命を支える食生活を守るために 兵庫県栄養士会 平成9年5月 p156-168


3 編集者の声

 本報告書の編集にかかわったメンバーが、編集中に感じた事やこれだけは伝えたいと言うこと、そして、全国の栄養士仲間に伝えたいことを自由に語る座談会を開催したが、震災以降の思いを熱心に、時間も忘れ語り合い、2度の集まりになった。

編集委員座談会(その1)

仙賀
 まず、自分が職場や家で体験したことや、編集委員としているいろな方々の体験や記録を読まれて、どう思われたかを、お話していただきたいと思います。
 それでは、職場と家庭とで一番大きな影響を受けた松永さんからお願いしましょうか。
松永
 思い出すのは、もう、いやですね。家は、ほったらかしでした。子供達が大きいですので、食べることは自分でするということで、家庭はほとんど省みていなかったです。
 職場の中では、時間的に追いつめられたとか、何をどうしたらいいのかとか分からなかったので、非常に不本意な状況におかれてしまった。それなりの活動は、今、振り返ってみると出来てきたように思いますが、本当に初期の時に立ち上がれなかったということが、すごく残念でした。
 そのひとつとしては、交通が遮断されてしまったため、小数職種の栄養士がそれぞれの保健所に勤務に付けていなかったことが、大きな要因であったと思います。本来なら、保健婦とともに同時に活動を始めるべく、保健所に状況を聞いたのですが、栄養士の方は立ち上がれなかった。約5日〜1週間くらいは、遅くなってしまった。そのことが、ひょっとしたら高齢者や乳幼児のような本当に食の援助が必要な人にしてあげられなかったのではと、非常に反省しています。
 そういうことが、一番私の根底にありますので、震災の時の活動について語るのは、すごく、つらいですね。
 立ち上がってからは、それなりの活動、最初は避難所の巡回、そのなかで個人への対応、避難所としての食事の環境を少しでも良くしようとする活動や、対策本部への助言というように、避難所への活動をしていきました。
 また、栄養調査とか、仮設住宅ができてからは、訪問や食に対して意欲を無くした人に調理実習を早くから取り上げたいと、その体制作りもできたように思います。そういう意味では、何とか、やってこられたと思いますが、やはり、最初の立ち上がりが遅かったことに大きな反省がありますね。そういう思いを込めてガイドラインも作らせていただきました。
 そのことを参考にして、どこかで、今回のようなことがあった時に、最初の段階から立ち上がりを良くしてほしいなあと思います。その時に、どうしても職場としては小数ですから、地域の人達とすぐに繋がる ことのできる体制づくりが大切だと思います。保健所の栄養士がいなかったら近くの栄養士でフォローできる体制が大事だなと思いますし、そのことをこれからの栄養士会に望みたいです。何をしたらよいのか分からなかったという声がよく聞こえましたが、そういうところで力を結集できるようになるのかなという気がします。
 是非とも、今後の栄養士会の体制づくりをやっていってほしいと今のところ思っています。
仙賀
 その、体制づくりの問題については、今後の栄養士会の方向について、後ほどもう少し深く検討していきたいと思います。もともと、保健所の栄養士は1人や2人ですが、今回の震災ではもろに交通の遮断等で来れなくなったということが、致命傷でしたね。保健婦さんは複数以上いるわけですから、その点では対応の仕方が違っていたわけですね。
 それでは、やはり行政におられた駿河さんは、震災当時は比較的影響の小さな地域におられたわけですが、いろいろと状況をお聞きになっていることと思いますので、お話いただけますか。
駿河
 比較的新しい病院にいましたので、皆さんに比べて楽させてもらいました。少し落ち着いた4月に転勤しましたので、一番しんどいところを体験していないのですが、みんなの気持ちとしては、松永さんが言われたとおりだと思います。今でも、皆の気持ちのなかに最初の活動が遅れたことへの残念さがあると思います。やはり、その辺が保健婦さんと比較され続けているんです。やはりこれからの地域保健法へ微妙に影響していると思います。これは、数の問題とか栄養士の仕事の内容から、保健婦や医師と同じように最初からの活動は出来なかったとは思いますが、私も元々保健所栄養士ですから皆さんと同じように胸が痛いんです。栄養士なりに少ない人数で頑張っていたと思いますが。
 しかし、この震災をきっかけに栄養士の仕事について、良いにつけ悪いにつけ関心を持たれるようになったとは思います。
 行政の中では事務職の人が多いわけですが、その方たちが弁当の数等について調達をしている時に、栄養士は栄養、栄養とこだわっていたということで栄養士に対する批判の言葉が聞かれました。
 高齢者や食事療養の必要な人に手を差し延べなければならないのですと動いていればそんな声も聞くことはなかったかもしれませんが、一般の人の衛生管理や数の確保とかが大事な時に、それを通り越して、栄養のバランスや野菜が足らないとかそんなことばかりを言っていたという印象を与えた面があったと思います。
仙賀
 いま2人のお話を聞いていて、後の課題として、保健婦さんや医師と違って私たちは地域のなかに食生活改善推進員や在宅栄養士や勤務栄養士などいろんな栄養士が居り、保健所単位でチームを組もうと思ったら組みやすいシステムになっているはずです。今出ていた初期の対応についてもシステムができていれば一番動けたように思います。
 それでは、橋本さんは当時松永さんと一緒にいたわけですが、家は被災しなかったけれども遠いところから通勤で大変だった と思いますが、係として今の2人のお話を聞いてどのように思いますか。
橋本
 私の家は、大した被害はなかったのですが、テレビを見ていてそれが本当のことか信じられなかったんです。家は、出たものの神戸に入れない状況で、職場に連絡しながら、これ以上行けませんと。男性だけでも頑張って行ってもらって、私は翌日朝早くから、半日かかって職場へとたどり着きました。
 先程、立ち上がりが遅かったと言われましたが、確かにそうだと思います。
 なぜ、そうだったのかと考えたときには、先程言われた自分の職場に対する意識が随分違うのではないかと思います。食べるということが生きていくことであるという仕事をしているんだということを忘れているのではないか。
 だから、もう一度考えなければと言う思いを込めて、「命を支える……」というタイトルをこの報告書に託したつもりです。私自身にも教訓となりました。
仙賀
 それでは、今考えてみて、当日行こうと思ったら、行けたと思いますか。
橋本
 行けたと思います。当日、谷上まで夕方には着きましたし、北神急行が動きだしましたので。職場からは、女性は家で待機という指示を受けましたが。行かなかったということが、心に今でも引っ掛かっているのも事実です。
仙賀
 少し特殊な立場と思いますが、松葉さんのところは避難所になったわけですが、どうだったでしょうか。
松葉
 私のところは、男性が当日4名午前中にたどり着きまして、朝行った時初めて避難所になっていることがわかりました。扉が地震で自動的に開いたため被災者が入ってきたというわけです。
 元々は、避難所として認められていない施設ですので、どのように対処したらよいかわからなかったのですが、とにかく、昼食と夕食を何とかしなければならないということで、近くにある区役所へ、当日の食事の調達に行きました。
 病院と違って、元々食事の提供をしている施設ではありませんし、その日の状況としては、電気は自家発電があったがガス・水道は遮断され、飲水はタンクの貯蔵水でしばらく大丈夫だったのとトイレはプールの水を利用しました。
 栄養士の役割としては、建物の管理側の職員としての活動が主でした。その日の夜から順番に泊まって、翌日の朝食を区役所に取りにいくというようなことです。
 食事を作ったりすることは、女子の職員とともに栄養士が交替で対応していきましたが、とにかく物資がなかなか来ないので、こちらから取りに行くということなんです。また、プールのマットを区役所に提供して、物資が濡れないよう協力もしました。一番ショックだったのは、栄養実習室の食器がほぼ全部破損してしまったことです。
仙賀
 次に、患者等を抱えていた方はどうでしたか。
田中(澄)
 私の施設は、冬になると雪のため納品が当日できないということがあるので、あらかじめ備蓄がありました。当日は、おせち料理の残りがありましたので助かりました。
 自分のことになりますが.いつもは車で15分で通えるのですが、途中まで行ったところで電柱が4本倒れておりましたので、徒歩で2時間掛けて行きました。
 とにかく、揺れが止まったら、お年寄りがどうなったか、パニックになっていのではないか。朝食の早出の人が出勤できているか心配でした。
 幸い近くの人が来ており、朝食は停電中なので手で運びました。
 余震が続いていましたので、これからどうなるか予測がつかない状況でした。
 食を預かる私としては、食べる物がなくなったらという不安をお年寄りが持っては困るので、「大丈夫……、食べる物はあるよ」と。
 1食抜いた施設もあったようですが、私の施設では、食事だけは抜かないようにしようと時間通りだしました。
 痴呆や徘徊をする人もおられ、食事介助をしなければならない人が多く職員の出勤状況が把握できないので困りました。一度出勤したら泊まり込みで……。という事で対応しました。
 電気は夜の9時頃までつかなかったのでとにかく夕食は明るいうちにということで4時頃から手運びでだしました。その時、思ったのは厨房が3階建ての真ん中で良かったということでした。大食堂と厨房をドッキングさせているので移動も楽でラッキーでした。
 次に市からは避難所にいる寝たきりの人や老人を入れてくれないかという話が有りました。うちはショートスティが24床ありますが、登録は500〜1,000人です。その人達からも次々に電話がかかってきてお年寄りを預かってほしいと連絡があり、どの人を優先しようかということで、施設長以下検討したのすが、登録している人優先でなく市内の人であれば良いのではということになりました。しかし、具体的には市に選択を任せました。
 できるだけ多くの人を受け入れるため、ペットを外してマットを敷いて入っていただきました。もちろん、安全を確保できる範囲でということですが。
 24床のところ一時最高は65名お預かりしました。3倍くらいですね。
 2・3日してくると、お風呂に入れてほしいという人が来られるようになりました。銭湯に行けないような体の不自由な人やお年寄りとか。入所中のお年寄りに影響するような病気が心配でしたので、外部からの人のお風呂場を限定し、避難所に車で送迎しました。ボランティアの人たちが運転等の補助をしてくれましたので助かりました。若い栄養士さんに言いたいことは、入所定員にこだわらず、食さえクリアできれば老人ホームでは相当多くの方を受け入れることができるということです。
春木
 食糧はかなり多く備蓄していたのですか。
田中(澄)
 最初にも言いましたが、冬場は道路の凍結で納品が困難になることがありますので備蓄をかなりしていました。それ に、取引のお米屋さんなどは、全壊しましたが取りにきてくれれば米はありますということでしたので、取りに行きました。
深貝
 施設は大丈夫だったのですか。
田中(澄)
 施設は大丈夫だったのですが、停電が17時間、水は3日間不自由でしたが、ガスはプロパンだったので助かりました。電気機器は使用できませんが、特に炊飯器は古いタイプのがありましたので、それは使用できました。
 食器の都合で、食事内容は種類を多く作ることは出来ませんでしたが、半数以上はもともと「かゆ食」でしたので、しばらくは、「おじや」で対応しました。
 付き添ってこられた家族の方が、皆が食堂で食事をしている様子を見て「おいうそうやね」と言われるので、「いっしょにどうぞ」というと、「3日食べていません」と……。水が出るようになると「顔を洗わせて」とか…
 私、思うのですが、こういう時には施設を地域に開放することも必要ではないかと。
 しかし、園長たちが心配したのは、まず、食べ物のことです。食物が尽きてしまったときどうするのか。どれだけの能力があるのかでした。しかし、今までのキャリアと調理員の人たちのやる気でクリアできたのとだと思います。それに平成4年に100床から150床に増床したとき、少しぜいたくかと思いましたが厨房にお風呂、シャワーだけですがつけたのが今回大変助かりました。
 3日目にはシャワーを使えましたので……シャワーの温かいお湯で顔を洗ったときには本当に幸せでした。避難所で、苦労されているお年寄りがお風呂に入った後食事もしてもらいました。これは、少しでも、心の安らぎになればと言う思いからです。その様子を見ていると、1枚の栄養士の免許を持っているがために味わった幸せでした。私が、仕事をしている間にこのような震災にあったことは、反対にラッキーだったと思っています。それと、職員が倒れてしまったら、お年寄りの世話が出来ないので職員には3食きちんと食事をしてもらうよう配慮しました。5月末まで職員食を作りました。幸い福祉のネットワークで多くの支援物資を頂きそれをうまく活用しました。また、職員を確保するためには、専用トイレや休憩室、お風呂等大事だと思いました。パニックの中でも安全性を確保するためにも。
 最後に震災を契機に栄養士の仕事をしていて幸せだったとこの原稿を書いていてひしひしと思いました。
駿河
 役割を果たした充実感があるんですね。司令塔の役割をしっかり果たされていますね。
仙賀
 筒井さんのところも最初からいろいろあったと思いますが如何ですか。
筒井
 私は、家と職場が遠いこともあり、前日までの生活とのギャップで現実性を感じなかったです。駅まで行ったときには、今日中にでも地下鉄が動きそうな感じでしたが、当日は病院との連絡に終わってしまいました。それについては、今でも後悔しています。もっと機転をきかせて何故、歩いてでも行かなかったのかと。
 当日の食事は朝食がパンだったので何とかクリアできたのと、近くのスーパーの計らいで即、食品を抑えてくれました。地域の冷蔵庫という実感ですね。
 翌日出勤したときは物資の山になっていました。京都の栄養士さんなどは夜中「おにぎり」を握ってくれたんです。翌日の出勤は8時間掛かりました。途中で2回ヒッチハイクをしたのですが1時間で1qしか進まないんです。でも、本当にいろいろな支援に助けられました。毎日がドラマのようでした。
 当日、患者さんは150床満床のところに180人入りました。支援の人が300人位で500〜600食以上になりました。それまでは、職員食はしていませんでしたが、私の責任だと思い全部賄いました。
 4階の会議室を調理室にして、被災地の真ん中でしたので厨房の施設は何ひとつ使えませんでした。3日目の朝には特別食を作り出しました。嚥下の患者、術後の患者さんもいました。嚥下食、流動食を32食ほど作りだしました。
春木
 厨房が使えなくて4階の臨時の厨房で500食を作ったのですか。
筒井
 お弁当の形で圧倒的には頂いたんです。特別食の人だけを作りました。厨房で片栗粉やトロミアップを探してきて。でも、支援物資の中にはお米やフライパンまでありました。感激しました。「おにぎり」は山で、バナナの箱だからと思っていると中は「お弁当」だったりして。
 提案なんですが、送り手の気持ちってものを学びましたね。横にラベルを貼るとか。日付を入れるとか。温かい物をという気持ちはありがたいのですが、あっあつをラップに包んで、更にホカロンを入れているので中心部は腐っているんです。夜中かかって手袋をしてラップを包み直して出したということもありました。でも、私の年齢で私の立場だから出来たという思いもあるんです。若い栄養士は出遅れましたね。子育て真っ最中でそれを要求することも可哀相だと思います。私がいるときに起こってよかったと思っています。それまでに、近くにいる調理師たちが自分の家が全壊しているにもかかわらず、出て来て対応してくれました。それに全職員が協力する体制が出来ていたことが良かったと思います。
 2月14日位には普通の食事が出せるようになりました。すぐに挨拶兼ねて患者さんにアンケートを実施しました。パニックの時には医師も一人ひとりの食事の変更に目がいかないんです。怪我で入っている患者さんの紙面いっぱい不満を書いたアンケートが返ってきました。1週間ほど一番低い流動食が出ていたんです。慌てて、変更してもらいました。一人ひとりの状況を把握できないので早い時期にアンケートを取るのも必要だと思いましたね。
 病院では中に職員が残って、外には支援の人に出てもらうということでしたので、避難所でどのような食事が出ていたのか調査出来なかったのは残念に思います。もっと、そこに手が出せてたらよかったと思いますが、炊き出しを毎日、行政の手が届かないお寺とかにしましたが、そのようなところの避難者は苦労されたと思います。4日目か5日目に支援物資を腐らせてはいけないと思い、仕事が一段落してから心ある職員で自転車でメガホンで「食べ物を持ってきました」と言ったら甲南大学の学生がその時初めて食べ物があたりました。そんなこともありました。そういう活動ももう少し早くできたら良かったという思いもあります。地域の人たちとはこの震災をきっかけに信頼が深まった点では、良かったと思います。いまだに仮設住宅へは病院として訪問をボランティア活動としてしています。糖尿病の患者さんなんかはその後の様子を一軒ずつ回ってきました。
仙賀
 次に深貝さんのところは西宮ですがどうだったでしょう。
深貝
 家の中はいろいろなものがひっくり返っていました。いろいろな交通機関を使って何とか出勤しようとしましたが、どうしてもその日は出勤することが出来ませんでした。
 職場に連絡を取ると、パニックになっている様子がよくわかりました。翌日、出勤してみると機器が動いており、事務所の扉も開かない状況でした。プロパンをひいていましたので、ご飯は何とか用意できましたので、おにぎりと佃煮類でしばらくは対応しました。当病院は給食を業務委託しているのですが、業者との調整がうまくいかなくて、その後、お弁当を京都から配送することになりました。しかし、交通事情でいつ到着するかわからない状況で、夜中に配送するので受け取ってほしいということですが、業者側の職員はその受取業務をしてくれないため、病院側の職員で対応せざるを得なくなりました。
 1月中は、そのような状態で病院給食は実施できませんでした。3月になってからは、調理済の冷凍食品を業者が入れるようになりました。3月中頃までは、病院食は不可能な状況でした。それは、業者との対応や行政との連絡がうまく出来なくて支援物資を確保できなかったということが原因のひとつだと思います。
仙賀
 委託の方がうまく対応できたという施設もありましたが。
田中(澄)
 聞くところによると、震災後、委託の施設が増えたということでしたが。
深貝
 一応、食事は出してはくれましたが、到底、病院食というものではないし、対応方法に病院側にも委託をしているから、任せておけば良いという安易なところがあったんだと思います。
仙賀
 病院側の姿勢にも問題があったのでしょうね。患者をどう守っていくかということが最も大切ですね。
駿河
 私の病院も一部委託していたのですが、最初は不安があったのですが、震災後の対応は職員の勤務についても食糧の確保についてもしっかりやってくれましたよ。
 幸い被害が少なかったので、他病院へ炊き出しをしたり、対応できる業者を紹介したりしました。
 そのような、近隣の助け合いのネットワークが大切ですね。もっとその辺をしたかったのですが、なかなか情報が入らなかったので、残念に思いますね。
仙賀
 春木さんは学校ですが、学校は1月に卒業に関することや、学生はいても病院等と比較して随分、異なったケースですがどうでしょうか。
春木
 短大は加古川にありますので職場を通じての震災の印象は少ないです。
 当座は自分の職業を通じての活動は思いつかなくて、まさしく栄養士のライセンスを持つ者として、何をすべきか責めたてられたのですが、皆さんの話を聞いていると小さくならざるを得ないです。100食200食と食事を出している施設の栄養士さんが一番大変だったと思います。
 私自身は東灘区で激震地の真ん中にいまして、被災者でしかなかったのです。現地には3日ほどしかいなくって奈良の実家に脱出した組ですので、非常に震災については希薄になってしまいますので辛いですね。職業人としての私はどうだったか尋ねられたとすごく辛くて、第3者的にしか見られない自分自身を情けなく思います。
 2月半ばまでは、年度末の残務整理や卒業論文等の仕事を学校に泊り込んでしました。それが、一段落して栄養士としての仕事をしなければと追い立てられるように、活動を始めたわけです。
 食事提供は、食材と調理設備と調理員のマンパワーがあって初めて成り立つということです。この3つを非常時に何とか確保するシステムをつくっておかなければならないと思います。そこで、養成施設としては何が出来るだろうということですが、被災地の真ん中にあれば施設を提供できますし、学生のマンパワーを活用することが出来ると思います。そこで、ネットワークをつくってマンパワーを提供しようと今、教育養成協議会でネットワークづくりを始めているところです。震災を経験して皆さんも実感されたと思いますが、喫食者を持たない栄養士の動きが遅かったという反省も食べるのが当たり前のことでその後どうするかということでしか活動していなかったからだと。食糧から確保して提供してなおかつ栄養管理まで持って行くということはとても大変なのですね。その原点のことを知らないで仕事をしていたように思います。同じことを二度と繰り返してはいけないし、兵庫県の栄養士会としては全国の栄養士会に体験栄養士会として何らかの指針を示していかないといけないと思います。それぞれの分野の活動があるのですけど、皆さんの原稿を読んでいると、それぞれの力があり散発的には活動していたにもかかわらず、社会的に認知されなかったということからシステマチックな組織作りが必要だと思いました。ただ、1年くらいは臨場感があって活動も一生懸命やってきたのですが、もうすぐ2年になるというと、だんだん薄れてきていて、この編集会議へ来るとフッと思い出し、今日も皆さんの体験を聞きまして2年前に引き返されたように思います。
 ボランティア活動も生まれたけれどその後どうなっているのだろう。栄養士としても。だから、今からこそ本当の意味でのボランティア活動が必要じゃないかと……再起できる人は仮設を出て自立されてますが、今、仮設に残っている方は弱者でそれなりのケアが必要な人だと思うのですが、それじゃ栄養士として何が出来るかということです。
 自分の職場としては今から栄養士となる人に、社会的な物の考え方というか、栄養士はお嬢さんの仕事で、仕事に対して捨て身になれないというか、きれいごとで済ますとか、皆がそうでないと思いますが、少なくとも私は今まで歩いて来た道を振り返るときれいごとで難なく歩いてきたように思い、本当はそれではいけないのだよということを学生達に伝えていくことが、私の仕事だと考えています。やはり組織は一挙にはできませんので、いろんなところで少しずつ取り組んでいく必要があると思いますが、何せ日常業務に追われていてなかなか進みません。今日ここへ来て改めてしっかり頑張ろうという思いになりました。
仙賀
 私は春木さんとは逆で、家は大したことはなかったのですが、学校の方が相当被害を受けてるし、当日どうしても行きたかったのですが、行けなかったんです。
 それ以降は、学校にも行かなければならないし、栄養士会も業務をどうするかということで。この建物も被害を受けており、県健康課の応援で片づけたりしたんですが、立入禁止になったので平常業務は留守番電話にしておいて、日本栄養士会と大阪府栄養士会に対応してもらいました。養成施設の方も西宮や尼崎の困っている方に対してボランティア活動をしたい思いはあるのですが、自分の家庭と学校のことでボランティアまでできない状況で先生方からは良い返事はしてもらえませんでした。それで、兵庫県栄養士会として活動するので施設を貸して欲しいということで芦屋から対応を始めました。土江さんからも聞いたところ看護婦さんは学校から応援が来たけれども栄養士は何もなかったと聞いて、初めてそんなボランティアもあったんだと気づいて大いに反省しているところです。
 今、いろいろお話を聞いて、これからどうしていったら良いかということですが、松永さんから話があった中で、地域との繋がりというか、栄養士は1人が多いわけで地域との繋がりということを考えていかなければならないのではと思いますが。
 それに、職に対する意識の問題です。行こうと思ったら行けたんじゃないかと、うちの学校の先生で垂水から西宮まで自転車でお尻の皮が破れたという方もいましたが、私も行こうと思えば行けたかも知れませんね。職に対する意識の問題。それから、ネットワークの問題、ネットワークがあったから何とかやっていけたと。地域の中のネットワーク、他のところのネットワーク。また、救援物資の問題ですが、送り手はどうしなければならないか。受け手の立場から考えてどうしたら良いか。その問題もあったと思います。それから、もうひとつは情報の問題。患者に対する施設側の考え方。長期的な食対応の問題。
 今日は時間切れになってしまいましたので、次回までにこれらの問題について今後栄養士会としてどの様にしていったら良いかを考えてきて欲しいと思います。

編集委員座談会(その2)

仙賀
 前回の座談会の中で、議題として上がっていたのは、地域の連携の問題、情報の不足、職業に対する意識の問題、ネットワーク、支援物資の問題、ボランティア活動のあり方、長期の食対応をこれから栄養士会としてどのように取り組んでいくかという問題等だったと思います。
 それでは、今日はそれらの問題についてそれぞれ考えてこられたと思いますのでご意見をお願いします。
駿河
 ネットワークにはいろいろあると思いますが、地域のということになれば、やはり保健所を中心にしたネットワークになると思います。まず、保健所の栄養士を中心にして栄養士のいる施設から始めていけばと思います。食糧確保については、公的な備蓄食品の中にぜひ弱者用の食品を入れてもらうように働きかけたいと思います。
 また、これまで私たちの栄養指導の方法としては、出掛けて行ってというより人が来るのを待っていたという受け身的なやり方だったと思いますが、仮設住宅への指導をしていて、指導の必要な人ほど、出てこれないという人が多いと思いますので、これからは訪問指導というのも必要になってくるのではと思います。
 また、救援物資については、受け手と送り手の問題もありますが、弁当ひとつとってみても栄養的に確保できる内容の物を早くから提供できるようなシステムを作っておくということも大事だと思います。給食施設の機器の問題ですが、非常時の場合に即対応できるような機器の開発を業者に働きかけることもしていけばと思しくます。食糧についても小さな単位の備蓄食糧はあるんですが、大量の災害対策用の物はありませんのでそのような食糧の開発についても業者に働きかけていけば良いと思います。
仙賀
 春木さんはどうでしょう。
春木
 もうすぐ震災2年目を迎えるわけです。この報告書がでて、これからはそれぞれの栄養士が長期なアクションを起こしていくことになります。そのために栄養士会として突破口を用意すべきだと思います。報告書の発行と同時に何かイベントを考えてはどうでしょうか。
 次に、職能団体としての活動を考えたときに、兵庫県栄養士会としてのシステムづくりをして、それをモデルとして各地の栄養士会に拡げていって、全国レベルまで拡げていけたらと思います。そして、どこかで非常事態が起こったときにどの様に救援活動を行うかマニュアルを県栄養士会として全国に提案することと、また、県内ではそれぞれ地域で行動計画をたてていき、具体的行動を起こしていく必要があると思います。
筒井
 今まで何回かシンポジウムを開いてきましたが、参加している栄養士は何らかのアクションを起こしている人たちだと思うんです。参加しなかった末端の栄養士をどの様に掘り起こして取り組んでいくかが問題だと思います。そのためには、教育も必要でしょうが、地域のネットワークやボランティア活動を通じて職に対しての意識づくりもできていくように思います。
 ネットワークの点では、学生のネットワークができつつあるんですが、その受け皿としての栄養士会の体制ができていないことにとても責任を感じました。
深貝
 ネットワーク作りについてですが、栄養士だけでネットワークをつくってもなかなか動けないのではと思います。施設長や事務関係者を取り込んだネットワークが必要だと思います。
松葉
 未だに、私の施設でも備蓄食品を置いていないし、随分昔の出来事のようになってしまっている状況です。それは、施設の職員も転勤等で変わりますし、震災を経験しなかった者が増えてきたことによると思いますが、私たち栄養士も考えなければ行けないと思いますが、施設長の理解を得ていくことも大事だと思います。
仙賀
 松永さんは一番中核的なところにいる訳ですが、行政としてどこまで対策をしていくことができるでしょうね。
松永
 行政として当面やらなければと思っているのは、給食施設のネットワーク作りです。それについては、給食施設指導を通じて、まず、保健所管内での組織作り、氷上郡の組織をモデルにしたような形でそれぞれの地域にあったように動かせる組織作りをしていきたいと思っています。組織を動かしていこうとすればそれぞれの施設で、備蓄なりが少しずつ整備されていくのではと考えています。
仙賀
 栄養士というのは給食施設をもっているわけですから、これが一番大事だと思います。氷上郡のは栄養士だけでなく施設長等を含めたネットワークで理想的なものですが、それを土台にして、地域で整備していけば学生のネットワーク(Vネット)もそれに参加していけると思います。
松永
 もうひとつは、栄養士のいない給食施設がありますので、そこに働きかけていただいてネットワークに参加してもらうようにするのは、地域の栄養士の方にお願いしたいと思います。栄養士会としては、栄養士同士の情報の交換の連絡網がかっちりできている? 今、名簿はありますが何かあったときにここへこうするという県全体のネットワークは出来ていませんよね。ですから、せめてそれから作って動かして訓練しておくことが必要かと思います。そのことで、情報の収集ができると。また、若い栄養士の育成につながりますが、どんな状況になっても応用できるような、対象者が求めている指導ができるような研修が必要かと思います。併せて、職業に対する意識やボランティア活動についても研修ができるのでは。
田中(澄)
 ネットワークができれば、救援物資が片寄ることもなく無駄にならないような配分もできていくでしょうね。また、栄養士の仕事についても理解が得られるようなPRをうまくやっていくこともこれからは必要なことだと思います。
仙賀
 橋本さんは編集をしていて、今後、どのようにしたらよいかと。全体を見ての感想をお願いします。
橋本
 一番大事だと思ったのは、やはりネットワークだと思います。それは、誰もが分かっていることなんですが、果して本当に動かせるネットワークができるのだろうかと?動けるような栄養士であるためにはどうしたらよいのか考えていって具体的に栄養士会として提示していかなければいけないと思います。今は、一生懸命になっていますが、5年後、10年後と長期的にこの経験を生かしていくためにはどうするのか考えないと、絵に書いた餅に終わってしまうのでは?例えばネットワークについても5年後10年後その状況のなかで見直していくことが大切だと思います。ネットワークについては、他の職種もあるわてですから連携をとりながら栄養士会としての位置づけを明確にしておく必要があるのではと思います。
仙賀
 福本さんは学生でまた、家で震災を経験しこの報告書の編集を手伝ってもらった訳ですが、若い目で見てどう思いますか。
福本
 目の前のことで精一杯でした。母から、「このような不自由な経験がいつか自分の糧となって返ってくる」と言われたことが支えとなったように思います。
 震災後、家の近所のお年寄りの方に毎日水汲みをしました。今まで、話をしたことがなかった近隣の人と震災を通じて知り合うことが出来ました。やはり、最終的には人間同士の繋がりが大事だということが分かりました。
仙賀
 この辺りで、そろそろまとめていかないといけないんですが、一番大きな問題としてはネットワーク、そして、食糧の備蓄、長期的な対応をどうしていくか。
 ネットワークでは本当に動けるものであることと、他の会との連携を持ちながら作っていくことと栄養士同士のネットワークとがありましたね。
駿河
 一番小さなネットワークは施設の中での緊急時の連絡網だと思いますが、それさえもなかった施設があるわけです。最初はそこから段階的に作っていくことが必要だと思います。
仙賀
 自分の施設の中でのことは今すぐにでもできることですね。しかし、震災当日の連絡については難しいですね。
深貝
 病院の中でも震災直後は診療が中心で栄養士が医師や事務長とのコンタクトを取ろうとしてもなかなか取れないような状況ですし、一人で対応しなければならないという状況になると思います。
春木
 学校を考えてみても、直後に学校から学生に連絡を取ろうとしてもこれも困難ではないかと思われますね。その場合、学生の住所地の行政、保健所になると思いますが、そこへ出向いて行って栄養士から指示を受けて活動をすることは可能なのでしょうか。給食施設の栄養士は自分の施設のことで精一杯ですので、行政の栄養士の指揮下で動くようなことを考えていけば良いのでは。また、マンパワーは栄養士会としては公衆栄養協議会が動くというのはどうでしょうか。
仙賀
 しかし、公衆栄養協議会の人は自分の家のことで対応で難しいかも知れませんね。
春木
 でも、家に支障がない人はマンパワーして動くことは可能だと思います。実際に今回でも動けるのにどこへ行けばよいのか分からなかったという人がいましたので、そんなマンパワーをうまく使うシステムができればと思います。
松永
 現在では、やはり保健所を窓口として市町の対策本部等との連携の下にマンパワーのコーディネイトをしていけばよいのでは。マンパワーとして登録というような形にするとしてもどの範囲で動けるのか。例えばかなり遠方へ寝泊まりをしてでも行ってくれるのかも一緒に申し出てくれれば、市町の境を越えて派遣をすることも可能かと思います。
仙賀
 栄養士会でも9年度から委員会を作らて、ネットワークとこれからの支援活動を具体的に考えていくことにしています。
 さて、まとめとしてはまず、動かせるようなネットワークを行政と連携しながら給食施設や職域等で作っていくこと。また、学生とか公衆栄養協議会の人たちを動かせるように保健所を中心としたシステム作りをしていく。そしてボランティアや緊急時の食対応等についての教育は栄養士会としてやっていく。
 最後に情報については、県や市との連絡をどのようにしていくか情報をうまくやりとりができるような栄養士会としてのシステム作りをしていくというようなことではないかと思います。

(c)1997兵庫県栄養士会(デジタル化:神戸大学附属図書館)