阪神・淡路大震災救援活動報告書 社会福祉法人 恩賜財団 済生会 平成7年10月 P169〜P170


奈良病院

阪神大震災被災地の医療支援活動に参加して

奈良・看護婦 藤井祐美子

 平成七年一月十七日午前五時四十六分、震度七の地震が兵庫県南部を襲った。私の住んでいる京都でも震度五のかなりの揺れがあったが、棚から少しの物が落ちる程度であった。一分も満たないこの揺れで兵庫県南部一帯は一瞬にして廃墟と化した。
 私は済生会病院の医療支援活動として、地震当日から十八〜十九日目にかけて被災地である兵庫県東灘区にある灘高校へと出かけた。阪神電車は大阪から青木駅までしか復旧されておらず、青木駅からは徒歩となった。以前に比べ阪神電車は速度を落としての運転を行っており、被災地が近づくにつれ徐行運転となった。電車の窓から見る景色は、普段と変わらぬように町並みが見えていたが、尼崎ー甲子園ー今津ー西宮ー芦屋へと電車が被災地に進むにつれ、屋根にテントを張ってある家がポツリポツリと見え、半壊、倒壊した家が増えだした。
 こんな表現をしたら被災地の方々に申し訳ないが、その町並みは昔子どものころテレビでみた特殊撮影における大きな怪獣が暴れ破壊したかのように、また空襲をうけたあとの焼け野原のようにも見えた。同じ日本に住んでいて、そこは別世界であるかのように私は現実の被害を目の前にして驚きの言葉しか声に出せないでいた。
 青木駅についた。ボランティアの人達、被災地の人達、復興作業の人達など小さな青木駅は多くの人々でごった返していた。徒歩で灘高校へいくまでの街並みも、木造の家をはじめ鉄筋コンクリートのマンションまでが無残な状態となっていた。電信柱も地面接地部分が粉砕されており、かろうじて電線により維持されているもの、完全に接地部分が崩れ家に寄りかかっているもの、道路を斜めに電信柱が倒れ電線がちぎれているものもあった。倒壊した家の多くは一階部分が見当たらず、二階が一階を圧しつぶした状態となっていた。
 今回の被害で亡くなった人達の多くは、こういった家の倒壊による圧迫死ときいた。一瞬の出来事にしてもなんと無残な死なのだろうかといたたまれない思いがしてならなかった。倒壊、あるいは半壊した家などに『皆、無事です。連絡先は……』というメッセージも見かけた。それを見ながら心の中でほっとしながら現地へと向かった。
 灘高校ではまだ多くの人達が避難所生活をおくっていた。地震当日から十八日目とあって昼間は人々は家の片付け、仕事等で出かけている人も多く、それほど多くの人達が避難しているとは思わなかったが、夜になると炊き出しをしている自衛隊、ボランティアの人達のテントへと多くの人達が集まってきた。『皆さんにいき渡らないかもしれません。パンとおにぎりだけになります。』とボランティアの人の声が聞こえた。
 普段なら毎日家族で温かい食事が当たり前であったことが、この被災地ではこういったひもじさを痛感している人々がまだ数多くいた。援助物質がある程度充足はされてきている時期でもあったが充分という言葉にはまだ程遠い感じがした。
 私達が医療支援活動として参加した診療所は、灘高校の保健室を二十四時間体制で開放していた。診療所に訪れる人達は、被災の急性期も一段落ついたところで二次的な感冒、精神的ショックによる不眠、胃腸障害、二次災害による外傷などの患者が多かった。とはいっても診察に来れるほど余裕のない人々も多くいたのではないかと思う。半壊、倒壊した家屋の片付けなどにおわれ、自分の身体などに構っている暇がないのが現状だったのかもしれないと思った。
 診療所を訪れた患者の中で『ここがあいていてよかった。』という声をきけて私もここに来て被災した人達のために役立ててよかったと心を撫で下ろした。
 往診として『本通会館』へ出かけた。感冒のお年寄りをはじめ、高血圧で内服薬を投与し経過観察をしている人がいた。降圧剤投与をしているにもかかわらず血圧が高く、私はその方に『たいへんな時期に無理をするなとは言いにくいことですが、できるだけ血圧が上がらないよう重労働はさげるように。』と話しかけてみた。しかし、被災した人達には安静を保つ暇もなくこれからの生活のための片付けが待っており、『動かないようにと言われてもそれは無理ですなあ。』と返事が返ってきた。
 往診へいった本通会館の近くには魚崎商店街があり、ここも商店街とは言えぬ無残な状態であった。一面焼け野原になった所もあり、その光景は茶・黒などの色合いの瓦礫の山と化していた。瓦礫と化した家の下敷きになって亡くなった人に家族、身内、近所の人達が生けたのであろう小さな一輪の花が倒壊した家の前にあった。ライフラインもまだ完全には復旧されておらず、子どもたちがタンクをさげ水を確保しに歩いている姿も見かけた。
 町は復旧作業のための車も多く、排気ガス、ほこり、アスベストなどの粉塵による空気汚染が著しくマスクなしでは歩けない状態であった。あまりにも簡単に崩れてしまった家などに私は手で触れてみた。壁や塀は、やはりコンクリートの堅さがあった。
 診察の合間をぬってボランティアの人達の話を聞いた。地元の青年達が多く、他府県から手伝いにきている人もいた。ボランティアの人達の話によれば地震当日から四日ぐらいまでは、すべての情報が絶たれた状態で本当に大変な事態であったという。
 地震によって亡くなった人達の遺体安置所も灘高校の体育館を使い、校長先生には事後承諾だったという。数多くの被災地にいろいろなボランティアの方々が手助けにいっている。私達も同様に出かけたが、私達診療班は食事も暖房も休む場所も確保されていた。立場が違うといってしまったらそれまでだが、ただ私達の状況は被災地の方々、ボランティアの方々に申し訳ないと思えてならなかった。
 しかし、ボランティアに出かける人達の気持ちは皆同じで、どういったかたちであれその気持ちが大切なんだと思った。ただ私達のようにボランティアに出かけ、帰っていくものと比べ地元の青年ボランティアの人達は今後をしっかりと考えているようにみえた。恩賜財団である済生会病院は自分達にとって今後どう利用価値があるのかなど、行く行くは自分達だけになるこの町をどうしていったらよいかなど、先の見えない状況下で手探りながらも情報が欲しかったと思える。
 今回の医療支援活動での体験は、私自身様々な視点から人を、状況を見ることができた。看護職である私が何のためにこれから看護を行うか、ボランティアの人達に会い新たに考えさせられた。ナイチンゲールが戦場でおこなっていた看護を、ナイチンゲールの精神をもう一度『看護覚え書』から読み直そうと思った。


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