新聞記事文庫 人物伝記(3-061)
台湾日日新報(新聞) 1929.1.27-1929.2.7(昭和4)


沖縄秘話


(一)

 屏東南洋医院主伊江朝貞氏が嘗て大手術を受けて或は再び起ち得ぬ事ともならば、とて家に伝わる父祖の偉業の跡、琉球王国の秘話を纏め、沈黙を破りてと題して綴ったものを資料として未だ見ぬおきなわを覗いて観る独立の王国であった日本に貢し明朝に貢し反覆極まりなかりし両属の国、それが平和な忠誠な今日の沖縄県の前身である、平和であり忠誠であるだけ現在の朝鮮や台湾の住民の一部に流れる或種の思想に鑑みおきなわ物語を書く事とした

琉球の有史時代は我国の文治年間舜天王頃から真字仮字が現われ察度王の時始めて明へ通じて経学が伝わるようになった文の読み方は我国と同じで伝信録や和漢三才図絵等に載せる所のものに我国の古言が多いとか口碑に拠れば創めは一男一女が天降って三男二女を挙げ長男は天孫氏で王の始、次男は按司(諸候)の始、三男は百姓の始、長女は君々の始、次女は祝々の始で君々は天神、祝々は海神で此の二柱の神は共に国の守護神だと言伝えられて居る然し
 久米博士は古代紀に公々然、我国に於ける是までの俗伝は国士も人民もみな伊弉諾、伊弉冊の尊より生れて繁昌し他に比類なきと誇ったが。かかる談は今は科学の下に煙と消えたと論断して居る徹からすれば琉球の天から天下った男女の神様の話も否定される事となるが私は建国創業に迄も科学者流の解釈を試みようとする雑風景を厭う何処迄も神秘であり幽玄である所に古代の面影は浮み出るのではなかろうか。なれなれのなれあまれるをなれなれのなれたらざるを云々の古事記にこそなんぼうにか其の底深さを想わせらる事をよ

為朝のこと

 保元平治物語には、軍やぶれて伊豆の国に流さる、二十九歳にして鬼が島に渡り云々とあり、琉球事略には、二条院の永万年中為朝海に浮かみ流れに従いて国を求め琉球国にいたる国人其の武勇に畏れ服し遂に大里按司の妹に相具し舜天王をうむ為朝此の国にとどまる事日久しく、故土を想う事禁じ難くして遂に日本に帰れり云々とあり
有名な琉球の偉人蔡温選、中山世譜には
 南宋乾道乙酉、鎮西為朝公、流れに従い国に至り一子を生み而して帰る其子名は尊敦、後に浦添の按司と為る云々、又言う舜天王姓源、尊敦と号す父は鎮西八郎為朝公母は大里按司の妹云々
とあって流人為朝の鬱勃たる雄志は大島を平げ二条天皇の永万元年舟遊び中暴風に遭い運を天に任せ流れ流れて漂著したのが今の沖縄県国頭郡で同地の運天港の名は此れに由来すと伝えられている漂著後の為朝は島人に畏服されたとは言うものの胸に秘めた大鵬の壮図は果すに由もなくどんなにか悶々の情に馳られた事であろう、が大里按司の妹を得て僅かに乾き切った情操も一抹の霑いに浸り一子を挙げて更らにまずこの絶ち難いものも加わった之れが為め同島に止まる事が相当に永かったのは勿論だが時に孤島を照らす月影を眺めては偲ぶ都の事どもさては宗家を如何にせん去りなんかながつまをなが子を如何にせんあわれ八郎程の豪の者もどんなにか去就に悩み抜いたであろう事は今にしても想像される斯くてあるべきにあらねば再会を約し名残を留めて船出す夫人は舜天と共に港の畔の岩洞に籠り何時迄も何時迄も其の帰りを祷りつ待詫びた当時此の港を呼んで御待港と伝えられたがいつしか現今の牧港に変じたのだと言う

為朝のこと

仇し仇浪寄せては返せども、夫を父を焦れ慕う母子の切なる願も叶わで杳として永久に知る由もなき為朝の行方や如何あわれ歴史は伝わっても終焉を明かにすべき墳墓の地はない、英雄の霊魂今何処にかある
 伊江氏は当時荒天に悩まされ本島にでも漂著したのではあるまいか、生蕃を研究して見たいと思う、と言って居るが之も亦一著眼であると思う、弓箭と言い刀と言い蕃族の中に似通ったものもあるかのように思われる

舜天の即位

為朝の夫人能く公の志を受けて愛子尊敦を育しんだが英雄の血を享け継いだ尊敦は幼時既に豪胆長じて武勇に優れた一面父なき悲しみは一倍母に仕えて孝に流石は武門の裔よと島人渇仰の的となりつつ覇業の機を窺って居る折しも逆臣利勇天孫氏の子孫を亡ぼし自ら王位に著かんとしつ王の一族と鉾を交え国内混乱の巷と化した時至れりと計り舜天の兵を挙げて利勇を討ち国内を平げたので衆人は舜天を推して王位につかしめた、舜天より舜馬●王を経て義本王に至り国中飢饉打続き疫病亦流行した此の時王は群臣を召し、此二つの兇事起るは自らの不徳の至す所王位を踏むに堪えない汝等賢人を挙げ民をして二災を免れしめよ、と群臣感泣して其聖旨に従い天孫氏の後裔恵祖の嫡孫英祖をすすめた王喜びて試みに国政を執らしむる事七年賢をすすめ不肖を退け国中悉く泰んじ二災亦熄んだ其処で義本王は王位を英祖に譲って北山に隠れた時に亀山天皇の文応元年である

偉傑英祖

英祖王位に即きて国内安泰であったが外冠は刻々迫り弘安四年我が壱岐対馬を掠めて九州博多に迫った勿必烈は之より前琉球亦併呑せんと先ず使をして降参を迫った英祖其の無礼を怒り使を追い帰した、彷彿として胆斗の如き我時宗の面影に一脈の通うものがある英祖から大成、英慈二王を経王城王位についたが内に酒色に耽り外に出猟を事としたので政道衰え国は乱れに乱れて遂に花園天皇の正和年間に琉球は三つに分裂して山北王、山南王、中山王と三山鼎立の姿となって合戦に寧日なく日本本土との交通も全く杜絶えるに至った王城王の子西威は齢僅かに大歳で王位についたが素より国政は母妃の親らする所で事毎に乱れて遂に国民は此の世子を廃して賢人察度を挙げて王位をつかしめた浦添の按使察度が中山王となった時支那は明の太祖朱元璋が王で復亀山天皇の文中元年使を中山王に遣して招諭した当時日本は南北朝の時代で乱世であり琉球は叙述のように国が三山に分れて互に啀み合って居る状態なので日本本土との交通は疎くなって居る折柄の明使とて之れに頼って南山、北山を併呑せんとの考えから茲に明朝に貢を納れるようになった之が琉支関係の序開きである明は察度に福金銀印を贈り琉球国中山王察度を名乗らせ兵を送って其国を守らせたので宛然茲に属国の観を呈し支那から磁器鉄釜其他の渡ったのも此頃であると云う中山王が之れであるから北山も南山も相踵で明に貢を納れたので明王は大里按司に琉球国山南王承察度、今帰按司に琉球国山北五怕尼芝と名乗らせ三山を和睦させた次で中山王及山南王は明に留学生を送り明王亦●族三十六姓を移住させて学校教育の基を開いた、山南察度王の子武寧王は父の賢に似ず昼夜放逸酒色出猟を事とし政事衰え按司皆反いて鉾を向け尚巴志の為めに滅ぼされた

三山の統一

三山は争う事百余年何れの国内も疲弊し庶民も安き心もなかったのを慨して立った敷按司思紹は其子尚巴志を遣りて永楽三年中山王武寧を攻めて之を滅した諸按司は尚巴志を擁して中山王たらしめんと推したが固く辞し父思紹代って立ち後小松天皇の応永四年使を明に遣わし冊せられて中山王となった尚巴志克く父を輔け応永二十三年北山を攻略し後ち父の跡を嗣で立ち後花園天皇の永享元年南山を亡ぼし茲に三山は統一された此歳巴志使を明に遣わし琉球統一の旨を告げて冊封を請い明は巴志を琉球国中山王に封じ翌年尚姓を名乗らせ爾後王位継承毎に明の冊封使に依って王位を授けたものである

日琉関係再親

永享四年尚巴志は使を足利将軍義教に遣し茲に打絶えた日本本土と琉球の交通は復興した尚巴志より尚忠王を経て尚志達の時室町将軍は琉球を津島氏に与えた尚志達の後は叔父尚金福を嗣いだが其没後世子の魯と王弟布里互に王の位を争って戦い双方倶に陣没したので王弟尚泰久が王位についた此時日本本土の僧芥隠渡来して仏教を広め寺院を建てた尚泰久王の温順に付け込み勝連按司阿摩和利は異謀を企て王位を窺い先ず君側誠忠の英雄中城按司護佐丸讒して之を殺し機を得て首里城に攻め寄せた王始めて護佐丸の冤を知ったが事既に遅し鬼城に命じて阿摩和利を伐たしめた後土御門天皇の文正元年尚泰久王の子尚徳王の時鬼界ヶ島乱れて琉球に反いたが(現在鹿児島県下に編入されて在る旧琉球の原島は大島、徳の島、鬼界ヶ島、与論島、永良群島の諸島である)武勇に優れた尚徳王は自ら五十余艘の兵船を率いて鬼界ヶ島を討ち平げて間もなく凱旋したが戦勝の王は後ち遂に傲慢となり応仁元年使を朝鮮にやり通交を求めたが其覇気を果さず無道に流れて諫者は罪せられ諛者は用いられ政道日々に衰えゆくうちに此世を去ったが国人は世子を王位に即ける事を肯かず為朝の子舜天王の後裔尚円をあげて王位を継がしめた

日本は血縁

日本に貢し支那に貢し両属の国琉球は其の文化の道程亦両国等しいものはあるが唯一縷当時既に日本とは血脈の一貫したものが流れて居った王位を継いだ尚円が前に為朝の血を承けた舜天の裔であり後ちに現尚公爵家の祖先であるからである
 一説に『為朝公の子舜天王の孫義本王位を英祖王に譲って北山に帰る其の後裔なり』とある
王は賢であって生れ乍らに異端多く始め尚徳王に召されて黄帽宮より転じて耳目宮に転じた尚徳王の不義を諫めて容れられず去って浦添の内闇と言う所へ避け帰った尚徳王の没後国人は推して王位に即かしめんとしたが故王に世子ありとて固辞す、依って国人世子をなくして尚円を迎え文明二年(或は十二年)王位に即かしめた在位七年で薨じ世子尚真齢十二で位を継ぎ王弟尚義威政事を摂した次で尚清、尚元、尚永と位を相継で尚永に世子なく天正十七年尚真王の曾孫尚寧位に即く時に尚寧王の臣三司官邪那明朝にこびて日本への朝貢を廃し薩摩藩の使を却けて津島氏大に憤って慶長十四年二月兵船数百艘で来り攻め哀れ尚寧王は臣下にあやまられ戦敗れて捕われ薩摩に質たる事三年之より永世薩州附属の国となり徳川幕府慶賀の折々は王子を参朝せしめて貢献し又琉球王の即位には将軍の命を承けて薩藩より伝致し之れに対して他日恩謝の使臣を琉球より参朝させた尚寧王薨じて世子なく尚永王の弟尚豊位に即いたが当時支那よりも冊封され薩藩亦之を是認すると言う風で其後尚賢王以後六世十七年間絶え間なき両属の悩みと悲哀の跡を歴史は深刻に物語って居る

琉球の維新

徳川幕府が三百余年把握の大政を奉還した明治維新は当然琉球にも一大衝動を与え一大変革が行われたのは言う迄もないそれが恰も明治維新に彷彿して居る国論沸騰日本に附くか支那に頼るか将亦独立か此政治的一大難関に処して能く安乎たる沖縄の今日を築き上げた裏面には幕府の勝朝廷の大西郷、大久保其他の志士にも比すべき当時の琉球の政治家尚健か能く古来の立場を顧み其嚮う所を衍らせず然も其の挙の為め反対派の弾劾に遭い職を抛ち不遇の裏に政治的生涯を終った功績の潜む事を見遁す事は出来ない

志士尚健

尚健名は朝直、文正元年八月二十八日呱々の声を挙げ天保五年十七歳にて尚家の士族伊江朝平の後を嗣ぐ(南洋医院伊江朝貞氏の祖父)系図座奉行職より大与座奉行職に転じた天保九年十二月清帝冊封正使副使を遣して故尚潮王を諭祭し世子尚育を中山王に封じた大典の報告に尚健朝直は薩藩に派遣され地行百石を加増され安政元年将軍家定の紹統に慶賀正使に挙げられ同五年薩州に著いたが将軍俄かに薨じて参勤は中止となった万延元年四月将軍家茂の紹統に再び慶賀正使に挙げられたが同年七月老中久世大和守の内意に依り国事多端の故を以て延期されたが当時幕末尊皇壌夷論の沸騰で幕府は事実内憂外患交々至り真に多事の秋であり三月桜田の変で井伊大老は殪される等琉球慶賀使の参府は延期された儘世は明治に遷った此の時尚健朝直は平等方総奉行職(司法、司獄)で横目総奉行(風紀を糾す役)を兼ねて居た

明治と琉球

明治五年六月琉球国王を補佐し政務の枢機に与る最高官摂生与那城王子病気辞任の後を承けて尚健挙げられて摂生となった之琉球に於ける国相の最後である徳川幕府は政権を奉還し封建は廃されて廃藩知県となり茲に薩藩との従来の関係は絶たれたので鹿児島県参事大山綱良朝旨を承けて琉球使臣の入朝を促したので明治五年七月王政維新の慶賀正使尚健副使宜湾朝保参議官喜屋武朝扶等一行十名東上入朝する事となった琉球が足利時代より徳川幕府の末葉に至るまで将軍家へ入朝した事は屡々であったが皇室に対し奉り朝参の礼を修めたのは之が始てである此慶賀使を迎える政府は破格の優遇をして遠来の臣を歓待犒った当時の記録に依る
琉球使臣入京接遇の事

 近日上京に付き接待に付ては接待振の儀見込可申進旨致承知候国家は同所属の義に付外国人と視做し接待候には不及候乍去客礼を以て被遇候に付琉人に附添来る鹿児島県官員とも総て本省に属し右接待御用係被命御維新以来初て入京の義に付き優渥の御取扱相成可然存候右にて可然候わば本省並に鹿児島県へ速に御沙汰有之度候也壬申(明治五年)八月十五日 外務省
正院御中
とあり斯くて大蔵省は費用一万円を支出したのは当時に在りては其接待費の如何に巨額であったかが思われる正使一行の旅館は芝愛宕下の毛利邸が充てがわれた
 此処で思うのは外務省発文書中の外国人と視做し接待候には不及候の字句で既に当然領土であり同胞である事を明かにして在る事で朝鮮は暫く措き之を本島の領有に観る本島は支那より割譲されたものであり同時に島内の反抗する残兵を掃蕩駆逐し然して住民に布告して安堵して其儘永住する者は大日本帝国臣民とす之を嫌厭するものは何年何月何日迄に退去すべしと其去就の自由を与えた然も此事実に触れる事を避けて徒らに施政に反感を懐き或種の盲動をこれ事とする者有るは奇怪である聞く国家の慶弔日に国旗の樹立を肯ぜざる輩の如き児戯とあらば不問然らざれば当年の布告の精神の如く郷等は宜しく去って支那籍民たるべきである

表文の奉呈

使臣伊江朝直等は明治五年九月十五日午後一時参朝し正使伊江朝直、副使宜湾朝保、参議官喜屋武朝は式部輔に誘われて桜の間に憩い軈て伶人の奏楽裏に明治大帝出御遊ばされて玉座につかせられ太政大臣外務卿各省長官及次官の侍立を使臣は式部輔に誘われて進み畏くも竜顔に呎尺し式部輔より三使の名を披露言上すれば三使は磐折謹拝後天皇皇后両陛下へ尚泰王の表文並に献貢目録等を式部輔へ奉呈、輔は之を読上げて後上進した

尚泰王の表文

 恭惟、皇上登極以来乾綱始強庶政一新黎庶、皇恩に浴し歓欣鼓舞せざるなし尚泰南陬に在て伏して盛事を聞恐懼の至りに勝えず今正使尚健、副使向有恒、参議官向有新を遣し謹で朝賀の礼を修え且方物を貢す伏て奏聞を請う
 明治五年壬申七月十五日
 琉球尚泰謹奏
 恭惟、皇后位を中宮に正し徳至尊に配し天下の母儀となり四海日々文明の域に進み黎庶生を楽し三業に安ず尚泰海陬に在て伏て盛事を聞き懼祚の至りに勝えず今正使尚健副使向有恒参議官向有信を遣し謹んで慶賀の礼を修め且方物を貢す伏て奏聞を請う
 年月日 琉球尚泰謹奏
使臣等亦各自の献物目録を読上げ式部輔を経て奉献した、之に対し尚泰王には
 琉球の薩摩に附庸たる年久し今維新の際に会し上表且方物を献ず忠誠無二朕之を嘉納す
使臣等には
 汝等入朝す聞く汝の主の意を奉じて失うなし自ら方物を献ず深く嘉納す
陛下には冊封の勅を取らせられて之を外務卿に授け給い卿は宣伝し畢って使臣に伝えられた
 朕上天の景命に膺り万世一系の帝祚を紹き奄に四海を有ち八荒に君臨す今琉球近く南部に在り気類相同く言文異なる無く薩摩附庸の藩たり而して爾尚泰能く謹誠を致す宜く顕爵を与うべし聘して琉球藩王となし敍して華族に列す咨爾尚泰其れ藩屏の任を重し衆庶の上に立ち切に朕が意を体し永く皇室に輔たれ欽哉
此時使臣等謹拝して尚泰に代り謹て捧呈した請書は
 臣健等謹白す臣寡君の命を奉じ天朝に入貢す今、聖恩寡君を封じて藩王となし且華族に班せしむ、聖恩重渥恐感の至に堪えず健等代って詔命の辱を拝す
 月日
 正使尚健、副使向有恒、参議官向有新
次いで藩王の妃へ賜物の目録を式部輔宣読して之を授けた斯くて使臣等へも夫々御下賜金品を授けられたが、一行の為めには尚軍艦にて横須賀製鉄所其他を縦覧せしめて其の知見を博めしめる事に努めた
 この政府の措置に依って日本本土の文化の程度を識り帰って頑迷な守旧派に悩まされた伊江朝直外使臣一行の境遇が追て敍述するように頗る明治維新当時渡欧した伊藤博文其他の国士が帰って我国の頑迷者に悩まされた点と酷似して居る

御歌会に詠進

今年九月十八日、皇上吹上離宮の御歌会に三使臣をも召された歌人である副使宣湾朝保有恒の詠進歌は
 動きなき御代を心の厳が根にかけて絶えせぬ滝つ白糸
でいたく御嘉賞遊ばされたとある歌詞の巧拙は筆者此れを判い難きも同文の国であるとの考証には充分なる

光栄に輝く使臣

御歌会参列の光栄に浴した使臣は更らに同日皇太后、皇后両陛下に拝謁仰せ付かり献上物を願出て御嘉納あらせられた上御饗宴を賜わり数々の御下賜品あり明治五年十月勅諭並に御下賜品を奉じ光栄に輝きつつ退京品川を解纜して鹿児島に暫時滞留翌六年一月再び発般して琉球に向う途中逆風に遭って鬼界ヶ島に漂著したが折良く本島よりの使臣伊地知貞の乗船が碇泊して居たのへ移乗して帰国した此行が我王政維新の宏謨に基き琉球が朝勤の礼を修めた最初である爾来琉球は政府の直属として制度の革新と共に新文明に適応する施政を見んとしたが古来日支両国間に介在した情弊は一概に日本の文物を喜ぶ者斗りでなく就中守旧派は日本の封権制度の廃止四民平等権と云った形が其儘に琉球に行わるる事を怖れ厭いて新制度を呪咀して旧制度を復せしめんとし人心は恟々不穏の徴を来した当時政府は琉球の積弊を打破する一面租税を減免し征台の役を起して藩民を救恤したが(現在高雄州恒春郡四重渓統埔に墓碑を存する西郷従道侯の明治七年の役)征台の役も終りて対支問題漸く解決するや此処に琉球古来の両属政治は根本より革正し支那関係を断絶せしめんと廟議は決する所があった是より前伊江朝直は東京滞在中知行二百石を加増されて六百石の禄高となった慶賀使の功に依って更らに二百石の加増及恩賞金の沙汰のあったのを固辞したが翌七年九月藩庁は久米具志川切総地頭職を世子尚典(尚泰の世子俊の侯爵)に伊江朝直の殊勲を認めて之を恩納間切総地頭職に挙げた

琉球維新の序幕

政府は翌明治八年琉球藩に命じて清国と従来の関係を絶たしめ且征台役の謝恩として藩王尚泰の入勤を促し尚藩制改革等重大な問題に際会したので藩論は恰も明治維新の如く甲論乙駁極度に沸騰したが日本の文物制度に暗く世界の大勢を窺知せぬ多数の守旧派は斯かる事態を醸せし因は慶賀使一行の措置の過ちにありとて守旧派は国中に檄を飛ばして多数の士族を国学院に会して凝議し藩王に諫書を上呈し慶賀使一行を迫害弾劾至らざるなく遂に一行を刑に処せんとまで絶叫するに至った茲に悲惨なのは伊江朝直の夫人で住居に石塊を抛け込む悪罵の限りを尽す迫害の裏に煩悶病を得て女児を挙げて間もなく逝去した守旧派の多数党が明治九年三月藩主に提出した弾劾建議書は
 去る申年、伊江玉子、前宜湾親方喜屋武親、雲上東京へ御使者にて被御遣候時、藩主の御封冊直様御受仕り候処より重大の事件被申掛候に付藩主御称号御取返し御願被仰越候上、右御書面の相当の御咎被仰付度先達て奉願候処、急に御咎被仰付候わば差掛御願願筋の御障りに可相成も難計候間事能御願済御使者衆御聴相済候間可奉承知旨被仰渡奉畏候、臣として主君の御爵軽々敷御請右式国難の事供仕出候儀不忠無比上適恐入の書面差出被相真居候も御役場出勤等被仰付御咎向御無沙汰の様相見得申候刑罰は基い天心に順い、一人を罪して万人を救い給う忠愛の道此儀御国家の大典にて、君主さえも得々私に難被遊趣相見得候処右通出勤被仰付候儀は世上甚敷疑迷申居候尤御咎被仰付候わば御願筋の御障と可相成候との御沙汰候え共、於東京者国評不相円人心区々有之候抔と新聞致批判候由、左様候えば此涯君をなみし候方は早々御咎被仰付候わば人心一致に相堅候段は政府に相響き御願筋の為め可被成と奉存候間、急々御咎被仰付度奉存候以上
 子旧三月(明治九年丙子)
 (当時既に新聞は批判致居り候由と云う字句の使われて在るのは鳥渡眼を惹く)

琉球処分の一節

当時琉球の処分官であった松田内務大書記官の著『琉球処分』巻の下に一節は能く当時の事情を敍して在る
 『六月三日午前十時首里、那覇、久米、泊の士族総代二百名を出張所(在那覇内務省出張所)に集め予懇篤是等に説諭して曰く、此頃士族の中に於て伊江王子及故宜湾親方の子息某を殺害すべしと称して頻りに暴論を放つ者がある而して其趣意とする所は伊江王子及宜湾親方は先年立藩の令下った時上京して之を奉じた者に付今日の廃藩知県は彼の両人が立藩の令を奉じたるに依り起りたりとして之を憎むに出でたる由なれ共是れ甚だ誤見なり夫れ立藩の事たる政府は国制上行いしもので彼両人に於て之を如何ともする事は出来ない、特に故宜湾親方の如きは本琉球の一人物で忠良であり藩主に対し何等不忠の事を為すべきでない然るに漫りに罪を彼両人に帰して一般を煽動するは甚だ悪むべき所為なり而して拙者は能く其人物を探知し居るに付若し弥甚しければ之を縛して安寧を保護せんとするのである故に子等は其子弟を警戒して罪に抵らしめないように注意せよ』
文中故宜湾云々とあるが副使であった宜湾朝保は藩吏等の政府に対する会議を開く毎に社稷を安ずるに之れ努めず専ら己の門閥を保つ事に汲々たるを憂い長大息して
 野にすだく虫の声々かまびすし誰が聞わけてしなさだめせん
と口吟み党人等の跋扈迫害の裏に悶々の日を送り遂に病んで明治九年八月五十四歳で永眠した其長男亦那覇里主(那覇市尹)の冠を挂げて閉居した当時藩庁では党人等に対し偏に緩和策を講じたが熱狂する人心を鎮圧する事は出来なかった其処で政府は当時在京の琉球三司宮池城安規を召喚し責て曰く、先年使臣伊江王子及宜湾親方の封王の勅書を奉拝せしは恭順の道なり然るに士族者の之を罪に陥入れんとして沸騰するは叛逆無道の所為にして寛恕すべきでない速かに警官を派して之を調査し厳罰に処せん、と言渡したので池城は大に驚き是れ即ち頑迷無智の者の盲動であるから琉球藩に示達し自ら鎮圧の道を講じ度いから暫く政府の手を下すのを猶予され度いと陳弁し直ちに在京中の与那原親方、内間親雲上の両人を帰国させ政府の命を伝達させたので漸く事無きを得たのである
 斯様に慶賀使一行は当時弾劾と迫害の限りを受けたが其後日清戦役も終え領台当時頃には沖縄県民も大に覚醒し二区三郡七万人以上の有識階級を代表して尚順男爵は当時尚存命中の伊江朝直に昔日の罪を謝したとか、些か以て亡き宜湾朝保の霊も冥すべきか

琉球から沖縄へ

廃藩知県は明治十二年に行われ旧琉球藩は茲に沖縄県として更正したのである同時に尚泰王の弟尚弼並に伊江朝直は共に華族に列せられた伊江朝直の前半生は内に重大な疑獄事件を処断し外に英仏米蘭等の諸国船と通商貿易の衡に当り幕末迄徳川に入貢し王政復古の慶賀使としては永遠に琉球を泰山の安きに置くの措置に出でしも反対党の為めに極度の弾劾と圧迫を蒙り多事多難の生涯を経たが後年は報いられて県民崇高の的となり慰められつ風月を友とし明治二十九年一月四日七十九歳の高寿を保って永眠した、人となり謹直剛健、躯幹肥大の士であったと

池城の悶死

伊江朝直及宜湾の隠退後守旧派は極力復古を唱えて遂に藩庁に上書し往時に復旧せん事を頻りに乞うので藩庁も黙し難く政府に歎願する事となった此の時支那よりは探問啓文が来たので琉球王国は進退此処に谷まった此窮境を如何に処すべきかを決する為め参議官池城安規は陳情委員として東都に上京した途上鹿児島に大西郷を訪れ琉球の窮状を訴えて其の意見を求め大西郷より琉球処分は世界の大勢上斯なるのは自然の過程で如何ともする事は出来ぬが日支両国より苛責され苦痛は嘸かしと推察する依って宜しく日本政府に乞いて政府より彼に談判するよう取計ろうのが肝要だと智慧附けられ力を得て上京時の内務卿大久保利道に会ったが大久保先ず冒頭から当今の文明世界に於て両属の不可能なるを語り此の際断然支那と断絶せよと命じた之に対する池城の鎮痛なる答えは仰せ一々御尤なりされど琉球は由来弱少の国日本の命に従わんか支那の苛責を如何せんと述ぶれば大久保は重ねて鋭く然るが故に断然支那と絶ち日本のみを頼れと云うのであると言うのを池城は押返して由来琉球の地や支那に接近す若し支那に何等の交渉もなく日本の意に従わんか支那ば武力を以て臨むに相違なし然る時は琉球国中は修羅の巷と化し民を塗炭の苦みに陥らしむ願くば琉球処分問題を日琉間の交渉談判とせず日支間の交渉談判とし其処分を両者間で解決せんは事を進展せしむる唯一の方策と思うと説き去り説き来り平和裏に国を収めてとする熱誠は弁頗る明晰事理亦整然たるものがあったが此日は一先ず別れたが後ち大久保は池城の要求を悉く刎附けた
 此大久保の態度に就て余りにも池城の言の凡ならぬのに不審を懐いた大久保は密かに探査の末彼が上京の途次大西郷に逢った事が判ったので一概に他国の臣を使嗾して政府の事業を妨害するものとして大西郷に対する憤怒は自然池城に対する悪感情化したのだとの説がある苟も政府の枢機に参与して大局を処する者がとも今日では一応は考えられるが冷静に当時の国土を観るに其の大部分が理性より寧ろ其の熱情に依って維新の事業を成し遂げた事実に徴し或は這辺の消息も或はと窺われる
哀れ愛国者池城は目的を果さず悶死した若し夫れ前説の如しとしれば池城は大西郷、大久保両雄の感情疎隔に因る犠牲となったものとも言えよう一方守旧派は幸地、富川両人を支那へ脱走させ両人は屡々李鴻章に会い涙を以て琉球の国情を披瀝し支那より日本に交渉して琉球を日支両属たらしめんと懇願した
 守旧派両人の手段は池城と反対であり今日に在りては逆の如くにも思われるが国を思う精神は同じである唯先見の明に暗かったと言うのみ
然し遉に李鴻章である支那の大局より観て一小国琉球の問題より惹て日支間の国際関係の紛糾を虞れ捗々敷回答は与えなかった時偶々米大統領グランドが支那漫遊中であったので李鴻章を通じて歎願した其の主意は古来琉球は支那の属国である然るに日本政府は無断で之れを占領したので国人よりの哀願も頻々あり閣下の調停に依り此国際間の紛糾を円満に解決され度と懇願したグランドも最初は李鴻章への通一遍の義理位で日本へ談判を開始した然し予期した通り日本は此申込を拒絶した拒絶されて見ると左様ですかと今更ら引下がれない彼は再三再四迫って事態容易ならぬものが仄見えた今日でこそ世界の一等国で御座候で対等の地位にあれ当時の日本は建設の基礎未だ乎まらぬ時代であるグランドの談判は頓に進歩して或条件の下に妥協を見んとして来た

日支間の妥協

妥協の条件は琉球本島を日本に従属させ宮古及八重山島を支那に属せしめて国王の祭祀を絶たしめないのであった然し此策は琉球に取っては一大事である不幸にして国を両分されんか国力疲弊し国威は益々傾くのみである此解決を聞いた伊江朝直等親日派は泣て憤り守旧派亦此問題を始めて支那で李鴻章を通じてグランドに懇願した林成功の如く遥かに北京で之を聞き藩王に申訳なしとえて自刃した然し此妥協は成立しなかった
 若し此妥協が成立したと観る琉球は依然として両属の悲哀と痛苦より免れ得ず日支間亦此の土を介して事毎に事端を発し朝鮮の保全に依る日清戦役を待つ迄もなくそれ以外日支両国間は紛糾を醸して居た事とも思われる
時に再び琉球へ支那より探問文が来て献納物の無い故を責めた実に当時の琉球は眼がふるしい程の外患交々に進退谷まり三司官浦添朝昭は探問状に対する秘密の答文を認め独断で幸池親方を支那へ派遣した幸池は支那政府の当路者に密書を呈したが支那政府は頗る冷淡であった当時東京に支那公使阿如章が駐在して居たので守旧派は之に頼って支那政府に両属の請願を計った

薮蛇の盲動

阿公使はこの時好機逸す可からず欧米の手を藉りて日琉間の解決を附け自らは袖手漁夫の利を占めんと守旧派に告ぐるに、現今世界の大勢は文化の程度其強大に於て欧米に若くはなく而も琉球は英米仏と通商交通関係あり、とて極力日本政府の非道を罵詈攻撃し琉球藩の名を署した欧文の歎願書を三国に致して英米仏三公使は驚いて之を日本政府に手交した茲に於て政府は琉球藩守旧派の盲動は到底柔を以てしては制し難しとし一大英断の斧鉞を下す決議を為し伊藤博文の如き其急先鋒であった斯くて政府は尚泰より藩王の栄称を召上げ一侯爵に下し藩を廃し県を置き茲に琉球藩王国は事実に於て亡びた

幕末と藩末

頗る酷似して居るものがある守旧派の小人の為め尚泰に累を及ぼし王位を迄下るの止むなきに至らしめた点は結果に於て不忠ではあるが恰も彼の幕末上野に立籠った彰義隊士の心事と同じく大局には暗かったが其主君を思う衷情には同情させられる其一は武力に依って立ち一は策動に依った点を異にするのみ而も反って之が為め十五代将軍なり琉球藩王なりの心事を痛ましめた事も亦似て居る慶喜将軍が大政を奉還して恭順の意を表し日本国内を戦禍の巷より避けしめ三百余難間譜代の臣をして其の前途の安穏を計ったと同様、尚泰王亦侯爵に下るや民心の統一を図らんが為め其生涯を悉く民衆の犠牲に捧げ一生を東京に送って日本政府との融和を図った琉球が平和な今日の沖縄としての基礎には此の尊い犠牲と伊江朝直、宜湾朝保等が先見の明を確守して忍んだ苦衷が潜んで居るのである、居を東京に移した尚侯爵は専念新時代の知識を求める事に精進し子女の教養に熱注した女八重子は優等で女子高師を率え英昭皇太后陛下の御前講演の光栄さえ荷った、此尚泰侯の育英方針と努力は爾後十五年県庁より選抜された留学生高嶺朝教、護得久朝惟、岸本賀昌(三人共に後に代議士となる)太田朝敷(新聞記者、県会副議長)謝花昇(農学士にして政治家)其他有為の人材を続出させた

首里城の明渡

世界の大勢上琉球処分の道程は自然の推移であって古来の琉球国民に取っては如何に涙多く名残を惜しまれた事であろう守旧派の頑固党であっても其見解と主張に於て誤って居たとは言え琉球王国の回復の為めの熱情が侯爵に累を及ぼしたので一片掬すべき点ありその迫害を受けた慶賀使一行側は素より明かな予見の下に大局を観察して行動したとは言え明治十二年愈々首里の王城明渡の最後の日には多年臣仕した藩王の一侯爵として東路に立退く後ろ影、王城の回廊に太柱にも親しみは犇々と湧き去り難き離別の情に悶えた事であろうその悲惨の光景は遠く赤穂城を立退く浅野の遺臣、近くは江戸城を明渡した際の勝安房の心事に恐らくは異るものがなかったであろうと想われる、其後同県に師範教育は開始されたが斯かる過渡期には往々ある思潮ではあるが大政奉還後暫時徳川氏に対する一部国民のそれであったように師範学生中には尚侯爵に尊敬を払わず親まぬ事が陛下に忠誠なのであるとし途上偶々侯爵一行に逢うも敍礼せぬと云う状態で有識者を顰蹙せしめた
 之れに就て伊江朝貞氏は、私は琉球の昔を偲ぶ毎に朝鮮の頻々たる出来事が如何に李王殿下の御心を痛め人民に対し不利益を来すかを恐れ、同時に本島人が支那人を軽蔑視するのを見て屡々憤慨する事がある殊に対岸の排日の一原因は台湾籍民が大日本帝国の国旗を背景に支那人に無礼な行動を為す者があるからだと聞き是等亦誤れる忠君愛国者かなと歎くされど思え日支親善の大使命を果す大責任ある本島の人士は此種の小人達を戒め日支親善の効果を挙げて支那を救い東洋の平和を計り子々孫々の幸福の為めに貢献されんことを祈る…と述べて居る至言であると同感す

青年の活躍

前述の留学生高嶺其他の青年は勇進社と言う団体を組織し演説会を開き盛んに気焔を吐いた之が沖縄青年会の始めである当時多くの遊学生は真面目に学科を習得すると言うよりは下宿の四畳半で天下国家を論じ沖縄県制の特別制度を憤慨し機関雑誌を発行して幾度か発行停止、禁止を喰ったが其後業成って高嶺、護得久、太田等が明治三十六七年頃沖縄に帰り尚泰侯の三子尚順男爵等と計って沖縄新報を発刊した其主筆格が台湾には縁故の深い琉球の客人野間五造であった日清戦争後の沖縄は人心統一を図る必要から明治二十九年新教育を受けた琉球新報を中心とする人々に依って公同会と云う政治的団結を組織したか此団結の目的は藩王尚泰侯を沖縄県令として万般の政務を政府の方針に基いで行い其の内容は純然たる旧王国たらしめようと企てたのである今日より之を見れば誠に児戯のようではあるが当時の彼等は頗る真面目であった上京して代議士に依頼り、幾多の費用を使った
 此の辺が一部本島人の現在に似通って居る
政府は彼等を注意人物として其一挙一動に警察の眼は光った幸い是等青年慶応義塾出身の所から福沢諭吉翁は能く彼等を教え諭したので茲に内地延長主義の貫徹の為めに努力すべきである事を悟り奮闘努力遂に特別制度は撤廃され芽出度今日の沖縄を誕生させたのである是等の青年は後に代議士、県会議長、銀行頭取、新聞社長、主筆となり沖縄の文化に貢献したのである因に照屋鉄道部技師は明治三十年頃一高在学中東京に於ける沖縄青年会長として貢献した人で当時の学生は頗る真面目であったと
 伊江朝貞氏は稿末にて台湾は有為多望の人が少くない此沖縄の実績に鑑み彼の文化協会台湾議会云々等をして此転帰を取らしめよ確かに未来の代議士たり議長たる人々が居ると結んで居る

沖縄秘話附記

本秘話は伊江氏の旧稿を披見し未だ見ぬ沖縄を情話のように砕いて其の経緯をと筆を取ったのではあるが系図にも等しい心血を注いだ原文は動もすると其儘に筆を走らせる然も想い付いては卑見を挿み時に原文を改訂したので或は氏の心に悖るものがありはせぬかを懼る、原文は氏が父祖の偉業を後昆に残さんが為めの主感の熱涙随所に迸るに対し第三者としての本稿は唯に事実の羅列に過ぎない事も亦告白する、唯伊江氏と感を同うする私は本稿の一片だにも賢明なる本島有識青年の参考の資ともなり沖縄の過去の事情に鑑み平和なる道を辿って本島の将来を画策されん事を祈るのみである
 終りに沖縄県民に敬意を表し名門の末流伊江氏一家の弥栄えを祝福して擱く(麦門冬)
附記 本稿(六)の末記伊江朝直氏夫人とあるは伊江朝信氏夫人ツル子の誤りに付訂す、尚琉球の社稷を保ち能く今日らしめた志士伊江朝直家は次男朝信氏を経て長男故朝和、次男朝薫、三男朝貞(現屏東街南洋医院主伊江氏)長女故ウシ子に及んで居ると


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