神戸大学附属図書館報 Vol.10 No.4(2001.1)

図書館とわたし ―ヴィゴツキーとの出会い、中断そして再会―

土 井 捷 三

 1988年8月27日、日ソ教育学シンポジウム第2回大会でモスクワを訪ねていたわたしはダヴィドフと、彼の実験学校であるモスクワ第91番小学校の校長室で佐賀大学の園田貴章氏と一緒に会っていた。丁度学位論文作成中だったので、その第1部と第2部を結びつけるべく彼が展開しはじめていた日本では入手できない最新の論文集を寄贈してもらうことであった。用件が終わった後、園田氏は専らヴィゴツキーの再復活について彼と話し始めていた。その頃、これらの情報から遠ざかっていたのでわたしは話を聞くことに専念していた。ダヴィドフはヤロシェフスキーが英語版の『ヴィゴツキー伝』を出版するとか(1989)、ヴィゴツキー著作集全 6巻の英訳が出版されるとか(1987〜1998)、ヴィゴツキーになると途端に熱弁をふるわれていたのが強く印象に残った。自分のことはさておき、彼のことになるとどうして一生懸命になったのか疑問に残っていたが、そのままになって日々は過ぎた。
 ヴィゴツキーとの最初の出会いは前任校での学生とのゼミからで、20数年前になる。ヴィゴツキー復活の最初の選集であった原書を手に入れたく思っていた矢先、たまたま東大の教育学部図書室で見つけ、借り出すことができた。同図書室では部外者にも貸し出しのサービスをしていて有難かった。お陰で、訳語と原語を対応させながら、読むことができた。訳書には校正ミスらしい部分も見られたのである。
 神戸大学へ移ってからはヴィゴツキーから遠ざかっていた。そしてソ連の崩壊に直面した。1988年訪ソの際レーニン図書館は立派な様相を保っていた。日本のロシア語の入っていそうな大学の図書館を廻ってはみたものの見出だせなかった図書について、この図書館に期待した。図書館へ行くという方に付いて面倒な手続きをしてではあったが入館できた。カードを開いてすべての本を探しあてた。さすがソ連最大の図書館だと感心したものである。帰国後、図書掛長の尽力でそれらを同図書館から借り出すことができ、コピーができて大いに助かった。ソ連が崩壊し、今はとても無理な話で、ラッキーだったと思う。
 ヴィゴツキーとの再会はソ連の崩壊と関係している。ソ連の崩壊の前後からヴィゴツキーは全世界に広がった。彼の未発表の原稿が一斉に出版されるようになったのである。彼の書物は1935年から1956年までスターリン主義者たちによって封印された状態だった。しかし、それ以降も似たような状態がつづいていた。弱冠38才で夭逝した学者が、心理学・教育学・障害学・文芸学等に関する著書や論文200点以上(公表されたもの180点・未公表45点)を残していることに世界は驚嘆させられた。再会を行ったわたしは1999年仲間たちと『ヴィゴツキー学』を発行することにした。
 インターネットで文献を検索するようになって、ヴィゴツキーを検索した。すると『ヴィゴツキー学』がトップに出現した。そこでハッと気づいた。図書館は書物を保存するところではあるが、情報を発信するところでもあると。それを有効に活用すれば『ヴィゴツギー学』は発信しつづけられる。このようにして図書館はわれわれにとって情報発信の重要な役割を果たしているのである。ヴィゴツキーの未発表の原稿を世に出すことに精力を払ったダヴィドフはもうこの世にいない。1998年彼は発達的教授協会の活動でノヴォシビルスクの北西のコガリム市に赴いて帰らぬ人になったからである。1988年に時間が戻せたらと機会を逸したことを残念に思うこの頃である。

(どい しょうぞう  副館長 人間系担当)