誰の為めの功労かは、読者諸君の御推察に委せる他はないのであるが…。
 そもそもの源は大塚君が新潟県人であると云う処に発するのだ。即ち、紳士録に依れば、君は新潟県士族大塚専吉の長男にして明沿十八年一月を以て 生る。同四十三年東京帝国大学法科を卒業し文官高等試験に合格、農商務省属を振出しに…云々とあって累進又累進保険部長となったわけであるが、此の勉学時 代にその『俊才』を見込まれて同郷の先輩であり新潟財界の大御所…いやさ中央財界にも多少の羽振りを利かす白勢春三氏の厄介になった。
 なんでも同家の書生をして勉強したと言う話もあるが、筆者は其の辺迄は詳しくない。そんな関係だから春三氏の御曹子たる白勢量作君とも亦並々ならぬ縁がつながっている。

保険の巻 (終) お土産附火災保険の官蔓 此の世界も亦賑やか

此の白勢量作君が社長で当時営業不振で持て余ます共済火災保険の救済談が持ち上った量作君商工省へ来て大塚君に『共済の救済方法としては中野金次郎君の やっている大日本自動車火災、浜岡光哲君の経営する京都火災との三社を合併させるに如くはない』と命令だか運動だか判り兼ねる事をやって結局生れたのが 『新興火災』と云うわけだ
 功労談はこれで済んだと思ってはいけない大塚君は誕生のお祝いに新興火災へ『小口動産扱い』の認可をお土産に贈って世間をアッと驚かせた、小口 動産は大正十二年以来日本簡易、東京動産、日本動産三社の独占となって商工省も三社以外には取り扱わせないのが不文律となっていたからである。
 『第一生命』の官ずるでは矢野御大と逓信省から転じた同社の智慧袋石坂君を紹介したが、も一人当杜に見逃すべからざる人物として常任監査役であり且つ業界の元老株たる伊藤万太郎君が、実は農商務省保険課長の転身である。
 学歴をみると明治三十一年東京帝大の理学部物理学科の出身だから保険界にはチト縁遠い様に思われるが卒業と同時に農商務省に入り技師に任ぜられ 『保険事業調査』の為めドイツに留学し、帰朝して、保険事業監督事務に就き、保険課長に進み、大正十年退官して爾来第一生命の常任監査役として光っている から今や保険事業界のアクチュアリーとして第一人者たるを失わぬ。
 安田系の帝国海上火災保険社長阿部寿準君はアチコチの地方長官を長く歴任し本省の統計局長から一転して農林次官に抜擢されているが、辞めて帝国 海上に天降っている内務畑の出身であるが大学時代から『保険事業』の研究深いと聞くし又私立大学で保険の講義などもやっていた様だから敢て出駄羅目な官ず るでも無いらしい。火災保険の話が出たが『中央火災』の副社長森本邦次郎君は衆議院の書記官や会計検査官、更に又鉄道省に経理局長等を歴任した官ずるで 『保険』の他に貝島炭砿等にも関係している
 此の他に変った処では豊国火災保険の社長大谷順作君は大蔵省で税務監督局長、農商務省で製鉄所経理局長或は大阪市助役等の経歴を持っている。
 明治二十七年の早稲田大学出身で、当時帝国大学出身者が全盛を極めた官海に高文を突破して進出し大いに気を吐いたそうであるが、関西で実業家の 植村俊平氏に人物、手腕を認められ大阪市助役に推挙され、後、愈々その手腕を信頼されたが辞任後当時島徳蔵氏の経営する豊国火災専務に聘せられ経営を一任 されたわけで、豊国火災の他に大福海上火災や大阪株式取引所にも関係があったようだ。
 先程話の出た植村俊平君に就ては『私鉄の巻』で一寸紹介して置いたがこれも鉄道院の理事やら局長を永年勤めた人で京王電車の相談役をやっているがその他に大正生命保険や千代田信託にも取締役を勤めているから此処にも多少関係がない訳でもなかろう。

東株の巻 (1) 官蔓の圧巻 商工・東株の因縁 開設当時から早くも芽生え

朝の九時か十時頃ご登庁になって盲判を押し午後の四時ともなれば潮の引くようにサッと切り上げさあゴルブだ麻雀だと高等遊戯に耽り―皆々そうでもあるまい が―十何年か勤め上げれば恩給がつく。そして退職後は民間会社に天降って高禄を食む風習は一体いつ頃から始まったか…記者は寡聞にしてその間の消息を審か にしないが
 最近新官僚主義とか運動とかが唱道されてからこの傾向は特に顕著になったようだ、一時金を頂戴した上恩給まで支給され、そして民間会社の重役に 収まる結構な身分は明治、大正、昭和を通じて官吏だけに許されたる特権である。民間会社に天降り得る官吏は『潰しが利く』という。最近世は非常時となの統 制経済の領域が益々拡大強化されて、半官半民式の会社が愈々多きを加えようとしている。かかる折柄官吏に余り潰しが利かれては、下積みの青白きサラリーマ ンはさらぬだに狭められている登竜門をいよいよ塞がれ一生うだつが上らなくなって了う。明倫会あたりに言わせると監督官庁の役人がその監督下にある民間会 社に天降るのは一団の綱紀問題だとあるが、筆者はこの風習はより深刻なる社会問題であり生活問題であると思うのである。
 潰しの利く役所には既に紹介済みの鉄道、逓信、農林、商工等があるが、これからご披露に及ばんとする商工省古手官吏と東株取引所の関係などはそ の尤なるむのであろう。何しろ上場株の総額は百億円を超え、売った買ったの手振り一つで何千万円というベラ棒な財産が増えたり減ったり…:延いては我が財 界の肝を潰したり懐中を膨らませたりする、現代経済機構における最も微妙なる重要機関だ。この東株に一度は理事長様として支配力を振って見たいのは豈それ お役人のみならんやである。一体東株と官ずるとはいつの頃から繋がりをもつに至ったか、もの好きにも『東株五十年史』を繙いて見ると、明治十一年資本金二 十万円を以て初めて取引所が開設され『頭取』とか『肝煎』とかの名称で釆配を振っていた頃から疾くも官ずるの芽生えはあったようである。中にも五代目頭取 河野敏鎌は枢密顧問官かち天降り、また八代目理事長には農商務大臣金子堅太郎閣下が舞い降りたなどはまさに東株官ずる中の白眉であり盛観と言わずばなるま い
 併し一般に東株と官ずるとの近代的因縁は在職十三年に亘り大理事長と謳われた郷誠之助男の後を承け十代目理事長として理事長代理から昇進した岡 崎国臣君を以て始まるようである。尤も郷理事長時代には若き支配人兼理事としてその俊才を買われた河合良成君がいた。河合君については『保険の巻』でも一 寸述べたが、河合君は保険よりも寧ろ取引所の方が権威である。
 東京帝大を明治四十四年に出たが学生時代から取引所論を研究し、卒業成績は百二十五入中の四番だというからまあ秀才の組みと言ってよい。大学を 出て直ちに農商務省に入りトントン拍子に外米課長となった。大正六、七年頃の物価暴騰時代で、全国に米騒動が勃発した当時、鉄腕農相の称があった仲小略廉 君の下に外米課長として縦横の手腕を振ったというから相当なものである。例の山憲が彼の下に技師を勤めでいたということも話題の一つである。何しろ未だ河 合君が三十二、三歳頃の話で、彼が才士だとか策士だとか軽薄だとか蔭口をきかれるのも彼の俊敏なる頭脳と手腕の然らしめるものだといわれるのも宜なる哉 だ。
 かかる繁忙な際にも彼は念願の取引所研究を忘れなかったので、時の理事長郷男に引抜かれで年歯僅か三十四歳の弱冠を以て大東株の支配人に納まっ たものだ。その頃彼は東京帝大で『取引所論』を講義していたことでも窺われるように取引所の理論には一見識を有していたが、また実務についても才碗を発揮 し取引所を牛耳ること五年余り大正十三年末郷理事長に殉じて東株を去った。(続く)

東株の巻 (終) 過ぎたるは及ばず 岡崎・梶原君失敗 『坂君』天降りの経緯

郷男の後を承けて東株理事長の椅士についた岡崎国臣君は郷理事長時代の大正六年十二月前衆議院書記官長の厳めしい肩書を以て理事に引張られたもの、岡崎君 は郷里松江に於ける憲政会の重鎮岡崎連平氏の養子で相等恵まれた生活環境に育った。衆議院書記官長の前に農商務省文書課長を勤めた官僚育ちではあるが、資 性温厚にして肌ざわりもよくその風●が何となく線を太く見せる政治家肌の人物だ。
 この岡崎君の下に理事長代理として東株の参謀役をつとめた長満欽司君も農商務省農務局長の椅子から天降った人
 何でも岡崎君が農商務省で社会課長をやっていた頃、学校を出た許りで右も左もわからぬ長満君がその下役人としで大いに引廻された因縁から理事に 抜擢されたんだそうな、明治三十九年東京帝大法科の出身、同期生には当時の商工次官田島勝太郎君同じく内閣書記官長の鈴木富士弥君また今度外務大臣になり 損ねた吉田茂君等の面々が居ったことも彼の東株入りに何がしかの力になったのかも知れない。
農商務省では臨時産業調査局事務官、農務局監理課長、食料課長、農務局長を歴任したが、取引所制度の研究に興味をもち、この道にかけては自ら一方の権威者を以て圧じ日本大学あたりで未だに取引所論を講義している位だ。
 取引所に入る時は『長く満ち欣を司る』てな訳で縁起を担がれ、ご本人も『現在の仕事は自分の求めたものではなく天の与えたものだから天職として 精進する』などといい気持になっていたのだが、どう言うものかいざ臨んで見ると堅苦しいとか無為無能だとか余り有難くない批判を受けた。その癖『鵬堂』と 号して尺八をよくし碁は日本棋院の二段、その他信抜流の剣法等々余技や趣味は相当なものでなかなか隅におけなかった。岡崎、長満のコンビはかくの如く官ず るで結ばれたものであるが、両君はその実少しも官僚らしくなく寧ろ取引員との交際に至っては実に円満そのものであった。併し在職中に関東大震災、金融恐慌 更に金解禁後の深刻なる不景気等々相次ぐ財界の異変に取引所も波瀾重畳の歴史を繰返し加うるに取引員に対する両君の温情主義も手伝って遂にあの『東株穴問 題』が持上り両君は責を引いて退くの止むなき仕儀に至ったのである。
 岡崎内閣は何しろ東株に大穴をあけての引責辞職なのでその後任理事長の銓衡が大問題であったが、あれやこれやと詮議の結果、岡崎君は同じ五反田 の町内で而も自邸の向いに住む元勧銀総裁□原仲治君が恰度浪人しているのに気がついて推薦した棚ボタ式の好運を引当てたのが梶原君、その下で理事長代理に 納まった立石信郎君は農商務書記官を振出に東京鉱山局長、製鉄所理事、貿易局長、東京市電気局長の官公歴を有している、それに細君は佐佐木勇之助氏の二女 で官ずるのみならず閨ずるも相当なものでこの辺の関係から縁もゆかりもない立石君が東株入りをしたんだろうなんて言うものもある。岡崎、長満君は取引員と の交際が余り円満過ぎたことが禍して退却したというので、梶原、立石両君は前者の轍を履むまいとしてか、梶原君のあの円満主義にも似ずとかく取引員を敬遠 した、これは主として立石君の官僚主義が斯くさせたとの評もあるがとにかく馬鹿を見たのは梶原君であの福徳居士が所謂『街』全体からボイコットを喰い、遂 に立石君と心中をし形で任期満了と共に勇退した。
 お次は現理事長の杉野嘉精君の下に第一理事―第一とは一番偉いという意昧か単なる符牒かわからんが東株重役室の前にはそう書いてある―を勤める坂薫君。
 大正八年大学を出て商工省に入り、東株穴問題の起った当時商務局取引課長をしていたのが東株入りの縁となったもの、あとで官房統計課長となり自動車工業か何かの研究に欧米漫遊中、『東株理事になって呉れ』という飛電に接して実はその諾否に躊躇したものだ。
というのは郷男から理事推薦を頼まれた吉野商工次官は、坂君ならば東株整理問題の際に相当政治的融通性を発揮し兜町の気受けもいいことを知りてい た、ただ坂君は未だ恩給年限には達せず、また目の前にブラ下っている勅任二等を棒に振って迄退官するのは惜しいという未練もあったのだが、遂に同君に白羽 の矢が立ったのである人の財布を彼これ忖度するのは紳士の道に反するが、坂君は官民の転向によってその年収は少くも十倍に跳ね上ったので昔の同僚から羨望 の的になっているとか。
 その他現監査役の勝部兵助君も元商工省統計課長たりしは世人の記憶に新たなるところ、尚お大阪株式取引所の理事長副島千八君も元商工省商務局長 の肩書を有する人だ、数え上げれば外にも幾多あるが、煩に堪えないから取引所関係はこの辺で打切るが、典型的町人気質の市場において斯くも官ずるを有難が るのは抑も算盤づくか人物経済の意味か記者には解らない。

鉄鋼界の巻 (1) 商工官吏払下所日本製鉄会社 中井会長以下天降り重役十氏

元来商工省と云う所は去る大正十四年に農商務省から分離して出来たまだ比較新店の方だから、今日までに売り出された役人の古手の数も少かろうし、これを売 りつけるお得意先も亦少かろうとは一応考えられるところだが、凡そ遅れているものは駆け出す習いにもれず近年に於ける商工省官吏の『お払い』ぶりは素晴し い勢だ。其最も代表的なものは日本製鉄会社と云う官吏払下場の設定とこれに対する大量払下げである。
 由来産業界には、『大量生産』という言葉があるが商工省が如何に産業省だからと云ってその官制には実業家を大量生産することにはなっていない、 ―などと云って見たところで商工省は日本製鉄会社の創立と共に多くの官吏を実業家に仕立てて、わが製鉄業界へ送り出したのだから喧嘩になりはしない、その 数は驚くなかれ、二千八百余名に及んでいる。元製鉄所長官の中井動作君が日鉄の取締役会長兼社長になったのを筆頭として、以下重役から職員に至るまで日鉄 構成分子の大部分が一度に商工省から日鉄へ肩替りされたのである。若しそれ職工や鉱夫までを加算すると商工省から日鉄へ売り込まれた人員数は無慮二万六千 百名に達するであろう。勿論日本製鉄会社は商工省の製鉄所のみから成り立ったものではなくこれに民間からも九州製鋼、輪西製鉄、釜石製鉄、兼二浦製鉄、冨 士製鋼及び東群製鉄等が参加合同して出来上ったものだからこれ等の会社からも職員四百九名、職工約三千八百五十名を入れている。然しその数は商工省の大量 売込みに止すれば較べものにならない。
 今商工省から日鉄へ売込まれた重役及び重役候補級の主なる人物を列挙すると次の如くである。

中井励作君=商工省製鉄所長官から日鉄取締役会長兼社長に
野田鶴雄君=同技監から日鉄常務取締役に
渡辺義介君=製鉄所総務部長から日鉄取締役に
景山斎君=製鉄所鋼材部長から日鉄取締役に
黒田泰造君=製鉄所化工部長から日鉄取締役に
長崎英十郎君=商工省臨時産業合理局第二部長から日鉄経理部長に
北村保太郎君=製鉄所販売部長から日鉄販売部長に
橋本芳雄君=東京鉱山監督局長から日鉄総務部長に
山県●介君=製鉄所工務部長から日鉄監理部長に、
井村竹市君=製鉄所技術部長から日鉄技術部長に

これだけが日鉄創立当時に商工省から乗り込んだ面々であるが、由来八幡市所在の製鉄所は商工省所管ではあったが一面国有財産である関係上大蔵省所 管に属しているこれが為め製鉄所が日鉄となった今目その評価額二億八千四百余万円は五百六十八万三千九百株の日鉄株に早変りして大蔵大臣の所有に属してい る、右蔵相の所有する株式は日鉄総株数七百十九万六千四百二十株に対して約八割に該当する、即ち蔵相は日鉄に対して絶対多数の大株主である。
 この蔵相が大株主と云うことは日鉄財産の大部分が国庫のものであり国民全体のものであることを意味する。こうした関係にある以上どうしてその管 理者たる大蔵省か自分の方の代表者を重役として送り込まずに置くであろうか、現に時の高橋蔵相、黒田英雄次官のさしがねに依って大蔵省から日鉄入りをした のが、時の造幣局長であった保倉熊三郎君と営繕管財局総務部長であった太田嘉太郎君で保倉君は日鉄常務に、太田君は日鉄常任監査役に納まったのである。
 斯くて日鉄の重役陣を見るに商工、大蔵両省のお役人であった人々が何れも現業重役として実際の運営に当り、その他に陸軍を代表して吉田豊彦、海 車を代表して荒城二郎の両大将が取締役として顔を列ねている外は何れも三井、三菱、その他合同参加会社の代表者に過ぎない。これは日本製鉄会社創立の経緯 たる当時のわが製鉄国策から見てむしろ当然と云うべきであろう。(つづく)

鉄鋼界の巻 (終) 何れを見ても商工省育ち 流石は八幡製鉄の威力

商工省は日本製鉄の創立に依って斯くも大量に然も一度にお役人を払下げたのだが、尚これだけに慊らずして昨年夏には、またも前鉱山局長福田康雄君を日鉄に引き入れて嘱託とし更にその年の暮の株主総会で福田君を常任監査役に引直した
 福田君は鉱山局長退任以来久しく遊んでいたもので、これを日鉄に引入れに就いては中井社長の人情味が偲ばれるが然し考えて見れば福田君は日鉄創 立当時の鉱山局長である、詳しいことは説明しなくともこれを引張った中井社長も苦しかろうし、入って来た福田君も決して気持ちが楽であろう筈がない、然も だ、今日日鉄入内定を伝えられる人に前特許局長官の中松真郷君があるそれから現次官吉野信次君も結局のところ日鉄入りをするのではないかと見当づけている 者さえあるこうなれば日鉄は完全に商工省の姨捨山になる訳だ
 更に創立以来欠員のままになっている専任取締役会長にしても元々日鉄創立当時の関係からして時の商相中島久方万吉男が同男と因縁浅からざる郷誠 之助男の就任を見るであろうと噂されたものである、然しこの両男は時の推移と共に表面に立てなくなって終っているがそれでもまだ日鉄関係者の一部には折だ にあらば郷男を舁き込んで取締役会長に据え度いとあって潜在運動は絶えず行われているようだ、但し郷男はお役人育ちでないから天降りの非難を受けずに済む わけではある…
 その後今日までに取締役会長として噂に上った
人々を見渡せば松本健次郎、吉田豊彦大将、田中隆三等の諸氏がいる、然かもこの内吉田大将も田中隆三氏もどちらかと云えばお役人の古手であること には誰しも異存はあるまい、それから現重役の面面だが彼等は何れも二、三期重役を勤め上げた暁にはタンマリ退職金を頂戴して後退し、それに代ってそれぞれ 前任者の役所から新人物を迎えるとこる正に文字通りの蔓を形造っているといってよい尤も大蔵省の如きは何と云っても国民に代ってその所有株式の監督的地位 に立っている役所であるだけに、その監督の必要からしても絶えず代表者を枢要の椅子につけて置かねばなるまいが、とにかく商工、大蔵両省にとって日鉄は一 つの世襲財産的人物払下場所で□るんである
 然し翻って考えて見ると商工省は日本製鉄のみを以て役人の払下場所と考える必要はない現に今日世間から日本製鉄とは犬猿もただならぬ間柄のよう に思われている日本鋼管にしても商工省育ちの今泉嘉一郎博士が天降って技術方面を専ら牛耳っている今泉博士は犬島博士の後を襲って八幡製鉄所初代の技監に なった人で、今日わが鉄鋼界を見渡しても恐らく今泉博士の右に出づる先輩はない筈であるが、この八幡育ちの今泉博士が日本鋼管に頑張っている限り日本鋼管 も亦お役人の威力に依って動いていると見るべきであろう
 それから鉄鋼界に硬骨漢ありとして知られている浅野小倉製鋼所の専務末兼要君も亦八幡育ちの技術屋であるが、わが製鉄業は政府の力に依ってその 発達の端緒を拓かれただけに現在民間会社として日鉄に対立している各主要製鉄鉄会社を動かしている人物の誰もが斯く商工省育ちであるに至っては商工省たる もの少しは気をよくしてもよかろう、此趨勢は恐らく今後の幾十年間も続いて止まぬであろうから…(この項終り)

農村団体の巻 (1) 産業組合関係が唯一の捌け口 他省を羨やむ農林省

 大蔵省、商工省その他の役人が、グングン天降って実業界の重鎮になりすます光景を見て、内心羨望に堪えないのが農林省の役人であろう農商務省が分離して 農林、商工の両省となって以来と云うもの、農林省の役人の捌け場がない、躍進日本の産業を統べている関係から商工省の役人は各種会社と最も密接なる接触を 保っているだけに、其処に天降り的因縁が結ばれるのに反して、農林省の方にはそうした捌け口がない、窮乏農村は幾らあっても役人の古手を容るるべき容れ物 はないのである、マサか次官や局長が大地主の番頭になる訳にも行かず、去りとて自ら農業を経営しようとする篤志家的の役人もいない、お上から救済されねば 立行かぬ人々を相手の農林省と云う処天降りには都合の悪い役所ではある
 然るに茲に一つだけ天降りの途が拓けた、と云うのは産業組台の躍進である
 品川弥二郎、平田東助等によって創始された我国産業組合も明治、大正時代にかけては其の勢力極めて微々たるものであったが、昭和に入り、殊に近 年農村救済の声が膨湃として起るに及んで、政府は産業組合を活動せしめ、之によって農村救済乃至振興の実をあげようと図ったそして其の政策具現の為めに経 済更生部なるものが、農林省内に出来上ったほどであるから、農称省と産業組合は、切っても切れない縁が結ばれたのである、現在では産業組合の中枢機関は、 農林省の別働隊であるかの如き観をすら呈している、斯くて産業組合の『国家機関化』は自ら農林省の役人の捌け口となったのである、此の結果産業組合内に官 僚的色彩を濃化せしめて一部から非難を買っている位である
 ツイ此の頃、産業組合中央会の会頭志立鉄次郎君が老躯其の任に堪えずとて、辞任を申出で、後任選挙の結果、中央金庫理事長の有馬頼寧伯が理事に 選挙された、勿論理事互選の結果会頭が約束されての理事だと称される、比較的自由の立場にあって産業組合の自治的精神発楊に努めた志立君が去って、農林省 と因縁深い有馬伯が会頭となるばかりでなく、監事の後任に農務局長戸田保忠君が現職のまま推されている、現職の農務局長が中央会の監事となったのは之を以 て嚆矢とするが、かくて産組の官僚化に拍車が掛けられたことは何としても見逃してはならぬ事実である
 といって何も有馬伯が会頭となり、戸田局長が監事となったからとて、遽に産組の官僚化が叫ばれる訳ではない、産組を牛耳る人々の中に、天降りが 既に相当居って、農林省官吏の捨場の如く云われている矢先であったからである、即ち中央金庫の有馬伯、全購連の蔵川永充君、全販連の有働良夫君その他大勢 の役人上りが、産組の中央機関の要職に坐っているのだから外部からは産組官僚化の非難が浴びせられると同時に何時までも下積となっている生え抜きの産組人 の不平の種となっているのである
 有馬伯は、日比谷原頭で社会奉仕の為めに草むしりをした程の華冒界の新人で特色ある平民的人物、水天官の殿様で通ってい□るが、大学を出てから 農林省役人を勤め、洋行もし、政友会の代議士ともなり、後藤文夫大臣の時には農林省の政務次官をやった人である、伯の中金入りを天降りと申してよいか何う かは別としても伯が中金理事長の職にあることは、産組陣営の強味であると何時に、農林省の別働隊的色彩を濃厚ならしむるに十分である
 但し、中央金庫なるものは設立当初から、理事長は農林省から、副理事長は大蔵省から迎えることになっている、監督の立場から両省仲よく正副の理 事長を出す慣例になって居り、初代理事長たる岡本英太郎君は農商務次官から理事長の席に納まったのが先例となって現在とても農林省畑の有馬理事長に配する に、副理事長に松岡由之助君を大阪税務監督局長から天降りさせている(つづく)

農村団体の巻 (2) 官蔓の巣窟産業組合中央金庫 落莫の農村と駘蕩の中金

 産業組合中央金庫ビルの建築費がいくら掛ったかは聞き漏らしたが、荘麗を極めたその建物はおよそ窮乏農村の姿とは似ても似つかぬものである、否そればか りでなく其の中に納まっている役員の報酬と来ては之れ又窮乏農村に更に似合わしからぬ高緑である、試みに幹部どころだけを見ても理事長の報酬が年二万円 で、副理事長は一万五千円、平理事でさえ一万二千円である。それから中央金庫の出資金だが三千七十万円の内半額一千五百万円は政府の出資であるとしても、 あとの半額は窮乏農村から捲き集めた零細な資金である、そして此の立派なビルと役員に対する高報酬、これだけでも反産運動者によき攻撃材料を与えている が、それはさて置き農林政務次官からの有馬理事長、大阪税務監督局長からの松岡副理事長を筆頭にその他の理事の面々を見ても、藤沢進君は大蔵省税務監督局 から嫁入りしたもの、南正樹君は永く農林省の水産局に勤めていて大阪営林局長に栄転し、其処から中金入りしたもの、高橋武美君は東京営林局長から畜産局長 を拾い更に中金の理事欠員に乗じて其の後釜に据わり、転じて理事となったもの平田慶吉君は農林省東京営林局長をやめて京都商業会議所の書記長と畑違いの方 面に走り、更に帝国農会幹事長と農村畑へ逆戻りし中金の理事となったもので最近弁護士を開業したと云う変り種である又倉富釣君は朝鮮銀行秘書課長から中金 入りしたものだが、身分をただせば前々枢府議長倉富勇三郎氏の御曹子で所謂七光りの口である
 斯く観じ来る時、理事にして生え抜きの産業組合人は志立鉄次郎君と山本謙治君があるばかりである、志立君は自治的協同運動指導者の古参で、産組 の発展には相当功労あった人であるが、最近産組の全国的指導機関たる産業組合中央会頭を辞した辞したのは産組官僚化傾向が顕著となるので嫌気さしたからだ とも云われている、山本謙治君は静岡県信連の会長で生つ粋の組合人であるが周囲が官吏の古手である為めであろうか、何うやら近来官僚臭に染って来たのが遺 憾だと世評に上っている、次に評議員には地方県連会長の顔が相当見えるが、現職官吏の顔も見える
 中央金庫を動かす人々の内如何に天降りが多数を占めているかはザット前記の如くであるが
 此の高禄を食む人々が任期満了してやめるとなると莫大の退職慰労金を貰える、既に過夫に於てやめた某理事長は六万円、某理事は七万円、某理事は 四万五千円、某理事は三万五千円の退職手当を受けているそうだ、一方に恩給をけんたいに取っていて、しかも在職中は好報酬を貪り、更に退職すると莫大の慰 労金が貰えるのだからこんなぼろい話はない、行詰りの官吏が此のよき漁区を狙っているのも道理である
 といって、筆者は必ずしも報酬の高きことや退職慰労金の多きを非難せんとするものではない、働きがあり又功労があったならば高禄も亦莫大の懸労 金も又何をか咎めめんやだが一方に食うや食わずの貧農がウヨウヨして居り、金融難で二進も三進も動けない組合が多数ある今日、之等に対して資金を供給し更 生の途を授けず、見殺しにせんとするのを見れば豈是れ不服なかるべけんやである、全国農村の負債は六十億円、此の悉くが産業組合員たる農民の負債ではない が、産業組合員たる農民の負債も亦相当額に達している筈である、又全国には金融難に陥って開店休業の状態にある産業組合が相当多数に達している筈である
 少も農村更生の実を挙げんとするには之等窮迫農民と窮迫組合とを泥沼から引上げる工夫をすることが刻下の喫緊事でなくてはならない
 医療代が取れる見込みがないからとて患者を見殺しにすると云う法はあるまい之れが普通の営利を目的とする銀行ならは回収の見込が立たねば資金の 融通を拒否することに不思議はなかろうが、中央金庫は営利を目的とする機関ではない筈だ、それも貸すべき資金がないならば兎も角、遊資の処分に困って、証 券でも買って中金本来の使命と異った方向に走るものとして憤然猛省を促がし度い処である
又官ずるが斯くはびこる反面に中堅雇が行詰り、内部の人気を恐ろしく腐らせているのを目撃するに就けても亦反省を捉さねばならぬ(つづく)

農村団体の巻 (3) 産組中央会『全販連』と『全購連』 天降り中金に比し臭味割合少

中央金庫以外の産業組合団体にも官ずるは相当はびこっている、産業組合中央会を実際に牛耳っているものは常務理事の千石興太郎君である、千石君は札幌の農 大を出て、島根県で農業関係の技師を奉職していた時、産組中央会の平田会頭並に志村副会頭にその才腕を認められて大正八、九年頃中央会に聘されたものであ る、爾後今日に及ぶまで孜々として産業組合の発達に尽した真の産業組合人と云ってよい、口も八丁手も八丁往くとして可ならざるなき手腕の持主である、それ だけ反産側から目の敵にされている訳であるが、兎に角我国産業組合の柱石で、官ずるの多い中央機関中に於いて組合人として断然光っている存在であるが此の 中央会の副会頭は月田藤三郎君である、月田君は農商務省時代の古い役人でやめた時は畜産課長か何かであったが、それまでに農村の凡ゆる部面に関係して来た ので農業団体と言えば殆ど顔を出している、しかし各団体がそれぞれの立場によって活動せねばならず、流石の月田君もそうそうは手が廻り兼ね、昨年県国農会 の副会長と、中央蚕糸会の副会長は之を辞したが、現在でも産組中央会の副会頭の外に全国産業組合製糸連合会長と組合製糸の生糸販売機関である大日本生糸販 売組合連合会長の椅子はそのままである
 全国購買組合連合会には蔵川永充君がいる、蔵川君は畜産局長をやめて浪人していたが、町田忠治大臣の時に、全構連の理事として産組入をしたもの で現在は全購連の専務理事で肥科部長の職に在り、名実ともに第一線に立って肥料の取扱高増進に躍起となっている、お蔭で肥科の取扱数量は非常に急速度に増 加したが、今年は不幸にして硫安の値下り損で問題を起し、目下その善後措置に奔走している、これが為め世間からは全購連の組織運用に再検討を要するなど攻 撃されているが、茲ではその批評は遠慮しておこう
 それから全国販売組合連合会には有働良夫君がいる、有働君は、耕地課長をやっていたが後進の為めに途を拓いて辞任し、全販連の会長に納まったも のである、農村救済の為めには農産物の販売統制を行って農家の収入を増加せしめねばならない、と云うので、産業組合も政府も全販連の事業進展に力を注いだ 時であったから、有働君を入れて人心を一新すると同時に、農林省との連絡協調を旨く取らせようと云うのが政府の方針であった
 爾今全販連も産業組合拡充の波に乗って、米麦の取扱高が増加し、事業は順調に進んで来ている、米穀自治管理案では、佐藤寛次博士等と共に各地を 行脚してその必要を説き廻り今度こそは無事通過させようと躍起となっている。又同君は此の外に大日本柑橘販売組合連合会(通商日柑橘)の会長も兼務してい るし、農産物販売協会、大日本米穀協会等にも関係を持っている
 全販連には秋田営林局長から天降った島田春夫君が理事として据り、木炭販売に専念している、総務部長の井関善一君は農林省の産業組合課から全販 入したものである、ツイ先般は農林省の統計課長本多佐七君が、全販入をし忙、嘱託と云う名義ではあるが将来の理事を約束されにもので、農産物販売協会の常 務理事をも兼務している
 以上の如く産業組合の中央機関を瞥見すると天降りの最も多いのが、中央金庫である、之は鼻持ちならないが、比較的官臭を帯びていないのが全購連 である、全購連の最高幹部級では前記の如く蔵川君一人が役人であったばかりで、他は組合人で固めている、専務理事の岡佳吉君は香川県連の会長で、同じく神 戸八郎君は長野県連の会長、他の平理事も概ね府県連合会の会長或は副会長であり、中金の如く官ずるでグルグル巻かれては居らない

農村団体の巻 (4) 俸給少なき処に官づる蔓らず 但し、蚕糸界は二三…

 畑が良くなると蔓ははびこるものである、が、産業組合以外の農村団体は、地味痩衰えている為めに官蔓のはびこる余地がない、例えば帝国農会の幹事長にし ても年俸三千五百円之では局長級の天降って来る余地がないのであるが、之れ帝農には役人の古手と云うものがいない所以ではある
 しかし蚕糸方面には若干いる、曩に一寸登場した岡本英太郎君は仲小路大臣の時農商務次官で米騒動の折など随分苦い経験を嘗めさせられたものであ るが、中金が設立されるや、其誕生に骨折ったという廉もあって中金の初代理事長の椅子に坐ったものである、任期満了で八条隆正子に席を護り、其の後は帝国 農会や中央蚕糸会などの詳議員に顔を並べ、養鶏組合中央会の会頭、茶業組合中央会の会頭など農業団体に関係していたが、昨年月田藤三郎君の後を受けて中央 蚕糸会の副会長に選任された、その後コツコツ蚕糸業発達に就て研究し、先ず捏ね上げたのが糸価安定委員会の設置である、元来複雑微妙を極めた業界の状態で あり、それが繭糸価の動揺によってアーでもない、コーでもないと噺し立てるのだから随分五月蠅い処、それを何う切り盛りするかに興味が惹かれると云うもの である
 岡本君の外に蚕糸関係として入江魁君がいる、入江君は現在帝国蚕糸会社の専務取締役であるが、生糸が大暴落して蚕糸恐慌を起した当時の蚕糸局長である
 官民ともに糸価維持に奔命し、莫大な滞貨生糸を出かし、其の処分方法として旭シルクを通じてヂャリーに一部分売約したが受渡の円滑を欠いて問題 を起し、結局政府で買上ると云うような深みにまでわまり込んだ、その政府買上生糸は今でも横浜神戸の倉庫に積まれているが、之等の問題から入江君は大阪営 淋局長に左遷された
入江君にして見れば、誠心誠意我が蚕糸業の為めよかれと思ってやったことであり、大臣や次官とも相談づくの措置であったのに、左遷とは怪しから比 と辞表を叩きつけて官界を辞し、故牧野子、藤村男等の斡旋で実業界に転向したのが、即ちこの今井五介君が社長をやっている帝国蚕糸会社である
 帝国蚕糸会社は、生糸の新規利用の途を開拓し国内需給の調節を行う使命を以て生れた会社で、その為めには政府の滞貨生糸を利用しているのだか ら、入江君は自分で拵えた滞貨生糸を自分で処分すると云う運命の下に置かれたようなものである、されば普通の天降り観念である老朽役人を銀行、会社へ押し つけるのとは入江君の場合に限って聊かその経路を異にしている
 将来片倉製糸や郡是製糸が益々大を為して生糸国策の立場から官庁との接触が多くなるようになれば、之等の会社にも官ずるが出来るかも知れないが、今の処では、前記の外には前蚕業試験場長であった加賀山辰四郎君が帝国蚕糸倉庫会社の社長となている位のものである
 水産方面にも大してはびこっていない、水産課長、会計課長、特許局長を歴任し
た鈴木英雄君が日産系の日本漁業会社の取締役になり、水産局監督課技師であった越田徳兵衛君が太平洋漁業会社の常務となっている位のもので、日魯 漁業等はまだ天降りの途を開拓して居らないのはむしろ不思議な位である、しかし北洋漁業に対しても統制が強化される時代に至らば、役所と団体との連携か ら、更に官吏の天降りを見ないとも限らない
 農村振興の為めに政府はその各種事業に亘って補助を行っている、従って其の事業の目的を達せしむる為めに、人件費の補助も行って指導に努めてい る、之等の関係で天降りが次第に多からんとする実情にあるが、実に在ると野にあるとでは勝手が違って働けないものも出来るし、机上論ばかりでは目的の達成 が出来ず、事業の進展を停滞せしめると云うこともある、之は農林関係ばかりのことではないが民間の銀行、会社、団体が、懇望して政府から貰い受けた人物な らば、イザ知らず既に天井打となって官界では持って行き場所のない老所役人を、民間が希望せぬのに押しつけるのはよくないことだ、中央でお手本を示す為め でもあるまいが、地方には此の弊が中央以上甚しいと云うに至っては誠に顰蹙に堪えない次第である(この頂終り)

水産の巻 水物稼業にや些か不向き 官蔓敬遠の漁師気質

前回で水産関係には官吏の天降りが少いのが不思議だと書いたら、『カムチャッカ王』亡として自他共に評るす日魯漁業の専む真藤真太郎君が『北洋漁業の国家 統制とかなんとか出放題な事を云うがお役人に日魯の仕事が出来ると思うなら一度やちしてみるがよい、それこそロシヤの国営以上に失敗ものサ』と例の調子で うそぶいた。
 成程これは御尤もなお説で『水産事業』などと云うからいやにかしこまって聞えるが、くだけて云えば『板子一枚下は地獄』の水産稼業、『六尺』一 つの素裸を天に委せていちかばちかを賭ける荒仕事が凡そお役人の杓子定規で間に合うわけのものではないのである。斯んな事は判り切った話だから、当業者の 方でも『天降り』ななるべく敬遠している…いや敬遠どころで無い、一昨年末、母胎式蟹水産―つまり『蟹工船』だが、此の組合で自分の処の組長様の岩倉道真 男に『追放』の珍決議をやったのは御存知の方もあろう。岩倉男は貴族院の『水産通』とあって、組合長の他に日本合同工船の顧問もやっていたのであるが、貴 族院に提案された問題の『北洋漁業取締法案』に真先に賛成した為め当業者の風上に置けぬ奴だと恐ろしく恨まれて追い出された訳である。つまりあまりにも 『通』過ぎたか、でなければ『水産事業』の何物なるかを未だ充分会得していなかったか、どちらかであろう。
 以来日産系の合同工船にしろ、共同漁業にしろ『天降り』はこりんこりんだとあって、先ず長年共同漁業社長を勤めた元水産局長松崎寿三君にも永の 暇を呉れたが最近それ等の傍系、姉妹の大小二、三十を数える迄に拡大した諸水産事業を見渡しても殆ど天降りは受入れていないと言う始末である。
 太平洋漁業常務の越田徳次郎君が元来『沖取』の権威で、一昨年末日魯の沖取漁業買収に、農林当局として力を致しその功を以てだか、権柄づくでだ かよく知らぬが、統制成って現『太平洋漁業』成立すると同時に常務に納まって、その昔は『技師』として殆ど北洋の現場で暮した身であり乍ら、『研究、調 査』と実際の『商売』では大分行き方が違うとみえて今日では専ら東京在住でお役所筋との連絡係りであると云う。此の会社には、も一人対露関係の重要性から 予備海軍少将毛内閣下が顧問として大いに活躍してたが、つい二、三日前に逝去したとのことだ。最近の様に現場での日露漁民の紛争が頻発すると、どうしても 軍艦の力を借りなければ出漁がむづかしい当社にとって、斯んな方面にも仲々頭を悩ましているのは無理もないことだ。
 此の辺は蟹工船も同様であろう。尤も対露関係と云う重要性から行くと日魯漁業の前社長故川上俊彦君は珍しくも『霞ヶ関』の出身だ。その昔、モス コー駐在総領事やポーランド公使、満鉄理事等に歴任し濫たロシヤ通だったことは申す迄も無い。殊にヨツフェとの大連会議で名声を馳せ、爾来対露関係の重鎮 として各の方面引張凧になったが、かの有名な宇田事件で堤清六君転落の後を承け社長に納まり、北洋漁業の合同で窪田現社長に城明け渡す迄却々外交官上りと 思えぬ腕を揮っていた。その後北樺鉱業の社長をやっていたと思う。
 官ずると申してはチト変だが、今や『政変』ある毎に『拓相『外相』の下馬評に引出されて苦笑する樺山資英男は現に露渡領水産組合の組長だ。略歴 をみると拓務、内閣総理、文部各大臣秘書官や、山本内閣の書記官長をやって居り、大正十二年に『勅選』になり現職は昭和五年からだが、人物のスケールが大 きい上に北洋漁業問題等ではどうしてどうして只の天降りでは無い様だ。五、六年の間に仲々大仕事をやってのけている辺り、同じ貴族院議員でも先刻の岩倉組 長とは大分趣が違う。してみると如何に『水物稼業』でも矢張り人物如何でどうにでもなると云うものかも知れない。(此項終り)

燃料界の巻 (1) 国策の遂行に天降る海軍将官 約束済の北樺社長席

北洋漁業では官ずるも散々な目であったが、同じ『北の生命線』でも一寸『北樺太』の陸へ上ってみると、官ずるたるもの満更ビクつくこともないのである。と 云うのは御同様此処には対露事業では相当ウルサ型の『北樺太石油』か北緯五〇度の境界線を尻目に北通日本を象徴して頑張っている『水物稼業』と『燃料国 策』の差は海と陸との違い程に正反対たから、此の会社も日魯漁業の行き方とはまるきり逆で、社長以下主要な陣容がすっかり官ずるで固められ、而も当社の 『社長席』たるや創立以来代々海軍の将軍の将官閣下が舞い降りることにきまっていると云うのだから面日い。
 尤も燃料国策の関係は非常時日本の今日に於ては、正に親子の間柄にも等しいのであるから無理も無い話でもあろうが、特に此の北樺太石油会社なる ものにとっては、そもそもの由来が、日露両国間の基本条約に基く北樺太石油石炭利権契約に依って確保されたものであって、その国家的性質に鑑み、当時その 契約締結の全権代表として舞鶴要港司令官であった海軍中将中里重次君で出席活躍して今日の基礎を築いたことに依っても明かなのであるが、既にその以前の大 正七、八年頃久原鉱業かロシヤのスタヘフ協会のもて余していた北樺太油田を個人取引で買い込んだ頃から、同油田の重大性に海軍側で目を光らせ、久原の独占 はおこがましいとあって、海軍省後援の下に久原、大蔵、日石、宝田石油それに三井、三菱の財閥も加えて『北辰会』なるものを経営させ、油田開発に衝らしめ たと云うのであるから此の因縁は古いわけだ。
 兎も角、此の露領油田を確保した海軍測では昭和十年、つまり昨年一杯で満期となるべき十ヶ年の試掘契約期間の中に全力を尽し、掘って掘ってまく り、我が貧弱なる燃料資源の一端たらしめんと云う非常な意気込みで『採油は海軍で市価より二円高く買い上げてやるから、代りに歴代社長は海軍側から出す ぞョ』との厳達が下り、早速に全権代表として攻を立てた中里閣下が初代社長として天降った所以なのである。
 此の天降りに際し煉炭部長や製油部長等に歴任した同じく海軍少将小泉武三君も嘱託として入社したが、君は現在同社の取締役支配人をやっている し、又先般辞めたが同社の稲石正雄君も元を洗えば当時利権代表随員でモスコーに出張した機関少佐であり、燃科政策調査委員をやった人でもあるのだ。中里社 長は就任以来全責任を以て契約期間の十ヶ年間大いに試掘拡張と採油に力を注いだようだが、此の方面の経営手腕は余り芳しく無かった様だ結局海軍辺りでも失 望した模様で遂に昨秋期間満了と同時に自ら引退の余儀無き事情となり、代って二代目社長には軍務局長等で雷名を馳せた海軍中将左近司政三君が危機の北樺太 石油を背負って就任した。
 左近司君は余程自信があるとみえて試掘延長問題や採油の倍加案等で就任早々中々堂々たる積極政策を掲げ盛んに外務省辺りとも折衝しているから大 いに期待してよいのだろうと思う。主だった海軍関係はザッと斯んなものだが、一方官ずるでは抜目の無い商工省が昭和八年度から三十万円近くの試堀補助費を 出している以上、いずれ此の方のつるも相当にはびこるだろうと云われる。北樺太利権と云えば北樺太鉱業は石炭利権だ。当社も昨今では余りパッとしないが、 前回に述べた通り故川上俊彦社長が一手で仕事をしていた様だ。(つづく)

燃料界の巻 (終) 橋本長老に恃み群小官づる不要 変り種は高草朴介君

燃料界の大立者、日本石油社長の橋本圭三郎君が官づるの錚々たるものであることは曩にも述べたが、同君が今日ある所以は一つに山本達雄男の力が異っている のは相当有名な話だ橋本君は元来大蔵省畑の人間でその一名吏時代に専売制度を練り上げて蔵相山本達雄君のお眼鏡に叶い、初代専売局長官から忽ち抜擢されて 次官となり専らに山本権兵衛内閣時代山本農商務大臣の下に再び次官に招ねかれて農務省入りをしたのが今日のスタートであるわけだが、その後辞めて浪々中を 三度目に買われて坐ったのが当時越後の油田に君臨した宝田石油の社長の椅子であった
 即ち、君臨したと云うものの宝田石油の内状は社業不振に加えて重役間に猛烈な暗闘が行われ、大橋新太郎氏の乾児で東京ガス取締役をやっていた福 島甲子三君が一人でコツコツ整理中であったのを、山本達雄君から大橋君と同郷長岡出身の橋本君を紹介、地元でも、越後の出身ならと大歓迎で話はトントン拍 子に進み、橋本君は大蔵相時代の下僚永松為次郎君と同じく農務相時代の松田繁君の二人を伴って晴れの実業界入りをしたのである
 其処で永松君は会社の地質課長松田君は総務部長で大いに活躍時しも大正五年の一月で折から起る欧洲大戦の好況に恵まれて貧乏会社の宝田石油がドン底から浮び上り、一躍四割配当をやると云う調子で橋本君もお蔭で手を汚すことなく整理の実を挙げたわけである
 その後大正十五年日本石油会社と合併し、社長内藤久寛氏の下に副社長に納まり遂に『大日石』の今日を築き上げたのである、とまれ橋本君の後半生 たるや実に我が石油燃料発達史の一端とも称すべく、そんじょそこらの官づる諸君と一緒にされてはたまらないのである、燃料界には橋本君のような官づるの大 物が居る故か『ヤレガソリン値上げだ』『ヤレ貯油義務だ』と商工省関係の折衝がウルサイにも拘らず、此方面の官づるが実に寥々としているのは橋本君一人で 結構だと云う意味か?
 小倉石油の取締役営業部長の高草朴介君も官づるだが、此の仁は鉄道省購買課長の出身だと云うから変っている、ガソリン値上げ問題などでは却々闘 士だと云うから、人と云うものは郷に入れば入ったなりにどうでも変るものだと云うことが判るが同君はこれで仲々商才があるし、一面石油の輸送関係等で鉄道 省方面との連絡がついているなんて云う向もあるから成程と肯かれる、入社したのが昭和九年で、なんでも時の鉄相三土君だったかの紹介で天降ったものだそう だ
 一寸畠が違うかも知れぬが先般満洲四平街に創立されると云うので騒がれた日本油化工業は元大蔵次官田昌君の計画するところ同君が民政党を脱退し た頃、当時樺山資英、橋本圭三郎、矢野恒太の諸君等が計画して中絶していた石炭液化工業の案をその儘頂戴してコストの廉い満洲に持ち込んだものだがその実 現に付てはその後トンと噂も聞いていない、話は大分かけ離れるが、矢張り台湾で竹東油田を経営しているから、満更縁の無い訳でもないが、日本鉱業、台湾鉱 業の社長で男爵様の伊藤文吉君も前身は農務省の課長様だ親父博文公の七光も手伝って縁続きの久原鉱業に天降ったのが、今日日産の並大名として顔を出す所 以、農商務省時代現吉野商工次官と親交あったと云う関係で、吉野君が日産に天降ると云う噂さえ生まれているのだから『ノンキな殿様』だナンて一概には云え ない(此の項終)

拓殖の巻 (1) カーキ色に染る満洲の計画経済 名残を止める鉄道宗

『建国』以来、満洲経済建設を目指しての澎湃たる企業熱は、今や新設会社三百余を数えその公称資本総額は七億に垂なんとするの盛況であるが、これと同時 に、徒らな『利権的投資』に眼を光らせた関東軍は、その理想とする『経済楽土』建設の為めに利権屋、あいまい屋の徒輩は固より、資本家たりとも『無断出入 を絶対禁止』と広野の真中に物々しい制札をブチ込み、ナチス張りの計画経済を布告して、国営或は公営事業、許可事業、自由企業等々恐ろしくハッキリした統 制をつけて、仕舞ったので流石に往年華やかなりし満洲ゴロもその跡を絶つに至った
 その代りに政党人、経済人の出足は渋って官僚とカーキ色の軍服の独壇場となり、劉喨たる『経済開発』の進軍ラッパが鳴り響いているのも時世と時節というものであろう
 試みにその重要産業と称さるるものの指導的地位にある人物を瞥見した丈けでも満洲電信電話には社長山内静夫君が陸軍中将取締役前田直造君が逓信 局長、満洲電業公司に陸軍大将吉田豊彦君、昭和製鋼社長に海軍造兵中将伍堂卓雄君、奉天造兵廠社長に陸軍中将村瀬文雄君、満洲炭鉱理事長に陸軍大佐河本大 作君、それからマンチュリー・デーリー・ニュースという新聞関係にまで陸軍中将高柳保太郎君が控えている事何れを見ても金ピカいかめしいお歴々の顔ばかり である
こんな風で満洲の野は到る処にカーキー色の官づるがはびこっているが、これはマア建国の由来から考えて見て無理もないところだろうが、一体満洲と いう処は「満鉄」という大舞台が控えているだけに事変前の昔から天降りのハケ口とされていたもので満鉄が「伏魔殿」と呼ばれ「利権の巣」といわれたのも決 して故なきに非ずであった
 尤もそれには株式半分を大蔵省が握っている処から政変毎に総裁が更迭され莫大な機密費が政党に御用金として納められたことなどからとかく変な因 縁がからみついたものであろうが、それはとにかくとして、まず歴代総裁の戸籍調べをして見ると明治三十九年満鉄創業に後藤新平君が初代総裁として臨んで以 来十四代の今日に至る迄の歴代総裁のうち政党出身が川村竹治(八代)山本条太郎(一〇代)仙石貢(一一代)官庁出身が後藤新平(初代)中村是公(二代)野 村竜太郎(三代、六代)中村雄次郎(四代)内田康哉(一二代)その他が国沢新兵衛(五代)早川千吉郎(七代)安広伴一郎(九代)林博太郎(一三代)松岡洋 右(一四代)と云う人々だが、川村君は台湾総督をやった人であり、安広君は枢密顧問官であり、林、松岡両君とてお役所に関係あった人であるから
 いずれにせよ、官づるが大部分を占め、中にも監督官庁たのし鉄道省出身が多いのは注目に値する、尤も満鉄の監督機関は鉄道省から拓務省対満事務 局と変遷しているので、従って今後の天降りの傾向も推察して余りあるのであるが、元来鉄道経営だと云う処から現在でも副総裁の大村卓一君を始め数々の鉄道 宗が名残を止めているのはさらに興味深い問題である(つづく)

拓殖の巻 (2) 鉄道省のつる満鉄に根強し 理事半数は官づる

鉄道宗が名残を止めていると云ったが、実際の処は現在に於てすら尚、満鉄首脳の大半は鉄道畑が根強く占めている、先ず曩に述べた副総裁の大村卓一君以下理 事の宇佐美寛弥君が五島慶太君と同期の東大出身で共に鉄道院の飯を喰っている、なんでも門司鉄道局の貨物係長をやっていた時部下が炭坑の運送係との間に涜 職を起したので、責任上辞職したのを、人材を見込んだ満鉄が拾い上げたと云われる
 以来その政治的手腕は期待に背かず、従って地位も事務所長から鉄路総局長と累進、今や理事中にも重きを為しているとのことだが、軍部方面にも 却々受けが良い様だ、鉄路総局ハルピン路局長の佐原憲次君はつい先達て迄鉄道省の観光局長をやっていたことは未だ耳新しいが、此のひとなどもいずれは理事 に昇る人だろう、満鉄東京支社は最近社員会あたりから社員支社長制の復活を迫られ、永らく兼務をやっていた大淵理事が退いて新たに奉天の鉄路総局から次長 の伊沢道雄君が抜擢されたのであるが、『社員』とは言い条殆ど理事格で而も純粋の満鉄っ児ではなく、元を質せば矢張り鉄道省の貨物課長かなにかの出身であ るという、先刻ハルピンの話が出たが、此辺の満鉄事務所長金井清君も鉄道省監督局業務課長の出身、鮮鉄等を歴任してワシントン会議や、ジュネーヴの会議に も出席した変り種だが、大体が支那、シベリヤ、ロシヤ通だと云うことだ
 此の他現顧問で前副総裁で鳴らした八田嘉明君が次官、現に興中公司社長で元理事の十河信二君が経理局長、現国際通運副社長で元理事村上義一君が 神戸、大阪の鉄道局長、現に貴族院議員で満露通と云われる元理事大蔵公望君は管理局長と云った具合である、前にも述べた通り、元来満鉄は逓信省鉄道局時代 から永らくその監督下にあった上に、鉄道運輸事業が本来の目的なのであるから、鉄道省の役人が進出するのは当然なわけで、単に上役人のみならず、最近満洲 に於ける鉄道経営の拡大に従業員の手不足を生じた為め、年々何百人と云う鉄道省の従業員がベラ棒にウマイ俸給で身売りして行く関係がその途の消息を物語っ ている
 然し乍ら茲に注目すべきことは、今やその監督権が軍服の対満事務局に移り、満鉄の事業も単に『運輸』のみならずあらゆる産業に手を伸ばした今日 に於て、その鉄道事業の使命は一変して満洲国の奥地開発惹いては我が対満国策の根幹たる移民事業の中心機能たらんとしつつあることである、此の点に関して は拓務省辺りが年々二千か三千の、それも尻をヒッパ叩く様な武装移民式な方法で失敗を繰返しているのに対し、宇佐美君等に云わすれば鉄道の建設、経営の如 何に依っては十年か二十年の後に確実に何百万人もの定住者を植付けることは訳が無いのである、と、つまり拓殖事業の根幹は何と云っても鉄道線路を敷くこと の意外には無いと云うことになり、此の意味からすれば、如何に満洲がカーキ色で充満しようとも、未だ未だ鉄道官吏のハケ口としての舞台たるを失わないので ある
 満鉄に於ける鉄道官吏の鼻息はザッと斯んな調子であるが、同じくその後僅か乍ら監督権を握っていた拓務省は横合から満鉄改組を企てられ、その案 が発表される迄知らなかった程まるきり無力な存在で、第一自分自身の廃止論にビクついていると云う始末だから、満鉄への天降りも至って淋しい、僅かに拓務 局長の郡山智君を理事席に送ったのであるが、此の時も社員理事の抜擢論が昂まって危くお流れになりかかったと云うのだから心細い
 そこへ行くと、その後に大蔵省から天降った専売局長官佐々木謙一郎君はなにしろ大株主を代表した上でもあるし、元来第一銀行前頭取たりし佐々木 勇之助の御曹子であり、大学時代に山室宗文、山田順、宝来市松、戸沢芳樹等々の秀才と席を争った却々の人物でもあり、それに御大松岡洋右君の御眼鏡に叶っ て今や先輩理事を尻目に満鉄の大世帯を一人で切り盛りしていると云う相当の切れ者だが、後輩の藤井真吾君が大臣になったりして大蔵省では大分クサっていた 様だが、矢張り大蔵省出身で満鉄理事だった神鞭常孝君が辞めて昭和製鋼の重役に納まった今日是非共大蔵省から割り込まねばイカンとの省内輿論?でその天降 る時など相当強引に押したものである、筆頭理事の河本大作君も此の秋には愈々引退だが陸軍大佐の出身で現に十河理事の後を承けて経済調査会を牛耳っている と云うから、その対照が妙である、さて満鉄理事席を一巡したが、これでみると、八名の中四名、つまり半分迄官づるに占められ社員理事は隅ッこにちぢこまっ ている有様だ

拓殖の巻 (終) 海外発展の裏にも官蔓は、はびこる ここ丈は幅が利く拓務

世帯振りには格段の差があるが兎も角も満鉄と並ぶ拓殖事業として半官半民東洋拓殖会社も亦、植民地官吏隠棲の場所とされている、嘗ては朝鮮八道開発の先駆 として『東拓』と云えば満鉄同様政党人が目の色を変えて奪い合いをする程の御威勢で、自然官吏の天降りも相当華やかなものであったが、満洲事変前後から今 日にかけては全くあの大世帯もダラシが無い程ドン底に陥ち込んで内に貸金は回収出来ず、外からは厖大な内外債に追っかけられて未だに申訳ばかりの配当復活 すらどうの斯うのと苦情が出る有様
 従って此処では監督官長たる拓務省が威丈高になって実権を振り廻している訳である、総裁高山長幸君は慶応義塾出身の実業家ではあるが政友会代議 士で、政友内閣の頃、総裁に天降った、御本人政変ある毎に内心ビクビクものであったが、昨今の様な政党没落時代となっては却って保身の上に都合がよく、か たがた拓務省辺りからも好感をもたれるというからまず以て当分は地位安泰と見て然るべきであろう、自分では『東拓も此辺迄業績が恢復した以上自分も引退し たいと思っているのだが、それでは無責任で社員にも気の毒でノオ…』と気の好いことを云っているが、いずれにせよ政党華やかな頃の唯一の遺物たるを失わ ぬ、現理事渡辺、窪寺、大志摩、佐方四君の中渡辺忍君は朝鮮総督府の役人や道知事をやった人で、専ら京城に常駐して総督府との連絡係を引き受けている
 東拓には必ず斯うした官づるが招聘され或いは割り込んでいる、その前任理事中野太三郎君も同様総督府の事務官や咸鏡南道の知事等を歴任した御仁 であるが、此の仁は一方福岡出身で中野正剛君と親戚関係に当り菅原総裁時代民政党の関係で割り込みをしたとも云われている窪寺勲君は大阪税務監督局長を停 年満期で左見右見していたが、結局東拓へ天降った、此の時は社内でも相当に反対があって、高山総裁も些か弱ったそうだが、大蔵省のキツイお達しには借金だ らけで利子の補助迄受けているボロ会社の悲しさ、文句も云えず遂に泣寝入となった、鮮銀総裁の加藤敬三郎君がその昔逓信省の局長をやったと云えば驚く人も あろう、逓信省から農商務省へと歴任し大正二年勧銀理事、同十三年北海拓殖銀行頭取、昭和二年朝鮮銀行総裁と云う経歴の持主だ、同じく鮮銀理事の色部貢君 も官づる、大蔵省事務官から台銀、鮮銀管理官を経て昭和四年理事に就任したもの、鮮満地方はザッとそんな処で切上げるとして
 一転、眼を南米南洋方面に注げば南米拓殖社長兼鐘紡取締の福原八郎君もその昔高商を出て農商務省に入り、研究生としてアメリカに勉強したのが今 日の始まりだとも云われよう、南洋ゴム社長藤田軍太君は勧銀の預金割引課長や大阪支店長の後身熱帯産業社長賀来佐賀太郎君は台湾総督府に専売局長、総務長 官を務め一九二四年にはゼネヴェの国際アヘン会議に帝国代表として出席したことのある人、スマトラ興業社長相馬半治君はドイツの高等工業で製糖事業を研究 したという専門家中でも変った学歴の持主、帰朝して東京高工教授、大蔵省、台湾総督府嘱託、台湾糖務局技師等を歴任して明治三十九年明治製糖創立と共に専 務に就任、今日に至っている、又南洋興発常務和田駿君は児玉前拓相の秘書から転身したが完全な割込みである、最後に『南方生命線』上に石原広一郎君と並ん で名物二人男の称ある井上雅二君は最近迄海外興業社長をやっていたのは御承知の通り、大株主大阪商船の社内工作の余波を喰って追い出されたのは気の毒の至 りだ
 その後しばらくゴテついていた様だがとにかく拓殖事業界の雄で現に南洋協会専務理事たる他、ペルー棉花社長、南亜公司取締役、スマトラ興業、海 南産業監査役、海外協会中央会副会長、東亜同文会、海外移住組合連合会、日土協会、日墨協会理事、人口食糧調査委員会等々その肩書丈けでも世界中を股にか けている、此の人の全身が逓信省、農商務省の役人から、韓国政府財務官同宮内府書記官、衆議院議員であるが海軍兵学校を出てウイーン、ベルリン大学で植民 政策を研究したと云うのだから将に躍進日本を一人で背負った形だ、秀子夫人は現に日本女子大学の学長先生として有名である

経済団体の巻 (1) 積立金法案に活躍した膳君 見えすいた芝居を打つの図

経済団体と云えば昨今では何を置いても先ず『全産連』つまり全国産業団体連合会の活発な動き、殊に本会議を通じて衆目の的となった退職積立金法案をめぐる 全産連、内務省、無産党のまんじ巴の激争に於ける全産連の圧倒的勝利が―なに分にも資本家にとって頗る苦手な『時局』を背景としていた丈けに―諸者諸君の 関心を喚び起さずにはおかないであろう此の資本家の陣営に闘将藤原銀次郎君の名参謀として工業クラブの二階から爛々たる眼を光らせ、所謂『全産連の番犬』 共を日比谷座に操った常務理事膳桂之助君は将に本シーズンを通じての立役者であった、彼が社会局に播居する内務省の『新官僚』を尻目に此の青二才共奴と許 り悠々と一蹴した辺りは、成程彼がその昔、大学を出て農商務省に労働課長を務め、官僚根性ナンてものを厭と云う程知り抜いていた故でもあろうが、それにし ても官僚の古手が自ら資本家の陣営に降参し自ら采配を揮って官僚群に抗争するナンてのは官づるの中でも異色ある存在と云わん哉だ、肚あり、闘志あり、頭脳 よく要領居士でもあるが全産連の番頭にしては正直過ると云うことだ
 今回の退職積立金問題でも例の『五十人以上』の件では、膳君、嘗て農商務時代共に飯を喰ったと云う吉野商工次官の許に或日ニヤニヤと顔を出して 『昔の誼み』に物を云わせて、前以て諒解をつけて了って北叟笑んでいたとか…それでも安心出来ないものか、無産党に云わせると所謂『資本家の番犬』である 陣笠連中に質問戦を展開せしめて小川商相から『五十人以上に適用…』の言質を取り、遂に潮内相を承知せしむる辺り、如何にも膳君らしい見え透いた芝居だと 今にお笑い草になっている、膳君と向うを張って同じく工業クラブの三階、経済連盟の本陣に常任理事の肩書を以て、昨今では日濠、日米の通商非常時にブル ドックの様に鼻息荒く猪突する高島誠一君はその昔神戸高等商業に『貿易』かなにかの教授をやっていた
 此の仁は前の経連会頭故団琢磨君が欧米□歴をした際に教壇を降りてお伴した関係から美談と共に警務の番頭役に迎え入れられたと云うのであるが口 先程に豪傑では無く『肚』の点では膳君に較ぶべくも無く、上役にペイペイするが下の事務員連中には大いに威張るとあって、評判も良い方では無いと云う、あ れでフランス語は仲々達者、口の悪いのが高島からフランス語を差引いたら零だと云うが、それも酷評送る人柄は極く良い
 同じく工業クラブ内の信託協会に書記長を勤める渡辺善蔵君は大蔵省は主税局の出身、渡辺君が税金の取立役から税金逃避に懸命の信託会社の顧問格 になると云う時には、同じ税務署の小役人大場竹蔵君が一転して綾昇関に出世した時以上に話題を捲き散らしたもので、なんでも三井信託の某重役が先任故山本 吉之君の後釜として君を引っ張って推挙したものだと云う話、此の時は後任銓衡に自薦、他薦群を為していたものだそうだが、全然別方面の然も敵役の税務関係 から小役人がやって来たので呆然としたそうだ、此の仁、通勤の途次東京駅から工業クラブの五階に来る迄朗々と謡曲を唸って行人をビックリさせている

経済団体の巻 (2) 博士が物を云う会議所の理事 高い月給に垂涎三尺?

大資本家のお歴々がその本陣を丸の内の豪壮なる工業クラブに移して以来、嘗ては和製タマニーホールと迄謳われ全財界に号令した東京商工会議所の存在はその 古風な赤煉瓦の建物にもふさわしく、今や取り残されたるものとして僅かに中小商工業者の利益擁護機関としてわぞしくもその名を止めている。会頭には大親分 郷誠之助男がその名を残しているとは云え此処に実権を揮うものは副会頭中野金次郎と鶴見左吉雄の御両人だ。
 この鶴見左吉雄君、本職は東京モスリンの社長だが元を正せば矢張り紛れもない立派な官づるである。明治三十二年東大法科の出身で直ちに内務畑に 入り、兵庫、三重の内務部長を歴任して農商務省に入り製鉄所理事、水産局長、山林局長、商務局長をやって次官にヘシ上っているが、大正八年原内閣時代山林 局長に就任するや早々公有林の大規模な植林計画を立て、省議猛反対を強引に押し切って、陸相山本達雄君に認められ、大臣の裁決で国家百年の大計、年額一億 円に達する輸入木材を駆逐すると云う今日の成果を収めた…と云うのが同君唯一の自慢である。大正十三年京モス社長に天降り旁ら太平生命の取締役をやってい るが会議所では副会頭の地位殆どロボットに近く中野君に押えられ通しで、議員の信望も薄く、只宴席に顔を連ねてその存在を示しているに過ぎないと云うこと だ。中野、鶴見両君の下で会議所を切り盛りしているのは理事の木村増太郎君であるが君は元来法政大学の教授で、経済学博士の肩書ある学者肌だから今や会議 所を学徒の研究所みたいにして仕舞ったという風評もある。
 此の下で所謂学徒に采配を揮っているのが主事の竹内謙二君だ。此人も矢張り経済学博士で、最近迄九州大学で経済学の講義をやっていたが、辞めた 前理事渡辺鉄蔵君が九州旅行の途次、東商入りの希望を打ち明けられ、渡辺君から中野君に紹介の結果当時頻りと人材を集めていた中野君のことだから早速容れ て今や会議所内で中野君の懐刀とまで陰口を利かれる迄に勢力を培っている。辞めた渡辺君は到頭『反産運動』の総元締めとなりこの看板一枚で衆議院議員の金 的を只一回然も最高点で獲得したから大したものである。渡辺君は明治四十三年東大法科の出身法学博士の肩書を持ち、帝大教授で長らく商業政策のレクチュア をやっていた。頭脳は大して良いことは無いがその『情熱』で人に好かれ、名物男になった、三味線を弾き、お茶をたて花を生け、謡曲を唸り、長唄を唄う…か と思えば野球、庭球、ゴルフの戸外スポーツに若い血潮をたぎらせると云う将に近代的万能のモダン親父だが『あれで頭が良ければネエ…』なんて失礼なことを いう輩のあるのは遺憾千万。
 彼を東商に引張ったのは前会頭の藤田謙一君だが、東大に君を貰いに行った処で当時の小野塚総長、『引張るのはよいが、直ぐ馘にする様では渡辺の 為めに気の毒だから…』と条件をつけたそうだ。それ程情熱の教授として人気があった訳だが、徳孤ならず?今回の逐鹿戦にインテリの多い第二区で立って教え 子の散票で見事当選したと云う粛正選挙で男を上げた一人ではある。会議所を辞めたのは中野、竹内ブロックの策動だなどと一時噂も高かったが、今にして考え て見ればそれ程のことも無かったようだ東京商工会議所には博士持参の官づるが詰めかけて、研究調査に余念が無いが
 転じて大阪商工会議所をのぞけば此処にも亦昨年鬼籍に入ったが理事に高柳松一郎という矢張り官づるの経済学博士がいた。君は元大蔵省吏で青島の 税関に勤務していたが、その間に支那関税制度を詳細に調べ上げこれをモノにした論文で経済学博士の肩書を獲得、此の肩書がモノを言って大阪商工会議所理事 に買われたのだがその後更に神坂静太郎君勇退後の紡績連合会に専務理事として招聘された。これからと云う処で死んで仕舞ったのは誠に惜いことをした。経済 団体へ天降った官づるは要するに官吏の安月給に厭気がさして転身するのが大部分であるから概して立身出世もせず、せいぜい『番頭役』で終るのは当然といえ ば当然でもある。
(此の項終り)

煙草の巻 煙で儲けた幸運児『大山君』 利権屋雲集の煙草元売捌

年々増加するタバコの消費量は一日にバットを二十個もふかす現代社会人の深刻な苦悩を表現するものであり、芸者、女給、ダンサーと脂粉の街から上流有閑マ ダムの社交界に迄押しひろがった婦人の喫煙癖を示すものであるが、これに目をつけた大蔵省がその値上げを目論んで財源を捻出しようナンテ大蔵省の役人とし ては如何にも気の利いた考えのようではあるがしかしこの亡国的?趣味が苟くも一国の財源になるかと思えば果してこれを慶すべきであるか、弔すべきである か、チョット判断に苦しまざるを得ない所だ、それはとにかくとしてその収入たるや年額約三億円に垂んとするというに至っては財政上確に重要な問題であると 同時にそこにはおきまり?の利権問題の絡んで来るのも敢えて不思議ではあるまい
 煙草の専売といえば誰しも『元売捌』を想起するが『元売捌』といえば握り○○ならぬ懐手をしていてボロイ儲けのあるもので、斯界の利権の巣窟と なるのは寧ろ当然過ぎるほど当然のことである、試みに収入最高と称せられる神戸の元売捌を調べて見ると、驚く勿れ年々六、七百万円の利益を収めているとい う、従ってこの改選は利権ブローカー活躍の舞台となって居り、政党華やかな頃には政党人がブローカーとして魔手を伸ばし、売捌人は利益を党費に納めたと云 う噂しばしば耳にする処だ、処で
 此の元売捌人として斯界の第一人者ともてはやされた御仁に東京は浅草区で元売捌をやった大山斐瑳磨君がいる、此の仁は『煙』で成金となり後には 東京商工会議所の副会頭に迄のし上り藤田君以来指田、郷三会頭の下で活躍し、更に郷里岡山県から政友代議士として当選したと云うまことに煙に巻かれる様な 幸運児であったのである、その前身を洗ってみると、成程、大蔵省は煙草専売局の事務官、函館煙草専売所長と云うその道の玄人、明治三十八年煙草販売制度の 改革時代に遭遇するや、巧に転身して東京煙草元売捌株式会社に入り常務兼支配人となり、大正二年浅草松葉町で元売捌の指定を受けたのが幸運のつき初め、全 国煙草元売捌協会副協会長やら日本煙草輸出会社の支配人に関係し特に斯界の第一人者であった、これでも一度煙草争議に惨敗したことがあると云う話だが斐瑳 磨ナンて優しい名前にも似ず二十数貫の大男で肚もあり中々の商売上手、官吏上りで煙で一身代を築いた彼は、一身代を煙にした神戸の大実業家で元売捌をやっ た岸本信太郎君と好対照である
 煙草界の官づるには此の他に東亜煙草前専務富沢充君が矢張り大蔵省の天降りだ明治三十五年早稲田を出て塩務局事務官、専売局主事、仙台、水戸各 収納所長、名古屋専売局長、東京地方専売局長とその道許りを経巡り、辞任後、東亜煙草に納まっているし、煙草輸出入業の東洋葉煙草会社の社長様、池田蔵六 君も同様の経歴だ、君は明治四十二年東大を出て直ちに専売局書記の辞令を頂戴し、三田尻、徳島、岡山の各地方専売局長、大蔵省専売局煙草課長になったが、 後転じて台湾総督府専売局長に栄進、昭和五年台湾財務局長を最後として民間に下り今日に及んでいる次第だ
 此の他専売局関係から実業界に入った連中も相当見受けられる、タバコ屋と云えば諸君は早速街角のタバコ屋のハナちゃんやウメちゃんと看板娘の顔 を思い出し給うことでろあうがその背後にある大蔵省は云う迄もなくその総元締の元売捌を初め、会社の重役様迄、例えば先の富沢君が正四位勲三等、池田君が 正五位勲四等…と金ピカいかめしい肩書を持って控えているのをみると些かタバコの味もマズクなろとう云うものではないか(此項終り)

統制経済の巻 (1) 統制経済が拡げた官吏天降りの蔓 日工連と岩田理事

官界から実業界への天降りには一概に臭い因縁がくっついていとばかりは断言出来ないとしても、水心もあれば魚心とやらで、何か彼にかそこには利害関係のよ うなものが絡みついていることが多い、中でも近頃はやりの統制経済の実施強化に就ては、元来がお役人の机の上ででっちあげられたものだけに、これが円満な 遂行をみるには、まずもって官界天降りの御仁が必要だ。必要だ―と云って語弊があるなら、便利だと云っておこう。
 その最も好適例は日本輸出織物染色工業組合連合会の専務理事岩田久吉君だが、岩田君は永年に亘って商工省貿易局の輸出監督官をやっていた関係 で、昭和六年に染工連が出来ると官を辞めて日工連の専務理事となった。勿論大した代ものでもないが、同君は民間統制経済の指揮官として天降りした恐らく最 初の人物で、殊にその統制振りに水際立った腕の冴えを見せたことに於てやや特筆に値しようというものだ。岩田君は会って話すと極めて不得要領のようだが、 それでいて実は中々要領を得ている。図太く見えるかと思えば存外正直で、然かも所謂勘どころを押えるになかなか妙を得ている。一概に物分りのよい御連中ば かりの集りとも云えない中小染工場のわいわい連を兎も角染工連の一つの埒内に纏め上げたのは、一つはこの急所押えの妙手にもよるものだ。もともと人絹織物 の輸出検査は国営になっていて綿布や電球のように組合に検査権はない。ぐずぐず云えば検査で締め上げて行くという押の一手は少くとも輸出人絹に限っては不 可能なのだ。
 だが、知恵は絞るべきもの。一見ヌーボー式の不得要領居士の岩田君、どこからひねくり出したものか、商工省に岸君や寺尾君に日参を続けているう ちに、いつの間にか染工連の証紙貼付を国営検査の一条件にして了った。つまり組合の証紙貼付のないものは国営検査を受けることが出来ないということにして 了ったのだ。これじぁ、まるで組合に検査権があるも同じで、岩田君のこの搦手戦術が成功して以来染工連の統制は物凄いばかりに伸展強化した。それに出がお 役人の岩田君、無味乾燥の机上の仕事と違って少くともこれは実践だ。年来鬱積していた統制意欲も手伝って染工連は猛然と攻勢に移った。工業組合法八条、九 条の発動によるアウトサイダーの撃滅、進んで価格統制にまで乗出した。価格統制でも日本には類例の少ない代行会社を創設し会社と組合とを巧にコンビして一 石二鳥の成功を収めた。
 此の会社は岩田君一流の綿密な計画に基いただけあって配当は年八分でも絶対に損をしない仕組だ、然かも年々金は余る一方で僅か二、三年の間に百 万円以上の積立金を貯め込んで了った。統制別格として大阪に染色技術研究所を建設し、近々染工連ビルも建てようと云う計画だそうな。何れにしろ御時世とは 云い条、豪勢の限りではある。その岩田君最近最後の統制鉄壁、指定註文撤廃の切札を出したが、遉にこれだけは輸出商の反対で物にならず仕舞だった。云わば 図に乗りすぎてから木から落ちた形で、何処かで態ア見ろと云う声も聞えるようだ。
 岩田君の統制意欲は然し染工連の統制だけでは満足し切れないものがあった。染工連が調子よく動き出すと片手間に人絹織物の統制へも触手を動かし 始めこれも一昨年工連設立にまで漕ぎつけた。暫く自分が専務理事をかねていたが、染と織は同じ人絹でも利害は相反する。二つの組合の理事をかねていては仕 事もやり難いとあって別に理事者を物色し始めた。そして岩田君の眼鏡にかない、又商工省当局とも諒解がついたのか、横浜絹業試験場長で商工省技師だった大 山清一郎君だ。民間統制陣に天降りした第二の官づる立役者として大山君も岩田君程に歴史的の存在だ。

統制経済の巻 (2) 官蔓にしてはまず以て上玉? 大山、三輪、松田、富岡等の面々

大山君は勅任技師、それにまだ停年に間があるのを無理に引張り出されたのだから条件は悪かろう筈はなく、年俸四千円、それに賞与とか手当とかがついて役人 時代の倍位にはなるだろうという。大山君は岩田君の策士型とは反対に肌触りの柔かな、役人上りには珍しい官僚味の薄い人物である。小姑の多い人絹織物の統 制指導者としては慥かに打ってつけの□り役だ。
 人絹織工連は、大山君の登場以来めきめきと積極的に活動し始めた。まず小姑との妥協工作を計るために人絹関係四団体の代表者を蒐めて商工省へ人 絹織物改善委員会を作らせるそして基準数量の決定に、統制方法の是非、殆ど連日に亘って理事会を招集するという有様で、事務所も味の素ビルの染工連の隣を 引払って八重洲橋の建物ビル内に引越した。最も事務所の引っ越しは直接統制とは何の関係もなさそうだが、仮にもお役所では官等の上だった大山君、染工連の 岩田君の肝煎りで織工連が出来たとあっては、体面にも係わるとあってこんな処に力瘤を入れたのだろうなんていう説もある。
 だが、統制の実際の経験者として岩田君は何としても大山君より一枚先輩だ、陰に陽に岩田君がラインを引き大山君はその上を渋々乍ら滑り出すとい う恰好で、これだけは大山君幾ら力味返っても及ばぬらしい、それはとにかくとして岩田にしろ、大山にしろ、或意味に於て統制によって浮上った典型的官づる 人物で、将来統制強化による役人払下げの先駆者として、その意味に於て倶に記録的な存在となるであろう。
 舞台は一転するが同じ統制経済でも満洲の方は大分事情が違っている。その満洲の統制経済中極めて重要な役割をするものに度量衡の統一と云うのがあり、それが企業形態として出現したものに満洲計器公司がある
日満合弁で五百万円か千万円の会社だが、この会社の特徴は満洲に於ける計量器製造販売の専売権を握っていることで謂わば満洲国営の姿を変えたもの である。この会社の副社長に、元商工省工政課勅任技師三輪義一君がいる。三輪君は故斯波忠三郎君の愛弟子で学界稀に見る温厚の君子で世話好きだった故人の 推挽により一昨年同社が創立されると同時に商工省を辞して新会社の時めく副社長となったのである。副社長と云っても社長がロボットの満人なのだから実権は 三輪君が掌握して居り、例の関東州の度量衡統一には折衝大いに努めたものである。現在では関東州をも含めての満洲一帯の度量衡器の独占的製造販売会社と なったのも君の手腕と努力の賜であろう。故斯波博士に見込まれただけあって三輪君も温厚闊達の紳士、その上大の愛妻家と来ているので寒い満洲で妻に苦労を させたくないためか、今もってホテル住の独身生活をつづけている。
 尤も年俸一万円それに交際費が五千円も出るそうだから、ホテル生活も却って気楽かも知れないし、家族を連れて行ってはいざ引上げと云う場合面倒 だと考えているのかも知れない三輪君は商工省技師をやっていた当時傍日本工学会の主事も兼ねていた。商工省を辞めると同時に副社長を引受けて自然日本工学 会の主事は引退したが、そのあとには予備海軍造機少将の松田竹太郎君を推薦した。松田君は海軍だが、出は三輪君と同じ帝大工科出で、等しく故斯波博士の門 弟だ。海軍をやめると三菱に入り、名古屋工場で工作機の技師をやっていたが、軍人と商売人ではしっくり肌合の合わないせいか間もなく辞めて了った。そして 現在では工学会主事の外に目下創立中の日本光業会の世話をやいているが、暇さえあれば好きな謡曲を唸っているという。しかも軍人気質を脱した誠に肌触りの よい立派な紳士である。
 技術家で最近実業界入りをしたも一人に商工省工政課技師だった工学博士富岡維中君がある。一昨年三菱タール工業会社の技師に天降り、現在では時めく同社技師長として八重洲ビルの一室で盛んにその敏腕を揮っているそうだ。(この項終り)

化学工業の巻 (1) 新興産業だけにアルミ界は盛況 でも純粋の官蔓は少い

一口に化学工業とは云うもののその範囲が頗る広いだけに、この業界には役人上りが可成り多く活躍している、然しわが国化学工業の発達の跡を顧みるに由来民 間独自の力を以て進み、殆どお上の御厄介にはなって来ていないので、所謂官づるを伝って業界に天降ったものは至って少ない
 尤も新興産業になると工業試験所辺りで鍛え上げた人物が多いだけにチラホラと技師長室や重役室などに官づるの蔓っているのを見受けるが、それで もまだまだ民間で鍛えあげた人達の方が幅をきかしている、例えば今日新興化学工業としてもて囃されているアルミニュウム工業界を試みに覗いて見るならば、 ここには比較的多くの役人上りを見出すことが出来るが、然しこれとても他の業界における如く只単に官づるのゆかりで押付女房に入り込んだというのではな く、多くは多年研鑽の所産たる優秀なる技術を持参の上で入婿になったという恰好である、けだし現在我国に行われているアルミニュウムの製法―詳しくいえば 精錬方法―なるものを大別して五通りあるが、その内工業試験所法(商工省関係)を除いては他の所謂理研法にしても、バイヤー法にしても、浅田式特許法にし ても又亜硫酸法にしても何れも直接役人や役所とは関係なしに発明或は発案されたという事実によってこの間の消息を有力に物語り得るであろう
 然らば右の内只一つ官づると縁故のある工業試験所関係ではどうかと見るに、工学博士の田中弘君が工業試験所から日本電工会社(取締役)に入って 活躍せる外、日満アルミニュウム会社には代表取締役の古田忠徳、取締役の林好文、同杉宜陳の三君が大蔵省から、又取締役の小畑厳三郎君(予備陸軍大佐元立 川航空隊長)が陸軍から更に監査役の深水貞吉君(予備海軍中将元海軍省経理局長)が海軍からそれぞれ天降っているなど相当賑かな顔触れを並べているが此等 の諸君とても他の業界におけるほどその天降り振りは露骨ではない
 就中田中弘君の如きは電工社長森矗昶君の懇望に基きその発明にかかるアルミ製法(工業試験所法)を提げて天降ったもので、日本電工がアルミニュ ウム製造を完成して今日の大をなしたのは全く君の功績と称しても過言ではなく、そんじょそこらの高禄を貪る官づる重役とは恰も玉石の相違があろう、また日 満アルミの古田忠徳君にしても、同社設立の計画者である三井の総大将故団琢磨男が同じく之れに参画した米山梅吉君の縁辺に当る同君の人格と手腕を見込んで 引張ったもので少くも官職を笠に押売したのでないことは明かである
 それに古田君の日満アルミ入は官吏から直接天降ったのではない、入社を薦められた当時は神戸学一老から依頼された東洋モスリンの整理を終えて閑 地にあったもので、また杉宜陳君は三井に席をおいておったのを林好文君は洋モス整理時代に文書課長として信頼して来た関係上、連れて這入ったもの、只小 畑、深水の両君は満洲産原料を必要とするので軍部の援助を仰ぐべく出馬を煩わしたものと言われこの点は古田以下林、杉両君の入社とは事情を異にしている、 さらに同業の日本アルミニュウム会社はと見るに取締役の松木幹一郎君は逓信省参事官や帝都復興院副総裁たりし人で、然かも現に台湾電力に在ってその社長で ある関係上電力供給者の立場からここの重役陣に顔を並べているのでこの人だけはどうやら純粋の官づると見てよかろう
(つづく)

化学工業の巻 (2) 化学工業の殿堂 工試に生えた官蔓 遅蒔乍ら各所に蔓る

 今までとてもそうだが、今後に於ても化学工業界に官蔓を伸ばすお役所は何と云っても商工省工業試験所と官立学校の教職員であろう。ところがそのうち工業 試験所は昭和年代になるまで方針として研究の結果を門外不出していたために古い所では工業試験所出の化学工業家は暁天の星ほどしか見当らない。然し昭和年 代に入ってこの方針が一変され、研究の成果を社会に開放することになってからというものは工業試験所の研究室で得た発明特許を提げて民間の事業会社に出て 行く人物が相当多くなって来た。以下それ等の人物に就いて総ざらいをして見よう。
 先ず古い所では昭和肥料の川崎工場横山武一君がある。大正六年の東大出で入所以来アンモニアの研究に従事し、終に所謂東京工業試験所式合成硫安 の製出に成功したものである。当時たまたま森矗昶氏が東電の余剰電力処分策として硫安製造をやろうとしていた処なので昭和四年請われて昭和肥料に転じたの である。同社川崎工場の次席合成課長中村健次郎君もその際横山君について行った一人である。
 それから三井鉱産の傍系会社として出来た合成工業に入って彦島でメタノールの合成に当っている同社の常務取締役技師長柴田勝太郎君も東京工業試 験所出身である。その下にいるメタノール主任の山本明光君以下小熊正靖、熊谷次郎、三輪継太郎伊沢弥助の諸君は何れも柴田君の補佐として一緒に行った人々 である。次に最近三菱鉱業と旭ガラスとの共同出資で出来た日本タール工業に常務取締役兼工場長をしている能口寅之助君もツイ先頃まで東京工業試験所第四部 長の椅子にあった人だ。この第四部と云うのは染料の研究でわが化学工業界でも最も難とされている部面であるだけに野口君の工業試験所に於ける研究期間は相 当長いものであった。
 即ち野口君は明治三十九年に東大応用化学科を卒業して今日まで前後約三十年近くというもの傍目をふらずに孜々として研究を続けて来たわけであ る。野口君の次席として同時に日本タール工業に入った藤木経明君にしても大正八年に東大を出てから今日に至るまでナフトールの研究に没頭して来た人、とこ ろが此日本タール工業には工業試験所から野口君が入る前に本省から技師の富岡惟中君が入っていた。
 この人は工試から東京高工出のナフトール研究家中西栄二君を伴れて行ったものだが、その日本タールへ天降る少し前にお役人の威光をかって日本染 料や三池染料辺りの工場を視察して廻ったとかいうので、業界ではその不徳を痛く非難している。どうせ食うか食われるかの世の中だからと云って終えばそれま でだが、然しその当時彼が役人であったという事実を考へるならば若しこの事実が本当としたらそれは許すべからざる不徳の行為として世の制裁があって然るべ きではなかろうか―それかあらぬか最近は日本タール工業に於ける富岡君の椅子も相当据り心地がよくないと伝へられている。(つづく)

化学工業の巻 (3) 化工機の権威も工試から天降り 堀・藤本両君徒党を率いて乗込

商工省東京工業試験所から保土谷曹達の保土谷工場へ転じた篠崎平馬君―これは東北帝大大正十年の出だがフェロシアンカソーダや炭酸などの製法を持参で養子 に行った形、同時に発鉱の巨山本盛吉田中清志の両君を伴れて出ているが、このうち田中君は本来、青化曹達の研究者である、わが国電解曹達の先駆者として炭 素の処理には他社の追随を許さぬと自負している保土谷曹達が篠崎君の入社に依って、更に大いに新製品の間口を広め得たことは呶々説明を要しないであろう
 塩素処理のついでに掲げなければならぬのは徳山曹達(旧名日本曹達工業)事務取締役技師長として入った越智圭一郎君である、越智君は工学博士で 東京工試第二部長であったが一昨年前事務の岩瀬徳三郎君が会社側(由来徳山曹達は岩井系である)に反旗を翻してオン出て終い徳山の附近へ東洋曹達工業と云 う新会社を創立したので、岩井では止むを得ず工試から越智君の出馬を懇望したという訳である、話は横道へ外れるが、この東洋曹達工業を創めた岩瀬君はさき にも旭硝子にいて相当の地位を占めながら之に満足せず、後足で砂を掻くようにして岩井商店へ走ったとか云われ業界ではとかく評判がよくない―然しこれでも 順調に行けばわが曹達工業界の豊臣秀吉格になる時代が来るかも知れないから徒らに過去を咎めず只将来に対して自重を望むこととしよう
 次に堀式硫安の特許を携へて新進の満州化学工業へ入った堀省一郎君―これは大正十年東大応用化学科の出身である、堀式硫安の特許と云うのはやは り合成法だが、他の合成法の如く硫酸を造らない所にこの方法の特長がある、これを詳細に説明すると溶液状態に於いて、亜硫酸アンモニウムを造り、之を触媒 の存在下に硫酸塩に酸化さす方法である、満州化学工業では現在ワーデー法に依る硫安年産十八万トンの設備を亦ワーデー法であるが、他面堀式硫安の設備も年 産一万八千トンの能力を有し二万トン位は製造し得るが、将来は堀式の設備を増設することになっている、堀君が満化へ伴れて行った連中は佐田進(大正五年九 六出で最近逝去した)尾上七八二(工学校出)西腹鹿蔵(北海道工学校出)等の諸君である
 さてわが製紙界多年の歴案であった桑の皮から紙を製造する方法に成功し、特許を得て扶桑製紙会社を興した事務の藤本勧君も東京工試出である、製 紙事業は主として植物性の繊維を化□的定理に依って製品を得るのであるから、桑の皮から紙を作ると云う趣向は古くから行われ必しも新らしい仕組ではないが 藤本君のは桑の皮を新らしい酸素定理に依って従来何人もが企及し得なかった優秀な紙を製出する点に特長を持っている(障子紙等は和紙として実によい味を 持っている)藤本君は工試ではやや毛色の変った早大理工科の出身、新設事業とあって工業試験所から技師以下職工長に至るまで引率して行ったがその名をあげ ると尾崎至誠、古川権蔵、斎薩善方、野本末作、高橋貞雄、大木隆次郎、大平定利の諸君である
 又近年に於けるわが化工業界の躍進に依って化工用機械に優秀な製品を要求されるようになったので三菱商事ではこれに応ずる為め昨年三菱化工機会 社を新設した、由来化学工業はその用うる機械の優劣に依って製品の出来栄えが著しく異なるから機械の構造は非常に大切である、然るに化学者はとかく機械□ 知識に乏しく、従って化工機会社の首脳者に適当な人物を物色することは至難事とされていたものだが、この難局に処する最適任者として見出されたのが同社常 務取締役の後藤尚君であり、君も亦東京工試出身である
 次に新興会社早山石油へ入った芳賀惣治君も工業試験所から引抜かれたのだが同君は会社側重役との個人関係に因るもののようである(つづく)

化学工業の巻 (4) 発明特許の工業化 小寺所長悩みの種 工試の使命果して何れ?

東京工業試験所にカーボンペーパーの権威としてその方面では相当有名であった岸田繁三君も、この程役所の推薦で、日本カーボンへ乗り込んだ、この会社は資 本金は僅か三万円位のものだが、大阪の文房具屋さんの大どころが話合って質のよいカーボンペーパーを広く供給しようとて創立したもので、業界では存外重き をなしているのだそうな
 次に岐阜県多治見の工業学校を出て東京工業試験所で久しく自動車の点火栓碍子(プラグ)の製作を研究していた加藤桂君もこの程自分の特許を提げ て小穴製作所へ行ったが、これに続いて工業試験所の第三部から近近愛知時計電機会社へ入る人があるとか、名前はまだ発表されぬが何でもラヂオシールドの特 許を提げて買われて行くとかいうことである、その他工試から出た連中では満鉄の黒田修三、岡崎直喜、吉村倫之助の諸君があるが、中でも黒田君は大正二年東 大応用化学科の出身で現に計画部にあり、前に掲げた徳山曹達の越智圭一郎君とともに斯界に於ける大先輩である又岡崎君は大正九年東大応用化学科出で工試で は硝酸の研究に没頭していた人、現在は黒田君同様計画部にいる筈である、また吉村倫之助君は大正九年の九大応用化学出、現在では満鉄中央試験所無機の主任 をやっている
 以上で東京工業試験所から天降ったと云うよりも同所を巣立った人々を記憶に委せて総さらいした積りだが、この分で行くと遠からずわが化学工業界 は工業試験所出身者に依って支配されるか、少なくとも化工界に「工試閥」といったようなものが出来ることであろう、然し果して之れは慶うべきであるか、悲 しむべきであるか?筆者はこの?符を技師長養成園長格の試験所々長小寺房治郎博士に投げて見たが、博士は「決して有難い現象ではない」と仰しゃる、その訳 はと問えば「最近工試からよい学者が実業界へ出て行くことは時代の風潮として止むを得ないことであろうが、然し元来当工業試験所なるものは国費に依って深 遠なる学理とその応用を研究する所であって、場当り式、金儲け式の研究を目的とする所ではない
 然るに最近の如く研究の結果が金になりそうだというと直ちにこれが工業化に乗出すなどは甚だ以て我が意を得ぬ」とばかり小寺所長甚だ不機嫌の態 であった、イヤ所長の顔色を診断、果して博士のいうように、これでは国費を遣う手前相済まぬものか、それともその研究の結果を世に広く公開して社会に貢献 する方が所期の目的に添うものであるかはむづかしい問題だが、之は読者諸賢の判断に任せてここでは批評を遠慮しておくことにしよう
(つづく)

化学工業の巻 (5) 塩素と肥料界に淋しい官づる 大学教授の天降りが多い

わが国に酸素の博士が二人ある、その一人は前にも掲げた徳山曹達の越智圭一郎君で、今一人は旭電化工業の取締役技師長浦野三朗君である、浦野君は大正五年 の帝大出で、以来旭電化へ技師として勤め晒粉の研究で博士になった人、そして今日までに社務の傍工業大学や帝大で教鞭をとっている、従って官庁に関係を 持ったのは会社員となってからだから順序から云えば勿論純粋の官づるとして掲可人物でぐないかも知れないが然し浦野君は帝大名誉教授中沢岩太君の女婿であ り、岩太博士の息中沢良夫君も現帝大教授である、縁故関係等を辿って行けば浦野君も矢張り官づるの端くれに繋がる人だといえよう
 塩素ついでに掲げねほならぬ人に六日本人造肥料の常務取締役石川一郎君がいる、東六応用化学科の出身で、卒業してすぐ関東酸曹会社へ就職してが 卒業成績がよかったので間もなく母校から懇望されて助教授に帰った、然し教壇にあること約三ヵ年にして再び大日肥が王子工場で電解曹達を始めると云うの で、その指導役として入社したのが、今日をなす第一歩であった、処が関東酸曹なるものは石川君の父君卯一郎君が田中栄八郎君と二人で創めた会社で後に大日 肥へ合併されたという関係にあるので、この続柄から世間では石川一郎君を目して七光り組に扱うるのあるようだが、どうしてどうして石川君はその腕前からし ても今日大日肥の事務位に据ってよい力量と資格を償えている人物である
 又我国に於けるアンモニアソーダの創始者として不朽の名を残している工学博士の西川虎吉君というのがあるが、この仁は現在では旭硝子の顧問と云 うよりも三菱の顧問と云う重い地位に置かれている、西川君は大学を出て直ちに日本化学肥料へ技師として入ったがその後九州帝大の教授となり一時は総長にも 擬せられたことのある人で現在でも九大の名誉教授でいる、さるにても日本化学肥料の小野田工場は往年西川博士の研究室になっていたものだが、今日それが大 日肥の小野田工場として曹達工業界の記念塔となっているのも奇しきゆかりではある
 由来わが曹達工業は欧州大戦の直後に発達したものでその発達の過程に於ては官号方面との交渉が少なかった為めにこの部首には純粋の官づるが少 い、即ちわが曹達工業界の今日を造り上げたのは当業者の努力のみに依るもので、当時欧州品の圧迫に遭って当業者が如何に苦戦したか、想像するに余りあるも のがある
 次に徳山曹達の取締役平野亮平君は井上金解禁蔵相時代の専売局長官たりし人、君の抱懐していた煙草販売制度の清争化がたまたま当時井上財政の財 源捻出策に利用され、煙草元買独人制度を廃止したのが祟って一時浪人したこともあるが、間もなく岩井家の総顧問として浮び上り、岩井系事業の一たる徳山曹 達にも重役として顔を並べることになった、但しこれなんぞはこの業界での官づるとしてはチャキチャキの方だろう
 ラサ工業の取締役支配人浜田小人大君は京大の講師、農学博士であるが、これもラサ工場長として肥料を研究して博士になった人、官づると云うには 余りに御本人の力が大き過ぎるというものもあるが、その珍答?小人大の示すごとく大き過ぎるのが小さ過ぎるのか筆者にはチョッと判断がつかない

化学工業の巻 (6) 技術家連中だけに変り種が多い 概して曲折の多いその経歴

酸類製造の分野にも官づるは少ない、前回登場した大日本人肥の石川一郎君の外には東硫化学工業社長の中川壮助君がある位のものだろう。中川君は明治二十九 年の帝大工科応用化学科出というから年代からすれば官吏なら大臣級の代物である筈だが、この人途中で大分道草を喰っていたのでエライ割合にそれ程有名でな い、即ち最初は四日市製紙に技師として入ったが、忽ち工場の建設計画で意見の衝突をして辞め、次いで函館の北海道セメントへ技師長として入ったがこれも意 見が合わず流出し、更に大阪築港事務所に転じたがここでも大喧嘩の末辞めて終ったと云う随分と喧嘩好きな男である。
 しかしその後東京硫酸へ取締役技師長として入り、硫酸をイヂり出してからはようやく落つきを示し、研究の結果発煙硫酸をわが国で始めて製造した り、更に東硫化学工業を興してからは弱硫酸、純硫酸、H酸等の製造に成功したりして、今では工学博士中川壮助の名は我国硫酸界の最高峰として相当大きな存 在となっている。
 次に電気化学工業の部門に於いてはさきに述べたアルミニュウム製造以外に日本ステンレスの専務取締役芝辻正晴君がいる、芝辻君は大正三年京都帝 大の銀時計組、頭がよいだけに行くとして可ならざるはないが、然し法科出の芝辻君が今日の仕事をやり遂げるまでには随分苦労もしたし又紆余曲折も多かっ た。先ず大学を出て内務省に入り、後藤新平外相に見出されて外務省に移りニューヨークへ三等書記官として赴任したこともあるが、その後加藤友三郎内閣の 時、行政整理の犠牲となって官界からおさらばをされた。それから元の内務系統である渡辺勝三郎市長の下に横浜市助役となり、水道瓦斯課長を兼務したが、 後、結城豊太郎君の推輓で東京電力に入り、それが又東電に合併されるや、ともに之れに移りさらに昭和肥料から秩父電気工業に転じた。ところが秩父電工が森 轟昶君の日本電工に合併されたので今度は自ら中央電気工業を興し、ここに初めて電気化学工業の一角に立て籠ったと云う複雑な経歴を持って居るのである。そ れから更に一昨年日本ステンレス会社を新設して我国最初のステンレススチール製造したことはすでに周知の事実である。
 お次ぎは住友化学工業専務大屋敦君であるがこれも逓信省電気試験所で技師を勤めていたことがあり、官づるとしては押しも押されもせぬ人である最 後に王子製紙の松本弘造君を紹介するが君は明治四十一年に東大を出て大蔵省に入り、事務官までのしあげてから興銀に転じ、理事に累進して行く行くは副総裁 をと狙っていたが昭和六年のあの産業危機に際して結城総裁に口説かれ目附役格で樺太工業に専務として天降った?ものである、更に樺工、王子製紙に合一され るや、藤原、高島副社長の下に専務として転籍以来余りパッとした場面もなく今日に及んでいるが、これなんぞはむしろ銀行づるといった方が適わしいかも知れ ぬが、とにかくその昔を洗えば官界の出身であり、官づるの端つくれに据える分には御本人もあえて御異存があるまいと思う。
 その他漁り出せば東京瓦斯会社の調査部長石井保君(神奈川県警察部長)東洋リノリューム社長の永井繁君(大阪造幣局長)東洋セメント取締役、日 本舗道社長の浅利三朗君(栃木県知事)等々尚は十指に余るものがあろうが紙面に限りがあるのでザッとこんな処で化学工業界の巻を終ることとしよう。(この 項終り)

金融界の巻 (1) 銀行界に降注ぐ大蔵省の天下り 遂に北拓行員蹶起す

官づるが如何に各方面にはびこっているかは今日迄述べて来た処で明らかだが金融界のみが独り例外である訳はない、最近でこそ産業界の発展が目覚ましく金融界は兎角押され気味であるが黄金は万能なりの譬通り、衰えたりと雖も未だに金融機関は仲々の実力を持っている
 金融機関の仕事と云うものは大体信用を基礎とするものであるから、此の頃流行の革新とか一新とか云うことは禁物である、後生大事に日歩を計算し て確実な資金を運用していれば良いのだから誰にだって出来る、産業界となるとそうは行かない、他人の生瞻を抜く積りで働かなければならないのだから仲々役 人上りで成功するのは難しい
斯う考えると金融界に役人からの天降り、殊に温室育ちの大蔵省の役人が多いのは別段不思議はない訳だ
 去る二月のことであるから未だ読者の耳に残っていることと思うが北海道拓殖銀行の頭取の更迭があった。前任松本修君に代って新頭取に就いたのが 岡田信君であったが、岡田君が此の椅子に就くまでには金融界には珍しい一騒ぎがあった、岡田君は表面上台湾総督府からの転身となっているが
 元来同君が四十二年東大法科を出ると直ちに大蔵省に入り専資局書記を降り出しに暫らく地方廻りをやらされ、大正八年特銀課長となる迄は全くの大 蔵省育ちであった。大正七年シベリア出兵に際して大蔵省から派遣されてオムスク政府の財政救済に当ったと云う変った経歴もあるが、特銀課長から当時整理中 の東洋拓殖会社に総裁渡辺勝三郎君の懇請で理事として天降ったのが天降りの第一歩渡辺君の引退と共にそこを辞めて暫らく浪人していたが後、台湾総督府に 入って財務局長となり今回北拓に転じたのはツマリ天降りの第二歩である然らば何故今回の東拓入りが騒ぎの種となったか?
 前頭取松本修君の任期が二月十六日になっていたが、それに先立って一月末頃から大蔵省では早くも頭取のすけ替え工作に取り懸った。これを洩れ聞いた北拓の行員は当時本紙で報道した通り
 由来北海道拓殖銀行は北海道拓殖の為めの金融機関として重大な国策的意味を有し云々
の大旗を振りかざしてまず天降り頭取の排撃をおっ始めたものである、即ち従来其の頭取や取締役が外部の特殊事務に理解少き古手官吏が天降ること多 く現に松本頭取が大蔵省出身の外他の四重役中二人までも大蔵省出身で銀行員出身が一人しか居ないという実情にあった。正に行員諸君の言う如く、頭取松本修 君は明治三十七年帝大独法科を卒え大蔵省に入り累進して銀行局長となり、昭和三年同行に頭取として天降っている元来松本君は渡辺千冬子爵の義弟である為め でもあるまいが、何れかと言えば殿様型の温厚な紳士で役人は勤まるかも知れないが、北海道クンダリの雪の中で殖民地気質の人達と一銭一厘の日歩稼ぎをする 銀行家には向かない。其の為めでもあろうか行務は行員任せで月の半分以上は任地を離れて芝二本榎の本邸で謡曲、ゴルフに日を送っていた。これでは行務の渋 滞するのは無理もない、さて、行員の中に天降り人事排撃の種を植え付けたのは松本君自身の態度であったらしい。行員を集めた松本君がよく「天降り人事は自 分が最後だ」と話していたと云うのだから面白い
 松本君が右の通り大蔵省出身である他に清水英嗣常務は勧銀福岡支店長から北拓に転じた人、常務間宮修治君は四十一年帝大英法科を卒え主税局経理 課長を経て昭和七年北拓に入り常任監査役を経て現職となった、常任監査役西森猷太郎君は明治四十三年東大独法科出身大蔵省主税局に入り札幌、仙台、名古屋 税務監督局長となり退職して本行に入ったものである、行員出身は取締役永田昌綽君だけである。これでは幾ら特殊銀行で、国策遂行機関であるとしても行員諸 君が将来に対して不安を感じ不満を洩らすのも無理はない(つづく)

金融界の巻 (2) 重役任免権こそ官吏天降りの楔 名を失い実を取った北拓行員

行員が結束して天降り頭取の排撃運動を始め新聞紙面を賑わすや当時の大蔵当局は急に狼狽して行員の説得運動を始めた、そしてその表面の理由として
 特殊銀行の頭取であり大蔵省との連絡を図る必要上少しも不思議はないと強弁したが「特殊銀行であり大蔵省が株式を所有しているのだから」と云う 其口吻こそが所謂官僚思想から生れ出る語であって、こんな頭でいられたんぢゃ特殊銀行の行員だるもの一生うだつが上らぬというものだ、殊に北海道拓殖銀行 法では他の特殊銀行法とは異なり重役は大蔵大臣の任命となっていない、業務の監督と当局との連絡機関には管理官があり、所有株式を代表するものとしては既 に数名の大蔵省代表があるのだから特に無理強いしてまで頭取を更迭する必要も認められぬ訳だ、しかし泣く子と地頭には勝てぬという譬に洩れず天降り頭取排 撃運動は結局行員諸君の失敗に終ったのは洵に残念だったが、それでも此の行員の心情に同情した清水常務が自発的に辞職したので行員出身の永田取締が常務に 昇格し、東京支店長井元松蔵君が新に取締役になったのは見方によっては北拓行員は名を棄てて実を取ったともいえよう
 ところで北拓のことに触れた序に述べるならば北海道銀行頭取加藤守一君も大蔵省出身である、三十七年東大独法を出て大蔵省に入り累進して広島東 京税務監督局長となり大正十三年転じて北拓に入り取締役から副頭取となったが、昭和七年北海道銀行に頭取となり今日に至ったものである、松本修君とは同期 で、一時は同期生が正副頭取を占めていたのも奇縁といえば奇縁だ、加藤君の銀行経営に対する方針は案外手堅く、北拓時代には加藤敬三郎頭取(現朝鮮銀行総 裁)の下に在って糸屋銀行の内容不良を見ぬいて世間の反対を押し切って断然休業整理を行い、後に到って預金者からも銀行当事者からも感謝されたと云う手柄 話もある、前回の北拓頭取問題には大分積極的に働きかけて北拓への復帰運動をやったが、到って時局を混乱させたばかりで、得る処がなく大蔵省方面にも余り よい心証を与えていないようだ
 さてここに特殊銀行と一口にいうが大蔵省の監督権は必ずしも一様でない北海道拓殖銀行の如く単に政府に頭取の認可権を有するに過ぎないものと、 日銀、勧銀の如く総裁(又は頭取)の任免権を有するものとあった、少くとも其間に重役の任免権に就て形式上の相違は厳然として存しているのである、それは とにかくとして我国に一体特殊銀行というのが幾つあるか、そしてその重役任免権がどうなっているかに就いて簡単に説明をしよう
 現存特殊銀行として最も古いのが横浜正金銀行(明治十二年創立)で所謂銀行の銀行たる日本銀行の設立されたのはそれより三年後明治十五年である それから日本勧業銀行、府県農工銀行、台湾銀行、北海道拓殖銀行日本興行銀行、東洋拓殖株式会社朝鮮銀行、朝鮮殖産銀行、朝鮮産業組合中央金庫等と順次に 設立され下って本年は又商工組合中央金庫の新設される等巳に二十指に余るものがある而して前記の各金融機関は何れも各独立法によって設けられたもので、朝 鮮殖産銀行令が頭取及び理事の任命を朝鮮総督と規程しているのと、前記の如く北海道拓殖銀行を除いて他は何れも頭取、副頭取(総裁、副総裁)理事等主務大 臣の任命、認可によるべき旨を規程している(横浜正金銀行は頭取は認可、取締役は認許と称するも実質は変らず)ものとあるが、とにかくこの重役認許権の存 在こそ官吏天降りの最大の口実となり原因をなすのである
 既に特殊銀行に対しては大蔵省より管理官を配して居り、更に必要に応じ銀行検査官を派遣しているのであるから特に任命権を振り廻す要の無いこと は明らかである筈だが、事実はそうでないのだから困ったものである、さて議論は此の程度に止めて本題たる官づるに転ずることにしよう
 銀行の銀行たる日本銀行に就いて云えば昔はともかく、現在では流石に中央銀行たるの貫禄を示して深井総裁以下、近く理事就任の平瀬愛雄君に至る まで現業重役諸公は何れも行員出身で固めて居り官づるのはびこる隙も無いが日本銀行条例(明治十五年太政官布告)に総裁は勅任、副総裁は奏任とあり、中央 銀行代表者の地位が局長級以下とある為めでもあるまいが、監事には大蔵省専実局長官たりし今北策之助君、子爵青木信光君、大蔵参事官、宮内次官たりし□屋 貞三郎君等が夫々名を連ね官づるの威光を示している(つづく)

金融界の巻 (3) 貴院から天降った馬場勧銀(前)総裁 田中内閣無軌道人事の典型

次に横浜正金銀行に転ずるが此処も上は頭取見玉謙次君から下は取締役矢野勘治君に至るまで株主重役を除いては何れも行員出身を以て固めている。□も監査役 には候爵池田仲博君、宮内省内蔵頭杉琢磨君等の名が見えるが、とにかく銀行たる日本銀行―為替銀行の元締たる横浜正金銀行が今日の如く現業重役だけでも行 員出身で固めるようになったことは国家のため慶すべきであろう。
 之れに引換え農村金融の元締たる日本勧業銀行では前総裁馬場●一君は田中義一内閣の下に、梶原君を追出して据り込んだ貴族院は研究会からの天降 り者、しかもかつては法制局長官をやったことのある御仁だからどこから見ても官づるのチャキチャキである。然しマアそれでも当時警戒されたほど―否警戒さ れただけに?大した悪評も残さず、広田革新内閣の出現と共に遣言大臣として永田町の蔵相官邸に納まったのは何よりの幸であったそのお陰で拾い者をした現総 裁石井光雄君は人も知る銀行業には素人の馬場総裁の産婆役として今日まで勤め上げて来た人だけに御自分としてはその論功行賞の意味から当然の報酬?位に心 得ていることだろう。
 それだのに世評では勧銀には今尚は馬場と石井と総裁が二人いるなどと云われているのはどうしたことか?勧銀が全国十七の農工銀行を引具して最近 農村貸付金(既往分)の大幅利下を断行したのも全くは馬場総裁、否馬場蔵相の力だ…と言われるに至っては石井新総裁たるもの無かし、心中穏かならぬものが あろうが之れは何も筆者の知ったことではない。馬場君自身がツイ此頃まで蔵相と勧銀総裁の地位と時々敗違えて苦笑したことがあるのだから仕方がなかろう テ。
 馬場君は三十六年東大法科出身である。所謂三十六年組と称される者には、現内閣に馬場蔵相の他に商相小川郷太郎君があり入閣交渉を蹴って男を挙 げた日本興行銀行総裁結城豊太郎君、台湾銀行頭取保田次郎君、横浜正金銀行副頭取大久保利賢君等がある。更に亡くなった上杉慎吉君は馬場君と同期而も肝胆 相照した仲で今日まで在世ならば当然文相に就任しているだろうとは馬場君の嘆辞である。
馬場君は卒業後大蔵省に入り大蔵事務官まで出世したが目賀田種太郎男に認められて韓国統監府財政監となり、次いで法制局参事官、長官に歴任して官 を去り勅撰となった、政友会の利け者横田千之助君の知遇を受けて昭和二年田中内閣の無軌道人事で勧銀総裁に天降ったことは前陳の通りである。
 さて大蔵大臣としての馬場●一君が果してこの非常時局を背負って明年度の予算をどう按配して行くか、これは今後に課せられた大きな問題であるが 官づるの本筋から聊か横道に外れるのでこの辺で筆を止めることにし。序に勧銀の重役室を一わたり覗いて見ることにしよう。現在唯一人の天降り現業重役は佐 野正次理事であるが君の前任杉浦検一(理事)君も亦大蔵省畑の出身で、専売局部長から満鉄理事に転じ、更に勧銀入りをした人、馬場君より大学が二年先輩 で、そのためでもなかろうが馬場君と意見が合わず辞めたと云う元気者であった。
 佐野君は江戸名大の旧家札差しの家に育っただけに如何にもオットリとした御人柄、四十二年東大を出るや大蔵省に入り銀行検査官、名古屋税務監督 局長専売局長官に歴任して昭和九年杉浦君の後釜に据った。この間別に取立てていうほどのことも無い、謂わば平々凡々の官吏生活であったが、所謂三士、黒田 閥の外に在った人だけに馬場君が蔵相として大蔵省の人事異動を断行する際には相当の助言をブロック退治参画したのではないかとも云われている。(つづく)

金融の巻 (4) 『塞翁の馬』その儘の島田台銀前頭取 銀行界変り種の加藤鮮銀君

馬場前総裁、杉浦、佐野新旧理事の外にも現業重役ではないが、天降りとして監査役の平山鼎君がある、矢張り大蔵省出身で、国債整理局から地方税務監督局廻 りを勤め、広島税務監督局長を最後に昭和六年、勧銀入をした人である、かくて佐野、杉浦、更に平山君と勧銀には相当大蔵畑の官蔓がはびこっているが、然し 馬場君は自分自身が天降り当時囂々たる世の非難を浴びたのに鑑みてか何かは知らんが蔵相就任後の総裁には石井副総裁、又副総裁には理事の大橋信吉君を夫々 昇格せしめ理事の補充も行員から抜擢したことは当然のこととはいいながらそこには又時勢の力というものが働いていることも見逃し得ない
 それから大蔵省官吏の天降りに前台湾銀行頭取島田茂君のあったことを忘れてはならない、島田君は太田正孝、津島寿一、中島弥団次君等と共に明治 四十五年の東大経済科出身である、金融恐慌の昭和二年三月、即ち台銀が瀕死の断末魔に際して大蔵省特銀課長から取締役に天降り末曾有の苦難に遭遇した、当 時前途有馬の島田君がまだ四十を出たばかりで官吏生活からお去らばをした―というよりもさせられたのには知るもの皆同情を禁じ得なかったものだが、(尤も 天降る時には営繕局長に昇格され勅任官となったが)若槻内閣が恐慌に倒れて田中義一内閣が生れ、高橋蔵相の下に黒田英雄君が次官となるや、島田君は森広蔵 君の後を承けて一躍頭取に抜擢され、今度はアベコベに世間をアッと云わせた、言うまでもなく同郷の先輩黒田君の推薦によるものであったが、之れが後年君が 帝人問題に連座するに至った原因を作ったかと思えば洵に人事浮雲の如く、禍福はなえる縄の如しである
 島田君を失敬した序に現在頭取の保田次郎君を是非引合に出すさねばならぬが、君は官吏ではないが、元日銀国庫局長から鈴木島吉君に求められて興 銀副総裁となり、結城君が鈴木君の後を襲うに及んで同期生でありながら意見が合わず、間もなく飛び出して了った、爾来数年浪々の身を喞っていたが、昨年十 月拾われて台銀頭取に返り咲いたのである、一般に副頭取吉田勉君の昇格が予想されていただけに、当時天降り人事として不評であったが持つべきものは親分で 土方日銀総裁の推薦だというから有難いものである、台湾銀行も理事は何れも行員出身であるが、常任監査役加藤栄一郎君は大蔵省出である、四十二年東大政治 科出で普通銀行課長検査課長、日銀管理官を経て昨年台湾入をした、愛知県元代議士喜右衛門氏の長男として生れ家は裕福であるにも拘らず、年俸は一万五千円 とかで行員が薄給に甘んじて台銀復興に努めているのに、官づるによる天降りだからとてこんな高禄を食んでいるのは一般行員に取って誠に有難からぬ存在だと 言われている
 植民地発券銀行としてお隣りの朝鮮銀行を見るならば官づるの親玉に総裁加藤敬三郎君がいる。加藤君に就いては他の部分で一寸触れたが、明治三十 年日大を卒業して高文をパスし逓信省逓信局長、管理局長等を歴任して大正二年勧銀理事に天降ったのが銀行界に入った第一歩、大正十三年北拓頭取に選任さ れ、昭和二年更に鮮銀頭取となった、所謂銀行家には珍しい一癖も二癖もある面魂の持主、それに面白いのは御本人こそ天降りの典型であり乍ら特別議会を通過 した東北興業、東北電気を初め、台湾拓殖、南洋拓殖の諸会社へ官僚の古手が天降るのは絶対に反対だと称しているなど、如何にも人を食ったようなところがあ るかとおもえば、反面では又監督筋のエラい人には巧に甘く喰い入る独特の手腕もあるという、全くエタイの知れぬ癖物?であるがそれだけにどっちに転んでも このまま朽ち果てる人物ではあるまい(つづく)

金融界の巻 (5) 押売の利くのは何と言ても特銀 露骨な人事干渉も行わる

何といっても特殊銀行と大蔵省とは監督、被監督の関係にあるので古手官吏の天降り―否な押売には最も便利に出来ている、総裁の加藤敬三郎君は大蔵畑からで はないが現理事の色部貢君、監事の小島誠君は共に大蔵省系、それから小島君の前任木本房太郎君もたしか営繕管財局長から天降った筈である、然し総裁の加藤 君が型破りの銀行家であるに反して之れを補佐する副総裁以下の重役は至って温厚である
 殊に同じく官づるに育った重役でも色部理事の如きバンカースタイプというよりもむしろ学者タイプに近い方で、然かもその哲顔長身の優男にも似ず 相当気骨を備えているという、まず以て天降り者の内では上出来の部類であろう、大正二年の東大政治科出だが学生時代から国際法に詳しく、時たまたま日独開 戦に出会したので陸軍参謀本部から国際法の顧問に交渉を受けて、御当人希望の大蔵省の方と選択に困ったという今時の卒業生には聞くだに羨ましい就職逸話の 持主である結局恩師の高橋作衛博士の勧めに従って陸軍、大蔵両省の嘱託となったが大正六年に至って大蔵省の専任となり、後理財局事務官から台銀、鮮銀の管 理官を勤めて、昭和四年時の蔵相井上準之助と加藤総裁との懇望で鮮銀理事に天降った、官吏の古手によくある月給ばかり高く貪って徒らに威張り散らすという 悪い癖もなく年期も相当喰っているが仕事の方も割合にマスターしているとの評判であり先頃の満州中央銀行との業務協定に際しても可なり骨のある処を見せた とも言われている
 処で話の序だから一言しておきたいのは大蔵省は特銀に対して所謂監督官庁の立場にあるのでその重役の任免に就いて定められた権限のあることは勿 論だが、善意か悪意か時にその銓衝に際して甚だ不見識無定見の嫌があり、さらに露骨な人事干渉をやるとの非難を聞くのも決して珍しくはない、現に昨年鮮銀 理事松原純一君が副総裁に昇格した時のことだが、その欠員を選任するに当って、鮮銀の方から持ち出す候補者は何れも大蔵当局の認める処とならず、それでい てとどの詰りは横瀬守雄君の如き行員上りではあるが一般には意外とされた人が讚井源輔君のようなより有能な先輩を追越して任命されたなど正しく無定見を暴 露している、然かもその選任の事情が大蔵省では横瀬君の名前も知らないので許したというに至っては不徹底を通り越してむしろ滑稽の沙汰であろう
 次に監事小島誠君だが彼れは三十九年東大を出て大蔵省に入り、税務監督局事務官を振出しに累進して広島から大阪を経て東京税務監督局長となり鮮 銀に天降ったものである、尚小島君の前任大本房太郎君も大蔵畑出身であることは前述の通りだが、大本君は独学で文官試験に合格し二十九歳で漸く大蔵省に奉 職然かも夜は今の法政大学の前身和仏法律学校に学んだという小さいながら立志伝中の人物ではある、あえて大本君を引合に出す必要もないが、これからの若い 人達は大学をサラリーマン養成所とのみ考えず、又官吏の古手がその官職を足湯に財界に天降っていつまでも栄られるものとの時代的な考えを断然改めて貰いた いものである

金融界の巻 (6) 大蔵省とは縁の切れぬ興銀 公森理事の後任も天降りか

次に日本興業銀行を覗いて見るに今でこそ起債市場のリーダーだの興業金融の元締だのと威張りながら担保附社債の手数料を一年に百万円も稼いで涼しい顔をしているが、数年前までは五十円額面の株が二十四五円にも暴落して今に台銀の二の舞を演ずるかと随分世間から
 危ぶまれもし又警戒もされたものであるといって筆者は決して現総裁結城豊太郎君以下経営首脳部各位にケチをつけるのではなく寧ろかかる苦境から よくも今日の信用を取戻した努力と幸運とに対して敬意と賞讚を払うに吝ならぬのである、結城君は今更紹介するまでもなく官僚出身ではないが日銀育ち、名古 屋、大阪支店長を経て理事に昇任、親分の井上準之助君の推薦で安田に入り、保善社専務理事、安田銀行副頭取となったものだが当時結城君はまだ四十台の青 年?であったというから如何に其才腕の優れていたか絮説するに余りがある、否それのみでなく由来丁稚制度の旧式銀行から今日の大安田をデッチ上げたものも 全く君一人の力おいって過言でもない位だ、それだのに君の傲岸が禍したのか、相手の重役就中所謂御連枝連中が彼れを容れる寛量がなかったためか、ヤッサ モッサと内輪揉めをやった揚句昭和四年に外遊から帰ると淋しく其椅子を去って浪人の身となった、以来しばらく会社重役稼ぎなどをやって悶々の日を送ってい たが五年の九月再び井上親分に拾われて興銀の総裁に返り咲いた、当時は君自身も聊か役不足を感じていたようだが漸くその手腕を力量を発揮して今日では銀行 界で押しも押されもせぬ巨頭の列にのし上げたばかりでなく去る広田内閣の誕生に際して仮令拓務の伴食大臣にせよ交渉を受けて之れを蹴飛ばしあたりスッカリ 男を上げて了った、それもその筈君の野心は大蔵大臣が商工大臣にあったというから、交渉した馬場君が少し結城君をアンダー・エスチメートしていたか、でな ければクラスメートの手前、無理か厄介から一変誘いの水を向けたのか何れにしても、勧める方、勧められる方のどちらかに認識不足があったとしか考えられな い結城君に就てはそれ位にして次は理事の公森太郎君だがこれこそは正真正銘の官づるからの天降り、御多分に濡れぬ元は大蔵省の役人、海外財務官として永ら く支那に滞在、青島税関長を最後として昭和五年に興銀入をしたものである、支那滞在の多年の習俗が性をなしたか、人柄は茫洋として如何にも大陸的な所があ るが、それだけに支那通であり従って朝野の名士との交遊は至って広くかつ深い、大蔵省畑の出身者として珍しい型の人物である、冀東政府当りで君を欲しがっ ているらしいが果して動くかどうか、とにかく御当人は支那を舞台にして今一度活躍して見たいとの希望は捨てていないようだ
この外に前理事の松本弘造君が大蔵省出身であったことは巳に前陳の如く、今は故人となったが元早大添田寿一君、前理事天宅敬吉君等もともに大蔵省 からの天降りである、なお公森理事もこの八月に任期満了と共に辞任するとか伝えられているかその後釜が又大蔵省から天降るとか噂専らである(つづく)

金融界の巻 (8) 庶政一新を機に此弊風を一掃せよ 「天降り」は文明国の名折?

尚はこの外に役人から民間銀行に天降ったものに現第一銀行、昭和銀行各取締役で自動車工業会社の社長に返り咲いている加納友之介君がある、自動車工業の方は第一銀行を資本的に背景としている関係であるが同じ関係で石川島造船所の取締役をも兼ねている
 元来加納君は民間銀行家として最も華やかであったのは住友銀行に在って東京探題を勤めて居った時代であるが、その後第一銀行の重役に列するに 至ったのは、君が住友銀行を勇退してから東海銀行の頭取に就き、その東海を僅か金融恐慌直前に第一銀行に合併した時に始まる。さて話はあと先になったが 翻って加納君の官づる歴を繙けば、明治二十九年に東大を出て農商務省に入り、衆議院書記官、農商務省参事官まで進んだが、官界生活を僅か三年にしてアッサ リ見切りをつけ北海道拓殖銀行の理事に鞍替えしたのがそもそも天降りの第一歩、それから三十三年に住友銀行に東京支店長として再転し、累進して常務取締役 となり、一時は住友を背負って大いに東都金融界に活躍したものだが、例の石井定七事件で責を負い自ら引退した、水戸ッ皃の本性でもあろうが、気骨稜々たる 所があり、住友を去ったのも一つには故湯川寛吉君(当時銀行専務)の責任感に憤慨して辞表を叩きつけたとの噂もある
 この外民間銀行の官づるとしては安田銀行の前田利定子、第三銀行の取締役であった故岡崎国臣君、などあるが、何れも平取締役であり、殊に岡崎君に就ては取引所の項において紹介したから、説明を省略することにする
 只同じく金融界だが信託に三井の野守広君のあるのはチョッと珍しい存在である、野守君は明治三十八年東大独法を出て農商務省に入り、大林区山林 局等監督課長を経、保険事務官から南洋課長を最後として大正六年三井合名に調査役として天降ったもの、そして十三年三井信託の設立されるや転じて取締役副 社長となった、当時は野守君の存在は相当光っていたようだが最近は殆ど鳴かず飛ばずで影を潜めているのはどうしたことか
 更に官界からではないが日本銀行から民間銀行への天降りを調べて見るならばズット古い処で町田忠治君其他の所謂脱走七人組はさておいて、元鴻池 銀行常務で現に三和銀行取締役の加藤晴比古君から元東海銀行頭取の故川島栄次郎君等あり、下っては安田銀行常務の園部潜君、同貯蓄専務の大塚小一郎君、三 和頭取の中根貞彦君に常務取締役の下山元一君、また川崎第百銀行での星埜章、関根善作両君の新旧頭取川崎貯蓄常務に石塚滝三君あり、更に近い所では名古屋 銀行頭取に成立てのホヤホヤの井倉和雄君もあるが明治大正時代の日銀天降りが概して不印であったに比して最近の天降りは何れも相当の成績をあげ、「温室育 ち」の冷評の漸次消えつつあるのは頼もしい

以上で特殊金融機関を始め普通銀行に就てもあらまし(普通銀行は調べればまだまだあろうが)官づるを洗い立てた積りだが、この全班を通じて善人の 頭に浮んで来ることは「日本ではまだ役人の古手に食いはぐれはない、別けても特殊銀行会社は丸で大蔵省や其他主管官庁の役人払下の縄張りである」という風 に感じさせることであろう、民間人無きに非ず、いつまでもこんな官尊民卑の弊風が遺っているのは文明一等国として決して誇るべきことではなかろう!庶政一 新を標榜する広田内閣に対して切に廓正を要望して已まぬ次第である
筆者曰う、官づる物語も回を重ねることここに五十四、まだまだ手繰り出せば殆ど無蓋蔵にあるが次の賜物の都合もあるので一先ずこの辺で筆をおさめることとし他日又機会を見て筆連を新たにしたいと思う、幸に読者諸賢の御諒承を乞う


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