大地震の被災動物を救うために : 兵庫県南部地震動物救援本部活動の記録 / 兵庫県南部地震動物救援本部活動の記録編集委員会編. - 発行:[神戸] : 兵庫県南部地震動物救援本部, 1996.12. 請求記号:震災-7-156,318,319. p367-383

動物救護活動を振り返る

神戸動物救護センターの立上げ

無い無いずくしからの出発である。
長崎、北海道等においても大変であったが、この度はいまだ経験をしたことのない都市直下型の大震災である。都市機能が完全に麻痺し、その情報源はテレビ、ラジオに頼るしかなかった。神戸市獣医師会会員の殆ど全てがその被害者となってしまった。
 会員の被害状況の把握もままならない。とは言っても、飼い主とはぐれ放浪している動物達、倒壊した建物の下敷きとなり、傷つき避難所のフェンスに繋がれ、ショボクレている被災犬がやたら目に付くこんな状況下に私たち獣医師が動物たちの保護収容、治療について立ち上がるのは当然であった。自分達も被害者であり、会員の被害状況調査もしなければならない。救護活動と同時に出発したと言っても過言ではなかった。
 まず、用地は神戸市の好意により確保された。しかし、動物の収容施設がない。市内の殆どの交通、通信手段が破壊され、日常生活が機能しない状況での動物の収容施設確保となるとなかなか難しいことではある。誰かが農業用のビニールハウスの利用を提案したが、それを入手することも俄には大変なことである。骨となる鉄パイプは何とか寄せ集められても、注文生産のビニールの確保ができない。常日頃お付合いのあった神戸市西農協の松浦副組合長に相談したところ、即座にビニールハウスの無償提供と、その建設方法の指導までも快く申し出て頂いた。
 早速、会員の手配によりトラックを借り受け、資材を頂きに行き、大変な交通渋滞のなかを目的地にたどり着いた。すでに連絡を受けた神戸市獣医師会の会員が沢山集まり、今や遅しと待機してくれていた。
 全員がビニールハウスなど建てたことはない。松原氏の指導、指揮のもと金槌やペンチを持って作業に取り掛かる。先ず、整地、基礎を造り組み立てて行ったが、何分にも全くの素人の集まりである。日がとっぷりと暮れ、真暗となり、寒風の吹きすさぶなか、缶コーヒーを飲みながら頑張ったが、懐中電灯の光では作業は無理である。とても26日一日だけでは仕上がらないにも拘らず、何としても27日には動物救護センターを稼動させなければ、会員の病院には飼い主不明の動物や負傷した被災動物であふれている。
 27日午後よりハウスの建設整備と同時進行にて動物収容を開始したが、ケージが全く足らない。獣医師会会員と日本動物福祉協会会員から急遽調達して急場を凌いだが、瞬く間に満杯となってしまった。
 特に収容動物の脱走には一番気配りをしなければならない。ゴルフ練習場用のネットを借り受け、側面に張り巡らせた。全国から馳せ参じてくださったボランティアの方達は寝袋でのゴロ寝であった。約一ヵ月後にはコンテナハウスが入手でき収容施設らしくなったが、プレハブ・パドック付の新施設ができるまでの三カ月半、このビニール・ハウスが大活躍をした。大震災の発生が厳冬期であったため、比較的手当のし易い暖房対策に留まったこと、爬虫類の保護依頼がなかったこと等が、幸いしたと言える。夜の冷え込み対策としてビニールを二重にしたり、結露を防止するためケージを毛布で覆い保温に努めた。火災には特に注意を払い、ペットボトルにお湯を入れたり湯タンポにより暖をとった。保護した動物にとってより良い環境をと最大限の努力をしたが、中には沢山の動物が収容されケージ飼養のためかストレスが溜まり主として動物出し入れの時のボランティア達の咬傷事故に悩まされた。
 振り返って思いますことは、多くの方々のご協力なくしてはこの事業の完結は無かったであろうと言うことです。改めてご尽力を頂いた全ての方に心からの御礼を申し上げます。

(社)神戸市獣医師会 獣医師 安福 巌


動物福祉の向上をめざして

 「一月十七日」、この忘れられない日から一年を迎えます。瞬く間に過ぎ去りました日々を振り返って思いますとき記憶にないことが多いのです。文字に留めたことを見ますと他人の記憶を見ているような感じのこともあるのです。当日と翌日は電話連絡がなんとか可能でしたが十九日には発信も受信もできなくなり、安否と動物救護活動の連絡を取るために公衆電話まで車で駆けつけ、並んで順番を待つありさまでした。当日は逃げた猫の相談等でよそ様の動物の心配をして、自宅の動物達に注意を払う余裕もなく、我が家の猫の脱走に気付いたのは午後でした。全てのサッシ窓はロックがしてあり安心してたのですが、震動でロックが外れ窓が開いていたのです。この逃げた猫はその後四十日間行方不明のままでした。ある日、ふと気付くと我が家の鶏を狙っているのです。彼女が体験した苦難の日々を物語るようにやつれていましたが、元気に帰宅してくれましたのでほっとしました。無我夢中で走ったのかも知れません。何度も捜し歩いたのですが姿もなく、待つことしかできませんでした。「プッシィ」と呼びかけると一瞬逃げようとしましたが、気付いたように抱かせてくれました。
 他の猫達は逃げる気力もなくしたようで、部屋の隅に寄り添っていました。私の休んでいる二階で犬達が一斉に吠えている声を聞いても身動きが取れないのです。揺れが静まって犬達のいる階下の部屋に駆けつけ無事を確かめ、夫と共に床に落ちた物を急いで片付るのに大変でした。幸い家屋は無事でした。しかし、この日から新たな修業が始まったのです。十七日に取り敢えず東京の長理事に動物救護センターと支部の大半は無事であることを報告し、十八日にJAWS本部、十九日 兵庫県庁、神戸市役所、獣医師会と電話連絡を取り、動物達の救護活動体制を話し合いました。JAWS阪神動物救護センターの水の心配もあり問い合わせたところ、近くの寺で貰い水ができると聞いて一安心。恐怖の余りに国外に避難をされる外国人が動物を預けに来られるので犬舎が満員、大忙しとのこと。救護センターが無事であれば、何よりありがたいことです。私室のサイドボード上のボンフォード先生(阪神動物救護センター創設者のお写真に感謝とこれからのご加護をお祈りして、救護センターのことはウルスさんとみよこさんにお任せすることにし、市内の救護活動に専念しました。会員の多くが被災し、奉仕活動ができる人数は僅かです。それでなくても有り余る人数で活動をしているのではないのです。少数であっても真の奉仕活動を心得た人々に支えられていることが阪神支部の強みです。日常活動の経験と知識が多いに役立ちました。
 市内は車の走行は無理だと聞いて、急遽バイクを買いに走ったのですが、一台残っているだけで機種を選ぶ余裕もなく、販売店主に無理をお願いして直ちに登録をしていただき、神戸市内へと出かけました。四輪車に慣れたおばさんが十年目に乗るバイクは恐怖に近い感覚でした。往復七十キロ。日頃お世話になった獣医師をお見舞いし、市役所で話し合いをして、しかも中央区内で避難者が捨てていったという犬の救護を頼まれて、段ボール箱に首だけを出させて後ろの狭い荷台にくくりつけて走ったのです。焼け跡の道は瓦礫に覆われバイクさえも通れないのです。焼けたトタンや板を引き寄せて通路を作りながら、しかも、一人では越せない瓦礫のあたりは助けを求めて前を走っていた男の方がバイクを降りて手伝って下さるような有り様だったのです。それでもバイクは歩道を走れるし、渋滞で動かない車の間を縫うようにして抜けられます。信号もなければ交通法規もなし、無事に帰れたのが不思議なくらいでした。バイクでの出勤は一日で懲り懲りでした。渋滞しても動物を乗せるには四輪車でなければ不安です。翌日からは忍耐訓練の毎日でした。平素一時間で走れる距離が五〜六時間かかるのです。疲れきって帰宅しても余震が不安で衣服を着たままコタツで寝てしまいます。我が家のあるこの区域は、停電時間も短く、井戸水があり、プロパンガス、トイレは汲み取りという田舎暮らしが幸いし日常生活にはさほど不便さはありませんでした。食料品は瞬く間に売り切れ、特に水は手に入れるのにとても苦心をいたしました。被災地に運ぶためのタンクも売り切れ、会員さんにお願いして融通していただき、他の会員宅に運ぶと行った具合でした。動物達のフードも平素から貯えていたお陰で被災地に配ることもできました。その後は、全国の皆様からご寄贈いただきましたので、大勢の方々にお配りでき喜んでいただきました。改めて深く感謝いたします。特に「自然と動物を考える市民会議」「捨て猫防止会」の皆様には組織だってご支援を頂きました。厚く御礼を申し上げます。
 一月二十一日、(社)兵庫県獣医師会・(社)神戸市獣医師会・(社)日本動物福祉協会阪神支部の三者が母体となり、兵庫県、神戸市が協力しあい「兵庫県南部地震動物救援本部」を発足させました。二十七日、神戸市北区神戸市動物管理センターの敷地内に「神戸動物救護センター」が神戸市獣医師会の会員の先生方のご奉仕により設立され、神戸市獣医師会とJAWS阪神支部が全国のボランティアの方々のご協力を得て共同運営の活動を開始しましたマスメディアから報道支援に対しても大きな反響があり、TV放映の後では午後十時頃まで電話がなり止まず、嬉しい悲鳴を上げたものです。休みましたのは本年一月現在まで風邪で起きられなかった二日間と休日として頂いたのは二日です。それも、休日の一日は大雨の心配で夜間緊急出勤をするという有り様でした。他の一日は今年の元旦ですが終日大掃除に費やしました。運営に携わるものとしての責任とご協力してくださる方々に対する感謝の気持ちが原動力となり、これまで大過なく過ごさせていただきました。また全国の皆様からお寄せ頂いた動物に対しての愛の結集であります二億三千万円(十二月末現在)のご寄付と物品のご寄贈と、大切なお時間を割いてご参加くださいましたボランティアの皆様のお陰さまで当本部は順調に運営をさせていただいています。改めて心から御礼申し上げます。震災直後は善意に溢れた人々の心に触れさせて頂き、感激いたしました。
 一方、最近は報道における関心事も軸が変わり、事実を曲げたり興味本位で無責任な報道も目立ちます。とても残念なことです。望まぬことではありますが、今後に発生するかも知れない災害に対する国民の関心を考えたとき、大きな不利益となるであろうことを憂います。何もしなければ非難をされることもないでしょうが、奉仕活動を行ったことが 糾弾され、それも、当事者の弁明説明はほとんど無視されたものであれば、後に続く人に不安を与え行動を控えられることにもなりかねません。前例のない事業に挑戦させていただいた当事者の感想として申し上げたいことは、「実行可能な範囲で将来の動物福祉の向上に繋がる善意ある提言助言」であっていただきたいと言うことです。善意を喪失した報道や「噂」と言う逃げ路を想定した悪印象の定着を狙った文章の公表には怒りと言うよりも、人としての思い遣りの無さに悲しくなります。特に第三者として客観的に判断をされますと、理想的に思考されることが多くなられるのも当然のことかも知れませんが、多くの犠牲を払ってくださったボランティアの皆様に対しても申し訳なく思います。それらの悪意の報道や「うわさ」がすべて事実であれば、今日までボランティアの方々が奉仕を続けてくださることはなかったでしょう。そして、いわゆる普通の市民からの苦情はほとんどなく、愛護団体に所属する人が、明らかに揚げ足とりを目論んだような電話です。この非常時に人の落ち度捜しをする暇のある人がうらやましくも有り、心の貧困さを気の毒だとも思います。被災者である私たち自身が十分な用意があって行った事業ではないのです。間違いや反省事項はたくさんあったことでしょうが、「机上の理想よりも実行可能な行動こそが必要」だったのです。今後とも、建設的な助言を頂くことには素直にお受けいたします。将来において、これらの非難糾弾をされた方々が当事者となってご苦労されることのないことを祈ります。痛みは分かち合えるものではなく、あくまでも痛みを感じている「その人」しか実感できないのです。しかし、思いやることはできます。私はそうでありたいと思っています。
 末筆となりましたが、JAWS東京本部を始め、英国委員会、南大阪支部、横浜支部、全国各支部の方々、見知らぬままにご恩を受けさせていただいた皆様の心からのご支援に深く感謝いたします。尚、大なり小なり被災しながらも震災動物救護活動に全力を捧げてくださった阪神支部会員の尽力も報告させていただきます。今後ともにご指導を賜りますよう、お願い申し上げます。
(社)日本動物福祉協会 阪神支部副支部長
松田 早苗


ボランティア活動から学ぶ

 私は、1995年の2月より恩師の澤井先生によりボランティアを一緒にしないかとお誘いをうけ、動物たちの救済にあたりました。当初はちょうど冬のまっただ中ということもあり気温もかなり低くいてつくような寒さで、小型犬、老犬、あるいは室内で飼育されていた犬、猫には、この冬がのりきれるか否かということが心配でした。夜はひよこ電球と犬舎(バリーケンネル)に毛布をかけて保温することにしました。かなり衰弱した動物、あるいは高齢の動物は動物管理センターの施設の隔離犬舎を使用させて頂きました。犬舎の消毒にはかなり気を使いましたが、ボランティアの人数の多さもあり徹底するのは非常に困難でした。当時多かった疾病は伝染性の呼吸器病と消化器疾患でした。多数の犬が青ばな(膿性鼻汁)垂らし、一般的な治療薬にはいい反応を示しませんでした。下痢は今までの経験で生臭い腸粘膜のはがれたような出血性の下痢は直ちに伝染病室に隔離しました。猫は伝染性鼻気管炎が多くやはり治療薬にはいい反応を示しませんでした。
 そこで一日一回、日中天気のいいときには、外に出してやるようにする(犬に関して)と多少、症状は軽減されました。たぶん環境の急激な変化と多頭飼育や寒さによるストレスの為ではなかったのでしょうか。昼、夕、一日二回の散歩はかなり骨がおれました。と言うのも咬む犬がどの犬かわからなかったからです。(特に新しいボランティアの方々が)犬舎から出すときと、入れるとき、餌をあげるときが一番注意が必要でした。狂暴な犬を扱えるのは2〜3人ぐらいしかおらず一時は60数名を越えるボランティア数を指導するのに一時間が費やされることもありました。そんなことがありながら3ヶ月、4ヶ月、とたつうちにボランティアの人たちも次第に仕事になれ、システム化されてゆき、気候もあたたかくなってきて、仕事もやりやすくなってきました。そして新しい犬舎が震災後5ヶ月くらいに出来たと思います。散歩をしなくてよくなった反面、いろいろな細かい問題点がでてきました。その一つは、犬舎の遊び場にしかれている砂です。砂は雨やたびかさなる尿や下痢などで湿り気が多く細菌やウイルスの絶好の繁殖場となるおそれがありました。寄生虫がでてもなかなか駆除しきれずに非常に頭をいためました。しかし以前にくらべて疾病の数もグンと減り、仕事量は1/5くらいに減りました。そうこうしているうちに、当初の気持ちがかわってきているような気がして震災後6ヶ月目でボランティアを退くことにしました。
 このボランティアは私にたくさんのことを教えてくれました。そのほとんどが私の指導力のなさということでした。今まで生まれてこのかた一度も人の上に立ったことのない私がボランティアのチーフを任されました。でもこのボランティアの短い6ヶ月でしたがそのひとかけらですが、わかったような気がしました。
 最後に里親にもらわれていった動物に幸せを心よりお祈りいたします。
神戸動物救護センター飼育担当
獣医師 松岡 幸裕


ボランティアの確保から始まった

 兵庫県南部地震(阪神大震災)から、約2年が経とうとしています。
 私の診療施設では、建物の倒壊は免れたものの、診療施設と二階の居宅が同じである私の病院では、家具、調度品、医療備品が散乱し、ガラスが粉々に砕けて足の踏み場もありませんでした。
 地震直後から断水し、3歳に満たない子どもと妊婦を抱えながら、食べ物だけでなく飲み水すら手に入らず、疲れた体で生活必需品を求めて右往左往する日々でした。
 繰り返し起きる地鳴りのような余震に怯えながら、水や食料を求めて日夜東奔西走する毎日、病院では、壊れ散乱し山積みになっている器具や家具を片付けながら、運び込まれる怪我や火傷を受けた動物の手当てを行う日々でした。
 今回神戸では、震災直後から獣医師間の連絡が始まり、安否と病院の状況確認などが開始されましたが、これは結果的に救護活動を開始するに際しての相互連絡網を形成する上で役割を果たしましたので、獣医師会や支部単位の連絡網は日常から重要視しておく必要が有ると思われます。
 震災後、「まずは動ける人から」の信念で今回の救護活動は開始され、多くの先生方がそれぞれの地域で、自ら被災されながら立派に地域社会への貢献を行われました。
 ペットフードメーカーの協力で動物用食料配布が達成出来ましたが、道無き道をかき分け、避難所となった小学校、中学校等の訪問と平行して、救護センターの存在をアピールすることになり、これは避難所で息を潜めている人々にとって大きな物心両面の支えとなりました。救護センターの活動は、やがて心理的にも窮地に置かれている市民の動物に関する相談の窓口になり、この活動は単なる動物の預かりで留まらず、大災害の中で動物を飼っていた人々を、心理的な側面からも大きく支えたのです。
 当初より、心ある有志の獣医師の先生方から救護活動と救護施設のあり方に対して物心両面から協力戴きつつ、神戸動物救護センターは始動しましたが、各種団体の協力と行政の協力を得て活動は確かなものに成長し、幸いにも増え続ける協力者数は、結果的に参加者数の管理の必要性をもたらしました。
 参加者の内訳は他に示されていますが、参加希望にもかかわらず実現しなかった方は数多く有りました。動物救護という尊い活動の慈愛性からか、女性の参加者が非常に多く、年齢、職業、参加動機も誠に多岐に亘りました。動物管理センター宿舎(ここを利用出来た事は、治安及びボランティアの体力の消耗を最小限にとどめる意味でも誠に恵まれていたのですが)救護施設内に於ける治安の維持、動物を扱う上で事故を未然に防ぐ事も、参加者希望者には充分に状況を説明して参加が適切であるか否かの判断を冷静にして戴くよう、努めて慎重な対応を配慮する必要がありました。動物に適した保護管理体制を維持するための人の配分、人材の安定供給、休み期間に集中する参加申し込みの調整によって、長期化するこの活動の円滑な運営を図り、参加者に充分な活動をして戴く為に、参加希望者の調整は継続して行われました。
 今回用いられた情報収集手段は、急遽設置した(これも先生方の努力で出来たことですが)もっぱら電話とファクシミリでした。神戸の一部ボランティア組織では利用されていましたが、今後はパソコン通信などのネットワークの利用も効率的な情報発信収集手段として役立たせてゆけそうです。日本獣医師会のホームページを用いたり、地方の獣医師会、或いは有志によるボランティア組織が、パソコン通信やホームページ等を利用してボランティア組織を発信し、災害現地の獣医師や現地に駆けつけたボランティアの有志から、現地状況をどんなところからでも携帯通信などで現地の状況を刻々と伝え、必要な人材や物資を連絡してゆくことも可能です。 神戸動物救護センターでは、200頭を超える預かり犬猫に対して毎日50人を越える宿泊者、通いの方を含めて100人を越える参加者、限りない電話の問い合わせへの対応に迫られるようになるまで成長しました。現場で行われる救援業務は多岐に亘るようになり、それぞれ個々のボランティアの体力や年齢、希望などに応じて、その人が十分に才能を発揮できるような、参加者数の調節、効率的な人材配分がなされました。その反面、個人の能力に応じて現場主導型で対応してゆけるのが、ボランティア活動の長所であり、参加者の人数と動物の保護頭数、保護管理体制によって業務状況は毎日のように流動的に変化していきましたので、参加者の安定した人数確保は容易ではありませんでした。
 人材援助の協力要請は、(社)日本獣医師会、獣医系大学、動物看護学校、(社)日本動物福祉協会、(社)動物保護管理協会などの各種団体へなされ、人材的、人数的にとても大きな役割を果たしましたが、一方で、マスコミ報道などを介して、広く協力希望者を募ることも大きな援助となりました。
動物関連に限らない素晴らしい才能に恵まれた多くの参加者が、各々の才能を発揮していかれ、結果的にこの活動のに厚みをもたらしました。現地では、作業に精通したボランティアが基本的な業務を指示した後は、互いに救い合い、アイディアを発揮し合い、作業は必要に応じてその時々にプランが立てられていきました。多くはマニュアルとして残されていき後世に役立てられることになりました。
 神戸動物救護センターに来て下さった皆さんは、冬空の下、汚れる仕事も厭わずに荒れた手を省みず、疲れることでも一生懸命がんばって手伝ってくださいました。「かわいそうな動物のために」との思いから、寒い冬空の下での辛い仕事の数々、そんな合間でほったしたひとときの皆さんの笑顔、笑い声は、寒空と疲れを融かしているようでした。散歩の際に転ぶ人もあり、犬を放して捕まえるのにみんなで走り回ったことも、小さなお子さんを連れて家族で参加された方も、社会活動のひとつを垣間見る良いきっかけとご理解戴けました。
 真夏の救護施設は暑くなりました。プレハブ内の温度調節に気を配り、年齢病状に応じた犬舎、猫舎の置換えを汗まみれで手伝って下さった方々。大事に世話してきた動物を、漸く出会えた里親さんにお渡しする時、涙で見送ってくれた人、動物をお譲りして喜んで戴いた里親さんからの数々の礼状。参加者の心には多くの思い出があることでしょう。受付で里親対応をしっかりと守って下さった福祉協会の皆様方は、時に厳しく、時に優しく、参加した年若いボランティアの皆さんにとっては心の支えとなり、学ぶことが多かったようです。
 全国各地から遠方より長期にわたる参加要望があり、昼夜問わず動物をケアーするためにも永続的な宿泊施設が必要となりました。コンテナハウスを用意してボランティアの皆さんに寝泊りして戴くことになりましたが、冬は寒く、夏は暑コンテナは、仮設住宅住まいを余儀なくされている被災者の皆さんの痛みを共有していただくことになってしまいました。動物をケアーする人は特定の人でなくてもマニュアルに従っていれば良いとの考えもあるでしょうが、私どもが神戸動物救護センターを見ている限りでは、長期に亘って特定の人が絶えず毎日、ケアーしていて下さることが安定した管理につながり、ひいては長期的な動物の健康管理の成功を導いたと確信できます。むろんそれが出来たのは、センターの無事なる閉鎖まで支えて下さった心ある幾人かのボランティアのおかげであることは疑う余地もありません。
 毎年、年間何万頭もの犬や猫が飼い主に恵まれない反面、ここでは懸命に動物を救っている、動物を取り巻く社会の様々な、明るく、時には悲しい話題を日常の生活では決して出会えない人々と夜遅くまで膝付き合わせて議論出来る場を提供しました。多くの人々が、互いに感動や教訓を与え合って人のつながりを作っていったコンテナハウスでした。
 「出来る人が、出来るときに、出来ることを精一杯行う」、みんなで努力した結果、今回のような素晴らしい事業がなしえました。
 この自負は次の活動の原動力です。神戸で起きたこの天災は宿命でしょうけれども、参加者全員が神戸で目にしたあの惨状、そう呼んで憚らない光景と、神戸動物救護センターで行った活動は、多くの教訓と課題を後世に残します。
皆がこの出来事を友達や後に続く次の世代の子供達へ伝える現代の語り部であり、もし今後、同様の異変が起きた時、全員が経験してきたことは動物救護、或いはそれだけに限らず必ず役立つことです。必要なとき「新たな種」となって活動できる人として、涙ながら動物を手にされた人々と、全国にもらわれていった動物達と、もらって下さった人々と、協力していただいた私たちからの感謝の言葉です。
「ありがとうございました。全国のボランティアの皆さん。」
1996年11月
(社)神戸市獣医師会獣医師 佐々井浩志


動物愛護意識の開眼

 私のボランティアは「申し訳ない」から始まった。
 私が震災の詳しい状況を知ったのはテレビやラジオだった。過去に経験の無い大きな揺れは感じたものの自宅周辺や仕事場である病院の周囲には大した被害は見られず、あの一瞬の揺れがビルや家屋を崩壊したり、多数の死者や負傷者を生んでいたことなど思いもしなかった。テレビの画面では良く知っているはずの町並みが廃墟のように写り、数時間前に通った高速道路が崩れ落ち、知人の家の周辺が野焼きのように燃えていた。親戚や知人の安否の確認に被災地に足を運ぶにつれ、事の重大さが目や鼻そして耳から体の中に浸透していった。
 神戸市獣医師会の中で被害の少なかった地域の仲間が集まり、自発的な会員の安否の確認作業が始まった。会員や家族の安否、自宅や病院の被害状況、周辺地域の状況が伝わってくるにつれて自分の置かれている現状がとても恵まれていることを知った。地図の上では私の生活地域は震源地に非常に近いのに、私は暖かい部屋で暖かい食事をし、風呂に入り、テレビを見、暖かい布団で寝てという普段の生活が出来た。被災動物の救護活動は、申しわけないぐらい幸運だった自分が同じ神戸に暮らしながら被災した仲間達の代わりにやらなければならない事のように思った。
 「幸運だった我々が被災した仲間の分まで頑張るぞ」という気持ちは、救護活動に参加していた神戸の獣医師たちの共通の想いだったのではないだろうか。動物のお医者さんがたくさん集まった。
 神戸動物救護センターの建設、器材やフードなどの救援物資の受入れ、避難所への救援物資の配布など肉体労働が連日続いたが思ったよりも早くセンターは稼動した。動物救護センターに収容される動物達の数が急増するに連れて我々はより忙しくなった。センターの診療室は朝から晩まで人や動物達が出入りしにぎやかだった。長い長い一日が終わるとカルテが山のようにたまり、治療を担当した神戸の先生達や全国から応援に駆けつけてくれた先生達は放心し、長い間椅子から立ち上がれなかった。
 「自分の病院ではこんなに働いたことはないなぁ。」「毎日こんなに忙しかったらすぐに蔵が建つね。」というような会話が交わされていた。みんなの疲れた顔がとてもやさしかったのが印象的だった。
 私はセンターの診療室で我々獣医師の原点を見たように思う。我々の持っている知識や技術が、ケガや病気で救いをもとめている動物がそこにいるからという単純明解な理由で発揮されていた。それも全力投球で昼夜を問わず行われていた。センターで治療をしている先生達の姿は、獣医師を志して大学を受験した頃に描いた「動物のお医者さん」のイメージそのままに、かっこよく頼れる男(女)に見えた。我々は日頃、検査をしていくら、注射をしていくら、手術をしていくらと獣医学的な知識や技術を用いて飼い主からお金をいただいている。そこにはおのずから営業的な要素が介入してくる。経費はできるだけ節減しなければならない。気持ちよくお金をだしてもらうために嫌な飼い主にも笑顔で接し、治療に抵抗し大暴れをした性格の悪い動物にも「○○ちゃんはとてもいい子でしたよ」などと言わなければならない。高額な検査費用を納得してもらわなければならない。高度な技術や高価な器材を使用するために高額な手術であることを納得してもらわなければならない。常に悩みごとが絶えないものだ。
 また、飼い主の動物に対する愛情や理解の無さに直面し、動物への哀れみと飼い主への憤りの間に挟まれることもある。しかしセンターに収容された動物達は、ボランティアの方々から本当に暖かい愛情を持って庇護されていた。収容当初はどろどろに汚れ痩せて脅えていた犬が、ふわふわの毛で楽しそうに尻尾を振って散歩している姿をよく見かけた。
 収容された多くの動物達の顔が一週間もすれば穏やかになっていった。
 我々はボランティアの人達を素直に尊敬し彼らの報告を聞き、注射や処置をして、指示を与え、看護を任せた。彼らは我々を信頼し内服や外用の指示を守り、経過を観察していた。我々は医薬品や器具に制限はあったが、治療を求める動物に必要な治療をする心地よさの中で仕事をしていたように思う。ボランティアの人達はけっして良いとはいえない飼育環境を創意工夫と献身的な看護で補った。
 動物が好きだから。
 神戸での被災動物の救護活動は動物を愛する人々が集い、人々は自らの肉体を一個の労働力として有形無形のものを残し、個々の能力や知識は様々な問題を解決した。対話は常に進むべき方向を模索し、会話は互いの理解と協調を生んだ。平素は反発し合う組織同士はそれぞれの中にある「動物愛護の精神」という共通点を軸に集い、互いを尊重し新たな組織を築き、より大きな組織を動かした。その中で個々の組織は得意とする作業を分担し、その能力を十二分に発揮した。それぞれの組織が果たした役割は大きかったが、心やさしい人々が力を合わせ形を作り、それを継続することができるように環境を整えたそれぞれの組織の長たる聡明な人達の果たした役割はより以上に大きかった。
 遠い昔の出来事のように思える。
 つい最近まで活動していた神戸の動物救護センターが最後の1頭の犬が新しい飼い主のもとで余生を過ごすこととなったのを機に閉鎖された。あのドタバタが昨年起こった出来事なのに遠い昔の事のように思える。私は何事も無かったかのように平穏にかつ単調に生活しているが、少し歩けば震災の影が見える。更地のまま放置されている広々とした土地、古い家が並び雰囲気のあった町並みがプレハブのモデル住宅の展示場の様になり、公園と名の付くところには仮設住宅が並んでいる。それでも形のあるものは少しずつでも整いはじめているが、被災された人々の生活や心という形の無いものは二度と元の状態には戻ることはないであろう。広義の被災者でありながら狭義の被災者でない私には、被災された方々に少しでも早く元気になってほしいと願うことしかできない。我々の活動が全国のたくさんの人々から支持され、また諸外国からも高く評価されていたことを聞いた。私は一獣医師また神戸市獣医師会の会員として動物救護センターで働き、被災動物の救護活動をとおし日本の社会では未熟だった動物愛護意識の開眼に微力ながら貢献できたことを嬉しく思う。被災という言葉を使うような出来事は二度と起こってほしくはないが、今後再び他の地域で発生しても、人や町を救うことと同じように動物を救うということがあたりまえに行われるだろう。我々の活動の経験が基盤となり、より迅速なより充実した活動が行われることを期待する。
 最後に、神戸動物救護センターの医療担当の責任者として全国から応援に駆けつけていただいた獣医師の方々や一般のボランティアの方々に対してずいぶんと失礼な言動もあったように思います。この場を借りてお詫びいたします。
 またセンターの建設や運営に尽力いただいたすべての方々に心から感謝いたします。
(社)神戸市獣医師会獣医師 吉田 功治



忘れられない思い出

 1995年1月17日の大震災から12日後、職をなくしていた私は、「人を助けるボランティアがあるのだから動物を助けるボランティアもあるはず」と思い獣医師会の方へ連絡をし救護活動に参加しました。
 私が参加した日のボランティアの人数は8人でこれから先にどんなことが起こるのか不安でした。
 次の日から犬や猫たちが入所してきて、それにつれて休む間もないくらい忙しい日々が続きました。
 参加して3日目にボランティアのまとめやくとシェルター内の動物の状況を把握するためにチーフを任されました。
 任された以上「できるかぎりのことをやろう」と思いました。
 犬や猫の数が増えるにつれて、いろいろな問題が出てきました。100頭以上もの動物が同じシェルターの中での生活し、ストレスからくる下痢や急な発病、飼い主と別れて精神的に不安定なのか、いつまでたっても心を閉ざしたままの犬が多く、ボランティアの友好的な態度を不安がり時々、咬傷事故もありました。
 一番悲しかったことは、気を付けていても出てくる伝染病で死亡してしまう犬や猫が多かったことです。
 それとは反対によかったこともたくさんありました。
 1つは、震災前に妊娠していた犬に子供が生まれた時、こんな苛酷な状況の中で流産や死産がなかったので、母親は強いと実感しました。2つめは里親が決まった時です。うれしさとうらはらに私たちと別れなければいけないので少しさみしいと思ったものです。
 3つめは、迷い犬で保護されて半年近く飼い主がわからなかった柴犬に飼い主が見つかり、迎えにこられた時の喜び方を見ているとやっぱり飼い主にはかなわないと思いました。
 犬や猫だけじゃなく、時にはいろんな動物が入所してきて私たちを楽しませてくれることがありましたが、それなりに苦労もありました。
 とくに印象深いのが小猿で猿は1人の人間にしかなつかないと聞いていたので、なるべくいろんな人たちが食事を与えたり、そうじをしたりと気をつかいました。
 動物たちとの出会い以外にボランティア同志との出会いもたくさんありました。
 ボランティアのほとんどが大学生でしたが、中には仕事を休んで参加してくれた人もいました。
 大学生のうちの何人かは、ボランティアが終っても、救護センターが気になり何度も足を運んでくれた人たちもいました。
 今はただ、全国から集まっていただいたボランティアの方に感謝したいと思います。災害は二度と起こってほしくはないですが、もし日本のどこかで起こってしまったら私はまた参加すると思います。
 この経験は私の生涯の中で一番の思い出になることでしょう。
 本当にありがとうございました。
神戸動物救護センターAHT 加藤 美貴



ガレキの下の動物たち

 私の病院がある地区は被害が甚大なところで、多数の方がお亡くなりになり、多数の方が家を無くされました。病院の建物は無事でしたが、ショックによる妻の陣痛と家族の避難のため、震災後1週間は自分たちが生きていくことだけに奔走していたと記憶しています。電話、電気が通じたのが震災より1週間後、水道は2月末、ガスは3月末でした。震災時4頭の入院動物がいました。糖尿病、直腸脱、膀胱結石、椎間板ヘルニアをそれぞれ患っていました。その時期情報がなにも入ってこないため、どうすべきか悩んでいたところ、18日妻の転院により北区が無事であることを知り、至急北区の先生に動物の入院を依頼したところ快く引き受けてくださいました。まず最初の1週間にしたことは、電気、電話が不通だったため、病院の玄関に紙と筆記用具を貼り付け用件を書いてもらうようにし、避難所より連絡をとり、投薬、注射しかできなかったが、時間をあわせ診察しました。
 継続して投薬の必要な心疾患、ネコの慢性口内炎、慢性腎疾患、ネコの伝染病、処方食の配給等がありました。その他在庫していたフードを近所の人へ預け、そこへ取りに行ってもらうようにしました。電気、電話が通じてからは、平常どうりの時間で診察をおこないました。また10日近くガレキの下にいて衰弱した動物、骨折、脱臼をしているであろう動物(エックス線装置の破損のため診断不能、他院へ紹介)、足の裏などに外傷を負った動物や背部に火傷を負った犬等が来院しました。震災後の火事の為であろうと思っていたら、避難所で火をつけられたとの事。悲しかったというか複雑な気持ちで診察をしたことを覚えています。この文章を書いている今も、私の目の前に浮かぶのは、ガレキの町、焼けている町、それを茫然とみている人々、これといって当てもなくさまよい歩く人々、路上や公園で毛布をかぶりうずくまっている人々、そんな情景ばかりであり、その時期、私が獣医師として考え行っていた事と言えば、記憶にあまり残っていません。もしくは何もなかったのかもしれません。
(社)神戸市獣医師会獣医師会 針間 矢保治


「野戦病院」での診療

 私が救護センターで治療を担当させていただいたのは、救護センターを立ち上げて最初の50日間程でした。最初は昼の1時から3台の診察台をフルに使って、休みなしで夜の8時まで治療を行っても治療が翌日回しになってしまう症例があるという程、混乱した状況でした。しかし、初診の診断・治療を神戸市獣医師会の先生に、継続治療をボランティアの先生方にお願いするというシステムになってからは、ある程度の時間的余裕を持って診療に当たれるようになりました。ただし、治療に一貫性を持たせる為、毎日、症例検討と申し送りを行うという仕事が増えたのも事実です。
 野戦病院の様ではありましたが、それなりの治療が出来たのではないか、と思っております。これはご自分の病院も大変な中、レントゲン検査を含む各種検査や、重症の症例の集中治療および手術を引き受けてくださった神戸市獣医師会の先生方、泊り込みで治療を引き受けてくださった他府県の先生方、一頭一頭を大事に看護してくださったボランティアの方々の力が一つになった結果だと思います。本当に有難うございました。
(社)神戸市獣医師会獣医師 澤嶋  効


アニマルレスキューグッズ

 救護活動の資金作りにアニマルレズキューグッズの製作は、ボランティア獣医師として最初に神戸に来られ、シェルター設立に、甚大な力を発揮していただいた川崎の馬場先生の娘さんのイラストを用いて、ひたむきに被災した動物達の世話をしてくれるボランティアの人達のスタッフジャンバーを作ったのがはじまりです。
 最初はウィンドブレーカーだけではじまりましたがトレーナー、ポロシャツ、Tシャツと季節のうつりかわりと共に、いろいろとアイテム・カラーも増え、全国の方々の注文に生産がおいつかない時も多々ありました。九州から北海道まで全国から多数の注文がありまた、同じ人からも数回、注文があり被災動物への関心の深さがアニマルレスキューグッズの販売を通して感動した日々でした。
 この紙面を借りて販売に協力していただいた、獣医師会、各団体等、及びご理解いただいた方々にお礼申し上げます。
 どうもありがとうございました。
(社)神戸市獣医師会獣医師 尾谷 幸男


歴史的データの整理

 平成7年1月17日。
 全く予想もしていなかった大地震。
 神戸の西北端に位置する病院の2階宿直室で、まだ熟睡中だったところを、いまだ経験した事のない大きな揺れにたたき起こされ、何が起きているのかすぐには理解できなかった。
 立ち上がる事も出来ず、布団の中でじっと身をひそめ、事態がおさまるのを待っていたが、おさまるどころか時に激しい揺れに混じって家具の倒れる音、「こらいよいよあかんな」と思いかけたところで、やっと揺れるのがおさまった。
 停電のため真っ暗な中を部屋から出ようとすると、足の裏に何かが刺さった。よく見てみるとガラスの破片のようである。棚から落ちた食器があたり一面に砕けて散らばっていた。
 一旦、外に出て駐車場から車のヘッドライトで1階の病院内を照らし出し中に入ると、点滴ビンが砕けて床に散乱し、機械類は本来の設置場所から大きく移動していた。待合室は熱帯魚の水槽からあふれた水で、ビショ濡れである。
 まずは自宅に電話で連絡をとり、無事を確認する。「家具はあちらこちらで倒れ、子供たちは怯えているが、幸いにも誰も怪我一つしていない。」とのことに一安心。
 次に母親が1人で留守番をしている長田区の実家に電話をするが、何度ダイヤルしても応答無し。
 昭和初期に建てられた古い木造住宅である。『あの激しい揺れに耐えた筈が無い。』との想に大きな不安が胸をよぎる。
 状況確認のため、車に戻ってラジオをつける。
 関西でこんなに大きな地震が起こるはずはない、と信じ込んでいたので、地震直後は、「以前から言われていた東海大地震が発生したに違いない」と思っていたが、なんと震源地は神戸とは目と鼻の先の『淡路島』!? この時点でのラジオ放送では、事の重大さをまだ何も語ってはいなかった。
 30分しても電話が通じない。「とりあえず行ってみよう。」普段なら車で35分の距離である。
 午前6時15分、うっすらと明るくなり始めた道を走り出した。全ての信号機が停電のため消えている上に、峠道には何箇所にもひび割れや段差があり、いつもの半分の速度しか出せない。
 西区から北区を経由し小高いひよどり越えから神戸の市街地を眼下にした時、そのあまりにもすさまじい光景に、一瞬我を失いそうになる。
 市街地の全域から立ち上がった真っ黒な煙が、薄暗く空を覆っていた。 実家のある長田の方からも何本もの煙の柱が上がっていたが、「とにかく行けるところまでいってみよう。」と車を走らせる。
 車道も歩道もまともなところは殆ど無く、アスファルトは無残にも大きくうねり、ひびわれ、たぶんついさっきまで人が暮らしていたはずの家々が、ただの瓦礫と化していた。あちらこちらで水道管が破れたのか道路が水浸しになっている。町中がガス臭く、吸っていたタバコを慌てて灰皿に押し付ける。
 倒壊した家、堀の間を何とかすり抜け、瓦礫を乗り越え炎をよけながら、何とか実家にたどり着いたのは病院を出てから約2時間後であった。
 実家は全壊していたが、奇跡的にも母親は、大きな怪我もせず無事であった。
 半倒壊した部屋に閉じ込められていたところ、向かいに住む青年に助け出してもらったとの事である。
 自力で這い出した人たちが協力して、近隣の倒壊した家の下敷きになった人を、次々に助け出していたが、不幸にも数名の方が亡くなられていた。
 実家の被害は、家の全壊と、愛犬『クッキー』が行方不明になってしまった事。
 クッキーを1時間程探したが、見つける事が出来なかった。崩れた石垣や家の下敷きにならず何とか逃げ延びていてくれたらと祈るばかりである。
 余震の続く中、半倒壊した家からごく一部の貴重品と、父の位牌を探し出し、とりあえず一旦私の自宅に避難することにした。(近くで発生した火災は消火活動も行えず、風に吹かれて燃え広がり、実家の近くまできていた。)
 病院のAHT 2名もそれぞれ自宅が半壊していたので、「仕事の事は気にせず、少し落ち着くまで仕事を休んで、家の片づけを手伝うように。」と指示。
 幸いにも自宅のある北区は被害が少なく、数日の断水だけで電気・ガスには影響が無く、病院は当分の間休診させてもらい、親戚、知人との安否の確認、実家の近隣への炊き出し、飲料水の運搬等にかかりきりになっていた。多くの知人が避難所で、ガスも水道も電気すら無い暮らしを続けていた。またあまりに多くの被災者のため、避難所の屋内には入りきらずに、屋外で毛布にくるまり、1月の激しい寒さに耐えていた。
 以上が地震直後の私の周囲の状況ですが、これは神戸市内で最も被害が軽微だった者の例と考えて下さい。
 私も後になって知った事ですが、神戸市獣医師会所属の先生方の半数以上が、病院もしくは自宅に全・半壊の被害を被られ、また大切な家族を失われたり大怪我をされた先生もおられました。
 このような状況の中、獣医師の先生方や、遠くの友人から無事を訪ねる電話を沢山頂き、暖かい励ましの言葉に大いに勇気づけられました。
 被災動物救護の事について、神戸市獣医師会の先生から連絡があったのは、地震からまだ三日目ぐらいのことだったと思います。
 先生方が、この活動に参加された事は、決して身びいきではなく、その被害の大きさを目の当たりにした一人の人間として賞賛に値する事だと思っています。
 4月以降は、活動への参加者も増え、各自が業務に慣れてきたおかげで、仕事もかなり楽になりました。5月にパドック式の施設に移ってからは、より効率的に業務が行えるようになったため、私の仕事も主にデータ処理だけとなり、シンポジウムや世界獣医学大会の資料作成時以外は、大体2〜3日に1度神戸動物救護センターに寄って資料を整理し、病院に持ち帰ってパソコンに入力するだけとなりました。
 今回の動物救護活動に際して、本当に多くの方々から助けられ、また教わる事も沢山有りました。
 松田さんをはじめ(社)日本動物福祉協会の方々、馬場先生、全国から駆けつけてきて下さったボランティアの方々、コンピューターを無償供与して頂いた企業担当者、義援金や義援物資を送って頂いた方、動物たちを引き取っていかれた里親さん達、そして膨大なデータを毎日遅くまで残って黙々と入力してくれた我が病院のスタッフ。
 愛知県で開業している友人は、病院に宛名書きした現金封筒を用意して義援金の寄付に協力してくれました。この中には一通毎にお金と一緒に激励の手紙が同封されていました。
 他にも、「何か手伝える事はないか?」との多くの好意に触れることができました。あまりに多すぎて、一人一人にあってお礼を言いたいのですがこの場を借りて感謝の意を表したいと思います。
 本当に有難うございました。
 最後に、行方不明になっていた実家の愛犬クッキーは、約1月後に無事我が家に戻ってきました。地震当日、実家から西へ2km程行った所で、こころある方に保護され大切に飼われていました。家が全壊した事よりもクッキーがいなくなった事を悲しんでいた母親が、地震後一番喜んだ出来事かもしれません。この12月には実家も再建できそうで、クッキー共々母親も無事に元の家に帰れそうです。
 当の本人?は何事も無かったかのような顔をして、のんびりと昼寝をしています。生来バカ陽気なバセットハウンドですから・・・・・・。
(社)神戸市獣医師会獣医師 山中 大介


家族の犠牲のもとに成り立った動物救護活動

 阪神大震災から早1年と10ヶ月が経ち、時の流れの早さを感じます。この震災で神戸を始め周辺地域は壊滅的被害を受けたわけですが私の住まいは幸いにも外壁の損害はあるものの、落下した食器や倒れた器具の破損程度の被害で済みました。ガスはプロパン、ボイラーは石油、トイレは浄化槽で水道も止まらず、電気も早いうちに復旧しましたので生活には困りませんでした。
 震災翌日、灘区の先生から食料等の依頼が入り、おにぎりや水等を借り物のホンダカブの荷台とリュックに入るだけ入れ、停滞して動かない自動車の脇を擦り抜け冬の六甲を越えました。六甲を越えて目に入った光景はテレビの映像をはるかに越える凄まじい有様でした。
 北区の近隣の先生方と連絡を取り合ううち、動物管理センターの一角に救護施設を作り動物の救護活動をしようという情報が入り、協力することになりました。まずは農業用のビニールハウスによる施設作りに始まり、夜中に搬入された大量の救援のフードの荷下ろしのことなどが思い出されます。そして動物の救護活動開始の情報を聞きつけたテレビ局の取材によりこの活動が日本全国に流れるに従い、全国からの救援の手がさらに多数差しのべられ、神戸動物救護センターの事務所の電話は途切れることなく鳴り続け、日本動物福祉協会・阪神支部の方と夜遅くまで電話対応に追われました。この頃になると参加いただいたボランティアの人も日増しに増え、ゆっくり休んでもらえるスペースもなくなり、参加期間をしばらく見合わせていただくような対応に迫られた時期もありました。動物の救護活動がこれ程までの大きな反響を呼ぶ事業になろうとは思いも寄らないことでした。
 私自身はこの緊迫した状況下において一人の人間としてまた一人の獣医師として今できることをやろうという単純な思いからの参加でした。負傷した動物に対する処置とその予後はある程度予想可能でしたが、いつの間にか全国的な支援を受けて大きく膨らんだこの救護活動については今日明日というような短期的なものでなく、長期的な「予後」が求められ始めてきました。全く経験したことのない活動でもあり、さらに混乱のうちに始まったこの活動が思いも寄らぬ急激な膨張の中でどのように有るべきなのか本部の方々は頭を痛め、本当に苦労された事と思います。私自身この活動中で一番辛かったことは、家族のただただ現実的な言葉と生活資金でした。参加当初から午前中だけ診療をし、午後は夜まで神戸動物救護センターに通う毎日で、しばらくすると当面は凌げると思っていたお金(わずかでしたが)はあっというまに底をついてしまいました。このような状況になると家族からも「ボランティアを止めてください」との言葉も出る始末。こんな時だからこそボランティアをしてるんだと説明しても現実しか見えずなかなか理解してくれなかった頃が本当に辛かった。中学の長女を日曜に2〜3回ボランティア参加させましたが、昨年の秋「被災動物と共に」と題した作文で北区から選ばれ、神戸市の「中学生の主張」で優秀賞を受賞しました。これで私の気持ちは子供にも十分伝わっていたのだなあと感じそれまでの辛さも忘れてしまいました。
 三田動物救護センターにも始めの間しばらく通っていましたが、両センターを通じ全国各地から本当に多くの人達が、交通の悪い中集まり(中には北海道から50ccのバイクで舞鶴までフェリーで渡りさらに数時間かけて参加した元気な娘さんもいました)動物の救護に携わっていただいたことや多額の義援金・救護物資を寄せていただけたことなど、動物に対する愛護精神が高まりつつ有ることを感じると同時にこれまでの雲仙や奥尻の災害を他人事のように思っていた自分が情け無く思えてきました。
 またその反面、動物愛護というものには多数の思いがあるようで、同じ目的を持つもの同志協力し合って最悪の事態を切り抜けなければならない時に、動物愛護を掲げる各種団体などによる活動の批判や中傷にはいささかうんざりしました。
 色々と考慮すべき点を残した活動であったとは思いますが、この活動を通じて神戸市獣医師会の先生方始め他府県の獣医師の先生方の連帯感や団結力が高まったこと、普段じっくり話すことのなかった日本動物福祉協会・阪神支部の方との動物愛護に関する実直な意見交換ができたこと、一般のボランティアの人達と動物の救護という純粋な気持ちを通してコミュニケーションが図れたことなど、私にとっては貴重な体験として心に残っています。
(社)神戸市獣医師会獣医師 八百 正明



大任を終えて

 救護活動は、ただただ混乱の中からの出発であった。突然に起きた大震災、そなえ等あるはずもなく「無」から始まり、自分達で切り抜けていかねばならなかった。その中で特に感じたことは、まず協力してくれるのは誰でもよかったし、物資、資金はいくらでも欲しかった。何せ予想が立たない為見当がつかなかった。それにして働いても働いてもやることは次から次へと沸いて出てきた。例えば「何と何がどれぐらい必要か」「ボランティアの予定は、いつ行ったらよいか」「動物は何頭いて何頭もらわれたか」、今では当たり前の様に思うが、それを整理整頓する時間や暇は全くなかった。動物、人の出入りは毎日数拾に上り、訪問者、マスコミ関係、迷子の問い合わせ、救護の依頼、入院の依頼、飼い主との連絡、日常雑貨の買い出し依頼、その他の連絡等てんてこまいだった。我々のやった事を記録に残すのは、数値として表すしかない。それは分かるが朝から晩9〜10時まで働いて、それからの整理は辛いものだった。馴れた人がいて、しかも数ヶ月単位で来てくれたらと何度思ったことか。また救援物資を避難所に運んだり、テントに何度運び直したか、手を真っ赤にして洗濯していたボランティアの事等思い出されます。そしてプレハブ舎に移ってからは、動物も人も一段落できた。はじめての夏の暑かった事、冷房やノミ、カ、暴走族に気を配った。2回目の冬は寒く積雪もあり、水道管やクーラーの室外機が氷つき、溶かすのに大変だった。自然というものを再認識した気がした。最も力を入れた事それは里親捜しだった。事あるごとに訴えたがやはりマスコミの力は絶大だった。そして最後の1頭が出てセンターが閉鎖された。なくなっていく姿を見ていると何とも言えない気持ちだった。あんなに多く居た人や動物の姿もないし、声も聞こえない。実に静かだった。ああこれで本当に終わったと思った。振り返ってみると、直接動物を飼育するだけでなく、間接的な支援も是非必要だったと思う。そして混乱の中で大なり小なり被災し、自ら救護活動に立ち上がった人々には、敬意と感謝の気持ちをもって言いたい「有難う」と。また全国から支援してくれた人々にも深く深く感謝します。我々が行った動物救護活動は、被災地の復興の助けになることを祈らずにはいられない。
(社)神戸市獣医師会 市田 成勝


(c) 1996兵庫県南部地震動物救援本部活動の記録編集委員会 (デジタル化:神戸大学附属図書館)
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