兵庫県南部地震記録紙 1995年1月17日午前5時46分 M7.2−この経験を今後に生かすために−
社団法人兵庫県放射線技師会 平成7年1月 P201〜P204


阪神大震災(兵庫県南部地震)体験記

名誉会員  小池 孝治

 ”ドーン”という音で目が醒めたのか、布団の中で物凄いスピードで体が左右に揺すられる回転横揺れで目が醒めたのか定かでないが、必死で弾き飛ばされないよう、その回転横揺れに抵抗していた。(後でその時間が20秒だったと聞かされてもいまだに信じられない・・・もっと長かった様に思う。)
 回転横揺れが収まり、もう揺れないことを確認しつつ、暗闇の中で電燈をつけようとしたがつかない。心臓の100mを全力疾走した時の様な動悸と、疲労感で暫くじっとして呼吸を整える。寝起きのぼんやりした頭で何が起きたのか考えるが、ピントが合わない。夢ではなかったのかと思いつつ、トイレに行くべく手探りで一階に下りた。
 その時近所の人達の話し声と「近畿地方に大きな地震がありました。各地の震度は・・・」というラジオの音声が耳に入ってきた。
 そうか、いまのが地震だったのか・・・・と蛍光灯よろしく自分で情報を集めるべく懐中電燈を探し、乏しい光のなかでラジオを捜したが、何処にあるのかさっぱり分からない。平素テレビばかりでラジオなんか聞くことがない罰だ。(後で探し出したラジオには電池も入れていなかった。危機管理はゼロ。村山首相に文句を言う資格は無い。)
 さて、何から始めるか?とっさに何をすべきか暗闇の中でなかなか考えがまとまらない。(地震当日、家内は母親の一周忌で15日から郷里宮崎県に帰郷していて、私一人だった。)
 とにかく被害は?・・・・と外に出て家の回りを一周して、薄明かりの中で確認したが、別に被害はなさそうで、家も塀もシャンと立っていて一安心する。(実際は風呂場の側壁に亀裂が入り、塀は倒壊の危険があり、取り壊し、一部破損の被災証明を受けたが。)
 室内も、倒れた家具も無く、物の散乱もそれ程ひどくなく、自分のまわりの状態から「地震全体」を、大したことはないようだ、と判断してしまった。
 それからどうしたのか(朝食は食べたのか)記憶は曖昧だが、病院は大丈夫だろうか、患者さんは無事だったか?そう考えた”仕事人間””働き蜂”年代の私の行動は 「車のエンジン」のスイッチをいれ、家のことなどほったらかし、近所に声を掛けることも忘れ、病院へ向け車を走らせていた。
 途中地震で道路が寸断され、通行不能な個所があるのではないか・・・・と言う最悪の状態など考えてもいなかった。万一に備え、差当りの食糧と水ぐらいは積んでおくべきではなかったか。幸い道中異常が無く、無事着いたから良かったようなものの、災害時の常識は皆目ゼロ。恥ずかしい限りだ。

「水が無いと自現機は動かない」

 病院は、神戸市須磨区の市営地下鉄妙法寺駅前の高台にある新興住宅地の前に建っている。周りは鉄筋の高層住宅で、新しい建築基準に則って建てられた建物だったせいか、病院ともどもシャンと立っていた(従って市の中心部であのような物凄い災害が発生しているとは思ってもいなかった)
  X線室の戸を開けると、書籍や資料が散乱して足の踏み場も無い。差当り手当り次第に空箱に入れて、X線装置に異常がないかを確かめ、電源を入れる。ウオーミング・アップしてX線の発生を確認し、自動現像機のスイッチを入れる。”ピー”<タンクミズナシ>の表示。そうだ、水が無いと自現磯は動かないのだ。新しい45秒の自現機に更新して一年、その間に一度も断水と言う非常事態に遭遇すること無く、初めての体験だ。慌てて使用説明書を出して見るが、何処にも”断水時の使い方”なんて書いていない。
 そうこうしている内に、病棟からX線写真は撮影出来ますか? ・・・・水が出ないので現像が出来ません・・・・バケツで水を入れても駄目ですか?と先生の声・・・・断水の時どうするか。緊急時に一枚でも撮る方法は・・・・思えば昨年夏の各地での断水騒ぎの時、その対策を考えておくべきだった。九州や四国は大変だろうなぁと、ひとごとの様に考えていた天罰が今やって来たのだ。
 何とかやってみますと頭を下げ、必死になって使用説明書を読みなおすが、さっぱり判からず頭は混乱するばかりで、放射線技師45年のキャリアはどこかに吹っ飛んでしまっていた。

「診療可の情報発信の不足」

 悪戦苦闘しているうち、天が哀れんでくれたのか、昼ごろ水が出た。全市断水のとき、良く高台にある当院に水が出たものだ。奇跡としか言い様が無い。
 当日(17日)は、かろうじて11名の被災者の対応が出来てホットした。
 翌18日から、地震災害者優先に、一般検査をストップさせて災害撮影に専念する。
 ご承知のとおり地下鉄で3駅目の長田区にある西市民病院が倒壊。その付近の病院に被害が多発したので、当院に相当数の被災者が搬送されてくるのではと覚悟していたが、地下鉄がストップし、交通渋滞の激しい中で、峠を越えて当院まで来るのは至難の業であったのだろう、被災地の病院が野戦病院化し大混雑しているとき、余りお役にはたてなかった。 救急隊や、被災地の病院に、当院は被害が無く、24時間対応出来ることの連絡の不足、努力の不足を今猛反省している。

「一番多かった撮影部位は?」

 今、被災後5日間の撮影部位を照射録から集計してみると、129件中、腰椎20件、肋骨12件、頭部12件、肩関節10件と、この4部門で全体の1/3を占める。家具が倒れて打った、下敷きになった、家が倒壊して壁や柱が落ちてきた、と言う状況を考えると当然のことかも知れない。(この内、腰椎圧迫骨折で3名の方が入院された)。手足など比較的軽度の骨折有無のX線撮影が多かったのは、病院の周辺に倒壊家屋が少なく、来院患者の中では近隣の須磨地区が80%強と圧倒的に多かったことに因るものと思われる。
 消化器科専門病院を標榜しながら、内臓破裂等重症患者の受入れが1件も無かったのは、被災地の病院が大混雑しているとき、搬送をただ漫然と待つのみだったからで、緊急時に如何に対処するかのマニュアルの不備、それによる情報発信の不足が総てと悔やまれてならない。
 「なぜ、神戸に大地震は無いと思っていたのか」「どうして、いざという時の備えをしておかなかったのか」。我々は完全に「ぬかっていた」。県や市の対策の遅れを云々する資格は私には無い。

「肉親との連絡」

 宮崎県で、17日朝NHKの朝の連続テレビ小説を見ようと、TVのスイッチを入れた家内は、そこに映し出された兵庫県南部地震の物凄さに息をのんだ。ビルが倒壊し、全壊家屋が道をふさぎ、高速道路が崩壊、あちこちで吹き上がる火の手。震源地が淡路島北部との報道に、目と鼻の先の明石が映像以上の被災に遭っていると想像しても不思議ではない。
 2階6畳の間のタンスの横に寝ている私がその下敷きになって生きてはいまい・・・そう覚悟し、交通遮断、混乱の中をどうやって明石に帰るかを真剣に考えていた。
 一方、自現機を動かして、一刻も早くX線撮影をと必死になっている私には、安否をすぐ知らせることなど考えもしなかった。
 前記のとおり一仕事終えた午後3時頃、両親(九州博多在住)に、無事だったことを知らせて安心してもらわねばと、「家も、病院も無事だよ」と電話。博多経由で宮崎の家内に無事を伝えてもらった。
 北区鈴蘭台に住む息子一家とお互いの無事を確認したのは夜9時頃だった。

JR鷹取駅東側
(尾原病院 小池氏 撮影)

JR鷹取駅前
(尾原病院 小池氏 撮影)

大丸デパート前三宮神社(尾原病院 小池氏 撮影)

「敗戦、震災・・・生かされた私」

 昭和20年8月15日、私は海軍予科練習生19期の一員として、高知県浦戸航空隊で終戦を迎えた。飛行機が不足していた当時、同期の仲間は横須賀の特殊潜航艇に回され、沖縄で敵艦目掛けて突入し(人間魚雷)帰らぬ人になっていた。長男でなければ私もその一人だったかも知れない。
 その時、両親、兄弟姉妹は皆満州鞍山(現中国)にいて離れ離れ、あの戦後の混乱の中を知らぬ土地で、一人で生きていくはめになった。
 あれから50年、思わぬ大震災で家内と離れ離れの中、再び命を得た。
 生死を分けた岐路に二度遭遇しながら怪我ひとつ無くこうして生かされているのは、奇蹟、天命としか言い様がない。
 これから歩む三度目の人生を、社会の為に役だたせねば、不運に遭われた方に申し訳がない。
 この震災で失ったものも多いが、多数のボランティアの方が活動され、他人を思いやり、助け合う人間の基本的な在り方、大切さを再認識させてくれた。
 神戸に住んで40年、色々な方から受けたご恩に報いる為に”人のぬくもりの感じられる街”を造ることに努力したい。
 ”生かされた天命に従って”


(c)1996社団法人兵庫県放射線技師会(デジタル化:神戸大学附属図書館)