神戸大学附属図書館報 Vol.6 No.4(1997.1)

情報の公開と保護

住野 公昭


 情報といってもその受け取り方は、各人が関わる分野によって、小は遺伝情報から大は宇宙情報までまちまちである。医学をはじめとする先端研究では、未開地への一番乗りや未到峰の初登頂にも似て(今や地球上にはないが)、新発見のためには自身の研究の進展を隠し他の研究者の行き先を探ろうとする、一種の情報合戦が繰り広げられているが、日本人の参加者は多くない。ここに情報の持つ一特性をみることができる。人の情報は知りたいが、自分の情報は(最大の効果が発揮するまで)知らせたくないという、それである。つい最近まで情報とはいわなかった日本人は、徳川250年の情報鎖国から目が醒めて120年、未だ情報のもつ価値をそれほど評価しない特異な民族だそうである。

 情報のいまひとつの特性は、もっていても、それを隠す意図があろうがなかろうが、公開されないかぎり何の価値もないことである。迷宮入り犯罪や表にも出なかった事件では、一部の被害情報はあっても最終情報はいずこかの墓場に埋もれてしまっている。また、他者に公開され明らかになった情報は、その瞬間から事実とともに過去のものとなってしまう。たとえ事実が真実でなく次の憶測を喚ぼうが、情報がひとり歩きして過去に埋もれる。昨日の新聞と明日の新聞(あればのことであるが)の価値とでは比べようがない。

 最近になって、自治体の接待情報から始まり、厚生省や警視庁の情報隠しで騒がれてではないが、情報公開法の制定の動きがある。現在でも、そこそこに情報をつかむ体制はあるにはあるが、時には想像もつかなかった事実が漏れていることがある。それでは不満で、その裏にあるもっと生々しいやりとりが知りたいらしい。我々の周囲にもある。

 学内で開かれる委員会等の多くは非公開で、どこにどんな情報があって、決定される過程はどうであったか知る由もない。議事録があるものもないものもあるが、それが公開されているかも知らない。自身が加わっている委員会ですら、そんな重要な決定に参画していないからかもしれないが、進行の説明をすることはむつかしい。況んや10年前の委員会記録の存在やそこでのやりとりの再現を求められても記憶の外である。国や自治体で、日常ごまんと開かれている委員会や審議会等の事情はいかがであろうか。

 いくつかの出版社が、一般に目の触れにくい過去の資料をマイクロフィルムに収録し販売している。その一社が今年になって、水俣病とイタイイタイ病に関する国、県レベルの記録(含内部文書)はもちろん、住民運動等のパンフ類も全部集めてほしいとして委員会がもたれた。1971年以前の、できれば新聞、雑誌で公になっている以外の、委員会の生資料だそうである。大変な作業ではある。私自身、佳境時(?)は院生から助手当時でもあり、 枢要な委員会に入っていないので役に立たないのであるが、一般的にいって25〜40年前の委員会資料を保存している人がどれほどいるであろうか。

 一方で、個人情報の保護条例を各自治体が制定しはじめた。医療情報を個人に還元したり、診療報酬を開示請求する背景の中である。しかも、国は国民総背番号制を、来春からでも導入しようかという矢先である。情報の開示と保護は、どちらか一方を優先すると他方が侵害を受けるという関係にある。例外規定の方が長文であるのに、関心のある識者は両者ともに強化するよう主張しているが、果たして可能であろうか。

 情報の最後の特性は、その情報網の加入者が責任と義務を負い、なにがしかのサービスを受けられることである。ある市で発足した救急医療情報システムにいくつかの病院は泰然として参加を断った。数年後、それらの病院はこぞって協力を申し出た。別に締め付けられた話は聞かなかったのにである。

 図書館の情報にほとんど関係ない上に、歯切れの悪い記述に終わりそうである。平成8年10月、医学部分館が新設されたが、本欄ではそのことに触れず、また、なにほどのプライバシーも持ち合わせていない私にとっては、情報開示も“どうぞご自由に”といったからといって、他人の個人情報にはいささかも関心はない。

(すみの きみあき 医学部分館長)