兵庫県南部地震記録紙 1995年1月17日午前5時46分 M7.2−この経験を今後に生かすために−
社団法人兵庫県放射線技師会 平成7年1月 P165〜P168


神戸朝日病院の震災当日の状況

神戸朝日病院

 1995年1月17日午前5時46分。暗闇の中、突然の上下動にて地震が始まり、数十秒後に終わった。死者5500余名。ある人は家の下敷きとなり、ある人は家具に押し倒され、ある人は炎に包まれて亡くなった。死亡者の年齢別分布を見ると70歳、80歳の高齢者にピークがあり、20歳代にも小さな山がある。これは下宿していた学生や留学生である。焼死者も数は少ないが存在した。そして、生き延びた夥しい数の負傷者が病院に殺到した。
 職員はその頃、どうしていただろう。
 3階婦長は病棟のすべての患者の安否を確かめると、その場にへたりこんだ。(地震による倒壊を免れた彼女の自宅は数時間後に類焼、焼失してしまう)。幸いなことに入院患者に負傷者は全くいなかった。
 事務当直者は、倒れてきたカルテ棚を押さえて我に返ると、すぐに火災がないか院内を点検して回った。(彼の自宅での不幸を未だ知る事もなく)。
 院長は自宅から外に出てすぐ、阪神高速が倒壊している現場を見る。圧倒的な自然の力を目の当たりにした。病院はどうなったのか、院内保育所はどうなったのか、と気はせくのだが、家の倒壊で助け出された子供の心マッサージを頼まれ、救急車が来るまでひたすら胸をもみ続けた。
 大阪に住む内科医は、大きな揺れを感じたが家の被害はなく、出勤を見合わせようとしていた。しかし、その日当直があるのでやはり出勤しなければと孝え直し、ネクタイを締めて車に乗った。震災時ネクタイを締めて出勤したたった一人の医者であったという事も、今となれば笑い話の一つである。渋滞のため、病院まで9時間かかることを彼はまだ知らなかった。
 大阪在住の外科医は、その日に病院にたどり着けずUターンし自宅に戻った。次の日はパトカーで元町にある神戸赤十字病院に急行し、救急医療に従事した。他の外科医は、知り合いから借りた自転車で孤島となったポートアイランドから出勤した。
 その日病院に出勤できなかった技術部長は、地震直後より、近所の倒壊家屋から十数名の生存者と数名の死者を引き出した。
 病院の前では負傷者が真っ暗な中、入り口を叩いて大声を上げている。正面入り口を開けるのはまずいと判断した看護部長は、救急入り口から一人一人患者を選別して病院へ入れる。婦長室で寝ていた彼女は、もう少しで壊れた本棚の扉で胸を突き刺されるところであったが、自力で這いだしたと言う。その日、窓際の薄明かりと懐中電灯の明かりの下で、押し掛ける患者の消毒と介助に全精力を注ぐことになる。当直医の医師、最初に病院に到着した内科医、3階婦長、看護部長、看護婦2名の計6人で、その日約 400名の負傷者を治療した。しかし、何人を縫合したのか、何人の消毒をしたのか、実数は今もはっきりしない。 400名というのはあくまでも看護部長の推測である。6名が心肺停止の状態で運ばれてきた。3名が挿管されたがその努力は報われなかった。ここからほぼ72時間、不眠不休で災害後の入院患者の看護が続けられることになる。
 病院の水道、電気、ガスはいずれもストップしたが、入院患者の食事を作る事と水の確保という最も困難な仕事に立ち向かったのは、栄養部門、技術部長、検査技師であった。加えて被災者である近所の人や患者の家族とボランティアの協力がなければ、我々は生き延びることは出来なかったであろう。入院患者にその日の昼には、お粥と汁ではあるが温かい食事を出すことが出来た。ライフラインの回復した今でも信じられないくらいである。その日の夕方には院長の指揮の下、対策本部が作られ、今後のスケジュールが決められた。翌日から午前診のみの診療と24時間救急体制が始まることになる。目まぐるしく変わる問題の発生とその対応に追われ、嵐のような1週間が続くことになる。

 

『震災時の放射線科の動き』

放射線科  金 和成

 当時、当院放射線部門のスタッフは診療放射線技師3名、助手1名の計4名にて、一般X線撮影室(断層を含む)2室とX線CT室、X線TV室、アンギオ室を受け持ち、各業務を行っていた。
 95年1月17日、午前5時46分、地震発生。院内には非常用発電のモーター音と非常用警報音が鳴り響き、暗い廊下に点々と非常灯が点灯していた。
 当日、当直をしていた私は、院内の火災の発生の有無と院内の状況を調べるため、院内を走り回っていた。地震発生から30分後には負傷した人が病院玄関前に来て、救急入りロのチャイムを鳴らし続けていた。時が経過するにつれ負傷者の数は増え、ロビーは負傷者であふれかえっていた。
 放射線科は、X線CT室のコンピュータがドアに当たりガラスが割れていた。本棚等は傾き本や書類等が床に散乱し足の踏み場もない状況であった。しかし、装置自体には大きな損傷は認めず、設置場所からわずかにずれた程度であった。その後、私は身内の不幸のため1週間ほど職場を離れた。
 大阪に住む大西技師は震災当日電車が不通な為、車で神戸に向かうが、西宮あたりで渋滞に遭い、一旦自宅に戻り翌日原付自動二輪で3〜4時間かけて病院にたどり着いた。彼はその日から1週間ほど病院で泊まり込みながら業務に従事することになった。
 兵庫区に住む吉田技師は、自宅が半壊となり、震災当日から3日目に1時間以上かけながら病院に出勤した。
 助手の宇江原氏は震災当日病院に駆けつけ一人室内の整理に当たった。
 放射線科のスタッフ全員が顔を合わせることができたのは震災後6日目になってからであり、その後も泊まり込みながら業務を行う。
 震災直後、電気、水道、ガス等のライフラインすべてがストップしたため、X線撮影業務が行えなかったが、2日目に院内に一部に電気が通じ、ポータブルX線装置にて病棟及び一般外傷患者の撮影を行い、現像した。はじめのうちはバット現像方式から始まり、電気が供給された3日目からは自現機の現像タンクに水を溜め、流水なしで現像を行う。震災後4日目に一般X線撮影コントの1台が故障していたが、それ以外すべての装置が作動した。
 この日から本格的にX線業務が開始される。震災後、震災前の勤務状態に戻るまで約4ヶ月かかった。その間多くの方々から物心両面からご援助いただき、誠にありがたく心から感謝いたします。
 特に震災後、多くの方々がボランティアとして当院に来られました。放射線科には、朴貴志氏(吉田アーデント病院)、岸本勝見氏(住吉川病院)、岡橋泰氏(公立宍粟郡民病院)、黄寛氏(青葉丘病院)の方々が応援に駆けつけていただき、誠にありがとうございました。
 震災の状況すべてを伝えることはできないが、震災の大きな被害とともに、私たちに残した貴重な体験やそのときの事実を、今後とも多くの人々に語り続けたいと思う。

『病院の被災状況』

 地震当日は、病院内での被災者はなかった。建物に大きな被災はなく医療機器に幾つか損傷を受けた。断水、停電により、X線写真は全く撮影できなかった。検査機器のうち電解質測定器は暖房がきかないため冷えすぎて、震災後3〜4日に稼働しなくなった。水、電気、ガスのストップにより病院機能は大幅に低下した。
 主な、病院の被害状況は、次の表の通りである。

《神戸朝日病院の被災状況》

『職員の出勤状況』

 連絡網の途絶えた中、当日でも6割の職員が出勤し、出勤率は1週間で80%〜90%まで回復した。次ページの表の分母が予定出勤数、分子が実際の出勤数である。少し上下はあっても職員の出勤率がほぼ同様の足どりで増えてくる様子がこの数値で読みとれる。数値が低い部署は簡単にいえば被災した人が多くいたことを意味していると考えてよい。
 22日(日)もほぼ通常通りの勤務を行っつた。特に病棟看護婦は連続勤務となり疲労は極度に達した。
 病院の被災が少なかったこと、そのため入院患者の死亡が無かったこと、当直者の的確な判新、職員の団結、患者の協力など数多くの幸運と、多くの人々に助けられて難を乗りきったと言える。(職員の家族は、5名死亡している。全焼や全壊など職員15人が家屋に大きな被害を被った。)

《一週間の勤務状況》

《病院の復旧状況》

1月17日: 医師午前3名、午後医師7名、外傷者数 400名、救急入口でのトリアージ、DOA6名搬送
1月18日:変則だが外来を始める(内科、外科 午前診のみ)、電気 午後6時に部分復旧(病棟のみ)、ポータブルXP稼働、公団住宅から住民がパニックで押し掛け、外来占拠
1月19日: 午前、大阪の共和病院より医療材料を救急車を使い運搬、午後、西神戸朝初中級学校より、プロパン、、石油ストーブが届く
1月20日: ボランティアより水の調達
1月21日: 電気完全復旧、XP、CT稼働、西新井病院より救急車貸与
1月22日: ラジオでボランティア募集
1月23日: ボランティア多数来院、みどり病院より救急車貸与
1月24日: カリフォルニアから医師ボランティア来院
1月25日: 簡易風呂設置
1月28日: 手術可能となる。ヘリコプターによる搬送
1月29日: 医師訪問団
1月30日: 創外固定術
2月 1日: 鎖骨骨折の手術
2月13日: 午前外来リハビリ開始、タ診一部再開
2月下旬: 水道復旧
3月中旬: ガス復旧(給湯、暖房は器具の故障により3月末)


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