神戸大学附属図書館報 Vol.5 No.3(1995.10)

一冊の英語教科書

青木庸效

 教科書を教えるのではなく、教科書で教え、教科書で学べとよく言われる。要するに教科書はそれ自体が目標ではなく学習のための大切な道具にすぎないということであろう。

 この道具は、しかし、年令の進行と共に忘れられる運命にあり、転居の度に失われ、偶然読んだ文庫本の幾冊かが残ることはあっても、義務数育の教科書が揃って保存されることは稀れであろう。

 いま私は文部省著作『高等科英語』を見ている。戦後の版は二分冊から成っており、第一分冊は昭和21年2月20日の翻刻発行で定価90銭、A判全紙を4回折りたたんでA5判32ページとするように配布された。第二分冊も同様で、昭和21年8月30日の発行で50銭の定価がついている。これらは国民学校高等科で昭和21年度に使用された英語教科書であり、翌年には文部省著作 Let's Learn English 三巻が揃い、新制中学校発足の後は、民間の出版社から検定教科書が出せるようになり、昭和24年新刊の Jack and Betty を始めとして、現在も多種の教科書が出版されている。

 敗戦翌年の新学期に学制改革は間に合わなかった。昭和22年度になって旧制中学校や高等女学校は生徒募集を中止し、代って新制度の中学校が発足し、翌23年度に新制高等学校、続いて新制大学の学生募集が24年の春に始まって現在の学校制度が完成する。『高等科英語』はこの改変期に戦争末期の同名の教科書を一部修正してわずか一年間だけ存在した教科書である。戦中のものは同じく高等科 1〜2年生用のもので全一巻、昭和19年9月16日文部省検定済、10月20日翻刻発行で総60ページ、定価23銭で、これは昭和16年3月1日の国民学校令の高等科「実業科」の「必要ニ応ジテ簡易ナル外国語ヲ課スコトヲ得」に対応するためのものであった。アルファベットの活字体と筆記体、発音のドリルのあと、最初の課は
  This is a map.
で始まる。挿絵には大東亜共栄圏地図が使われ、国民服の教師がこれを指しているが、戦後の修正版ではこの絵は背広姿の教師が世界地図を指しているものに変えられている。登場人物がすべて日本人であることに両者の違いはない。

 本文は全19課で構成され、"Snow in January.… Cold days in December." と月の名を扱って終っている。あとの附録に筆記体のサンプル、基数と序数、句読点、発音記号、ローマ字表、単語集と本文への索引などがついており、更に学習を広げうる意図を示している。

 しかし、英米との戦中に昭和19年版の『高等科英語』が、またその戦後の修正阪が、どのように教えられ、何人ぐらいの生徒がその授業を受けたかは想像の域を出ない。この時期の生徒の書込みに often(オフテン)、sometimes(ソメチメス)などとあるのを見ると、ローマ字指導にこの教科書を使ったのかもしれない。英語の授業はやはり新制中字校発足以来の進展であろう。その後も中学校と高校の外国語は選択教科のままであるが、実質的にほぼ全生徒が英語を学んでいるのが現在の姿である。
 偶然眺める一冊の教科書は私にしばしの楽しい時間を与えてくれた。図書の保存のおかげである。

(あおき のぶかず 副館長 国際・教養系図書室担当)