命を支える食生活を守るために 兵庫県栄養士会 平成9年5月 p65-86


3.中期活動

(1)炊き出し

 避難所での配給された食事は冷たい上に単調で、栄養的にも野菜の不足がみられることから当会でも、県内各地から避難所への温かい食事の炊き出しを始めた。
 以下のとおり、各地域別に炊き出しの状況をまとめた。

阪神地区支援活動

東播地区支援活動

参加栄養士の声

 時間的余裕がなく、加古川・高砂栄養士全員に充分な説明叶わず、又ボランティア者との入念な打合せも出来なかった。
 当日は言うに及ばず実施に向けて日常業務多用な中を着々と準備して下さいました。東加古川病院(大量調理場所借用と運搬車運行)ボランティアに深謝いたします。
 現地で熱いものを、出来ることなら、温かいものを提供する体制をとったが往路、解体作業車両の渋滞道路と我々が利用する道路が重なり、予定より早く着けると思っていたのが予定通りの時刻となった分気がかりだったが盛付け時はもちろん、喫食者からも温かいのが、うれしいとの声をいただけた。全体的に好評であった。

西播地区支援活動

参加栄養士の声

丹波地区支援活動

但馬地区支援活動

参加栄養士の声

地理的に遠いこともあって準備等大変であったが、被災地のかた達に大変喜んでいただき良かった。

淡路地区支援活動

大阪府栄養士会支援活動(巡回栄養相談含む)


(2)避難所巡回栄養相談

 県では、被災者の栄養状況を把握するとともに早期に栄養状態を改善するため、巡回栄養相談を実施した。当会では、保健所の栄養士と連携しながら巡回栄養相談に協力した。
 相談内容は、かぜ、下痢、便秘等体調を崩した人の相談や、高齢者や慢性疾患で配給食品がそのまま食べられない人に対する食べ方の工夫等の指導が多かった。
 避難所巡回栄養相談への協力は、別表のとおりである。参考のため、実施報告書(2種類)を掲載した。

兵庫県南部地震における巡回栄養相談実施状況

(事業開始より平成7年3月末日まで)

兵庫県:災害時食生活改善活動(H8.3)

被災地における食生活改善事業

平成7年12月31日現在


(3)ボランティア活動参加者の声

 炊き出しや巡回栄養相談のボランティア活動に参加した会員からの生の意見や声をあつめた。


炊き出しボランティア活動に参加して

但馬地区 田 中 智 子

 早いものでもう2回目の夏がきました。電車に乗ると空き地がふえたのがわかります。街を歩くとあちこちのひびが目につくし、工事中の場所がまだたくさんあります。
 但馬地区栄養士会は避難所の炊き出しを3回、仮設住宅訪問を1回行ないました。最初は平成7年2月18日に、神戸市中央区の小学校で炊き出しを行ないました。場所や日時は避難所のボランティアと直接交渉されたようです。野菜不足ということなので「野菜と肉団子のスープ煮」「ほうれん草のごまあえ」を作りました。4時ごろから配食を始めたので、こどもたちが集まってボランティアの人と一緒にあちこち配ってくれましたが、まだ夕食には早すぎたようでした。それでも5時ごろをすぎると列ができ、大勢の人に食べていただきました。口々に「ありがとう」と感謝してくだされうれしいのですが「大変ですが、頑張ってください」としか言えませんでした。近くのマンションの方達が、「わたし達もいいですか」と遠慮気味に小鍋を持ってこられたのも印象に残りました。

<この活動を通じて感じたこと>


避難所の食事を支援する東灘区栄養士グループの活動報告

教育養成協議会 春 木   敏

 春休みにはいり、仕事が一段落し、自身の生活もようやく正常化した頃、予測をはるかに上回る被災の町を目のまえにして、 “何か、しなくては…”
 それまでに、居住区の保健所管理栄養士さんからの情報をもらったり、合間をぬって避難所の食事状況を見聞きし、ボランティアとの意見交換をするなかで、“今、すべきことは…?”を反芻していた。ちょうど、その頃、私が一会員として属する都市生活協同組合の救援活動カードが目にとまりました。“何か、ができる”責め立てられるように仲間と相談。保健所管理栄養士、仕事仲間、ボランティアリーダー、在宅栄養士、友人。
 3月も中旬になり、いわゆる、“炊き出し”の必要性は少なくなっていること、配給食料は野菜料理が皆無にちかいこと、自炊を始めている避難所があることなどから、避難者の自立援助を目的として、“避難所のなかでできる栄養管理”をテーマとして活動することにした。
 すなわち、配給食料に不足している緑黄色野菜(ビタミンA・C、鉄、食物繊維)や淡色野菜(ビタミンC、食物繊維)、小魚・海草(カルシウム、鉄、食物繊維)、生鮮魚・肉・卵・大豆類(良質たん白質)を補う経済的な単品料理を紹介し、過剰となっているハム・ソーセージ、練り製品などの加工食品(脂質、食塩)やマヨネーズ、ドレッシングなど油脂類(脂質)を加減して食べましょうという栄養教育パンフレットを配付し、自炊時の参考となるようにした。

炊き出し実施状況
 食   料:50〜100食×4回
 実施場所:東灘区内避難所
 料   理:3月 “単品で不足栄養素の補いを!”

4月“季節のメニューを楽しみましょう !”
(高齢者の多い避難所からのりクエストに応えて)

食材提供:都市生活協同組合
メンバー:栄養士とボランティア (主婦)5〜6名

 私たちの炊き出しを知り、都市生活協同組合では炊き出しグループのリーダー組合員を対象に「栄養管理を考えた “炊き出し”について学習会をするので指導を」と要請を受け参加し、“避難所のなかでできる栄養管理”の和を拡げていくことができた。
 たとえ小規模の炊き出しであっても、食材、器具、マンパワーを揃えて、訪問先を選定して日程調整し、当日の準備をするには、かなりのエネルギーを必要とした。このたびの私たちの活動は、生活協同組合の力があったからこそ実現したと考える。
 生活協同組合の平常からのネットワークが非常時に見事に作動したのである。この点において、栄養士会組織の未熟さを痛感せずにはおれなかった。後に、「活動すべきと思っても、どうすればよいのか、どこへ行けばよいのかさえわからなかった。」という声をよく耳にした。もちろん、会員個々の力量不足ではあるが、この貴重な体験を今後に活かし、栄養士会組織の活性化を図るべく、一人ひとりが積極的に活動することが私たちの当面の課題である。


ボランティア活動に参加して

医療法人明仁会 明舞中央病院 北 山 貴美子

 3月23日、炊き出しの為、長田高校へ向かう。震災後、初めての神戸市内だ。粉塵で街は、白く煙っていた。
 「こっちが、ボランティアが欲しいくらいだ。」と口に出して言わなくても、周囲の者は、きっとそう思ったに違いない。神戸地区とは、比較にならないかもしれないが、明石市内でも、最も東寄りの当院は、かなり打撃が大きかった。中途半端に壊れた施設の中で、水道が使えるまで2週間、ガス復旧まで1ヶ月間、その後もしばらくの間、気持ちの休まる時はなかった。実際、その日も、はがれ落ちた厨房のタイルを修復する、夜間工事が予定されていた。が、私が参加しようと思ったのは、避難所で寝起きしておられる方々が、単に気の毒だからではなかった。多くの人が亡くなり、大切なものを失なった。自分自身が生きていることが不思議なくらい、誰の身にも起こりうることだったからである。職場を失った仲間にも出逢った。一日のうちの、ほんの数時間であったが、現地に入って出来ることがあるのが幸せだと思えた。その後、10月13日には、加古川市内の仮設住宅団地を訪問。バザーでの模擬店を、快く、受け入れて下さった方々には、反対に元気づけられる思いだった。
 かつて、震災など夢にも思わなかった頃院内の会議で、地域へ向けて、ボランティア活動をしては…という意見が出たことがある。日常業務に追われ、余裕がなくては無理だ、という声があった。私自身、うなづいた一人であった。しかし、今、どんな状況下でも、出来ることが何かある、という気がしている。
 混乱の中で、私共を支えて下さった善意に対し、ほんの少しでしかないが、何か、お返しをしたい、という気持ちを違う型で反映させることができたのではないだろうか。もう、二度と経験することのない出来事にふれたことは、大きな財産になるだろうと感じている。


二次避難所・かぶと山荘における栄養士会の活動

かぶと山荘・ボランティア 岩 瀬   洋

 あの震災において、避難所の苦行ともいえる生活は、高齢者の方にとっては、耐えがたいことでした。そうしたことから、行政・ボランティアが協力し合って、二次避難所・かぶと山荘が開設されました。
 市内の避難所に避難されておられた高齢者を集め、できるかぎりの保護を行なっていたわけですが、栄養士、看護婦、介護福祉士と専門の知識、技能を持っておられた方のボランティアがあったからこそ、二次避難所の運営がうまくいったのだと思います。かぶと山荘に避難しておられたほとんどの方が、何らかの病を患っており、健康上の不安もさることながら、一般の避難所において、食事管理はままならぬものでした。パンかお弁当、温かい物といえば、インスタント食品ばかりと、空腹しのぎの食事ばかりでした。しかし、かぶと山荘においては、栄養士会の協力で、一日一汁分の市から配られる食材に、栄養士会からの食材を加え、メニューの作成と、栄養士の方のボランティアによって、行き届いた食事管理を行っていただけたことは、避難所における、避難生活に食べる楽しみを与えた以上に、専門職による食事が食べられるという安心感が屈強の支えになったと思います。
 専門職によるボランティア活動において、その専門分野が健康に関わることほど、その人に精神面での安心感を与えることができるわけですが、栄養士会のかぶと山荘における活動は、避難所において、おいしい食事を提供していただいた以上に、精神的安心感を避難者の方に与えていただけたと思います。


震災を通して感じたこと

武庫川女子大学短期大学部 石 崎 由美子

 1000年に一度ともいわれた未曾有の大震災に遭遇し、初めて自然災害の恐ろしさをまざまざと思い知らされたあの日から、早や1年8か月が経とうとしている。
 私はJR甲子園口で被災した。「あっ、地震」と気がついたが、どこか遠くで地震があったのだと思い、また眠りにつこうとした途端にすごい揺れ。天井が落ちてマンションがつぶれると一瞬、死への恐怖が走った。「布団をかぶりなさい」と、子供たちに聞こえるように必死で叫んだ。
 電気は地震の2時間後には、使えるようになり、すぐにテレビのスイッチを入れた。そこに映しだされたのは、長田区の火災とクネクネと曲がったものであった。(これは、初め何かわからなかったが、阪神高速道路であることが次第にわかった)。信じられないような神戸の街の崩壊に唯々、落胆するばかりであった。
 友人の安否を確認するために、外に飛び出していった息子が血相を変えて家に飛んで帰ってきた。「大変だ。甲子園口の家が一杯倒れている。駅前の崩壊したビルでは、お父さんが子供の名前を叫んでいる。」とのことであり、初めて自分の周りも非常事態になっていることが段々わかってきた。 私のマンション全体は被害も相当なものであったが、L字型に建っていたせいか運良く崩壊は免れた。しかし、ライフラインはストップし、食糧の確保も不可能となった。その日の昼食は残り物のパン、ビスケットとその辺にあるものを手当たり次第に口にほおり込むという状態であり、お腹がすいて食べるというのでもなかった。空腹を感じるいとまもなかったということであろう。
 「ここ被災地に居たら、力仕事は手伝えるし、役立つよ」と子供たちは主張したが、家族がたくさん居たら、水も食糧もそれだけたくさん要るし、余震の続く中、共働きの家庭では家族の安全確保が第一と考え、子供たちは親戚のいる名古屋へ疎開させる決断をした。それは、震災より2日後の1月19日であった。そして、JR甲子園口駅に二人を送っていった時にみたその光景は、私には生涯忘れられないものとなった。それはまさしく、私が小さいころに本でみた疎開列車の様子そのものであった。駅から降りてくる人、人、みんな大きなリュックと手押し車にたくさんの水や食糧を積め、地図を片手にひたすら歩いていくのだ。「ああ、私たちは非常事態の真っ只中にいるのだ」ということがひしひしと伝わってきた。子供たちを送って初めて、これまでの張り詰めていた緊張感が崩れ、ほっとしたと同時に涙が溢れてきてしかたなかった。
 次の日、余震の続く中ひとりで家にいるのも不安であった私は、神戸の北須磨の職場に行くという主人について、JRで大阪まで出て、阪急宝塚線で宝塚まで行き、有馬を経て4時間かけて神戸の板宿まで入った。そして、神戸市立北須磨文化センターに着いた。そこの調理室で炊き出しをやっていると聞き、「手伝いたい」という気持ちにかられ、飛んで行った。「手伝います」と言うと、「先生、どうしてここに…」と言われた。よく見ると、そこにいた指導者の栄養士はうちの卒業生、もうひとりの栄養士も知り合いであった。それからは、ただひたすらおにぎりを作り、個数を数えて箱につめていった。みんな朝からずっと同じ作業をしているというのに、何か「被災した人たちを助けたい」という一途な思いが伝わってきて、刻々と時間が過ぎていった。
 夕方まで手伝い、シャワーを浴びさせてもらって帰宅しようとしたが、交通の便がない。タクシーに頼んで、どうにか裏道、裏道をうまく抜けてもらって帰った。しかし、灘、御影あたりの裏通りは真っ暗で、廃墟と化したまさにゴーストタウンであり、その光景をタクシーの中から眺めているうちに、どうしようもなく涙がこぼれてきてしかたがなかった。
 それからは、自分の連絡できる範囲内の学生たちをひき連れて何か、手伝いたいという思いにかられた。しかし、どこに飛びこんだら良いのか、また栄養士という専門職を一般の人の中で打ち出しても良いものであろうか、返って非難されるのではないだろうかという思いにかられ、活動できなかった。他の学校の先生方、あるいは栄養士の組織の方からでも声をかけていただいたら、活動できるだけの思いは充分あった。
 3月半ばに本学では芦屋市の保育所を中心にボランティア活動をし、調理実習室で作った献立を学生、教員が保育所まで届け、卒園式の日には、かわいくラッピングしたクッキーとメッセージカードを添えて手渡した。
 刻々と情報が変わる対策本部との打ち合わせで、実際に活動した時期は少し遅い感じではあったが、ボランティア活動をしたいという何人かの教員の思いが学生にも伝わり、また、学生にも声をかけられたらいつでも活動したいという思いがあったのか、多数の参加者を得て活動することができた。
 この震災の教訓を参考に、これからは大学・栄養士組織の相互間での情報網を密にし、いつでも一体となった活動ができるような運営組織づくりをしていかねばならないと切に願っている。


炊き出しボランティアに参加して

西播磨地域 病院栄養士 藤 井 玲 子

 今年の2月3日と3月3日に西播磨地域栄養士会延べ15名は姫路の玉手仮設住宅で炊きだしをしました。これは心のケア・ネットワークというボランティアの方の協力のもとに参加できました。被災者の方々は私たちの想像以上の傷みを負い、簡単に心を許しては下さいません。心のケア・ネットワークはいろいろな努力、奉仕を行ってこられ、この仮設では信頼されているのです。
 2月3日は豚汁作りと炊飯でした。寒い時期なので温まっていただくこと、そしてこの仮設の中の交流を深めていただくことが目的でした。この小さな集落の中でさえ心を閉ざして全く世間と係わらない方がたくさんおられるのです。一緒に同じ釜の飯を食べてもらい少しでも話をする機会を作れそれが社会復帰への第一歩につなぐことが出来れば……とおもいました。心の傷は大きいと思いますが本当にがんばってもらいたい。掲示板にアルコールを減らそうというポスターがはられていました。気を紛らすために飲む人が多いようです。夜になると眠れず酒に頼る人もいるようです。また、夜に喧嘩も多く、わめきちらす声もあるようです。これが精神的に安らげない仮設の現状なのです。知らない土地で知らない人と隣り合わせになり交流無く暮らし、いつかはここも出ていかなければならないのです。最近公営の永住住宅の募集をやっとするようですが、全ての人が当たるわけでもない。「毎日が不安なのだ。」私が2月に参加して痛切に感じたことでした。そしてこの仮設ではとても寒く暖房費が1月に2万円必要だと聞いて驚きました。安住の場所とはほど遠い生活でした。まだまだ震災は続いていたのです。2月3日の炊きだしは好評を得ました。そこで、次回を3月3日に行うことにしました。テーマは桃の節句で、パンジーやさくら草の植木鉢をプレゼントし、料理は春の山菜ちらし、高野と椎茸と花人参を炊き合わせ、うしお汁を用意しました。お寿司の焼穴子とお汁のはまぐりは朝に室津でとれたものを使いました。子供さんにはコンペイ糖を用意しました。200食あれば足りるはずでしたが、好評で230食があれよ、あれよ、という間になくなりました。ちらし寿司やうしお汁は盛り付けながら渡せ、ほんとうのできできを食べていただけ喜ばれました。少しでも励みになったなら……と思います。


「久しぶりに気持ちまで暖まりました。」

川西市(兵庫県議会議員)(公衆栄養)岡 やすえ

 95年2月23日、川西市内の中心的避難所で炊き出しを行った時、そばに来てお礼を言って下さった老男性の言葉です。
 聞けば、自宅は半壊で、何とか住めるが台所は使用不能。一人暮らしで震災以降食事には不自由しているが、避難していないのに炊き出しを受けるのはためらわれて、今まで受けられなかったという返事。
 当時、半壊でも自宅を離れたくないという人が高齢者に比較的多く、避難所に比べて情報も、物資も届きにくかったようです。思わず「これからは遠慮せずに来て下さい。そして同じような人々にもぜひ情報を伝えて下さい。」とお願いしたことでした。
 寒い季節、長引く避難生活で疲れた身体と心を少しでも慰めたいと、川西地区の栄養士会、いずみ会、有志の市会議員に呼びかけて2月23日(木)の夕食に第1回の、続いてボランティアの炊き出しが手薄になる日曜日の夕方(95年2月26日、3月5日)に、市内全避難所(10カ所)への一斉配食を実施しました。
 大量の材料の仕入れから調理、配食場所への運び込み、市内に点在する避難所への配食の手配等、手探りの取り組みでしたが、炊き出しの日には残業続きの市職員にもおすそ分けができるなど、ともに助け合うことの大切さを実感させられた事業でもありました。

◆炊き出し手順

 食材購入→調理→食缶で中心的避難所に運搬(着後各避難所へ配送のため、それぞれの食数毎に食缶に分配)→各避難所へ配送(2名ベアで行動)→各避難所での配食作業→後片づけ

◆実施に際して

1.調理場所の確保及び集団調理

 大量調理であり、全ての作業を設備の充分でない避難所で行うのは困難。調理作業を行う場所の確保が問題となったが、幸い栄養士会の会員であり、兵庫県栄養士会の地区理事でもある生駒病院栄養部長、谷野さんの尽力と、生駒病院長先生の全面的な協力を得て、生駒病院の調理室を午後の空き時間に使わせてもらうことができた。集団調理の問題も谷野部長の指導のもと、いずみ会会員、岡やすえ事務所職員、各市議夫人等が協力してクリア。

2.ボランティア人員の確保

 ボランティアが手薄になる日曜日の夕食の一助に温かい汁物を計画したため、調理・運転・10ヵ所の避難所での配食等に相当数の人数確保が必要となったが、前述のように各方面からの参加を得ることができたため、入念な打ち合わせの上、担当分野や役割分担を決め、市内10カ所の避難所での一斉配食が実現できた。

3.食材と献立

 避難所で毎食、市役所より支給される弁当ではどうしても不足しがちになる野菜の補給を目的に、温かい汁物を基本に献立を考えた。しかし今回は特に、全国から寄せられた善意を最大限に生かすため、救援物資の牛肉を毎回使ってほしいという市の意向があった。そのため食材に制限のある中での献立づくりとなり苦労もあったが、ワイワイガヤガヤの中から別紙の献立が決まり、食材の手配調達を行った。

◎震災を境に日常の議員活動も一変

 被災地域の実態把握や、様々な相談の処理に関係機関を走り回る日々が続いた。幸い、川西市北部と猪名川町にはさほど大きな被害はなかったが、地震の翌日から都市ガスの供給が止まり、寒い季節だけに炊事や入浴等に不自由な生活が続いていたので、被災直後に猪名川町北部の “県立奥猪名健康の郷”(自然学校受け入れ施設)に被災者を対象とした入浴施設の開放を交渉したところ、特に苦労の多い高齢者や障害者の受け入れを早い時期に実現する事が出来た。
 当時、被害の大きさ等の実態把握は殆どマスコミ情報頼りで、被害状況が尋常の理解の範囲を超えていたこともあってか、様々な対応に被災地と被災地以外との温度差がかなりあったのではないかと思う。
 本格的な復興が進みつつある現在、以前にもまして住み良い兵庫づくりのために、これからもともどもに頑張ってまいりたいと思っています。

炊き出し


緊急時の栄養士会の対応を考える

特別養護老人ホーム丹寿荘 荒 木 照 子

 平成7年1月17日未明、突如ドーンという地下から突き上げるような轟音とともに家が激しく揺れるのを感じた。経験したことのない音と揺れであった。テレビには、、神戸の惨状が次々と映し出されていた。
 地域では、町行政を中心に救援物資の収集や、おにぎりの炊き出しなどボランティア活動が活発化し始めていた。
 厚生省から1月30日付けで、「兵庫県南部地震にかかる栄養士の派遣」について、兵庫県との協議を踏まえ関係都道府県に要請があった。(社)日本栄養士会でも本事業への協力の申し出がなされ、それを受けて兵庫県栄養士会では31日に緊急の役員会が開かれた。保健医療スタッフはすでに医師・看護婦・保健婦等がチームを組み、救援活動を始めていた。栄養士の派遣要請は、避難所生活の長期化による被災住民の栄養摂取状況の把握、栄養指導・相談等を行うことが必要となってきたためである。早速、翌2月1日から丹波地域の会員による炊き出しや、伊丹・宝塚保健所管内の巡回栄養相談、西宮市二次避難所の救援活動など6月までボランティア活動は続き、この間113名の会員が参加したのである。
 巡回栄養相談に加わってみると、昼間は勤めに出られたり、家の片づけ等で避難所におられるのは、高齢者が数名という状態であった。疲れや寒さ精神面の不安から、体の不調を訴えられる方が多く、保健所から預かっていった梅干しやレトルトの粥、フルーツジュース等が役立った。
 食事も朝食はパンと牛乳、夕食は業者委託の弁当で揚げ物等が多く、野菜は極端に不足をしていた。昼食の配給はなく、炊き出しに頼ったり、朝のパンをまわしたり、食べなかったりという答えが多かった。年配の方に比べて40代、50代の方の反応はかなり冷たく、「聞かれるだけの調査はもうたくさん」と調査には協力的ではない人も多かった。
 一方、炊き出しの方は、芦屋・東灘区を中心に各地区とも実だくさんで野菜たっぷりの暖かいメニューを用意し、「たくさん食べて元気を出して」という願いのこもった内容は、「さすがに栄養士さん」と、どこでも大好評であった。
 今回の震災を教訓に、震災時のマニュアルが作成されるが、同時にボランティア活動の体系図等も作成して、例え中央機能がマヒしていたとしても、末端からでも緊急時の対応ができるような、素早い栄養士会の動きが必要である。そして、社会の認識を高めるとともに、当初から認可された保健医療スタッフの一員として活動できるよう、栄養士の立場をもっと確立したいものである。


ボランティア活動に参加して

西播磨地域理事 山 村 蛍 子

 阪神・淡路大震災により亡くなられた方のご冥福をお祈りしますとともに、被災を受けられた会員の皆様に謹んでお見舞申し上げます。
 “1月17日午前5時46分”この日、この時間を思い出すと、身が縮み涙がこぼれます。その日から西播磨の会員は、一刻も早く被災された方々のお役に立つことをしなければならないと、毎日心ばかりがあせりました。
 しかし、交通機関も全面ストップ、電話も思うように通じません。せめてもと西播磨の会員同志連絡を取ると、職場で炊き出し業務にてんてこまいの会員、施設に被災された方々を受け入れて一生懸命対応している会員、阪神間から食材料が届かなくて現場の給食対応に追われている会員と、それぞれの足もとも大混乱で、即時に栄養士会としての行動を起こせる状態にはなりませんでした。
 その間にも緊急理事・地域委員会、理事会東播磨・西播磨合同委員会を重ねながら、会員の安否把握、保健所との医療活動参加、募金、炊き出しと少しずつですが、栄養士会組織を中心とした活動が始まりました。炊き出しについて西播磨地域は、神戸市中央保健所吉田栄養士様、須磨保健所村上栄養士様と連絡を取りました。そして神戸市内150ヵ所以上ある避難所の中で、一般のボランティアが一度も入っておられないところで西播磨から比較的行きやすい4ヵ所を紹介していただきました。
 炊き出しの経験がない私たちは、ありったけの知恵と情報を集め計画を立て、まず地域委員全員がやっと開通したJRを利用して、3月9日に、JR鷹取工場内避難所を訪問しました。献立には、避難生活で欠乏している魚類や野菜など生鮮食品を多く取り入れ、市から配分される弁当のメニューに重複しないよう和食の料理にしました。また、ガスが絶え、暖かいものが1ヵ月以上も食べられないので携帯用プロパンガスや大きな鍋を持って行き、実だくさんの味噌汁を作りました。
 湯気の上がる味噌汁の香りは、皆さんの食欲を増し、喉を通る温かさは一瞬でも心の中を暖められたでしょうか。「地震以来こんな暖かいお汁を食べたことがない。」と笑顔で喜んでもらいました。また真っ赤な苺は、子供こちの目を輝かせました。
 在宅栄養士は、被災者ひとり一人に地震で受けられた心の痛みを聞き、励ましたり健康についての話をしました。
 一週間後(3月16日)滝川学園体育館、文化ホール、生活学習センターへは、朝から雨が降り続き、大きな荷物を背負っての行動は大変でしたが、地域委員をリーダーに花や土産を持って参加してくださった多勢の会員のおかげでスムースに活動ができ、参加者全員が感無量で参加してよかったと喜びあいました。
 これらの活動は、各避難施設の係の皆様、調理施設や調理を受け持ってくださった会員、施設長、調理員の方々の協力が大きく、この場を借りて厚くお礼申し上げます。
 しかし、被災を免れた私たちは、救済活動をもっと迅速にできなかったことが心苦しく被災地の皆様に深くおわび申し上げます。

《栄養相談の一端を紹介します》

 地震のショックは大きいが、自分だけが被災したのではないと、自分に言い聞かせ納得しようと努力されている。家族が亡くなられ一人暮らしの方は、新しい土地の仮設住宅に入っても先行きの不安がいっぱい。近所が全焼した地域で焼け残った家の人は、何だか後ろめたくて、ひっそりと暮らさねばいけないのではと気を使っておられる。小さくても個人のプライバシーの保てる場所と、共同でもいいからガスや電気器具が使える場所が一日も早く欲しい。人間関係が大変である。
 弁当は動物性脂肪の多いメニューが多く、野菜特に有色野菜が不足しがちである。等々


巡回栄養指導に参加して

豊岡保健所 磯 崎 基 子

 栄養士としてこの人たちに、今、何ができるんだろう? 震災1か月後、巡回栄養指導時、ずっと考え、思った。
 火のあるところ、ないところ。自分で炊事のできるところ、できないところ(たとえカセットコンロでも)。食材の有無。
 「配食弁当をいかにおいしく食べるか」、鍋一つがあればできる料理の紹介など、現地の栄養士(私の場合、芦屋保健所)の今までの資料や情報を教えてもらいながら避難所を廻った。すでに、避難所によって、風邪の人は家族が配食の白ごはんを利用してお粥、おじや等を作ったりされていたが、現地にいるかぎりそれも限度があるように思う。
 聞き取り調査的なことを含めての巡回栄養指導だったので、何か返してあげられるものがあればと思った。「これを使って」と渡してあげられる食材もない。「何しに来た?」とうっとうしがられることも多々。
 その中で、在宅栄養士さんが、巡回をしての情報交換をされるのに同席させてもらった。自分たちも被災者であり、熱がこもっていた。
 正味3日間の巡回栄養指導で、とにかく受けた相談・問い合わせにその期間中に答えることを心掛けた。被災者からは、こちらがどんな職種だろうと関係なく、「(自分の掛かりつけの)お医者さんはどうされているか?」「前に、廻って来た人に薬を頼んでいたがど
うなっているか」、あとトイレのこと、犬のこと等さまざま。
 炊き出しをしているボランティアからは、使い捨ての食器の再利用も含めて、食品衛生についての質問が多かった。現地の電話を借りて、保健所食品衛生課に問い合わせをして、その場で答えたりしたことも…。
 その当時も、避難者の自立等言われていましたが、避難所の規模、事情がいろいろありすぎ、ボランティアも悩んでいたのではないかと思う。
 この巡回栄養指導のあと、2回ほど神戸市内に炊き出しの手伝いに出かけた(栄養士会といずみ会)が、その避難所からだけでなく、「電車から見えたから…」と広範囲から鍋を持って来られたりもした。
 食事は、人が生きるうえで欠かせないことであり、また個別性の強いもので、震災時も、電車等に乗ればいくらでもごちそうが食べらる人もいる。反対にいくら食材があっても、購買意欲、調理意欲の湧いてこない人がいる。これらの人の方が、メンタル面も含めて、健康維持からいうと問題が多いのではなかったかと思う。
 また、巡回する一人ひとりの持っている知識・行動は限られているが、異職種・異機関間の連携をもっと図って指導・巡回にあたれば、各機関で重複する内容もなく、充実した巡回ができ、被災者のストレスも、巡回する者のストレスも少しでも軽減できたのではないかと思った。


(c)1997兵庫県栄養士会(デジタル化:神戸大学附属図書館)