兵庫県南部地震記録紙 1995年1月17日午前5時46分 M7.2−この経験を今後に生かすために−
社団法人兵庫県放射線技師会 平成7年1月 P173〜P177


救急病院での診療放射線技師の行動

小原病院  草壁 宏保

 1995年1月17日火曜日午前5時46分、その瞬間がやって来た。私は神戸市兵庫区の救急病院に勤務する診療放射線技師である。私は前日より日勤当直勤務に付いており、救急当番日で疲れきった体を仮眠ベットに横たえていた。
 地面を引き裂くような地鳴りと共に、建物自体が突き上げられるような縦揺れ、全ての物を投げ倒す横揺れ。暗闇の中、建物がきしむ音、ガラスの割れる音、何かが崩れ落ちる音、何が何だか判らなく、私はただ頭を抱え揺れの収まるのをじっと待った。「な、なんだ今のは。地震か。死ぬかと思った。なんかすげえ事が起こってる。」この時、私は今直面している事が如何に重大なことかまだ知る由もなかった。
 私が仮眠している部屋は窓もなく、扉を閉め切ると真っ暗闇になる。揺れが収まってから明かりをつけようとスイッチを押したが反応しなかった。地震で停電になること自体初体験だったのである。
 スリッパを探りながら床に足を付けたら、何かの破片が散乱していた。スリッパが見つからずおそるおそる立ち上がり周りを見回してみた。いつも閉まっているはずのCT室へのドアが少し開いており、非常電源がついているのか微かな光が漏れていた。私はそのドアを必死に開けようと試みたが床が迫り上がって開かなかった。閉じ込められたかと一瞬青ざめたが、幸いにも、もう一カ所のドアが開き、放射線室から脱出する事が出来た。
 部屋から出てみると、非常灯の薄明かりの照らす中、周りの光景に愕然としてしまった。階段を滝の如く流れ落ちる水。スプリンクラーの配管からも水が噴き出し、床は一面水浸しになっていた。自動販売機がまるでおもちゃ箱を引っ繰り返したように転がり、通路をふさいでいた。壁にはいたる所でヒビが入り、崩れて落ち、柱は鉄筋が剥き出しになっていた。防火扉は閉まっている物、外れかかっている物と、ただの邪魔物状態。外来では薬品棚や交換車等が倒れ、アンプル等の薬品類が割れ、悲惨な状態になっていた。
 私と外来スタッフは、お互いの無事を確認し、各詰め所のスタッフや入院患者等の無事を確認に回った。幸い当院の当直スタッフ、入院患者には大きなケガ等のトラブルはなかった。
 確認作業終了後、我が放射線科の機器等の被害状況を調べに廻った。被害状況は透視台の固定アンカーが抜けて傾き使用不能、もう1台の透視台もX線コントが転倒し使用不能。CT室の操作室へのドアが開かない為、患者搬入用のドアの鍵を壊しCT室に入った。CT本体は原型を留めていたが、X線コント等が傾いており、使用出来るかどうか不明だった。自動現像機は転倒は免れていたが、床に相当量の処理液が漏れ出していた。通電後に判明したのだが、フイルム検出基板に現像液がかかり使用不能に陥っていた。その他の機器は幸いにも使用可能な状態であった。技師室やフイルム管理室等は目を覆いたくなるような散々たる状態であった。
 その後家族たちとも連絡が付き、安堵した反面、この目の前の状況に途方に暮れていた。
 地震発生から30分位過ぎたころだろうか、歩行可能な切瘡や軽度打撲等の軽症の患者が来院し始めていた。救急外来はまだ落ち着いていたが、私たちスタッフはこれから始まる地獄絵をまだ想像もしていなかった。この後、分単位で患者の数が増えて行き、運ばれて来る患者の姿が時間を追う毎に土や泥で汚れてくるのが、事態の悲惨さを物語っていた。
 この非常事態に対応して、職員寮には非常召集がかかっており、素顔のままの看護婦、看護学生、事務員が次々とやって来ていた。
 病院の玄関先に車が止まり、「子供がタンスに下敷きになっていたんや。息してないんや。助けてくれ。」男の子を胸にしっかりと抱えた父親が、開きっぱなしになっている自動ドアから飛び込んで来た。既に処置室は患者でいっぱいで収容できず、ストレッチャーに乗せ診察室に入った。この11歳の男の子は既に心肺停止で即死状態であったが、気管内挿管、心臓マッサージの開始、懸命な蘇生術が開始された。それから数分後、母親に抱かれた幼い女の子が外来に飛び込んで来た。年齢は7歳。この子もタンスの下敷きになり心肺停止状態であった。もう既に収容する場所もなく、待ち合いの椅子に寝かせ診察し、すぐさま心肺蘇生術を開始した。なんとこの11歳の男の子と7歳の女の子は兄妹であった。
 この様な不幸な患者が次から次と搬送されて来た。ある者は自力で、ある者は肩を借り、おぶられ、抱かれ、畳や板に乗せられて来院した。この方たちを寝かすストレッチャーも底を尽き、椅子の数も足らない。仕方なく床に毛布を敷き処置をするしか方法がなかった。我々スタッフは2人づつ分かれ、アンビューを揉む者と心臓マッサージをする者とで懸命に蘇生術を行っていた。累々と横たわり物言わぬ患者。患者の体温を下げないように懸命に体を摩る家族の悲痛な叫び、苦痛を訴える患者の叫び声が渦巻く中、医師達もライフラインの断たれた中、出来る限りの医療を懸命に行っていた。
 私もスタッフの一員として看護学生と共に11歳の男の子の心臓マッサージを行った。何げなく施行していた心臓マッサージだが、学生と交代するとその学生はどこを押したら良いのか分からず、どうもうまく行かない。私はその方法を教え、学生もなんとか理解し正確に心臓マッサージを施行し始めた。その時私の脳裏を走るものがあった。“そういえば、去年2月神戸頭部研究会で救急医療をテーマに心肺蘇生の勉強をしたな。姫路循環病センターまでみんなと出かけ、夜遅くまでとことん仕込んでもらったな。こんなときに役に立つなんて、研究会もだてじゃない。”と思う一瞬であった。
 通常、病院内で行う心臓マッサージは心電図モニターでチェックしながら行うものだが、停電とこれだけ多数の患者数では望むすべもなく、しかたなく触診で脈の回復を見ていたが、患者の体温がどんどん下がって行くのが触診している手に伝わって来る。蘇生されぬまま時間だけが無情に過ぎて行く。「もどれ!もどれ!」と心の中で叫びながら続けられていた。医師がボスミン心注にやって来た。長針が心臓に達した瞬間にわずかにピクッと反応した様に感じた。「もどれ!もどれ!」「帰って来い!帰って来い!」本当に必死だった。また時間が経ち、私が諦めかけたとき「諦めるな!希望を捨てるな!みんな頑張れ!」と若い医師の叫び声に支えられ、僅かな可能性を求め、スタッフと家族と共に蘇生するのを夢見ながら戦った。家族も傷を負いながら必死で体を摩り、声をかけ続けていた。
 この子の母親が叫びかけた言葉の中で、いまだに忘れることができない言葉がある。[賢嗣、起きなさい。言うこと聞いて。今まで母さんの言うこと一つも聞かなかったんやから、一つぐらい言うこと聞いて!目を覚まして!起きなさい賢嗣! !」 今でも思い出す度に目頭が熱くなる。
 この子に対する蘇生術は4時間にも及んだ。無駄なことしたという意見もあるかも知れないが、私達にはこの子たちの家族たちが納得するまで手を止めることが出来なかった。
 17日に心肺停止で搬入された患者達は二度とその笑顔を見せる事もなく永眠された。(蘇生に1名成功したが、翌日永眠された)。これから迎えるだろう素晴らしい日々、静かに過ごされていた勇退の日々、夢、希望を一瞬にして無にし、多くの尊い命を奪い去った地震、本当に悔しかった。

 私が心臓マッサージをしていると若い医師がやって来て「草壁さん、レントゲン何とか撮られんか。停電しとるし、やっぱ無理かな。」と言う。私もやれるものなら何とかしたい。しかし、停電、しかも断水じゃどうしようもないと考えていたら、ふと考えついた事があった。それは、 
 ◎停電中に撮影が出来るか?
ポータブル撮影装置がある。電源はバッテリー供給タイプだから、フル充電状態にしてあるから100枚は撮影出来るだろう。
 ◎現像処理はどうする?
・自動現像機は使えない
現像は手現像でしよう。昔使用していたバットがある。幸いにも現像液、定着液は昨日作ったところだからたっぷりとある。手現像は学生のときに実習でしかしたことがないが、何とかやるしかない。
・水道が止まってる。水洗はどうする。?
消火栓内に多少残っている残水を使用できる。プラッチック製の衣装箱をバットにして水洗をしよう。
 ◎暗室光はどうする?
セーフライト内に懐中電灯入れれば何とか見えるだろう。

 以上のことを考えながら、何とか撮影出来ることを医師に告げ、一般撮影室に戻ろうと周りを見渡した。既にロビー、廊下は患者で溢れかえっていた。床は大量の血液と泥や土で汚れていた。そんな床の上に横たわりもの言わぬ患者、その側で心肺蘇生をしているスタッフ、泣き叫ぶ家族たち、苦痛を訴える患者、それはまるで地獄絵を見ているようだった。
 ポータブル撮影装置を一般撮影室に移動してから私にとって本当の意味の戦いが始まった。現在病院にいる診療放射線技師は私一人。当院にはあと二人の技師がおり、二人共こちらに向かうとの連絡を受けてはいたが、交通網は破壊され、車は極限の渋滞、応援を当てにすることなど望めない。一人で撮影、バット現像、そして撮影する患者は全身打撲の重篤な症状、いかに相当数の人数をこなすか、時間との戦いとなった。当然の事ながらポータブルでの撮影は天井走行の様に手早く位置着けは出来ない。撮影後のバット現像は非常に時間がかかるうえ、一度に大量現像が出来ず、苛立ちながらの作業が続いた。
 初体験のバット現像による大量現像に対する色々な問題にも直面し、解決方法を模索しながら現像にあたった。問題点及び解決法を連記すると下記の通りである。
 1.現像温度が非常に低く、現像の濃度が上がらない。
 →バットに手のひらを入れて加温した。
 2.バットが大4切サイズの為、大きいサイズのフイルムに、攪拌不足による現像ムラが生じた。
 →大角、半切などはフイルムを丸めて、出来るだけ均一に攪拌するように努めた。
 3.現像停止液などの行程を省いたため、ガブリが生じた。また定着液の劣化を速めてしまった。
 4.溜め水による水洗は大型バットで行ったが、すぐに汚れてしまい、水の確保に苦労した。

 この様な悲惨な状況下での撮影を行っていたが、幸いなことに3時間後には通電が有り、天井走行が使用可能になり、撮影能率は改善された。しかし、自動現像機は処理液が基板にかかって使用不能であるのが確認され、現像はバット現像を続けなければならなかった。この現状では1時間に4〜5人が撮影の限界であったが、重症を患者を優先し、最大の努力が繰り返された。
 放射線室には、手の空いてる職員が水洗、乾燥、カルテ処理等を手分けして作業に当たった。食事も取る暇もなく、炊き出しのおにぎりを頬張りながらの作業であった。外来サイドは一刻も早く撮影を終え、処置を済まし各病室等へ搬送したがっていた。外来の混乱ぶりを考えれば当然である。放射線サイドはどうしても時間がかかってしまい、苛立ちながら撮影が続いた。気が付くと、既に午後10時を過ぎようとしていた。
 あらゆる事が混乱した17日当日の当院で、診療を受けた人数は正確には把握出来ていない。軽度の打撲や切創などの患者の多くは受付もせず、診療記録もなしで処置、ナート、投薬を受け帰宅されている。また、診療記録の必要とする新患数だけで144名に達していた。収容出来るベットはすべて使用し、収容出来る事が考えられる全ての部屋(職員休養室、売店、外来点滴室、脳波室等)を使用し、約80名が入院された。また、玄関待ち合い室、廊下等の長椅子にも多くの人達が避難されていた。
 この様に私の平成7年1月17日という、とてつもなく長く、そして短い一日が過ぎて行った。18日に日付も変わったころ、当院もようやく落ち着きを取り戻していた。私も駆けつけて来た技師長と共に、余震が幾度も起こる中、配給のカップ麺で2回目の食事を取ることが出来た。テレビによる地震の報道を愕然としながら見て、事の重大さを改めて感じていた。午前5時を過ぎ、撮影依頼も途切れ仮眠を取ることにした。体はくたくたに疲れていたのだが、興奮しきった精神状態ではなかなか寝付かれず、大きな余震が起こり眠れる状態ではなくなり、眠れぬまま朝を迎えることになった。これが阪神淡路大震災で私が一日目に経験したことである。

 今回の震災で感じた災害医療での問題点を私なりに考察してみた。

《問題点》

1.被災地域病院への患者の集中化
 被災中心地域からほんの少し離れた病院と、被災地中心の病院では、被災のよる受傷患者数の絶対的違いがあったと思われる。被災中心地では、病院自体が被災し、破壊及び焼失した。
 生き残った病院も機能の多くを失っていた。負傷した人々は救急車両での搬送でなく、最寄りのこの様な病院へ、独歩もしくは家族知人による介助担送によって来院され、短時間に収納処理能力を大きく上回ってしまった。
 早期の段階で被災地より少し離れた病院の状況を受傷者に知らせることが出来たならば、混乱は多少免れたと思われる。

2.各医療施設間の情報交換の必要性
 2次救急病院の当院としては手に負えない重篤な患者を処置していた。全身打撲と心肺停止で搬入されてきた老婆の蘇生に成功したが、極めて全身状態が悪く、3次救急への転送を考えていた。しかし、消防局救急管制センターはマヒ状態。直接他の病院に連絡しようにも電話回線は使用不能に近い。断片的に伝わってくる情報は正確さに欠けていた。
 例えば、「ポートアイランドへの連絡橋が落ち、中央市民病院への搬入は不可能。兵庫、長田、中央、須磨、灘、東灘の多くの病院が全壊及び延焼中。」など絶望的な情報ばかりが飛び回り、我々は非常に孤立感をもった。
 この様な災害時に、正確な情報を各医療機関に供給し、相互情報交換等が充実していれば、救えることが出来たと思える尊い命は少なくなかったと思われる。
 今回、挫滅症候群(※)という現代日本の医師が経験例として非常に少ない症状に対し、超早期に正確な情報を得て的確な処置を行っていれば、救えた命も少なくはなかったと思われる。
 パソコンのインターネットが一部で利用され、スタッフ不足によるボランティアの要請や救援物資等の依頼等に力を発揮した。この様な独自の情報ネットを作り、各医療機関、行政機関に付設し相互情報交換がぜひとも必要だと思う。

 (※)挫滅症候群(クラッシュシンドローム)
 交通事故や土砂崩れなどで、体を挟まれたりつぶされたりした人が、救出されても腎機能や心機能が急変悪化、急死することがあるからこう呼ばれる。有害物質は壊れた筋肉から出るタンパク質「ミオグロビン」やカリウム。外傷や意識の有無には関係なく、壊死した筋肉の量にもよるが片足でも致命的な場合もある。
 当院でも、右下腿から大腿遠位端にかけ圧迫瘡があるだけで比較的軽症だと思われていた患者が、全身状態が急変し、翌日に死亡している。また、前腕から上腕にかけて同じく圧迫瘡があった老婆も同じように急変して死亡した。これらの患者達もクラッシュシンドロームであったのではないかと推察される。

3.ライフライン代替確保
 震災直後より電気、ガス、水道のライフラインが同時に停止し、医療活動が大きく障害を受けた。
 当院には緊急時自家発電装置を設備していたが、発電能力が少なく、非常灯、バード等の生命維持装置、OP室用非常電源等しか配電されていない。その上短時間の停電しか想定していなかった。これでは各種検査機器等を賄うことができない、今回のような大災害に対応できる、大容量でかつ長時間発電できる設備の設置が望まれる。
 ガスが停止し回復するまで2カ月の日数を要し、当院では暖房、厨房、OP用消毒機器に影響が出て、手術も一時出来なくなった、特に全館の暖房をガスで賄っていた関係上、全館凍てつく様な寒さに襲われ、多くの入院患者に負担がかかり、インフルエンザの蔓延も手伝い肺炎を併発した患者が多く見られた、また、重篤な脳出血等の疾患の発症もあった。 暖房もガスだけに頼らず石油ボイラー等を併設して使用が望ましく思う。
 水道の供給停止は、致命的な打撃だった。250名を越える入院患者と職員が使用する水の量は想像以上であった。放射線業務にしても水は必要不可欠であるが、日ごろ何げなく使用している物だけに使用料の多さに感心したものである。地震後数日は自衛隊の給水車が頼りであったが、当院では幸いにも10tのタンクローリーをチャーターすることができ、毎日 200tの水を確保し、2カ所の散水栓を解放し、地域住民に利用してもらった。また他の病院からの要請でタンク車を派遣利用してもらい、地域に貢献することができた。
 この様な例は非常に稀であり他の病院では水の確保の為、多大な労力を費やしていたという。ある病院では戦災時の経験より非常時における井戸水の使用の重要性を熟知し、事あるごとに井戸の本数を増やしていたため、今回の震災で多いに役に立ったそうである。この様に非常水源として井戸を保有して行くことも必要ではないかと思われる。

4.人員確保
 当院の職員数は約180名いるが、職員自体が被災者であった。全壊全焼18名、半壊半焼23名、一部損壊44名、重軽傷者6名と、職員の約半数に被害が出ている。この様に被害を受けた職員はなかなか出勤しにくい状態であっただろうし、まして各交通機関の破壊、極限な道路渋滞では通勤手段の確保ができ難い状態であった。この為スタッフ数を確保するのが困難となり、前日からの当直者、職員寮生、被災を押して駆けつけた職員たちは半ば缶詰状態で仕事をこなし、食事も満足に得られず、極致の疲労状態に陥った。そんな折、ボランティアで応援に駆けつけて来られた医師、看護婦の皆さんのお陰でどれだけ助けられたことか、口では言い表すことが出来ない。(本当にありがとうございました)
 この様に、初動時の人員確保は本当に重大なカギとなってくる。先にも述べたように被災地中心から少し離れた医療施設では患者搬入が少なく、人員的に余裕がある所が多かったと聞く。これらの人員を素早く災害中心地で医療活動している各医療機関へ簡単に派遣出来る様な相互協力の為のシステム化が望まれる。

 最後に。6000名を上る尊い命が奪われ、未曾有の被害を出した阪神淡路大震災。見慣れた町並みが崩壊され、取り壊されて広大な平地に立つと、被害の凄まじさを改めて痛感します。また莫大な数の仮設住宅が立ち並んだ光景を見ると、生活再建への多難さを感じます。被災された皆さん、まだまだ大変なご苦労が続いておられると思いますが、健康に留意され、我々の愛する神戸、阪神地区の復旧、復興を共に進めて行きましょう。
 また、医療現場を離れてボランティア活動にご尽力を注がれている方々、本当にご苦労様です。
 今回、私は偶然にも災害医療現場に遭遇し異常な経験をしました。災害医療現場で医療人としての働きが出来た事に感謝しています。この経験を生かし、災害に強い医療現場を作り不測の事態に備えて行きたいと思います。


(c)1996社団法人兵庫県放射線技師会(デジタル化:神戸大学附属図書館)