兵庫県南部地震記録紙 1995年1月17日午前5時46分 M7.2−この経験を今後に生かすために−
社団法人兵庫県放射線技師会 平成7年1月 P205〜P207


私の震災体験

国立神戸病院   久保 裕也

 この原稿に挑戦するのは実は2回目である。たかが原稿を書くのに挑戦という表現はいささか大袈裟かもしれないが、やっぱりこの表現がぴったりなのであえて使うことにした。1度目の原稿作成は震災からちょうど2カ月後、技師会雑誌の編集を担当する者として、ここは一つ実体験に基づいた“震災で我々ができたこと”なるものを書こうと思い立った。ところがである。原稿を書き進めれば進む程に、我が脳はシナプス電位の速度を急速に速め、それが視床下部への刺激となり、ついには交換神経の後ろ盾を得た怒りの脳がムクムクと活動を開始しはじめてしまったのである(ようするに自分自身に対しものすごく腹が立ってきたのだ)。そして抑制を失った腹立たしさは、我が指の運動神経を完全に征服し、今や怒りと化した我が指は、震災で傷ついた定価17万8千円のワープロを少しもいたわることなく無限に叩き続け、ついには原稿用紙5、6枚の原稿をデタラメに一挙に書いてしまっていたのだ。
 そしてまたところがである。ある種の怒りにに包まれながらもその頃には我が副交換神経もかなり勢力を盛り返し、少しずつ平静を取り戻しつつある中で、そのデタラメな“震災で我々ができたこと”なる内容の原稿を読み返して見ると、それはもう酷いのである。どれだけ酷いのかというと、凄いと酷いを合体させた“凄酷”もしくは辛いと酷いを合体させた“辛酷”という漢字を講談社の国語辞典に新語として載せたい位に凄いのである。一気のなだれ書きであったので誤字脱字がどろどろとまとわりつくなか、その内容は我ながらに圧倒的に暗く、全面的にせつない内容に満々ていて、サブタイトルには 《大震災における放射線技師免許の悲哀アンドこの免許に対する情けなさと怒りと悲哀と嘆きと落胆と寂寥の日々に耐え続ける青白き青年》とつけたくなるほど、結果的にはなんとも悲壮な内容になってしまっていたのだ。これをそのまま雑誌に載せれば「新人1、2年生の皆さんの“放射線技師の使命は、より多くの画像情報をドクターに提供し、常に患者さんの為に日夜・・・・”的考えの新人の夢を打ち砕くかな?」どうしよっかな〜、載せよかな〜、やめよかな〜、やめよかな〜、載せよかな〜、と散々思案したあげく、「ええい、やめじゃい!」と発作的にバックアップも取らずにワープロのスイッチを切ってしまった。
 あれから2カ月、少しづつ町並みも明るくなりだしたこの頃、周囲からの忠告もあり、やっぱり何か書き残さなければならないかなと再考するなかで、もう少し前向きに“私の震災の経験”なるものを、もう一度冷静に考えてみたい。

 震災の当日、あるいはそれから数日間の世間が大混乱している急性期に、あなたは技師として、また病院勤務の人間として何ができたでしょうか。「おうおう、俺はこんなことをしたゾ」と言えるあなたは素晴らしい。「そんなこと考えたこともないわ」と言えるあなたも素晴らしい。何故ならそんな事を考える間もなく突っ走っていたのでしょうから。
 さて私はというと、やっぱり皆さんと同じく震災から2週間ほどは生まれてこの方経験したことのない位に突っ走っていました。全壊した実家からの荷物の取り出し、解体業者や隣の住民との交渉、水汲みや食料の調達、それに加えて臨月の家内の出産準備等々、それこそ猫の手を10匹ぐらい借りたいほどの状況で、我ながらよく頑張ったと思います。しかしそれらの一連の行動は、職業人としてではなく、まったく普通人として皆さんも大なり小なり経験された、ごく当たり前の行動だったように思います。
 当日の朝、自宅周囲のあまりの惨状に事の重大さはすぐに実感できたし、ラジオで職場のある東灘の被害は絶大だと聞いて、「うちのクリニックはもう無いやろなぁ、あったとしても半年ぐらいは給料ないやろなあ」などと思いつつバイクを飛ばして、昼前にはなんとか職場の前にたどり着きました。ところが周囲の被害の割りにはクリニックの外観はなんの被害もない様子で、普段とかわりなく立っており、とりあえず一安心。そして大きく深呼吸をした次の瞬間には、フッと日常病院に勤務している者として、あるいは放射線技師としてのなんとも情けない状況が襲いかかってきてしまったのです。

 病院周囲の被害は絶大で、青木市場は全焼し、病院横の公民館には多数の方が避難されていました。そこには顔見知りの方も多く、そこに出向くと「先生はまだ来てないの?いっぱい診てもらいたい人おるんやけど」との事。とりあえずクリニックのスペースだけでも解放しようかとも考えたが、一旦開けてしまうと医療行為のできない自分だけでは収集がつかなかなる可能性もあり、結局それを諦めて、「なるべく早く先生に連絡をとります」とだけ伝えて、それこそ後ろ髪を引かれる思いでそこをいったん引き上げた。たまたま院長には連絡がとれたが、明石の自宅からはとても行き着ける状況ではないとのこと。せっかくここまで来たのに、被害の大きさを尻目に、医療に従事するものとしては無論のこと、放射線技師としても自分では全くなすすべがないんだなぁと落胆のため息を一つつく。
 その足で近くのお寺に行ってみた。お寺の建物もかなり壊れていたが人の出入りはあった。門を入ったその時、色のない遺体が自分の目の前を運ばれて行くのを見た。その瞬間、いったい自分は何をしてるんだろうと、また重い現実をぶら下げたため息を一つつく。
 さらにバイクで東灘周辺を走り回ってみる。そこにはもっと厳しい現実が散乱していた。そんなパニックの中で結局その日は少しの食べ物を避難所に届けるだけに終わってしまった。こんな一大事の時なのに。
 また次の日もクリニックに出かけてみる。周囲はかなり落ち着いている。テレビでの惨状とは裏腹に何か異様な静けさの中で、病院がムッと立ち尽くしているような印象を受けた。院長はまだ来ることができない。鍵をあけて院内に入ってみる。薬局に散らばる無数の錠剤、粉々になった点滴ビン、曲がって開けることができない扉などを見つめながら薄暗い室内を歩いた。そこで一人で考えた。真剣に考えた。今何をしたらいいのかを。そこで導き出されたものは、院長は不在、おまけに電気も水道も全く使えないこの状態では、結局倒れたCTのコンソールと同様に、クリニックを媒体としての職業人としては何の役にも立てそうにないということであった。静まりかえった室内で他の事は何も考えられない状態に陥っていた。ダメだダメだという気持ちで一杯になった。それがそれ以外の自分がなすべき行動を抑制し、失わさせてしまったのである。その時の状況を思い浮かべるたびに自分が嫌になり、そして放射線技師という職業がつくづく悲しく思えて来ることは今でも変わっていない。これが私の震災後遺症であるかのように。
 結局、診療を始めることができたのは地震から3日後の朝であった。その頃には急性の治療を要する方は大病院に流れ、外来は閑散としていた。もっぱらの職員の仕事は、周囲の住民の助けをかりながらの院内の片付けに終始した。私自身も実家の後処理が殺人的に忙しくなり、職業人としての行為をほとんどできぬまま、それからは私用に専念せざるを得なくなった。

 今思えば、何故もっと外に目を向けることができなかったのだろうかと思う。自分の思考範囲の狭さがイヤになる。震災後の報道ではバイクで走り回って人助けをしていた人々が沢山いたという。パソコン通信で情報を交換し、遠方で心配されている方々のため生死を確認して回った人もいるという。その度に、そうか幾らでもやり方はあったのだと、自分の行動のあまりの貧困さに悲しみすら感じてしまう。私にはこの時、震災=怪我人、怪我人=病院、病院=治療、そしてクリニックは地域医療の要である、という方程式が自分の頭の中からどうしても離れることができなかった。そして、日頃から地域に根ざした医療を目指しているクリニックに勤務するものとして地域的な行動に固執してしまったことと、また放射線技師として日頃の実務を最大限に生かしたいと思う気持ちが自分の頭の中を支配してしまった結果がこの有様だ。
 次に今回と同じような災害がもし降りかかってきたならば(あっては困るけど)、こんなことを考え、こんな行動をとってみようと思うことが少なからずある。それは今回全くできなかったこと、あるいはやりかけて途中で放棄してしまった事柄である。震災で引き起こされた地域的、個人的な物質的損害。そして動揺や葛藤といった精神的な疲労をこのままにしてしまうにはあまりにも代償が大きすぎる。これらの事を経験としてこれからに生かしてゆくには一体何が必要なのだろうか。それは日常からのボランティア的活動なのかもしれない。あるいは常に前向きで時には攻撃的な思考を備えなければならないのかもしれない。あるいは、それはもっと単純で照れくさい表現を使うならば、人を愛する心があればそれでいいのかもしれない。そのことは日常に目を向ければ、例えば電車の中でお年寄りに何の違和感もなく席を譲れるだろうか、目の不自由な方に気軽に声を掛けてあげることができるだろうか。そんな些細な日常が自分の心の鍛練、急場でも焦らず物事を考えられる広い視野を持つことに繋がってゆくのかもしれない。そんなごく些細な、しかしなかなか難しい行動を自分の中で育み積み重ねて行ければ、このにがい経験をこれからの生活に生かして行けるのではないかと考えている。

 震災から10日後、私に娘が生まれた。新聞には“震災の赤ちゃん”という何とも奇妙なタイトルで取り上げられもした。私はこの大変な時期に初めての子供が誕生したことに深い意義を見つけたい。この子には “震災の子?”として今回のことは自分の考えられる範囲内で全ての事を話してあげたいと思う。それは人の痛みを理解できる人間、良しとする事に精一杯体でぶつかってゆける人間に育ってほしいという親の願いの一助として必ず役に立つ出来事であったと思うから。
 今は何も分からずただ笑顔をふりまいている娘の姿に、病院に「何が手伝うことはありませんか、何か困っていることはありませんか」と毎日のように尋ねて来てくれた、あの若者達の姿がだぶってしょうがないのである。

(兵庫医大 安政氏 撮影)


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