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神戸大学附属図書館報

知的生活の母港としての図書館−思索と行動の狭間で−

安田 丑作     

 長い夏期休暇が終わり後期の授業がはじまりました。学生諸君にとって、この夏休みはどのようなものだったでしょうか。日頃のキャンパスでの生活を離れてさまざまな体験をし、楽しんだことでしょう。ちょうど夏休み前の本誌には、「夏休みに読書をー教官が推薦する図書―」が掲載されていますが、これらを含めてどれだけの本が読まれたのでしょうか。
 1960年代ぐらいまでは、多くの大学生は夏休みともなると、図書館や友人から大量の本を借り出していました。もっとも、それらの本がすべて読まれることは少なく、夏休みの終わる頃には、その予定の半分にも満たない結果に反省することになったものです。しかし、当時の大学生にとって読書は日常の当たり前のことであり、そのことが大学生生活をおくる自らの身の証とも考えていたようにも思われます。
 こうしたそれまでの日本のエリート学生(その後の高度成長期のなかで、高校生の大学進学率が飛躍的に上昇して今ではもう死語に近い言葉です)のもつ精神的脆弱さを見事に看破し扇動することになったのが、『何でも見てやろう』(小田実、1961年)や『書を捨てよ、町へ出よう』(寺山修司、1967年)などの書でした。もちろん、彼らの作品にはそれぞれの文学的主張がありますが、何よりもそのタイトルのもつインパクトは大きいものでした。ともすれば、大学キャンパスのなかにあって授業と教養主義的読書による知的生活をおくる大学生にとって、現実に目を向け、体験のなかから自らの生きる価値をかちとれとのメッセージは新鮮でありかつ魅力的でした。
 しかし、彼らが投げかけた主張は、あまりに表層的にしか理解されず、皮肉にも、「新聞からテレビへ」に代表される情報メデイアの変革の波のなかで、現実には大学生を含めて人々の活字離れ、読書離れを一層後押しする結果となってしまったようです。
 近年の電子情報化の流れのなかで、情報へのアクセス手段がますます多様化してきている現在、単なる情報入手の手段としてはすでに読書はほとんど意味をもたなくなってきているようにさえ思われます。ただ、60年代に前衛作家たちがその大切さを問うた実体験からも遠ざかりつつある現実、とりわけインターネットなどを利用した情報だけで理解したつもりになり、そのあげくその情報の切り張りをあたかも自分の考えのようにしてレポートを作成するなど、をどう考えればいいのでしようか。
 たとえば、私の専門とする建築や都市の空間デザインでは、写真や映像の力を借りることももちろん重要ですが、何よりも現場(フィールド)での空間体験が欠かせません。そして、そこでの実体験を先達たちの論考と重ねつつ思索することが、知的生活の醍醐味なのです。体験と思索との狭間を行きつ戻りつするのが、読書のもつ大きな魅力の一つなのです。
 ところで、次の写真は昨年の夏、トルコへの調査旅行の折に訪れた古代ギリシャ中頃ローマ時代の植民都市エフェスの図書館の遺跡です。エフェスは、かってエーゲ海に面して栄えた港町ですが、この堂々とした正面をもつ図書館は大通りの交差するいわば繁華街(遊興の場)に位置していて、図書館がこの都市のシンボルとなっていたことが一目されます。古代ギリシャが、学術と芸術を重んじたことはあまりに有名ですが、同時に、図書館が都市空間のなかにあって隔離されるのではなく、いわば都市の「遊学空間」、「遊芸空間」を構成していたことにわが意を得た思いでした。
 ともあれ、神戸大学の図書館が、キャンパスのなかにあって学生や教官が集まり、それぞれの体験(航海)を読書という対話を通じて思索し自らを高める、いわば知的生活の母港となることを期待したいものです。
(やすだ ちゅうさく 副館長・自然科学系担当)


古代ギリシャ中頃ローマの植民都市エフェスの図書館