兵庫県南部地震記録紙 1995年1月17日午前5時46分 M7.2−この経験を今後に生かすために−
社団法人兵庫県放射線技師会 平成7年1月 P212〜P214


震災と私の周辺

生田診療所  石田 幸恵

 「地震や!」という主人の声で目を覚ますと、これまで経験したことのない巨大な揺れを感じ、思わず「理子!大丈夫?ゆみ、久倫!大丈夫?」(なぜか主人の名前はでてこなかった。)と叫びました。
 幸い、寝ている部屋は本棚が倒れた程度でした。これがもし夏で、クーラーのある部屋で寝ていたら・・・。この部屋は、テレビは転がり落ち、食器棚は倒れてあちこちガラスだらけ。冷蔵庫は1m程前へ飛び出しており、たぶん怪我人がでていたのではないかと思います。しかし、この時はまだこれほど凄い地震だとは思っていませんでした。
 倒壊はなかったものの、近所からの「皆んな外へでましょう。石田さんとこも大丈夫?」という声で外へ飛び出そうとしましたが、玄関は開かず、無理やり戸をはずし外へ出てみると外壁があちこちと崩れ落ちていました。最悪だったのは、我が家は路地の奥の家なので、その路地に入る道がビルの崩壊した外壁で閉ざされていた事です。仕方がないので何人かの人に手伝ってもらい、その外壁の上を登りながら「今、余震がきませんように!」と唱えつつパジャマ姿の子供達を車道へと送り出しました。
 ちょうど10月に買ったワンルームマンションが大丈夫そうなのでそちらへ行き、それから半年間はワンルームで一家5人が暮らし続けました。
 私たち家族は、1月15〜16日の連休を利用して雄琴温泉に出掛け、震災前日の夜10時過に阪神高速を通って神戸に帰ってきていました。あれから7時間後にこのような事態になろうとは誰が想像したでしようか。ほんとうに驚きました。後日、「この袋はなんや?」と近所の人に配るおみやげ袋に気が付いたのは、2週間程してからでした。
 当時を思い出すと、非常の備えが全くできてなかったことを思い知らされます。懐中電灯は電池がなくてつかない。コンタクトや子供のメガネの置き場所が一定していなかったので、見えない目で探すのにひと苦労。ライフラインがないと何ひとつ食べることができず、お菓子ばかり。
 18日に「東神戸病院が全壊した」というニュースを聞きました。「職がなくなったのか?」と半信半疑で車に乗り「入院患者の人は大丈夫だったのだろうか?」と、とにかく病院へ向かいました。が、4時間たっても春日野道から灘警察までしか行くことができず、結局あきらめ2時間かかって家に帰りました。
 交通手段は、車はまったく役に立たないことがよくわかり、19日には私は朝から生田診療所へ、主人は東神戸病院へと。思えば、これから2ヶ月弱、自転車で通う日々の始まりでありました。
 余談ですが、灘警察でトイレを借りようと思いましたが、見るすべもなく、水の出ない所でトイレを清潔に保つことは大変なことだと痛感させられました。
 また、灘駅東のJRを越える高架橋に段差ができており、私の車は軽自動車なのでそこを越えられずに困っていると、歩いている人が何人かどこからか石をもって来てくれ、それを何段か積み上げ坂を作ってくれたのでようやく通ることができました。「ありがとう」とだけ言いましたが、こうした状況の中でも困っている人を見かけたらできるだけのことをしてあげるという気持ちが大切だと思いました。
 その後、診療所では少ない職員で治療をするのに手が一杯な状態で、支援の方がまず片付けを快く引き受けてくださり、会議室やロッカー室を片付けてくれたのが印象的でした。どこから手をつけたらいいのか分からない状態にあって非常に助かりました。支援についてはあらゆる組織の方が来られ、特に生田診療所は民主医療機関連合会という全国組織に加盟していますが、その連合会はもとよりそれ以外にも国立病院の看護婦さんたちも多数支援に駆けつけてくれ、組織の枠を越えたありがたさが身にしみてわかりました。
 機器については自動現像機の検出器センサー部分に現像液が付着したので、検出器を交換してもらいました。驚いたことに、X線テレビとあの軽い一般撮影は固定していたために全く動いていなかったのに、断層台が固定をしていなかったばかりに操作室の入り口まで1mあまり移動していました。1人では重くてビクともしないので、後日島津の方に定位置に戻してもらい固定していただきました。
 X線テレビが倒れて操作室と撮影室との防護ガラスを割ったという話も聞いています。全国の皆様も機器が固定されているかどうか確かめられた方がよいと思います。
 又、東神戸診療所では、技師はいるが自現機が復旧せず、そして近くにある打村整形外科では、自現機を含め撮影機器はOKなのに撮影する技師がこれないということで、19、20日は整形の方を少し手伝わせていただきました。非常の時のみならず日頃から近隣の開業医さんとの連携も大変重要だと思いました。
 個人的には、1週間もお風呂に入っていないということもあって、北区の知人の家で入浴させてもらい、あれほどお風呂がありがたかったことはありません。と同時に新神戸トンネルを抜け、車で30分走れば震災前のような世界(思わずローソンに入って買い物をしました)、一方南トンネル一つ抜ければそこは瓦礫の山。普通の当たり前の生活ができない苦労。水汲みなど若い私でさえもしんどいのに、いわんや高齢者の方ともなると。
 そして学校も保育所もない中、長女ゆみ(小4)次女理子(小2)は三重県にいる私の一番上の姉の家へ、そして長男久倫(3才)は大阪にいる二番目の姉の家へ預けられ、各々小学校、保育所へ通い始めました。
 しかし理子だけが、順応性がないのか親と離れているのがいやなのか、登校拒否になり、一応学校が始まった時点で早々と神戸に連れ戻しました。が、帰神しても時々「お腹が痛い。」などと言って、学校を休む日がありました。カウンセリングを受けるなどしましたが、今に至っても地震前のようにはもどっていません(ゆみの方は3月末に帰って来て、再び5人の生活が始まりました)。
 4月9日にやっとガスが出てライフラインが出揃いました。最後に大きな余震があった時、思わず主人に飛びつくと「久しぶりやな一」と。
 震災で夫婦仲が良くなった人が何人かいると聞きました。電気も水もガスもない中、10月はベビーブームになるかしら?

(兵庫医大 安政氏 撮影)


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