大震災と歯科医療 阪神・淡路大震災からの報告と提言 兵庫県歯科医師会 平成8年1月 p119-123


他府県からも支援の手

被災地に駆けつけたボランティアたち


ボランティア活動する側、受け入れる側

 今回の「阪神・淡路大震災」では被災地で開業、あるいは勤務し、自ら被害を受けながらもボランティアに立ち上がった歯科医がいる一方、他府県から駆けつけて歯科医療活動に参加した人たちが多くいたことは言うまでもない。自分で来て、自分で動いて、自分で片づけて帰るという、いわゆる“自己完結型”の活動をした人もいたが、ほとんどの人には被災地発の何らかの指示が必要だった。例えば、どこに行って活動すればいいのかということ一つ取ってみても、自分で判断することは難しい。ましてや他の府県からやって来ようものなら地理も分からないのが普通だ。どの程度の医療が必要とされているのか、設備はあるのか、ライフラインの状況は、と、医療行為を行う以上必要な情報をつかまないまま活動をスタートさせることは困難なのだ。
 神戸市立中央市民病院歯科部長の田中義弘は、地震直後から申し出が相次いだ他府県からのボランティア受け入れに尽力した一人だ。まずは、その体制づくり。問い合わせの窓口を一元化し、申し出のあった個人、団体のリストを作成。いつでも動いてもらえるよう準備を進めた。
 「歯科のボランティア活動は大きく3つに分かれて行われました。まず、近隣の大学によるボランティア。2月4日付けで神戸市衛生局と、神戸市歯科医師会の連名で大阪歯科大学など近隣の5大学と2病院に巡回診療を要請し、これに応える形で各大学ごとに編成した歯科診療班が2月10日から3月9日までの間、避難所での診療をボランティアとして行ってくれたのです。そして、もう一つはある程度組織だって動けるグループ。県の内外の病院や歯科医師会などから何人かでまとまって来てくれたボランティアたちです。診療車を使っての仮設診療所での診療を中心に行ってもらいました。この2つのボランティアグループへの対応は、ここへ行ってくださいという指示だけ。そうすればあとはきっちりとやってもらえましたから」

 近隣大学と民間組織のグループ。これらのボランティア活動は、いわば“自己完結型”に近かった。
 一方で、電話などを通じて、ボランティアを志願する歯科医や衛生士、技工士も日を追って増した。
 「2月4日の時点で申し入れは衛生士や技工士を含めるとざっと100件にのぼりました。ただし、すぐに来てもらったわけではありません。結果的には3月まで待ってもらうことになりました」
 その間に、田中は各病院や診療所の再開状況をにらみながら、避難所に赴き歯科医療のニーズを探った。
 「ボランティア、とくに歯科に関してはたとえやる気満々で来ても、受け皿がしっかりしていないとその意気込みは空回りするだけだと思うんです。ある程度こちらで状況を把握した上で来てもらおうと思ったわけです」
 そして、3月。まだ神戸市内だけでも、2000もの避難所があり、そこでプライバシーのない生活を余儀なくされる被災者が数多くいた。
 「近隣の歯科大学などのボランティアによって、90にものぼる避難所で巡回診療を行いましたが、2000という数からみるとそれもほんの一部。足を踏み入れていない避難所がほとんどで、その多くは小規模で忘れられているようなところなんですね。 病院や診療所が再開し始めたのだから、もういいのではないかという声もありましたが、避難所の片隅でうずくまっているような人にまでは手をさしのべられない。もっと避難所に入って、せめて近くの開業医との橋渡しをするべきなのではないかと思ったんです」
 そのため、田中は県歯了承のもと「避難所の歯科医療を考える会」を結成。避難所で歯科医療を行う準備を進めた。会には県外で待機してくれているボランティアも参加してもらうことを決め、早速、リストに掲載した人すべてに活動要請。一人ひとりに連絡をとって来てもらえるかどうかを確認した。

 「震災から2ヵ月近くが経過していたこともあり、なかには何を今さらという反応を見せる人もいました。逆にせっかく申込みをいただきながら、撤収作戦のために来ていただけない方もおられました。結局参加したのは当初申し出のあった人の4分の1程度でした」
 3月4日土曜日。全国から集まったボランティアと市民病院を中心とする現地の歯科医ら総勢20名が「避難所の歯科医療を考える会」のもとに集結。翌5日も含め、事前に電話で歯流科の需要のあることが確認できた中央区の避難所10数ヵ所を回った。
 「3月に入ると仮設住宅に移っていく人もいて、避難所には震災直後とはまた違う殺気もありました。そんな中に入っていくわけですから、何しに来たんやという目でにらまれたりもしましたよ」
 歯とは全く関係のない愚痴を聞く機会も多かった。
 「それでも役に立てることが嬉しかった。30分話を聞いて、その後でちょっと口の中を見せてもらう。そんな感じでした」
 考える会は次の土曜、日曜は兵庫区に、そしてその次の土曜、日曜は灘区の避難所を回って、合計147人の患者を診療した。
 活動に参加したメンバーの一人である神戸私立西市民病院歯科・口腔外科医長の足立了平は、駆けつけてくれたボランティア歯科医たちの目的意識の高さにまず驚いた。
 「われわれはどちらかというと、かゆいところにも手が届くようなきめの細かい治療をと考えていたのですが、ボランティアで集まってきてくれた人たちはあくまでもサポートに徹することが自分たちの役割だと言っていた人が多かった。避難所の人を助けることはもちろん、地元の開業医の立ち上がりも応援するというか、ボランティアが果たす役割について皆さんしっかりと考えてから来てくれたようでした」
 だだ、やみくもに突っ走るだけではなく、ある程度の距離を置いて客観的にみつめることも、ボランティア活動を行う上では大切なことなのかもしれない。
 阪神・淡路大震災の後に、サハリンでも大規模な地震が発生したが、田中、足立らは自らの体験をもとに、歯科のボランティアとしていつでも出動できる体制を取っていた。
 「ボランティア元年」と称される所以となったこの震災は、ボランティアをする側と、それを受け入れる側双方の力が試され、また磨かれた大きな契機であったことはいうまでもない。


いち早い動き見せた「大阪府歯科医師自動車連盟」

 自動車好きの歯科医が集まって、初めは同好会的な趣旨をもって結成された「大阪府歯科医師自動車連盟」。今年、設立40周年を迎えたこの連盟は、ただ趣味を楽しむだけではなく、日本赤十字社大阪府支部の特別奉仕団として日頃からさまざまなボランティア活動を行っている。

 「日赤の救護訓練に参加したり、府警からの依頼で身元不明遺体の確認を法歯学的な見地から行ったりという活動をずっと続けていることもあり、われわれはいつどこで災害が起きようとすぐに動ける体制にあるんです」と、理事長の朝倉由純は語る。実際に多くのボランティアが活動した今回の震災においても、その対応の素早さは抜きんでていた。
 1月17日の早朝、当然大阪でも激しい揺れが大地を襲った。副理事長の大野一郎と篠田修はテレビから流れてくる悲惨な映像にショックを受け、ともに日赤大阪府支部にすぐさま駆けつけた。ところがその時点では歯科のボランティアの要請は入っていないとのこと。それでも、何かしなくてはという思いに急かされ、まずは救援物資の輸送を始めた。食料品や日用雑貨を車に積み込み、被災地へと運んだのだ。
 「ところが実際に被災地の様子をこの目で見ると、もっと何かせねば、もっと役に立ちたいという思いがますます募るばかりで、ずいぶん焦りました」
と、大野。大阪に戻ると、歯科医として何とか役に立ちたいと、日赤に何度も掛け合った。
 1月22日、ようやく日赤を通じて芦屋市災害対策本部から被災者のための緊急歯科診療を行ってほしいとの要請が入った。大野、篠田らが中心になって、早速300人にのぼる会員にボランテイア活動への参加を呼びかけ、治療器具や薬品の調達に走った。そして、30日、自動車連盟奉仕団による芦屋市歯科医師会館歯科診療室での歯科医療活動が始まった。芦屋市は被害が大きく地元の開業医のほとんどが何らかの形で被災しており、診療所を再開することはおろか、医療活動を行うこと自体が困難な状態にあった。そのため、歯科医師会館での活動は自動車連盟に一任された形になった。

 「診察は午前10時から午後3時まで毎日行いました。出務するのは2人。電車が一応つながっていたのですが、それでも大阪から出ていくのには通常の1.5倍はかかりました。また、歯科診察室とはいえ器材も十分ではなく、水、ガスも止まったまま。タービンを使用するときは、運んできた水を点滴用の容器に入れてそれを上から吊るすという方法でしのぎました」
 篠田は当時を振り返り、苦笑する。
 「入れ歯をなくした、口内炎ができた、ムシ歯が痛む、つめものがとれた、といろんな患者さんが来ました。われわれはあくまでも必要最低限の応急処置だけにとどめ、あとはぽつぽつと再開し始めた地元の開業医に紹介状を書くという方法を取りました」
 こうして芦屋での活動は2月末まで1日も欠かさず続けられ、合計186名の患者を診療するにいたった。
 3月に入ると今度は神戸市歯科医師会の要請によって、灘区内で土曜、日曜、祝日の休日診療にあたった。テントで暮らす被災者が大勢いた都賀川公園内に設置された山口県の診療車に乗り込んでの活動だった。「この時期になると電気、水道が復旧し、地元の歯科診療所もかなり再開していたので、われわれとしては地域住民の歯科保険の維持、口腔保険の向上と歯科医療機関の機能の補充を図ることを目的にした活動に切り換えました。ここでも、訪れる患者さんには口内炎や口唇炎の症状が多く見受けられました。うがいをするだけでもいい。せめて口腔内の衛生状態を保てる環境をつくれないものだろうかと感じずにはいられませんでした」
 大野は、灘区での活動をそう振り返る。この7日間にわたる診療車での活動で診療した患者は111人にのぼった。

 3月末、地震直後から始まった自動車連盟のボランティア活動は終了した。自腹を切ってでかけていかなければならないにもかかわらず、芦屋での活動、そして神戸での活動にはわれもわれもと、自動車連盟の多くの会員が参加した。
 「ボランティア意識というか、日頃の活動を通して、人のために役立ちたいという奉仕の精神が一人ひとりの会員の心に根づいていた結果だと思うんです」
 それぞれが一社会人として、一歯科医師として、ごく当たり前のことをしただけ、朝倉は淡々と語る。
 5月、大阪府歯科医師自動車連盟では、震災でのボランティア活動を1冊の報告書にまとめた。そのタイトルは「デュナンの魂(こころ)」。今から100年以上も前にスイスで、戦争の悲惨さを目の当たりにしたアンリー・デュナンが救護団体の創設を訴え、生まれた「赤十字」。自動車連盟という一つの組織が、数々の困難にぶつかりながらも今回のボランティア活動をやり終えたのは、一人ひとりの命を大切に思う彼の魂が会員それぞれのなかにもあったからだということを訴えたかったそうだ。
「今回の活動でわれわれが体験したことをもとにした災害マニュアルを作成することが今の課題。それをもとにさらに訓練を積んでいきたいと考えています。たとえ、どこで災害が発生しても飛んでいけるように」
 意気込みも新たに、大野はそう語った。


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