兵庫県南部地震記録紙 1995年1月17日午前5時46分 M7.2−この経験を今後に生かすために−
社団法人兵庫県放射線技師会 平成7年1月 P178〜P181


兵庫県南部地震発生後の病院と私

神戸大学医学部附属病院中央放射線部  今井 方丈

1.神戸大学医学部附属病院の被災状況

 私の勤務している神戸大学医学部附属病院は、昭和59年に中央診療棟、また昭和62年には外来診療棟が建て替えられていたため、外来診療部分は大きな被害はなく、内外壁のひび割れ程度であった。しかし、病棟は古く、かなりの被害が出た。建物の損壊のみならず医療配管の一部破損もあり、病院全体としての被害総額は十数億円に上ると推定されている。
 地震発生直後から全ての供給が停止した。電気は最も早く、ほぼ5時間で復旧した。この間は自家発電が働いたが、容量が小さく途中で2回ほどパンクした。ガスの復旧にはほぼ1ヶ月という日数を要したため、手術部など消毒の関係のダメージは大きかった。水道は供給が停止していたものの、当日の夕方に屋上のタンクが空になるまでの十数時間は水が使える状態で診療する事ができ、非常に幸運であった。1月23日に自衛隊がタンクに水を汲み上げ、一見水道として使用できるようになった(仮復旧)。その後26日に正式復旧となった。その他、電話はすぐに通じなくなったが2時間後に復旧した。

2.中央放射線部の被災状況

 中央放射線部は新しい建物である中央診療棟の中にあったため、機器・機材の損傷は比較的軽度ではあったが、それでも当日使用できた装置は限られていた。中央放射線部の被災状況の概要の一部を表1に挙げるが、ほとんどの装置は1月20日から25日の間に復旧している。自動現像機は現像・定着・水洗の各液の混入が見られたが、処理液を交換する事により解決した。水の供給は直後より断たれたが、屋上タンクが無事であり、当日の夕方までは通常通り使用できた。それ以降は、大きなポリバケツをワゴンに積んで、給水車まで通う日々がしばらく続いた。自動現像機は、強制処理に切り替え、処理液と水洗水は手動で補充した。CTに接続されているレーザイメージャも処理液交換等の応急措置で晩方には使用可能となった。MRIはマグネットのずれの他、検査室はかなりの損傷を受けた。アイソトープ検査室は、ガンマカメラ自体の損傷は小さかったが、カメラの転倒による床の破損及び地震による壁のひび割れが大きく、検査室の修復が完了した2月20日まで検査ができなかった。治療関係は1月30日に復旧しているが、ラルスの復旧には日数を要し、6月にやっと再開する事ができた。

3.地震発生時の状況と中央放射線部当直者の対応

 私は、本年は前厄で1月16日、多井畑八幡宮にてお祓いを澄ませた後、病院に向かった。(当直でなければ、本に埋まり、頭には180cm上からスピーカが落ちて、無事ではいられなかったかも知れない。これもお祓いの効果か?)
 1月16日の午後5時から当直に入り、地震の発生した17日の午前5時46分は当直室のベッドで仮眠中であった。ひどい揺さぶりをかけられた状態で目を覚ました。すぐに地震だと直感したが、あれほど強い揺れは初めての経験であり、ものすごく恐ろしかった。幸い当直室は上に物を置いていなかったので、落下物による怪我はなかった。即停電となり、非常灯がともった。
 ともかく家族の事が心配で、真っ先に電話に飛びついたが、外線はつながらなかった。交換手を呼び出して尋ねると、外線は全面的に不通になってしまったの事。テレホンカードを持ち、公衆電話に急いだが、停電でテレホンカードが使えない。10円玉は使えると聞き、小銭を取りに行って再度電話へ急いだ。(余談になるが、この時初めて停電になるとテレホンカードが使えないという事実を知った。カードの使用には100ボルトの電源が必要なのだ。)結局自宅にはつながらず、後で再度電話してみる事にした。しかし、子供たちの寝ている頭上には、スピー力など重たいものがあり、もしかすると大怪我でもしていないか、ひょっとして死んではいないだろうかと、不安がつのる一方だった。
 その後、すぐに部内を回って被害状況を確認し、必要最小限の応急処置(自動現像機に配管された水道管が破裂して周囲が水浸しになっていたので元栓を止めた。また幸い部内ではガスれは無いことを確認し、元栓の確認もした。)を済ませ、救急部に現在中央放射線部は検査の対応が不可能である事を伝えた。次いで公衆電話にて技師長に連絡をとった。これが6時15分、地震発生から約30分後であった。
 技師長宅は大阪であったが、幸い電話は通じた。技師長へ現状報告及び全員にできるだけ早く出勤するよう要請した。この要請は部内であらかじめ作成してあった連絡網にて伝えられていったが、途中で通話困難となり、6時30分頃にはほとんど不通状態になったようで、連絡網の最後まで行かなかった所もあった。
 7時頃、再度自宅に電話したがやはり不通で、近所の電話番号を調べて数軒かけ、やっと通じたお宅の方に頼んで家族の安否を見てきてもらったところ、無事が確認でき、安堵した。さらに、非常呼集の際、神澤副技師長に通勤途中に自宅へ立ち寄るよう依頼した結果も8時半には聞く事ができた。後で聞いたNTTの説明では、交換機は順次復旧させていたそうだが、1軒1軒つないでいくため、私の家は不通でも隣の家は通じるという状況が一過的に起こるという事だった。(わが家の電話が復旧したのはその日の16時頃であった。)
 連絡をした後は、一人でできる範囲の撮影室等の復旧にあたり、そうこうする内に徐々に仲間が駆けつけてくれた。電源の供給された9時頃まで復旧作業は続き、その後は撮影業務に従事した。
 話は変わるが、院内にはある程度の防災物品が各部署に配備されており、中央放射線部にも専用ロッカーにヘルメット10個、防災服10着、長靴10足、懐中電灯、軍手などが用意されでいた。地震発生直後、足の踏み場もない程物が散乱している中、私一人で巡回中に大きな余震が来た。誰も知らない内に一人で死ぬのはいやだと思い、閉じ込められないよう撮影室の扉を全部開き、すぐにヘルメットを被った。7時30分に最初に駆けつけた同僚は、私のこの格好を見てかなり笑っていたが、本人にとってみれば必死の思いなのであった。

4.初期救急医療の状況

 6時過ぎから徐々に患者が到着し、まもなく廊下は患者で溢れかえった。道路状況が非常に悪く、救急車も思うように進めないという状態で、民間の車や、パトカーで運ばれてきた患者も多かった。中には、戸板やたたみの上に寝かされて運ばれた患者もいた。ほとんどの重傷患者は、髪、口、鼻の中や衣服の中までもが土だらけだった事が印象的である。
 診察室はすぐに満室で、廊下が診察室となった。医師は廊下の電灯をシャウカステン代わりに読影し、その場で診断・治療していった。廊下は患者で溢れかえり、その中で診療する有り様は野戦病院さながらの様相であった。
 運ばれて来た重傷者のほとんどがその場で入院させる事となったが、元々地震発生前の状態で病床はほぼ満床であったため、ベッドが足らず、1階はもちろん、2階・3階のベンチを下に降ろし、それをベッド代わりに廊下に寝てもらう状況であった。この日運ばれてきて、即入院となった患者は113名であった。

5.中央放射線部の対応

 交通機関は全て遮断されているため、出勤可能な者は車や単車で来た。最も早い者は7時30には駆けつけてくれ、午前中に11名が出勤してきた。病院の電話は受信だけは結構できたようで、家族が怪我をした、家が壊れた等で出勤できないという連絡も入ってきた。もちろん無理をして出て来いという訳にはいかないので、とりあえず出勤可能な者だけが集まった。
 中央放射線部の状況であるが、電源の供給のなかった初期は手も足も出なかった。
 非常用自家発電の供給は当然の事ながらまず救命にあたる電源が優先された。その後順次必要箇所に送られ、午前9時頃にようやく自動現像機の電源と100ボルトコンセントに供給されたが、各撮影室のX線撮影装置には供給がなかった。100ボルトコンセントの電源を利用し、移動式X線撮影装置(以下ポータブル装置と記す)で撮影する事を考えたが、当院ではポータブル装置は病棟の2階以上に配置しており、エレベータが停止していて降ろす事ができない。悩んでいると、高エネルギー棟の1階にある結石破砕室に自己整流タイプの小さなポータブル装置がある事に気付いた(当時は病棟西に建っているコバルト治療室に格納していた)。結石破砕は主として超音波で位置決めをするが、補助装置としてポータブル装置も置いていたのであった。この装置を運び、9時30分頃から患者の撮影を開始した。11時前には関西電力からの通電があり、通常のX線撮影装置を点検し、使用可能である事を確認後、それらの装置で、どんどん撮影していった。患部が骨折しているかどうかが診断できればよいという状態であった。救急部でのトリアージはもちろんおこなわれていたが、撮影室においても限られた装置での検査のため、重傷患者優先で行った。軽傷の患者もこのことを理解しており、自分の検査が行われるまで静かに待っていた。
 CTはメーカと電話連絡しつつ、我々技師の力で夕方4時30分にようやく使用可能な状態にした。この時点ではレ一ザイメージャが使えず、CRTのみで診断するしかなく、医師はCRTの前に張り付けになり、CTの画面が出て来るのをその場で読影、診断して行く事で検査を進めて行った。頭蓋内等の出血の確認や、一般撮影だけでは判断しにくい骨折等にCTの果たした役割は大きかった。当院のCTが復旧したため、周辺の病院からCT撮影に患者を送ってきたケースもあった。災害医療において一般撮影とCTは常に稼働できる状態でなければならないと痛感した。
 患者は6時30分頃には既に大勢来ており、その後絶え間なく運び込まれていたが、我々放射線技師は電気が来るまで業務ができない状態であった。「撮影はまだか」との医師の問いかけに「まだ電気がこないのでできません」としか返答できない自分が情けなく、非常に歯がゆい思いをしたものだった。この時、最近のコードレスのポータブル装置があれば、若干の撮影は出来ただろうと思う。もちろん容量に制限はあり、全部に対処でき得るものではないが貴重な戦力となったと思われる。(その後当院ではコードレスのポータブル装置を2台購入した。)
 中央放射線部での検査件数を表2に示す。
 先に書いたように初日は午前中に11名が出勤してきた。その後夕方には2名が到着し、総勢13名で救急対応と機器の点検・復旧に従事した。出勤者で話合い、現状から、夜間は4名を当直として残し、その4名で一般撮影とCTをする事とした。その日はさすがに皆へ卜へ卜の状態だったので、夕方に来た2名と、撮影業務ではなく点検・復旧作業を担当し、比較的疲れの少ない2名とで最初の当直を担当した。さすがにこの夜は忙しく、全く休む間がなかったとの事であった。
 1月19日には、今後の勤務体制について出勤者で協議した。夜間も続く救急医療への対応と、交通機関遮断のため通勤が困難となり、通勤による疲労や時聞的ロスを考慮し、1月20日より24時間勤務3交替制を行うこととした。これは幸いにも短期間で終了した。夜間の検査件数が少なくなった1月26日より、通常の勤務体制(1名当直)に戻した。
 今回の地震による救急対応や検査室の復旧に対し、常に臨機応変にスムーズに対応できたことは、技師個人個人の自主性と協調性が遺憾なく発揮されたことによるものと思う。

表1.中央放射線部の主な被災状況

表2.地震後1週間のX線検査の概要  単位:件数


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