神戸大学附属図書館報 Vol. 9 No. 4 (2000.1)

情報時代と図書館神話

野 口 武 彦  

 歴史上のどんな時代にも、文明の中心地には大図書館があった。

 それぞれの図書館の多くは消滅した。原因はいろいろであるが、厖大な量の書物が消え失せたことに対する哀惜は、いくつかの伝説として後世に語り伝えられている。 図書館がいかに時代の文明に食い入っていたか、また食い入られていたか。その形態にはくっきりと文明の特質が表出されている。おのおのの時代は、固有の図書館神話を持つのである。

 古代アレクサンドリア図書館の滅亡は名高い。七十万冊に及ぶ書物が焼失したのである。一説によると、燃してしまったのはシーザーらしい。だが犯人探しよりも興味深く思うのは、燃えたものは何であったかという問題である。

 砂漠の中に埋もれてしまったバビロニアの図書館では、書物は燃えたのではなく、瓦解して消滅した。当時の書物は粘土板だったのである。アレキサンドリア図書館の場合は、火で焼けるものであった。 記録によれば、蔵書はパピルスと羊皮紙の混合だったらしい。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』に出てきた中世の図書館では、修道院の写字生たちが黙々と羊皮紙に鵞ペンを走らせていた。これにも火事の場面があった。

 中国では焚書坑儒のとき焼いた書物の堆積が遺跡になっているというので、まさか、例の白髪三千丈だろうと思っていたら、本当にあるのには驚き、当方の不明を恥じた。 古代中国の書物は紙ではなかったのである。竹簡であった。日本では、応仁の乱のみぎり、一条兼良が和漢の蔵書三万五千巻を誇った桃華房は戦火で炎上し、本は燃えたり、盗賊に蹂躙されたりして佚亡してしまった。これら全部は、紙の書物であった。

 図書館は常にその時代の情報の貯蔵所である。情報は何についてであるか(記号内容)、いかなる文字であるか(記号表現)の二面から成り立っているが、そこにもう一つ、記号媒体とでもいうべき次元を加えると問題がはっきりする。

 文字は「かく」ものである。もともと「書く」は「掻く」であった。岩や粘土や土壁に文字を掻きつける。紙の上に書くようになったのは、人類文化史上、比較的新しい時代のことなのである。 図書館神話がそのことを物語る。記号媒体は、粘土板、パピルス、羊皮紙、竹簡、紙と文明の性質に応じて多様である。書物は紙でできていると考えるのは勝手な思いこみである。記号媒体は他の何かであっても構わない。 宙空に漂っていてもよいのである。コンピューターのワード・プロセッサーが繰り出す電子文字はそのたぐいの記号媒体である。将来の図書館の主要な記号媒体はそうなってゆくであろう。 パルプ製の洋紙の酸化がいちじるしい昨今では、書物のデジタル化は急務になっているともいえる。

 この近未来世界では、どのような図書館神話が生まれるだろうか。おそらく磁気異常の発生による全地球規模の記憶喪失状態といったSFまがいの悪夢のかたちを取るであろう。そんな想像が湧くまでに、電子文字は今日の文明に食い入ってきている。 早い話が、文化系の研究者の間では、論文の書き方が変わってきているのである。

 いくつかの優秀な大学院では、博士論文がそのまま単行本になるということが起きている。当人の才能ももちろんあろう。 しかしそれ以上に、コンピューターが可能にした情報データ蓄積量の増大、情報処理速度の向上、検索機能の発達、引用手続きの簡略化などの諸要因の成立が、論文の書き方を根本的に変えつつあるのだ。 文学の歴史の中でも、写本が版本に変わったとき、新しいジャンルが発生した。タイプライターの発明が英語の小説のテンポとスタイルを一変させたという話もある。 記号媒体の革命は、文学にかぎらず、その他あらゆる著述の営みの下部構造なのである。

 「学際的」という言葉が流行して時久しい。たとえば歴史学の分野で、アナル学派が勢力を得て来た流れと無関係ではない。厖大な資料のコンピューターによる計量化が、これも歴史学にかぎらず、多方面で学問の方法を変えた。 それだけでなく、研究主題をも方向付けているようである。人はいやでも情報の海に泳ぎ出さねばならない。

 この学問情勢は反面また、資料作成自体が学問業績であるといったイージーな雰囲気を生み出すことにもなった。合言葉は「データベース」である。

 野田宣雄氏が『マルクスからデータベースまで』(『アスティオン』五二号)で、歴史学会の現状をこんな風に論じている。 「そのときどきの流行の歴史観を集団をなして追ってきた歴史研究者は、いまや拠るべき出来合いの歴史観を見出せず、膨大な史実のデータベースのなかに逃げ込んで、ひたすら『歴史の危機』が沈潜化するのを待っているかのように思われるのである」と。

 痛烈な皮肉を聞かせた文章であるが、文学研究の世界でも似たようなものである。日本の思想史には、かつて朱子学や徂徠学などの「世界観」思想が後退した後、折衷学と考証学の季節が到来した季節があった。 事物の個別性への偏愛が主導的な心理になる。世界像が解体すると、無数の情報断片の累積に還元されるのである。現代ではそれがデータベースという価値形態を取っているわけだ。

 計量化された事実それ自体は、使われずに貯蔵される貨幣のようなものだ。使い方次第で資本に転化するのである。資本には本源的蓄積の時代がある。図書館は妙な優先順序にこだわらず、機械的にあらゆる蔵書のデータベース化に着手すべきである。 それが蓄積され、ハイパー検索が可能になれば、今まで想像も出来なかった新しい研究テーマの視野が開けて来るであろう。

      (のぐち たけひこ 副館長・人文科学系担当)