神戸大学附属図書館報 Vol.7 No.4(1998.1)

図書館の過去と未来

合田 濤


 過去といっても、古代ギリシャのことではない。私ごとで恐縮だが、ほんの数十年前、やっと白黒テレビが普及し始め、力道山のプロレスに熱狂していた昭和三〇年代のことである。小学生の私は無類の本マニアであった。父親が買ってくれた世界少年少女文学全集、日本少年少女文学全集に飽き足らなかった私は、学校の図書室、近所の貸本屋等を渡り歩き、お小遣いの大半を雑多な本を借りることに費やしていた。
 中学生になって、ようやく少し遠出ができるようになって、夏休みに行ったのが県立図書館であった。ひんやりとして、やや黴臭い図書館で、開架式の膨大な書棚の間をゆっくり歩きながら、それが全部、自由に、只で読めるということに殆ど恍惚としていた記憶がある。これ幸いと耽溺した、手当たり次第の乱読の中で、サマセット・モームに、マラルメに、ドストエフスキーに、ヘミングウェイに出会った。本なしには旅行できないという、モームの自伝的な短編「書物袋」は、重症の活字中毒患者という「同類発見」に繋がっていたし、ドストエフスキーの「貧しき人びと」は、涙腺の関係もあって、二度と開けない禁書になった。そして、高校生になって、柳田国男を知ったことが、文化人類学にのめり込むきっかけになったのである。
 それ以来、書物は三度の食事以上に貴重な存在になった。旨いコーヒーと本があれば、人生の幸せの八割がたは満たされると思っている私は、ひょっとしたら古色蒼然たる旧世代人なのかもしれない。しかし、変わり者の多いのが大学である。なかには、私同様の活字中毒患者も少なくないと思う。こうした人間にとって、図書館は、「知」の神殿であるだけでなく、時の流れを越えて「生活必需品」であり続けるだろう。
 たいていの役職は、「これも給料のうち」と自分に言い聞かせて引き受けるのに、副館長と言われて、それほど嫌でなかったのはこのためである。「まるで図書館の本を丸ごと貰ってしまったような」と言うのは当然錯覚であるが、副館長であれば、書庫に潜り込むのにも、何となく遠慮しなくてもいいような気になってしまう。
 ところで、歴代の副館長たちは、情報化社会の未来、図書館の電子図書館化のすばらしさを様々に書いておられ、その方面に無知な私は、諸先輩の知識に圧倒される思いがしている。新刊書のインクの臭い、紙の味(子供の頃、読書に熱中すると、無意識にページのはじを破いて食べてしまうという悪癖があった)、古書の黴の臭いを好むという「原体験」があるので、私にとって良い図書館というのは、出来るだけ開架式で、たくさんの本が自由に閲覧できることである。
 本棚に並んでいると、一度に二〇冊程度は、背表紙を見て内容を推定できる。一冊を抜き出して、内容をパラパラ見るということも容易である。情報化すれば、必要な情報にアクセスすることは容易になるだろうが、「漠然と本の世界を彷徨う」ような「遊び」は難しくなる。本を全て電子化すれば、古書が破損する恐れはなくなるし、省スペースにはなるだろうが、パソコンの画面では、このような「遊び」の効用は期待できない。
 ただし、そのような個人的な「原体験」や「趣味」で事柄を議論できないのは当然である。パソコン世代には、それぞれ耽溺する世界があり、それは新しいフロッピーの香りであり、もしかしたら、それを舐めてみたときの無機的な舌触りであるかもしれない。パソコンの画面上では、映像や音まで組み込んで、「漠然とデーターの世界を彷徨う」ことが可能になる。若者のなかには、例えば映画を見ると、映像・音楽・セリフが一度に脳に焼き付けられ、再現できるという、マルチ型の「異能者」が激増しているようだ。
 本好きは、ついに過去の遺物になってしまうかと思っていたら、アメリカでは(そして日本でも)、最近、ブック・オン・ディマンドという方式が急速に普及しているという。これは、原稿の入ったフロッピーをセットすると、即座に本として何冊でも完成品が出てくるという「ドラえもん」のポケットのような装置である。これを使えば、本の余分な在庫積み増しは不要になるし、再販制度による不要本の裁断という、許しがたい慣習も解消されることになるだろう。手近なところでは、講義に使う配付資料の印刷なども、研究室のパソコンから、データーを送れば即座に何部でも印刷・製本されるし、大学出版局も容易に設立できる。
 今でも人手が足りないという「各論」には立ち入らないとすれば、電子図書館化は、図書館を本の受け入れ・保管・整理・貸し出しというサービスの担当部局だけでなく、同時に印刷・製本・出版を一元化したセンターに変えることになるかもしれない。そして、各研究室は、パソコンを通して、そこに直結する事になるだろう。効率も利便性も飛躍的に向上する事は間違いない。
 ただし、それにしても、書架の間を散策する楽しみ、古本屋で思いがけず、未知の書物に出会う喜びが無くなるほど便利になってしまうのが、どことなく「面白くない」のはなぜだろう。それは、おそらく手元に書物(情報)が届くスピードがどれほど加速されても、それを読んで内容を咀嚼し、それが血肉化するまでの、個体の側の成熟のスピードが、今のところあまり変わらないせいではないだろうか。しかし、人間はこれまでも、自分をとりまく社会環境・文化環境を改善することで、個体の知的能力を飛躍的に増大させてきた。未来の図書館は、電子図書館化によって、ひょっとしたら、人間の大脳のインテリジェント化にも大きな影響を与えるかもしれない。上に述べたマルチ型の人間は、そうした新人類の先駆けとも見えるのである。

(ごうだ とう 副館長 国際・教養系図書室担当)