兵庫県南部地震記録紙 1995年1月17日午前5時46分 M7.2−この経験を今後に生かすために−
社団法人兵庫県放射線技師会 平成7年1月 P169〜P172


「1995年1月17日」

兵庫県立淡路病院放射線科  北絛 高志

 休日の救急業務は殊に繁忙で、24時間連続勤務になりかねない。
 1995年1月16日(休日)の救急業務は、17日の深夜帯に至ってもとぎれとぎれの来院に仮眠する暇もなく、午前5時すぎに頭部CTをとり終えた。
 「これで最後にしてもらいたいなあ」と念じつつ、疲れた体を当直室の畳の上に横たえた。少しうとうとしかけたところで、突然突き上がるような衝撃があった。『地震! ?』かと思うと同時に横揺れがあった。どっどっ、ぐらぐらという感じで、身を起こすこともできないまま、四つん這いになったままで、じっとしている他なかった。
 揺れがおさまって、揺れ戻しがあるのではないかと、しばらくそのままで佇んでいたが、意を決して、救急センターに急行した。
 救急センターには、保安員の人と救急受付事務の人が常駐されているのだか、保安の人は防火扉が閉じたとのことで現場に直行し、受付の事務員一人だけが残っていた。
 家族のことが気になり、震災で救急患者が来ることも予測され、帰宅も出来なくなるのではとの思いから自宅に電話した。電話の呼び出し音だけが耳元にこだする。「どないしよるんやろ」と心配もし、イライラしたが、電話が繋がったことにほっとした。「みんな大丈夫か」との問いに電話ロに出た妻は、唇が震えるままに、「ものすごく揺れて、屋根が落ちてくるんやないかと思った」と語り、要領を得ず、地震の恐怖が覚めやらない。「みんな大丈夫なんやな」との念押しに「大丈夫です」との一言で、よかったと思いつつ、「どないなるかわからへんけど、もし患者さんが大勢くると帰られへんから、両方のおばあちゃんに電話かけて家のほうがどないなっとるんか調べといてくれ」と言って電話を切った。
 事務員の人に、「おおきな地震だったけどどうでした」、「いまの地震で救患がくるかも知れへんなぁ」と声をかけつつ、雑談をしながら救急センターに待機した。
 午前5時58分に最初の患者さんが直接来院した。洲本市内の人で、地震で割れた窓ガラスが手にあたって受傷したというものであった。手の写真を撮り終えたあと、しばらく何の動きもなかった。
 しかし、6時半すぎから次々と救急患者が来院してきた。頭部外傷や肋骨骨折、また脊椎損傷の患者さんが次から次へと絶え間なく続く。病院として被災患者受け入れの準備体制が図られていたのだろうが、早朝といういうこともあり、当初、医師も看護婦も足りない体制の中で対処しなければならなかった。まして放射線技師は1名のみである。他の技師が駆けつけてくれるまでの1時間ばかりの記憶が殆んどない。印象に残っているのは、看護婦もついてもらえない中で患者さんを預かりながら、撮影室やCT室で業務を行っていたことであろうか。撮影後現像し、患者さんを救急センターに帰し、フィルムを届ける。無我夢中であった。
 ドタバタ、ドタバタ、そのような形容詞がぴったりするような業務遂行状況の中、そうこうしている内に、Sさんが心配気な顔付きで駆けつけてきてくれた。無言のままで患者さんの撮影を早速に手伝ってくれる。「助かった」と安堵しながらも撮影は待ったなしである。Sさんの援助を得て、一人の患者さんの撮影を撮り終え、気が付くと別室でT君が撮影をしてくれている。「おおきに」と声をかけると若いT君は苦笑していた。
 後で知ったことだが、T君の家は屋根の庇が崩れ落ち、家も傾くという被害にあった。どうしていいかも分からず、病院が気になり、気が付いたときには病院に駆けつけてきていたというのである。本当に泣きたい気持ちで一杯だったことだろう。

(県立淡路病院)

(県立淡路病院)

 時間ははっきり覚えていないが、8時を過ぎるころには、技師の大半が出勤し、代休や年休予定の技師も駆けつけ、患者さんの撮影も手際良くスムーズにこなせるようになった。
 9時ごろだったであろうか、フィルムを救急センターに届けると、足の踏み場もないほどの混雑を極めている。野戦病院とはこのことかと見まごうほどの修羅場である。
 心臓マッサージ、人ロ呼吸器、出血している患者、患者さんの呻き声、医師と看護婦も大勢いる。大きな声が飛び交う。遺体はリニアック棟にとの声も聞こえる。救急センターに隣接したリニアック棟が遺体安置所とされ、息を引き取った患者さんが収容されていた。
 9時から10時と時間が経つにしたがって全身壁土まみれの患者さんが目立つようになってきた。家屋が倒壊し、下敷きになった患者さんが救出されて、やっと運びこまれてきたものだ。骨盤骨折や多発性骨折が多い。この頃になると受付の整理もままならなくなっていたためか、ストレッチャーに横たわる患者さんの体に、マジックで名前が書き込まれているのが目立った。
 通常の外来診療もあったものの、11時すぎには救急患者さんの来院ピークが去り、この頃には放射線科は普段の状態に戻っていた。11時30分にようやく帰宅を許され、15時間にわたる救急業務を終えた。
 震災から6ケ月経過した。鮮明に当日のことを記憶にとどめておくことはむずかしい。また、放射線科という限られた空間の中で、救急受入れ状況を把握するのは困難である。記憶をたどりながらの、当日の放射線科の対応はほぼ上記のようなものだったと思う。
 病院にいた限りでは、地震当初、こんなにも悲惨な事態になろうとは想像さえ出来なかった。運ばれてくる患者さんが多くなるにしたがって、また重傷者が多くなるにしたがって認識を変えざるを得なかったものの、事態の把握はテレビ報道を見るまでできなかったのが実情だった。
 病院の被害が殆んどなく、連休後の勤務日だったこともあって、被災患者の受け入れ体制が、スムーズに行えたことが幸だったと言わざるを得ない。
 淡路島の一市十町の地震発生当初の被害者状況は、北淡町で38名が死亡したのをはじめ、一宮町、津名町、洲本市の一市三町で56名が死亡し、負傷者は1031名、うち重傷が83名にのぼっている。
 当日の淡路病院への受診患者総数は、70名(死亡6名、入院18名)であり、緊急手術は肺、腹部損傷など4件であったと聞いている。

(県立淡路病院)

(県立淡路病院)

(県立淡路病院)


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