兵庫県南部地震記録紙 1995年1月17日午前5時46分 M7.2−この経験を今後に生かすために−
社団法人兵庫県放射線技師会 平成7年1月 P198〜P200


1月17日

神戸市立西市民病院放射線科 葉田 恵三

 私が、その日高砂の自宅から原付で西市民病院に着いたのは、午前8時50分であった。すでに救急入口は患者でごった返していた。停電で薄暗いロビーや総合待合いも、横たわった患者やその家族でひしめき合っている。その横をすりぬけ技師室へたどり着いた。ロッカー、本棚が倒れ、ほとんどの窓ガラスが割れている。技師室に隣接する撮影室を見回った。マンモ撮影装置が横倒しになり、防護ガラスが散乱していた。トランスや自現機も数10cm移動している。
 当直の技師に5階西病棟が崩れていることを知らされ、すぐに放射線科を出た。放射線科のすぐ前の1m四方はある柱の鉄筋が曲がりむき出しになっている。
 新館の階段を上がり本館につながる5階の渡り廊下から本館を見ると、そこに見えていたのは5階ではなく6階であった。5階の天井は私の膝の高さにあり、その天井から1m下に床があり、瓦礫で埋まっていた。その光景を見て私は、「これは、死んでる。」と思った。近くの人に話を聞くとまだ患者も看護婦も閉じこめられてると言う。地震から3時間レスキュー隊も到着しておらず、救助活動も始まっていない現実が信じられなかった。
 私は一度4階へ降り東側の非常階段から5階へ上がった。5階東病棟は、改装中で駐車場のように柱だけが残されていた。5階は東から西に向かって斜めに押しつぶされていた。5階西病棟の東側の壁あたりは、中腰でなければ歩けないくらいに天井が降りている。そこへついた時、その壁を探っている2人の鳶職人風の人がいた。この職人の社長が5西病棟に入院しているらしい。私はその2人といっしょに壁を探り、「ここから行こう」とぶち破る壁を決めた。幸い壁の南側半分はコンクリートではなくボードを使った壁であった。
 ボードを蹴り、めくり揚げると、すぐにべットの上に横たわっている患者の顔が見えた。大変疲れた表情で自分は動けないことを真っ先に訴えた。外傷はなく手には点滴が入ったままで、点滴の支柱は天井に刺さっていた。天井がベッド柵の高さまで降りている。点滴は逆流しないようにしてチューブを切った。患者を出すにはベットの手すりを外せばいいのだが、手すりは持ち上げて外すタイプのベットなので天井が邪魔になって外せない。しかたなく力で鉄パイプ製の手すりを曲げて患者を引っぱり出した。自力で動ける患者はベット柵と手すりの40cm程の間から這い出すように出てもらった。
 職人2人はどんどん奥へ西へと壁を壊し、私は患者を安全な場所へ運び、また、職人の作った道を広げ、瓦礫だらけの道に布団や毛布を敷き安全に四つん這いで通れるようにした。布団や毛布がすべて濡れていたのは理解できなかった。後から聞いた話だが地震直後スプリンクラーが作動したらしかった。邪魔になる天井からのカーテンレールはクリッパーで切った。救出道は約幅80cm高さ80cmだった。四つん這いですれちがうには、少し苦しい。
 そうこうしている間に他の職員も応援に来てくれた。5階西病棟は東から2人部屋が4つあり、その奥に6人部屋が4つあった。スムーズに患者を出せたのは2人部屋の4つ目の病室までだった。5階から外を眺めると黒い煙が5カ所は上がっていた。消防もレスキューもここには来てくれないんだろうかと思った。
 昼ごろ一度救出された患者を1階へ連れていった帰り、内科医と一緒に2階を見回った。薄暗い待合いのベンチというベンチはすべて毛布にくるまれた遺体置き場になり、その毛布の上に住所、名前、年齢が書かれた紙が置かれてあった。内科の診察ベットも遺体が置かれ、歯科の診察ベットでさえ遺体が置かれてあった。歯科の前のベンチに5歳の子供の遺体が寝かされ、その横で家族が呆然と見守っていた。この目で見ている光景が信じられないことばかりで、まるで地獄を歩いているようだった。
 5階では職人が6人部屋の壁にチャレンジしているところだった。壁越しに6人全ての患者の無事は確認はしたが、壁の中には酸素や吸引の配管が横に走っている。その配管は職人の渾身の力で曲げられたが、職人の掌は赤く血で染まっていた。また、壁の向こうにはロッカーが倒れ、その横にはキャスター、薬品棚があり壁の穴が塞がれていた。壁のところにちょうど天井のはりが垂れていて大変狭い。私が3人の中で一番細身だったので、先頭を変わった。キャスターの足を切り天盤を取り除くしか方法がなかった。寝ている姿勢のまま金のこで切ったので、4本切るのに1時間はかかった。天井のはりの真下の作業だったので、「ここで大きいのが来たら、俺も死ぬな。」と思った。
 この部屋の入ロの幅は50cm高さは70cm程、人一人やっと這って通れるくらいだった。この部屋では天井のボードはこなごなに割れベットの上や通路に落ち、天井を張り付けてある金属はむき出しになりベット柵の高さまで降りていた。窓が完全に押しつぶされ真っ暗だった。
 窓際の60歳位の女性を出す時その女性は救出道を四つん這いで私の後を這いながら私に訴えた。「みんなで励ましあってたんよ。番号をかけ合ったり、歌を歌ったりして頑張ったんよ。」私は、「そう、助かってよかったね。」と言うしかなかった。本当は、病院が古いばっかりに申し訳ないことした気持ちでいっぱいだった。奥へ行くほど寝たきりの患者を出すのは大変だった。布団にくるんで瓦礫の上を20m程を引きずるようにして外へ出した。この6人部屋の全ての患者を出し終えたのが2時だった。
 そのころ5階から外を眺めると煙の数は2本増え7本になっていた。近くの菅原地区の燃えている炎がよく見え、火の手がこちらへ来ないように願った。
 壁越しに次の6人部屋から、6人全員無事との男性の声を確認した。壁の向こうの患者と声をかけ合い、壁の反対側に何もないところを教えてもらい、職人が壁を蹴り被った。その部屋から3人外へ出したところで、やっと消防隊が来たのでその場をまかした。最初に来たのが京都の消防で次に桑名の消防、それから機動隊、警察、レスキュー隊がこの1時間程で50人は来ただろうか。私はもっと早い時期、せめて午前中に2人でいいから救出のプロが来てくれていたら、もっと患者を早く出せたのにと思った。
 私は、その後救出される患者が乗ったタンカの先導や消防隊と病院との連絡に務めた。職人は午後7時まで先頭で頑張ってくれた。
 午後10時頃までで、患者1人を除く看護婦3名を含み46名全ての救出に成功した。消防隊の隊長より救出を打ち切りたいと申し出があり、病院長に伝えてその日の救出活動は終わった。
 残された一人の患者は翌日の午後9時頃に瓦礫の中から遺体で発見された。
 私は、この2人の鳶職人の協力がなければ、これほどの救出は出来なかったと本当に感謝すると共に真の男らしさと勇気、人としての温かさを教えてもらったような気がしている。
 最後に入院中に亡くなられた一人の患者、そして5千人を越える死者に心から冥福を祈りたいと思う。


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