[震災写真集 : 長田区付近]
和田幹司・撮影
神戸 : 和田幹司, 1995. - 1冊(写真58枚). - 請求記号:震災-1-v1

写 真 目 次
[自宅]
[震災当日 自宅](3枚)
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95年1月17日 5時44分 地震の2分前、私も家内も寝室から幸いにも離れていた。祖母の重いタンスなどがおり重なって倒れてきていた。(17日の午後 707Siで撮影 カメラは動いた)
[柱の傾き](3枚)
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1階が南側に傾いた。10日間ほどのち、少し部屋をかたづけてみた(下の写真)。柱の傾きがよくわかる(2階に住んでいた両親も無事だったのは何よりだ)
[家の傾き](5枚)
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ヨーロッパより戻ってきた。1993年初めに合わせてサッシが入った。(公団が防音工事をしてくれた)外観はあまりキズがないが北側(下の写真)から見てみると随分と家が傾いている。("全壊"という判断がおりた)
[自宅前](1枚)
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30年前は私共の家は国道2号線の今の道路上にあった。50m道路のため、家を動かし、その後高速道路もできた。我が家の前の大西商会のビルの3階や橋ゲタが震度7を物語っている。

[須磨の弟宅へ(地震当日)]
[須磨へ](4枚)
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東京勤務の弟の家族の家が須磨にある。1月16日もこの空家を利用させてもらったが、17日のお昼頃気になったので自転車で東尻池より2号線添いに須磨の弟の家を見に行った。我家の東側の菅原地区に加え、西側も多くの火災がおきていた。
[大橋2丁目の火災](2枚)
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大橋2丁目にある消防局のほとんど隣の火災である。消防署の人も道ゆく人も何もできず、人々は自分のことで精一杯の17日だった。
[弟宅](4枚)
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前ページの写真のように須磨の弟の家はペチャンコだった。隣の井上さんの話では地震直後はしばらく持ちこたえていたとのことである。アルバムやノートブック、パソコンや多くの私物も下敷きとなった。月見山の辺りは昔ながらの通りだったのだが・・・東池尻の方へ戻る途中でも火災が多発していた。大正筋も中は火の海のようだった
[帰路](4枚)
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[大正筋商店街](2枚)
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[大正筋の火災](3枚)
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[湊川へ(地震翌日)]
[友人の工場](3枚)
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地震の翌日,我家の近辺を通り食糧の買い出しに出かけた。近くの店はすべてダメなので自転車で30分湊川にある市場まで出かけ、みかんやリンゴやクッキーなどを買い求めた。(左の写真は友人の俊二君の工場、1階がつぶれ2解が地面にある。作業所がこんなのに、俊ちゃんは17日早朝我家を見舞ってくれた)
[湊川へ](6枚)
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[長田区周辺(地震翌日)]
[長田区周辺](3枚)
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18日の長田区周辺である。たまたま家内が次男の卒業式出席のためフランスにゆく予定でiso感度800のフィルムがあった。大正筋商店街の写真は気の毒でたまらなかったが後日のため記録した。
[大正筋商店街](7枚)
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[スイスレスキュー隊](3枚)
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我家の隣の寺師クリニックのところにスイスのレスキュー隊がやってきた。ドイツ語圏の人でお礼を言い握手もした(たくさんの人が救い出された)。20日になっても緊急道路となった2号線はパトカーや救急車が何台も連なりゆきかい、TVや映画を見ている錯覚におちいるほどだった。
[家屋解体作業](2枚)
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2月に入り、家屋やガレキの解体作業がはじまった。私共の知っているお家であるが、倒壊した状態の写真であり2階が隣家にゆき、下のお年寄りが気の毒にも亡くなった。悲しい撤去作業である。
[避難後の自宅](3枚)
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郵便局の3階に避難して住んでいる我家は2号線からは隠れて見えない。淡路産の屋根がわらがしっかりしている。陽があたる休日、外からは何もなかったようである。「本当は何も起こらなかったかもしれない…。」

c1995- 和田幹司(写真、キャプション); c2000 神戸大学附属図書館(WWW版)