兵庫県南部地震記録紙 1995年1月17日午前5時46分 M7.2−この経験を今後に生かすために−
社団法人兵庫県放射線技師会 平成7年1月 P186〜P189


1月17日、そのとき診療放射線技師として

甲南病院  西田 豊

 前日のスキーの疲れがあったのか、家族全員一部屋で眠りこけていた。やけに静かな空気に私はなにやら不吉な感じがして、おぼろげながら目が醒めていた。すると間もなく地鳴りのような音と共に、突然ドーンと家が突き上げられ、ガタガタガタと左右に揺すられだした。瞬間的に跳ね起き、大声で子供たちに家具の側より離れろと叫んだ。そして和箪笥と本棚を倒れないように支えていた。柱からきしむ音が聞こえてきた。激しい小刻みな揺れは数十秒続いた。しばらくは同じ姿勢のまま動けなかった。何が起きたのか理解出来ないまま静けさが戻った。図太い子はまだ気付かないで眠りこけ、起きた子は女房と布団にくるまれ、肩を抱き合っていた。まだ部屋の薄暗い照明は点灯していたが、すぐにそれも消えた。
 頭の中が真っ白で頭全体が腫れ上がった感じがしてた。本棚近くに置いてる懐中電灯を付け、そして電池式のランタンを捜した。それに電池を入れている手が震えているのを女房から云われて、初めて現実の世界に戻った気になった。何故かしら全身の毛穴が開いてるような、皮膚に電気が流れている感じであった。大きなため息をついて、これからの事を考えようと努力した。
 懐中電気を手に、階下へ恐る恐る降りていった。飾っていた物が落ちて散乱しているが、壊れてはいなかった。ピアノや家具、台所などに大きな被害は無さそうだ。水道を捻ると水が出た。ストーブは安全装置が作動して消えていたが、加湿機が揺られ、貯め水が涸ぼれて絨毯が濡れていた。玄関を開けるともう夜が明けていた。家の回りをぐるりと見たところ、基礎のコンクリートに僅かにヒビがあったが気になる程ではなかった。
 安全なことを確認して、風呂桶に水を貯めている女房に後のことを頼み、早々に車で病院へ向かった。早朝で目覚めていないのか、現実がまだ認識されていないためか、街には静けさがあった。北区より六甲トンネルを越えるまでは、普段の景色と変化はなかった。
 トンネルを越えると、眼下に見える景色は一転した。あらゆる所から黒煙が上がっている、灘区、東灘区の街並が見えてきた。何かが爆発したのか火柱が上がるのが見えた。これは大変な事が起こった、大災害なのだと咳いた。料金所を出て最初のカーブを曲がると、道路は少し谷の方に傾き、広い範囲で陥凹してた。山から落ちて来たのか大きな岩石が散らばっているなかを、車は何度もバウンドしながら下って行った。
 マンションの立ち並ぶ辺りまで下ってくると、多くの人が見られるようになった。いつもの朝では見かけないような光景である。時刻は6時半を過ぎたころ。民家が見え始めたが、その惨劇のすごさは目に余るものであった。窓ガラスは壊れ、外壁が落ちて鉄筋がむき出しのまま立っているマンション。地盤の変化で斜めに傾き今にも倒れそうな高層住宅。2階建ての住宅はそのほとんどが1階部分が崩れ、道路側にはみ出している。立ち並んでいるところは軒と軒がくっつき、寄り掛かっている。そして一番外側の家はそれらの重みを受け完全に崩れていた。
 何を話しているのか解らないが、人々がロ々に大きな声を上げている。道端にしゃがみこんで顔を手で覆っている人、崩れた文化住宅の前から中を覗き込んでいる人、その前を右往左往している人、道路を全速力で走っている人の姿が見えた。街全体が喧騒に包み込まれている。この時点では、まだ救急車や消防車のサイレンは聞こえていなかった。信号機は無灯火のままではあるが、交通量も少ないため道路は混雑していなかった。
 これから起きることへの不安と自然の脅威に対する恐れと、自らの生活権が抹殺されたのではとの思いから、ハンドルを持つ手がわなわなと震えていた。神や仏がいるのであれば、私たちに何を試されようとしてしているのか教えてくれ、と心の中で叫んでいた。これほど大きな代償を遣わし、何を伝えたいのかと問いかけていた。
 混乱の中、はやる気持ちで車を急がせた。6時半過ぎには病院に着き、無事に建っているのが見えた。駐車場に車を入れた。すでに何台かの車が止まっていた。
 昭和9年に建設された病院は、壁に細かな傷が入っていたが、窓ガラスも割れずに元の姿を堅固に維持していた。足早に中央放射線部へ入った。鍵を一部屋づつ開けて行くにも力がいった。内部は、立てているものは総て倒れ、並べているものは散乱し、溶液が入っていたものは溢れ、廊下にまで及んでいた。足の踏み場もない。日差しが届く処は良いが屋内は電気が切れているため暗く、自分の足元も解らなかった。
 撮影室は足を踏み入れることを拒むがごとく、液体が床を覆い、その中にフィルム、カセッテが折り重なって散らばっている。X線管球や天井走行は揺れた形跡を残していたものの、大きなへこみもなく無事だった。固定されている立位ブッキー台はそのままの位置に留まっている。臥位ブッキー台は在らぬ方向を向いている。取り合えず使えそうなカセッテをその中より選び廊下に運びだした。自動現像機の置いて在る暗室も同様に、現像液や定着液がケミカルミキサーより溢れ反応して臭いがしていた。
 放射線科診察室より懐中電灯を捜して来て東館へ行くと、1階の床には水が流れていた。そして、地下にあるCT室やMRI室へ降りていく階段は水が流れ落ちていた。足元は水が歩く度跳ね上がり、ズボンの裾が濡れるのが解った。それぞれの検査室には水漏れがない。操作台が置いてる読影室の天井から水が落ちていた。本棚は倒れ、文献が水に浸かっていたが、操作台は水を被っていない様子である。
 MRIのマグネットは、セルフシールド用の21tの鋼材がついて総重量30tあるが、浮き上がったのか、固定した場所より約10度斜めに移動していた。患者テーブルとマグネットがずれてしまっていた。コンピューター等の高速演算装置や高圧制御機等はそれぞれ在らぬ方向に移動したまま。その扉は何度も打ち突けられたのかガラスは割れ、歪んでいた。CTのガントリーは床に固定が強かったのか、ずれはなかった。
 取り合えず一般撮影室に戻ることにした。外来の廊下には数名の患者が来ているようだ。まだ他の技師は来ていない。この場を如何にすべきか考えた末、いま出来ることをやろうと言い聞かせた。
 整形外科の医者から「整形外科外来の扉が開かないので、シーネや固定具が出せない。何とかしてくれないか?」との申し入れがあり、整形外来へ行った。扉を押してみると僅かに隙間が開いた。中を覗き見るとフィルム棚が倒され、フィルムが散乱して扉が開けなくなっている。その隙間より一枚づつ一枚づつフィルムを引っ張り出し、何とか隙間は人が一人通れるぐらい開いた。フィルムの山を踏みつけ中に入ると、床は水浸しであった。上下に動かして開閉する水道の栓が開いたままになって、ジャージャーと水が出ていた。それを止め、開いたままの戸棚から治療具を取り出して救急外来へ持って行った。そこでは先ほど見たより倍の患者が来ていた。
 これから被災した外傷の患者が集まってくると予測が出来た。そうこうしている内に1名技師が来た。彼もテレビが寝ている頭の横に跳んで来て命拾いをしたと言い、来る道中家々が倒れているなかバイクで駆けつけたとのこと。
 撮影室は停電のため使い物に成らない、充電式のポータブルでなら検査が出来る。でも自動現像機は止まっている。現像はどうするのか。現像液や定着液を取るにもバットがない。水洗する水も取れない中、何とか診療に役立とうと考えた。幸いケミカルミキサーが外設されているので、その現像液と定着液の液漕で手現像を試みる事にした。二人で、もう一人来てくれたら何とか患者を撮影出来るのにと言い合いながら撮影の準備した。
 まず、無駄な放射線被爆をさせないため管理区域を作り、一般の人が出入り出来ないようにL字形廊下の角に防護用衝立をセットした。その中に衝立より距離をとってポータブル撮影機を撮影室の方向を向けて置いた。そして立位リーダー台を設置した。停電しているため暗室は真暗で、現像を確認するための安全光の装置が必要となった。懐中電気を安全光フィルタ一に押し当て僅かな光を灯す役目の人が必要だった。二人とも暗室に入ってしまうと患者が置き去りになる。どうしても後一人来てほしかった。
 X線検査が出来ることを告げると、車椅子に乗った患者がすぐさま廊下に列を成した。車椅子を押している看護学生に患者を看てもらい、現像室へ二人で入り手現像を行った。はじめは液面が分からなく、フィルムを完全につけることが出来ない。現像ムラが出来る。一回づつ安全光で確かめながらフィルムを仕上げて行った。暗い中で現像された部分の概観が見えだしたことを確認して定着液漕に挿入した。何とか読影出来るフィルムに成った。これは使えると判断した。後は水洗だ。しかし水は出なくなっていた。仕方なく廊下の溜り水に漬け、水洗代わりとした。
 技師が一人やってきた。彼の西宮のマンションは無事だったので、町の被害の大きさに驚き病院に来るまで同僚の家を観て回ってきたことを告げた。そして告げてくれた彼を、はっきり決っていないことを軽弾みに言うなと叱った。と同時に皆が無事であることを願った。その後もう一人が単車で駆けつけてきた。彼も家は傾いて、半壊であるという。
 二人で一チームとなり、二人が暗室に入って現像をし、残り二人は次の撮影準備に掛かる。撮影依頼は口頭にて受け、患者氏名と撮影部位を記録しながら撮影していった。フィルムは現像出来次第自然乾燥するまえに名前をつける作業が必要であった。
 その後放射線科医が来た。何か手伝おうかと言ってくれたので、廊下に多数並んだ患者の撮影部位と急がなければいけない患者を選択してほしいと頼んだ。時間がたつに連れ、者の重傷度が増してきた。ポータブル撮影機は容量に限界があり、今並んでいる患者すべてを撮影することは不可能と予想された。
 エレベータが止まっているため、2階にもポータブル撮影機があるが、階段を徒歩で上がれる人しか撮影できない。充電レベルが最小になったのを確認して、トリアージ担当の医師に、X線撮影が出来ないことを告げた。
 午後 4時半であった。スタッフは慌ただしく検査に追われていて、状況を見ていると食事どころではなかった。部屋にはポテトチップが一箱あった。それを分けあって食べた。それ以外何もなかった。
 電気が通じるまで患者の搬送を手伝う事にした。階上に揚げていくには人手が頼りだった。午後4時30分、電気が来たので、一般撮影室と暗室を取り合えず整理をして、X線撮影が出来るようにと考えた。転倒しているカセッテ台を立て、散乱しているカセッテを台の棚に収納して使えない物は取り除いた。漏れた水に浸かったフィルムが少なくはない。使えるフィルムの在庫は、暗箱に入っているものと、幸い水を浸かるのを免れた僅かなフィルムだけであった。また大事な資料や文献も使い物にならないのは廃棄した。水が出ないので床はスポンジで拭き取るだけなので、乾くと筋がいっぱい出来ていた。
 殆どの者が被災しているにも関わらず、交通機関が不備の中、やっとの思いで技師が総勢で7名も出勤してくれた。出勤してきたことに感謝し、頼もしく思えた。また、加古川から駆けつけた技師が握り飯とお茶をもってきてくれた。食べ物が無く仕事をしていたので感激した。
 早々にポータブル撮影機を充電して、次なる仕事に備えた。第1撮影室のX線撮影機に水などによる漏電の心配が無いかを確認の上、電源を入れた。どうやら無事のようだ。
 自動現像機も動く。少々乱暴のようだがテストフィルムを通した。クリーニングフィルムに多少筋が出ていたが、何枚もフィルムを通すうちに筋も薄くなった。使用できると判断した。しかし、現像液と定着液が混濁しているので写真濃度は不安定で、撮影の度に写真濃度から条件を加味することが重要な仕事であった。再撮を最小にする努力が課せられた。如何なる状態でも患者のニーズを満たす責任感が体を動かした。
 それからは24時間体制をとる。昼夜を問わず運び込まれる被災した患者に、スタッフにも医療人としての責任を果たそうする使命感が自然に生まれていた。
 1月17日。長い一日が終わることもなく次の日へと続いていった。18日には大阪より通勤の技師も、車を使い6時間ほどかかって駆けつけてくれたので交代で仕事が出来るようになった。

《甲南病院の当初3日間の状況》

災害入院患者
350名
(17日約250名)
外来患者
1100名
 
死亡者
93名
 
転院させた患者(21日まで)
152名
 


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