兵庫県南部地震記録紙 1995年1月17日午前5時46分 M7.2−この経験を今後に生かすために−
社団法人兵庫県放射線技師会 平成7年1月 P184〜P185


阪神・淡路大震災体験手記

金沢病院放射線科  浜松 浩司

 1月17日の早朝の事。親子5人全員が寝ている時、家の中が激しく揺れ、目がさめた。何事かわからないまま妻子に、「布団をかぶれ、布団から出るな!」と叫び、私自身も布団にしがみついた。体が上下左右に揺られ、もうあかんと思いつつ、やっと揺れがおさまるが体が動かない。家族に「大丈夫か」と言って布団から出て、照明をつけようとするがつかない。雨戸を開けて月明かりで妻子の顔をみて大丈夫やなぁと安心した。
 外の様子を伺うとあたりは真暗だ。今何時や?5時50分か。1階におりてみるとガラスの破片で足元が危ない。食器が割れて散乱し、箪笥の上のものが落ち、冷蔵庫も移動して普段の様子とは全く異なる。
 外に飛び出ると、隣り近所の人も外に出てきて、「凄い地震や」「どこでや」と叫ぶが状況がわからない。停電でTVも見られない。そうしているうちに周囲が薄明るくなってくる。車のラジオがあると思い、すぐ車に乗りラジオで神戸の地震であることを知った。
 兄弟や職場のスタッフの安否が気になり、あちこち電話して状況を聞くと、兄は箪笥が倒れて下敷きになり怪我をしたと言う。命は大丈夫らしい。また職場の仲間の生存もわかりホッと安堵する。
 明るくなるにつれてラジオから情報が鮮明に伝わってくる。AM神戸からは、家が軒並み潰れているとの情報が入った。職場の事が気になり、又、ケガ人の事を思うと居ても立ってもいられず、妻子に職場に行ってくると言って家を出た。
 車に飛び乗り駅にいくが電車は不通との事。車で病院まで行こう。私は、神戸市西区に住んでおり、家を出てすぐ道路が陥没し危険な状態だ。西神戸有料道路を東進して行くと東の空が真黒だ。神戸の中心に進むにつれて、ラジオからの情報が刻々と詳しくなる。周囲の状況も変化して、西区、垂水区、須磨区、長田区に進むにつれて、火災が多発している。兵庫区、中央区に入るとビルが壊れて道略を塞ぎ、家は全壊し、信じられない光景。線路は斜めになってぶら下がっている、道路は、あちらこちらで陥没していて怖い状況だ。
 やっとの思いで中央区の金沢クリニックにつくが、1階が潰れ2階のレントゲン室には入れない。悪夢だ。家人とスタッフに電話をしようと思い、公衆電話を探して車に乗る。電話ボックスには、人が多すぎて順番が回ってこない。こうしてはいられない、病院に行こうと、今度は灘区にある金沢病院へ車を走らす。
 病院につくと人で溢れていて、看護スタッフが病院前のガレージで心臓マッサ一ジをしている。何人も何人も。信じられない光景のなかで同僚の技師がケガ人を運んでいる。次々と遺体とケガ人が運び込まれる。病院の中に入ると停電で、おまけに水道もガスも出ない。
 受付の前では、外科、整形外科、内科、婦人科の医師たちが、受付の椅子を使って診察場を作り、治療を始めている。ケガをした人々が次々と行列を作り始め、押し寄せてくる。「助けてくれ」、「治して」との声が交錯する。早く自分の業務につこうとするが、一般撮影室の扉が開かない。4ヶ所の内2ヶ所の扉が開いたので中に入ると、室内は足の置き場もなく、ひどい状況。とりあえず歩けるようにしなくては。カセッテは散乱、制御盤は倒れ、現像、定着の補充タンクは横になり、足元は水びたしでひどい悪臭。とりあえず元にもとす事ができた。スイッチを入れてみるが電気がきていないので使えない。受付にもどると、医師たちからは「レントゲンOKか」と聞かれるが、「無理です」。何とかしなくては。OP室のイメージは自家発電なので何とか、と思いOP室へ。そこも、凄い状況。何とか機械は大丈夫。透視だけはOK。少しだけ安堵するが、検査部位の制限がある。でも唯一のレントゲン機器である。医師たちに写真にはできないが透視だけは見られると連絡する。
 廊下にでると苦痛を訴える声。信じられない光景だが、これが現実なんだと自分自身にいいきかせ「冷静になるんや」と、イメージを使って、骨折の確認をした。
 私は自分自身、業務で何かをするんやと思ってイメージにこだわったが、これではいけないと思い始めた。回りのスタッフは汗まみれで治療をしている。私に何かできる事は他にないのか。技師という職種にこだわらず人間として。
 ケガ人の搬送、タンカを使ってケガ人を医師スタッフのもとへ運ぶ事、又、病棟の看護スタッフのもとへ入院の必要な患者さんを搬送するという仕事、そして亡くなった方の安置など、目の前には多種多様な人間としての仕事があった。タンカを担ぐ手にも力がはいる。エレベータが使えない上階の病棟へ、入院の必要な患者さんを運ぶ。何十回も行なうと汗が吹き出てくる。次第に手の感覚がなくなってくる。
 手足が痛くても一階外来には、次から次へと救急車はむろん、自家用車、トラックの荷台に畳を使ってケガをした人々、亡くなられた人々が運び込まれる。その数は増加の一途。病棟も満床、廊下も足の踏み場もないくらいである。傷の治療を待つ人々、薬もなくなりつつある。
 病院の外には、軽傷の人が座り、家を失いパジャマだけのひともいる。一月の寒空、たまらない。病院スタッフで各階の病棟の予備の布団を手渡す。人々から「ありがとう」と喜ばれるが、この寒さ、なんとかならないのか。
 その後も顔や手足、全身血だらけの人々が次から次へと運び込まれる。縫合針を使いきってしまう。水道、ガス、電気がないので滅菌も出来ない。同僚の技師が川へ水をくみに行き、木々を集め煮沸消毒をして、その後も縫合を行なうことができた。日常の病院の設備からも考えられない異常事態である。
 夕方になってくると、寒さも増し、病院の中に入れて下さいと言う人々が増えてきた。病棟は満床、詰所前廊下も人々でいっぱい。その時、電気が回復してくれた。暗かった廊下もパットと明るくなり、暖房もききはじめた。この時の喜びはたとえようがない。中の人達に詰めてもらい、外の人達にも中に入ってもらった。人々全員、スタッフ全員にひとときの安らぎの時が訪れた。
 最後になりますが、TVの報道を通じて知った人々が、何か手伝わせて下さい、と私達を助けにきてくれました。皆さん、一緒に働き、汗をかき、動けない人々を搬送していただきました。有難うございます。私自身、人間味のあふれる皆さんの行動に感謝し、病院スタッフ全員の心の励みになりました。
 また、私自身放射線技師として、医療人として、いや、人間として何かの役に立てたかなと感じた一日でした。当院も震災の傷を残していますが、職員一同、がんばっています。


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