神戸大学附属図書館報 Vol.8 No.2(1998.7)

原資料とのおつきあい

五百籏頭 真


 図書館に所蔵されている文書の圧倒的多数は本の形で出版されたものであり、原資料のコレクションは例外に属する。
 だが実証的歴史家である私にとって、研究資料としての比重は逆である。たとえば、東京の国会図書館へ行けば、 本を探すよりも憲政資料室で原資料のコレクションをあさることの方がはるかに多い。 ワシントンへ行っても、議会図書館で過す時間の数倍をナショナル・アーカイブス(国立公文書館)に入りびたる。 限られた議会図書館での時間すら、個人文書や特殊文書の原資料の方をあさっていることが多い。 というわけで、ここでは原資料との私のおつきあいについて書きたいと思う。
 私の最初の研究テーマは、石原莞爾と満州事変だった。修士論文の資料を求めて、院生の私は山形県庄内を訪ね、 石原の未亡人や弟、そして弟子たちから話を聞いた。また軍内での事蹟を求めて防衛庁戦史室を訪ねた。 「戦史叢書の完了まで一般の利用は出来ないんだけど」と言いながらも、室長は満州事変の謀略計画についての貴重な資料を、 私の求めに応じて親切に閲覧させてくれた。数年後、戦史叢書の出版が完了した頃、私はもう一度戦史室を訪ねた。 事態はかえって悪化しており、一般的利用禁止の措置がとられていた。旧軍資料を悪用したケースへの対応だという。 悪用のケースがあったからといって一般的利用禁止はひどい。私は戦史部の上級研究スタッフをしている学会を同じくする先生に訴えて、柔軟な運用を求めた。 彼は資料専門官を自室に呼び、私の前で「柔軟な運用」を求めた。専門官は内規をもって応え、あとは何と言われようとうつむいて石のように押し黙り、微動だにしなかった。
 私は唖然とし、悲しみ、そして憤りを覚えた。資料を守ることを聖なる使命と自負しながら、その実、 貴重な資料を活用させず死蔵することを職務としているかわいそうなお役人。公文書は天下のものじゃないか。 これでは国民が、とりわけ研究者がかわいそう過ぎる。私は日本国家が嫌いになった。これじゃ日本のことは研究できない。 一度離れて、アメリカの対日占領政策をテーマとしよう。
 1974年11月、はじめて訪れたワシントンの国立公文書館で私は研究者としての充実感にひたった。 文書公開の30年ルールを1年繰り上げて、1945年の終戦までの対日占領政策の文書がすべて公開されていた。 真珠湾の翌年、国務省の下部で最初の戦後日本再編についての文書が手書きされた時点から、国務省の幹部会で修正され、 軍部との調整を経て大統領決定に至るまでの、時々刻々のプロセスが手にとるように追体験できた。 それは研究者としての青春の幸福に私がめぐりあえた瞬間であった。文字通り寝食を忘れて原資料に埋もれた一週間であった。
 国務省筋の政策形成をたどった後、軍部の対日作戦を追った。8月15日の終戦直後に軍部が完成した大部の「日本分割占領案」を手にして、私は息を呑んだ。 ドイツと同じく日本を四大国により分割統治するプランを米軍部は真面目に用意していたのか。そんな馬鹿な。 それは7日後には修正され、単なる連合諸国の兵力拠出計画に後退したが、衝撃は消えなかった。
 帰国後、この衝撃をあちこちで語ったことが、若い研究者であった私の運命を波瀾に満ちたものとした。 当時私は広島大学の講師であったが、地元中国新聞の記者が研究室に来て取材し、日本分割占領案を記事にした。翌日、朝日新聞とサンケイ新聞が社会面で大きく報道した。 他紙と週刊誌、そしてテレビ局もとりあげた。突然、私は有名になった。
 その代償の方が、研究者としての私にはむしろ大きかった。日本の学会で中心的な東京のエラい先生方が、センセーショナルなマスコミ報道に伝えられた私の発見を厳しく批判した。 分割占領案なるものの米国政策決定過程における比重をわきまえず空騒ぎしてるのではないか、が権威ある筋の見解であった。 なかには、素養を欠く田舎の駆け出し研究者が、始めて行ったワシントンで幻影を見たのではないかと「幻の日本分割占領案」という論説を書く人までいた。
 いくら何でもこれはヒドいと、私は抗議の手紙を出版社に送り、反論掲載を求めた。が、完全に無視された。裁判官は東京なのだ。広島の若者など弁護権も認められない被告なのだ。 こんなことでは学者生命を断たれてしまうかもしれない。私は一人で思いつめ、眠れぬ夜をおくった。
 しばらくして気をとり直した。そんな馬鹿なことはありえない。私は事実にもとづいているのだ。学会は真実を否認できる筈がない。私は学会報告をしたいと手を挙げた。学会はそれを認めた。 春の学会まで、私はワシントンから送られてきた3000ページの原資料を読み抜き、米国の日本占領政策決定過程の全体の図柄を確定し、その中に分割占領案を位置づけた。 その日、私は緊張しながらも自信をもって研究成果を熱心に語った。やはり厳しい批判のコメントがたて続けに発せられた。いずれも予期した批判であった。 私はその批判の意義を認めつつも根拠をもって論駁した。充実した討論ができたと思った。報告の後、私は、学会の長老たちに立ち向ってヒケをとらなかった若武者として一転して評価を受けた。
 これを聞いていた学会員のうちに、国立国会図書館のI課長がいた。彼は国会図書館のスタッフを広島へ送ってきた。 戦後日本の設計図となったワシントンの原文書を日本人が日本で見られるようにできないか、と訊ねて来たのである。もちろん私は全面協力した。 国会図書館は特別予算を十年以上にわたって計上し、ワシントンへスタッフを常駐させて、日本占領関係の全文書のマイクロフィルムを東京に帰国させた。 とりわけ注目されるのは、ワシントンで公開された対日政策文書のコピーだけでなく、東京のマッカーサー司令部の全資料を蘇らせたことであった。 当時、GHQ/SCAPの資料は米国政府も手をつけられずにダンボールの中で眠っていた。 日本側の要請により、ナショナル・アーカイブスは東京から派遣された日本人スタッフにせかされながら整理をすすめ、それは同時にマイクロ化されて東京に送られたのである。
 今では、総司令部の原資料に関する限り、ワシントンへ行くよりも東京で見る方がよく整理されていて便利である事態となっている。

(いおきべ まこと 副館長 人文・社会科学系担当)