大震災と歯科医療 阪神・淡路大震災からの報告と提言 兵庫県歯科医師会 平成8年1月 p85-91


10年の積み重ねが生きた警察歯科医会

一刻も早く、家族のもとへ

身元不明遺体確認に没頭した警察歯科医会


御巣鷹山を忘れない

 あの日、城崎の自宅で激しい揺れに襲われた警察歯科医・河原忍は、断片的にしか入ってこない情報にいらだっていた。震源地は?震度は?被害の規模は?現在の状況は?部分的なニュースが途切れ途切れにテレビの画面から流れてくるものの、全体を把握できる正確な情報が届かない。確信できたのは、とんでもない災害が起こったということだけ。
 何かの間違いであってくれれば……。祈るような気持ちを裏切るように「阪神高速が落下」「駅が倒壊」「病院が崩れ落ち、患者らが生き埋めに」と、信じ難い被害が次々と伝えられ始めた。
 警察歯科医としての出動−−。重苦しい気持ちを抱えながら、河原はそのための準備を開始した。
 平成7年1月17日、未曾有の被害をもたらした阪神・淡路大震災が発生。 兵庫県警察歯科医会にとっても慌ただしい日々が始まろうとしていた。
 さかのぼること10年。1985年夏、その思いもかけない惨事は起こった。「日航ジャンボ機墜落事故」。東京を発った日本航空のジャンボ機が群馬県の御巣鷹山に墜落。520人もの尊い命が一瞬にして奪われた。そのなかには、当時の兵庫県歯科医師会・鹿嶋弘会長、前田光俊専務理事、河原道夫・県歯科医師政治連盟理事長の3名も含まれていた。組織のトップとして活躍していた貴重な人材を突然に亡くしたことは歯科医師会にとって大きな痛手であった。同時に、河原忍は、同じ歯科医として前を歩いていた父を亡くすという二重の悲しみに向かい合わなければならなかった。「航空機の事故は、それはもう悲惨なもので。衝突の激しさで体がバラバラになったり、焼け焦げてしまったり。もう二度とあんな事を起こしてはならない」

 直後に現地に駆けつけた体験を通して、河原は静かに語る。だが、兵庫県に警察歯科医会が発足したのはこの辛い経験があってのことだった。
 というのも、群馬県には当時すでに警察歯科医会が組織されており、この事故の際も文字通り献身的な身元確認作業を行っていた。
 実際に警察歯科医たちの活躍ぶりを間近に見た河原らは、その必要性を強く感じた。そして早速、兵庫県にも警察歯科医組織を作るべく準備を進めた。亡くした3人の命を無駄にしないためにもと、設立メンバーの気持ちがひとつにまとまったかいもあり、翌年の1986年、「兵庫県警察歯科医会」が発足も県下にある52の警察署に1人ずつの会員を配置し、警察からの要請にいつでも応じられる態勢を敷いた。
 「最初は何も分からずまったくの手さぐり状態。お手本である群馬県の警察歯科医会のアドバイスを受けたり、兵庫県警との折衝を重ねながら、少しずつ、少しずつ兵庫県における警察歯科という分野を築き上げてきたのです」
 現在、同会の専務理事を務める飯田浩司はこれまでの長かった道のりをそう振り返る。
 設立当初に定めた活動内容は、1.検視業務その他法歯学を活用した捜査協力を行う、2.警察職員に対して法歯学的知識の普及高揚を図る、といった程度だったが、現在は、1.犯罪捜査協力(犯罪捜査に関して要請により手配書のモンタージュ写真並びに口腔状況の特徴原稿を作成し、兵庫県歯科医師会機関紙「歯界月報」に掲載して県下の会員の協力を得る一方、全国組織である都道府県歯科医師会に連絡協力を得る)、 2.死体身元確認捜査協力(確認困難な身元不明死体について警察の協力要請により検視を行い、口腔状況を細部にわたり調査し報告書並びに原稿を作成し、歯界月報に掲載して県下の会員に広報し早期確認に協力)、3.法歯学に関する講演会の実施(県警本部及び県下各署の署員に対して法歯学並びに口腔解剖・衛生・病理・治療充填・補綴等の基礎知識他の講演を行い、犯罪捜査・身元確認捜査等に貢献、4.県警本部及び県下各署との懇談会(県警本部及び県下各署と随時懇談会を開催し、協力関係の確認を行い、警察歯科医会活動の円滑化を図る)、5.総会及び理事会の開催と、10年の歳月と経験を経て、その内容も具体的に整理され成熟していった。
 同様に、他県でも次々と警察歯科医会が発足。日航機事故の前にはわずか3県にしかなかった警察歯科組織が、事故を契機に続々と縛し、現在は実に44の道府県で警察歯科医が活躍するまでになった。
 「奇しくもあの事故から10年。警察歯科医たちは殺人、心中、事故など、凄惨な遺体に向き合っては身元の確認に尽力し、法歯学の重要性を説いて回ってきた。警察との信頼関係も確実に築き上げてきた。今回の大地震の混乱のなか、われわれ警察歯科医会が出せるだけの力を発揮できたのも、そんな地道な努力の積み重ねがあってこそ。日航機墜落事故は
悲しいできごとだったが、あの時に散った多くの命のためにも、と精一杯の活動を続けてきたわれわれ警察歯科医会にとっては、やはり忘れることのできない原点なんです」
 御巣鷹山を心に刻み、今回の震災においてもいち早く立ち上がった兵庫県警察歯科医会。あの日の悲しみを使命感に変えて懸命な活動を続けた歯科医たちの思いを飯田はそう代弁してくれた。


動き出した警察歯科医たち

 通常、警察歯科医の出動は所属の警察署からの要請によって行われる。17日当日、城崎署の警察歯科医・河原忍はテレビにくぎづけになって、刻々と増えていく死亡者の数を横目でにらみながら、要請を待ち続けた。ところが、その日は何の連絡もないままに過ぎた。他の歯科医も同様だった。
 翌日、昼まで待ったが、要請は来ない。しびれを切らせ、県警に電話を入れてみる。その時の返事は、死亡者は多いが、ほとんどが自宅で亡くなっているので身元確認は十分にできるというものだった。腑に落ちない思いを抱きながらも受話器を置いた。「そんなはずはないと思ったんですが、警察も当時はかなり混乱していたようで、こちらとしてはどうしようもなかった。直後は、それこそ死んでしまった人は後回しにせざるを得ないという状態もあったんでしょう」
 ところが、翌19日になってから、自宅に県警の捜査一課長から直接電話が入った。身元不明の遺体が出ているが、被災地の医師にはたのめないので、被災地外の歯科医に協力してほしいという。河原は、すぐさま県下52署のうち、但馬、丹波など直接被害を受けなかった地域の警察歯科医をピックアップし、手当り次第に電話をかけ協力を依頼した。各署の警察歯科医たちは、すでに出動の構えで、二つ返事でそれを受けた。
 日付けが変わって間もない翌20日の未明。但馬、丹波地域の警察歯科医たち第一陣を乗せた車が、神戸をめざして走り出していた。


県歯会館に対策本部を設置

 そのころ被災地にほど近い加古川警察署の警察歯科医・小林正和も県歯科医師会館に向け車を走らせていた。普段なら1時間程度で来られる道のりだが、どこの道に抜けても遅々として進まない。倒壊した家々、うねる道路、先を争う車の列……。「これは大変なことになったと、あらためて身が引き締まる思いだった」
 ようやくの思いで会館に着いたのは、加店川の自宅を出てからすでに5時間が経ってからのことだった。
 休む間もなく、すでに到着していた歯科医師や歯科医師会職員らとともに、東館にある衛生士学校の教室を拠点に、村井兵庫県警察歯科医会会長を本部長、小川本部長代行、河原本部長副代行とする「警察歯科医会対策本部」を設置。同時に理事役員及び県下52署警察歯科医に出動要請を行い、被災状況が軽微な地区の歯科医師会に対して、本所詰め要員として数人の派遣準備を依頼した。地震発生から3日め、1月20日のことだ。
 但馬から、丹波から、播磨から、そして被災地からも続々と警察歯科医たちが駆けつけてきた。警察からの要請に即応するよう、そして確実な検視作業にあたるため、取り急ぎ検視の手順、チャートの記載方法などについての簡単なミーティングを持った。その際、出動は1班3人体制で、また要請には24時間体制で応じることとし、対策本部には常時3チームが待機することも決定された。「寝袋を持って、食料を持って、水を持ってと、集まった先生方は皆、長期戦を覚悟の上で神戸に集結してくれた。冷静でありながら、自分たちがやらなければという意気込みはすごかった」
 直後から対策本部に待機し、司令塔的な役割を果たした小林は、その時の様子をそんなふうに語る。しかし、そんな自分自身も、冷たい床の上に敷いたダンボールの上で仮眠を取りながら、不休で活動を続けたひとりなのだ。


遺体安置所へ出動相次ぐ

 対策本部設置に向け慌ただしく動いていた小林正和らのもとに、県警から最初の出動要請が入った。1月20日午後2時。遺体安置所となっている須磨寺へ出動されたいとのこと。早速、1チームがパトカーに同乗し、緊急走行で須磨寺へと向かった。途中は相変わらずの大渋滞だったが、警察がパトカーを差し向けてくれたことで、車は順調に進んだ。
 周辺の家屋も軒並み倒壊している須磨寺には満足な暖房器具などなく、氷のように冷たい床の上にいくつもの遺体が運びこまれていた。身元が特定できず検視を行うのはこのうちの5体。眠るように横たわった遺体に向き合うと、誰が言うでもなく、皆、数珠を持つ手を合わせた。

 ところが、震災後初めてのこの出動で、思ってもみないことを経験する。傷みの進行を遅らせるためドライアイスでガチガチに凍結されていた遺体は、口を開けることすらできないのだ。「使い捨てのカイロを顔中にあて、ドライヤーで温めながら何とか口を開くような状態でした。ずいぶん手間取ってしまい、5体の検視に結局2時間を費やしました」と、河原忍。 次回からはあらかじめドライアイスを除去し、遺体を温めておいてもらうことを警察に依頼。あわせて、対策本部では検視の際の携行品にカイロとドライヤーを加えることを申し合わせた。
 翌21日は尼崎の遺体安置所、円徳寺への出動要請が入った。
 「当初の電話連絡で身元不明遺体が1800あるといわれ、こちらも慌てました。おまけに交通事情が悪く、対策本部から尼崎まで10時間かかるとのこと。真夜中になるのを待って出動しました。結局7時間かかって到着。行ってみると、遺体は7体。1800というのは誤報だったんですが、とにかぐ情報が錯綜していて、それが事実かどうかということも実際に行ってみないと分からないような状況でした」
 警察からの連絡窓口となった小林は苦笑する。結局、神戸から尼崎への移動にあまりにも時間がかかるため、翌日からの円徳寺の対応は尼崎市歯科医師会に依頼した。
 引き続いて須磨寺への出動要請。翌22日に8体、23日に1体の検視を行った。「ひとり暮らしのお年寄りが目立っていたように思います。ただ、なんていうか、思っていたより損傷が少なく、きれいな顔のまま亡くなられた人が多かったのが救いといえば救いでした」
 河原は、震災からまだ日の浅かった出動に関して、そんな感想、を漏らす。確かにこの時点で収容された遺体の多くは即死のケースが多く、眠りから覚める間もなく逝ってしまった人が多かったのが事実だ。


骨と歯からの身元確認も

 震災から1週間が経過した24日になると、新たな遺体安置所となった長田署への出動要請が入ってきた。遺体の数が多いとのことで、対策本部に待機していた3チーム全員で出動。長田署からほど近い村野工業高校の体育館で、25体もの検視に追われた。「長田の場合は圧死に加え火災で亡くなった人が多く、骨や歯だけしか残っていないこともありました」と、河原。遺体が焼けてしまっている場合は血液鑑定やDNA鑑定が難しく、身元の特定には歯が何よりの頼りになる。「その大切な手がかりとなる骨や歯の収容も長田では困難を極めていました。焼け落ちた家屋の下で自衛隊員らが燃えかすを少しずつふるいにかけて、行方不明者の骨や歯がないかと探していくわけです。ある日のこと、現場にいた僕のもとに若い隊員が駆け寄ってきて『先生ありました!みつかりました!これは骨でしょうか、歯でしょうか?』と聞いてきたんです。急いでその白いかけらを見てみると、それは骨でも歯でもなく、モルタルか何かの焼け残りでした。彼にそう伝えると、ひどくがっかりした様子でしたが、何とか気を取り直すと、再びふるいを持ち一生懸命に捜索を続けていました。行方不明になっている人を一刻も早く見つけ出してあげたいという気持ちがこちらにも伝わってきて胸が熱くなりました」と、河原は思い返す。その自衛隊員の背中に、頭を下げずにはいられなかったという。
 こうした捜索を通して自衛隊や警察、家族らが集めてきたわずかばかりの骨や歯からの鑑定が長田では珍しくなかったのだ。


激震地の警察歯科医たちは

 1月17日の地震発生当日、神戸・阪神間の警察歯科医たちは、自らが被災者の立場にいた。灘署の警察歯科医である住谷道夫もその一人だ。灘区の自宅は幸い倒壊こそまぬがれたものの、部屋の中は物という物が倒れ、落ち、足の踏み場もないような状態だった。ライフラインは完全に断ち切れ、何がどうなっているのかがよく分からなかった。「電話は通じないし、電気も来ない。車で様子を見にいこうにも道はグチャグチャで走れない。ただ、周辺の様子をぐるりと見ただけでも、何か大変なことが起こったことはわかりましたが」
 直後の何日間かは、でかけようとすると、おびえた家族が取りすがってくるような状態だった。「それでも、灘区にある診療所のことも気になりましたし、警察歯科医としての出動も予測されたので、唯一の移動手段であったバイクにまたがって診療所や県歯科医師会館を行き来しました」
 激震地にいたからこそ、自宅の周囲を見渡しただけでも震災のむごさを知ることができたからこそ、何かせねばという気持ちも強く働いたのではないかと言う。
 そんな住谷のもとに、灘署からの出動要請が入ったのは25日のこと。遺体安置所となっている王子スポーツセンターに、16〜17の身元不明体があるとのこと。一人ではこなせないと判断し、バイクで兵歯会館にある「警察歯科医会災害対策本部」へ。待機していた他署の警察歯科医に協力を依頼した。対策本部にもすでに出動要請が入っており、1チームが住谷に合流することになった。そして、住谷はバイクに乗り、応援部隊は車に乗り込み、灘へ向け出発したのだが、これが結果的には裏目に出てしまった。


1枚のスナップ写真から身元確認

 対策本部をバイクで出発し、王子スポーツセンターに先に到着した住谷道夫は、早速、県警の鑑識担当者らと検視を始めた。遺体安置所となっていた剣道場には、当初の連絡より少ない12の遺体が横たえられていた。圧死がほとんどだった。前もって遺体を温めておいてくれたこともあり、作業は比較的スムーズに進みつつあった。
 12遺体のうちのある男性の場合、身元を特定する手がかりとなるのは1枚のスナップ写真だけ。歯科のカルテもレントゲンもなかった。「遺体を開□して調べると、特徴的な歯並びをしていて、前歯には金歯冠があったんです。写真をルーペで拡大して見てみると全く同じ。これはこの人に間違いないと、身元が判明しました」と、住谷。写真のなかの男性はスナックのようなところで笑っていた。大きな口を開けているその楽しげな表情が、まさか自分の身元を特定するのに役立つことになろうとは夢にも思わなかっただろうに。スナップ写真のなかの笑顔はあまりにも悲しかった。
 そのころ、対策本部を車で出発した応援部隊の歯科医師は、まだ、区境を越えられずにいた。渋滞の列はどこまでも続いていて、先が見えない。「パトカーを差し向けてもらえばよかった」
 皆、そう思ったが、出発の時点では中央区から灘区までというわずかな距離だということもあり、甘く見ていたのだった。住谷が一人
で奮闘してるかと思うと、イライラも募るばかりだった。
 「いったい何をしているんだろう……」
 いつまでたっても到着しない彼らを思って、住谷は首をかしげながら検視を続けていた。幸い警察の担当者の手際が良く、一人といってもこの日の作業は効率良く進んだ。とうとう12体めの検視も終了した。それでも、車は来なかった。
 結局、3人の応援歯科医師が王子スポーツセンターに着いたのは兵歯会館を出てから5時間が経過してからのことだった。今となっては考えられないことだが、とにかく車は右にも左にも前にも、後ろにも進まなかったのである。ようやくの思いで彼らが着くとすでに検視は終わっていたというわけだ。「それからますますバイクが手放せなくなりましたよ」
 住谷は苦笑する。


悲しみを明日の課題に

 この後も警察歯科医らは交替で対策本部に寝泊まりしながら、要請を待っては出動を繰り返し、延べ159人が、68体の遺体の身元を明らかにした。
 2月に入ると要請はほとんどなくなり、1月28日の須磨寺での検視を最後に対策本部の規模を縮小。実質的な活動を終えた。「専門職としての知識や技術でもって社会の役に立てたことが嬉しい。これからも社会の一員としてできる限りのことをやっていかねばと、あらためて考えさせられました」
 住谷は、今回の活動を振り返ってそう語る。現在、非常勤講師として母校や朝日大学の教壇に立つ機会も多い住谷は、歯科の分野からもこうした社会貢献ができるということを積極的に伝えていくつもりだ。
 ほかの警察歯科医たちにしても思いは同じ。城崎署の河原忍は自分たちが役立てる場を増やしてほしいという思いを震災後さらに強くした。「全国で1年間に発見される身元不明遺体はざっと2200体。そのうち身元が判明するのはせいぜい6割程度で、残る遺体は誰に見とられることもなく、ひっそりと葬られているんです。そういう人を1人でも少なくするために、僕たちをもっともっと利用してほしい」

 そのための課題もまた、今回の震災で浮き彫りになった。「身元の確認は歯科での治療の際のカルテやレントゲンが大きな手がかり。しかし、今のところは保存期間もまちまちだし、今回のような災害が起こった場合、カルテが取り出せなかったり、焼失してしまったりというケースもあった。どこかにまとめてコンピューター化して保存するなど、情報がいつでも得られるシステムを作っていくことも考えていかねばならないでしょう」
 また、加店川署の小林正和は、今後同じような災害が発生した時の対応に危倶を抱く。「今回何より苦労したのが青報網の確保と、交通手段の確保。これをどうするか。例えば無線を使うことも考えていかなければならないし、非常時にどういう移動手段を取るのがいいのかも探っていかなければならない。ただ、まずはいざ非常事態が起こったときにどう対応するかという申し合わせを日頃からきちんとしておくことが必要。いつ災害が起こってもいいように、早急に備えを進めていかなければと思います」
 御巣鷹山の事故をきっかけに発足した「兵庫県警察歯科医会」。今回の震災において、10年の地道な努力から生まれたその献身的な活動が高く評価された。それは、警察歯科医一人ひとりが、残された者の悲しみを忘れることなく熱い使命感に燃えてきたからこそなのではないだろうか。
 この震災で学びとったすべてを無駄にしまいと、原点は、今も変らないが、その目はすでに未来に向けられている。


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