兵庫県南部地震記録紙 1995年1月17日午前5時46分 M7.2−この経験を今後に生かすために−
社団法人兵庫県放射線技師会 平成7年1月 P194〜P196


阪神大震災発生時の兵庫医大中央放射線部での出来事

兵庫医科大学病院中央放射線部  堀 真親

 阪神大震災により被災されました皆様に心からお見舞い申し上げます。
 この阪神大震災発生時に、私は兵庫医大中央放射線部で当直をしていました。これに関して、私に技師会のほうから11月頃に阪神大震災の記録誌を発行する予定なので、震災発生当時の当直者の体験談を書いてほしいということで依頼がありました。
 震災の日の1月17日は非常に寒さの厳しい頃でしたが、原稿の依頼を受けたのは、あれから半年が過ぎた7月末頃で、これから暑さが厳しくなるという時期でした。この頃、神戸市内の避難所で暮す人がやっと1万5千人を割ったそうで、8月末頃には避難所が廃止され、避難されている方は退避所に移るという事です。
 大震災から8か月が過ぎ、その間、オウム関連の地下鉄サリン事件やハイジャック、児童誘拐などのいやな事件が続きましたが、そんな中で、野茂の大リーグでの活躍は明るいニュースでした。
 阪神大震災の記憶も、時間の経過とともに薄れがちですが、出来るだけ記憶をたどって思い出せる範囲のことは記したいと思います。

 さて、地震発生の前々日の平成7年1月15日(日曜日)には、私は子供達をつれて琵琶湖バレイへ雪遊びに行っていました。
 地震発生前日の平成7年1月16日(月曜日)は、成人の日の振り替え休日でしたが、私は日直の担当者2名と一緒に、朝8時30分から普段より多めの40件ほどの休日業務をこなしていました。17時からは一人当直となり1時間に1件ずつぐらいのベースだったと思います。夜中もなかなか眠れずに起きていて、前日からの疲労も重なり、少々疲れ気味だったのを覚えています。
 日付けが変り、平成7年1月17日(火曜日)の明け方の5時30分頃にも救急部の撮影依頼がありました。撮影から戻って業務日誌を書き、当直室で横になろうとしたそのとき、大地震が起こったのです。
  ゴーという地鳴りと突然下から突き上げられる衝撃の後に、建物全体が8号館の地下にある当直室目掛けて轟音と共にドーンと落ちてくる様に思えました。そしてすぐに大きな不規則な横ゆれが数十秒間続いたように記憶しています。その間は、あのNHKで何度も放映された当直者の映像と同様でベット上でひっくり返り、なすがままでした。
 揺れが治まってから当直室を出てみると、先程業務日誌を書いていた場所には、本棚やロッカーが転倒して、書籍やガラスの破片などが足の踏み場もないぐらい散乱していました。もうすこし時間がずれていたら、本棚の下敷きかエレベーターの中で閉じ込められていたかも知れません。
 それからしばらくは全館が停電で非常電源が付いたり切れたりの状態が続きました。停電のため非常灯のみで薄暗く、TVは破損して見られず、ラジオも無く、留守番電話は動作不良という状態でした。まだその時点では、かなり大きい地震で被害も相当ある事は予想できましたが、具体的な外部の状況や病院全体がどのような状況か把握できませんでした。
 当初は、救急外来や各科病棟よりの外傷などの撮影依頼や外線の電話が殺到してくるのではないかと、しばらく技師室で待機していましたが、全く音沙汰もなく、その後不気味なくらいの静けさが数分間続きました。
 とりあえず何らかの地震の情報が入っていないか、守衛さんやコントロールのところ迄行って見ましたが、何も分からず仕舞いでした。どこからも連絡がない様なので、電話が入らないか気になりましたが、各検査室の鍵をもって駆け足で点検して回りました。しかし、各検査室が各棟に分散しているため、見回るだけでも非常に時間が掛かりました。漏電や火災、ガス漏れ等に特に注意して見回りましたが、無いようでした。
 主に壁の亀裂や、棚、ロッカー、X線機器等の転倒などの外観上の被害状況は確認出来ましたが、重量物はとても一人で起こせそうになく、また時間的余裕もなかったので起こせそうなものだけ起こしてまわりました。
 X線機器等の動作確認は、漏電や断線、破損の可能性も在り、電源投入しては危険なので、分かる範囲で電源ブレーカーの入ったままのものは切ったように覚えています。しかし緊急で使用する可能性のある1号館の一般撮影第1室と8号館の救急部一般撮影室は、使えるかどうか確認し、電源を入れ、一旦技師室に戻りました。
 そのうち、まず若手の技師の寺澤氏が単車で駆け付けてくれたので非常に助かりました、技師室の電話を頼んで、もう一度見て回ると、今度は貯水タンクからの大量の漏水が非常階段を伝って来て滝のように流れ出していました。エレベーターは使えないので、その階段を上ったときは膝まで水浸しでした。廊下はくるぶし迄水がたまり、廊下に置いてあったポータブル撮影装置の上には、天井から雨のように降り注いでいました。
 とりあえず、ポータブル装置を濡れない所まで退避させ、各部屋を見て回りましたが、幸い他の検査後器は濡れていませんでした。それから、伊藤技師長、下浦課長へ中放の被害状況を連絡しようとしましたが、相変わらず電話の連絡は全く取れませんでした。
 7時頃救急部の外来の様子を見に行くと、まだこの時点では静かでしたが、CTなどの撮影依頼が1件入った為、CT4を立ち上げに行きました。CT4室の装置は外観上異常がなかったので準備しようとしたのですが、電源を入れてすぐバチバチと異常音がしたため使用出来ませんでした。その後のメーカーのメンテナンスでは異常は出なかったので、午前中には使用可能になりました。
 7時30分頃になると中江、木下、後藤技師など単車を利用して通勤している人達が駆けつけてくれました。この頃ようやく無事だったTVの線をつなぎ直して見ることが出来ました。
 8時頃に伊藤技師長、続いて下浦課長が到着されたので、分かっている範囲の状況を報告しました。
 8時30分頃には大阪、尼崎方面からの出勤者も何とか到着し、各部所に就き、装置の点検や散乱したものを片づけました。
 9時頃になると8号館の救急部前のフロアーは、自力で来られた患者さんや搬送されてきた患者さんであふれていました。この頃からどんどん撮影依頼が来ました。このときには、地震の振動で自動現像機のタンク内で現像液と定着液とが混濁していたため、写真は余りよくなかったのですが、どんどん患者さんが来るため、とりあえず撮影しました。後で処理液を作り直しましたが、そのうちすぐに断水となり、水洗水等の水の確保が問題となりました。当面はたまり水を出来るだけポリバケツなどにかき集めて用いました。
 水に関しては、病院全体で平常時一日 700〜1000tを使用していたのが、完全に給水がストップし貯水槽も破損したと言うことです。このため、西宮水道局からの1日2回の給水と大関酒造さんの好意で10tタンクローリー車を借りて、鳴尾浜の自衛隊給水艦からのピスt輸送で1日50〜120tの水を確保出来るようになったということです。
 しかし、病院内の給水システムが麻痺しており、エレベーターも数日間は使用出来なかったため、各部署や各病棟など13階までも、ボランティアの方たちの協力などにより、人力で運んでいました。
 その後、自宅の家族や阪神間に住む親類とも連絡が取れず安否が気掛かりだったので、いずれも自転車で数分の距離なので一旦自宅と実家へ戻りました。いつも通る道は瓦礫で通れず、大回りして行きました。
 自宅は、家財道具はひっくり返り、建物にもひびがはいっていましたが、幸い子供達も妻も無事でした。実家は古い建物のほうが瓦がほとんどずり落ちていましたが、両親とも無事でした。一安心してまた病院に戻りました。
 その日の午前中には大阪方面の約半数が出勤することができましたが、芦屋、神戸方面の約半数は出勤できす、連絡も取れないため安否が気遣われました。しかし、昼過ぎには2〜3名を除いては連絡が取れ、その日の夕刻までには全員の無事が確認できました。無事が確認出来たら順次名札に印を入れていきました。
 夕方帰宅すると、後片づけがまっていました。17日から1週間ぐらいは不測の事態に備え、交代で有志が7〜8名で残り当直していました。
 地震当日、明け方で交通も寸断され麻痺し、職員自身も被災して、あるいは救援活動のため出勤できない方もおられましたが、連絡の取れない中、一早く駆け付けてくれた方たちには感謝致します。

 これが私の阪神大震災発生時の1日です。
 後に知った事ですが、病院広報誌によると地震発生後、急拠駆け付けられた岡本院長の指揮の下に、約30名が集まり、緊急対策会議が開催されたそうです。
 何とか病院に辿り着いた職員を中心に、関係部からの被害状況が次々報告され、病院としての対応を協議、各部所に病院長指示が出されました。
 先ず、地震救急の患者さんは、重症の方々を救急部が窓口になって受け入れ、比較的軽症の方は整形外科の外来を中心に、関係各科の協力を求め、1階ロビーをも利用して、応急手当が実施されました。
 一方、一般の外来は、水の使用、消毒も出来ないことから、4日間は休診になりましたが、来院された方は、投薬を中心に各科で対応したということです。
 病棟の被害状況はというと、幸いにも入院患者さん約1000人に負傷者はなかったそうです。しかし、ガス、水道がストップし、電気が限定使用、暖房ストップのため、毛布は配布されましたが、寒さも厳しく、手術も緊急以外出来ないなど充分な診療が行なえない恐れが出たので、各科で相談の上、重症の患者さんで移動可能な方は、被災地以外の病院へ転院をお願いしたということです。また、軽症の方は、自宅待機、あるいは退院してもらったということです。病棟には 300名あまりの患者さんが残られていたそうです。
 震災当日には、県からの患者給食である握り飯2000個を受取りに職員2名が車で出発ましたが、道路破壊、通行止め、渋滞等で大学に戻ったのは、何と翌日の昼前という状況だったそうです。
 本学から西は、すべてこのような状況のため、栄養部では関係先に協力を要請し、懸命な努力で残った 300名余りの患者さんの給食を確保したということです。
 震災発生直後より、通勤が不可能な教職員の一部は、自宅近隣の避難所や医療機関で個々に医療活動を行っていたそうです。2日目以降は外来患者の受入が減少してきたので、機能している関連病院へ派遣され、一部教職員は兵庫県救護団、NGOなどの傘下で医療活動が行なわれたそうです。その後、大学病院独自にその機能を充分に発揮して効果的な医療活動を行うため、兵庫医大病院救護班が結成され活動されました。
 予想をはるかに越えた大災害のため、当初被災地の中の病院でありながら水道、ガス、電気のストップや職員自身もまた被災者であるなどのため完全には機能しうることが出来ませんでした。これを教訓として、新たな防災、救助、救援のあり方を模索し、確立されることを切望します。


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