[写真あり 「要望書を提出する福永氏(被災者障害者センター)」省略]
先日12日、東京永田町の参議員議員会館において、被災地障害者センター(兵庫)、被災障害者支援実行委員会(東京)、兵庫県南部地震障害者救援本部(大阪)による厚生省との交渉が持たれた。神戸、西ノ宮の20数名をはじめ35名ほどの仲間が体力とお金と時間を費やして参加した。資料として掲載されている「要望書」に基づくもので、本来なら関係各省の出席が望まれるが、予算編成等の国会状況もあって、厚生省のみの出席となり、『交渉』というより被災地の厳しい状況・生の声を突きつける場となった。そして、政府・厚生省の型通りの答え・いつもの「行政対応」に新たなふんばりを決意させられた場ともなった。
簡単に参加者の自己紹介、経過説明、進め方等についての確認を行った後、仲介いただいた朝日参議院議員からのあいさつ、そして障害者問題を考える兵庫県連絡会議・事務局長の竹本さんの進行役で厚生省との交渉にはいった。厚生省側の参加は厚生課・精神保健課・児童家庭局・保護課からそれぞれ1名の4名。まず、竹本さんから要望書の主旨説明があり、それに対する厚生省側の答えは、何ともあいそのない空虚なものだった。
厚生省の答を要約すると、1.について・・兵庫県なり神戸市が出している「計画」やまちづくりを支援していきたい。(建設省の関係になるが)「災害救助研究会(兵庫県副知事・学識経験者等で構成)」で、大規模災害の救助の内容・方法、ボランティアとの連携のあり方、皆さんからの要望についてもそこで検討する。厚生省で『災害対策マニュアル』を作り、安否確認・支援を24時間以内に、1週間以内には福祉サービスの供給体制の準備を行うことを規定した。また、『災害時の障害者援護に関する検討委員会(被災自治体や障害種別の民間団体、社会福祉協議会等で構成)』を設置した。そこでの提言をマニュアル化して、各自治体を指導する。2について・・優先入居や復興住宅の整備。ホームヘルパーなど支障なく派遣されるよう指導する。優良な建築物に対して補助、公的融資を通じてバリアフリー化を積極的に行う。3について・・建設費用等によって在宅福祉が低下することのないよう指導していきたい。4について・・(自主的な地域拠点について・つまり私たち)重要性については認識しているが、国の補助あるいは援助の方法として、補助ができるかどうかについては問題がある。どういった方法であれば支援できるのか、については多くの検討の余地がある。
これに対して、被災地からは仮設住宅の問題を軸に切実な実情が突きつけられた。仮設はアクセスや環境が悪く真夏の暑さと真冬の寒さに耐え難いものであること。震災後、地価・家賃のすさまじい値上がりで、生活保護の家賃扶助では住む家は確保できず、作業所再建のメドすら立たない現実。一旦仮設や施設に行かざるを得なかった人達が帰ってくる地域自身が奪われていっている。「”今後どうしていくか”の前に、今をどうするのかに答えてほしい。施策ができるまでに一体どれだけの人が死に追いやられてしまうのか」と、いずれもこの冬、直面している厳しい状況への緊急対応を求める声ばかりだった。こうした生の声が、どれほど厚生省の役人の胸に響いただろう。どれほど「災害弱者に配慮した施策」に力量を注ぐのだろうか。竹本さんが言われていた「法が緊急対応という柔軟性そのものを、仕組みとして持っていない」との指摘にすごく納得させられた。そうだ!生死にかかわる緊急事態に緊急対応がとれない法の在り方、”援助・復興の施策”って何なんだ!。ともかく、政府・行政への更なる取り組み、私たち民間レベルの継続した支援活動の必要性を痛感するものだった。【報告=本田】
1995年12月12日 | ||||||||||||||||||||
内閣総理大臣 村山 富一 殿 | ||||||||||||||||||||
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災害に強く、人にやさしいまちづくりに視点をおいた 震災地復興計画に関する要望書 |
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1月17日に発生した兵庫県南部地震は、直接的に多くの人たちの命と地域生活を奪うと同時に、予期せぬ地震に対する都市の防災施策の弱さを露呈し、間接的にもその被害を広げる結果となりました。ライフライン、鉄道の復旧などとともに、マスコミの報道も激減し、たった1年も軽過せぬうちから、あの大地震が世間の人々の記憶から遠ざかりつつあるのではないかと懸念をされますが、今なお多くの苦労を強いられている被災地の中での実感は、震災復興が途についたかどうかというほんの序章でしかありません。 私達は、震災当事者である被災地の障害者関係団体及び、地震直後から全国の仲間を集め、被災地の救援・支援活動を続けてきた団体でありますが、この度は、この間の活動の中から出てきた課題の内、ぜひとも国の責任において早急に解決していただきたい事項について要望いたすものです。 今回の大地震は、地震直後の初動体制、今後の復興施策、そして平常より備えておかなければならない諸施策等において、教訓と呼ぶにはあまりに犠牲の多い課題提起を成しました。私たちは、犠牲になった命、奪い取られた人権を礎にし、また全国から寄せられた多くの暖かな支援に勇気づけられ、この課題に対し行政、市民が一体となってこれらの課題解決に向けた努力をすべきだと痛感しております。 とりわけ障害者・高齢者等、日頃より社会施策の谷間に残された人たちにとって、この震災はより大きく覆いかぶさり、その傷も癒えぬまま厳しい冬を迎えるわけですから、もうこれ以上新たな犠牲者を出してはならないという決意で、早急に取り組むべき課題を直視し、そして今後いかなる時もすべての人の人権を踏みにじらないまちづくりを、この被災地に確保してほしいと願って止みません。 今回以下に掲げる要望はそのような観点から、重要事項に的を絞り提出するもので、国においてもその趣旨をご理解いただき、施策実現に向けてのご尽力をよろしくお願いいたします。 1.災害対策基本法、および今後の防災計画について
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以上 |
わたしがみんなと知り合ったのは、阪神大震災の時に早川福祉会館に避難した時です。初めは集団生活にも慣れなかったので、とまどう事も多く感じました。でもだんだんみんなと打ちとけるようになり、今でもその時のボランティアさんとのつながりが何人かあります。震災は本当に大変だったけど、今思えば震災がなかったら、こうしたみなさん(ボランティアさん達)とも出会えなかったでしょう。そしてもう一度早川に来ていたボランティアさん達と会いたいと思い、仲間達に呼びかけて実行委員会を募って同窓会を開く事になりました。それは11月26日(日)に同窓会をやりました。その日は早川に来ていたたくさんのボランティアさんが集まりました。懐かしい顔ぶれがあり、みんな早川の人を思い出しているようです。同窓会の中では当時ボランティアをなさっていた桜井さんのコンサートも行なって、楽しい一日になりました。その時に来られなかった人から連絡があり、一度と言わずに二度も三度も同窓会を行なってほしいと言われました。機会があれば又、同窓会を開きたいと思っています。本当に懐かしい人達の顔を見れば元気にやっていることを感じます。今はまだまだ神戸は復旧ができない状況になっています。町に出るとそれがよく分かります。電動車イスで歩道も走れないような場所がたくさんあります。車道に思わず下りて車イスを走らすこともしばしばあります。なかなか町に出かけるのが難しく思います。テレビでは神戸が復旧だと良い所ばっかり言っているけれども本当は復旧は何年にもなるか分かりません。世間の人もだんだん震災の人を忘れていっていると思います。でもそれは忘れてはいけない事だと思います。もう二度とこういうことが起こらないことを祈ります。
鈴木由美
鈴木由美・介護者 白石容子
感想文を書いてほしいと頼まれて、はずかしながら筆をとっているのですが、まずなにより、楽しい一日をありがとうございました。この会の実行委員の皆様方や、桜井さん、そして小池さんと山崎君、そしてご尽力いただいた方々、お疲れ様でした。早川で知りあえた人達、ほんの短い間だったのに、また会いたい、そして会ったら昔からの親友のように笑いあえる人達にまた出会うことができてよかったです。早川に行ったことがキッカケで、ボランティアを始めました。私にとって、早川の人達がボランティアのイメージです。それはとても楽しく、気軽で、大変だけど、関わって行きたい、と思うものでした。(そして今も関わっています。)
そしてもう一つこの会で得た大切なこと。『震災はまだ、終わっていない。』神戸に戻った障害者の方々は、圧倒的に介護者が足りない。桜井さんのコンサート中に太田さんが、叫んでいたのに気付かれた方はいたでしょう。太田さんが言いたかったこと、「ここに集まってくれたみんなに、自分の状況を伝えて、あの、早川の時のように、関わって欲しい。」
私が今関わっている鈴木由美さんに関して、ここでちょっと宣伝を。鈴木さんは今度、近鉄今里(鶴橋の次の駅)で自立生活を始めます。関わり方、いろいろあります。介護に入ってくれる方、あるいは一緒にでもいいから泊まって料理や洗濯をしてくれる方、ビラを学校で配ってあげよう、という方、手紙や電話をしてみよう、という方、ただ単に、遊びにこよう、という方、なんでもいいです。関わってみてください。ボランティアを始めて、1年も経たない私にもわかっていることは、一つ。ボランティアは人との出会いであり、それは自分を変えるものです。あなたに会えることをお待ちしてまーす!
12月3日、「いい天気になったね、そんな寒くもないし」、門戸厄神さんに駐車場をお借りしての最後のイベント、やっぱ、日頃の行い良かったのかな。それより以前に寺の住職さんにも、派手にやってくれといわれたんだし。当日はきんとーん作業所をはじめ、すばる舎、新生会、すずかけ作業所といったいつもの面々の店が並ぶ。各団体のアピール、震災から取り組んできた思いを伝えてくれた。メインは、ソウルフラワーユニオンのコンサート。よかった〜。1月16日の夜、被災地障害者センター主催の1周忌のイベントにも来て下さるので、その時は皆さん、ぜひご参加を!他にもバンドいっぱい来てました。ユニークなバンドも来ていた。「ホンマ、ここに来る人、ヘンな人ばっかや」って言ってたの誰かな。
僕は毎回のイベントで焼き鳥屋の担当になってたので、今回もそう。だけど強力な助っ人が来てくれました。岡山の全寮制小学校6年生の女の子3人、売り子になってくれて、お客に大サービス。後、解放センタースタッフのO君、いつも口数多い野郎だなあと思いつつ、やることはちゃっかりやってくれてた。味はいつものもも肉、ぼちぼち会会長椿寿さんの秘伝の味つけ、で大成功。ただ、初の試みのトリの軟骨の部分、味が辛くて失敗だったけど、全部なくなった。後、餅つき。背広姿で勢いよく餅をつく内障連の新明さんと椿野大先生との絶妙のコンビネーション。誰彼と言わず、みんなが餅をついた。つきたてのお餅、おいしかった。
今回はアンケートも青空市に来て下さる人にお願いしました。結構おもしろい答もあって、そんな意見は『らくだはらくか?通信』5号に載せますので、お楽しみに!
あれ、誰か足りないな、主催者代表の福永さん。終わった後で帰ってくる。(箕面で講演会)それでも残っていた人達は福永さんを囲んでいた。
駐車場近くのおばちゃんもいつものように来てくれてた。僕がテントに行く時も声をかけてくれたり、だけど、そこの場所を離れないといけない、残念です。
[写真あり 省略]
[写真あり 省略]
[写真あり 省略]
『救援本部通信No.12』でお願いした署名の第1次集約を報告します。
12月10日の時点で22428名でした。兵庫・草の根ろうあ者こんだん会が呼びかけた神戸、三宮、京橋の3回の街頭署名では計3700名の署名を集めることができました。1月には京都市・名古屋市で街頭署名活動を行う予定です。ぜひ近くの方、応援に駆けつけてください。冷たい街角での署名集めは、街頭カンパと同じくとても厳しい活動です。けれども、いつどこで何が起こっても不思議ではないニッポンだから、一刻も早くNHKニュースの字幕・通訳設置を実現したいのです。阪神大震災のような人災を2度と起こしてはなりません。署名活動はまだ続けます。どうかご協力ください。
問い合わせ | 大阪・事務局 尼崎(稲葉) |
06−969−2544(FAX) 06−429−9392(FAX) |
たった二人の生活だったのに、母ちゃんが入院した、残った知的障害者のようなTさんはどうなる、ということで三カ月我々で介護を探しデイケアで寝泊まりする。知的障害者のS君がまた発作を起こして家を飛び出し行方不明だ、皆で心当たりの場所を探す。皆介護がいない、大変だね自分で探して、そういうわけにはいかない時もある。ごはんだトイレだおフロだ。訳のわからん電話はかかってくる。自分の話をずっとするやつ、あんた人の話も聞きなよ。補助金が足りん、よし交渉にいこう。いけばいったで何を言えばいいのか、役人は一体何を言ってるのか。
そのようなさわがしく、まとまりのない日々を送っていた六甲デイケアセンターにも、神戸市にあるという関係上平等に大震災は襲ってきた。よく遊びにきてくれた、知的障害者のM君が亡くなったことを悼む間もなく、その日から、デイケアの無計画ながんばる心はつぶれへんプロジェクトははじまった。
当初一緒に避難していたS氏は、寝がえり介護が必要で、それがないと痛くて眠れない。毎夜、寝がえり要請と痛みの為に出す声がうるさくて、他の皆が眠れない。ちょうどその時、全障連が大阪に避難場所を用意しているとの情報が入り、彼は気をつかって場所もわからんのにすぐ大阪へ車ででかけた。それを皮切りに、デイケアの障害者はほぼ大半が大阪の早川福祉会館へ避難。職員と数人の関係者はそのまま残り、おにぎりと缶詰を食いながら在宅(在避難所?)訪問活動をつづけた。施設へ強制収用されるとのうわさがあり、小学校で避難生活をしていた親子を無理矢理大阪へ連れていったりもした。残って避難をする人たちの、地域への執着は痛いほど分かったが、会いにいくにも交通渋滞と人の波をかきわけていかなければならない、その支援活動は正直つかれる。加えて我々自身の避難生活も維持していかなければならない。うまいものは食えんわフロは入れんわ支援物資があふれかえって整理が追いつかんわ暗いわ寒いわ、しかしぐちを言えばその一言で集団生活が崩壊するような緊張の中で皆じっと耐えていた。I氏がいつも一番いい布団を独占したが、皆なにも言わなかった。「がんばる心は、つぶれそう…」とポツンとつぶやいたT氏の一言は、今も印象に残っている。
そんな生活も、電気が戻り水道が戻りしてライフライン復旧に伴い、4月にはほぼ終わった。大阪避難者も帰ってきた。
まだ避難所生活を続けるメンバーもおり、住宅の問題も深刻だったが、とりわけ皆の頭を悩ますのは震災前も今もかわらず介護者の問題。被災者支援にきてくれた、前代未聞の数のボランティアには、皆お世話になったというかふりまわされたというか、とにかく色んな経験をさせて頂いた。そのボランティアも3月4月で多くが帰り、どうなるのだろうと思っていたら、被災地障害者センターなるボランティア組織ができた。
震災前の暮らしがウソのような、介護者がいて当たり前の左うちわ生活を送っていた皆も、次第に地域での地に足のついた生活を考えはじめた。被災地センターは来年4月から縮小されるという。「だからもう、被災地センターには介護をたのまずに、自分で探していこうと思うねん」と宣言したNさんは、時々どうしても介護者がみつからずに又被災地センターに頼んでしまって後でおちこんだりしていた。そうした中で、すこしずつ、地域での関係もできてきている。自立を真剣に考えはじめるメンバーもいる。我々には、ボランティアを大勢集めてたきだしをして、地域への浸透をもくろむような如才なさも、復興に関して駅のエレベーターについて提言するような運動に対するまめさもないが、人との関わりを大事にし、かつ自分にできることをやる、他人と自己に対する誠実さを、一層強く身につけた。
「でも、こんど地震が起こったら」と同僚のT氏は冗談とも本気ともつかぬ口調で言う。「さっさと実家に帰ってしまおうと思うんや。」
[写真あり(と言いつつも日々の活動に励むT氏であった。誰かもっとフォローを...。冷や汗の編集者・注) デイケアにて 省略]
私は淡路真弓という脳性マヒで42歳の女性です。
私は幼い頃から自分が障害者であることを卑下して後ろむきに生きてきました。もちろん学校は養護学校へ12年間通い、そのあと施設で5年間過ごしました。何も起こらなければ、そのまま施設にいたのだろうと思います。ある事があって施設にいるのが嫌になりました。そのある事というのは、急性盲腸炎にかかった時に、2日間も放置され、もう少しで命を奪われるところでした。その事があり、私は施設を出ました。そして、障害者運動に興味があり、「青い芝の会」という障害者団体に入りました。その青い芝の会に入って私の後ろ向きの行き方が、変わりました。
青い芝の会というのは、どんな障害者であろうと地域の中で健全者と共に生きていく事が当たり前で、それが出来ていない社会がおかしいと健全者の意識を変えるのが目的の団体でした。
今では、そういう事は、日共でも中身は違うけど、そんなような事を言う時代になりました。でも20年前は、そういう事を言う団体は過激な扱いでした。そんな中で私は、13年前に一人暮らしをしました。その頃、介護を入れて自立生活をしている女性の自立者が青い芝の関係で兵庫にいなかった為、私が初めてのケースでした。
その頃は、健全者の意識も今と比べれば高かったと思います。介護のいない時がありませんでした。皆、私が介護がいなかったら生きられないと思い、ちょっと無理してでも行こうと思っていたようです。介護だけではなく、私の生活を皆で作ってゆこうとする意識もありました。そんな人達でも、やはり女性なので、家族との関係が大きく、泊まり介護には、入れないという人もいました。
あれから13年経ち、介護も増えたり、減ったりしながら生きてきました。今年の一月十七日、私は旅行帰りで疲れて、ぐっすり眠っていました。一瞬、何が起きたのかわかりませんでした。地震後、家の向かいの中学へ避難しました。初めは、食べ物を分け合いました。しかし、そのうち、障害者だけが食べ物をもらえるようになりました。そして、周りの人の、ねたみ、差別が始まりました。それで、いたたまれなくなり、皆で私の家に帰りました。一方、解放センターの他の仲間が避難した場所で、救援活動でボランティア集めのビラをまいたところ、全国から六百人を越える人が、その場所に来ました。仲間がその対応に苦心して、私達に応援を求めるのですが、その頃私の家に十人位が団体生活をしていて、その生活を保つのに精一杯でした。
今、仲間の一人の女性の障害者が、親が亡くなり自立をしようとしています。その人は、一日24時間介護がいる人です。今ならボランティアの対応もなんとか出来る状態なのですが、もう世の中は、地震は終わったかのように、ボランティアはほとんど来ません。人が本当に必要なのは、むしろこれからなのです。
少し皆が、仮設に入って落ち着いたかと、世間の人は思うでしょうが、老人や障害者にとって、仮設での生活は次の生活のメドも立たない泥沼の場所でしかありません。
私の家は幸い、古い市営住宅なのですが、災害を乗り越えて、住めます。これから寒い冬が来るのに、仮設で生活をしている仲間の事が気がかりです。
障害者の生活は、今だからこそ支援を待っています。私はとにかく仲間と早く春を迎えられるように、がんばりたいと思っています。皆さんも力を貸してください。よろしくお願いします。
[写真あり “らくだはらくか”のティピの中で 省略]
震災から10か月、まもなく一年になる。街は震災の悲惨さを忘れるかのように淡々と工事現場の風景が広がっている。現在残っているボランティアグループも自分たちの活動の方針を再検討しながら、これから先の活動を縮小する方向で進んでいるような気がする。
「期限限定か長期支援か」巷では既に地震は終わったものとしている情報ばかりが耳に入ってくるのであるが、はたしてそれでいいのだろうか。確かに街の至る所には財力のある人から順番にポツリポツリと新しい家が建ちだしている。仮設住宅を倉庫代わりにしている人もいる。一見すると自立へ向けて確実に動いているように見受けられる。しかし一方でとり残されていく人が存在するのも確か。経済的に自立のできる人から順に仮設住宅を去っていくのであれば、とり残されるのは高齢者と障害者、仮設は結局歯抜けの状態でゴーストタウン化する。孤独死なんて今以上に増え、問題になるのは瞭然だ。
仮設住宅にさえ入居できなかった人は今どうしているのだろう。例えば自分の子供が仮設にいると夜騒いだりして近隣に対して迷惑がかかるから子供を施設へ入れるしかない、自分自身が新しい地域に馴染むことができそうにない、こんな場合自ら望んで仮設住宅へ入居するであろうか。現に常時介助が必要な障害者が単身で入居しているケースは耳にしたこともないし、仮設に馴染めず(住ましてもらえず)に施設へ入所せざるをえなかった人の話はこれでもかというぐらいに聞くことがある。そしていつ出られるかも分からない・・
仮設住宅の問題点は数多くあるのだけれども、結局最大の問題はそこに入れなかった人や出ていかなければならなかった人が存在することではないだろうか。誰かを排除してそびえる仮設住宅は、辛うじて排除されなかった(しかし今にも排除されそうな)人たちの暮らしをも脅かしている。まだ施設にはたくさんの人が仕方なく生活を送っている、その人たちがもう一度地域へ戻り安心して生活を送っていくだけの条件はまったく揃っていないし目処も立たない。ボクたちはまず施設に追いやられた人たちや仮設住宅でしんどい思いをしている人たちが地域生活を取り戻す具体的な策を練り実行しよう。そこがスタートライン。今、何をすべきなのか、それは「もうこのくらいでいいやろ」とある種心地よく流れている日常に中で、何かに錯覚しあきらめている自分自身の活動の中身を問うことから始めよう。だって長期戦だもの。
もう一カ月も前の話になるのだが、神戸市が11月7日に震災によるリストラ案を明らかにした。震災によって財政が赤字に転落してしまい率直に「お金がない」ということらしいのだが、一気に6局、100ポストを統廃合などで削減するそのやり方に驚いている。
福祉がをんなときに真っ先に切られてしまうのは過去を見ても明白である。これだけではなく、これをきっかけに大幅な福祉の方向転換も充分考えられるのではないだろうか。
今までいわゆる「福祉」はおこぼれに過ぎなかった。金があるときに限ってのみ少しだけばらまくように「福祉福祉」と連呼しながら、実際にはあまり役に立たないようなことをやって満足している。いざ景気の雲行きが怪しくなるとまるで手のひらを返したように「お金が無いので福祉は…」と渋い顔になってしまう。そんな行政がそこにはある。
今回震災で明らかになった福祉の遅れに対して「せっかく分かったのだから今度はこちら側から新しい街、福祉を積極的につくっていかなくては」という当事者の要求に対して、やはり「震災で財政的に苦しくて」という答えしか帰ってこないのだ。しかし一方で神戸市はまだ空港建設など天文学的数字の金がかかる事業は強引に推し進めようとしている。要するに行政の言う「お金がない」というのは正確に言うと「福祉に使うお金がない」ということではないのかと疑り深いボクはすぐに勘繰ってしまう。
結局「何に重きを置くか」が重要。地震でこんなにも社会的弱者が阻害され、その原因の大部分が今までの福祉の不備であったことが分かったはずなのに、それでもなお「福祉は後回し」でしかなかったのだ。全ての人が安心して阻害を受けることなく生活することができる街を創作するための福祉以外に、重きを置くものが存在するのであろうか。
道はそれるが「神戸市は今までも乱開発などを強引に推し進めてきた。『株式会社神戸』とも表現されるような街だった。今回のリストラ劇のその「つけ」を地震のどさくさに紛れてウヤムヤにしようとしているようにも見えないわけではない」と聞く。
こんなことではいつまで経っても何も変わらない。福祉の切り捨ては絶対に許すわけにはいかないし、気軽に「ポイッ」と捨ててしまえるような福祉では全く意味を持たない。
『救援本部通信No.13』の「事務所の窓から」で掲載した山口県岩国市の大中さんからたよりが届きました。
私達のサークル 銀の夢は、震災以降出来た、出来たてホヤホヤのボランティアサークルで、誰もが心豊かに暮らせる、成熟した社会をめざそうと集まった仲間達です。
まだまだ会員は少ないけれど、心意気だけは熱く燃えています。
仲間との話し合いで、決して人事ではないと、とにかく10年は被災障害者の応援を続けよう、ボランティアの派遣とまでは行かなくても、何か、自分達で出来る事がある筈だと、カンパ金集めを始めました。
街頭募金やチャリティー ボーリング大会、ガッツや神戸のTシャツの販売を兼ねて講演会を催したりして来ました。
そして、私達の今年1年の集大成とも言うべき、チャリティコンサートを実現させる事が出来たのです。何より、イーヤンウさんが私の最大の理解者であった事、そして、サークル以外の沢山の仲間が賛同して呉れた事が無上の喜びでした。
当日は、前日の豪雨も嘘の様に晴れ渡り、心配していた天気も上々、150人も入れば手一杯の小っちゃなホールに、大勢の温かい心が満ち溢れ、大盛況の内に開演を迎えたのです。
高校生を中心とした、アマチュアロックバンドの子供連も、練習時よりも素晴らしい出来で、光る汗もとても素敵でした。
私こと、プリティー大中率いる楽市楽座(フォークバンド)も最高の出来で、会場全体、大爆笑でした。決してコミックバンドでは無いのだが、笑われることに快感を覚えてしまう自分が恐い??
トリは、何んと言っても、イーヤンウさんの迫力ある太い声と優しさ溢れる詩に、皆んな泥酔状態でした。
私が一番、イーさんの歌を聞きたくて企画したコンサートでしたが、皆んなにも、何かが伝えられたと思うし、何より皆んなの表情が、素刻、優しくなってた…
本当の豊かさって何だろう?
自由に生きるって何だろう?
をテーマに開催したコンサートですが、出演して下さった人、それぞれ心の悩みや何んらかの問題を抱えている人ばかりで、いつもいつも、弱い者たちが取り残され置き去りにされ、そして不条理な生活を強いられてしまう!!
そんな事を改めて感じながら、本当に悲しくなってしまう。
私自身、いろんな事を学び感じた一日だった気がします。
収益の一部とカンパ金を持って、心を添えて、是非、救援本部に伺いたいと思います。
その時は、よろしく御願いします。
[写真あり 省略]
銀の夢代表 大中浩一とパートナードッグ ヤルタ君でした。(文章が滅茶苦茶でゴメンちゃい)
11月末日
わたしにもできる被災障害者の応援
WAKKUNこと湧嶋克巳さんの力強い絵に元気が出てくる、被災地応援グッズのTシャツやトレーナー、おかげさまで大変多くの方にご利用いただいています。これからも知人に紹介・イベントで販売など、幅広く末長くお使いいただけたらうれしいです。問い合わせ・注文は078−531−9511 FAX 078−579−0213 被災地障害者センターまで。5000円以上のご注文なら送料はいただきません。(5000円未満は送料500円)
○Tシャツ
従来の白地の絵入りの他に“LET’S CHANGE FROM TODAY”と背中に書かれたカッコイイのが出てます(黒・白・淡グレー→2000円)
○トレーナー
従来の多色刷りの他に茶一色刷りが出ました(淡グレー、大人用→2500円)
○ポロシャツ
左胸に一色の絵入り(白・黒・黄・紺→2000円)
○ウインドブレーカー
(7色→2500円)
○バンダナ
(7色→500円)
★来年には新製品としてパーカー、帽子、長袖Tシャツ、今のより厚いトレーナー、エコバッグ、グランドジャンバーが登場する予定です。乞うご期待!(写真はイベント会場でグッズを売る被災地障害者センターの稲本さんと自称“『拓人』の住人”K氏)
[写真あり 省略]
今年の冬の寒さは厳しい。ことに仮設住宅の寒さは想象を絶する。究極のローコストだから断熱材がなく、夜、床下からはいのぼる冷気はすさまじい。エアコンは備え付けられているが電気代が恐ろしくて使えないという。被災者に暖房費を心配させるなんて、なんと貧しい経済大国なんだ!
先日西宮の自立障害者が市長に住宅保障を求めて要望書を提出した。少し紹介したい。
「私は身体障害者手帳に記載される障害の程度が1級である脳性マヒ障害者です。震災が起こる以前までは民間賃貸住宅の2Kの部屋を借りて住んでいたのですが、その住宅が全壊したため、この5月から一般仮設住宅に住み、現在に至っています。しかし現在住んでいる仮設住宅は、風呂場、トイレに最低限の広さが確保されていないことや大きな段差、入り口の狭さのため使用が非常に困難な状態です。このような無理な状態のもとでトイレや入浴を行っていたために足を痛め、その痛みのためにアテトーデ(筋肉の緊張)が強くなりました。また壁が断熱性に乏しいので、体温調節のできない体にとって暑さ寒さが大変な負担となります。以上のような悪条件が続いたためにストレスがたまり、入退院を繰り返して、障害者がこのような仮設住宅で長期間生活していくことは非常に難しいことであると実感いたしました。・・」以下、高齢者・障害者がこの冬を仮設で過ごすのは無理だとして民間住宅借り上げなど早急な対策を求めている。これについては次号で詳しくお知らせしますが、これを読むと住宅問題は人権問題ということがよくわかる。
9月に来日し避難所や仮設住宅を訪問した国連最大のNGO(非政府組織)国際ハビタット連合調査団は「不便な仮設住宅の長期化は人間としての権利の侵害だ」と指摘したという。
障害者にとっては年末年始の介護者探しも深刻だ。この冬を乗り切れるよう精一杯応援したい。
<事務所のねずみより>
[ちらしあり 地震から1年 メモリアル・イベント「いやしと点検」大いどう 省略]
寒いけど、まだまだ続けますよ。あったかいカンパありがとう!!
12月10日(11:00〜18:00)天王寺
■参加者/枚方・障害者労働センター、マッサクぐるーぷ、中部障害者解放センター、ひたむきの会の家、バオバブの家、東部障害者労働センター、作業所RUNRUN、つばさ、応援センター、アド企画、被災地障害者緊急避難所「拓人」の住人、共同連本部、大阪教組三島ブロック…延べな、なんと60人!
◎“人数が足りない”という記事を見て、大阪教組三島ブロックの方々が応援に駆けつけてくださいました。こころより感謝します。
■募金総額・・・・・・・・¥398,173−
■募金累計額・・・¥5,687,304−
★地下街だからと思っていたけど寒かった!(でも被災地はもっと..)
★...ので少ないかな?と思ったら40万近く。参加してくれた若い人の元気な声に市民の方々も応えてくださったのですね。
★1996年も応援よろしくお願いします!
1月14日(日) |
シンポジウムの翌日 立春 春とおからじ! 耳の日、ひなまつり |
四月から九か月、救援本部事務所で主に通信をつくる作業をしてきました。読者のみなさんほか多くの方々に支えられ、すてきな出会いが励みになりました。震災はちっとも終わっていませんが、わたしはひとまず郷里に戻って、自分は何ができるのか、探ってみたいと思います。震災は人災です。ひとりひとりの無関心が暴力になる。「忘れないで」とは絶対言いたくなった。でも「忘れないよ」と被災地に向かって呼びかけ続けていきたいと思います。多謝。お世話になりました。
[写真あり 省略]
[写真あり 秋は各地のイベントに出没してアピールしました 省略]
■あたたかい心をありがとう。来年も応援してくださいね。
寒波を吹きとばすカンパのメッセージ、ご紹介します。
★支出について
人件費…介助派遣・情報発信・物販・企画etc再生めざして常時17名が有償で活動中。(兵庫14名・大阪3名)
救援金…義援金11グループに計714万円避難生活経費・拠点確保等
お見舞金…42団体分、1260万円
救援物資…プレハブ3件設置と移転内装設備費・車3台・バイク5台・印刷機・ワープロなど
電話料…被災地に携帯電話5台と毎月の通話料金など
★収入について
街頭カンパは救援本部主催以外の街頭カンパも含まれています。雑収入は立替金返金などです。通信購読カンパ(年間千円)は個人・団体・企業のどれかに含めています。多数お申込みありがとうございます。
[ちらしあり シンポジウム障害者のくらしの再生は見えてきたか? 省略]